六章 薄れ行く影
利知未と倉真の結婚までの長いお話し高校編・六章です。作品は、90年代の前半ごろが時代背景となっております。(現実的な地名なども出てまいりますがフィクションです。実際の団体、地域などと一切、関係ございません。)
利知未が受験勉強へスパートを掛け始める8月末。 綾子は倉真の一人暮らすアパートで生活を始めてしまった。 二人のこれからは、どうなっていくのか?
利知未シリーズ高校編の、最後の章となります。利知未とともに、思春期を抜けて大人へと成長していく仲間たちの物語に、ごゆっくりとお付き合いください。
この作品は、未成年の喫煙・ヤンチャ行動等を、推奨するものではありません。ご理解の上、お楽しみください。
六章 薄れ行く影
一
大学受験生として、スパートを掛ける、二学期が始まった。
全国模試の結果、利知未は志望大学への合格率・九十七%の好成績を収めた。前日まで、利知未の部屋へ、泊り掛けで協力してくれた天才?透子のお蔭である。見返りとして、十月の誕生日プレゼント金額を引き上げられてしまった。
「マジ、チャッカリしてるよな…。」
昼休み、交換した弁当を二人で広げながら、利知未が溜息を付く。
「それだけの働きは、したと思うけど?…今日の弁当も、ゥマーイ!」
幸せそうに、利知未手製弁当をつつく。
「…ま、イーケドな…。それより、男、変わったのか?」
昼休みまで、勉強の話しはしたくない。話しを変える。
「ン?なんで?アイツの事、今学期の中間まで、保留だよ。」
「また、三十三位狙わせるのか…?前の男は、まだ付合ってンのかよ?」
「お財布君ね。最近、会ってない。」
「ついと振られたか?」
「甘い。アタシが無視決め込んでンの。…最近、益々ツマンナクてさ。受験勉強の息抜きにもなりゃしない。」
「お前が、真面目に受験勉強するとは、思えネー。」
「あははは!ま、ソー言う事にしてよ。それを理由にしてンだからさ。」
「…呆れたヤツだな…。」
「そう言う利知未こそ、そろそろ新しい男でも、見付けたら?」
言われて、敬太の事を思い出す。
「…まだ、ダメそーだ…。」
呟く利知未に、ニマリと笑って、その頭をイイ子イイ子する。
「なんだよ、気味ワリー。」
「またぁ、捻くれちゃって!可愛い、可愛い!」
頭を撫でられながら、変な顔をした。
準一は、そろそろ高校生活に、飽き始めている。
授業中は、机の下で漫画を読んでいる。当然、成績が良い筈が無い。
色々な中学校から集まっている、同級生の中には、準一と同じく何事にも呑気なタイプがおり、準一とは、何となく言葉を交わす友人である。
「なぁ、ジュン。お前、最近なんかオモシロイ事あった?」
早弁で昼食を平らげた、丸々とした体格の同級生が、購買部で仕入れてきた焼き蕎麦パンを頬張りながら、同じくアンパンを頬張る準一に聞く。
「学校じゃ、アンマ無いよな。ソッチは?」
「おれも、アンマ何にも無いな。購買部のパンは制覇したし、次は山屋のメニューでも、制覇するかな…?」
食べる事が趣味みたいな奴だ。それ以外の事には、大した興味を示さない友人は、深く物事を考えない準一には、気楽な相手である。
「おい、ジュン!次の土曜、ナンか用事、有るか?」
もう一人、気楽な友人が声を掛けてくる。
「土曜?次の土曜はなぁ…。」
バッカスへは、土曜日に出掛けて行く事が多い。平日も出掛けて行くが、土曜は利知未や倉真、和泉も顔を会わせる事が比較的多いからだ。
最近、倉真がご無沙汰だった。利知未も、そろそろ受験勉強を頑張っている。顔を出す数は減っている。…それでも、来る。
「女に最近、人気がある店の情報が入ったんだ。行こうぜ?」
「ナンパ?…ソーだな。イイよ。」
こちらの友人は、女の子命、という感じだ。
コレまでも、偶にはナンパに付き合った。準一が昔、真澄の為に覚えたトランプマジックは、少女達へのウケが良い。
その特技に注目して五月頃。準一にコイツから声を掛けてきたのが、切掛けだ。名を、原田 健悟と言う。大食漢は安部 靖と言う名だ。
「ヤッスーも、行こうよ?」
「コイツは、興味無いだろ?」
「その店、何屋?」
準一の質問に、健悟が答える。
「…クレープが、人気あるみたいだな。」
「食い物屋なら、来るんじゃない?」
靖がニヤーと笑う。健悟は失敗した顔をする…。
バッカスに、倉真が余り顔を出さなくなり、利知未も以前に比べれば、顔を出す日が減っている。それが少し、詰まらなかった。偶には、別の遊びも楽しいかもしれない。それでも、やっぱり思う。
『瀬川さんたちと遊んでいた方が、楽しいよな…。』
利知未の受験が終るまでは、お預けかもしれない。
専修学校へ通い始めた宏治は、平日九時、土曜は、開店から店を手伝う。いつも帰宅が五時半頃だ。家に着くと、先に勉強を済ませてしまう。
閉店まで手伝いたい所だが、毎朝七時には起きている。美由紀に言われて、週末以外は〇時に店を出る。入浴を済ませ、気晴らし時間を取り、ベッドへ入る頃には、二時を回る。睡眠時間は、平均5時間程度だ。
最近の週末は、倉真に変わり、和泉が顔を出す方が多くなった。
和泉は、春から始めた仕事にも、すっかり慣れた。現場仕事に鍛えられ、拳法修行で培った逞しい身体の上に、更に力強い筋肉が付き始めた。
背も、また伸びた様だ。春の健康診断で、一七七センチあったと言う。喧嘩の腕っ節と同じ様に、身長の方も、倉真とイイ勝負をしている。
土曜日、利知未が二週間振りに、バッカスへ顔を出した。カウンター席に座り、宏治と話している和泉へ、声をかける。
「珍しいな。お前一人か?」
言いながら、隣の席へ腰掛けた。
「どうも。瀬川さんも、暫く顔、出しませんでしたね。」
夏の仕事で、土方焼けに日焼けた、健康そうな笑顔を見せる。
「一応、受験生だからな。」
宏治が心得顔で、ロックを出す。美由紀は少し呆れ顔だ。
「今日は、息抜きですか?」
「マーな。…いつもそう言う事を突っ込むヤツが、今日は居ないンだな。」
「お蔭で、今日は静かに、飲ませてもらってますよ。」
「倉真も最近、アンマ来ない見テーだな。」
利知未がロックに口を付け、タバコを出す。
「アイツは、彼女の相手が忙しいんでしょ。」
綾子の存在は、利知未と宏治が知っている。その関係の現状を詳しく知っているのは、宏治だけだ。
「アイツ等、上手くやってンのか…?」
利知未が少し、心配そうな顔をする。二人を、最終的に恋人関係へ押し上げたのは、恐らく自分だと思う。
アダムに倉真が現れ、例の珈琲の曰くを話して聞かせたあの日。飯を食いながら、話した事が切掛けになった様だと、薄々、感じている。
倉真自身からも、付合い始めた報告は、受けていた。
宏治は、酒に酔った倉真から、覚えてしまった事柄に関しての感想を聞いた。夏休みが終る、一週間ほど前のことだった。
その話しをした頃は、綾子を自宅まで、キッチリ送り届けていた筈だ。
宏治と利知未の話を隣で聞いて、和泉は始めて、倉真にそう言う相手が出来ていた事を知る。少し驚いた。けれど、その事を張り合う気には全くなら無い。ただ、意外だ。
「倉真に、彼女ねぇ…。」
感心したように呟いた。
九月二週目の、この土曜日。綾子は、倉真の部屋で、生活を始めて、二週間。そうなってから、まだ倉真は、バッカスへ現れていない。
倉真はバイトから帰宅し、綾子が準備し、待っていた夕食を前にして、真面目な顔で話し始める。
「…俺の所為なのは、判ってる。」
「…え…?」
呟く様に始めた倉真の言葉に、綾子が不安な表情で首を傾げる。
「お前、帰れ。…学校も行ってネーよな?」
「……。」
何も言わない。心の中では、言いたい言葉が、渦巻いている。
「俺が言えた事じゃネーよ?それは判る。…けど、お前は俺とは違う。」
「…私は…、………帰りたく無い……。」
「親に怒られンのが怖いなら、俺も一緒に詫び入れる。このままで良いワケはネーンだ。お前のが頭良いから、判るよな?」
「…でも、私は倉真と居たいの…。怒られるのが、どうとかじゃ無い。ただ、離れたく無いの…。本当は、倉真が仕事行ってる時も凄く不安…。オートバイ乗ってるから、何処かで事故に遭ってるんじゃないか?とか。…それに…、」
「それにナンだよ?…余計な世話だ。バイト中は無茶な運転もしネーし、事故なんか起こさネーよ。」
部屋の片付けをしていて、見付けてしまった名刺の名前が、頭を過る。
それを見付けた後、綾子は倉真のバイト中、店を探しに行った。
どんな所かも判らない。それでも、その印刷の色が余りにも如何わしく、刷り込まれた名前も女の物で、キスマークまで付いていた。どうしても不安になり、住所を頼りに探し回って、三日目に店を見付けた。
信じられない思いで立ち尽くす綾子を見て、店の従業員は勘違いした。働きに来た少女だと思い込んで、店内へ入れた。
そこで始めて、その店がどんな所か知った。何とか誤魔化し、倉真のアパートへと逃げた。自宅へは、足が向かなかった。
その夜も求められ、綾子は応えた。嫌なイメージが浮かんできたが、それを堪えた。家まで送ると言われて、首を横に振った。
頑なな様子を見せる綾子を、倉真は無理に送り帰す事はしなかった。そして、その日から。綾子は自宅へ、戻らなくなった。
…それが、夏休み最後の土曜の事だ。
「…嫌なの。」
「何が?」
「倉真が……、他のヒトと、……ソー言う事、するのは……。」
言ってしまって、後悔する。
「……どー言う事だ?」
「……見付けてしまったから……。」
「何を?」
「…女のヒトの、名刺…。…だから、私は倉真と居るって、決めたの…。」
俯いたまま言う。倉真は、信じられない表情で呟く。
「…ナンで、そんなモン見付けちまったンだよ…?」
上手く誤魔化す言葉など、浮かんで来る訳が無い。こんな状況、想像もして見なかった。どうするべきか判らずに、黙って部屋を出て行った。
倉真は、その日、戻らなかった。
利知未がバッカスへ入って、二時間弱。九時を少し回る頃に、準一が姿を表す。カウンターの二人を見付け、嬉しそうに利知未の隣へ座る。
「瀬川さんだ!久し振り!」
「騒がしいのが来たな。」
冗談めかして、利知未がチラリと笑顔を見せる。和泉と宏治も微笑して、軽く視線を交わす。
「騒がしいってのないよ。あれ?倉真は、やっぱ今日も来てないんだ。」
準一は、キョロリと店内を見回す。ボックス席では、相変わらずの顔触れが、美由紀を相手に、楽しそうに飲んでいる。
「アイツは、彼女の相手が忙しいそうだぞ。」
和泉が言う。宏治は準一に、ウイスキーのウーロン茶割りを出す。
「え?何それ?!倉真、いつの間に彼女とか出来たの?!」
「お前がナンパに忙しい間に、じゃないのか?」
高校入学後の、準一の行動を把握していたのは、和泉だ。
「ナンパ?お前、高校入ってから、そんな事に力、入れてたのか?」
利知未が呆れ顔になる。真澄を好きだった事を、忘れる為か?とも思う。
「売りがあるから。」
ニマっと笑う。何が売りかは、ここでは明かさない。和泉も、何の事を言っているのか、直ぐには思い当たらない。
「その軽さか?」
「軽いか?」
宏治の突っ込みに、自分でクエスチョンマークを飛ばす。
「軽いな。」
「徹底的にな。」
和泉と利知未も言いながら、はっきりと頷いて見せた。
「ソーかな?」
準一は深刻な様子も無く、小首を傾げて、ウーロン茶割りを飲む。
準一のこう言う態度は、自然に仲間の笑いを誘う。
「二、三日、泊めてくれ。」
いきなり現れてそう言った倉真を、克己は少し驚いた顔をして迎えた。
「ドーしたンだ?いきなり。」
「お前、明日休みだよな?」
「お前も休みか?……、まぁ、イイ。飲み行くか?」
「…ソーだな。」
二人で、以前行った居酒屋へ向かった。
かなり飲んだ頃、克己は始めて、今、綾子が倉真のアパートにいる事を知る。自分にも、責任が有ると思う。一番イイと思う解決策を考えた。
「ドーしよーもネーな…。」
考えた所で、イイ案は中々、浮かばない。無理矢理、送り帰すしかないのかもしれない。それでも、一度は話し合う必要があるだろう。
「綾子がコーなる何て、思いも寄らなかった…。」
自分のしてしまった行動に、腹が立つ。
「…昔の事が、やっぱ少し、影響してンじゃネーか?」
「…俺も、自分のコトしか、考えてなかった。」
「教えちまったのは、オレだしな。…オレにも責任があるワな。」
「別に、克己の所為じゃネーよ…。俺がバカなだけだ。」
段々と、苛々してくる。酒を煽り乱暴に、テーブルにグラスを置く。
解決策が見えない事にもイラつくが、一つのコトをクヨクヨと悩んでいる自分の姿にも、腹が立つ。
『それでも、コレは、イイ加減には出来ネー事だ…。』
綾子の生活を、乱し捲っている。本来、自分の傍に居てはいけないヤツだと、感じていた。それでも、受け入れたのは自分だ。
何故か、利知未に腹を立てる。直ぐに頭を振って、その気持ちを頭から追い出す。…とんでもない八つ当りだと、自分で思う…。
決めたのは、自分だ。
綾子を守る為には、どうすればイイのか?その弱さをカバーするのは、自分の役目だと感じた。…その筈だ。
「投げ出すワケには、いかネーな…。」
ボソリと呟いた。倉真のグラスに、克己が酒を満たす。
綾子の両親は、警察へ連絡をする寸前に、娘からの短い電話を受けた。
綾子が戻らなくなったのは、夏休みの終る寸前だ。
一晩は、友人の家にでも泊まっているのかもしれない、と思い込むようにして、不安を誤魔化しながら、ただ、娘を心配して連絡を待った。
綾子が電話を入れたのは、その日の夕方だ。
「夏休み一杯、友達の所へ泊まるから。」
そう言って、電話を切った。
それから、新学期が始まって、一週間以上立った今、時々、電話をかけてくる娘を、電話口で何度も呼び止めた。
毎回、綾子は、無事を知らせて、直ぐに電話を切っている。
『黙っていなくなったら、倉真に迷惑が掛かる。ケド、今は帰れない…。』
その思いだけだ。それでも流石に、そろそろ騒ぎは広がり始めている。
戻らない倉真を待ちながら、綾子は涙を流していた。
自分が、倉真達の世界へ降りて行ったら、傍に置いてくれると思った。けれど、倉真は。…変わらず、普通の学生生活を送る自分を、受け入れてくれた。だから、そのまま。平穏な生活の中で、倉真と付き合い続けていた。…あの日までは。
自分の行動は、自分でも信じられない思いだ。それ程までに自分は、倉真を必要としている。その思いを、どうすれば解ってもらえるのか?
『だけど、やっぱりアレは、見付けてはいけない物だった…。』
名刺も、店も、その店がどんな種類の場所かも。知らなければ、平穏な生活のまま、倉真と付き合い続ける事が、出来たかもしれない。
『知らない振り、するべきだった…。』
それでも、それは出来なかった。
『…倉真は、自分だけの倉真で、いて欲しいから…。』
それは、人を好きになれば、当然の感情かもしれない。好き以上に、彼の事を、必要と感じている。…コレは、愛とは別物…?
心から人を愛する思い。綾子は今、それを学習している途中だ。
倉真は自分の本音に、まだ気付けない。好きなのか?同情なのか?
愛しているのか?守るべき義務を、感じているだけなのか…?
