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 しとしとと降り続く雨が、教室の窓を濡らしていく。

 窓に張り付いた水滴が滑り落ちていくさまをぼんやりと眺めながら、私は持っていたシャープペンシルを机の上に置いた。

 雨の日は好きではないが嫌いでもない。教壇に立つ老齢の教師の間延びした声よりも、うっすらと聞こえる雨音のほうが数段好ましいというだけだ。


(退屈だなあ)


 授業中に何を言っているのだ、と言われるかもしれないが、それが今の私の本心だった。

 学生の本分は勉強なのだと日ごろから口酸っぱく言われ続けているものの、私はそこまで勉強熱心な生徒でない。それなりに楽しい授業もあるにはあるけれど、教科書を辿るだけの授業なんて眠くて仕方なくて、気を抜けば居眠りしてしまいそうになる。現在のような昼休み終了後の授業など特にそうだ。私の周囲に座るクラスメイト達の中にも、程度の差はあれど眠そうにしている人がいる。中には堂々と机に突っ伏している人もいたが、私にはそこまでの度胸はない。


(この授業が終わってもあと一時間あるのか……早く放課後にならないかなー)


 もともと私は勉強が飛びぬけてできるわけでもなく、運動ができるわけでもない。部活動には入っておらず帰宅部なので、打ち込めるような何かもない。放課後に友達と喋ったり、寄り道をして帰ったりすることが楽しみな、どこにでもいる普通の高校生だ。


(今日みんなでクレープ屋さん行く予定だったけど、見た感じけっこう雨降ってるんだよなあ。行けるか微妙かも。あとで他の子にも聞いてみないと)


 窓の外から壁に掛けられた時計に視線を移せば、もうすぐ授業終了のベルが鳴る時間だった。黒板に記されたチョークの文字は先程の倍に増えている。少しぼんやりしすぎていたかもしれない。

 私は慌ててシャープペンシルを手に取ると、消される前にと急いで板書をノートに書き写していった。



彩花(あやか)!」


 放課後になると、隣の席に座っているクラスメイトの少女が話しかけてきた。

 この子は私が中学生の頃から仲の良い友人で、優奈(ゆうな)という。お互い家も近いことから登下校も大抵一緒で、今日は彼女も共にクレープ屋に行く予定だったのだ。


「なーに? 私もう疲れたから元気ないんだけどー」

「あと帰るだけじゃん何言ってんの。ていうかクレープ屋さんどうすんのよ」

「掃除中に聞いたら傘持ってない子がいるから今日は中止だってさ。明日晴れるっぽいから明日行こうって言ってたよ」


 鞄に教科書や文房具を詰め込みながらそう答えると、優奈は「残念」と肩を落としていた。

 甘いものに目がないという彼女は、今日販売開始の新作クレープを楽しみにしていたらしい。私も甘いものは好きなので、気持ちはわかる。

 私は少し笑ってから、鞄の中をごそごそと探り、間食用にと持ってきていた袋入りキャンディを取り出した。


「疲れた時には甘いものって言うし、これ食べながら帰ろうよ。私も今日はこれで我慢するからさ」

「えっくれるの!? ありがとうさっすが彩花! あたしのことわかってるぅ!」


 キャンディを一個手渡すと、優奈はそれをいそいそと口の中に放り込んで幸せそうな表情を浮かべていた。余程甘いものが食べたかったのだろう。先程肩を落としていたのが嘘のようだ。

 彼女を真似て自身もキャンディを口に含んでみると、甘いフルーツの味が口いっぱいに広がっていく。適当に選んだキャンディは、マスカット味だった。


「さ、早く帰ろーよ! 鞄は……って、まだ何も準備してないじゃん!」

「あっ、ごめんクレープ屋さんのことばっかり気にして何も準備してなかった! 待って今鞄準備するから置いてかないで!」

「もう、待ってるから早く教科書詰めて!」

「今やってるから!」


 慌ただしく帰り支度をする優奈とやり取りをしながら、私はまた窓の外に視線を移す。

 雨は一向に止む気配を見せず、空は分厚い雲に覆われたまま。雨脚も徐々に強くなってきているようだ。傘は持ってきているが、このままでは役に立たなくなる可能性がある。制服がずぶ濡れになってしまう前に早く帰らなくては。 


「お待たせ、帰ろ!」


 鞄を肩にかけた優奈が声をかけてくる。

 私は彼女と連れ立って教室を出た。



(――うわ。雨やばいなあ)


 昇降口で靴を履き替えていると、色とりどりの傘の群れが雨に打たれているのが見えた。

 雨の勢いはさらに強まっていて、アスファルトにできたいくつもの水たまりが断続的に輪を描いている。


「やっぱ雨強くなってきてるみたいだね。優奈、傘は?」

「もちろんあるよ。今日は雨降るから持ってけって母さんに家を出る直前に言われてさ。あたし忘れっぽいから、言われなかったら忘れるところだったよ」

「あはは、それはおばさんに感謝しなくちゃねー。ま、私も危なく忘れるところだったから人のこと言えないんだけどさ」


 そんな他愛もない話をしながら、私と優奈もゆっくりと傘の群れに飛び込んでいく。

 校門を出れば、皆それぞれ帰途に着く。私と優奈の家は少し大通りから外れた場所に位置しているため、途中からは同じ高校の生徒など三分の一にも満たなくなるだろう。

 私が家に帰り着く頃にはきっと、専業主婦の母親が夕食の支度をしている最中のはずだ。今日はいつも帰宅が遅い父親が早く帰れるとのことだったから、久しぶりに家族そろって食事ができる。母親のことだ、きっと父親の好物を張り切って作っていることだろう。


