パラノイアシンドローム
「覚めろ覚めろ目覚めろ目覚めろ起きろ起きろ」
ひたひた、感覚がしっかりした指先で頬を叩く。
コンクリートを叩く靴音すらも耳障りに思えて、夢か現か境界線がハッキリしなくなっていた。
痛みも感じる思考もしっかりしているが、明晰夢とは違い目覚めろと願ってみても叶わない。
風と歩く速度に合わせて揺れるスカートを見下ろし、溜息を吐く。
「まるで不思議の国のアリスだね」溜息に混ざり、聞き覚えのない声がした。
息を呑み、飛び退くようにして距離を取り、振り向けば、ゆらゆらと揺れる白濁色の煙の奥に、高そうなスーツを着た男。
太陽に透ける金髪が目に優しくない。
煙草片手に笑顔を浮かべている。
私の警戒心を他所に、のんびりとした足取りで気乗りを詰めて来た。
遠目からでは分かりにくかったが、金混じりの薄い茶色の瞳をしている。
「おチビちゃんに良く似てる。でも、おチビちゃんよりは全然おチビじゃないね」
煙草の煙を吸い込みながら、私の顔を覗き込んでは、一人楽しそうに笑う。
どことなく甘い煙の匂いに咳き込めば、おっと、という声と共に携帯灰皿が取り出される。
両親共に煙草は嗜まず、お酒と言っても本当に少量を極々稀に口にしているところしか見たことがない。
携帯灰皿に押し付けられ、ジュッという音と共に火が消えていく様を眺めていると「同じ顔だ」と笑った男に、自然と眉が寄る。
男のいうおチビちゃんに心当たりはなく、男自身にも心当たりはない。
それなのに、男の方は嫌に距離感が近い。
「いや、顔立ちはもっと成長すれば近くなるかな。纏ってる雰囲気って言うのかな。空気感がおチビちゃんに近い」
「私からしたら初対面の貴方のその距離が、一番近いと想いますけど」
眉間にシワを刻み込んで放った言葉に、男はますます楽しそうに声を上げて笑った。
似てるよ似てる、そんな声が鼓膜を突き刺す。
高そうなスーツを着ているのに、一流企業に務めているようなエリートらしい空気感が全く感じない。
寧ろ下町情緒溢れる、お年寄りに好まれそうな雰囲気がある。
目鼻立ちの通った顔立ちだが、日本人のそれで、金髪に薄い金目は、日本人のそれではない。
酷くアンバランスな容姿を見て、怪しい人ではなく、変な人という印象が強くなる。
……勿論、容姿ではなく中身が大半を占めるだろうが。
「あははっ、確かに初対面でこの距離感は駄目かも知れないね。でも、良く似ている子を知ってるから、つい、ね?ごめんね」
謝罪をする割に距離感は変わらずに、頭を撫でられる。
スーツにこべりついた煙草の甘い匂いで、この人はヘビースモーカーだと思う。
「それで、アリスちゃんは何がお困りかな?」
おチビちゃんの次に出て来たのはアリスちゃん。
しかもそれは私のことを指しているようで、人好きのする笑みを浮かべて首を傾げる男。
「……何でアリスなんですか」
「夢の世界に迷い込んで帰り道が分からないから、じゃないかな?」
今度は息を呑むことはなかったが、やはり飛び退くように距離を取る。
一メートルくらい離れれば、男は笑顔のままに肩を竦めた。
風になびく金髪はキラキラと輝いている。
私がアリスならこの男はチェシャ猫辺りだろう。
人好きのする笑みだが、何を考えているのか読み取れない。
警戒するように距離を図っている私に、笑顔のままに近づいて来て直ぐ脇のベンチに腰を下ろす男。
先程煙草の火を消したばかりだというのに、スーツの胸ポケットからは新しい煙草が出てくる。
「そんな顔しないでよ。おチビちゃんはもっと知的好奇心のままに、警戒心よりも先に俺の言葉を聞いてくれたよ」
これじゃあどっちがアリスちゃんか分からないね、笑い声は煙に隠される。
嗅ぎ慣れない煙の匂いと、その男の言葉に顔を歪めれば、隣を指し示され、座れば?と勧められた。
煙草を持つ手は嫌に細く長く骨張っている。
煙草の煙を吸い込む度に、チリチリと灰を増やし、地面に吸い込まれるように落ちていく。
ベンチに座ることなく立ち尽くす私。
森林公園と呼ぶに相応しい、緑の多い、遊具の少ない公園には私とこの男しかいない。
「夢の中で死ぬと目が覚める、なんて話も世の中にはあるけれど、それを試してみる気はある?」
「……冗談でも嫌です」
「だよねぇ」
あははっ、楽しそうな笑い声。
風が木々を揺らすのと同時に、金髪を揺らしては、キラキラと金の粒子を振り撒く。
煙草に火をつけるために使ったジッポーが、太陽の光を反射してキラリと光る。
「駄目だよ。達観なんてしてちゃ」
ジッポーに彫られているのが何なのか、自然と目を細めて見極めようてしていた私に投げられた言葉を、上手く掴んで返すことが出来なかった。
視線を上げた先では、白濁色の煙を空に吹きながら、口元だけに笑みを乗せた男。
甘い煙が肺いっぱいに広がる感覚に、噎せ返る。
それすらも気にしない男の口からは、言葉が煙と共に吐き出された。
カチリカチリ、ジッポーの蓋が開け閉め、煩いくらいに音を立てている。
「おチビちゃんの転機の一つは高校でも、アリスちゃんの転機は此処かもね」
唇を引き上げて笑った男は、煙草のフィルムを前歯で噛み締める。
グシャリという音が、何故か耳の奥で聞こえた。
肩眉を上げれば男の視線が私の足元に注がれる。
涼し気な目元が細くなる。
「俺はおチビちゃんにとっての神様だからさ、アリスちゃんの神様にはなれないの。せいぜい、案内人くらいかなぁ」
ゆらり、ゆらり、煙が左右に揺れて消えていく。
男の視線を追いかければ、足元には黒。
真っ黒な人一人分飲み込む穴。
「高校生活を決めるリサーチみたいなもんだよ。気楽に行っといで」
こちらに向けられて吐き出された甘い白濁と、その奥の綺麗な笑顔を最後に、落ちていく。
まるで、白兎を追い掛けて穴に落ちたアリスのように。