本当に好きな相手が、誰であるのかさえ。
利知未は、仲間と過ごす時間に、笑顔を見せる。
自分の存在が、誰の心に、どんな影響を与えているのか?想像も出来ない。それより、まだ敬太への想いは、浄化し切っていない。
今は、お互いが楽しくいられる瞬間と、その関係が、利知未にとって、何よりも大切な時間と、空間だった。
二
前日は、準一がバッカスへ現れてから、二時間ほど酒を飲み、笑いながら過ごした。朝、八時ごろ目を覚まし、昨夜サボった分も考慮して、勉強に力を入れる事にする。今日は、日曜日だ。里沙の休日である。
八時半頃、ダイニングへ降りて来た利知未に、本日の当番・樹絵が、珍しそうな顔をして言う。
「良くこんな時間に、起きてきたな。美加に起こされた?」
「日曜は、起こしに来ネーよ。」
答えて、牛乳のパックを冷蔵庫から出す。玲子が食事を終える所だ。
「牛乳、コッチにも頂戴。」
自分の分をグラスに注ぎ、パックごと玲子の前に置く。
「…ま、イイケド…。」
普通、女なら気が回って、グラスに注ぎ別ける物じゃないのか?と思う。自分でグラスに注ぎ、飲み終えて席を立つ。冷蔵庫には玲子がしまう。朝食を終え、食器を片付けて、自室へ戻って行った。
樹絵が、利知未の皿をテーブルに置く。皿に載せられた物体を見る。
「…お前も、料理は下手だな。」
「悪かったな。これでも塩するの、忘れない様になったんだぞ。」
レベルの低い言い訳に、利知未は呆れて、微かに息を付く。朝美の焦げた目玉焼きを思い出した。
ベーコンエッグをパンに乗せ、苦味の利いた朝食を、腹に収めた。
自室へ戻り、勉強を始める。バイトを休止してから、利知未の日曜の日課である。土曜夜には、バッカスへ顔を出す事も、まだある。一週間の総復習をし、翌週の予習をして、受験勉強だ。最近は、高校入学後の見直しをしている。ライブ活動をしていた頃の部分は、やや怪しかった。
透子のノートが無かったら、どうにもなら無くなっていたと思う。
昼過ぎまで集中し、腹が減って時計を見る。午後二時近い。
流石に疲れた気がして、久し振りに、マスターの顔でも、見に行ってやろうかと思い、外出の準備をする。一、二時間も、くだらない話をしたら、また、集中力が、復活するかも知れない。
午後二時過ぎ、店は暇な時間だ。アダムのカウンターへ、久し振りに座る。マスターは翠に任せ、今日も買い物に出かけてしまったようだ。
「…相変わらず、呑気な店主だよな。」
遅い昼食を取りながら、利知未が、呆れ顔をする。
「最近じゃ珍しいのよ?今日は、佳奈美ちゃんとデート中。」
「佳奈美って、マスターの娘の、佳奈美?」
「そーよ。もう、ベタ惚れナンだから。」
クスクスと笑う。隣で賄いを食いながら、妹尾が会話に参加した。
「マスターには、この世で一番、可愛く見えるらしい。」
チュルっと音を出し、パスタを啜る。
「お前、汁、飛んでるぞ?」
自分のお絞りを、妹尾へ差し出す。
「お、悪い。」
差し出されたお絞りを受取り、制服に飛んだパスタソースを拭っている。その仕草に、笑ってしまう。少し、女らしい笑顔だ。
「ガキ見たいだな。」
「男って言うのは、いくつになっても、そんな物よ。」
翠は、自分の恋人を思い出し、利知未と目を合わす。
翠は今年、二十九歳になる。そろそろ、結婚も考え始めている。
今の恋人の為に、ソープ嬢を止めてもう七年近い。中々、結婚を言い出さない恋人に、最近、少々やきもきしている。
その相手と知り合い、お互いに想い始めた頃。翠は、智子を頼って、別の仕事を探そうとした。
アダムを始めて、丁度、三年経とうと言う時期だった。マスターは、固定し始めた客を捌くために、翠を従業員として、雇い入れてくれた。
利知未が初めてアダムへ足を踏み込んだ時。この店は、オープン五年目を迎える年だった。今年、十年目の記念パーティーを企画している。
買い物袋を抱え、佳奈美を腕にぶら下げて、呑気な店主が戻る。
「お、利知未。来てたのか?」
父親の嬉しそうな笑顔に、佳奈美が、呼び掛けられた人物を見た。
「息抜きにな。何時もの珈琲、淹れてくれよ?」
言葉を聞き、軽く振り向いている利知未を、観察する。
「…お兄さん?お姉さん?」
「一応、お姉さんだ。」
「なんで、一応なの?」
「良く男に間違われるから。」
親子の会話に、妹尾が口を出す。今朝、店に顔を出した佳奈美とは、既に打ち解けてしまっている。妹尾はどうやら、子供に人気があるらしい。
「佳奈美ちゃんだよな?ヨロシクな。」
カウンター裏のマスター写真館で、既に顔は見知っている。
「久世 佳奈美です。宜しくお願いします。」
ちゃんと、礼をして挨拶をする。利知未は感心する。
「親父と違って、礼儀正しいじゃネーか?」
マスターに、ニヤリと笑って言った。
「俺の躾が行き届いているんだ。」
「良く言うよな。奥さんの功績だろ?」
「お姉さん?は、何てお名前ですか?」
小学六年生に、突っ込まれてしまった。利知未のありゃ?と言う顔に、マスターが勝ち誇ったように笑い返す。
「恐れ入ったか?」
「…マスターが威張るなよ。ごめんな、あたしは、瀬川利知未って言うんだ。佳奈美ちゃんの親父の面倒、ヨク見てんだよ。」
少年のような笑顔に、佳奈美は興味を惹かれる。
「逆だろう。俺が、お前の面倒を見てるんだ。」
「どーだか…。」
胸を反らすマスターに、翠が笑いながら突っ込んだ。
利知未の隣に、佳奈美が腰掛けた。マスターはカウンターへ入って、何時もの珈琲を淹れ始める。
「お姉さんは、いつからココの人なの?」
「もう、二年半くらい経つな。…お姉さんって、呼ぶな。」
「どうして?」
「…呼ばれ慣れていないから。利知未でイイぜ?」
「じゃ、利知未。あたしは、佳奈美でイイよ?」
二人で、顔を合わせて、笑顔を交わす。
「物分りのイイ子だな。奥さんに似たのか?」
「俺に似たんだ。…野良猫のホットミルク、お待たせ致しました。」
言い切るマスターに、改めて好感を抱く。佳奈美とマスターは、血の繋がりはない。本当の娘として、可愛がっている様子が良く解る。
「…イイ親父だな。」
利知未の呟きに、佳奈美が嬉しそうな顔をする。佳奈美は自分が本当の娘でない事は、知っている。それでも、お父さんが大好きだ。
「利知未、物分かりイイ!」
始めの礼儀正しい様子が一変する。利知未は少し目を丸くする。そして、直ぐに笑顔になる。…イイ子だな…。と、思う。
その後、珈琲を飲みながら、一時間程の時間を潰し、すっかり懐いた佳奈美を、自宅近くまで送り届け、下宿に戻った。
再び勉強机の前に座り、そのまま四時間。八時過ぎまで勉強を続けた。
準一は、前日のナンパで、見事に女の子を釣り上げていた。
早速、今日、一緒に遊びに行く約束だ。女の子の希望で、昨日の仲間と遊園地へ出掛けて行った。
健悟は、準一がゲットした女の子グループの中に、自分好みの女の子を見付けている。絶対自分の物にすると、朝から気合いを入れていた。
和泉は日曜。時々、少林寺拳法の稽古場へ顔を出すようになっていた。住職に言われ、子供の修行を手伝っている。
元々、和泉が唯一続けられた好きな事だ。子供達と汗を流すのは、中々良い気晴らしになった。
真澄が亡くなって、一年。漸く昔のような覇気を取り戻した和泉を、母親も住職も、満足そうに見守っている。
綾子は一晩、泣いて過ごして、朝、一つの決心を固める。
『…学校辞めて、アルバイトして、倉真の生活を助けよう。』
そこまでしたら、一緒に住み続ける事を、許して貰えるかもしれない。
…親にではなく、倉真に…。
昼過ぎに帰宅した倉真と、話し合いが始まる。
朝、克己のアパートを出て、倉真は一人、バイクを走らせた。
走りながら考える。昨夜は、克己と酒を飲みながら、知恵を出し合い、相談していた。
話している内に、もっと基本的な部分を、整理する必要を感じた。
基本的な部分。先ずは、自分の綾子に対する思い。それを考える時、どうしても利知未が引き合いに出て来てしまう。自分で妙な気分だ。
『…今まで俺の近くに居た女が、瀬川さんだけだからか…?それとも、あの人の言葉が、綾子と付き合う切掛けになったからか…?』
昨夜、居酒屋で飲みながら、利知未に対して腹が立った気がしたのは、それだからか?と思う。けれど、それは八つ当りだ。そう思い直す。
『俺は今、綾子をどう思っているんだ…?』
可愛いと思えるようになってから、手を出してしまうまで、約三ヶ月。
ソコまでのプロセスは、すっ飛ばしてしまった気がする。
それは、一種の捌け口として、女を求めてしまった結果か?それとも、本心から綾子を、愛しいと思えた上での所業か…?
『コレから、本気で好きだと思えれば、それでいいのか…?』
先ずは、綾子をどう思っているのか?本気で好きだと思えるなら、今の状況に、どう対処して行くべきか…?
それとも、このまま一緒に暮らし続ける事で、綾子を愛しいと思えるように、なって行くのか?…もし、そうだとしても。
『やっぱ、ヤバイよな…。アイツは女だ。…家族が、どう思っている?』
自分は男だ。しかも、どうしようもないヤツだ。
母親は、心配しながらも、一人暮しを許してくれた。今頃、父親は、母に当っているかもしれない。それとも、母が上手く取り成してくれているのか…?
そうだとしても、不真面目な自分の家庭環境と、真面目な綾子の家庭環境を、引き比べる訳にもいかない。
何より、綾子は娘だ。その上、過去に。…悲しい傷を、持っている…。
答えは出ない。堂々巡りだ。一回り同じ所まで考えが巡り、それならどうするべきなのか…?その部分から先は、解決しない。
『…結局、俺は綾子を、本気で好きだとは、思ってなかったのかもしれネーな…。』
そう感じて、自分に対する怒りが甦る。
ただの捌け口として、綾子に手を出したのなら、昔、アイツに酷い仕打ちをした連中と、変わらない。
『…マジで惚れてなきゃ、アイツ等と同じだ…。』
それは、許せない。自分が許せない。
『ヤッちまってから、好きになるって…、……許されるのか…?』
綾子が相手だから、益々その部分が引っ掛かる。
忌まわしい、過去のない女が相手なら、まだ気楽だったかもしれない。
それでも、倉真は自分で決めたのだ。…綾子を、その弱さを、自分がカバーしてやら無ければならない。カバーする、と。
適当に走らせて、北篠崎高校付近に差し掛かる。約十ヵ月前まで自分が通っていた高校だ。フッと、かつてのヤンチャ仲間の顔を見に行って見ようと思った。仲間の一人、杉村の家を目指して、走り出す。
準一は、女の子達からリクエストされ、ゲームコーナーでゲットした、アニメのキャラクター・トランプを使い、カードマジックを披露していた。健悟の目当ての少女は、準一の見事な手捌きに夢中だ。
内心は、面白くない。何とか、挽回する方法を考える。
靖は、女の子には余り興味を示さない。最初から食い物を手放さない。今もホットドックを片手に、女の子と一緒に準一のマジックに喝采中だ。
一応、盛り上げ役には、なっている。意外にも、その旺盛な食欲を気に入っている女の子が、一人いた。お菓子作りが趣味だと言ってた子だ。
「靖君。今度、私の作ったお菓子、試食して見てよ?」
等と、今日も積極的に、声をかけていた。
健悟は益々、面白くない。3対3のグループデートだ。残りの女の子は、どうやら人付き合いが良いだけで、今日の約束にも、参加の仕方が少し違う。この中の誰かと、と言う脈は、無さそうだ。
「オレが、覚えてるのは、コレだけ。」
準一が言いながら、トランプを片付け始めた。
「この漫画、好きな子いる?」
健悟が目を付けている少女が、脈無し少女を見て言った。
「祐美子、好きだよね?」
「じゃ、はい。」
準一が、そのトランプを、祐美子と呼ばれた少女に渡す。
「イイの?貰って。」
「イイよ。オレ、アンマ好きじゃないから。」
「じゃ、取るのに掛かったお金、払うよ。」
言いながら、自分のバックから、財布を出そうとする。
「気にしないでイイよ、1回で取ったから。健悟、次はどうしよう?」
面白く無さそうに眺めていた健悟に振る。
「ソーだな…。由里ちゃんは、ナンか乗りたいのある?」
目当ての少女に振る。
「ツインコースター、乗りたい!」
「って、絶叫系?イイね、行こう!」
準一は楽しそうだ。高い所とスリルある乗り物は準一の好きなパターンである。…実は、健悟は絶叫系は苦手だ。それでも由里にイイ所を見せたい一心で、冷や汗を隠して頷いた。
「おれパス。アーユーの乗ると、折角食った物が逆流しそうで勿体無い。」
靖が悪びれも無く言う。お菓子作り好き少女・恵利子は、すかさず頷く。
「私も、苦手だから。靖君、アイス食べて待ってよう?」
アイス、に、ニマリと笑う。由里と祐美子が、顔を見合わせる。
『恵利子の趣味は、良く解らない。』
無言で頷き合う。
「じゃ、四人で乗ろう。」
準一が楽しそうに、笑顔で言った。
何気なく準一の隣をゲットして歩く由里の姿に、健悟が詰まらなそうな顔をする。祐美子は、その表情を横目で観察する。
「…何?」
視線を感じて、取り敢えず笑顔を作って聞く。
「ナンでもない。」
視線を反らして、祐美子が言った。
倉真は、久し振りに会った杉村から話しを聞いて、綾子の事が、学校で騒ぎになりかけている事実を知る。
「倉真、浜崎と最近、会ったか?」
聞かれて少し考えて、今の状況を、話して見る事にした。
倉真の悩みを聞いて、杉村は、笑い出す。
「マジ、冗談じゃネーンだ。笑うな。」
「…ッテーかさ、お前。何、らしくないコト悩んでんだよ?」
「らしくないって、ドー言うコトだ。」
「お前らしくネーよ…。相手の家族の事、考えるなんてな…。」
ヤンチャ仲間に笑いながら言われ、倉真は改めて自分を振り返った。
「大体、それ考えるンなら、テメーの事は、どう説明付けンだよ?」
親にも相談無く、学校を辞め、親父と喧嘩をして、家を飛び出した。そのまま、和解する訳でもなく、頑固に一人暮しを始めてしまった。
「…ってーか、大体が、殆ど考え無しのお前が、慣れない事スッから、ソーユー問題に行き当たったんだ。」
杉村の部屋で、ビールを飲んでいた。ヤンチャ仲間の中で、小賢しく進級に必要な最低出席日数を、割り出した奴だ。倉真よりは頭が良い。
「浜崎が、どうしたいか考えてやった方が、まだ、お前らしい。」
言ってビールを飲み干す。摘みの裂きイカを食い、新しい缶を空ける。
目の前にいる相手の事は、見える。その後ろの環境まで想像する事は、今までの倉真にとって、有得ない感情だ。そんな想像が出来るくらいなら、親に反抗して、家を飛び出したりする訳がない。
「…イーンじゃネーの?浜崎が、お前のトコに居たいってンなら、好きにさせれば…。」
倉真らしく居て欲しいと思う。自分は、倉真の考えの浅い行動が面白くて、今までダチでいた。捻くれながらも、保険をかけながら行動する自分の性格に、ない部分を持っているダチだ。
「協力はしてやンぜ?」
ニヤリとして、ビールに口を付ける。
信用している友人に言われ、倉真は自分を取り戻す。…確かに、自分らしくない考えだ…。それでも、思い当たってしまった以上、知らない振りも出来る事じゃない。
一度アパートに戻り、綾子と確り、話し合って見ようと思った。
そして、昼過ぎ。帰宅した倉真と綾子が、狭い部屋の中で向かい合う。
三
倉真は、綾子の言葉に時間を掛けて、ゆっくり耳を傾けた。
本来、短気な倉真にとって、かなりの努力を要する事だ。灰皿は山になる。綾子は何度か、話しながら、吸殻を片付けていた。換気扇の稼動力が間に合わない。窓も開けている。
タバコがなくなり、綾子の話しを聞き終わり、倉真は一端部屋を出る。
「…何処行くの…?」
「タバコ、買って来る。」
恐る恐る問い掛ける綾子に、短く答える。不安そうな表情に、付け足す。
「直ぐ戻るから、心配スンな。」
頷く綾子に、チラリと視線を向け、玄関を出た。
タバコの自販機の前で、財布を出して気付く。
「先月より、残ってンな…。」
中には、五千円札が1枚と、千円札が1枚。小銭を合わせて、六千二三三円。
ここの所、夕飯に金を、使っていなかった事を思い出す。
『…そうか、綾子…。』
二週間の食費が、殆ど残っている計算だ。綾子の財布の中身を思う。
「…敵わネーな…。」
呟いて、自販に千円札を投入する。
買ったばかりのタバコのパッケージを開き、一本咥えて火を着ける。
それをゆっくりと灰にし、気持ちの整理をつけてから、部屋へ戻った。
和泉は帰宅し夕飯を食い、のんびりと風呂に入っていた。夜八時過ぎ。
「和泉!準一君から電話よ、どうする?」
脱衣所から声を掛けられ、答える。
「準一から?…分かった、後で電話する。」
「そう?じゃ。言っておくわね。」
短く返事を返し、その後、暫くしてから、風呂を上がる。
『あいつ、今日は、約束があるとか、言っていたな。』
どうせ、その呑気な報告電話だろうと、のんびり構えた。
八時半を回り、和泉からのリターン電話を受け、準一が出る。
「今日の報告か?手短にな。」
気楽な言葉に、少しだけ真面目な声を返す。
「報告って言うか…。チョイ、面倒な事になっちゃった。」
「お前が、面倒ごと?珍しい事も、あるモンだ。どうした?」
三角関係の問題勃発だ。帰りの電車で健悟から、宣戦布告を受けた。
「…ッテ言ってもさ、オレ、別にそんな気無いから。面倒臭いなぁ…。学校、辞めちゃおうかな。」
「そんな事で学校、辞めるのか?馬鹿なことを言ってるな。」
「最近、ツマラナイんだ。それよりさ、今にバイクの免許も取れるし、瀬川さん達と遊んでる方が、楽しそうじゃん?」
「…お前の基準は、楽しいか、楽しくないか、だけか?」
「それ以外、なんもないよ。」
呑気に言い放つ準一に、和泉は心底、呆れ返る。
