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四章  ロカビリー       

利知未と倉真の結婚までの長い長いお話し高校編・四章です。作品は、90年代の前半ごろが時代背景となっております。

 敬太との別れを越え、倉真が絡んだ大事件も何とか収まり、克己(かつみ)と言う新しい友人も増えた。利知未達の周囲は漸く落ち着いたかのように思えた。ところが、生まれた頃から心臓に障害を持っていた和泉の妹・真澄は、8月の末に、ついと…。

 大切な妹の死から、全てにおいて気力を失い、その心が壊れ始めた和泉。身近な、大切な人の死を経験してきた利知未は、今、和泉のために何をしてやれるのか…?

この作品は、未成年の喫煙・ヤンチャ行動等を、推奨するものではありません。ご理解の上、お楽しみください。

   四章  ロカビリー       


         一


 倉真は、暇な時間を過ごしている。ごろりとベッドへ転がったまま、火の着いたタバコを加えている。…新学期は、始まったばかりだ。

『あー、イライラすンな…!』

イライラの原因は、和泉だ。

 真澄が、十五歳の誕生日を迎える前に、その短い生涯を終え、逝ってしまった、あの日頃から…。

 漸く、打ち解けた気分になった仲間が一人、その深い悲しみと、やり様の無い怒りから、すっかり、人が違えてしまった。

 和泉の思いを、倉真は、知らず知らずの内に、その心へ受けてしまっている。苛立ちが呼び水となり、自然と、喧嘩騒ぎが多くなる。二学期開始と同時に、敵対している先輩集団と、またまた、校内大乱闘だ。

 またも、警察のご厄介となる。

 めでたく?入学から、三度目の停学処分、自宅謹慎を、言い渡された。


『…にしても、黒木のおっさん…。』

 厳つい、カニの様な四角い顔が、呆れきった表情で、脳裏に浮かぶ。

 四月の大乱闘でも、世話になった黒木刑事は、乱闘の中心で大暴れしている倉真を取り押さえ、パトカーの中で、倉真に言った。

「館川!また、お前か!?…保護処分取り消しになった途端に、また何やってんだ?!…呆れたヤツだな。」

『すっかり、顔見知りだぜ。』

 しかし、四月の乱闘も、今回の乱闘も、仕掛けて来たのは先輩集団の方だ。その度に、多勢に無勢。倉真一人に、十人近い仲間と襲い掛かる。

「…正当防衛も、そう何度も、効かないぞ?改めて、鑑別所に入り直す事にならない様に、お前も、もう少し大人しくしていろ。」

 黒木がそう言い、今回も、厳重注意で見逃してくれた。


 黒木は、倉真が完全に更正の余地が無い、非行少年とは思っていない。

 三回、顔を合わせた内の大事件。例の暴走グループが関った事件で、倉真が罪を被る事になった理由は、自分よりも、弱い者と友人の為だ。

 他人を庇って、守ろうとして、罠に嵌められたヤツだ。

『更正し難い非行少年は、他人の為に、自分を犠牲にする事も無ければ、自分より弱い者を守ろうと言う気概も、持合わせていないもんだ。』

 そう判断している。それで、倉真を見る目も大きい。


『家にいたって、シャーネーな。…克己のトコにでも、行くかぁ?!』

ベッドから起き上がり、あの事件後、真面目に働き始めた克己の職場に向かった。克己は今、その親戚が自営している定食屋を、手伝っている。

 今なら、暇な時間の筈だった。まだ午前十時前である。



 利知未は、昨日の小テスト結果を受け取り、頬杖をついている。

『…勉強に力、入らネーな…。』

それでも、以前に比べれば、雲泥の差である。五教科全体の合計点数は、487/500。以前に比べて、その差、三十点。

 夏休み前から既に、クラス五位以内の常連だ。透子は、利知未に付き合う様に、少し真面目に勉強を始めている。今や、クラストップの顔だ。

『つまんないなぁ…。どれも、簡単な問題ばっか。』

 真面目にヤルの、止めようかな?等と、不謹慎な事を考える。

 今日も、昼休み。二人で、弁当を広げる。

「さってと!今日は恒例の、弁当交換デー♪」

透子が、嬉しそうに利知未・自作弁当の、蓋を開く。

「…!また、美味そー!!うんうん、ポーチドエッグも、入ってる!」

そのハシャグ様子を見るのは、利知未にとっても良い気晴らしになる。


 五月末。初めて弁当交換をしたのを切っ掛けに、透子は交換を、毎週の約束としてしまった。

「条件。必ず一品、透子も何か作って入れる事。」

利知未の出した条件に、渋い顔をしながらも、利知未の作る弁当が美味くて、ついOKしてしまった。


「透子は、相変わらず目玉焼き担当か。」

交換した弁当箱の蓋を開け、利知未が少し、呆れた顔をする。

「あははー。どーもアタシには、料理の才能、無いみたい。…ん!コッチも美味い!!」

言いながら、好物のポーチドエッグの隣にある野菜のうま煮を頬張る。透子は、利知未の弁当のお蔭で、人参を食べられる様になった。

「人参って、煮ると、お菓子みたいに甘かったんだ!!」

始めて口に入れた時、目を丸くしていた。

「…透子のお蔭で、将来、子供の躾に困らなそうだ…。」

「アンタが子供の躾!?…ちゃんと結婚願望、持ってたんだ!」

「…結婚願望って言うか。…ま、色々とな。」

「シングルマザー志望とか?医者が、片親だけで育てるっての?そりゃー大変な事になりそうだわ。」

「全然、大変そうと思っていないような口振りだな。」

「ん?アタシの言う事、真に受けない方が良いよ。」

「解ってるよ。ンな事。」

聞いている方が、気の抜ける様な笑い方をして、弁当に集中する。

『…なんか、本当に、女版の準一見たいなヤツだよな…。』

そう思って、和泉の事を思い出す。

『…和泉は…。まだ、落着くワケ無いな…。』


 今日は、九月十日。真澄が逝ってしまったのは…。八月二十日。

  …まだ、その妹の死から、一ヶ月も経ってはいない…。



 利知未は、その日。学校から、優のアパートへ回って行った。

 明日香は、突然現れた利知未に驚いたが、笑顔で迎え入れてくれる。

「随分、大きくなったな。予定日、いつだって?」

「来月の頭よ。十月四日。もう、安定期。」

大きなお腹を、愛しげに撫でながら、明日香がニコリとして言う。

「どーぞ、上がって。」

よっこいしょ、と言うような、のんびりとした動作で、明日香が玄関口から移動する。利知未は、素直に靴を脱ぐ。

「今、お茶いれるわね?部屋で、のんびりしていて。」

「お構いなく。飯の仕度、途中の所に悪い。」

「ご飯、食べて行ってね。三人分作るから。」

材料の追加を、冷蔵庫から取り出す。利知未は、その様子を見て言う。

「あたしがやるよ。タマには、ゆっくりしたらどーだ?」

 用意の材料と、調理道具を眺め、今日は揚げ物をやるつもりであったらしい事を、推察する。

「妊娠中って、フライとか、食えるモンか?」

「最近、平気になったから。優、揚げ物好きでしょ?久し振りに作ってあげようかと思って。」

「…成る程。」

 裕一が亡くなる前の、冬休みを思い出す。あの時、優がリクエストした料理は、全部、揚げ物だった。

『…結局、お祝いしてやる事、出来なかったな…。』

 そう思い、寂しげな笑顔が浮かぶ。

「鯵に玉葱、白葱とイカの掻き揚げ、人参の掻き揚げに、椎茸。」

「当り!その辺、作るつもりよ。利知未さんは、嫌いなモノ無い?」

「甘い物以外は。…じゃ、あたしがやるよ。」

「そう?折角だから、お願いしちゃおうかな。」

「ソーしろよ。」

ニコリと笑顔を見せ、利知未は調理に取りかかった。

『吸物になる材料は…?』

勝手に冷蔵庫を開ける。浅蜊を見付けて、声をかける。

「明日香さん、浅蜊、ちょっと貰うぜ?」

「良いわよ。勝手に使って。」

声が飛んでくる。利知未は義姉が、自分にとって気楽な人だと思う。


 丁度イイと思い、明日香は部屋で、優のバイト用作業着の、繕い物を片付け始めた。


 昼休み、透子と話しをした、結婚願望、子供の躾。

 話しが出た時に、兄夫婦の事を思い出した。それで、急にやって来た。

『…あの時、もしも、妊娠していたら…?』

料理をしながら、敬太との、最後の夜を思い出す。

『…それでも、イイと思ったのは、きっと、敬太の子供だからだ…。』


 …いつか、この人との子供が欲しいと思える相手が出来たら、貴女も良かったと、思えるようになる…。


 初潮を迎えた、中一の、丁度、今頃。里沙に言われた言葉を思い出す。

 兄嫁の、臨月を迎えようとしている、大きなお腹を思う。

『人は、こうして生まれてくるんだ…。』

 生まれ出て、長い人生を歩き出す。…人によっては、その人生は短い。

 …裕一も、由美も、そして真澄も…。


 優は、バイトで遅くなると言う。一足先に、明日香と食卓を囲む。

「利知未さん。初めて会った時にも思ったけど、料理上手ね。」

カラリと上がったフライを、サクリと、音を立てて口に入れる。

「もし、兄貴達と三人で暮せたんなら、あたしが、料理担当になる予定だったからな。…二人に言われて真面目にやってたら、面白くなった。」

「…そうか。ごめんね、お兄さん貰っちゃって。」

「良かったよ。明日香さんで。…裕兄の嫁さんだったら、もう少し見る目、厳しくなったかも知れないな。」

小さく笑って言う。笑えるようになった。それは、敬太のお蔭だった。明日香は、利知未の微笑に、少しホッとする。

 優と初めて会った頃の事を、少し思い出す。

 あの頃の優は、寂しげで、口惜しそうな表情を、よく見せていた。

『裕一さんって、二人にとって、本当に大切なお兄さんだったのね。』

今、利知未とも話しながら、改めて、そう感じる。

「そーか。優に会う前に、裕一さんに会っていたら、裕一さんの事を、好きになっていたかも?…素敵な人だったんでしょう…?」

明日香は、利知未の話しを、聞いてあげたいと思った。

 恐らく、笑顔で裕一の話しが出来るようになってから、まだ、それ程の時間は、経っていないのでは無いだろうか…?そう感じる。

「…素敵って言うのかな…?ただ、凄く良い兄貴だった。穏やかで、優しくて、確りした。あたし達にとっては、親父みたいな存在だったよ。」

懐かしげに目を伏せる。明日香はその表情を見て、利知未が、その言動とは別に、本当は女らしい優しさと、柔らかさを持っている事を知る。

『優が思っているよりも、よっぽど、女らしい義妹みたい。』

少し、可愛く見える。…意外と、モテてるタイプでは無いだろうか?

『もしかして、結婚も早かったりして。』

そう見る。…この子は、ウェディングドレスを着たら、どんなに綺麗になることだろう…?そして、自分の事を思う。

 優とは、籍しか入れていない。妊娠してしまって、夫は大学生。両親が素直に、許す訳が無い。その明るさとは裏腹に、この結婚は、大変な事件だった。…半分、駆け落ちである。

「結婚式、しないのか?」

利知未が、タイミング良く話しを変える。…心でも、読めるのだろうか?


 利知未が、結婚式の話しをしたのは、昨夜の、アキからの電話を思い出したからだった。

 下宿番号へ電話があった。アキは、自室の番号を知らない。

「利知未?久し振り!元気だった?」

明るい声が、その現状を表すような、弾む声で言う。

「アキ!久し振りだな。そっちこそ、元気か?」

セガワでいた頃の癖が出る。何時も以上に男っぽい声と喋りに、電話を知らせてくれた里真が、目を丸くする。

「元気、元気!マリッジブルー何て、感じたこと無いくらい!」

アキの婚約者は、FOXのファンだった。何時もライブ後、アキと並んで酒を飲んでいた、どちらかと言うと、静かな青年だ。

 明るく活発なアキとは、釣合いが取れていたのかもしれない。

「どうしたんだ?結婚式の準備で、忙しいんじゃないのか?」

「その事で、利知未には、確認してからにしようと思ってるんだけど。」

少し、声のトーンが落ちる。利知未も、落着いて話し出す。

「なんだ?」

「招待状の事。私は、皆に来て欲しいんだけど。セガワでの利知未しか知らない人が、どうしても入ってしまうのよ。」

「そういう事か。…そうだな、確かに悩み所だな。」

「利知未は、どうしたいと思う?」

敬太の事が、頭に過る。敢えて、考えない様にする。

「…今更、正体明かしますってのも何だし。…行けるんなら、セガワで行くけど、…けど、今の自分じゃ、無理があるかも知れないな。」

 十九歳の男として、見える物かどうか?…それに、敬太。会いたいけれど、会ってはいけない…。そう思う。

「…電報、送るよ。いつだ?」

考えて、答えを出す。

「そっか…。やっぱり、そうなっちゃうよね。…うん、判った。招待状は、送らないね。式は、十月十七日。」

「判った。…ワリーな。その場で祝えなくて…。」

「…仕方ないかな?FOXへの参加状況が、アレだもんね。」

「本当に、ごめんな。良い式を。」

「ありがとう。私こそ、ごめんね。じゃ、新居には遊びに来てね。また、連絡するから。」

そう言われて、利知未は改めて、自室への直通番号を知らせた。


 利知未と、食卓を囲んでいる明日香が言う。

「結婚式ね。出来たら嬉しいな。…けど、両親の事もあるし。」

詳しく、話しを聞いた事は無かった。しかし、この結婚に纏わる、裏事情を考えれば、明日香の両親が、この結婚に良い顔をしていなかったであろう事は、容易に想像出来る。

「ソーか。…優が先の事を、もう少し考えられりゃ良かったのにな。」

 女として、気の毒と思う。…ったく、馬鹿兄貴が。…そう思う。

「でも、ま、この子が出て来てくれたら、両親の気持ちも変わるかもしれないでしょ?孫は子より可愛いって、良く言うじゃない。」

大きなお腹を撫でる。…そして、幸せそうな顔をする。

『本当に、好きな人の子供だったら、あんな幸せな顔、していられるんだろうな…。』

 …その時、例え、どんな困難に、襲われたとしても…。

『…大変だろうけど。…あの時、もしも敬太の子供が出来ていたら…。』

自分は、こんな風に、笑っていられたんだろうか…?

