夜の来ないお茶会
ガコン、ボタンを押して落ちてきた飲み物を、取り出し口に手を入れて取り出す。
高校時代の母に会い、父をどう思っているのかの一端の部分だけ触れられた私は、父に会うために学校までやって来た。
道程が分からなかったことから、自他共に認める方向音痴の母を頼った結果、自分より方向音痴じゃないのかと驚いていたのは言うまでもない。
因みに、普段電車で来るから、ここからの道程が分からないだけだと言っておいた。
私は母の娘だが、同時に父の娘でもあるので、方向音痴は引き継いでいない。
そこは父に似た、と言って間違いはないだろう。
口頭での説明だけで迎えたのだから、問題ないだろう、ということで、ブレザーのポケットに手を入れれば、小銭入れが入っていた。
ご都合主義、と思ったのは言う必要も無いので、自販機に小銭を投入して、ココアを二本手に入れる。
シリコン素材で黒猫の顔を型どった小銭入れは、非常に可愛らしいが、学生の母はこういうのを使っていたのだろうか。
些か可愛過ぎやしないか。
首を捻りながらも、小銭入れをポケットに戻し、細い缶を二本持って歩き出す。
上履きをどうしたものか考えた結果に、来客用玄関から学校名が印字された、クソダサい――いや、センスに欠けるスリッパを拝借した。
トイレ用のスリッパと、正直見分けがつかないと思う。
ぺったりぺったり、人気のない廊下を歩き、教室ごとに引っ掛けられているプレートを見上げる。
美術室、思いの外早く見つけられたのは、どこの学校も美術室が一階にあるから、だろうか。
大抵の教室配置は、どこの学校も似通っている。
曇りガラスの貼られた扉では、中の様子は見えない。
特別何か音が聞こえるわけでもなく、正直に言っているのか不安になるところだ。
静かに、なるべく音を立てないように扉をスライドさせれば、ほんの少しの隙間からでも鼻を刺激する絵の具の匂いに眉を寄せる。
特別どうこう思う匂いではないが、明らかに濃い。
濃縮されたと言っても良いくらいに強い絵の具の匂いだ。
その中に一人、キャンバスに向かう背中がある。
絵の具で汚れた白衣を着て、一心不乱に筆を動かす姿は見覚えしかない。
真っ直ぐにキャンバスを見ながら、キャンバスに筆を走らせて色を置く。
どんな絵になっているのか、出入口からでは分からない。
後ろ手で扉を閉めて、足音を殺して近付く。
いくら音を殺していても、人の気配くらい感じるものでは、と思ったところでその背中の持ち主の耳を塞ぐヘッドフォンを見て、足音を立てた。
終わるまで待つべきだろうか、乱雑に置いてある丸椅子の一つに腰掛け、その背中を眺める。
ほんの少し体を傾けて覗き込んだ絵には、見覚えのある人物が描かれていて、自然と溜息が漏れた。
黒髪に黒目で幼さの残る、薄い印象を受ける可愛らしい顔立ちに、欠片も感情を含まない無表情。
どこまでも父は、母のことしか見えていないらしい。
***
それからどれくらい時間が経っただろう。
絵の具の匂いにも慣れ、暇を持て余しながら足を揺らし、欠伸を噛み殺していた頃、やっと父が絵筆を置いた。
ヘッドフォンを付けたまま、深く息を吐き出し、体を後ろに逸らしている。
すっかり温くなったココアを、ヘッドフォンを外した父の背後から差し出せば「ありがとう」という言葉と共に受け取った。
見事に反射で動いていたが、缶を受け取って数秒後、勢い良くこちらを振り向く。
赤縁眼鏡の奥で、これでもかと言うくらいに色素の薄い瞳を見開いている。
「え?!」
「……気付くの遅い」
「えぇ?!」
溜息を吐いた私に対しても大袈裟な反応だ。
自分の分のココアの入った缶を上下に振り、プルタブを押し上げれば、私の落ち着きっぷりにテンションが落ちたのか、父もプルタブを指に引っ掛けた。
ぼんやりとした様子で、缶に唇を付けている父を素通りして、私の目はキャンバスに向けられる。
こちらを一切見ない、伏し目の母が、そこには描かれていて、確かにお人形のようだ。
「好きなんですか、この人のこと」
父ではなくキャンバスを見ながら吐いた言葉に、父はまたしても目を見開く。
それから、絵の具の付いた手で頬を掻いた。
「分かる?」なんて、甘ったるい声。
飲んでいるココアの数倍は甘い、甘ったるい。
それから聞いてもいないのに、本当に可愛くてという切り口から、つらつらと並べられる母への想いとその可愛さとかその日あったこと。
あぁ、この人は間違いなく私の父だ。
今でこそ、もう少し大人っぽい顔立ちで、男になっているのだろうけれど、これは父だ。
見た目ではなく、中身が私の父になってからも変わらないらしい。
右から左へ聞き流す言葉を貫くように「何で好きでいられるんですか。相手にされないのに」と吐き出せば、言葉の羅列が霧散した。
唇を開いたまま固まった父は、数回の瞬きの後、小さく笑って眉を下げる。
頼りない笑みだ。
「好きだから、かなぁ」
恋話なんてしたことないけれど、まるでそんな話をする女の子のように、ココアの缶を両手で握り、小首を傾げた父は、柔らかく笑う。
好きじゃなかったら追い掛けられないよ、なんて言葉は正論過ぎる。
「……だって、可愛いけどお人形みたいに可愛いけど、興味があるのは創作と幼馴染みを含んだ身内だけですよ」
「だから、いつかその興味になれたら嬉しいし、身内枠に入りたいなと思うんだよね」
口を付けたココアは味がしない。
幸せそうに笑う父は、母と結ばれるまでに何度告白して、何度振られて来たのだろうか。
白衣の下の制服は、母と同じ学校のもので、三年間を同じ場所で過ごし、好意を寄せ続けた。
私には、未だそれが理解出来ないでいる。
父は眼鏡の奥で、愛おしそうに目を細めた。
薄い色素は私も譲り受けたもので、顔立ちも父に良く似ていると言われたが、私にはあんな風に柔らかな春のような匂いをした雰囲気は持てない。
指先でキャンバスの乾いている部分をなぞる。
「好きだよ。理由なんて後付けでしかないくらい、大好きなんだ」
その言葉と共にココアを全て飲み干す。
まるで水のように味のしないそれは、喉を滑り胃に落ちていく。
その感触を確かめて、丸椅子を蹴り上げるように立ち上がれば、驚いたように振り向いた父。
きょとんとした顔を向けられる。
「わ、私だって好きですよ。あの人のことも貴方のことも」
木製のテーブルの上に叩き付けるように、飲み切ったココアの缶を置く。
普段の父は、あしらう母を気にもせずに笑顔で愛を語るけれど、学生の父は父以上に達観している何かを見せる。
恋ではなく、愛。
俺は愛してるんだよ、俺の嫁ちゃんを。
世界で一番の自慢だと言った父の顔は、正しく今の目の前の幼さの残る父と同じ顔だった。
何してるんだ、私。
こんな夢、強く握った手が震える。
「あははっ。何だか作ちゃんに似てるね」
酷く嬉しそうな笑顔を見て、床を蹴る。
高校生ってもっと、もっと子供のように青を駆け抜けるんじゃないか。
両親は酷く大人びた振りをする子供だ。
それに、私が二人に似てるのは、二人の子供だから当たり前じゃないか。