「そうだとしても、平日は、瀬川さんも、宏治も学校だし、俺や倉真は仕事がある。毎日、お前と遊び歩いてる訳にはいかないだろう?その間、どうやって暇、潰すんだ?」
「オレも、バイトすればイイジャン?金があれば、もっと楽しい事も出来るし、その方が毎日、刺激があってオモシロソーだ。」
「…考えなさ過ぎだな…。」
利知未の上を行く。倉真も中々な考え無しだ。準一もコレで、宏治だけがマトモに見えてくる。…俺は、とんでもない連中と付き合っているんだな…。と、改めて思う。それでも、あの仲間と過ごす時間は楽しい。
「高校中退って言うのは、中学卒業と同じだぞ?中卒が最終学歴で大変な思いをする事になるのは、お前だぞ?」
自分の事を考える。この準一が、これから先の、そんな大変な人生を歩める物かと、兄貴分として、本気で心配になる。
「宏治みたいに、専修学校を受け直すって言うなら、まだ解るが…。」
「飽きない仕事、探すよ。その為に学校辞めるんなら、意味あると思う。」
珍しく真面目な声を出す。和泉は少し驚く。準一も成長しているらしい。
「お前、本気で言っているのか?」
「本気。どっち道、オレ、自分の性格解ってるから。普通の仕事なんか、続けられそうも無いし。だったら、早い内に色々、やって見たいんだ。」
「それで、本当にやりたい仕事を探すって事か?」
「うん。…和尚も、一緒に探さない?」
軽い口調に戻る。準一は、本気でそう思っている。
「…今すぐに、結論を急ぐな。良く考えろ。…って言っても、お前には、無理かもしれないな。」
一緒にやりたい仕事を探そうと言われ、和泉は少し、嬉しくも思う。本当にそうするか?ではなく、準一の思い遣りに感じる嬉しさだ。
いつも呑気で軽い準一の、本音部分の優しさを、和泉は知っている。
利知未は、八時を回って漸く夕飯に降りて行く。どの道、今日の当番は樹絵だ。料理に期待はしていない。イザとなったら、自分で一品増やそうかと、考えている。
ダイニングに入って、懐かしい料理と出会う。
「親子丼か?…懐かしいな。」
「一年の時、調理実習でやったんだ。教科書、引っ張り出して見た。」
他の住人の、食後の片付けをしながら、樹絵が言った。
「成る程。実習でやった料理なら、まだマトモか。」
鍋の蓋を開け、出し汁の加減を見る。…まぁまぁだな、と、呟く。
「材料があれば、後は自分でやるぜ?」
仕度をしに、移動して来た樹絵に、利知未が言う。
「信用してないだろ?」
「…チョイな。」
ニヤリと笑ってやる。樹絵が剥れて、片付けの続きに向かう。
「イーよ、じゃ、よろしく。」
樹絵が横目で見てる中、楽しそうな顔で調理する。親子丼は、出し汁と卵の加減だ。解き卵もふんわりと、美味そうに仕上った料理を見て、樹絵が目を丸くする。
「利知未、本当に料理が得意ナンだな…。」
「ン?ああ。面白いからな。」
丼に飯をよそい、同時進行で温めていた吸い物を碗に注ぎ、ダイニングテーブルへ移動して行った。
調理をしながら、櫛田のコトを思い出していた。…今頃、どんな風になってるんだろう…?懐かしげに微笑む。
その利知未の横顔に、樹絵は、また興味を惹かれた。
この日、里沙の帰宅は遅かった。夜十時を回る頃に、玄関を入る。
丁度、入浴を済ませ、階段を昇りかける利知未が気付く。
「珍しいな。里沙が、こんな時間になるなんて。」
声を掛けられ、里沙が目を上げる。
「折角、皆がくれた休日ですもの。偶には私だって、お酒くらい飲むわよ?」
アルコールで、少し赤くなった顔で、笑顔を見せる。
「ま、そりゃソーだ。二十八の独身女が、酒も飲まずにガキの世話だけって事も、有得ネーよな。」
「利知未、言葉が汚過ぎよ。大学の面接試験でその癖出さないでね?」
「半年くらい先の話しだな。気を付けるよ。飯は?」
「済ませて来たわよ。お友達と。」
「ふーン、…お友達、ね…。」
ニヤリと笑う。深い意味はないが、少し鎌をかけて見た。里沙は動じない。利知未の性格は、把握済みだ。意外と鋭い事も知っている。
「お風呂、空いたのね?」
「ああ。ごゆっくり。」
動じない里沙に、少し詰まらない気もする。何か反応があったら、からかってやろうと思っていた。
里沙は今日、偶然、街で、葉山 修二と会った。朝美の実習先生だ。
あまりに久し振りで話しが弾み、夕食を一緒に済ませた。三年前まだ朝美が、下宿から専門学校に通っていた年の、十二月に会った切りだ。
偶然の再会に、友人関係が生まれ、葉山の住所や電話番号も、教えて貰ってきたのだった。後ろめたい事は、全くない。気にする歳でもない。
利知未は自室へ戻り、ウイスキーのロックを飲む。今日の勉強はもう終りだ。詰め込み過ぎても、逆効果である。
気晴らしをして、十二時前には、ベッドへ入った。
この夜、倉真と綾子の話し合いは、一つの結論を導き出す。
倉真は昼間、高校のヤンチャ仲間・杉村から、自分らしくないと言われた言葉が、切掛けとなった。
問題は多いが、取り敢えず、綾子の思いのままに行動する事を決めた。
翌日、倉真は、放課後の北篠崎高校前で、杉村を探す。
綾子から、退学届を預かっていた。親には、自分でもう一度、連絡だけは入れるからと、今までの綾子に見えなかった、強さを見せた。
杉村は、頼もしく請け負った。綾子の居所は、何があっても明かさない約束をした。本来は拙い事だ。それでも頑張る綾子を、それを受け止めると決心をした倉真を、ダチとして、出来る限り応援しようと思った。
綾子は必至だった。今の倉真に対する想いと、これから先の未来に。過去の苦しみから、完全に立ち直りたい一心もある。
『今。この愛情から離れてしまったら…。私は、ずっと人を、愛せなくなってしまう…。』
その決心。倉真は綾子に、愛情を持とうと、心に決めた。
綾子は、バイトを探し始める。情け無い事だが、倉真に二人分の生活費を、稼ぎ出せる訳がない。綾子も、倉真に頼り切るのは嫌だと思った。
色々な面で、自分に自信も取り戻したい。
中学の、あの事件。その前から、活発な少女ではなかったが、今ほどの頼りなさも無かったと、自分で思う。
中学生らしく、友達との関係に悩んだり、友人との、打ち明け話も出来ていた。悩みの相談にだって、偶には乗った。
取り戻したいと思う。あの頃の、今よりは余程、生き生きとしていた自分を…。
綾子は、倉真との約束通り、自宅へ連絡を入れる。
「私、昔の自分に戻りたい…。今、その途中なの。だから、何も言わないで…。私は元気にしてるから。いつか、昔の自分に戻れたら…。必ず帰ります…。……だから、探さないで。」
母は、必至に引き止める。それでも綾子は、受話器を置いた。
十月に入り、中間テストの結果を受けての、三者面談が始まる。
利知未は保護者に、どちらを呼ぶべきか、考える。
優に来て貰うか、里沙に頼むか?本当は、そんな面倒臭い事はしたくないとも思う。それでも、一度はやらないと、後が面倒なのも確かだ。
「私が行ったら、ダメ?」
電話口で、明日香が言った。利知未は驚く。
「明日香さんが?真澄、どうするんだよ?」
「それがね…。」
クスリと笑って、話し出す。
「今年の初節句の時、両親が来てくれたのよ。それですっかり、真澄の大ファン。最近は、お母さんが、ちょくちょく顔を出すの。それでね、」
更に笑い出す。楽しそうだ。
「お父さんまで、お母さんに内緒にして、仕事帰りに遊びに寄って行くものだから、優が、もう大変!」
その度に、恐縮しながら、ビールの相手をしていると言う。
「一度、勉強の息抜きに遊びに来て。真澄も、もう一歳だし…。そうだ!お父さん達も呼んで、お誕生会しない?土曜日だし。」
「誕生会ね…。ソーだな、面白そうだ。ケド、明日香さんの両親に会うのは、チョイ気が張りそうだな…。」
「大丈夫よ。両親には、真澄をあてがっておけば。もう、本当に面白いんだから!孫って、そんなに可愛いものなのねぇ…。」
感心している。誕生会には参加する約束をして、話しを戻した。
「じゃ、その時に、面談の話しもするよ。」
「解ったわ。私で良いかどうか、一応、先生にも確認しておいてね。」
「了解。じゃ、また連絡する。」
電話を切る。それが真澄の誕生日、三日前の事だった。
翌日、学校で、担任の了解を取った。
透子との、毎週・木曜日の弁当交換は、まだ続いている。
相変わらず透子は、卵料理担当だ。それでも、プレーンオムレツくらいは、ナンとか形にする事が、出来るようになっていた。
「お前、本当に、あたしと同じ大学、行くのか?」
「ン?なんで?イイじゃない。成績は問題無いし、アタシがライバルになったって、アンタも問題無いでしょ。予想問題も同じの使えば、更にお得!キッチリ、最後まで協力するよ?」
「ソー言う問題じゃ、ネーような気がする…。」
「真面目に将来を考えよう!って、事?アタシは、研究医でも目指しますよ、実験も面白そうだし。」
「…意外と、大発見したりするかもな…。」
透子の頭の柔らかさなら、有り得る事だ。人と目の付け所が違う部分は、良い武器になるかもしれない。
「期待して!」
透子も軽いノリで返す。今日も美味そうに、利知未・手製弁当をつつく。
準一は、取り敢えず三角関係問題だけ片付けて、退学をする事にした。
面倒臭いが、改めてグループデートの機会を作り、健悟と由里を二人きりにして見た。映画に行ってみる事にする。
「祐美子ちゃん、チョット!」
売店で、由里ではなく祐美子に声をかける。
「なに?」
「持ってくの、手伝ってくれる?ヤッスー、なに買う?」
靖を呼べば、恵利子も着いてくる。少し離れた所で、健悟と二人になった由里は、チョットだけ不服そうだ。
それから帰りも、健悟に由里を、送らせて見る事にした。
コレ以上は考えられない。後はドーゾご勝手に、そんなつもりだった。
変わりに自分は、祐美子を送って行く事にする。
「ジュン君って、イイ加減だね。」
送っている途中で、祐美子が言った。
「ナンのこと?」
「由里、ジュン君の事を狙ってたの、知ってるんでしょ?」
「…オレ、鈍いから、気付かなかったよ。」
「…良く言う。…でも、酷いコト、したと思う。」
冷たく言われ、準一は逆に、祐美子に興味を持つ。
「祐美子ちゃんは、誰が良かったの?」
「…別に。私は、由里達に付合っていただけだし。」
それでも、実は健悟に気があったんじゃないかと、準一は少し思った。
「…ごめんね。」
視線を合わせずに、小さく謝る。
「…変なヤツ。」
祐美子は少しだけ、準一に興味を持った。
準一は、まだ和泉の妹・真澄が好きだった気持ちが、残っている。
ナンパも遊びも、その点で、単なる気晴らしに過ぎない。…ケド、女の子は面白い…と、祐美子達グループと二、三度遊んで見て、思った。
三人三様で、色々な性格だ。男の子代表として、女の子の気持ちは、良く解らない。だから面白い。一つの事に関して、取る態度が全く違ったりする。その癖、トイレに行くのも、友達と行きたがる。
気になる相手と、そうでない相手に対する態度の差も、面白かった。
『もしかして、瀬川さんも好きな相手の前だと、違ってたりして…。』
身近な女の子と比べても、異質な雰囲気を持っている利知未の、見た事が無い姿を想像し、一人で楽しんでみた。
姪っ子の誕生会に、利知未は少しだけ女らしい雰囲気で出掛けて行く。
『流石に、義姉の家族に、いつも通りはマズイだろう?』
そう判断した。ジーンズ姿は変わらないが、女物のシャツとジャケットを羽織る。バイクで向かうが、髪にもキチンと、櫛を通す。
玄関先で、妹を迎えた優が、少しだけ驚いた。
明日香の両親の前で、何時もの汚い言葉も厳禁だ。アダムでのバイトが役に立つ。辛くなると途中で席を外す。酒の摘みを作る。
キッチンに立つ利知未の元へ、優が寄ってきて、小声で言った。
「…お前、猫被ってンな…。」
「なに?明日香さんの両親の前で、いつも通りにしてイイのか?」
利知未が、何時もより大人しい言葉で返す。優は少しこそばゆい。
「…気味ワリーな…。嵐でも来そうだぜ。」
利知未が一瞬、素に戻り、ケ、と表情を歪めたその時、声が掛かる。
「利知未さん、いいから、コッチで写真取りましょう。」
「はい、分かりました。直ぐ行きます。」
妹の、何時もより女らしい態度と言葉使いに、優は、異星人でも見ているような気分になった。
…何時の間に、こんな技を覚えたのだろう…?と、変な感心をする。
明日香の両親が帰ってから、利知未は素を取り戻す。頭を掻き、胡座を掻く。酒にも手を出し、明日香と三者面談の相談をしてから帰宅した。
真澄は、すくすく育っていた。ヨチヨチ歩きもするようになっており、元気に動き回っていた。女の子にしては、ヤンチャそうな感じだ。
『遺伝って、タマに変な出方すンだよな…。』
バイクを走らせながら、利知未は自分の昔を思い出す。もしも自分のように、ヤンチャに育ってしまったら…?…少しだけ、冷やりとした。
四
十月末になれば、冬の新作コートも、店頭に並び始める。透子はそれを狙って、月末の日曜に、利知未を誘った。
今は透子と二人、ファーストフード店で、ハンバーガーを齧っている。
…今月は、金が掛かる…。そう思って、冷や汗が出そうだ。
「イイ物、貰った!サンキュ。」
「…ドー致しまして…。」
夏休み明けからの約束、試験勉強、協力見返りの、誕生日プレゼントだ。利知未は姪っ子・真澄のプレゼント代も、月初めに出費済みだ。
三者面談も無事終っている。二人共、学力的な問題は無いだろうと、教師からも、太鼓判を押された。明日香は、驚いていた。
「利知未さん、そんなに勉強、出来たのね…。本当に優の妹?」
帰り道、寄って行った喫茶店で、明日香に言われた。
「裕兄の妹だからな。」
笑いながら、冗談めかして答えた。明日香も笑っていた。
その後、利知未は明日香を、アパートまで、バイクで送って行った。優からは、バイクに乗せる事は、止められていた。しかし、明日香も楽しんでいた。十月の中旬だ。天気さえ良ければ、気持ちが良い。
今月に入り、利知未は受験勉強と、合間の用事に忙しく、バッカスへ顔を出すことが出来ないでいた。その間に、仲間の事情は変わっている。
準一は、月の中旬に、学校を辞めてしまった。
両親は呆れ返る。それ以上に、母親が泣き出した時には、冷とした。
それでも、派遣会社に登録をし、バイクと二輪免許取得を目指して、呑気に、アルバイトに精を出す。
今月の十三日、十六歳の誕生日を迎えたばかりだった。
和泉は、話しを聞いていたので驚きはしない。ただ、やはり呆れてしまう。準一の母親のケアに、手を貸してあげた方が、良いかも知れないと思う。最近、良く準一の家を、訪問している。
宏治は相変わらず、バッカスを手伝いながら、勉強も頑張る。
利知未と倉真が、ご無沙汰で、少し気が抜けている。美由紀も、娘達が顔を出さないことに、寂しい気がしている。
常連組も、何となく寂しそうだ。未成年者の出入りは、確かに問題だが、あの騒ぎが無いと、やはり少し物足りない。
「すっかり、情が移っちまったみたいだな。」
蕎麦屋・大野の言葉に、八百屋の佐々木、魚屋の田島も頷く。
「何言ってる。本来、コレが普通だ。」
肉屋の大熊は、捻くれた事を言って、気分を誤魔化す。
「そうなんだがね…。」
大野が呟いた。美由紀が、空気を変える為に、話しを変えた。
気が抜け掛けている宏治を、最近、近所の店のホステス達が、構い始めている。可愛い、と評判なのだ。お蔭で、売上は上がっている。
自分達の店が引けてから来る訳だから、大体いつも、0時ごろからだ。
その頃には、常連組も引き上げるので、店の回転には丁度良い具合だ。
「ね、浩ちゃん、どうして平日は、早く帰っちゃうの?」
酔っ払ったホステスに言われ、まだ専修学生である事を明かす。
「じゃ、来年からは、もっと遅くまで居るんだ!」
楽しみだと、笑っている。宏治を構いに来るホステスは、三、四人いる。
仲良く一緒に来店する事もあれば、一人、二人で来店する事もある。
最近、深夜0時過ぎから、看板の二時までは、賑やかだ。
倉真は、自分と綾子の生活リズムや、行動範囲の違いに、流石に苛々が、溜まり始めている。その分、綾子を求めてしまうが、倉真の旺盛な精力に、バイトを始めた綾子も、時にはNOを出すようになった。自分の体力が、持たなくなってしまう。
結果、偶には、大人の遊園地へ出掛けて行くようになっている。時々、克己も誘って、二人で店まで連れ立って行く。
学習は、した。綾子にバレ無いように、考えるようになった。
…余り良い学習では無い…。
十月末の土曜日、気晴らしのために、久し振りにバッカスへ向かった。
そして、倉真は再び、バッカスの常連となる。
準一と和泉も、顔を出す事が、また増え始めた。開店直後から賑やかなバッカスが復活し、美由紀は嬉しい。
準一は、バイト生活が意外と楽しくて、嵌まっている。
金が出来る訳だから、教習所代を引いても、安い酒を飲む位の小遣いは生まれる。和泉も、準一の母親が、徐々に開き直りを見せ始めた事で、再びバッカスへと、通い始めた。
自分がボロボロだった頃、準一に救われたと、母から話しを聞いていた。準一の母親の、相談に乗る事で、弟分に、恩返しをした訳だ。
利知未は、受験勉強に力を入れながら、里沙に、男の気配を感じ始める。確信は無いが、休日に出掛ける事も、増え始めた。
とは言え、敢えて突っ込む事もしない。自分が、敬太と、恋人関係にあった時。里沙は心配して、小言を言いながらも、許してくれていた。
里沙も、立派な大人な訳だし、見て見ぬ振りをするのが、賢明だ。
それで受験勉強の傍ら、日曜の当番も、確りこなしている。里沙にも、デートの時間くらい、与えてあげたい所だ。
十二月になれは、利知未と玲子は、当番から外れて貰うからと、最近、すっかり下宿店子のミニ・リーダーチックな里真から、言われていた。