「――彩花。彩花ってば! ちょっと、あたしの話聞いてる!?」

「……え? あ、ごめん聞いてなかった」


 家族のことを考えていたせいか、うっかり優奈の話を聞き流してしまっていた。そんなつもりではなかったのだ。本当に申し訳ない。

 優奈はごめんと謝る私に「どうりで反応ないと思った!」と頬を膨らませていたが、すぐに気を取り直して先程の話をもう一度繰り返してくれた。


「ほら、あれ見て。あの水たまり、すごい大きくない?」

「え?」


 優奈が人差し指で指し示した先を目で辿ると、そこには見たこともないような大きな水たまりができていた。今日一日降り続いた雨がアスファルトの窪みにでも溜まったのかと一瞬思ったが、それにしては大きすぎる。道の半分を埋めるように存在しているそれは、水たまりと言うよりは浸水、といったほうが正しいような気がしてくる。

 道行く人々も、その水たまりには近付かないようにしているようだが、私と優奈はそうはいかなかった。大きな水たまりの先に私達の家があるためだ。


「確かにこんなに大きい水たまりなんて珍しいよね。でもさ、私達今からあの水たまりの中に入らなきゃいけないってことだよね?」

「そう、それが問題なのよね。これだけ大きいとローファーもぐちゃぐちゃになっちゃうし……」

「でもここ通らないと帰れないんだよね……困ったなあ」


 言いながら、私は水たまりの淵ギリギリまで近付いて、ひょいと水面を覗き込んでみる。


(けっこう深いなあ)


 この場所だけ深い段差があったのだろうか。いくら目を凝らしてみても水底にあるはずの地面は見えなかった。水たまり自体も泥水でできたものではないらしく、限りなく透明に近い色を呈している。


(透き通っているのに底が見えないなんて、不思議。こんなこともあるんだ)


 たとえ透き通っていたとしても、水たまり(これ)自体はコンクリート上にできたものである。決して綺麗だとは言えないが、泥水に足を突っ込むよりは幾分かマシだと思いたい。


「……よし」


 これはもう覚悟を決めるしかない。

 通学用の靴は洗って乾かせばいい話だ。もしかしたら母親には文句を言われるかもしれないが、事情を話せば許してくれるだろう。

 そう思い、私の後方にいるはずの優奈を振り返れば、彼女は思うところがあるのか未だ二の足を踏んでいるようだった。通過するためとはいえ、私だってできることなら両足を濡らすようなことはしたくない。だけどここまで来て回り道をするのは少し(しゃく)だった。


「よっし、わかった! ここは私が実験台になるね!」

「えっ!?」

「ここ通ればどうせ濡れるんだもん。私が先に行ってどのくらいの深さか確かめてあげる!」

「あ、彩花!? ちょっと待って!」


 優奈が慌てて制止の声を上げるも、無駄にやる気を出した私の足は止まらなかった。

 水たまりの深さがわからずとも、ここは私にとって通い慣れた道。この場所の地盤が沈下したという話は聞かないし、これはたかが水たまりだ。きっと大したことはないだろう。

 勝手にそう思い込んだ私は、優奈の言葉も聞かず勢いのままに片足を突っ込んだ。


「――――え」


 ――どれだけ深くても、必ず底はあるものである。それが水たまりというものならばなおさらだ。

 それなのに、踏み出した私の足からは何の感触も伝わってこなかった。

 何故。そう考える暇もなく、バランスを崩した私の身体は前のめりに倒れていく。


「彩花!?」


 焦ったような友人の声が耳に届くも、今まさに倒れようとしている私にはもはやどうしようもなく。

 せめて顔面から水たまりにダイブすることだけは避けようと、咄嗟に傘から手を離したのを最後に、私の意識はぷつりと途切れた。


* * * * * *


 ――まるで、夢を見ているような感覚だった。

 覚醒しているわけでもなく、眠っているわけでもない。そんな不思議な感覚の中、私の意識は少しだけ浮上する。目を開きたくとも、私の瞼は閉じたまま。遠くから聞こえる小川のせせらぎのような水の音だけが、うつ伏せに横たわる今の私にわかるすべてだった。


(――眠い)


 また、眠りの波がやってくる。

 このまま眠ってもいいのだろうか。そんな疑問が頭をもたげたが、夢か現実かわからないこの場所で、私の問いに答えてくれる人などどこにもいない。


(これは、夢……なのかな……)


 強い眠気に抗うように、私は無意識に手を伸ばしていた。

 少し腕を伸ばしたところで、手の甲に何かが触れたのを感じた。

 触れたのが何であったかなど、夢うつつの私にはわからない。しかし気が付けば、私はその何かをぎゅっと掴んでいた。

 そしてその直後、先程よりもさらに強い眠気が私の意識を急速に塗り潰していく。

 闇に沈む意識の中、私は誰かの声を聞いた気がした。

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