『…それ以前に、生活力の問題だよな…。』

冷静な意見を思ってみる。そうでもして、今の気持ちを救いたい…。


 二人が、食事を終る頃、漸く優が、帰宅する。

「邪魔してんぜ?今、フライ揚げ直してやるよ。」

立ち上がった利知未を見る。

「来てたのか。お前も、行き成りなヤツだな。」

「実兄の新婚家庭でも、覗いてヤローと思ったんだよ。」

その顔に、何時も通りの、からかうような笑顔を見せ、利知未は優と入れ違いに、キッチンへ出た。


 それから優の飯の仕度をし、給仕を明日香に任せると、風呂を洗って食器を片付けてから、アパートを後にした。

「今日は本当に助かっちゃった!優の事なんか関係ナシで、また手伝いに来てくれたら、凄く助かるんだけどな?」

出掛けの、明日香の言葉に、この兄嫁の、遠慮無い思いに触れた。

 利知未は、自分を家族の一員として、迎えてくれる義姉に、嬉しさを感じる。…家族って、イイな…。そう思えたのだった。



 中学三年の、二学期を迎えて、準一は、担任と両親にせっつかれる。

「準一。あんた、高校は何処にするか、決まったの?」

翌日に三者面談を控え、夕食の惣菜をテーブルに並べながら、母が聞く。

「ン?別に、何処でもイーんジャン。行ける所なら。」

買ってきた漫画雑誌を読みながら、呑気に言う。

「あんたは、本当にもう…。誰に似たのかしら…?」

…また出た。そう思う。全体的にせっかちで、感情的な母親似では、無い事だけは、確かだ。

「…さー。…父さんじゃない?」

マトモに話す息子ではなかった。昔からどうも、物事の流れを無視したような所がある。良く言えば、マイペース。悪く言えば、脳天気。

「…明日、先生に何て言えば良いのかしら…?準一!ご飯なんだから、漫画止めなさい!」

「ふぁーい。」

返事も気が抜けているが、行動も気が抜けている。漫画を開いたまま、飯を食う。漫画のページを、箸で捲る…。

 その息子の様子を、母親は呆れ顔で眺める。夫は、今日も残業だ。


 母の前では、変わらず呑気に構えている、準一だが、その心の奥では今も、悲しみと、仲の良い兄貴分・和泉への心配が、渦巻いている。


 和泉は、あれから、準一の前にも、余り現れない。工場も、どうやら休みがちらしい…。噂では、街で喧嘩騒ぎを引き起こした事も、あると言う。バッカスにも、アダムにも現れない。

部屋では、酒を飲んで、酔い潰れ、眠ってしまう事が、度々あると、この前、和泉の母から聞いた。

『和尚…。どうしちゃったんだよ…?和尚らしく無い…。』

 真澄ちゃんが可哀想だと思う。…自分も、真澄の事が好きだった。

 だから…、和泉の思いも、良く判る。だが、今の和泉を真澄が見たら、きっと悲しむだろう。…そう思う。…何とか、してあげたい…。

 準一は、八月のあの日から、そんな思いで日々を過ごしていた。


         二


 高校入学後の宏治は、上級生の一部女生徒から、可愛いと言う評判だ。

 中学時代に比べ、その周りに、親しげに近寄ってくる女子生徒の数が、増え始めた。改めて、今まで一番、身近な存在だった利知未と、彼女達との差を、実感してしまう。

『やっぱ、瀬川さんは、特殊だったんだな…。』

そう思う。お蔭で、親分子分としての関係が、今も続いている。


 利知未を中心とした、少年グループの関係は、少し独特かも知れない。

 その関係の中で、大切なのは信頼。

お互いが、一番楽な位置で居られる、オアシスのような空間。


 その筈だった。これから、益々そんな大切な空間へと、変化して行くところだった筈だ…。


 宏治は考える。やっと、ライバル視し合っていた、倉真と和泉が和合して、これから、もっと楽しい関係が、築けるであろう気配があった。

 そんなタイミングでの、真澄の死。…利知未が、自分自身を呪ったりしなければイイのだが…。そんな風に、最近、思う。


 今年六月末頃。倉真の大事件を挟んだ辺りから、利知未は毎週土曜日の、バッカス常連客となった。良く顔を合わせるのは、倉真だ。自然と三人で、飲み交わす時間が増えている。それから、もう三ヶ月が過ぎた。

 その中で、倉真には、気になる女の存在が、チラ付き始めた。

 利知未には、女の色気らしき物が、最近、少しずつ見え始めている。

『中学時代を知っている、おれとしては、不思議な感じだよな。』


あの頃、少年の様にヤンチャで、無邪気だった少女が、今は自分達、仲間を、その表に出始めた優しさで、上手く纏めている。

 そして、利知未は今、和泉の事が、心配で仕方が無い様子だ。

 倉真は、相変わらず血の気が多い。

「和泉のヤロー…。イッソの事、張っ倒して、正気付かせるかぁ?」

酔っ払って、そんな事を言いながら、指の関節を鳴らす。


 商売の性質上、近隣の町で起こった騒ぎが、何処からとも無く噂話として、バッカスを手伝っている宏治の耳に入る。

 既に、常連となっている倉真の耳にも、勿論、利知未の耳にも…。

 その噂話を聞いての、利知未の心配と、倉真の苛立ちだ。宏治には、良く理解出来る。…和泉を、仲間だと認めているからこその思い…。


『瀬川さんの優しさは、裕一さんの事があったからだな…。倉真の血の気の多さは、初対面から、相変わらずだ。』

 …自分は、どういう態度を取るのが、一番イイのだろう…?

『おれは…、和泉を信じて、環境を整えておくかな。』

 オアシスは必要だ。自分にも、仲間にも。

 …倉真の操縦者も、必要かもしれない…。


 利知未はバンド活動中、ロック少年らしく後ろ髪を伸ばしていた。

 そろそろ背中までその髪が届こうと言う頃、敬太との別れを決心して、その長かった髪を切った。

 …敬太を想う気持ちを、別れて三ヶ月経った今も、大切にしている。

 宏治の目に、利知未が女らしい雰囲気を持ち始めたように見えるのは、その心がまだ、キレイに浄化していない所為かもしれない…。

 …利知未の愛情物語は、宏治達は知らない事だ…。


 和泉は、酒を飲む。平日の昼間。

「…クソ、無くなった…。」

空になった酒のビンを、口を下向きにして振る。財布の中身を確認し、おもむろに立ち上がる。

 乱れた格好のまま、構わずに部屋を出た。


 工場からは、もう何度と無く、連絡を受けている。

 その度に、母は苦しい言い訳を続けている…。

『今の和泉は、心の病気みたいな物だから…。その心が癒えた時、復帰する仕事場が無くなってしまうのは、可哀想だ…。』

そう思っている。だから、何とか誤魔化そうと努力する。

 しかし、そろそろ、それも限界だ。…今日の電話で、早い内に退職願を提出する様に、遠回しに言われてしまった…。

『あの子は…。本当にどうすれば、立ち直ってくれるのかしら…?』

自分の悲しみも癒える前に、気の毒な、優しかった息子に、心を砕く。


 部屋を出て、玄関に向かう乱れた足音に、母は不安を隠せない。

 何を言う事も出来なくなって、ただ、その行動を見守るだけ…。



 利知未がバイト中のアダムに、準一が現れた。

 明日は十月五日、月曜日。真澄の四十九日法要がある。準一は学校をサボってでも、和泉の様子を見るために、行こうと思っている。

「瀬川さん。明日、やっぱ普通に、学校行くンだよね…?」

 普段の準一からは、想像出来ない程に、沈んでいた。利知未の顔色を伺う。クリームメロンソーダを、準一に出しながら、利知未が聞く。

「…真澄ちゃんの四十九日か。…あたしも、和泉の様子は気になってる。…お前は、行くのか?」

ソーダを飲みながら、準一が頷いた。イジけた小学生みたいな表情だ。

「…そうか。」

準一が、真澄の事を好きだった事は、最後に見舞った時に理解していた。

「…瀬川さんは、大切な家族が死んじゃうって事、…判るよね…?」

「…そうだな。…多分、和泉の気持ちも、判ると思う。」

利知未の言葉に、準一が小さく頷く。

「……助けてよ。…オレ、どうすればイイのか、判らないんだ…。」


 和泉の様子は、噂として準一の耳にも入って来た。近所の家庭の事だ。

最近、家の近くから聞こえてくる雑音に、準一自身どう対すれば良いのか、全く分からない。…親の前では、勤めて今まで通りに振舞っている。


 助けを求める準一の姿は、今まで見た事が無い程に落ち込んでいる。利知未は、和泉だけでなく、準一も救ってあげる事が出来れば…と思う。


「…あたしが納骨に顔を出して、イイ物かどうかは判らないけど…。

…そうだな。ついでに、和泉の様子も、見れるかもしれない。」

優しい利知未の言葉に、準一は俯いたまま、小さく礼を言った。



 五日。真澄の四十九日法要に託けて、和泉の様子を伺いに行く。

 黒が基本になっている、シャツブラウス。襟の辺りだけ、少しだけ白を配する、同じく黒の、柔らかい素材のパンツルック。

『余り、世話になりたくないシャツだよな…。』

出掛けに、朝美が下宿を退去して行った時、置いて行った姿見を自室へ持ち込み、利知未は、その全身を鏡に映す。

 墓参りや、裕一の法事時に世話になるシャツだ。普段はジーパン姿が多い利知未にとって、余り馴染み深い姿ではない。

 同じく、普段は滅多に履かない、黒の踵が低いパンプスが入っているビニール袋を、クローゼットの中から取り出す。

 いつも学校に行くよりは、余程のんびりとした時間に、部屋を出る。



 不精に、髪が伸び掛けたまま、階下へ降りて来た和泉の姿を、両親は悲しげな目で見つめる。

「和泉、今日は、お寺へ行くんだから。責めて頭、どうにかしたら?」

無理に笑顔を作って、母が言う。

「母さんが、剃ってあげようか?」

 和泉がまだ、小さな頃。

始めて、少林寺の門を潜った頃。母は慣れない手付きで、良くその頭をきれいに剃り上げてくれた。

 同門の門弟に多い五分刈りは、どうも似合わなかった。

「あんた、頭の形が良いわねェ!」

感心して、笑顔で母が言った。真澄も生きていて、元気な様子も、まだ見られていた頃。


「面倒だ…。」

短く言う息子を、無理に鏡台の前へ座らせ、久し振りに剃刀を手にする。

「いいから、任せなさい。」

反抗する気力も無い。…母の思いも、感じる事が、少しは出来た。


 和泉の身体から立ち上る酒気を感じ、母は悲しい気持ちになる。それでも、微笑を保ち続ける。何でも無い風に切り出す。

「あんた、本当にやりたいと思える仕事、探した方が良いんじゃない?今の工場、いっそ止めてしまいなさい。」

 和泉の表情は変わらない。無表情。目を閉じ、眉毛一筋動かさない。

「生活費は、もう心配しなくても構わない。父さんの給料で充分。私も気晴らしに、またパートでも、始めようかと思っているところ。」

話しながら、すっかり慣れた手付きで、和泉の頭を剃り上げた。

 今日は、和泉が十年間、拳法修行に通い続けた寺の墓へ、真澄の骨を収める。住職が訪れる予定の時間には、まだ間が合った。



 準一と待ち合わせて、徒歩で寺へ向かう。

「瀬川さん、そんな服も持ってたンだ。」

 女物のシャツブラウスだ。利知未の、ほっそりとした身体のラインも隠さない。パンツも柔らかい。そして、足元はパンプス。

「…法事には、親しんでるからな。」

「…そっか。…ごめんなさい。」

素直に謝る準一が、珍しい。

「気にするな。寺まで、どれくらいだ?」

「ここからなら、十五分くらい。」

「そうか。」

歩き出す。歩きながら、和泉の話しをする。

「和泉と会うこと、あるのか?」

準一が首を振る。家に行って見ても、対応してくれるのは何時も母親だ。

「…おばさん、すっごく悩んでる。何とか、和尚を元気付けられないかって、何時も言うんだ。…オレ、力になりたいけど、どうすればイイのか判らなくって…。」

「責めて本人に会えれば。何とか、話す事が出来れば良いんだけどな。」

その為に、親戚でも無い自分たちが今、寺へ向かっている。

「納骨、何時頃になるんだろうな?」

「おばさんが言うには、九時頃から家で読経して貰って、昼前には納骨になる筈だって。それから、場所を変えて振る舞いだって。」

 寺で和泉に会えなければ、タイミングを逃す事になるだろう。

「何処かで時間、潰さないとな。」

まだ十時前だ。

 裕一の時は、葬式後にアパートも引き払い、その骨は寺に預ける事になった。それで、お膳上げも納骨も、寺に協力して貰っていた。

 自宅で、普通にお骨を守っている場合の事は、小学校の頃、大伯父の法事を行った時以来の事で、利知未にも余り、記憶が無い。

 ただ、言えるのは。親戚でも無く、特に呼ばれている訳でもない自分達が、その場へ現れるのは、普通に考えて、非常識な事だ。

『今回は、ギリギリまで、出て行けないからな…。』

考えるのは、利知未の役目だ。準一が、こう言う種類の事を、考えられる筈は無い。…経験が無いのだから。



 和泉は、早めに到着した住職から、一人、真澄のお骨の前に呼ばれた。

和泉の両親から、彼の最近の様子を聞き、相談も受けていた住職は、和泉の、拳法の師範でもある。訥々と、道を説かれた。

 それでも、和泉の心は落ち着かない。今の自分に益々、嫌気がさして、その顔に、自虐的な微笑を浮かべる。


今は、お膳上げの最中だ。住職の、低い読経が響く。



 利知未は気が急く準一を宥めながら、寺の近くにあった喫茶店へ入る。

タバコを取り出して、珈琲を飲みながら、時計を眺める。十一時だ。

既に、一時間近い時を、この場所で潰している。

「ここからなら、五分も掛からないよ。」

準一は宥められ、少しは大人しくなって、オレンジジュースを飲む。

「そう言う格好してると、瀬川さん、大人に見える。」

気を紛らわせる。今日の利知未の服装は、大人びたその容姿を、更に年上に見せている。お蔭で、喫茶店の店員も、平日のこんな時間に入って来た二人を、疑う事も無く受け入れてくれた。成人した姉と、歳の離れた弟にでも、見えていたのかもしれない。