里真は、どうやら自然と、そう言う立場に立たされ易い性質のようだ。今学期に入ってから、学校でのクラス委員も、請け負っているらしい。
文化祭を終え、それでも一瞬、呑気な空気が流れる、十一月二週目。
利知未は、約二ヶ月振りに、土曜夜のバッカスへと、出掛けて行った。
十一月に入ってから、倉真は綾子と、軽い喧嘩になっていた。
「倉真、週末は、何処まで行っていたの…?」
また、例の、如何わしい店へ行っていたのでは無いかと、綾子は不安になって、倉真に問い掛けた。
十月末の土曜と、十一月初めの土曜。倉真はバッカスへ行っていた。
「それに、平日も時々、夜に出掛けて、帰るの遅いし…。」
平日は、綾子の疑惑通りだ。十月中旬から、週に一度は出掛けている。
綾子が、倉真に意見を言うようになっていた。愛すればこそ?である。
「宏治の所だよ。暫く行ってなかったからな。」
ナンでも無い風にかわした。それでも疑いが晴れない綾子と、口喧嘩になる。確かに、平日は疑惑通りなのだから、仕方が無い。それでも喧嘩が出来るようになった変化は、喜ぶべきかもしれない。
けれど倉真も、マダマダ若い。そのまま、喧嘩に応じてしまう。
そう言う事で、久し振りに会った倉真は、少し苛ついていた。
利知未の姿を見て、仲間と美由紀、常連組は、嬉しそうな顔をする。
「わーい!瀬川さんだ!!スッゴイ、久し振り!!」
準一が、軽い調子で声をかける。
「そうだな、二ヶ月ぶりくらいか?」
言いながら、カウンター席へ座る利知未に、宏治が笑顔でロックを出す。
「倉真も、久し振りだな。彼女と上手くやってンのか?」
気になっていたので、軽く尋ねる。倉真がピクリと反応する。
「…って、もしかして、喧嘩でもしたのか?」
反応を見て、素直に聞いてしまう。
「ソーみたいだよ?今日も彼女、置いてきちゃったんだ。」
準一が、深く考えないで言ってしまう。
「置いて来ちゃったって、どう言う事だ?」
同棲の事実は、知らなかった。和泉が、準一の頭を軽く小突く。
「お前は、口が軽過ぎだ。」
小声で言った。別に内緒にする必要も無いかもしれないが、本人が言わない事を、周りの奴が言ってしまって、良いとも思えない。
倉真は、宏治に話していた。久し振りに、ここへ来た時の事だ。その時、準一が途中で入り、和泉もやって来て、結局、少年達は知っている。
別に内緒にする必要も無い。それは解るが、何となく、利知未には、言えない気分であった事も、事実だ。
恐らく、利知未は綾子の味方だろうとも思う。変な表現だが、男対女。意見が違って当たり前だ。何故、ソコの部分が気になるかは解らない。
「まー、ソー言う事っス。」
短く、肯定する。利知未は少し驚いた後、小さく笑顔を見せる。
「…ま、良いンじゃネーか?」
言われて、倉真は少しだけ落ち込む。その心のシステムは理解不能だ。
「取り敢えず、一緒に住んでンなら、喧嘩なんかあって当たり前だろ?その分、仲直りのチャンスだって近くに転がってる。…何とかなるさ。」
言って、ロックを口にする。倉真は落ち込みの先に、妙な開き直り感を味わう。…タイした事じゃ、ネーンだな…。 利知未にとって。
その妙な納得に、自分で小さく笑ってしまう。
「そーっスね。…帰ったら、取り敢えず、謝ります。」
しかし、店に通っている事は、絶対に言わない様にしようと心に決めた。
利知未は、倉真の同棲と、準一が高校を中退していた事実を、この日、始めて知った。やはり、準一の行動には、呆れてしまう。
「…で、お前は今、派遣でバイトしながら、バイクの免許を取りに教習所へ行ってるワケだ?…マジ、考え無しだな。」
「瀬川さんも考え無しだって、和尚が言ってた。」
準一の言葉に、利知未が和泉をチラリと睨む。和泉は視線を外す。
「また余計な事、言ってるよ。」
宏治が少し呆れ顔だ。倉真は、それを見て笑う。
「コイツが、余計なこと言わなくなったら、準一じゃ無くなるぜ。」
「…言えるな。」
倉真と共に、余計な言葉の餌食になった和泉が、諦め顔で頷いた。
準一は呑気に、宏治が作った摘みをつついていた。
利知未は十一月一杯、祝日の昼間はアダム、土曜の夜はバッカスで、息抜きをしながら、受験勉強を続けた。
十二月に入れば、一月初旬に控えるセンター試験の勉強で忙しくなる。
偶には、バイクも走らせる。いつか敬太と結ばれた高台の公園へ、一人、星を眺めに出掛ける事もあった。
十一月二十三日。アダムで、十周年記念パーティーが、催された。
昔から贔屓にしてくれている常連や、利知未のように、今は辞めたり、休止している元従業員も呼ばれ、バータイムの四時間丸々、パーティー会場にしてしまう。
そこで利知未は、マスターの知らなかった一面を、知る事になった。
アダム・マスターは、恋愛関係の仲介役が、趣味だったらしい。
昔、マスターの協力で付合い始め、結婚までした夫婦が子供を連れて、パーティーに参加していた。婚約中や、恋愛中のカップルまでいた。
利知未は敬太のオーディションの日、気になって仕事が手に着かなかった自分を、何も言わずに送り出してくれた時の事を、思い出した。
敬太が、プロとして活動し始めた、五月の事も思い出す。
落ち込みがちな自分を、バイト後に呼び止め、自らシェーカーを振り、オリジナルカクテルを、奢ってくれた事があった。
『あの時は、敬太からの連絡を待っていたあたしに、謎掛けとして、あのカクテルを出されたんだ…。』
思い出して、その隠されていた趣味を、納得した。
パーティーの席で、マスターは、またキザな事をする。
カウンターに、恋人と並んで座る翠に、カクテルを出して聞いた。
「お前の出身地、瀬戸内海の近くだったな?」
急に振られて、翠は一瞬、目を丸くする。
「ええ。実家から、綺麗に見えますよ。」
「面白いカクテルを、思い出したんだ。作って見た。」
翠は、出されたカクテルの香りを確かめて見る。
「何ですか…?日本酒の匂いかしら…?」
「流石だな。日本酒ベースのカクテルだ。」
そう言って、翠の恋人を見て笑う。
「俺は早く、翠のこういう姿に、お目にかかりたいんだがな?」
翠の恋人は、見られて、良く解らない顔をしている。
「じっと見てると、ナンかイメージ沸かないか?」
解らない顔のまま、首を傾げる。マスターが言う。
「白無垢の色に、沈めたチェリーの赤は、口紅の色にも見える…。」
翠の方が、先に解った顔になった。マスターを見上げて呟く。
「…それって…?」
「カクテルの名前は、『瀬戸の花嫁』。」
翠の恋人もココまで言われ、やっと理解する。…発破を掛けられている。
そしてマスターは、ニヤリと笑って、翠の恋人を眺めた。
十一月最後の日曜日に、利知未は遅い昼飯を取りに、アダムへ行った。今日も、勉強の息抜きである。
何時もの、カウンター席に腰掛けた利知未に、お冷と、お絞りを出してくれた翠の、左手の薬指には、エンゲージリングが光っていた。
「プロポーズ、されたのか?」
利知未の質問に、照れた表情で、翠が頷いた。
「…やっと、ね。」
嬉しそうに、指輪を見せてくれる。
「そーか、良かったじゃネーか!おめでとう。」
ニコリと微笑む利知未に、翠は幸せそうな笑顔を見せた。
十二月。利知未は予定通り、睡眠時間を削りながらの、受験勉強生活を送っていた。気晴らしに、高台の公園へと、バイクを走らせる。
足元に広がる街の明かりと、冬の星座を瞬かせる夜空を眺めた。
あの日の事を思い出す。心の中で問い掛け、囁いた。
『…敬太…。今、何処にいる?…頑張ってる…?…あたしは、裕兄の夢、頑張って追いかけてるよ。…今、頑張れるのは…。あの頃の私を支えてくれた、貴方のお蔭…。』
敬太への想いは、徐々に浄化してきている。
愛しかった想いが、深い感謝の思いへと、変化し始めている。
この場所で、あの頃のことを思い出す時に感じていた苦しさは、今は懐かしい思い出へと、変わっている。
誰も見ていない所で、女らしい自分が現れる、唯一の場所だ。
少しずつ、新しい恋が出来そうな雰囲気にも、なって来た。
ただ、今はまだ、受験勉強が忙しい。本当の意味で心が落ち着くまでには、もう少し時間が掛かるだろう…。
倉真と綾子は、小さな喧嘩を、よくする様になっていた。
重い内容ではなく、テレビのチャンネル争いのような、些細な喧嘩が増え始める。…それは綾子が以前より、昔の自分を取り戻してきた証拠でもある…。そんな小さな喧嘩をし、直ぐに仲直りだ。繰り返す内に、倉真はやっと、一人の、人間らしい綾子の姿を、見つけ始める。
今までは、動く人形と、生活をして居るような気がする事もあった。
今は、女として、可愛いと思える。愛しいとも思える。
倉真のビールに付き合って、ジュースで晩酌をしながら、綾子が倉真に寄りそう。並んでテレビを眺めている瞬間、綾子は幸せを感じる。
朝食を向かい合って取る瞬間、倉真は、平和を感じる。
小さな衝突を繰り返し、二人は段々と、恋人同士らしくなって行く…。
準一は、十二月の中旬になって、やっと免許を取得する事が出来た。
倉真や宏治に比べ、やや手間取っている。
教習所の卒業検定で二回落ち、免許センターでの本試験も一度落ちてしまった。二人に比べて、元々は余りバイクに興味の無かった準一だ。それも仕方が無い。準一が免許取得を目指した動機も、やや違う。
『バイク乗っていた方が、女の子にもモテそうだから。』
と言うのだから、真剣みが、足りないような気もする。
それでもバイク仲間が増え、宏治と倉真は喜んだ。早速、ツーリング計画を立て始める。準一は、次はバイクを買う為に金を稼ぐ。
流石に新車は手が届かないが、中古の二〇〇くらいなら十四、五万円の物を探す事も出来る。週6日働いて行けば、一月の中旬過ぎくらいには何とかなるだろう。
倉真は、綾子と、生活費を折半する事で、新しいバイク購入資金も、順調に貯める事が、出来るようになっていた。
免許は、限定解除まで持っているのだから、大型も欲しい所だが、最近、オフロードタイプにも、興味を持ち始めている。
バイク雑誌を眺めては、アアでもないコウでもないと、ぶつぶつ呟く毎日だ。
綾子は、バイクの事は良く解らないが、熱中している倉真の姿を見ていると、何となく、小さな子供を見ているような気分になる。
玩具屋の店先でどれにするか?自分のお小遣いとの兼ね合いで真剣に吟味している小学生でも眺めている気分だ。
それはそれで、幸せを感じる瞬間でもあった。
師走は、名前通り、瞬く間に過ぎ、センター試験が待つ一月が、やってきた。
五
この冬休みは、玲子も実家へ帰らないで、受験勉強に専念している。
大晦日の深夜。新年を迎える頃、里沙に声を掛けられ、下宿に残っている三人が、顔を合わせて、年越し蕎麦を啜る。
テレビ画面では、カウントダウンが始まり、番組の司会者が、新しい年の訪れを告げる。年始の挨拶を交わす。
「明けましておめでとうございます。」
玲子が言い、里沙が答える。利知未は蕎麦を啜る。
「…新年の挨拶ぐらい、しなさいよ?」
玲子が、利知未の様子を横目で睨む。
「全然、めでたい年じゃネーし。」
汁を啜り込んで、利知未が呟く。カチンと来て、玲子は皮肉る。
「…そーね。利知未には、めでたくない年に、なるかもしれないわね。受験間際の、この時期に、夜中に遊び歩いてるんじゃ、怪しいわ。」
「実力不足で、息抜き時間も取れないヤツには、言われたくナイね。」
利知未も、ニヤリとして、やり返す。里沙が呆れて言う。
「貴女達は…。新年早々、喧嘩でも始める気?いい加減になさい!」
再び蕎麦を啜りながら、利知未が里沙に言う。
「新年早々、おコゴト言ってたら、一年中、言いっぱなしになるぜ?」
「言わせているのは、だぁれ?」
里沙も、少し怖い笑顔になる。
「そーか、あたしか。そりゃ、悪かった。」
我関せず、そんな態度で、言い捨てた。
中学時代、成績表の事で、里沙からお小言を貰った時のような、いい加減な態度だ。玲子は呆れ、食器を片付けに、キッチンへと消えた。
正月が過ぎれば、直ぐにセンター試験だ。今年の試験日は一月三週目の、十二日と十三日、水曜・木曜だ。玲子も受ける。利知未と透子は、バイクで会場へ向かう予定だ。
当日、電車が混むことは容易に想像出来る。満員電車に乗るのが嫌で、透子から提案されていた。…ある意味、考え無し同士である。
正月も返上で、玲子は勉強机に向かう。
利知未は、二日の日曜、呑気に何時もの仲間と、宴会をした。
克己も誘い、宏治の部屋で大騒ぎをかます。宏一まで参加した。コレも息抜きである。
勉強は、これまで散々やって来た。今更、ジタバタしたってショーガナイ、と言うのが、利知未の考え方だ。玲子とは、徹底的に反対だ。
それでも流石に、宴会の翌日から、受験勉強生活へと戻った。
正月三日。今日からマトモな受験生生活に戻った利知未は、勉強机の前に座っている。集中力が、切れ掛けたタイミングで、電話が鳴る。
この部屋へ直接、連絡を入れるのは、宏治達や、克己か、中学時代の同級生と、数人の友人。後は、優夫婦くらいである。この電話も、その当りだろうと思い、ダラケタ声のまま、電話を受けた。
「セガワ?覚えてるか?」
尋ねられた声に、聞き覚えはある。それも、余りに久し振りの声だ。
「FOXの、久元だよ。」
…久元…?考えて、思い出す。
「リーダー!?」
「正解!良く、思い出した!元気にしてるか?!」
「ああ、元気だよ。ソッチは?ライブは、相変わらずやってるんだろ?」
昔に戻る。セガワの頃だ。久し振りに、本当に男っぽくなってしまう。
「あの場所で続けてるよ。利知未も、タマには顔出してくれよ?」
「…そーだな。試験が終ったら、また行くよ。あの頃のファン、最近も来てくれてるのか?」
「一部は、残ってる。ケド、やっぱり二年半も立てば、随分、顔触れも変わってるよ。今、セガワが来ても、解るコが何人くらい居るかな?」
「そーか。じゃ、女のままで行っても、大丈夫かな。」
「大丈夫じゃないか?ま、それはソーとして、十四・十五日は、忙しい?」
春までにアレンジを頼みたい曲が、二、三あるから、引き受けてくれないか?と、リーダーが言った。十四日は以前通りの通常ライブ、十五日は現ボーカルの、成人記念ライブがあると言う。
十二、十三日が、センター試験だ。十四日は、見直しに当てたい。
「解った。十五日なら、大丈夫だ。行くよ。」
「悪いな、受験で大変な時に。少しアレンジメント料、払うよ。」
「金は、いくらあっても足りないよ。精々、勉強してくれよな?」
その言葉に、リーダーは昔通りの、おどけた返事を返した。
電話が丁度良い気晴らしになり、利知未は再び、勉強机に向かった。
六日・木曜日から、新学期が始まった。
北条高校は、三年の一月末までに、授業カリキュラムを全て終えて、二月からは、受験本番の為の、最終調整をする。補習授業の様な時間割となる。そうなれば、通常授業の予習復習をしないで、受験勉強にのみ勉強時間を割くことが、出来る様になる。それまでが踏ん張り所だ。
センター試験本番が、直ぐにやって来た。
前日から、透子の家へ泊まり込んだ。試験会場は、藤原家の方が近い。
透子の母親は、バイクで試験会場へ向かうのは反対だ。途中でどんな事故に遭うかも解らない。当然である。近くの図書館の駐輪所へバイクを止めた。朝、電車で向かう振りをして、ここまで歩き、バイクへ跨り、試験場を目指す事にした。
始めて利知未を見た、透子の母親は、目を丸くする。男だと思った。
怪訝そうに迎えられ、利知未は諦めた様な笑顔を見せて、挨拶をした。
「始めまして、瀬川 利知未です。透子さんには、良く、勉強を教えて貰っていました。今日は、お世話になります。」
声のトーンも優しげに、丁寧な態度と、言葉を使う、利知未の姿に、透子は吹き出しそうになる。笑いを堪える透子を、横目で睨み、精々、女らしく見えるように振舞った。
その利知未を見て、母親は、やっとホッとした顔で迎え入れてくれた。
透子は自室で堪えていた笑いを爆発させる。いつか、敬太と利知未と三人で喫茶店に入った時の、女らしい利知未を思い出す。
「アンタって、本当に飽きないわ!」
笑いながら言う透子を、素に戻った利知未が、睨み付ける。
「ほっとけ。誤解されたまま、透子の部屋へ上がったら、有らぬ疑いを掛けられるだろ。」
仏頂面になる。勝手にベランダへ出て、タバコを取り出した。
「有らぬ疑い?それも面白そう!誤解させたままにして、夜中に変な声、上げてやれば良かった。」
ベランダに出た利知未を、透子の可笑しそうな声が追いかける。
「くだらねー…。」
タバコに火を着け、思い切り吸い込んで、盛大に煙を吐き出した。
この日、二人は、こっそりと缶ビールを仕込んで来ていた。家族が寝静まった頃、小さく乾杯をして、翌日の健闘を祈った。
二日間のセンター試験を、上々の出来で終らせ、二人は本試験に望む。
一応、三校は、受けるつもりだ。後は、二月二十八・二十九日、三月六・七日と、八・九日の本試験である。
十五日・土曜日。
以前のように、何時もの店を貸切にし、ハードロック期FOXの『祝・新成人!』という、ベターなタイトルのライブが行われた。
利知未は久し振りに、あのライブハウスへ、足を踏み込んだ。
店の様子は、全く変わらない。懐かしくなった。あの頃と同じ様に、カウンターで、モスコミュールを手にする。
ライブが始まり、シックスティーンビートの、昔より更に弾けた音が、店内へと広がる。あの頃のメンバーで残っているのは、リーダーと拓だけだ。懐かしさと同時に、何となく寂しさも感じる。カウンターチェアに腰掛けたまま、少し身を捩るようにして、ライブを眺めた。
ステージが終り、現FOXのメンバーが、客席に下りた。人気は持続している。現ボーカル、リーダーの弟は、中々、イイ声をしていた。一度だけ、ラストライブで、同じステージに立った事がある。
