兎のカフス
どれくらい時間が経ったのか分からないが、一向に目覚める気配がなかった。
それどころか、時間が経てば経つほど感覚がしっかりして来ているような気すらする。
見知らぬ夢の街を歩きながら、どうしたものかと首の後ろを撫でた。
何となく揺らした視線の先に書店があって、その窓ガラス越しに見た姿は、見慣れた姿を幼くしたもので、ポケットに入っていた生徒手帳の写真のそれだ。
真剣な眼差しで本棚を見つめる姿は、今も昔も変わらないらしい。
私の足は自然と書店の方へと向いていた。
カラコロと音を立てて開いた扉。
店員の視線が一瞬だけ刺さり、いらっしゃいませ、と業務的な言葉が通り抜ける。
曲名も知らない音楽が店内に流れているのを聞き流しながら、私の足は先程見た本棚へ向かう。
本棚の間から顔を覗かせた先に、高校時代の母がいた。
母と言うには幼過ぎる、違和感のあるその姿に、私の足が止まる。
だが、母は私に気付く様子もなく、本棚に手を伸ばして、ヒョイヒョイと考えているのかいないのか分からない手付きで、選んだ本を腕に収めていく。
陶器のように白い肌に長い睫毛が小さな影を作る。
長い前髪は横に払われているのに、その顔を見えにくくして、後ろ髪はサイドに鮮やかな色のシュシュで結えられていた。
生徒手帳の写真と違うのは、制服と私服ということくらいだろうか。
白く細い指先が本を引っ掛けて掴むのを見て、止め足が動かないことに気付く。
握った手は爪が食い込んで、鈍い痛みを感じる。
確かに感触が鋭くなっているのを感じて、この状況が現実味を帯びていく。
夢、なのに。
サイズが大きめで縦ラインの入ったシャツにループ帯と、裾を折らなくては長過ぎるスラックスを身に着ける母は、昔からサイズを考えろよと言いたくなる服装をしていたらしい。
いつだってワンサイズ、ツーサイズ、スリーサイズ、とこちらが頭を抱えたくなる大きめの服を好んで着ている。
本棚に伸ばす手を見ていると、袖口の部分に縫い付けられたカフスボタンが目に入った。
母のシャツには全てやけに凝ったボタンが付けられていたが、これもこの頃からか。
リアルな兎の形のそれは、じっと見つめ続ける私を睨んでいるようにも見える。
ただ、何をするでもなく、母とは呼べない母の姿を見ていると、指先を引っ掛けたはずの本が、本棚から零れ落ちる。
弾かれたように床を蹴り、手を伸ばす。
体を前のめりにしたところで、手を置けるような場所はなく、足の力だけで体を支え、手の平に感じた本の感触をしっかりと掴む。
やけに立派な表紙の本だ。
指先に確かに感じる本の質感に、僅かばかり眉を寄せながらも顔を上げれば、目の前には目を丸めるだけの母がいる。
あぁ、やはり、若い、若過ぎる。
魔女のように実年齢と見た目年齢の噛み合わない母でも、こんなに若くなかった。
「……有難う、御座います」
妙なところで言葉を区切る母は、丸めていた目を戻して本を受け取る。
その指先には、鈍色の輪は存在しない。
小さいけれど良く通る声だった。
本を受け取ったのを見届けて、しっかりと体勢を整え背筋を伸ばせば、母の視線が私の制服に注がれる。
同じ、小さな呟きは確かに私の耳に届いた。
相変わらずガラス玉を嵌め込んだような真っ黒な瞳で、制服を見ていて、今にも落としそうな本達を胸に押し付けるようにして持っている。
制服を見つめて満足したのか、肩が下がるのが分かった。
「あの、有難う御座いました」
緩やかに下げられた頭を見て、私は瞬きをする。
私も癖毛だが、母の癖毛は私よりも強く、後れ毛にもならないアホ毛達がひょこひょこと揺れた。
結婚して何年も経つのに、未だに新婚気分なのか、ひたすらに母を可愛い可愛いと言う父の姿を思い出す。
あの人はどれだけ母が好きなんだろうか。
そうして母はどれくらい父が好きなんだろうか。
大量の本を抱えたまま歩き出そうとした母の腕を掴み、引き止めれば先程よりも見開かれた目。
今にも零れ落ちそうな黒目に、私が映り込んでいる。
その顔を見ていると自分とは似ていないと思う。
父に似て色素の薄い私は、幼少期から母の黒髪と黒目を綺麗だと思っていた。
可愛いではなく、綺麗が羨ましかったのだ。
目を丸めたまま、不思議そうに首を傾げる母は、警戒心があるのかないのか、ただ静かに私を見据える。
はくり、唇だけが動く。
言葉を探してさ迷わせた視線の先では、兎が相変わらず私を見ていて、居心地が悪い。
「さきしろ、崎代 要」
吐き出した名前に、母の肩が僅かに揺れた。
細い、薄い、頼りない肩だ。
「あの人のこと……何で、あの人何ですか。」
我ながら脈絡を得ない質問だと思う。
掴んだ腕の感触はハッキリしていて、滑らかな肌とパリッとしたシャツの素材と、柔らかな肉と硬い骨の感触が、ぐちゃぐちゃに混ざりあって伝わって来る。
夢、夢じゃない、これは夢だ、夢じゃ。
夢と現実の境目が掻き混ぜられる感覚に、目が回りそうになった。
私にとっての不可解な現状は、母にとってはまた別の不可解な現状らしく、困ったように眉が下がる。
手の平の熱は消えることなく、その存在を更に主張して来て、いつ離そうかタイミングが掴めない。
それなのに「崎代くんの後輩?」なんて的外れな質問が飛んでくる。
「……何で、って言うのは、ボクが聞きたいな。だって、ああいう人は、ボクには勿体無い、から」
一つ一つ丁寧に言葉を区切る母は、静かに目を伏せる。
特別な動作ではない。
視線を向ける先を足元に移しただけ。
それなのに、私は酷く動揺して、母の手を強く握ってしまう。
「……ねぇ、君は、崎代くんが、好き?」
ふわりと上げられた視線を、真正面から受けて、喉が上下する。
好き、それはどういう意味の好き、だろうか。
私にとって母は母で、父は父だ。
崎代 要は、私の父だ。
似たような赤縁眼鏡を掛け始めたのは中学半ばだったのを覚えていて、眼鏡を掛けた私を見て、母が珍しく表情を崩した。
「かなちゃん、かなくんみたい」そんな言葉が、今でもまだ頭の片隅に残っている。
そりゃあ、親子だもん、似てるよ。
「好きですよ。崎代 要も、貴女のことも」
時折二人で紅茶や珈琲を飲みながら、取り留めもない話をする二人を見るのが、私は好きだ。
口元だけを緩める母に、それを見て嬉しそうに破顔する父。
幸せは、これだよ、と教えられているような気分になるのだ。
私が笑えば、唇を少し開いた母は、そっか、と呟いて小首を傾げた。
「何だか、崎代くんに似てるね」そう言ったのと、ほぼ同時に唇が引き上げられるのを見る。
母の手首を強く強く握り締めれば、兎のカフスボタンが食い込んで、痛かった。