「…そろそろ、お膳上げ終わったかな…。」

呟いて、煙草を消した。準一も慌てて、残りのジュースを飲み切った。



 墓場で和泉の姿を遠目に見て、二人はそっと、参列者の後ろに並ぶ。喪服姿の親戚の列へ、自然に入り込む。

 納骨は終っていた。今は、住職が墓前で、経を唱えている。


 経が終わり、移動が始まった。さり気なく、和泉の後ろに立つ。

 軽く肩を叩かれて、和泉の足が止まる。振り向いて、少し驚いた。

「…瀬川さん…!」

「久し振りだな…。中々、お前に会えないって、準一にヘルプ出されて、軽く入れ知恵してみた。」

優しげな微笑。準一は利知未の後ろで和泉をじっと見つめる。


 立ち止まった息子の近くに、二人の姿を見て、母親が驚く。

『和泉の為に、来てくれたのかしら…。』

有難いと思う。同時に考える。

『学校、休んで来てしまったのかしら…?』

子を持つ親として、その点が気になる。

 …それでも、今は、二人に任せようと思った。和泉の表情に、感情らしきものが、久し振りに浮かんでいる。

 三人を置いて一同が移動して行った。二人に気付いたのは、母だけだ。

 親戚の列から離れ、再び和泉を、萩原家の墓前に連れて行く。

「まだ、ちゃんと、お参りして無いからな。」

そう言って、頭を垂れる利知未の姿を、和泉は黙って見つめる。準一も利知未に習う。頭を上げて、利知未が振り向いた。

「お前が確りしないと、真澄ちゃん、道を間違えちまうぜ?」

「……。」

「天国への道標は、亡き人の安心出来た心の中に、浮かんでくるモンだ。…っても、裕兄の法事で世話ンなった、坊さんの受け売りだけどな…。」

「………。」

まだ、何も言わない和泉に、労り深い瞳を向ける。

「…亡くなった人の心は、どうすれば、安定を取り戻すのか…。」

和泉の視線を拾い上げ、その暗く沈んだ瞳を捕える。

「…お前には、判っている筈だよな…?」

その視線を、もぎる様に外し、和泉が踵を返して歩き出す。準一は、後を追い掛けようと、一歩前へ踏み出した。

 準一に捕まれた腕を振り解き、和泉は早足に歩き出す。

「和尚!待ってよ!!」

負けずに追い掛け、再びその行く手を阻む。

「瀬川さんの言う事、判ってるんだよね?和尚は頭イイから…。オレは、何となくしか分からないけど…。それでも、今のままじゃ、真澄ちゃんが可哀想だよ!!」

目に涙を溜める。準一が、真澄の事を、どう感じていたのか、和泉は知っている…。それでも今は、その準一さえ、邪魔に感じる。

「…退け。」

小さく言って、乱暴に準一を押し退ける。押されて、よろけて転ぶ。

「…ずるいよ…。オレだって…、オレだって悲しいよ!!真澄ちゃんの事、本当に好きだったんだ!!」

半分泣声で、転んだままの姿勢で、和泉に言葉を投げる。

 和泉は、その場を離れて行く。…振り向く事もしない。

 利知未が準一の近くに行って、手を差し伸べた。準一は、その手を取ろうとせず、自分で立ちあがる。袖で、滲む涙を、グイッと拭う。

「…絶対、和尚を元に、戻して見せる…。」

小さな声で、決意を口にする。

…ずっと好きだった、真澄の為に…。


 和泉自身が、自分で先の道を、見付けるしかないだろう。

 その悲しみが、いつになったら癒えるのか?…それは、本人にも分からない…。ただ、進む道が見えれば、そこに向かう力が戻れば…。

 元々は、真面目な和泉の事だ。直ぐに、立ち直って行く事が出来るかもしれない…。利知未は、そう思って和泉を見つめる。


 和泉は、益々、荒れて行く…。



 それから、数日後。利知未の元には、喜ばしい報告が届いた。

 明日香が、予定日を五日過ぎて、元気な女の子を無事出産したという。

「…名前、どうするんだ?」

「今、考えてるんだけど…。」

利知未は、その日、学校帰りに、そのまま病院を訪れた。

「名前、あたしに付けさせてくれないか…?」

「良い名前が、浮かんでるの?」

「凄く、イイ子が居たんだ…。一生懸命、生き様と頑張っていた子…。真実に澄んだ心。多分、意味はそれ。名前は、真澄。」

「瀬川 真澄か…。イイかも?優に、相談して見るね。」

 優しい母親の瞳で、我子を見つめながら明日香が言った。

 利知未は小さく笑って頷いて、挨拶をして、帰って行った。


          三


 十月十二日、月曜日。昨日、明日香から連絡があり、第一子の名前は利知未が言った通り、真澄で届を出すと言ってくれていた。

 今日は透子と二人、体育祭をサボっている。利知未は真澄の四十九日法要でサボった日のノートを、借りている。

「九日だって?アンタの姪っ子、アタシと誕生日同じジャン!こりゃ、将来イイ女になる事、間違いナシ!」

喫茶店で、ノートを広げて、写し取っている。咥えタバコだ。

「お前と同じ?…先が思いやられるぜ。とんでもない子に育ちソーだ。」

「言ってくれるねー。取り敢えず、頭はイイ子に育つかもよ?」

あははー、と、何時も通りの、呑気な笑顔を見せる。

「…自分で言うか?普通…。」

タバコを口から離し、頭を上げて、灰皿へ灰を落とす。再び咥え直す。

「コレは終った。サンキュ。」

一冊のノートを、透子に返す。次のノートを広げる。

「昼までは掛かるぜ?ノート借りてる礼に奢るから、何か飯、頼めよ。」

「ゴチになりまっす!すみませーン!」

にっと笑って、店員を呼ぶ。透子はパスタランチセット・デザート着き一,二五〇円の品を、遠慮無く頼む。ついでに利知未の分も注文して、デザートだけ、横から戴こうと考える。

「アンタは、デザートいらないよね?アタシが片付けるから。」

透子はニマリと笑って、アイスレモンティーを飲む。

「勝手にしろよ。」

利知未は全く構わない様子で、作業を続けている。

 間に昼食を挟みながら、午後一時半頃まで掛けて、全てのノートを写し終わった。その後、一時間程。透子とくだらない事を話して、少し気を紛らわす。…四六時中、悩んでばかりも居られない…。


 この時期。倉真は和泉の事を考えて、イライラと日々を過ごしていた。

 喧嘩騒ぎも相変わらずだ。再び学校から厳しい処分を受け、この次、騒ぎを起こせば、退学処分だと言い渡されてしまった。

 職員室から戻り、乱暴に椅子を引いて、足を机の上に投げ出す。

 同じ教室内で綾子が、倉真の様子を、不安げに見つめている…。

『…タリーな…。どうせ退学になるんなら、真面目に出席日数稼ぐのもバカバカしいぜ。…フケっかな!』

そう決めて、潰れた鞄を担いで、さっさと教室を出て行く。

 綾子は倉真の停学処分中、ずっと気懸かりだった。…今、倉真が教室を出た。…帰ってしまう。少し、躊躇う。

 決心し、小さく頷いて、自分の鞄を持って、倉真の後を追い掛けた…。


 正門前で、小さな声で呼び止められた。倉真が振り向く。

「…浜崎、…どうした?」

「…あの、……。」

あん?と、表情を少し歪めて、綾子を見る。

「…あの、ずる休み、するの…?」

倉真の顔を、下から覗き込むようにして、顔色を伺っている。

「ずる休み、ね…。っツーか、早退だな。」

踵を返して、バイクの置いてある駐輪所へ向かう。

「…待って…!…下さい。」

「…なんだ?」

「あの、私…。」

言葉が出て来ない。一端俯き、小さな音を立て、息を一気に吸い込む。再び顔を上げて、倉真の顔を見て話し出す。

「…ずっと、館川君の事が気になっていたから…、ちゃんと謝りたかったし、…お礼も言ってなかったし、それに……、」

「何の礼だ?謝られる筋もネーな。」

「私には、あるから…。…一学期の事。」

「…あの事なら、もう、気にすンなって言わなかったか?…いつまでもグダグダしてンのは、性に合わネーんだよ。」

ポケットから、タバコを出して咥える。火を着け、歩き出す。

「…忘れろ。じゃーな。」

タバコを指に挟んだ右手を、軽く上げ、そのまま振り向きもしない。再びタバコを口に咥え、歩き吸いして、行ってしまう。


 綾子は、今まで生きて来た十六年中で、一番の勇気を振り絞り、倉真を再び、追い掛けた。

「…待って!」

歩き去って行こうとする倉真に、精一杯の大声で、呼びかけた。

「私も、着いて行っちゃ、駄目ですか!?」

驚いた倉真が、再び足を止め、綾子を少し振り向いた。

「お前が、サボるってのか?…止めとけよ。似合わネー。」

「似合うとか、似合わないとか、関係ない…。少しだけ、館川君の普段に、触れさせて下さい…。」

俯いてしまう。他に言葉が出ない。

…自分でも、良く判らないけれど…。

『本当は、優しそう。本当は、苦しそう。本当は……、』

何か、悩みを抱えているのではないか…?

 綾子は倉真に、そう感じている。

『…お礼を言うより、謝るより…。本当の館川君を、見付けて見たい…。』


中学二年の夏以来、始めて恐怖対象以外で見る事が出来る、男の子。

 初めは怖かったけれど、今は、彼の姿を教室で見る事が出来ないと、その日一日が、とことん不安だ。

『だから、もっと良く知ってみたい…。』

それが恋愛感情なのか?それとも全く違う種類の興味か…?まだ、綾子自身、判断が付かない。…だからこそ、知りたい。


「少しだけ、貴方の普段を、見せてもらえませんか…?」

真面目な綾子の表情を見る。その性格から考えて、今、どれ程の勇気を振り絞って、自分に、声を掛けているのか…?