更に、利知未を、FOXへ引き合わせた、キーパーソンだ。利知未の正体は、昔から知っている。ファンの群れを抜け出て、メンバーの中で、最初に利知未の姿を見付けた。声を掛けられ、振り向いて挨拶をした。
暫く後、それぞれのファンの相手を終えたメンバーが、カウンターへ勢揃いし、利知未と二年半振りに、グラスを合わせた。
一時間程、拓やリーダーと思い出話に笑い合い、今日のライブの感想を語り合い、数曲の楽譜を受取り、次に会う日の約束をして、店を出た。
翌日から、本試験へ向けての、勉強を始めた。
一月末。利知未が、本試験へ向けてのラストスパートを掛け始めた頃。
神奈川から、遠く離れた、北海道・道北に位置する、ある牧場では、少女がショッキングな事実を知り、両親と大喧嘩をしていた。
「そんなこと、急に言われたって…、私は、イヤだから!絶対、一緒に何か行かないンだからね!!」
ヒステリックに叫ぶ娘を、母と兄が宥め、父親が怒鳴り返す。
「一人でコッチに、どうやって残るって言うんだ!?お前はまだ中学生なんだぞ?保護者も無しで、どうする気だ?!」
「…おばあちゃんの所、住む。それに、私もう高校生になるんだから!」
「試験も受ける前から、何が高校生だ?高校生だって未成年だ。」
「……絶対、ずぇーっ対!!私は行かない!!」
父親を睨み付け、自室へ走って行ってしまう。そのまま、翌日の日曜も家族の前に姿を表さない。
月曜日、父とは一言も口をきかないまま、セーラー服で、家を出る。家族は、学校へ行ったのだと信じ込む。
少女は、牧舎隣りの倉庫へ隠していた大きなバックを、誰にも見つからない様に、こっそり引っ張り出した。
始めは、母方の祖母が暮らす街を、目指そうと思った。
途中で、この正月、久し振りに会った、双子の友人を思い出す。
『どうせだから、会いに行っちゃおう!』
進路を変え、空港へ向かうバスに、乗り換えた。
少女の名前は、白木 由香子。
大きな眼鏡と、フワフワの猫毛、癖っ毛が特徴。
一直線行動パターンを持った、アニメ好きの女子中学生。
一月末の、日曜日。里沙の元へ、仕事の依頼を持って来たのは、葉山 修二の兄、修一だった。下宿までの案内は、修二がして来た。
兄弟を玄関先に迎えたのは、偶々リビングで寛いでいた冴史だった。数年前に、一度、会った事のある修二は、冴史のことを見覚えていた。
里沙の仕事のクライアントを連れて来た旨を聞き、仕事用の客間へと二人を通して、里沙を呼びに行った。ついでに里沙から、三人前の珈琲を頼まれた。冴史は少し考えて、利知未の様子を伺いに行く。
冴史が、利知未の部屋をノックした時、利知未は、外出の準備中だ。
「あれ、出掛けるの?急いでる?」
「別に。気晴らしに、昼飯食いに行くだけだ。」
「里沙の仕事相手が、来てるんだけど。時間があったら、珈琲淹れて貰えないかと思って。」
「受験生に、用事を言付けに来るとは、お前も中々だな…。」
少し呆れて、利知未が答える。
「息抜きになるかも、と、思ったンだけど?どうせ、今から息抜きに出掛ける所でしょ?」
サラリと言われた。
「…ま、カマワネーよ。二十分もかからネーから…。」
時々、ある事だった。里沙の仕事相手で、殊更、味に煩い様な珈琲党のクライアントが来ると、里沙に頼まれて、利知未が淹れる。
高二の春、バンド活動を終え、以前より、下宿にいる事が多くなった頃からだ。…評判は、かなり良い。
外出の仕度を終えて、ダイニングへ寄り、準備をする。
「冴史はどうする?」
「淹れてくれるの?」
「三人前も、四人前も、同じだからな。ついでだ。」
「じゃ、お願いしよう。客間へは、私が持ってくよ。」
「ソーしてくれ。」
四人前の珈琲を淹れ、利知未は、さっさとアダムへ向かった。
二月に入り、北条高校では、三年の授業が、午前だけになる。
午後は、それぞれ自宅へ帰り、自分のペースで、受験勉強を進める。解らない点や、問題点は、また翌日の午前中に、学校で確認出来る。
有名大学の合格率が良い学校で、システムも少し、特殊かも知れない。
更に特殊な決まり事がある。普段は、私服登校可能な学校だが、この二月から卒業式のある三月一日まで、三年は制服着用が義務付けられる。
理由は二つある。一つは、受験勉強に専念する学生が、毎朝の洋服選びの面倒を無くすため。もう一つは、半日登校が、約一月、続く事で、学生の気が緩まないよう戒めるため。と、言う意味があるらしい。
制服を着て何処かへ寄り道し、大騒ぎなどすれば、直ぐに学校へ照会される事になる。この時期に、そんな行動に出る生徒も、特殊ではある。
利知未は、それでもバイク登校を止めなかった。制服のまま、バイクに跨ってしまう。その姿を目にした玲子は、『はしたない』と顔を顰める。
二月二日、水曜日。利知未は、午後一時半頃、帰宅した。
勿論、今日も制服姿で、バイクを走らせた。玲子の東城高校は、自由登校までは、まだ間がある。平日の昼過ぎに戻るのは、利知未だけだ。
里沙は平常、店子達が、学校へ通う週中は、自分の昼食だけ用意すれば良いが、この二月は、二人分の準備をする事になる。
利知未は、里沙の用意した昼食を断り、私服に着替えて、アダムへと向かった。制服は、一刻も早く、脱ぎたい所だった。元々、スカートは余り好きではない。バイクにも乗り難い。
アダムまでは、散策がてら、徒歩で向かう。
北海道からの家出少女・由香子は、この週、神奈川県にいた。
里沙の下宿近く、ホテル街と呼ばれる一角にある、ビジネスホテルへ、高校受験のためと偽り、二日間、宿泊した。
それでも明日には、ホテルを変えなければ、拙いかもしれない。
お金は、お年玉の残りを、郵便局の口座から引き出した。
意外と親戚が多くて、毎年六万以上は集まる。無駄に使う事はせず、中学入学後は、貯める一方だった。今、現在、残高は十万以上ある。
サラリーマンの、一ヶ月の小遣いよりも多い。
ここまでの旅費や、宿泊代等で、それでも六、七万は使ってしまった。
だからと言って、いつまでも、こんな状況で居るのは、無茶がある。そろそろ、次の手を考えている。
考えて、少しは頭も冷え、一度、自宅へ連絡を入れてみようと思えた。
こちらに住んでいる友人と、二、三日、遊び歩いてスッキリしたら、そろそろ帰ってあげても、良いかも知れない。その頃には父親も、少しは考え方を、変えていてくれるかもしれない。
ビジネスホテルから、少し離れた、高そうなホテルの近くで見付けた、電話ボックスへ向かった。バックから財布を出しながら歩く。
利知未は、ホテル街の真ん中の道を、少し北へ掠めて行く道筋を辿る。 ホテル街通りにある、電話ボックスの隣を、今、抜けた所だ。
バックの中身を、ゴソゴソしながら歩く少女と、擦れ違った。
パサと言う、微かな音に振り向いた。二、三歩戻った辺りに、真っ赤なカードケースが、雑誌を開いて、伏せて置いた様な形で、落ちていた。
中から、郵便局のキャッシュカードと、別のカードがはみ出している。
『テレホンカードか、地下鉄のカードなら、無視するんだけどな…。』
顔を上げる。今、電話ボックスへ、入ったばかりの少女を見付けた。アイツのだろうな、と思う。面倒臭そうに、カードケースを拾い上げ、電話ボックスへ向かった。
由香子は、自宅のナンバーを押す。呼び出し音が、1回、2回、3回。
7コール目に、受話器が上がる。電話の向こうから、兄の声がする。
同時に、コンコンと、電話ボックスを何かで叩く音に気付いた。受話器を耳に当てたまま、振り向く。
ボックスの中で振り向いた少女が、二、三言、喋ってから、送話口を手で抑え、ボックスの扉を、肩で押し開けた。
「…何ですか…?」
利知未は、背中を向けていた。少女の訝しげな声に、小さく呟く。
「…ま、イーけど…。」
小さな溜息を吐いて、少し振り向く。
「落し物だぜ。大事なモノじゃネーのか?」
背中越しで、ボックスの壁に、カードケースを軽く2回、当てて見た。
「…あ!…済みません!ありがとうございます!!」
恥かしくて、顔が赤くなる。カードケースと、そっくりな色だ。
少女は、カードケースを取ろうと、手を伸ばしかける。けれど両手は受話器を持っている。一瞬、どうすれば良いのか判らなくなり、受話器と、カードケースと、少し振り向いて、テレホンカードの残高を見る。
それから最後に漸く、由香子の瞳が、利知未の顔を捉える。
忙しなく動いていた視線が、その瞬間、止まってしまった。
六
由香子は、親切な青年に一目惚れをした。顔が綺麗だ。背も自分より十三、四センチは高い。足が長い。何よりも、アニメファンの心を捉えたのは、中性的な声。テレビ画面で活躍する、少年ヒーローみたいだ。
思わず手が滑り、受話器を落としてしまった。兄が電話の向こうで、慌てた声を出していた。
腕を伸ばし、電話機の上に、カードケースを置こうとした青年の腕を掴み、受話器を拾って、兄に断り、直ぐに電話を切った。
半分、無理矢理、付いて行った。青年の名前は、瀬川と言った。
利知未は、由香子の目と、由美の目を重ね見た。嫌な予感がした。
けれど、どうせ直ぐに別れるだろう、そして、再び会う事も無いだろうとタカを括った。長くて、二時間。だったら、正体を何とか明かそうとするのも面倒臭い。それで、すっかり男の振りをしてしまった。少女に押し切られ、アダムまで付いて来られた。
その後、アダムで昼食を取り、マスターにからかわれながら、珈琲を飲み、少女を、出会ったホテル街通りまで送る形となり、そのまま自分のフルネームも、棲家も明かさずに別れた。
アダムへ向かう途中、自己紹介をされていた。少女の名前は、由香子と言った。煩いくらいに、良く喋る少女だった。
別れ際に、また会えるかと問われ、縁があったら、何処かで会う事もあるかもな、と、適当に答えておいた。
その頃、準一は漸く、バイクを手に入れた。初めは、二〇〇でも良いかと思った。だが、仲間が全員、四〇〇以上のバイクだ。ただでさえ、運転の腕には自信が無い。その性能差をカバーし切れないと思い直し、結局、四〇〇にした。
最近、日曜に宏治の家へ通い、整備の仕方や、運転技術を習っている。
「お前、そんなンで良く、中免取ったな…。」
そう言って呆れながらも、宏治は良く、準一の面倒を見てくれている。
偶には、準一の家へ宏治が行く。母親は、いつかの少年達の中でも、比較的、真面目そうな宏治に、最近、やっと慣れてくれた。
詳しい話を聞けば、高校を中退したのは、専修学校へ通い直す為だと言う。初対面の時と印象が違った、宏治の真面目さを見込んで、準一へ、何とかマトモな意見をしてくれないかと、頼んでみた。
「家の子は、何にも考えないで…。いきなり、『詰まらなくなったから』何て理由で、学校を辞めてしまって…。私の話しなんか、聞いてもくれないの。今更、高校へ通い直せとも、言えないし…。何か、手に職をつける為に、何処かの専門学校へ通い直すとか、今からでも、勉強し直して、大学まで進んで貰えないかと思うのよ。手塚君、和泉君と二人で、少し準一に、言って見てくれないかしら…?」
考え無しの息子の行動に、困り果てた雰囲気だった。
中学時代の副団長経験を通して、年下の面倒を見る事にも慣れていた宏治は、取り敢えず準一に、その母の言葉を伝えた。
「…って、事だぞ?おれ達が、あっさり高校中退して、お前も余り大変な事だって意識は、無いかもしれないけどな…。」
それもあって、余り煩くは伝えない。準一は呑気に言う。
「全然、タイした事、無いと思うよ。」
「親にして見れば、大事件だろ?」
「良く言う!宏治も倉真も、高校辞めてからの方が、充実してるみたいジャン?オレも今、メチャクチャ楽しいよ。それでイイジャン。」
ヘラリと笑って、宏治を少し、見下ろす形になる。
準一も背が伸びていた。現在、一七〇センチ弱は有りそうだ。宏治は、一六五センチから先、伸び悩んでいる。
「…ま、お前らしいな。おれは、余り煩く言うつもりも無いよ。言えた事じゃねーからな…。」
軽く溜息を付いて、タバコを取り出した。
「宏治、タバコ止めたら背、伸びンじゃない?」
準一は深く考えないで、痛い所を突いた。宏治は準一の母親に、何と伝えてやろうかと、少しだけ考えて見た。
倉真と綾子は、日曜日、久し振りに、映画を見に行く。
「私、コッチが良い。」
「げ、ンな眠ソーなヤツ、見たいのかよ?」
「倉真は、あっちが良いんでしょう?でも私、血が出るのとか、嫌。」
「俺も、ンな恋愛映画、興味ネーよ。」
「じゃ、どうするの?映画、止める?」
「…って、お前が今日は映画がイイって言うから、態々、来たんだぞ?」
「…だって…。何時も、何処かの公園で、お弁当ばっかりじゃ、詰まらないと思ったから…。」
「俺は、あの映画、見るくらいなら、その方がイーぜ。」
喧嘩が始まる。それでも綾子は、付き合い始めた頃に比べて、活き活きとしている。目が明るくなった。表情も良く変わる。
「じゃ、イイ。…一人で見る…。」
「…勝手にしろ。」
倉真は、少し剥れた綾子を置いて、踵を返す。数メートル、歩き去りかけ、ピタリと止まる。チラリと振り向いて、俯いたまま、じっとしている様子を見て、綾子の元へ戻る。腕を掴んで、引っ張って行った。
綾子が、見たがっていた映画のチケットを、二枚買った。
綾子は、倉真の優しさを感じる。ぶっきらぼうで、怒った顔ばかり見せるが、その行動は、偶に優しい。それを拾い集めて、益々、好きになって行く。けれど、その日の映画は、やはり余り、楽しく無かった。
映画の最中、倉真は眠ってしまった。感動的なシーンで、隣の倉真の手を掴もうとして、それが判明した。
結局、剥れ面が中々、治まらない綾子と、映画の後に喧嘩をしながら、二人の棲家へと戻った。
…そして、また、小さな喧嘩が始まる。
土曜日。利知未は今日も、三日前と同じ様に、学校から帰って着替えを済ませ、アダムで昼食を取り、珈琲を飲んで帰宅した。
リビングの横を通りかかり、樹絵と帰宅の短い挨拶を交わし、階段へ向かう。一段目に足を掛けた瞬間、背後から、少女の叫び声がした。
「…え、…えーーーっ!?!あのヒト…!?!?」
利知未は階段の一段目で、足を踏み外し掛け、慌てて手摺に捕まる。
今日は、二月五日。…受験生、ヘンな所で、コケたくは無い…。
何とか立ち直って、リビングの方向を振り向いた。見覚えのある少女が、ボーっと、自分を見ているのを見止めた。
慌てて階段を登り、自室へと入る。鍵を掛け、扉に背を預けて、息を吐く。呼吸を、忘れていた。
『何で、アイツがココに居るんだ!?』
つい、この前、カードケースを拾ってやった少女だった。
息を整え、落ち着いてから、三日前を思い出す。あの時、由香子は。
「幼馴染みに、会いに来た。」
と言っていた。冷静になってみて、双子の出身地が北海道であった事を思い出した。同居人の双子が、あの勘違い少女の幼馴染みであるとは、思いも寄らなかった。
幼馴染みと言えば、ご近所さんか、同学区内の同級生というのが相場だ。神奈川も、人口が少ない訳ではない。北海道は、人口密度以上に、土地が広い。その広い土地から、この、それなりに人口が多い土地へやって来て、偶々、偶然、自分と知り合った少女が、まさか、こんな身近な人物の関係者だとは…。お釈迦様でも思うまい、と言う所だ。
利知未は、お釈迦様では無い。千里眼だって、持っていない。
何はともあれ、事情が分からない限り、由香子の前に姿を表すのは、止めておこうと決めた。
部屋から、なるべく出ない事に決め、勉強机の前に座る。
暫く頑張って見たが、勉強は全く、手に着かない。利知未は思い出し、成人の日、FOXのリーダーから渡された楽譜を、机の一番下の引出しから、引っ張り出した。
『コッチやってた方が、気が紛れそうだ。』
長い間、机の横に、ケースへ仕舞ったまま、立て掛けてあったギターを、取り出した。約、二年半振りに、チューニングをし直す。それからベッドの上へ移動して、楽譜に向かった。
暫くすると、ノックの音がした。樹絵がドアの向こうから、小さく声をかける。鍵を開け、扉を開くと、樹絵が部屋へ滑り込んで来た。
樹絵は直ぐ、後ろ手に鍵を掛け直す。改めて尋ねあう。
「利知未、どーなってンだ?」「樹絵、説明してくれ。」
同時に言葉が出る。二、三言、言葉がぶつかり、利知未は無言で樹絵に促した。ソファに掛け、現状を確認しあった。
樹絵は利知未から、三日前に由香子と会い、すっかり男と間違われ、面倒臭くなって、誤魔化し通してしまった事を聞いた。
利知未は樹絵から、あの、白木由香子が、双子の幼馴染みで、自分はすっかり、男として惚れ込まれてしまったらしい事を聞く。由香子は遥々、北海道から、こんな所まで、家出をして来たらしい事実も知った。
由香子の惚れっぽさにも勿論だが、自分がまた、とんでもない間違いをかましてしまった事実に、利知未は、ほとほと呆れ返ってしまう。
取り敢えず、何とか誤魔化して置くように、そして、成るべく早くに帰してくれる様に頼んだ。
樹絵が部屋を出た後、何もする気が無くなって、ベッドへ転がった。
タバコを何本か灰にして、パッケージが空になる。買置きのタバコを机の引出しから取り出し、再びベッドへ向かって、投げ出されたギターと、数枚の楽譜が目に入る。
『どーせ、勉強する気にならネーし…。もう暫くコッチやってるか…。』
気分を変えて、再びアレンジを始めた。
一曲やりかけて、上手く行かなくて、次の曲へ手を出した。タイトルを見て、手が止まる…。
『この曲。…また、ヤるつもりなんだな…。』
始めて、FOXでステージに立った時に、歌った曲だ。利知未が自分で作った中で、初めて人に聞いて貰いたいと思える出来に仕上った、城西中学応援団部の、思い出を音に変えた、懐かしい曲。