「…シャーネーな。…バイク、怖くネーか?」

「…大丈夫です…。頑張ります…。」

俯いて、少し不安そうな顔をする綾子に、倉真が言う。

「頑張るモンじゃネーよ、バイクは楽しむモンだ。…イーぜ?今日だけ、後ろ乗せてやらー。…来いよ。」

歩き出した倉真の後を、綾子は早足で追い掛けた。



 二十日を過ぎて、和泉は工場に、退職願を提出した。

 上司は、何も言わずに届を収めた。月末での退職となる。半年は働いていた。これから先、四、五ヶ月の間、雇用保険の世話になる。

 …自由になる時間、和泉は、その壊れた心に従う…。



 和泉が、本格的に危うい時期を迎える、十一月。

 月初めの土日。利知未は、北条高校の文化祭に、クラスで出した模擬店で、透子しか知らなかった、隠れた特技に注目される。

『本当は、コー言う行事、面倒臭いんだけどな…。』

そう思うが、料理は好きだ。中学時代から、勉強一筋でココまでやって来たクラスメート女子の、手際の悪さに、つい手が出てしまう。

「瀬川さん、こんな特技があったんだ…。」

感心して目を丸くする女子生徒の前で、リズム感良く、包丁を使う。

「…別に。タイした事じゃネーよ…。」

同時に、カレーの仕込み状態を確かめ、パスタの湯で加減を見る。

「利知未!和風パスタ1、カツカレー3、ハヤシ1。宜しく。」

透子は、お運びと注文取りに回っている。衝立で仕切ってある調理場に、声をかける。

「了解。」

 カツは既に、家庭科室の、強い火力のガスコンロを使用して揚げた物が、ストックされている。さっさと準備し、どんどん出す。

 味付けも、利知未が手を加えた。隠し味を生かした、美味いカレーに人気が集まり、ルーも残り僅かだ。

 利知未は作業をしながら、偶に、敬太の事を思い出す。

『手料理、作ってあげられれば良かったな…。敬太の夢への切っ掛けが出来たのは、去年の大学祭だった…。』

それでも徐々に、敬太の事を思い出して感じる苦しさも、和らいで来た。

『色々あった、五ヶ月だったからな…。』

 忙しさと、別の事件での悩みに、敬太とのサヨナラを想い続ける時間が、途切れていた時期があった。それが今の利知未の心には、それなりに、良い影響を与えていた。

 今は、敬太の事を思い出す瞬間のみ、恋人の前でだけ見せていた、女らしい雰囲気が現れる。…それ以外の時は殆ど、中学時代に戻ったような、男勝りな雰囲気で居る事が多い。

 やっぱりコレが、自分の本性だったのかと、偶に溜息が出て来る。

『当分、恋愛は出来そうも無いな…。』

 和泉の事も気懸かりだ。準一の事も心配で、倉真の様子も気になる。少年達の中で唯一、安心して眺める事が出来るのは、宏治だけだ。

『頼り甲斐のある弟分だ…。』

始めて会った時の事を思い出すと、この四年半での宏治の成長に、本気で感心してしまう。…宏治は一人、穏やかな雰囲気を保ち続けている。



 バッカスには、倉真が相変わらず、度々、現れる。

 和泉と準一が顔を出さなくなって、二ヶ月が過ぎた。土曜はいつも、利知未と倉真がカウンターに座る。美由紀はボックス席に呼ばれる。

 宏治は、二人の専属バーテンダーみたいな物だ。

「和泉、どんな感じかな…。」

倉真の前の灰皿を取り替え、洗い、それを拭く。作業をしながら宏治がポツリと呟く。心には止めている。…それでも、自分は動き出さない。

 自分の役目は、オアシスを守る事。

「…先月の初め以来、会ってないな…。」

四十九日法要の事を思い出し、利知未が、タバコの煙を薄く吐き出す。

「それから、もう一ヶ月か。」

小さく息を付いた、宏治の様子に、利知未は、宏治も和泉の事を気に掛けていた事を、改めて感じる。

「マジ、一発ぶん殴って、正気戻すかぁ?」

かなり酒の入った倉真が、据わった目をして呟いた。

「お前は…。それしかないのか?」

宏治が呆れ顔で言う。利知未も同じ感想だ。…全く、倉真は。血の気が多過ぎだな…。と、小さな溜息が出る。

「お前、どっかで血、抜いてもらったらどうだ?」

「献血は、十八歳からだぞ。」

「ソー言えば、ソーですね。」

利知未の突っ込みに、宏治は苦笑いをして、肩を竦める。宏治の仕草に、団部副団時代から比べて、肩の力が抜けて来た事を、見て取る。

「十八歳にも成らないのか?不良少年少女達の溜まり場だな。」

ボックス席で、美由紀を相手に飲んでいた常連組が、口を挟んだ。

「今更、何を言ってンですか。熊さんは、とっくに承知してンでしょ?」

宏治が、営業スマイルを見せる。

「宏ちゃんも大分、様に成ってきちまったな。美由紀ちゃん、良いのか?」

「私は助かってるわよ。…お代わり作りましょうね。何かお摘みも注文しない?宏治も中々、ヤルようになったわよ。」

ニッコリと言われて、肉屋主人大熊の顔も緩む。

「熊さん、その顔、カミさんに見られたら、また夫婦喧嘩の元だな。」

同じ席に着いていた、蕎麦屋主人の大野が、からかう。

「うるせー!美由紀ちゃんに勧められちゃ、断れないな。おう、宏坊!何、作れるようになったんだ?」

「メニューの料理は一通り。お勧めは裏メニューのワンタン揚げかな?」

母親に聞く。

「ソーね。それでいいかしら?」

「折角だ、俺が味見してやる。」

「了解。」

そして宏治は、調理に掛かった。利知未は、その作業を見て感心した。

『クラスの女子より、宏治の方がやりそうだ。』

小さな笑顔が浮かぶ。ついでと言って、利知未達の前にも、料理の皿を出してくれた。軽く片目を瞑り、小声で言う。

「勘定、熊さんに付けとくから、試食して下さい。」

その様子を、ボックス席からチラリと見て、美由紀もウインクを寄越した。

『食べて良いわよ。』

と言う合図。利知未と倉真は顔を見合わせ、ニヤリと笑って箸を付けた。

 宏治の料理は中々、美味かった。

「こりゃ、将来は決まったな。」

利知未の言葉に、宏治は照れ臭そうな笑顔を見せた。


 準一は、和泉の家に毎日通う。その度に母親が、済まなそうな表情を見せる。…その表情が、日を追う毎に、悲しそうな顔になって来た…。

「毎日、毎日。ごめんなさいね、…ありがとう…。でも、今日も和泉は出掛けてしまっているの…。」

「いつも、何処へ行ってるの?」

「…それが。私にも判らないんだけど。…帰ってくる度に、お酒の匂いがしてるの…。一昨日は、怪我までして…。」

昔から良く知っている、幼馴染の気丈な母の、その泣きそうな顔を見て準一も悲しくなってしまう。

「…飲み屋、一軒一軒、しらみつぶしに探して見るよ…。」

 呑気な準一の、見た事無い様な真面目な表情を見て、和泉の母の目に涙が溜まる。

『…あの準一君が。…和泉のために、ここまでしてくれている…。』

そう感じて、心の底から、感謝をする。

「…ありがとう…。でも、準一君は、まだ中学三年生なんだし…。受験勉強にも、差し障ってしまうから。無理はしないで。…私も心当たりを探して見るから。」

その言葉に、微笑を返して、準一が言う。

「オレ、今まで、ずっと和尚に頼ってきたから…。今度はオレが、和尚の力になりたいんだ。受験勉強なんて、気にしないでよ、おばさん?」

「そう言う訳にもいかないよ。今日は、大人しく家に帰って。また今度、

私も一緒に探すから…。」

 …そうだ。それは、自分の役目だと思い直す。息子の友人に諭された気がして、母は決心を固める。

 準一は、取り敢えず判った振りをして頷く。心の中では、今から探しに出掛けようと、決めていた。

「分かった。じゃ、今日は帰る。…おばさんも、元気出してよ?」

 優しい準一の言葉に、母の目から、涙が零れた…。


 和泉は、近所の飲み屋では、酒を出して貰えない。皆、和泉が未成年者だと知っている。…以前は、真面目な少年だった事実も…。

 だからいつも、酒を買って、場所を探す。

 自宅では流石に、両親の悲しげな視線に、耐え切れなくなって来た。

『俺は…。いったい、何をしているんだ…?』

仕事も止めてしまった。…続ける意味を、失ってしまった…。

『…特に、やりたい仕事ではなかった。…他に、やりたいと思う事も、無かった…。』

働いて、金を稼ぎ、真澄がいつか、移植手術を受けられる様になった時の為に、その莫大な手術費用を、溜めて行きたいと思っていた。普段の生活費も、自分の働きで助けられればと思った。

 …それなのに…。

『責めて、もう一年…。出来れば、三年…。』

生きてさえいれば、チャンスも、あったかもしれない。

「…真澄…。」

『…早過ぎだ…。どうして、お前が…。』

呟いて、俯いて、酒を瓶から直接飲む。口の端から零れた酒を袖で拭う。

 ぷん、と自分の服の袖口から立ち上る酒気に、顔を顰めて上着を脱ぐ。

そのまま脱ぎ捨て、公園のベンチを立った。酒を煽りながら歩き出す。


 もしも真澄が、後三年生きて、手を尽くし切って間に合わなかったのなら…。それでも、これ程のショックは感じずに済んだのかもしれない。

『…俺はまだ、真澄の為に、何もしてやっていない…。』

 何も出来ない内に、真澄は逝ってしまった…。…それが、口惜しい…。

「クソッ!」

 声に出して、空になった瓶を投げ捨てた。転がった先でカラスが一羽、慌てて羽ばたき、飛び去った。…夕日が、公園を赤く染める…。

 和泉の姿が、公園北側の出入り口から消えた直後。準一が、同じ公園の南側出入り口から、足を踏み込む。

 ベンチに脱ぎ捨てられた、見慣れた和泉の上着を見付ける。

 拾い上げた上着から、ぷん、と立ち上る酒の匂いに、顔を顰めた。

『和尚…。ココにいたんだ…。』

上着は、まだ温かい。夕日に赤い公園と、同じ色で染め上げられる噴水を、懐かしい思いで眺めやる。

『ココで、小さい頃…。』

 体調の良い真澄と、和泉と、三人で、大人に叱られながら、水を掛け合い、遊んでいた。

 …プールや、海へは行けない真澄と、暑い夏に唯一、出来た水遊び…。

『思い出していたんだろうな…。和尚も…。』

切ない思いが、甦る。

「…探さなきゃ…!」

気を取り直して、北側出口へ向かって、走り出した。

 …夕闇が、景色を滲ませ始める…。


 その日曜日。利知未のアダムでの、バイト時間終了間際。

少し慌てた様子の宏治が、鈴を鳴らして店へ入る。バイクのエンジン音が止まる音がして、倉真も後に続いて、店へ入る。

「いらっしゃいませ…、…どうしたンだ?」

「さっき、準一から連絡があって…、」

「和泉のヤロー、やりやがった!」

穏やかでない倉真の血相を見て、利知未はマスターを振り向いた。顔を顰めているマスターの視線と、利知未の視線がぶつかる。

「…いいぞ、上がって。」

「…済みません…!」

利知未は、慌ててカウンターを出て、二人の後に続いて、店を出た。


          四


 その時、和泉は。肩がぶつかった酔っ払いと、殴り合いを始めていた。

 …準一が、和泉の後を追い掛けて、追い付くまでの短い間…。

「…テメー…!」

「なんだ?ぶつかってきたのは、お前だろう?!」

和泉は、軽く肩を反らして、避け様とした。泥酔した目を血走らせ、撲りかかって来た相手を、和泉は正面から迎え撃った。


 何やら、商店街の裏道が騒がしく、準一は人だかりを抜けた。

 目の中に飛び込んで来た喧嘩の経緯を、物見騒がしい人だかりの一人を捕まえ、慌しく話しを聞いた。

「あのアンちゃん、強いな。酔っ払い同士の喧嘩だ。手を出すのも危なくてよ…。」

警察を呼びに人が走る。

 目の前で、ボロボロになった中年男がぐったりとなっている。それでも、和泉は拳を収めない。胸座を掴み、相手の身体を持ち上げた和泉の前に、準一が走り出た!

「和尚!止めてよ!もうこのヒト、気を失ってるよ!?」

振り上げた拳の前に、準一が飛び出す。勢いで、拳を振り抜いてしまってから、漸く和泉は、今、殴ってしまった相手が、幼馴染だと気付く。

「…!準一…!…お前、何してるンだ!?」

「…それは、コッチの台詞だよ…。」

口が切れた。唇から流れ出す、一筋の血をグイと拭い、自力で立ち上がり、気の抜けかけた和泉の腕を引っ張って、その場を逃げ出す。


 警察が見たら、未成年・無職の和泉が、倉真の二の舞になってしまう。

 現場を抜けだし、自分の家へ、和泉を引っ張って行った。


 帰宅を迎えに、玄関先へ出た母親が、二人を見て目を見張る。

「…和泉君…!いったいどうしたの!?」

両手で口を押えて、驚く母を片手で押しやり、そのまま自室へ向かった。

 部屋へ入り、廊下を恐る恐る歩いてくる足音を聞く。力が抜けた和泉を、その場へ置いて、準一が部屋から出て、後ろ手に扉を閉める。

「…母さん。今夜、和尚に泊まってもらうよ。救急箱、出しておいて。」

廊下の途中で立ち止まり、母が不安そうな顔を見せる。

「…大丈夫だから…。オレが、手当てするから。」

俯いて言って、母を押し退けて、リビングへ向かう。

 初めて見る真面目な表情の息子に、呆然としてしまった。

 準一は、電話の前で時計を見る。利知未に連絡を取ろうと思い、この時間は、バイト中だと思い出す。少し考えて、宏治に連絡を取った。


 それから三十分もしない内に、今度は派手な頭をした少年と、バーの店員風制服姿の少年と、真面目な感じの少年が準一の家にやって来た。母親はまた、驚く。三人とも、何処かで見た事があるような気もする。

「いきなり済みません。準一君の友人です。彼の部屋は?」

バーの店員風制服姿の、綺麗な顔をした少年に慌しく問われ、反射的に息子の部屋を説明する。

「お邪魔します。」

真面目そうな少年が言い、派手な頭の少年も後に続く。

 呆気に取られている内に、三人は準一の部屋へ続く廊下の角を急いで曲がって行ってしまった。

 どうしようもなくて、母はキッチンのダイニングチェアへ腰掛けた。

『何処で見た顔だったかしら…?』

記憶を辿る。息子の補導事件で見た顔だと思い出す迄、たっぷり二時間は悩んでしまった。…あれはもう、二年前の夏…。

 倉真の真っ赤なモヒカン頭が、記憶の中から甦る。

「あの子達だわ…!」

不安が溢れる。…家の息子は、あんな感じの子達と付合っていたのか…。

 幼馴染の和泉とは、世界が違う感じだ。今は、別として。コレまでの和泉は、真面目な感じ良い少年だ。一人っ子で我が侭に育ってきた息子の、良い兄変わりになってくれていた。

 五人の様子が気になるが、さりとて、さっきの息子の様子を考えると、邪魔をしに行く訳にも行かない。

 考えて時計を見て、夜食を人数分、用意する事にした。

『これを持って行って、様子を見てきましょう…。』

黙々とキッチンに立つ。夫は今夜、昔馴染みと酒を飲みに出ていた。

『丁度良いわ。お父さんのお夜食も、作っておきましょう…。』

とにかく落着こうと、気を紛らわそうと、努力した。


 …準一の母が、記憶を呼び覚ましている、その間…。


 部屋に入った途端、倉真が、和泉の胸座を掴んだ。

「和泉!テメー…、何したって?」

「止めてよ!」

準一が倉真を止める。それを見て、利知未が救急箱の前に座り、和泉の手当ての続きを始めた。宏治は、和泉から離れた倉真の肩を、軽く叩く。

「…らしくネー事、してンな…。」

利知未が小さく言う。和泉は何も返さない。ただ、視線を外してジッと動かない…。準一は黙って、二人の近くに腰を下ろした。


 倉真を連れて、宏治が部屋を出た。今、この二人を、向かい合わせている訳には行かない…。

 静かに玄関へ向かい、外に出て、タバコを一本、倉真に振るい出す。

 倉真は黙って、それを貰って、口に咥えた。宏治が火を着ける。自分も一本咥えて火を着け、呟いた。

「…安定剤。」

「…確かに、必要だな。」

煙を斜め下に吐き出し、倉真も呟いた。


 和泉の手当てを終え、準一の口端にこびり付いている、血の跡を見る。

「お前も、怪我してンな。こっち来な。見てやるよ。」

準一が素直に、利知未に近付き、口を開ける。

「…切れてンな。…名誉の負傷か?」

「あ…?アーァ。」

口を開いたまま、首を軽く横に振る。

「…流石に、口内用の消毒はネーな。酒で口すすいで来な。料理酒でもナンでもイイから。」

微かな笑顔を見せる利知未に頷き、準一が部屋を出た。


 二人きりになった部屋で、利知未は、静かに和泉を見つめる。

 …何も言わない。ただ、優しく、少し悲しげな瞳を向ける。


 準一はキッチンに入り、まだ考えている母に聞く。

「お酒、あるよね?」

戸棚を開ける。母が驚いた顔を見せる。

「飲むんじゃないよ。口、すすぐだけ。」

「口すすぐって、どうしたの?」

「…転んで口ン中、切った。」

明らかにホッとする母を見て、準一は複雑な思いだ。母が出してくれた日本酒で、利知未に言われた通り口をすすぎ、そのままキッチンを出た。

玄関先へ出て、宏治と倉真の姿を見付ける。

「ココにいたんだ。」

「ああ。…どんな理由があって、こうなったんだ?」

宏治の質問に、準一が答える。

「オレにも、良く判らない。和尚を探していたら、商店街の裏道が騒がしくて、行って見たんだ。そしたら、喧嘩してた。」

「商店街って?」

「バッカスのあるトコじゃないよ。川のコッチ側の商店街。…あの後、どうなっちゃンだろう…?オレ、慌てて和尚を連れて逃げて来たから、判ンないんだ。」

 不安そうな顔をする準一を見て、宏治が言う。

「…おれ達が見てこよう。…倉真、行くぞ?」

「…シャーネーな…。ココにいても、和泉のヤロー、ぶん殴っちまいそうだからな…。行ってやるよ。」

倉真が小さくなったタバコを吐き出し、靴の裏で揉み消して、歩き出す。

「…ありがとう、頼むよ。」

小さく言った準一に微笑を見せて、宏治も倉真の後を追い、歩き出した。

 二人を見送り、準一は再び、部屋へ戻った。


 部屋の中には、重い沈黙が落ちていた。利知未は何も言おうとしない。準一は黙って、部屋の隅へ座る。

「…宏治と倉真、どうした?」

「騒ぎの後が、どうなってるか、見に行ってもらった。」

「ソーか。…取り敢えず、アイツ等が戻るまで、待つか。」

利知未の言葉に、準一が黙って頷く。和泉はピクリともしない。

「何か、疲れたな…。」

利知未が呟いて、その場に転がった。少年の様な仕草だ。軽く目を瞑る。

「寝不足?ベッド使ってイイよ。」

準一の言葉に、利知未は小さく首を横に振る。

「本気で寝る訳じゃネーし。和泉でも、眠らせとけよ?」

「和尚、少し寝る?」

和泉は、それにも返事をしないで、押し黙る。

「酒の飲み過ぎで、眠れてないだろ?目の下、隈が浮いてるぜ。」

横になり、目を瞑ったままの利知未に言われて、漸く表情が動く。

「…貴女は、良く平気で、男の前で横になれますね…。」

「…お前等が、あたしに手を出す訳、ネーだろ?」

自嘲的に、小さく笑う。

「…確かに、瀬川さんに手を出したら、コッチが張り倒されそう。」

準一も、少し可笑しそうに笑う。和泉が言葉を発した事が、嬉しかった。

「…良く判らない人だ…。」

どうして人を、そこまで信用出来るのだろうか?そして何故、ココまでメチャクチャに壊れた自分を、見捨てないでいられるのか?

「…人に判って貰おうとは、今まで余り、思った事が無いな…?」

「ナンで疑問系?」

「さぁ…。どうしてかな…?」

惚けた返事に、準一が軽く吹き出す。

「…ヘンなの!」

「…ヘンか?」

静かな部屋で交わされる意味の無い会話に、和泉は力が抜けてしまった。

「…ベッド、借りる。」

「ソーしなよ。どーせ今日は、帰らないよね?」

黙って微かに頷いて、和泉は、準一のベッドに入った。喧嘩騒ぎから何日振りかに、酒の無い数時間を過ごし、微かに眠気が指していた。

 和泉は、準一のベッドで休み、浅い眠りをさ迷った。


 一時間程して、宏治と倉真が戻って来た。ベッドで軽い寝息を立てている和泉を見て、少し気が抜けたような気分になる。

「呑気なボーズだな…。」

吐き捨てる様に、倉真が呟く。すっかり気が抜けて、和泉を撲る気力もなくなった。

「多分、何日も寝てなかったと思うぜ…。」

起き上がった利知未が、和泉の寝顔を眺めて、小声で言った。

「で、どうなってたの?」

準一が、不安そうな声を出す。

「どうもこうも…。」

倉真が言って、呆れた顔をする。宏治が、後を引き受けた。

「近所の店で聞いて来た。あの後、気絶から覚めて、酔いが冷めた途端、慌てて逃げ出したらしい。連れの女が、不倫相手だったみたいだな。」

「じゃ、警察は?」

「着く前に、消えちまったってよ。…俺は、お前の電話で、和泉が相手を半殺しの目に合わせたのかと思ったぜ。」

「そんな言い方、してたのか?」

利知未が聞く。宏治が肩を竦める。

「…まぁ、取り様によっては、そう聞けたかもな…。」

「…だって、マジ、びっくりしたんだよ?相手の人、ぐったりしてて、近くで女の人が『人殺し!』って騒いでたし…。」

「その女が、愛人だったんだろ?二人とも、かなり酔っ払ってたって話しじゃネーか。…ったく、人騒がせなヤツだ。」

倉真の言葉に、利知未が、その頭を軽く小突く。

「お前が言うな。夏には、お前が原因で、大騒ぎになっただろーが?」

「違いない。」

利知未の言葉に、宏治が笑う。準一もばつが悪そうなまま、倉真と目を合わせて笑った。

ノックの音がして、母親が、夜食を持って顔を出した。

 小さな笑い声が聞こえていた事で、母親は少し、ホッとした。

「準一、夜食作ったから、食べなさい。それから、お友達も。もう時間も遅いし、これを食べたら、お家に帰った方が、良いんじゃない?」

改めて言われて、利知未達三人が、顔を見合わす。

「そうですね。夜分に、申し訳有りませんでした。夜食、戴きます。」

利知未が言い、宏治も頭を下げる。倉真は一人、頭を掻いて宏治を見る。

母親は、礼儀正しい利知未の態度を見て、いくらか胸を撫で下ろす。

まだ、利知未の性別は、正しく把握していない。初めて会った時の事を思い出して、同じく、礼儀正しく頭を下げた少年と、確か兄弟だった筈だと思う。

 赤毛モヒカン少年にだけは、今だ畏怖の目を向けてしまう。その母親の目に気付き、利知未が倉真に、軽い肘鉄を入れる。目顔で訴える。

『頭くらい下げろ。』

そう伝わり、準一の母親に、ぎこちなく頭を下げて見せた。


 三人が、夜食を戴いて、渡辺家を辞去した後、和泉が目を覚ます。

「目、覚めた?」

勉強机で、漫画を読んでいた準一が、和泉を振り向く。

「ああ。…瀬川さんは?」

「帰ったよ、一時間くらい前かな?握り飯、そこにあるから食べなよ?」

久し振りに酒も抜け、腹が鳴っている事に気付く。もう直ぐ〇時だ。

 有難く握り飯を戴き、本当に久々に、まともな思考回路が働く。

 自分が起こした騒ぎに、心配して集まってくれた仲間と、初めに自分を見付けて、ココまで連れて来た準一に、感謝の念も浮かぶ。

「…迷惑掛けたな…。」

人心地ついて、準一に詫びる。

「…こんな事、ナンでも無いよ。」

何時もの、呑気そうな笑顔を見せて、準一が言った。

「今夜はそのまま、泊まっちゃってイイよ。オレ、布団持ってくる。」

そして部屋を出て行った。和泉はそのまま、準一のベッドの上に転がる。

『…このままじゃ、いけないのは、確かだな…。』

目を瞑り、改めて真澄亡き後の、自分を振り返った。和泉は、その瞬間だけ、以前の自分を取り戻した。



 準一の家を辞去し、バイクに跨り、ヘルメットを被る。倉真が言った。

「瀬川さん、宏治の部屋で、飲んでかネー?」

「お前、何、勝手に決めてんだ?」

宏治が呆れる。利知未は呆れながらも、今、酒を飲みたい倉真の心境も、判る気がする。

「…ソーだな。宏治が構わなけりゃ、それもイイかも知れネーな。」

「まぁ、おれは構わないけど。」

「決まりってコトで。ナンか摘み、買ってくか?」

「分かったよ。酒も、このメンバーじゃ、足りないかも知れないな。」

宏治が言いながら、来た時と同じ様に、倉真のタンデムシートに跨った。

 途中のコンビニで、酒と摘みを仕入れて行った。


 手塚家に着くと、美由紀が呆れた顔を見せながら二人を迎えてくれた。直ぐに利知未に電話を渡す。下宿に連絡を入れなさいと、目で伝える。時計を見る。十一時になる前だ。このまま、朝まで宿泊コースとなる。

 半分は気晴らしだ。半分は、取り敢えず今日の所は和泉が落着いた事に対する、ささやかな祝いだ。…まだ、コレから先は判らない。不安を一時忘れる為に、三人は酒盛りを始める。途中で宏一も加わり、酒の勢いで、暖房の効いた部屋で、雑魚寝をしてしまう。深夜二時頃、トイレに起き出した宏一が、部屋の明かりを消して行こうと、手を伸ばす。

「…コイツ等…。利知未も一緒で、良く何事もないもんだ…。」

宏一が呆れ顔で小さく呟いた。女である筈の利知未と、その隣に平気で眠っている弟達の姿を見る。欠伸をして、電気を消して、部屋を出た。


 数分後。倉真が寝返りを打って、掌に当った感触に軽く目を覚ます。暗い部屋の中、その感触に、寝ぼけたまま思う。

『コレ…、なんか、柔らケーな…。』

何か判らずに、ただ無意識に探る。触れているモノから、微かな声。

「…う…ン…。」

ビクリとして、目をはっきりと開く。

「え?」「…ん、…ン…?」

つい漏れた声と、聞き慣れない息声が同時に起こった。薄闇に利知未の目と自分の目がぶつかる。ガバッと起き上がった利知未に、その手を捻り上げられ、倉真は自分が触れていた物が何だったか、やっと理解した。

「いててててててて!」

「お前、何したンだ!?」

「ワザとじゃネーよ!ロープ、ロープ!」

騒ぎに、宏治も目を覚まし、電気を付ける。腕を後ろ手に捻り上げられている倉真と、捻り上げている利知未の姿が、はっきりと見えた。

 急に明るくなった事で、二人の目が一瞬チカリとして、利知未の力も少し緩む。目を丸くして、宏治が二人を眺めていた。

「…何があったんですか?」

「寝返り打ったら、何かが手に当ったんだ…!」

「…本当だろうな?」

「嘘言ってどーなるってンすか!?」

必至な倉真の顔を見て、漸く利知未は、その腕を解放した。

 敬太と別れてから、久し振りの事で、利知未は思い出して赤くなる。

「何が、どうなったんですか…?」

「…なんでも無い。宏治、お前のベッド借りる。」

訳の判らない顔をしている宏治に言って、利知未は布団を頭から被った。


          五


 十一月の連休明け。和泉の騒ぎがあった翌週から、期末テストが始まった。直前の週中、倉真はまた、大乱闘の中心に身を置いてしまった。

 あの騒ぎがあった夜。宏治の部屋で起こった、ちょっとした事故に、倉真は、気持ちのざわめきを覚える。

『…ありゃ、ヤバかったよな…。』

思い出すと、冷や汗が出てくる。同時に、改めて女という物の存在に、憧れにも似た感情が疼き出す。

あの時、倉真が触れた物は、利知未の柔らかい胸だった。

『…っつっても、瀬川さんは別格だぜ。…あれは、事故だったんだ。』

思考回路が、色気染みてきた。頭を振って、その思いを払い落とす。


 その倉真の様子を、綾子が見つめる。

 勇気を出し、バイクの後ろに乗せて貰った日から、綾子の中で、倉真に対する思いが、甘酸っぱい様な感情へと、変化していた。

『私は、館川君のことを、特別な人として、好き…。』

自分の心に生まれた愛情に、気付く。

『…ウソみたい…。あの事件から、私は二度と、男の子を好きになる事も無いだろうって、思っていたのに…。』

人を愛するどころか、自分さえ愛することが、出来なくなった事件。

中学二年の夏。あの日、綾子は友達と海水浴へ出掛けていた。

 そこで柄の悪い連中に目を着けられ、友人がトイレに行っていた一瞬の隙を狙われ、気絶させられた。……そして、気が付いたら……。

 何処かの、ラブホテルだったのだろう。…趣味の悪い、ピンクの照明。広過ぎるベッド。その上に、血を流して横たわる自分。自分の上に代わる代わる圧し掛かる、二、三人の少年達。…その身体の重み…。