楽譜を眺めて、由美の事を思い出してしまう。これは、始めて由美に会った時、気に入ったと言っていた。…FOXセガワの、最初の一歩だ。
そのまま、もう四年以上経ったあの頃に、思いが入り込む……。
利知未が楽譜を顔の上に伏せ、再びベッドへ転がって、気持ちが過去へと向かっていた、その間に。樹絵達には、気になることが出来た。
利知未の過去を聞くために、冴史の部屋へと、お邪魔する。
切掛けは、由香子を相手に、正体不明な名前を口にしていた里真に、里沙が夕食の準備を手伝わせ、理由を聞き出しながら言った言葉だった。
「利知未が誤解を解く事が出来ないまま、消えてしまった少女の存在。」
双子が、この下宿へやって来た時期より、少し前の事らしい。
そこで、利知未が中学三年、冴史がまだ入居したての中学一年の五月、
ゴールデンウィークの事件を知る。
「全国ネットで、かなり取り沙汰されていたから、里真や樹絵、秋絵達も、実家のテレビで、見覚えがあるんじゃないかな?犯罪の低年齢化、騙された少女達、暴力団がらみの、悲痛な事件…。」
そう言って、もう四年も前の、大事件の触りを説明した。
「気の毒な事に、命を奪われた少女は一人きりだった。あるアマチュアバンドのメンバーに、命懸けで麻薬取引検挙の証拠を託しに行った少女。まだ、十六歳だった。」
そして三人は、その大事件を思い出す。けれど、その事件が利知未とどんな関係があったのか?その点は、全く想像もつかない。
「その、亡くなった少女が、どうやら利知未の知り合いだった見たい。」
余りに身近な存在の利知未が、そんな大事件に絡んでいたと言う事実に、シックリ来ないで、首を傾げる三人へ、冴吏は言う。
「大きな事件だって、ソレが起こった時に、その場に居るのは、特別でもなんでも無い人達だよ…。私達が、皆いつ、交通事故の被害者になってしまうか、判らないって言う確立と、どう違うと思う…?」
「いつ強盗に、家に押し込まれるかも判らない、って言うのと、同じか?」冴吏の質問に、樹絵が呟いた。
樹絵の言葉で、秋絵と里真も、考え方を変えてみた。
利知未の行動を考え、その頃、利知未がアマチュアバンドへ参加していた事実と並べて、何となく納得した。
双子は、この話しを聞いて、今回の自分達の計画に、少しだけ疑問を持った。計画は、由香子を利知未と、一日デートへ行かせてあげる事だ。
勿論、由香子が惚れ込んだ、瀬川利明として。名前は、双子と里真のでっち上げだ。さっき里真は、その事を里沙から突っ込まれたのだ。
里真は、それでも由香子が、可哀想だと思う。
帰宅して、双子の幼馴染み、由香子と話しをして、その本気の惚れ様を感じ、協力してあげたいと思った。
由香子は来月、渡米してしまうと聞いたからだ。
それも親が勝手に決めたことで、本人は反対していた。それで大喧嘩に成り、家を出て来てしまった事も聞いていた。
それでも由香子は、自分の気持ちを我慢し、家族と共に移住する件を真面目に受け止め様と、考え直したと言う。
かなり、頑張って堪えている様子が見えた。けれど、その前に一度だけ、始めて会った、理想の青年・瀬川とデートをしたいと言う乙女心を、応援してあげたいと思ったのだ。
冴史の部屋を出た三人は、もう少し、その当時のことを聞いて見ようと、今度は玲子の部屋へ向かって見た。けれど、玲子も受験生。勉強の邪魔になるのはどうだろう?と、廊下で立ち止まり、相談している所だ。
三人が、冴史の話しを聞いていた時。利知未は美香に呼ばれて、階下へ、夕食を取りに降りていた。
食事を終え、階段を上がってきた利知未の進行方向に、邪魔な障害物となっている、三人娘を見る。
「何、やってンだよ?」
聞かれて、慌てた。言い淀む秋絵と、作り笑いの樹絵。
「部屋、戻るんだろ?どーぞ、どーぞ。前をお進み下さい!」
「言われなくても、ソーする。」
三人の様子を、横目で見ながら、自室へ向かった。トイレに行っていた玲子と擦れ違い、短いやり取りを交わす。相変わらずそっけない二人だ。
ドアの前で、三人をもう一度、振り向いて聞いてみた。
「由香子、いつまでここに泊まるんだ?」
「…目的を、果たすまで…。」
口を開いたのは、それまで俯いたまま、黙っていた里真だった。
「なんだ?そりゃ。」
「どうして、誤魔化しちゃったの?」
問われて、訝し気に聞き返す。
「何の事だ…?」
「由香子ちゃんの事よ。…あんなに夢中になっちゃって、可哀想だとは思わないの?」
里真から由香子の名前が出て、一瞬ワケが解らなくなる。それでも、夕食は由香子と一緒に取っていた筈の里真だ。その当りから、何か話しにでも出たのだろうと、解釈をした。
その真剣な表情に、利知未は里真の言い分を、聞いてやろうと思った。
里真を促し、どうしようかと、思案顔の双子も促して、自室へ入り、真面目な話し合いの場を作った。
約、一時間ほどの話し合いを終え、入浴を済ませた利知未は、寝酒にウイスキーのお湯割りを飲んだ。その夜、秋絵が開け放したままだった窓を閉めるのも忘れ、アルコールの勢いで、すっかり眠り込んでしまう。
翌朝、風邪を引いてしまい、その日から五日間、寝込んでしまった。その間、由香子が、献身的に看病をしてくれたのだった。
利知未が寝込んでいた、二月六日から、十日。少年達は相変わらず、バッカスで酒を飲み、くだらない話しをして、盛り上がっている。
利知未が寝込んだ、その日曜は、倉真と綾子が、映画館前で、小さな喧嘩をし、宏治が、準一の母からの言葉を、困った一人息子へと伝えた日曜日だ。和泉は、日曜の昼間、少林寺拳法少年クラスの、稽古手伝いをしている。
綾子と喧嘩をした倉真は、例の怪しげな店で、力を抜いた。
その後、数日間、続けてバッカスへやって来た。その数日間と言うのは、綾子の怒りが治まるのを、じっと伺っている数日間だ。
準一は最近、一日おきに顔を出す。和泉もチョコチョコやって来る。
すっかり仲良くなった四人にとって、利知未が居ないながらも、顔を合わせて、賑やかに騒ぐ時間が、何よりも楽しい時間だ。
この頃、宏治も少々、ずるい事を覚えた。開店中、何か材料が足りなくなった時は、ジャンケンをして、買出し罰ゲームなどさせている。
宏治は、意外にもジャンケンが強かった。今の所、負け無しだ。
美由紀も、この少年達には遠慮をしない。自分にとっては息子なのだ。
最近、美由紀の店、スナック・バッカスは、変わった親子関係が存在する、仮想家庭となっていた。
七
由香子に看病をされている間、利知未は何度か、自分の正体を明かそうと、チャンスを伺っていた。しかし、酷い風邪で、声がマトモに出無い。その上、高熱で頭が朦朧とし、マトモな言葉も浮かんで来ない。
偶に気分が良くなった時は、由香子が看病疲れで、眠り込んでいたり、階下へ降りていたりで、中々、タイミングが取れないでいた。由香子は、利知未の食事の準備を、全て、引き受けていた。
由香子としてみれば、こんなに人を好きになったのは、初めてだ。
その人の看病をするシチュエーションその物も、好きな漫画やアニメの世界にでも、入り込んだ様な錯覚に陥る、おかしな言い方だが、素敵な経験、とでも、表現したくなる状態だ。益々、一生懸命この上ない。
始めの三日三晩は、殆ど寝ずの看病だ。四日目になり、漸く落ち着いた瀬川の状態に安心し、少し、うたた寝をした。
それから、里沙や双子、里真に言われ、やっと借りている客間へ戻って、ゆっくりと休む事にした。それが、十日、昼前の事だった。
その間の、バッカスでは、常連組の商店主軍団が、美由紀を相手に、話しをしている。
「最近、利知未が来ないね。」
「そうだねぇ。あの子が居なくても、騒がしいってイヤ騒がしいけどね。」
倉真達の騒がしいカウンターを、呆れ半分、父親のような顔で見やる。
「すっかり、常連仲間になっちゃったねぇ。美由紀ちゃん、イイのかい?」
「何処かで問題、起こされるよりは、安心でしょう?でも、大野さんは、もう少し静かに飲みたいわよね。ごめんなさい、ちょっと叱ってこようかしら。」
カウンターを、軽く振り向いて、立ち上がりかける。
「イイよ、イイよ。あの騒ぎが無くちゃ、返って酒が不味くなる。」
優しい顔で笑った。美由紀が、椅子から上げかけた腰を、再び落着ける。隣で大熊も、立ち上がらないように、肩を押えていた。
「アイツ等は、浩坊に任せて、こっちはこっちで楽しく飲んでりゃいい。それより、美由紀ちゃん。アイツ等の酒代、溜まってないか?」
「あの子達は、あれで何時も、キチンと勘定、支払って帰るのよ。」
クスリと笑う。大熊の心配は、そのまま手塚家の心配に繋がっている。
「へー、意外と、ちゃんと育ってるんだな。」
八百屋店主・佐々木が、変な感心をした。美由紀は言う。
「意外とって、失礼ねェ!あの子達は、私の息子なんだから!あれで、結構、確りしてるのよ?」
笑いながら言う美由紀に、店主集団も、和やかな雰囲気だ。
偶に準一が、こちらの席を、構いに来る。構いに来ると言うよりは、こっちの酒の摘みを、横から突つかせてもらいにくる。
店主集団は、ヤンチャな息子を相手にしている気分になる。
その準一の行動を、和泉が制止に来て、耳を引っ張って席に戻す。
「イイ加減にしろ!…何時も済みません。…ったく、お前は。」
宏治が、準一が平らげてしまった、店主組の摘みを作り直して、美由紀に声を掛けると、倉真、和泉の手を渡り、新しい摘みの皿が、店主集団のテーブルへ並ぶ。
その間に準一の手が入ると、また少し量が減っていたりする。店主達も呆れながら、準一の平らげた分まで、支払ってくれたりする。宏治も如才なく立ち回る。偶に新作を試食して貰うからと言って、サービスで裏メニューなんぞ、店主達のテーブルへ出す。
客同士で一体となった、アットホームな雰囲気だった。
十日の夜、十時を回った頃。
利知未は、体調が回復した事で、ストレスを感じ始める。
すっかり、受験勉強の計画が狂ってしまった…、という事ではなく、由香子の存在に、やり様の無い、フラストレーションが溜まっている。
自分の正体を明かす事が出来ないまま、自分の看病を献身的に続けてくれた、由香子の態度は、有難い行動であると同時に、昔の由美からの想いを、イヤでも重ね、思い出してしまう姿だった。
この数日間で、正体を明かせていれば、楽だったかもしれないと思う。
それなら、こんなに心苦しい事も、無かった筈だろう。
けれど、それが出来ないまま、5日も過ぎてしまった。その苛々が、ストレスとなって襲ってきた。頭がハッキリした分、益々、顕著だ。
『…何か。このままじゃ、別の病気になりそうだぜ…。』
心身症。ウィルスの所為で起こる、肉体的な病気とは、別の病気。
…格子付きの救急車には、運ばれたく無い…。
『チョイ、気晴らしに行くか?!』
昼間、トイレに起きた時、もう平気だと思った。風呂にも入っていなかったから、里沙に言って、昼間の暖かい内に、入浴させてもらった。
今は、体調的な部分だけは、かなりスッキリとしている。
決めたら、即実行だ。起き出して、外出の仕度を始めた…。
倉真はバイトから帰り、明日の祝日を切掛けにして、綾子とキチンと仲直りをしようと言う決心のもと、綾子の様子を注意深く観察して見た。
「お前、まだ機嫌、悪いのか…?」
風呂を上がって、倉真が聞いた。今日の様子は、その結果を導き出した。
昨日は、少しは治まっていた様に見えたのに、どうした事だろう…?少し考えて見た。
「…倉真、日曜日の夜、また、何処か行ってたよね…?」
今日は、木曜日だ。
水曜の時点で、治まり掛けていた物が、いったい、何の原因で、再び怒りに火を着けたのだろう…?そう、考える。
「忘れていた事は、無い?…昨日の夜、女のヒトから電話があったよ?」
ギクリ、とする。俺は、いったい何を忘れていた?
「昨日、会いに来てくれるって、約束してたのよねぇ、…って、言ってました…。」
部屋で、正座をして、向かいに座る綾子の目が、怒りに満ちている。
「…ナンの事だ?そいつ、間違えて電話して来たンだろ?」
決心して、シラを切り通す事にした。
「…そうかしら?…間違えじゃ、無かったみたいだけど。」
膨れて、そっぽを向いた綾子に、手を伸ばしてみた。
力づくで、誤魔化せないモノかと、半分、賭けみたいな気分だ。
「お前が最近、相手してくれネーから、そう、不安になンじゃネーの?」
言って見たが、ダメだった。
「…ヤ!手を出さないで!…私、もう寝る。」
膨れたまま、一人で布団を被ってしまった。
倉真は諦めて、今日もバッカスへと向かった。
利知未は注意深く、玄関へ向かっていた。階段を降りた所で、由香子に見つかってしまった。慌てて、由香子の口を押えて客間へ滑り込み、暫くの押し問答の後、またも押し切られ…。付いて来られてしまった。
バッカスの前で、躊躇する由香子に、意地悪な事を言って、追い帰そうと、最後の悪足掻きをして見た。感情、一直線行動の由香子は、負けなかった。結局、二人で連れ立って、店へ入った。
鈴を鳴らして、店の扉を開けると、美由紀が笑顔で迎えてくれた。
女の子を連れた利知未の姿を、珍しそうに見る。利知未は、美由紀と短い言葉を交わして、真っ直ぐにカウンター席へ向かう。
すっかり慣れた雰囲気で、店の奥へと向かう瀬川を、由香子は驚いて見つめる。置いて行かれない様に、急いで後を追いかける。
「いらっしゃいませ…、って、瀬川さん!…暫く、来ませんでしたね?」
カウンターから声を掛けた、宏治の姿を、由香子は驚いて見た。
どう見ても、十代の少年である。しかも、笑顔が、アイドルみたいに可愛い。カウンターで振り向く、倉真と準一の姿にも、目を丸くする。
「瀬川さん、来たのか!?マジ?」
「マジだ、マジ!!わーい!久し振り!!」
真っ赤なモヒカンと、脱色し過ぎの伸び掛け髪。こちらも十代の少年達だ。更に、瀬川の事を、良く知っているらしい。仲の良い友達みたいだ。
「何時ものメンバーより、足りネーみたいだな。」
言いながら、瀬川がカウンターチェアへ、腰掛ける。由香子も慌てて、後へ続く。利知未の質問に、宏治が笑顔で答える。
「和尚は、おれにジャンケン負けて、買い出し中です。」
「相変わらず、怠けてるな。」
ジャンケン罰ゲームは、去年から偶にやっていた。最近、頻繁になった事までは、良く知らなかった。
「格安で飲ませてるんだから、当然の権利でしょう?」
「お前も、言うようになったよな。」
ははは、と笑う宏治に、利知未は昔よりも、更に打ち解けて来た事を見る。仲間が、こうして仲良くなって行く姿は、嬉しい事だと思う。
何時も通り、楽しい時間を過ごした。常連商店主集団が、時間を見て勘定を済ませて、帰って行く。偶に顔を見せる雑貨屋の隠居じいさん達、老年カップルグループも、頃合を見て、席を立った。
その間に、和泉が買出しを終えて、帰ってくる。
準一は、積極的に由香子へ声をかけていた。可愛い女の子は大好きだ。
会話の中で、由香子がまだ、中学生である事が知れ、美由紀は気になった。利知未のような子ならまだしも、どう見ても、普通の女子中学生を、こんな時間にスナックへ連れて来た経緯を、確認する為、利知未、一人を連れて、店を出る。由香子は内心、ビクビクした。
美由紀も利知未も、この少年達が、よもや中学生の少女相手に、怪しげな事をする奴だとは、思わない。
面倒を頼み、酒は飲ますなと釘を刺してから、出て行った。
後になって、買出しから戻った少年は、剃髪だった。モヒカン、脱色と来て、ボーズ頭の集団は、由香子から見て、異質なグループだ。
瀬川が店を出てしまい、落ち着かない由香子の気持ちを、解してあげようと、準一は何時も通り、軽い調子で仲間の紹介を始めた。
会話の中で、由香子は、瀬川が大型のバイクに乗る事を知った。
大学受験を控えた十八歳、綺麗な顔を持った親切な青年が、スナックの常連で、何時もは喫茶店でアルバイトをしている。…喫茶店の制服は、バーの制服みたいに格好良かった。きっと似合うと思った…。タバコを吸い、甘い物は苦手で、珈琲はブラック。更に、大型バイク!…まるで、少女漫画に出てくる、少しツッパッた少年主人公だ。…益々、憧れる。
その瀬川が、女だと知ったら、由香子はいったい、どんな反応を見せることだろう。
準一達は、由香子の様子を見て、利知未を男と思い込んで、かなりの憧れを持っているらしい事を知る。仲間同士、目を合わせて頷き合う。
『やっぱり…。』
そんな感想だ。利知未と知り合った時、あの人は、セガワと言う少年として、ライブ活動を行っていた。自分達も、すっかり騙されていた。
セガワは、何時もライブ後、少女ファン達に囲まれていた。そのモテ振りも思い出した。由香子の勘違いも、解る気がする。
其々が、昔の事を思い出していた。全員の視線が外れた瞬間、準一は由香子のウーロン茶へ、自分の手元にあった焼酎を、混ぜ込んでしまう。
カードマジックが得意なくらいだ。手先は、意外と器用である。人の目が逸れた瞬間を感じる感覚も、実は優れている。本人、全く自覚は無い。紹介を続けながら、由香子のグラスに、何気なく仕込んだ。
そして由香子に、利知未との関係を聞いた。
利知未は、美由紀と二人で、深夜までやっている喫茶店へ入った。
カウンターで注文し、自ら席へ運んで行くタイプの、セルフサービススタイルの、気楽な店だ。今は、座席数から、三割ほどの客が入っている。隣も、後ろの座席も、空席になっている片隅に席を取り、聞かれるままに話しだす。質問に答える為、始めて由美の事も、美由紀に話す。
以前は、濁していた部分の話しを、美由紀は、始めて聞いた。
その頃のことを思い出す。事件そのものと、当時の利知未の様子。
美由紀が、利知未のバンド活動を知ったのは、夏だった。宏治が補導された、あの日。あの時、自分達を車で送ってくれた青年が、利知未の恋人だった筈だ。そして、今、利知未が話しているのは、そのまた少し前の、ゴールデンウィークの事。