 今も思い出すと、死んでしまいたい気持ちになる。

 あの事件後。何度刃物を自らの手首に当てたか。何度、大量の睡眠薬を服用したか…。周りにいる男が、…教師や父親さえも恐ろしくなって、眠れない夜を何日、数えた事だろうか…。


『…館川君は、怖くないと思った。それだけでも、驚いたけど…。』

今の自分の中にある、倉真に対する想いは…。

『だから、心配…。また今度、館川君が処分を受けてしまったら…、』

今度は退学になると、あの日、連れて行って貰った海で話してくれた。

自分が、海を怖がっている理由を知ると、直ぐに場所を移動した。

 その時、倉真は。

「悪かったな。お前が海で事件に遭ったとは知らなかった。」

そう言って、綾子の目に浮かんだ涙を、手で拭いてくれた。

「ワリー。ハンカチとか、持ち歩かネーからよ。」

照れ臭そうに言って、そっぽを向いた倉真の横顔に、ドキリとした。

 その瞬間から、綾子の心は、愛情を取り戻した。


 倉真は綾子の、そんな想いを知らない。

 期末テストを控えた、この時期。イライラして、気晴らしに暴れて、騒いで、その二日後、再び職員室へ呼ばれた。金曜の事だった。

「前回の処分の時、言っておいたな?言葉通りに、退学処分にする所だが、ご両親から頼まれた。条件を満たせば、それに免じて、今回の騒ぎは多めに見る。」

「…ナンだよ?俺は別に、辞めたって構わネーぜ?」

腕を組み、難しい顔をした教師が言う。

「期末で赤点がなければ、今回の処分は、ナシにする。」

「……馬鹿バカしーな。ンな面倒な事、ナシで構わネーよ。今日中に、退学届け持ってくらぁ…!」

何かを言い掛ける教師を無視して、倉真は職員室を出て行った。


 授業をサボって屋上で、ヤンチャ仲間に倉真が聞く。

「おい、退学届けって、どう書きゃイーんだ?」

「なんだよ?お前、辞めンのか?」

「期末で、赤点なけりゃ、イイって言われたけどよ。どーせ、このまま学校いたって、直ぐに次の騒ぎ、起こすダローからな…。面倒な勉強するよりゃ、よっぽど楽だぜ。」

「…お前らしい…。」

呆れた顔の仲間に言われ、生徒手帳のページを捲る。一度も開いた事が無い。まだ新品同様だ。

「お、コレか。…で、こう書きゃイーんだな…。」

火の着いたタバコを咥え、ぶつぶつ言いながら、ノートの一頁を破って、退学届を書いた。


 昼休み前には、退学届を持って来た倉真に、担任は言葉も出なかった。

「っツーことで、世話ン成りました。もう帰って構わネーよな。」

「…お前は…。どうしようもないヤツだな…。」

「始めの約束、守るだけだ。じゃーな。」

教師に向かい、いい加減な態度で片手を上げて、倉真が教室へ戻る。

 教室で、机とロッカーの中身を片付ける倉真の姿に、綾子が驚いた。

「…館川君!…辞めちゃうの…?」

教室の外まで追い掛けて、縋るような声を出す。

「ああ。ま、元気でやれよ。」

綾子の事など意に介さない様子で、ニヤリと笑って行ってしまった。

 校舎内を出て、タバコを咥えて歩き出す。駐輪所へ向かい、バイクに跨る。学校への往復に、ヘルメットは被らない。自慢のモヒカンを寝かすのが、面倒だった。咥えタバコのまま、走り出す。

 綾子は教室の窓から、走り去る倉真のバイクを、見送った。


 昼前に家へ戻った息子を、母親が目を丸くして迎える。

「倉真!学校、どうしたの?」

「あん?辞めて来た。」

「辞めて来たって…。」

軽く言い捨てる息子の言葉を聞いて、絶句してしまう。

「ソー言う事だ。明日からバイト探す。」

とっとと自室へ向かってしまう。唖然としている内に、私服に着替えた倉真が再び、階下へ降りて来た。髪を寝かせた姿に、何処かへ遊びに行ってしまう事を知る。

「二、三日、戻らネーから。」

呆然として、玄関を出て行く息子を、見送ってしまった。暫くして、慌ててサンダルを引っ掛けて外に出る。目の前を、倉真のバイクが走り去って行った。

「あの子は…!」

全く、困った息子だ。隣近所では、漸く夏の噂が収まったばかりだ。

それでも、家に居る時は、父親と毎日の様に大喧嘩。最近は、倉真も力が強くなり、下手をすると、親子で大怪我をしてしまう。


 父親が喧嘩相手として、自分よりも弱くなり始めた事を感じて、倉真は段々、家に居る時間が、少なくなってきていた。

『腹は立つけどな…。一応、親父だ。』

 そう思うと、いつか自分が父親に、完全に勝ってしまう日が来る事が、少し怖いような気もしていた。

 一人暮しを始めた克己の部屋や、宏治の家に転がり込む事も増えた。

『暫く、克己の世話に成るか…。』

進路を、克己のアパートへと向け直した。


 利知未はテスト中だ。テスト勉強に託けて、先週の土曜はバッカスに行くのを止めた。余り意識をするのも、どうかとは思うが、和泉の騒ぎの夜、宏治の部屋で起った、ちょっとした事故。その後で、倉真と酒を飲むのは、流石に拙いような気がした。

『アレがあったからって、どうなるモンでも無いとは思うけどな…。』

取り敢えず、テストが終るまで。責めて、一週間の冷却期間を持つのが、賢明な処置だと思った。

『…あの後、久し振りに、敬太の夢を見た…。』

思い出して、切ない想いに捕われる。

 小さく頭を振って、目の前の答案用紙に、向かい直す。


 このテスト期間前に、倉真は高校を中退していた事になる。バッカスへ顔を出す前の利知未は、まだ、その事実を知らない。


 和泉はあれ以来、酒を飲むのをピタリと止め、真面目に職業安定所へ通い始めた。心の奥では、未だ癒えない悲しみと、一人戦っている。

 母親は、以前よりも更に、寡黙になった息子の事を案じている。

『真面目に、仕事を探すにしても…。』

自分は、本当につまらない男だったんだな…、と思う。

 本当にやりたい仕事と言われても、何も思い浮かばない。探している仕事の条件は、内に篭るのではなく、なるべく身体を動かしていられる仕事。それだけだ。ジッとしているよりは、気も紛れるのでは無いか?

 それだとしても、まだ十六歳で車の免許も無い。学歴も、中学卒業。

どうしても工場や、現場の力仕事が主になる。

『…何か、専門の免許でも取っておいた方が、良いかも知れないな…。』

では、何を…?

 そう思った時、将来まで続けたいと思える仕事の目星が付かない以上、数多ある免許の中で、何を取得すれば良いのか?判断に迷う。

 悩みが一回りして、酒に手を出し掛ける。そして真澄の事、準一の事、仲間の事を考え、思い直して手を止める。



 準一は、和泉が、いくらかは落着いた事を感じ、少しだけホッとする。

 ホッとすると、真澄の事を思い出す。

『真澄ちゃん、どこの高校、行きたかったんだろう…?』

自分の進路は、決まらない。それならいっそ、真澄の行きたかった高校でも、イイかも知れない。…レベルさえ、クリア出来そうなら…。

 思い立って、テスト期間中の放課後。和泉の家へ、寄り道をした。



 宏治は、学校の成績も悪い訳ではない。倉真に比べれば、勉強自体に対する嫌悪感も、強くは無い。素行も、表立っては目立った事も無い。

 家庭の事情で、母が切り盛りするスナックを手伝っている事も、薄々気付かれているようだが、教師も見ない振りをしてくれている気配だ。

 学校側から見ても、宏治側から見ても、安定した関係を保っている。


 その宏治の心に、退学の二文字が浮かび始めている事は、本人以外、誰も知らない…。


 不満が有る訳ではない。ただ、自分の将来を考えた時、普通科の東城高校へ入学した事は、失敗だったと思い始めている。

『最終的には、店、手伝うつもりだからな。調理師免許を早く取得して、食品衛生責任者資格を、取る準備をするべきだったな…。』

 資格試験のガイドブックを買って、気になるページを熟読した。

『お袋、元気でいる間はイイけど、いつかは。取り敢えず、調理師免許だけ、早めに取っておきたい。』

 その為に高校を退学し、専修学校専門課程・高等課程を収めに、一年。そちらの学校に通う事も、思案中である。

 バッカスでの調理経験では、受験資格を得られないのだ。

 考えを実行に移そうとする、その背中を押したのは、倉真だった。



 その週末も、倉真はバッカスに現れた。先週、利知未が顔を出さなかった事に、明らかに、気が抜けていた。

「正直、緊張したぜ。先週は…。」

「今日は、何とも無さそうだな。」

「一応な。落着いたってのか?ンな感じだ。」

 あの夜、何があったのかは、聞かなかった。それでも、久し振りに睨みを効かせ、倉真の腕を捻上げていた利知未の姿を思い出すと、倉真が何か、下手をヤったらしい事だけは、想像がつく。

「まだ、克己さんの所に、転がり込んでンのか?」

先週末に退学した事と、夏の騒ぎで、宏治とも顔見知りになった克己のアパートへ転がり込んだ事は、聞いていた。

「タマには、戻ってンぜ?バイトの合間に。」

「バイク便か?」

「やりたかったからな。」

「ソーだな。お前には、向いてると思うよ。」

宏治に言われ、満足そうな笑みを見せる。

「学校よりゃ、よっぽどイイのは確かだ。」

「…だろーな。」

「ついでに、限定解除、取ったぜ?」

ニヤリと言って、ポケットから免許を取り出し、宏治に見せる。

「直接、試験場か?」

「その方が早いからな。」

「おめでとう。おれも、誕生日来たら、取りに行くよ。」

「いつだ?」

「十二月十九日。あと少しだ。」

「そうか!さっさと取って来いよ。走りに行こうぜ?」

嬉しそうな顔をする。学校を辞め、自分の好きな事に集中し始め、倉真は今、憑物が落ちたかのように、晴れ晴れとしている。

 その様子を見て、宏治の心も決まった。

『目標があるんだ。思う通り、やって見よう。』

 そして、そこに向かい始めた時には、自分も、晴れ晴れとした顔で、笑えるのかも知れない…。

 一つの決心を固め、曇りが晴れたような気分になる。和泉の事で暗くなりがちだった気持ちにも、一筋の光が、指し込んだ気がした。



 利知未は、アダムでのバイトを終え、店を出る。月末に入るバイト料の明細書を確認して、頭の中で計算機を叩く。

『コレで、七五〇に乗り換えだ。』

FOX時代からの貯金残高と、免許を取り終えてからのバイト料。それらを合わせて貯めた金額は、八十万を超えた。目星を付けたバイクを買っても十万程は残る。

夏休みを終えた時点で、必要金額は貯まっていた。

『今のバイク、もし宏治が免許取ったら、譲るのもイイかも知れないな。』

そう思っていたので、敢えて、この十一月を過ぎるまで、待っていた。

 良い知らせを届けるついでに、バッカスへと進路を取る。



 十時半を回って、店に現れた利知未を見て、倉真は一瞬だけ、心臓の音が跳ね上がるのを感じた。

掌に、忘れたと思い込んでいた、柔らかな感触が甦る。その手を軽く握って、思い出した感覚を握り潰す。心の奥に生まれた不思議な感情に、知らない振りをする。感覚を摩り替える。


「やっぱり、来てたな。」

利知未が、何事も無かった様に言い、いつも通り、倉真の隣席に腰を下ろす。倉真は口の端を軽く上げて、笑顔を見せた。利知未の顔を正面から見る事に、軽い抵抗を覚える。自分でも妙な気がした。

『…そりゃ、まぁ…。瀬川さんが女だって事は、当たり前に判っていたンだけどな…。直接、実感しちまったのは、正体を知った時以来だ…。』

溜息を、煙草の煙を吐いて、誤魔化した。

 それでも少年達の中で、一番、利知未の女の部分を目にしているのは、倉真である事は事実だ。…本人は、無意識での出来事だ。比べ様が無い。

「宏治。お前、免許どうするンだ?」

ロックを出した宏治に、利知未が聞く。グラスに口を付ける仕草も、タバコをポケットから出して、口に咥える仕草も、変わらず少年の様な雰囲気だ。横目にそれを確認して、倉真は思う。

『…やっぱ、女って感じはしないよな…。』

 綾子の事が、頭に過る。利知未とは、全く正反対な少女。線の細い、弱々しい雰囲気の持ち主。

『なんで、浜崎を思い出すかな…?』

その感情にも、自分で不可解だ。倉真はまだ、異性を好きになる感情に、気付いていない。

それよりも、強く興味を惹かれる事、やっていて、スカッとする事がある。バイクと喧嘩。…男同士で酒を飲む時の、大騒ぎ。

「誕生日過ぎたら、そのまま試験場に行くのも、イイかな?って。」

「倉真と同じだな。勉強、してンのか?」

「まぁ、ボチボチと。」

「そーか、ま、頑張れよ。免許取ったら、今のあたしのバイク、譲ってもイイかと思ったンだ。お前、どうする?」

「マジですか?学校行く、足にしてンですよね?」

「七五〇、買うよ。やっと金が貯まった。」

「そりゃ、凄い。そうですね、瀬川さんがイイなら、譲って下さい。」

「OK。じゃ、その前に軽く、整備出しとくか…。次の車検、お前が、自分で払う事になると思うけど、平気か?」

「何とかします。買うより、安いだろうし。」

「決まりだな。」

軽くグラスを掲げ、乾杯の仕草をして、グラスを口に運ぶ。色っぽいというよりは、男っぽい。そこまで利知未を観察し、倉真は、やっと気が楽になる。…やっぱり、この人は別格だ…。

 小さく笑い、二人の会話に、改めて参加した。



 十二月頭。利知未の通う、北条高校では、期末テストの成績が、廊下へ貼り出された。眺めて、透子が言う。

「アンタ、本気で学年3位にまで来ちゃったんだ…。こりゃ、アタシももうチョイ、気合い入れた方がイイかも?」

「お前、コレ以上、成績上げて、どうするンだよ?」

「アンタがサボった時の保険?」

「…協力感謝。」

 二人の会話に、夏過ぎには、まだピリピリとして、利知未を意識していたクラスメートも、諦め切った顔になる。


 宏治は、退学届を提出した。担任は驚いた顔をして、何とか思い留まらせようと、言葉を尽くす。それでも、宏治の先の進路を聞いて、納得し切れないままに、その届けを受理してくれた。


          六


 冬休みに入り、下宿のメンバーも、里帰りだ。

 利知未は、冬休みもアダムでバイトに精を出す。バイクは手に入れた。今まで乗っていた四〇〇は、約束通り、新しい主人に可愛がられている。

下宿の駐輪所では、利知未の新しい相棒が、今までの愛車と比べて、場所を広く取っている姿が、少しだけ窮屈そうにも見える。

 和泉の様子は、変わらず気になっている。倉真と宏治の退学についても、自分なりに考えを巡らす。

『考えてたって、ショーがネーか…。…答えが出る問題でもネーし…。あたし等全員、気晴らしが必要だな。…和泉と準一、タンデムシートに乗せて、皆で初詣にでも繰り出すか?!』

 転がっていたベッドから起き上がり、電話を使って、集合をかけた。

 初詣は、克己も参加する事になった。倉真は、あれ以来、殆ど自宅に戻っていない。既に今年も、残り2日を数えるだけだ。

『倉真の事も、何とかしネーとな…。』

受話器を置いて、息をつく。また一つ、考え事が増えてしまった。



 和泉は、それ程、乗り気ではなかった。それでも、準一からも声を掛けられ、重い腰を上げる。

 約束をした以上、本来メンバー中でも、一番、真面目なその性質で、集合場所には準一を伴い、十五分前集合だ。


シャッターを下ろしている、バッカスの前に、和泉と準一が到着する。

「オレ、誰の後ろに乗るんだ?」

「さぁな。…誰の後ろでも、大差ないんじゃないか。」

「でも、宏治は、まだ免許取り立てだし、克己さんは暴走族上がりだし、倉真の性格考えると、どんな運転するか判らないし。やっぱ、瀬川さんの後ろが一番安全そうだよ?」

「だったら、お前、は瀬川さんの後ろに乗ればイイ。俺は、誰の後ろでも構わないよ。」

ワクワクしている準一とは反対に、やはり、乗り気では無い雰囲気だ。

 始めにバイクで現れたのは、意外にも、克己と倉真だった。

「遠いからな。早めに出て来た。」

珍しそうな顔をした準一に、一服しながら倉真が答える。

「和尚、少しは、落着いた見テーじゃネーか?」

煙を吐きだし、和泉にも声を掛けた。

「…一応はな。」

短く答える和泉に、倉真は未だ完全には気分が晴れていない事を感じた。

 自分は高校を辞めてしまってから、いくらか気が解れている。以前ならば、いつまでもグズグズしている様な和泉の態度に、癇癪を起こして撲りかかっていた所だろう。

「お前も、苦労性だな。」

小さく言って、ヘルメットを投げ渡す。受け取り、和泉が目顔で尋ねる。

「今日は、俺の後ろ、乗せてやンぜ?克己のバイクは二五〇だし、宏治は、まだ免許取って一月も経ってネーからな。」

「そうだな…。」

利知未の後ろに乗るよりは、気が楽だ。

「じゃ、オレが瀬川さんの後ろで、構わないんだね!?」

準一が嬉しそうに言った。


 程なく利知未と宏治も現れ、四台のバイクが、並んで走り出す。

 流石に元旦だ。道も空いていた。年始回りに走る車がいるくらいだ。

 和泉と準一は始め、タンデムシートのカーブでの体重移動に戸惑った。 しかし三十分もすると慣れ始め、準一は後ろから、利知未を煽り始める。

 倉真の走りは、普段の性格からは考え難いが、安心感のある安定した走りだ。無免時代から、宏治を後ろに乗せて走っていたのだから、返って、利知未よりも巧いくらいだった。和泉は、倉真を見直した。


 行き先は、何処でも構わなかった。目的地よりも、そこまで走らせる事が気晴らしだ。途中のファミレスで昼飯を食い、一休みして国道1号線を走らせる。小田原駅を超えた辺りで、135号線へ左折して、そのまま、海岸線を南下し、伊豆半島に沿って、バイクを進める。

「冬の海岸線は、やっぱキツイな。」

言いながらも、カーブも程々にある道行きを、楽しみながら進める。

御石ヶ沢トンネル、新宇佐美トンネルを抜けた先で、比波預天神社の

表示を見付け、行って見る事にした。

 有名な神社と言う訳では無く、初詣でには近隣の住人が訪れる程度だ。お蔭でゆっくりと参拝する事が出来た。

「この辺り、神社が多いな。面白そうだから、梯子しないか?」

地図を確認して、克己が言った。バイクで一時間半も走らせれば、近隣の八幡神社、春日神社、熊野神社、もう一つの八幡神社と稲荷神社の、6神社全てを周れそうだ。

「それもオモシロソーだな。」

利知未が言い、再びバイクに跨った。


 午後三時前には、全ての神社を回り、帰途につく。走り慣れた神奈川の道を行く頃には、日が落ちて、すっかり暗くなった。


 倉真が言い出し、久し振りに、宏治の部屋で酒盛りが始まる。六畳に机とベッドが置かれた、六人と言う人数には、少し狭く感じられる部屋で、多いに盛り上がる。その中で和泉一人、久し振りの酒を黙々と喉に流し込む。その様子を気遣わしげな目で、利知未が見守る。


 利知未は、途中で一端、抜けだし、美由紀とダイニングで話しをした。

「全く…。あんた達には、呆れちゃうわね。」

盛り上がる、宏治の部屋の扉に視線を向けて、美由紀が言う。

「いつも悪い。どうしても、ココになっちまうな…。」

利知未が、少し情けなさそうな顔をする。美由紀が冷たいウーロン茶を出してくれる。自分は温かい緑茶を用意して、向かいの椅子に腰掛ける。

「どーせアイツ等は、朝まで宴会してンだろーけど…。あたしは少し、眠らせてもらいたいな。…美由紀さんの部屋、貸してくれよ?」

「あら、珍しい。少しは、女としての自覚が出て来たの?」

「…って訳でもネーよ。…ただ、あの騒ぎの中で眠れる訳ネーだろ。」

「それもそうね。構わないわよ。布団、敷いておいてあげるから適当に抜けてきなさい。」

そう言って、含みを持った笑顔を見せる。

「…ナンだよ?」

「別に。…前の彼氏と別れて、もう半年?」

「…ソーなるな。美由紀さんには、改めて紹介するタイミングが無かったよ…。約束破って、ごめん。」

「別に良いわよ。一度は見てる訳だし。…確り大人の恋愛、しちゃったみたいね…?大変な事には、ならなかったみたいだけど。」

言葉の裏の意味は判る。利知未は少し、俯いて答える。

「…本当は、少しヤバかった…。」

俯いた表情に、いつか恋愛の相談をしてきた、利知未の姿を思い出す。

『普段は見せないけど、すっかり女らしい顔もする様になった事…。』


 美由紀は、娘が一人でも欲しかった。利知未は美由紀にとって、本当の娘代わりの様な存在だ。いつか、他の家庭の母娘と同じ様に、女同士の友人のような付合いが出来る事を、今から楽しみにしている。

 正月の宴会を数日過ぎ、アダムの年末年始休みも終った。今年は同時に、新学期もスタートだ。三学期に入り、直ぐに中間テストが始まる。

 宏治は、今年の四月から、専修学校への入学を、決心している。

 美由紀は、次男の突拍子も無い行動に、少し目を丸くしていたが、その先の、希望と進路を聞いて、素直に応援する事を決めた。

 いきなり高校を退学した事は困りモノだが、その将来を、自分の補佐に回ろうと決めた、宏治の気持ちは嬉しい。いつか、自分が年を取った時には、店をそのまま、宏治に引き継ぐ事も、考えないでもない。


 倉真は未だ、克己の所に転がり込んでいる。好きで始めたバイク便のバイトを、楽しそうに続けている。


 準一は、そろそろ受験間近だ。真澄が、受験するつもりでいたらしい高校は、ナンとか準一も、手が届きそうなレベルの高校だった。和泉の母から、その高校名を聞き、迷う事無く、進路を決めた。


 和泉は、悲しみを改めて胸に刻み付ける切っ掛けに出会ってしまう。

 その切っ掛けは、何気ない日常生活の中に、隠されていた。


 その二月は、寒かった。土曜の事だ。

 和泉は朝、起きだして、洗面に向かう。一歩、廊下へ出た時、冷たい筈の廊下が、ほのかに温かい事を感じる。

 その時点では、何も感じなかった。可笑しく感じたのは、久し振りに訪ねた、渡辺家の玄関を入った時だ。

「久し振りね。どう?仕事は決まった?」

笑顔で迎えてくれた、準一の母が、言葉と一緒に、白い息を吐き出す。

 自分の家では無かった現象に、玄関を入った廊下の寒さに気が付いた。

『そう言えば…。』

真澄が、冬に自宅で過ごす事が出来ていた頃。その機能を果たすには問題があった、心臓への負担を減らすため、萩原家では、廊下もトイレも、風呂場さえも、いつも一定の気温に保つ為の、工夫を凝らしていた。

 この冬一番の寒さを記録した、この日。和泉の母は、つい以前の癖で、その廊下さえも、小さな灯油ストーブを使い、快適な温度を作り上げてしまったのだった。


 準一と会い、久し振りに、教科書を見せられて、勉強を教えた。

 中学を卒業するまで、真面目に勉強に取り組んでいた和泉は、今でも教科書を見れば、中学生の勉強くらいは、教える事が出来る。

 そもそも、その日。準一の家を尋ねた理由は、受験勉強のヘルプを出されたからだ。その勉強も。

 和泉にとっては、真澄に教えていた頃の事を思い出す、切っ掛けになってしまった。準一の前では、甦った悲しみを、表に出す事なく堪えた。


 帰宅して、真澄の、生前のままになっている部屋へ、足を踏み込み、和泉は、呆然と時を過ごした。

 母親が、再開したパートを終え、帰宅し、夕食の準備を整え、自室にいる筈の息子に声を掛けた、その時間まで。


 勉強机の上に並べられた、中学二年の教科書をパラパラと捲り、本来ならば、準一と共に今ごろ、受験勉強に忙しかった筈の真澄を思い出す。

 可哀想な妹だった。去年の今頃、長い入院生活をしていた事で、実際の、歳成りの学校生活さえも、送れなくなってしまった。

 あの入院が無ければ、今頃は受験生だ。…生きてさえいれば。


 有得ない気配を感じて、真澄のベッドを振り向く。

 真澄の幻が、ベッドの端に腰掛けて、剥れた顔をしている。

『どうして、数学と英語は、少し休んでしまうと、中々、追い付けなくなっちゃうんだろ?…国語や社会は、平気なんだけどな。』

『それは、積み重ねの教科だからだ。少しずつ覚えて行く事で、その先の問題の解き方に、応用していく教科なんだよ。』

和泉が言うと、真澄は諦めた顔になって、ベッドの上に転がった。

『じゃ、私は一生、数学と英語の出来ない子になっちゃう。』

『そうならない為に、こうやって一緒に勉強してる。…来年になったら直ぐに、受験だろう?今の内に、頑張らないとな。』

 真澄が、十四歳の誕生日を迎える前。中学二年の、夏前のこと。


 ベッドの上で、枕元のラジカセで、FOXのテープを聞きながら、読書をしている真澄が見える。

 本来ならば、中学三年生、最上級生として、学校生活を送る筈だった、去年の春。真澄は、まだ十四歳。

楽しい筈の学校生活が、ストレスを増徴させていた頃。

あの頃のストレスが、真澄の心臓を益々、弱々しく変化させてしまった。…その鼓動は不整脈となり、真澄を苦しめた。


 もっと昔。まだ真澄が、元気な様子を見せていた、小学校低学年の頃。

 楽しく遊んでいる時、何かの興奮が、真澄の心臓を締め上げる。

『真澄!?どうした?』

『…お、兄、ちゃん…、く、る、しぃ……。』

乱れた呼吸、可笑しなリズムを刻む心臓、気を失った真澄。直ぐに母に知らせ、救急車を呼ぶ。

 あの時から。真澄は病院のベッドの上で過ごす時間が、増え始めた。

「…真澄…。」


 …小さく呟く。二度と、この部屋へ戻らない妹の幻を、抱き締めた…。


 下宿では、中学三年の冴史と里真が、受験勉強の、ラスト・スパートをかけている。冴史は勉強も出来る方だ。最近は、予想問題を、時間を計って解く、本番直前のリハーサル勉強が、主になっている。