利知未への助言と、昔話が長引いて、話しが区切れて席を立ったのは、そろそろバッカスの看板時間、二時を回ろうと言う頃だった。
バッカスへ戻る道すがら、利知未が呟いた。
「…あたしは、男に生まれた方が、良かったのかもしれないな…。」
「何言ってるの?そしたら私の夢が、一つ減っちゃうでしょう。」
「美由紀さんの、夢?」
「利知未の花嫁姿を見て、その子供を、自分の孫みたいに可愛がって…、いつか女同士、友達付き合いが出来るようになる事。」
ニコリと、笑顔を見せる。利知未は本の少し、照れ臭かった。
由香子から、一通りの経緯を聞いた少年達は、その脅威のお喋り好きに驚いた。しかも、内容は利知未のことばかりだ。色々な質問をされた。
一つ答えると、その答えからドンドンと想像を膨らます。何時の間にか酒が入っていたのにも気付かずに、ほろ酔いのイイ気分で、その想像力に更に研きが掛かる。
話している時の豊かな表情や反応は、見ていて、全く飽きなかった。準一は調子に乗って、益々、巧妙に酒を混ぜて行く。
由香子の顔が赤くなり始め、目がポヤンとし始めて、息に微かなアルコールの匂いが感じられる様になって、始めて、和泉が気付いた。
「…!準一!お前の仕業だな…?」
「チョイ、由香子ちゃん!酔っ払ってンのか!?」
倉真が、由香子の腕を揺すって見る。
「エ…?あラし、お酒飲んレないレすよ…?」
「…呂律、回らなくなり始めてる…。」
宏治が、冷や汗を流して呟いた。間も無く由香子が、…酔い潰れた。
カウンターに突っ伏す由香子の背へ、和泉が自分の上着を掛けた。
それから、宏治、倉真、和泉が顔を合わせ、準一を睨み付ける。
「お前、瀬川さんに知れたら、どーなるか判らネーぞ…?」
「…鉄拳制裁?」
「その可能性、高いな。」
四人の初対面の日、ライブをメチャクチャにして、張り倒された時の事を思い出す。全員の額から、冷や汗が伝う…。
「…シャーネーな…。気付かなかった俺達にも、責任はあるからな…。」
倉真の言葉に、準一が反応する。反応をチラリと見て、倉真が言った。
「一緒に、詫び入れてヤるよ。」
呆れ、諦めたような顔で、溜息をついた。和泉が言う。
「悪いな。」
「ナンで、お前が詫びンだ?」
「コイツの悪戯は、俺の監督不行き届きだ。」
呆れて空を仰ぐ。その様子に、倉真が笑った。
「手の掛かる弟分持つと、苦労すンな。」
「全くだ。」
準一は、嬉しそうだ。宏治も、以前はライバルだった二人の関係の変化に、微笑ましい気分になる。軽く気を引き締め直して言った。
「シャー無い、覚悟しとくか?」
「皆、大好きだぁ!!」
準一が、ふざけて言って万歳をした。和泉と倉真に、同時に小突かれた。
「イテ!ダブルでくるかぁ?普通。」
頭を摩り、少し剥れた準一を見て、宏治が笑った。
二時を少し回った頃、バッカスへ戻った利知未と美由紀を待っていたのは、とんでもない情景だった。…由香子が、酔い潰れている…。
「…お前等…、酒飲ますなって、言っておいたよな!?」
迫力の睨みを効かされ、全員で謝った。準一の仕業だ。それでも一緒に詫びを入れたその姿に、利知未の鉄拳は止まった。
宏治は美由紀に、頭を叩かれていた。…ここは、仕方が無い。
すっかり由香子のことを気に入った仲間達は、その一途な思いに少しだけ協力した。何よりも、準一が協力的だった。
利知未にゲームを申し込み、由香子と利知未の一日デートを賭けた。
準一が、カードゲームが得意な事は、和泉以外は誰も知らなかった。
…実は、イカサマだった。…が、それは誰の目にも気付かれない。
守備良く、利知未にデートを了承させ、由香子を代わる代わる背負い、下宿まで送って行ったのは、深夜三時を回った頃だった。
倉真は、その日、宏治の部屋へ泊まっていった。明日は祝日で、仕事も休みだ。綾子の怒りは、どうせ治まっている筈が無い。
翌日、酷い二日酔いで寝込んだ由香子の客間へ、いつかマスターから教わった漢方薬を持って、利知未が尋ねた。
賭けは賭けだ。素直に由香子を、映画へと誘う。
十三日・日曜、由香子は望み通り、憧れの瀬川さんとデートが出来る運びとなった。嬉しさに、想像の世界でダンスを踊る。そのまま、夢の中で、お姫様の自分と、王子様の瀬川が、踊っていた…。
翌日、土曜日。双子が帰宅するのを待ち、ショッピングへ出掛けた。瀬川に贈る、チョコレートを買ってきた。
由香子は、デートの前日、物凄くワクワクして、良く眠れなかった。
八
その朝。友人に託けられたと言う、店子達からのチョコレート攻撃に、利知未は辟易していた。
「あたしは女だぞ?何でンなモン、預かってくるんだ?」
朝食の席で、利知未がぼやく。由香子は、借りている客間で、今日の洋服選びに熱中していた。双子は、由香子に付き合わされている。
「だったら、もう少し、女らしくしていればイイじゃない?」
里真の言葉に、里沙も頷く。美加が言う。
「エー?でもね、りっちゃんが女の人だって、知っていても好きだって言うお友達も、いるよ?美加も、りっちゃん好きだし。」
「美加の好きと、チョコレートを預けた子の好きは、チョット違う見たいよ?ファンだって言う子が、多い見たいだし。」
「…って、ナンで別の学校のやつが、あたしを知ってるんだよ?」
「…写真が、出回っていたりして…。」
里真と美加の会話を、黙って聞いていた冴史が、ボソリと言った。
「あ、え?う、ワ、ワーーーッ!!今日の朝ご飯、本当に美味しい!!美加ったら、いつの間に、こんなに料理、上手になったのぉ!?」
里真が、ワザとらしく大声を出す。利知未は、ピンと来る。
「…里真、お前…。」
「え?なーに?利知未も美味しいと思うの?ソーだよねー!美加ってば、本当に上手になったぁ!!」
今朝、里沙がしている朝食の準備を、美加が手伝っていた。大した事はしていない。レタスを契り、サラダを皿に盛っただけだった。
美加はキョトンと、小首を傾げる。
冴史が言った、写真が出回っている件は、去年秋、文化祭からの事だ。
里真の写真部の文化発表展示作品は、実は利知未の隠し撮りだった。
パネルを見て、利知未を気に入ったと言う女生徒達が、即売場所へ群れ、十枚しか用意しなかった利知未のスナップサイズ写真は、ほんの数分で売り切れた。慌てて焼き増した。
お蔭で里真は、随分と稼がせて貰っていた。勿論、利知未は知らない。
「まぁ、イイ。受験が終ったら、キッチリ片、着けさせて貰おう…。」
利知未が恐ろしげに、ニヤリと笑って見せた。
冴史は、今日は朝から利知未を良く観察している。由香子とのデートへ向かうその態度や、店子達の前と、由香子の前の利知未の態度の違い等、観察して楽しんでいる。
インスピレーションが浮かんできて、面白い作品が書けそうだ。
何時も以上に良く観察され、利知未は何となく変な気分だ。少し苛々もしてきそうである。
予定よりも早めに仕度を済ませ、由香子の客間をノックした。
九時半を回る頃、瀬川と由香子の、一日デートが始まる。
その後ろから、付けて来る影が三つ。いや、四つ…足し算で七つ。
早速、樹絵の尾行は、利知未にバレてしまった。
原因は、始めて会った、派手な頭の少年・倉真。
特に女に手が早いと言う訳ではないが、一番、女に慣れてはいる。
同じ目的を持っているらしい三人の少女、中でも、何となく利知未の雰囲気と似たモノを持っていた、樹絵の肩へ。軽く手をかけ声を掛けた。
驚いて、前につんのめった樹絵の姿が、物影からはみ出した瞬間を、利知未は目の端に見止めていた。由香子は、全く気付かない。
樹絵、秋絵、里真は、この日始めて、宏治、倉真、和泉、準一と顔を合わせた。かなり、びっくりした。
オールバック風、真っ赤なモヒカン、脱色し過ぎ頭、剃髪。髪形だけ見ても、その辺にいる、或いは学校の同級生の少年達とは、種類が違う。
双子は宏治が三年の時に、城西中学へ通った訳だが、応援団との面識は、全く無かった。見覚えている筈がない。城西へ通っていたのは、四、五ヶ月だけだ。アダムでも、顔を合わせるチャンスは無かった。
つんのめった後、振り向いて、モヒカン頭を睨み付けた。
「睨まないでくれよ?…瀬川さんにソックリだな。」
樹絵の目も釣り目だ。雰囲気も似ている。呟いた後半に、反応する。
「利知未の、知り合いなのか?」
それだったら、何となく納得だ。樹絵・秋絵が入居した頃、利知未はまだライブ活動を続けていた。どんな音楽をやっていたかは知らないが、モヒカン頭、イコール、パンクロックかへビィメタルの連想は容易い。
「君達は?瀬川さんの知り合い?それとも、由香子ちゃん?」
今度は本当にびっくりだ。脱色頭が、何故、由香子を知っている…?
「驚かせてごめんな。おれ達、瀬川さんに恩を受けてる、飲み仲間…、で、イイのか?」
「ま、そんな所だろ?」
オールバック風の少年が、剃髪の少年に振り、剃髪の少年が肯定する。
現状が把握し切れないまま、脱色頭に声を掛けられ、先に進んで行ってしまう利知未達を、慌てて追いかけた。
利知未は、後ろの集団に、とっくに気付いていた。どうせ来ると思っていた。思惑通りのヤツ等の行動に、少しワクワクし始める。
『面白れー…、からかってやろう。』
楽し嬉しげな瀬川を、由香子も嬉しい思いで、見つめてしまう。
由香子は、さっきから、ずっと話し続けている。自分と過ごしている時間を楽しんでくれていると、勝手に思い込む。幸せな気分になる。
その思いで、始めて会った時より、また更に明るい由香子の雰囲気は、可愛く見えない事もない。
由美も、セガワと一緒にハンバーガーを齧っている時や、ライブからの帰り道、いつも明るく楽しげだった事を思い出す。少し、胸が痛む。
「…どうしたんですか?」
「ン?何が?」
「瀬川さん、ナンか、哀しそう…。」
由香子まで、哀しそうな顔になる。利知未は、セガワチックな表情で、小さく笑顔を作った。
「…ナンでもネーよ。…この道、判るか?」
「ここですか…?え、と…。あ、あの喫茶店の近くの道ですか?」
ホテル街が直ぐ近くに見えた。一本外れたくらいだ。
「まだ時間もあるし、チョイ、遠回りするか。」
「はい。」
由香子が、ニコリと笑顔になった。
始めてアダム・マスターと出会った、河原を目指して、歩き出す。
駅へ向かうには、遠回りだ。里真達は何故、そちらへ二人が向かうのか計りかねている。住宅街の中、一般家屋の影から影へ、忍者のように移動して行く。ここでは、倉真達の頭は良く目立った。近くの住人が、七人の少年少女集団を、目を丸くして見ている。準一はへらへらと愛敬笑いを振り撒きながら、前の二人を追いかけ続ける。
ここまでで、一応の自己紹介はした。由香子が利知未に連れられて、宏治の母親の店に来た時のことも、少しだけ聞いた。
里真達は、由香子の行動に益々、驚いた。
利知未は、後ろの集団も上手くコントロールしながら、電車を使って、映画館の前までやって来た。そろそろ、からかいに行ってやろうと思う。
「悪いな。先、入って珈琲、買っておいてくれないか?」
由香子に、珈琲代とチケットを渡し、頷いて館内へ向かう後姿を確認してから、踵を返して、ヤツ等の元へ向かった。
いきなり現れた利知未に、双子と里真は、目を丸くして怒り出す。
少年達は、既に尾行がバレているらしい事に、気付いていた。
利知未とのやり取りを聞いて、やっとそれに気付いた樹絵が口惜しそうな顔をした。里真も、度肝を抜かれ、秋絵は半分、諦めた。
尾行もここまでかと思った。だが、利知未が勝手にしろと言ったので、今度は、由香子に見つかるまでは、追いかけ続ける、と、決めた。
利知未も、この状況を、思い切り楽しんでいる。からかって満足して、由香子が待つ映画館へ、戻って行った。
樹絵は、すっかり宏治達と打ち解けていた。まるで、以前からの知り合いの様だ。その順応の早さを、里真は少し、呆れて眺めていた。
宏治は、里真が可愛いと思った。何処が?何故か?それは、外見からが殆どではある。準一は、可愛い子だらけの三人が一緒で、少し嬉しい。
ノリは、樹絵と良く合った。すっかり、漫才コンビのようだ。
和泉は、由香子を心配そうに眺める。妹・真澄と重ね見る。
秋絵が用意して来たチケット二枚の内の一枚を、ジャンケン争奪戦で奪い合った。一枚は勿論、秋絵が貰う。用意したのは自分だ。もう一枚を少年達へ譲る事にした。ジャンケンとなると、やはり宏治が強かった。
五人を映画館と同じビル内にある、喫茶店へ置いていく。
秋絵と宏治は、映画中の利知未達を観察した。利知未は、途中から舟を漕いでいた。上映が終り、映画館を出て、再び尾行を開始した。
二人は何故か、駅ビルのデパートへと向かって行った。由香子が買い物をしたいと、言い出したからだ。
映画館へ向かう電車に乗る前から、用意のキャップで、派手な頭を隠していた倉真と、樹絵に言われ、途中で買ったキャップを後ろ前に被った準一が、利知未のスマートなエスコート振りを見て、研究している。
「ソーか、女へのプレゼントは、アーやって買えばイインだな…。」
由香子へ餞別と言って、フォトフレームを買ってあげていた姿を良く観察した。準一は、女の子にモテる為の、テクニックを探っている。
倉真の呟きを、宏治が冷やかした。開き直って、彼女がいる事を自慢した倉真を、和泉が軽く小突いた。
買い物を終え、屋上のレストランへ向かった二人を、追いかけて行く。
屋上で、ついに由香子に、見つかってしまった…。
屋上にあるレストランの、窓際の席から、つい身体を乗り出して観察していた準一の姿を、由香子が見付けた。全員、観念して出て来た。
由香子は、皆が店へ入ってくる前に、瀬川に一日早い、バレンタインチョコを渡した。…瀬川は、ニコリと微笑んで、受け取ってくれた。
それからが、大騒ぎだった。九人になった集団は、商店街を練り歩き、由香子の希望で、ボーリング場へ行き、3チームに分かれ、夕飯を賭けたゲームをやった。由香子は、思い切り楽しんでいた。
焼き肉屋で、夕飯が始まった頃には、すっかり仲良しグループになっていた。一緒に過ごす時間が、楽しければ楽しいほど、由香子の心には、寂しさも生まれてきた。
明日には実家へ帰り、来月には、日本からも離れる事になる。仲良くなれた皆と、大好きになってしまった瀬川とも、直ぐにサヨナラだ。
その思いは、下宿に戻って、夜。
瀬川の部屋へ話しをしに行った時。…ついに、涙となって溢れ出す。
利知未は、由香子と半日。大集団となった仲間と一日、騒いだ事で、改めて、昔の後悔を思い出した。
同時に、由香子への、贖罪の思いも生まれてくる。
気分を変えようと、買ってきた旅行雑誌を開いて見る。
暫くするとノックの音がし、由香子が部屋へやって来た。
利知未は気を取り直す。改めて、男らしく振舞う。
『…セガワで、ライブやっていた時、見テーだな…。』
心の中の呟きまで、あの頃に戻ったみたいだ。自分に呆れる。
利知未は、由香子と。「瀬川利明」と言う名前の、別の人物として向かい合った。…由香子の、王子様だ。…心が苦しくなる。
由香子は家出の原因から、今までの事を、話し出した。
長い話しが終った頃、既に日付は変わっていた。
今現在の、瀬川に対する想いと、自分の行動への後悔を語り始めた頃、由香子の目から、涙が溢れ出した…。
「…私、どうして…。こんなに好きになった人と、直ぐにサヨナラしなくちゃならないんでしょう…?我が侭の、天罰でしょうか…?」
そう言って、溢れる涙を拭い切れない由香子の頭を、利知未はその肩へ預かった。服が、由香子の涙で濡れて行く。
『…また、あたしが追い詰めたのか…。…どうして、いつも、いつも…!』
由美の顔が浮かぶ。倉真の事を思い出す。セガワの正体を知ってしまった倉真が…、あの時の会話が、思い出される。
あの翌日、敬太の胸に涙を預けた、自分自身を、思い出す。
『…あたしには、辛いウソでも、貫き通す、義務がある…。』
心を決めて、由香子の想いを、受け止めた。
…どうしたって、返す事など、出来はしないけれど…。
男女の想いは、会話と同じで、キャッチボールだ。受け止め、投げ返し、受け止められ、また投げ返されて、受け止める。
それを繰り返して、漸く理想的な恋人となれる。
…敬太と、恋人同士として付き合っていた頃は、いつも、受け止めてもらってばかりだった。
それでも、その関係は、利知未にとっての救いだった。
敬太の球は、いつも優しくて、ふんわりと放物線を描いて、利知未の心へ吸い込まれた。自分の投げる球は、いつも豪速球だ。
けれど、敬太のキャッチャーミットは、丈夫で、大きくて。その球を零すこと無く、受け止めてくれた。
『あの、大きなキャッチャーミットを、今だけ、貸して貰おう。』
由香子の涙が収まった頃、既に、一時を回っていた。
「…明日、帰るんだよな。…見送るよ。」
約束を交わし、頷き、礼を言う由香子の背中を優しく押し、部屋からそっと送り出した。
翌日、羽田空港まで、由香子を送って行った。双子と里真も一緒だ。
由香子は、もう一度、涙を流してしまった。かなり頑張っていたけれど、どうしようもなかった。
瀬川が再び、肩を貸してくれ、涙を受け止めてくれた。最後には笑顔で、挨拶を交わす事が、出来たのだった。
九
由香子を、羽田空港で見送った帰り道。双子が、使い捨てカメラを、大量に仕入れていた。何故、今更、カメラが必要になるのか…?里真と利知未は顔を見合わせて、首を傾げた。
この、カメラの謎は、帰宅して、直ぐに解けた。双子が、由香子に皆の写真を、上げたいと、言い出したからだ。
それなら、と、里真が部活動で使用している、一眼レフ・カメラを、貸してやる事にした。意外と、ご近所さんだった事が発覚した、宏治、準一、和泉は、写真を撮りに来た里真達と、何度か遊びに出掛けた。
そして宏治には始めて、気になる女の子が、出現した。里真だった。
下宿三人娘と、利知未の愉快な仲間達?は、写真撮影を機にして、顔を合わせる機会が増えた。宏治が、里真を気にし始めたのは、そうして会う機会が、増え始めた事に由来する。
…とは言え、まだ、気になる相手、程度だ。
倉真は、利知未の行動に勉強し、翌日のバイト後、綾子を連れて買い物へ出掛けた。夕飯も外食にして、何気なくプレゼントを買った。
綾子は、やっと怒りを納めてくれた。
けれど、この二人には、また直ぐに、喧嘩が勃発してしまう。どうやら、この恋人同士は、衝突しあう事で、近付いて行く関係らしい。
利知未は、風邪で寝込んでしまっていた間の遅れを、取り戻すため、勉強に専念した。二月末の試験日まで、猛勉強だ。
アダムや、バッカスへ顔を出す事も、中々、出来なかった。
息抜きには、高台の公園まで、バイクを走らせた。
敬太への想いは、どうやら、漸く浄化した感じだ。
テレビ画面に時々、映る、その姿を、取り乱さないで見つめる事が、出来る様になって来た。受験勉強に忙しくて、テレビを、のんびり眺めている時間が、余り無いのも、事実だ。
二十八、二十九日の、一校目の本試験は、上々の出来で終らせた。
「取り敢えず、後二つ落としても、行く大学には、困らなそうだ。」
「アタシが協力してンだから、当然だね。」
「お前、何処が、第一志望なんだ?」
「アンタが行くトコへ、ついてく。」
「…そんなンで決めて、イイのかよ?」
「構わないっしょ?どこから行っても、最終的には、研究医。」
「学校によって、何の研究に力入れてるか、違うんじゃないのか?」
「ソーかもね。でもイイの。特に何が研究したいって訳じゃなし。その分、視野が広いから、どんな研究がしたくなるか、解らないし。」
「…コレから、見付けるって事か?」
「って言うか、コレから見つかるかも?」
この段階に来て、こんな事を軽く言い放つ透子に、呆れながらも笑ってしまう。余りにも、考えなさ過ぎる。自分と張るかもしれない。
「…お前らしい…。」
「ご理解戴けて、光栄ですワ。」
透子は、ヘラヘラっと、笑っていた。
翌日は卒業式だった。高校生活は、学校でのイベントに纏わる思い出よりも、私生活の方が忙しかった。唯一、透子という親友と出会えた事だけは、感謝した。透子とは、まだ六年は付き合う事になりそうだ。
忙しかった私生活の思い出は、バンド活動、敬太との関係と、別れ。
アダムでの時間は、マスターとの約束。…五年間と言う、時の流れ。
倉真の大事件。その友人、克己との出会い。和泉の妹・真澄の死と、和泉の変化。兄・優の結婚と、姪っ子の誕生。翠の婚約、アキの結婚。準一の高校入学と、退学。バイク仲間の増加。 …最後に、由香子。
ここまでの間に、由香子から、連絡があった。
渡米する日時が、決まったと言う。電話を受けたのは、里沙だった。
里沙は、今回の由香子の長い家出の件で、マメにその実家へ連絡を入れていた。由香子滞在中は、毎晩、連絡をしていたくらいだ。
お蔭様で、大きな問題にならずに済んだ部分も、かなりある。
実家へ戻った由香子は、その事実を知り、電話口で里沙へ、丁寧に礼を述べた。それから、渡米する日は、三月二十六日の日曜日だと伝え、その前日から、再び一泊だけ、この下宿へお邪魔する話しが纏まった。
里沙から、報告を受け、双子と里真は喜んだ。美加も何故か喜んだ。美加は、由香子のお喋りが、楽しかった。冴史も少し、楽しみだ。
また、利知未を、じっくりと観察してやろうと思った。
利知未は一人、冷や汗を流す気分だ…。
『また、一晩「瀬川」か…。』
諦めて、溜息をついた。
今度は日曜で、宏治達も見送り可能だ。連絡があったのは、由香子帰宅後、三日目の事で、その二日後の土曜日、賭けボーリングで、宏治に借金をしていた樹絵が、返済をしに出掛けたついで、宏治達にも伝えた。
利知未と透子は、三月六、七日に、二校目を受け、その直ぐ翌日は、三校目の試験だ。その、どちらも、恙なく、終らせてきた。
大学受験を全て終らせた利知未は、発表も待たずに、一週間の普通車免許合宿へ参加した。その先で、また新しい友人も出来た。中々楽しい一週間だった。合宿へ出掛ける前日、里真に命令し、自分の合格発表を見に行かせる事にした。勝手に写真を展示した件の、報復である。
ついでに、試験終了の翌日から、アダムでのバイトも再開していた。
免許合宿から戻ってからでも良かったが、その期日まで5日間、余裕があったからだ。ここまでの半年で、利知未の貯金は減る一方だった。
大学入学までに、少しでも稼いでおきたい所だ。
合宿前夜、珈琲を飲みながら、リビングで話しをした。
「ま、どっちも、大丈夫だとは思うけどな。」
「もう、一校は合格してるしね。お疲れ様でした。」
「何処の大学、行くつもりナンだ?」
「…そうだな。それぞれ、イイ所も悪い所もあるしな…。あみだ籤でも引いて見るか?」
呑気な様子だった。透子の影響も、少しはある。
念の為、大学への代理依頼確認書を出し、受かっていたら、入学書類を、ついでに貰ってきてくれ、と言った。
面倒臭いが、文化祭の件を、チャラにして貰う為、素直に引き受けた。
時期的にも、免許合宿へ参加していたのは、学生が多かった。
お互いが歳も近い事で、全体的にフレンドリーな雰囲気が流れていた。利知未の様に、バイクの免許は持っている、と言う受講生は、三名いた。全・二十四名中の三人だから、割合的には、あまり多くない。
利知未が、限定解除まで持っている事を知り、一人はしきりに羨ましがった。自分は、失敗してしまったと言っていた。
バイク繋がりで仲良くなった三人は、良く夜中に合宿所を抜け出し、酒を飲みに行った。大体、翌日の講習は大欠伸だ。教官にも、すっかり目を付けられてしまった。
そういう事で、三人の教習評価は中々、厳しく見られてしまい、少しでも制限速度を越せば、直ぐに減点を貰ってしまう。
お蔭様で、少々、荒っぽい運転技術を体得してしまっていた利知未は、すっかり安全運転を身に着ける事が出来た。
三人とも、合宿最終日、確り普通車免許を取得する事が出来た。
連絡先を教え合い、その内、一緒にツーリングへ行こうと約束を交わし、それぞれの自宅へと戻って行った。
合宿から戻り、三校の入学願書書類を前にして、透子と話し合った。
お互いの意見が一致し、入学を決めた大学へ書類を提出しに行ったのが二十三日・木曜日の事だ。アダムの定休日だ。その夜、バッカスへ顔を出し、美由紀に報告をした。
美由紀は、合格祝いを用意してくれていた。
女らしいデザインの、腕時計を貰った。利知未が普段使っていたのは、裕一の、形見の腕時計だ。大事にしていた。
「普段は、その時計でも良いけど。TPOで、使い分けてね?」
こちらの時計じゃ無いと、バランスが取れ無い様な服装も、偶にはしなさい、と、裏メッセージが込められている。…可愛い娘への、母心だ。
利知未は、有難く受取った。それでも、余り使う事は無さそうだな、とも思った。…その為には、女らしい洋服も、用意しなければならない。
春休み一杯のバイトは、日・月・火・水が、十一時入り十九時上り、金・土・の二日は、十八時入り閉店まで、と言うシフトだった。
大学が始まれば、基本が平日の夜となり、妹尾と、同じ時間のバイト仲間となる。半年振りにバイト先で会った妹尾は、相変わらず元気だった。カクテルメニューは、利知未の先輩と言う事になる。
すっかり、夜のカウンターも、手伝えるようになっていた。
「まさか、妹尾に教えてもらう日が来るとは、思わなかった…。」
「相変わらず、可愛くない事、言うよな。…らしいけど。」
「ヨロシクな、先輩。」
「任せろ!」
と言う事で、二人並んでカウンターへ入る事も、シバシバだ。
利知未と妹尾が入る日は、夜専門のバイトが休みの日が基本だ。
その日は、バーのカウンターが、まるで寄席のようになる。
利知未は、基本的にカウンターへ入る。見習として、カクテルを少し覚えた。マスターの計画は、妹尾と利知未を変わり番で、フロアへ出したり、カウンターへ入れたり出来る様にする事だ。
二十五日。由香子が再び、下宿へやって来た。
十日間も滞在していた筈の由香子と、もう一人の受験生・玲子は、驚く事に、この日の夕食時間で初対面だ。
いつも通り、利知未を名前で呼んで表現しかけた玲子を、樹絵、秋絵、里真の三人で、何とか誤魔化した。今更、正体を知らせる気は無い。
それについては、利知未も同じ意見だ。後、少しの事だ。
…由美への贖罪の、最後の仕上げが、これかもしれない…。
そう、利知未は思っていた。
忙しい毎日に、どうしても、忘れがちだった過去の過ちを、由香子の出現で思い出した。あの罪は、一生、消えないと感じている。
翌日、由香子を送って、空港へ向かった。
宏治達と、駅前で待ち合わせた。倉真は昨夜も、宏治の家へ泊まった。綾子と、再び喧嘩が、勃発していた。
利知未は呆れた。良く喧嘩をする二人だ、と、変な感心もした。
…倉真が、マダマダ、ガキなのかもしれない…。
九人揃った仲間達は、またまた、空港まで大騒ぎだ。
タダでさえ目立つ集団の上、モヒカンとボーズ頭は、この時点でまた背が伸びていた。二人揃って、一八〇の大代に乗ってしまったらしい。
目立つ頭が二つ、人垣の上から、覗いている形になる。益々、目立つ。
それならそれで、大人しくしていれば良いのに、いつも通りの騒ぎを繰り返す。小さな子供が、泣いてしまう。
利知未達は、四人と少し距離を置く様にして、電車に乗った。遠目で騒ぎを見ている分には、面白い。
由香子は、その騒ぎを思いきり楽しんだ。直ぐに一人、この仲間達とサヨナラする寂しさを、騒ぎの中に紛らせた。
空港で、両親との待ち合わせ場所へ向かう前に、由香子は瀬川と二人きりになる。…自分の心に、蹴りを着けなければならない…。
二人きりになり、改めて自分の想いを告白した。
瀬川として、その想いを受け止めた。そして、由美を思い出す。
サヨナラを告げた、その由香子の行動は…。
始めて少女からの想いを、行動で伝えられた、あの日と同じだった。
…コレが、利知未の、もう一つの姿、「セガワ」の、完結となる…。
再び歩き出し、由香子の両親と対面した。
仲間達が、由香子と一人一人挨拶を交わしている。由香子の両親は、驚いていた。幼馴染みの双子だけで無く、娘が世話になった下宿の大家さんと店子の里真。更に、四人の少年達と、一人の青年?全・九人もの
見送りだ。たった二週間、娘と離れていた間に、出来た友人達らしい。
「由香子ってば、ホンの二週間で、すっかり人気者になっちゃったんだ。
だから、オバサン。向こうで、由香子に友達が出来ないんじゃないか、何て、心配しなくてもイーよ。」
樹絵の言葉に、由香子の母親は、薄く涙を流した。
仲間と笑顔でサヨナラをし、由香子は両親と共に、渡米して行った。
まだ、少し残っている、春休みの間。
利知未は、今回の倉真と綾子の、喧嘩の理由を聞いた。
倉真が久し振りに、利知未のバイト終了時間前に、アダムへ現れた。
「どうしたンだよ。ナンか、相談事か?」
「相談…、なのか…?」
自問するような倉真の言葉に、軽く笑ってしまう。
「自分の事も解らないのか?…重症だな。イイぜ、飯でも食って帰ろう。もうチョイ、待ってくれ。後二十分もしたら上がれる。」
ニコリと笑顔を見せる。倉真はカウンターで、珈琲を飲みながら待った。
偶には、酒を飲みながらの夕食も良いだろうと、二人は、アルコールメニューも豊富な、居酒屋、兼、食事所のような構えの店へ入った。
始めの内は、綾子との核心には、全く触れなかった。
酒が進んで来て、漸く話し始める。
「…っツーか、女って、ナンで直ぐ、ヒステリー起こすンすかね…?」
「一応、あたしも女だって、判ってて言ってるのか?」
やや軽い口調で、突っ込んで見る。
「ソー言う事じゃ…、」
少し慌てた倉真が面白い。真面目に答えてやる事にした。
「冗談だ。…そうだな。愛すればこそって、事じゃネーのか?…なんで綾子ちゃんを怒らせたかは知らないが、好きな相手だからこそ許せない、って事もある。…お前にだって、アルだろ?」
じっと、何か考え始める。やがて言った。
「…何が切掛けって事じゃ、ねーンすけどね…。」
「小さな事が、重なったってところか。」
「俺が遊び歩いてンのが、許せネーのかな。」
最近、倉真の趣味が、一つ増えていた。バイクに、小さな簡易テントを積んで、気侭に走らせる。一人で出掛ける訳だ。
それ程、度々、出掛けている訳でもない。ここ二ヶ月で、二、三回。その日は、バッカスにも来なかった。その内、日本縦断をして見たいと思っている。その為に、今は訓練中と言う所だ。
「彼女より、バイクが大事ってか?」
「綾子にも同じ事、言われたっス…。」
つい、吹き出してしまった。
「そりゃ、当たり前だ!もしかして、二人で出掛ける日もつい、一人でバイク走らせた、なんてこと、してンじゃないのか?」
図星だった。…やっぱ、アレが原因か…?と、改めて思う。
「…ツッても、始めにその事で喧嘩になった分は、治まってンスよ?」
笑いを堪えて、真面目な顔を作った。
「我慢して収めてくれただけだろ?…それなら、恨みが残っていたって、ショーがネーだろ。…暫くして、また同じ事繰り返されたら、あたしだって許せないと思うぞ?」
「瀬川さんが相手なら、一発大爆発起こして、収まってくれそーだな。」
「その代わり、一週間は消えない痣が、身体中に残るだろーな。」
「…それはそれで、恐ろしいな…。」
クスクスと笑いながら言う利知未を見て、倉真はもしも、この人と喧嘩をした場合の、自分の姿を想像して、冷や汗を流した。
倉真は一端、その趣味を、止めてみる事にした。
変わらない平穏な日々を過ごしながら、利知未のヤンチャ仲間達は、静かに、その心の形を変えて行く。
和泉は、由香子の事を良く思い出した。気持ちが不思議と暖かくなる。
利知未に一生懸命だった姿は、FOXのテープを聞き、セガワを知った後の、真澄の、憧れていた様子を思い起こさせた。明るい笑顔を見せていた真澄を、兄として、セガワの正体を知っている者として、少し困りながらも、嬉しい気分で眺めていた。
あの時の、自分自身を思い出す。
宏治は、何度か里真達と会う内に、その屈託無い可愛い笑顔に、徐々に惹かれて行った。少しチャッカリした感じも、偶に、失敗して照れる様子も、可愛いと思う。身近な人の為に頑張る姿にも、好感を持てた。
少し、お人好し過ぎるきらいもある。時々、心配になる事もある。
樹絵と準一は、すっかり仲良くなっていた。仲間で遊びに出掛けても、二人の周りは、いつも賑やかだ。準一は、樹絵を気に入った。このコといると、楽しいと思う。真澄と和泉と、三人で遊んでいた頃みたいだ。
そして春休みが終る。 …利知未の、新しい学生生活が始まる。
エピローグ
『随分、色々な事が、あったもんだ。』
仕事の手が、止まってしまう。休憩時間に、何時も通りに仕事仲間から突っ込まれ、あの頃の事を、思い出してしまった。
「館川!何ぼけッとしてる?!」
社長の声が響く。我に返り、慌てて倉真は、返事をする。
「すんません!」
「カミさんの事でも、考えていたんじゃないのか?」
同い年で、先輩の保坂に、再び突っ込まれてしまう。
「うるせー。」
先輩とは言え年は同じだ。仕事を離れれば、仲の良い友人に言い返す。
「さっさと片付けて、早く帰るか?」
作業の手を止めずに、保坂が、からかい半分、笑いながら言った。
あの頃から、もう十一年の時が、流れている。
当時の恋人とは、あれから約一年後に、別れてしまった。
『綾子には、悪い事をしたな。』
ふと、そんな事を思う。
今頃は良い相手と知り合って、結婚でもしていてくれれば、この罪悪感も、少しは楽になってくれるのだろう。
夕方、何時もよりも早くに、仕事が片付いた。
倉真は、利知未の待つ住処へと、真っ直ぐに帰宅する。
『今夜はアイツ、定時で帰ってる筈だ。』
今では、すっかり落ち着いた、妻・利知未の顔を思い出す。
利知未と、倉真の関係が、少しずつ変化を始めるのは、あの頃より、もう暫らく後のことだ。
それまでには、まだ、幾つもの恋愛物語が、待っていた。
自分達の他にも、あの仲間達の間を吹き抜けていった、様々な出来事。
下宿の様子も、変わっていった。
倉真と父親の関係も、あの頃よりも、随分マトモな形になった。
それらのお語は、まだまだ、この先に続いている。
『早く帰って、利知未の飯が食いたいぜ。』
今は、利知未のバイクを借りて、通勤している。倉真の車は、身重の利知未が使っている。
『コイツも、そろそろ寿命かも知れネーな。』
二人で、何度もツーリングへ出掛けた、思い出深いバイクの片割れだ。
出来れば、上手に整備をして、後何年も、自分達の行く先を、見守っていてもらいたいと、心から願う。
少し、草臥れ始めてしまったエンジン音を聞いて、次の休日は、一日掛けて、じっくりと整備をしてやろうと思った。
幸せの種 2
大地を捉えて 了
高校編、『大地を捉えて』 ここまでの長いお付き合い、本当にありがとうございます。 心より、感謝、感謝でございます <(__)>
この話は、大学編、インターン編までが本編の区切りと成っております。 出来れば、本編までは確実に、このサイトを借りてお届けできたらと、考えております。
もしも、お付き合いくださいますなら、12月7日(金曜日)22時ごろ。 再び此方の扉を開いていただけましたら、幸いです。
キーワードに、『利知未シリーズ』と、入れておきます。
次回、大学編のタイトルは、『芽吹きの頃』 の予定です。
恐らく来年の春までには、インターン編まで完結させられると思います。 今後ともどうぞ、よろしくお願いし致します。