 里真は、それ所では無かった。未だ、学力向上の勉強中だ。


「お前、そんなんで大丈夫なのか?」

相変わらず、利知未の部屋へ、ノートと教科書と、参考書を持ち込む里真に、利知未は、呆れ顔で聞く。

「大丈夫じゃ、ないかも知れないけど、ヤルしか無いんだもん。」

里真は、顔も上げずに答える。樹絵は、この冬休みから利知未の家庭教師を、里真に譲っている。

最近は、里真が一人、利知未の部屋へやって来る。

「東城高校にしとけば、良かったんじゃネーか?通うのも楽だし。」

「利知未の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった!自分は学校迄、一時間近くかけて、通ってるじゃない。」

「…ま、ソー言われりゃ、ソーだが…。」

里真と冴史は、同じ高校を目指している。


 冴史は、部活動目当ての受験決定だ。そこの文芸部出身者に、憧れの作家がいる。部誌も、他校の学生にまで、人気がある。出版社や雑誌で、偶に募集している、小説作品のコンクールや、学生作品のコンクールでも、良い所まで行く部員が多いらしかった。

 里真の方は、単純に、制服のデザインが気に入った。

 黒や濃紺ではなく、ブルー系のカラーがついた、さわやかな印象の、可愛らしいセーラー服。

「私、絶対、ブレザーは似合わないと思うのよ。だから、ココがイイ!」

そう言って、学力的に、かなりの努力を要する高校に、受験を決めた。

「動機が、不純な気もするけどな…。」

呟く利知未に、里真が反論する。

「えー?どーして!?三年間も着る制服だよ?可愛くて、自分に似合う方が、学校行くのも、楽しくなってイイじゃない。純粋な憧れが動機よ!」

「…ソーかよ。ンじゃ、ウダウダしないで、とっとと次の問題を解け。」

「判ってます。………。で、利知未さん?コレ、どの公式当て嵌めれば良いんでしたっけ…?」

 急に『さん』付けで呼び、自分の顔を下から覗き込む、里真の表情を、利知未は呆れ半分に、眺め返した…。



 そんな生活の中、下宿に新しい住人がやって来た。

 今井 美加。初めて、小学6年生で、この下宿にやって来た少女だ。

 三学期の半端な時期に、入居して来た理由は、四年十ヶ月前に入居した、利知未の理由に、良く似ていた。

 それまで、面倒を見てくれていた祖母が亡くなり、両親とは、暮らす事が出来ない理由があり、急遽、この下宿への入居が決まった。

 大人しげで、可愛らしい少女だった。

 まだ、小学校を卒業してもいないのだから、仕方が無いかも知れないが、幼く、何となく、おどおどとした雰囲気を、持っていた。

 優しげに笑顔を見せる、他の住人に対しては、それでも徐々に、慣れていった。しかし、普段は無愛想で、少し冷たく、怖くも見える利知未に対しては、その初対面の印象から、畏怖の念を持ってしまった。

 美加は、対人関係のストレスに、弱いタイプの子だった。


 空き部屋は、以前は朝美が使っていた、一人には広過ぎる、変わった形の部屋と、利知未が使っている部屋の、斜め前。玲子の部屋の隣りに当たる場所の、二部屋だけだ。

 美加は一番怖いと感じてしまった、利知未の部屋の、直ぐ近くの部屋へ、入る事になった。部屋が近ければ、顔を合わす機会も増える。

 朝、目覚めて、洗面に向かう時。帰宅し、各部屋で過ごす時間。里沙が食事の用意を整え、里真の受験勉強に付合う、利知未に声をかけた時。

 朝の洗面や、二階のトイレを使う時は、一番、その場所に近い利知未の部屋の、前を通る。その度に、いきなり扉が開いて、利知未が出て来ないか、気にしながら、早足で用を足しに向かう。

 その雰囲気は、利知未にも伝わる。だからと言って、妙な猫撫で声を出す事は、利知未には出来ない。そう言う性格だ。


 利知未は、バンド活動をしていた頃よりは、下宿にいる時間も長い。

 里真の勉強を見てやり、バイトとバッカスで時間を潰し、なるべく新しい住人を、刺激しない生活を送る。

 里真と冴史が、受験本番を迎える二月中旬まで。利知未はそうやって、美加との距離を、取り続けた。

『怖がられてるモンを、無理にどうにかしようとしたって無駄だ。』

本来持っている面倒臭がりな性質が、こう言う対人面には良く現れる。


 中学三年コンビが、受験を終え、発表を待っている頃。

 和泉の様子が、また変わり始めた事に、利知未は気付く。

 準一も受験を追え、再びバッカスやアダムに、顔を出し始めた。

 そして、準一からの話しを聞き、最近の和泉を、知る事になった。


 酒を飲んで暴れていた、この秋までの和泉とは、また違うらしい。

 今度は引篭もりがちに成り、外に顔を出さなくなってしまったと言う。

「何かさ、酒を飲みに出ていた和尚の方が、まだ手助けのし様があったみたいな感じだ。…オレも、受験だったし。」

バッカスで、三人を前に呟いた準一を見て、複雑な視線を交し合った。


          七


 二月の最終週。学校生活では、学年末テストが行われた。

 準一と、下宿の中三コンビは、テスト期間に重なって、喜ばしい知らせを受け取る事が出来た。


宏治も四月から、専修学校への、入学を決める。

 専修学校は、昼間一年。夜間クラスでは一年半かかる。夜はバッカスを手伝いたいと思っていたので、昼のクラスに通う事を決めた。

 宏一が、自分の貯金を、宏治の学費に回してくれた。

「どうせ、どっちかが、店手伝って行かなきゃならネーんだ。オレは、今の仕事、辞める気ネーし。お前が店を、お袋と続けるってンなら、金は、オレが出してやるよ。」

 宏治の高校中退についても、余り拘りを見せなかった宏一は、イイ所で、弟の助け舟となる。

 昔、散々、手を焼かされた母・美由紀は、嬉しさに頬をほころばせた。

『宏一も、本当に確りして来てくれたわ。』

 女手一つで苦労して、育ててきた甲斐が、あると言う物だ。

『後は、イイお嫁さん。早く見付けてくれると、良いんだけど。』

宏治と、七歳違いの宏一は、今年で二十四歳になる。美由紀は、今の宏一と同い年の頃。既に、三歳になる息子の親だった。

『男だから、急がせる事も、無いと言えば、無いけど…。』

余り早く、おばあちゃんになるのも、嫌なのも確かだ。今年で四十五歳。今はまだ、四十四歳。四十代で孫がいるのも、悲しいかもしれない。

『いっその事、利知未でも、貰っちゃおうかしら?』

本人の希望も無視して、冗談半分に考える。自分の思い付きに、小さく笑ってしまう。

手塚家は、今、安定した幸せに包まれている。


 館川家では、父親が、重い腰を上げた。

「倉真のヤツは、何処に転がり込んでるんだ?」

夕食後、晩酌の途中で、妻に問う。

「偶には、家に戻っているんですけどね…。あの子の行動は、読み切れないわ…。」

 頬に片手を当て、首を傾げる。


 去年、十一月の中旬過ぎ。苦労して夫まで動かして、学校まで処分の緩和をお願いしに行ったと言うのに。その3日後には、勝手に退学届を提出して来てしまった息子の、読めない行動に頭を悩ます。


「お前は、良くそんなに、呑気に構えていられるな…。」

憮然として、夫が言った。

「あの子は誰かさんに、そっくりですから。…母親として、性根の部分は、信用しているんですよ、これでも。」

「誰かだって?」

「はい。今、晩酌をしている、目の前の誰かさんに。」

夫が、面白く無さそうな顔をした。

「勝手に退学しちまった事は、もう何を言っても仕方が無い。それならそれで、店を手伝わせて、和菓子職人にする事も、考えないでも無い。」

「そうですね。そうしてくれたら、貴方が一人で、ここまでにした商売を、これから先に、長く続けて行く事も出来ますからね。」

妻が微かに、笑顔を見せる。

「…今度戻ったら、俺が帰るまで、家を出すな。」

「はい。言っておきます。」

 妻の返事に、小さく一つ確りと頷いて、ビールを喉に流し込んだ。


 倉真の居場所を、綾子も探している。

 退学後の事が気懸かりで、勇気を出して、倉真のヤンチャ仲間に聞いてみた。その話しに寄ると、学校を辞めてしまってからの倉真は、滅多に家にも、帰っていないと言う。

「ひょっとして、克己さんの所にでも、転がり込んでんじゃネーか?」

「克己さん?」

「倉真が良く、バイク借りてた、元族の克己さん。」

「アイツ等、仲イイからな。」

ヤンチャ仲間三人が、代わる代わる、教えてくれる。

 綾子は、始めは恐々と、声をかけていた。話しを聞いている内に、段々と、その怖さが薄れ始める。

『…館川君の友達だからかな…?今まで周りにいた、怖い人達よりも、少し、平気見たい…。』

そう感じるが、心の底からは、安心し切れない。

 それよりも、克己の事を聞き、いつか捕まった時、自分を守ろうとしてくれていた、青年の事を思い出す。

『克己さんって、あの人の事かしら…?』

 監禁された、翌日の昼過ぎ。倉真のバイクで、自分を家まで帰してくれた。その外見よりも、よっぽど優しげな目をした青年…。

「克己さんの家は、教えて貰えませんか…?」

「イイぜ。チョイ待ってな。」

そう言って、一人の少年が、生徒手帳の一頁を破り、簡単な地図と住所を書いてくれた。

「オレらもアンマ、行かネーけどよ。確か、この辺りだ。」

「どうもありがとう。探してみます。」

「イイって事よ。倉真に会ったら、タマには連絡寄越せって、言っといてくれ。」

小さく頷いて、綾子は急ぎ足で、教室へ戻って行った。


 下宿では、受験を無事に終らせ、ホッとした里真が中心となり、ある計画を立て始める。双子から、新住人の様子を聞いた事が発端だ。

「美加ちゃん、ちょっと可哀想。」

何とか、利知未と美加の関係を、改善する事が出来ないかと考える。

「…っても、利知未は、あーゆー性格だし、仕方ない気もするけどなぁ。」


 樹絵は、今の店子の中では恐らく一番、利知未とウマが合っている。

 玲子とは相変わらず、ライバル関係だ。冴史は元々、余り他人の事に深く関ろうとしない。感情的に関るよりも、客観的に人を見て、観察している方が楽しいらしい。


「うーん。…情報は、持ってるよ?」

黙って聞いていた秋絵が、口を出した。

「情報?」

「美加ちゃんの誕生日、三月十四日らしい。」

「もう直ぐジャン。ホワイトデー生まれなんだ。」

「ホワイトデーって、ココ数年で言われ始めたイベントよね。」

「ソーだな。じゃ、誕生日が、後付けでホワイトデーになったって事か。」

「ソーなるね。…で、それで、どうすれば良いの?」

話しが逸れて行く樹絵と里真に、秋絵が答える。

「だから、美加ちゃんのバースデーパーティーでも、やったらどうかな?と、思ってみたんだけど…。歓迎会も込みにして。」

「そーすると、どーなるの?」

「皆でお祝いする訳でしょ?プレゼントも、ナンでも良いから一人一個ずつ用意する事にして…、当然、利知未も参加させるでしょ…?」

「…そっか!パーティーで、二人が打ち解けられるかもしれない?!」

「…ソー簡単に行くかなぁ…?」

「やって見ないと判らないわよ!やって見よう?!」

 里真が、すっかり乗り気になって、元気に仕切り始めた。



 三月初めの土曜。

利知未はバイトの後、春休みのシフトについて、マスターと話をする。

「春休みは、二十一日からだったな?」

「用事がない限り、入ります。」

「おお、そのつもりで、ギッシリ入れといた。」

ニヤリとマスターが笑う。シフト表を見せられ、利知未は少し呆れる。

「マジ、ギッシリだな…。ま、イーけど。」

木曜の定休日以外は、全て入っている。朝十一時から夕方十八時まで。

「土曜は、どうする?昼間に戻すか?」

「ソコは、今まで通りの時間になってンだな…。」

「他の従業員との兼ね合いもあるからな。妹尾が入って楽になった。」

夏からバイトに入った妹尾は、陽気な性格で、客商売にはどうやら向いている様子だ。春休みを過ぎた大学入学後、平日夜のバイトになる。

「今まで、弱い時間だったからな。」

すっかりベテラン風の口を聞く利知未に、マスターが再びニヤリとする。

「お前が早く大学に入ってくれると、益々、助かるな。」

「…って、あたしのシフトは、ンな先まで、決まってんのかよ?」

「恩があるだろう?俺には。」

「…言ってろよ。…ま、土曜は、このままで構わネーよ。」

利知未はこれから、大学入学準備の金を、貯めて行かなければならない。

「用事が出来たら、早めに言え。都合付けてやる。」

「判りました。ンじゃ、お先に。」

「おお、お疲れ。」

鈴を鳴らして、店の正面から出た。

 バッカスに寄って行こうと思う。と言うよりは、もうすっかり習慣化してしまっている。

『何だカンだ言ったって、やっぱ、アソコは居心地がイイ…。』

去年秋の和泉の事件から、利知未は徒歩二十分程で着けるバイト先に、バイクで通うようになっていた。また、何時。いきなり起動力が必要になるか、判った物じゃない。


 その時間、下宿では。

 利知未の帰りを、手ぐすね引いて、里真と双子が待ち構えている。

「もう来週の日曜ナンだから、今日中に言っておいた方がイイよね?」

美加のバースデー・パーティーの計画は、着々と進行中だ。

「土曜は、待っていても、無駄だと思うけど…。」

玲子が珍しくリビングで、双子と里真、里沙と一緒に、ブレイクタイムだ。里沙の入れる紅茶と、手作りケーキで、のんびりと過ごす。

「冴史にも声、かけてくれた?」

里沙が、紅茶に口をつけながら、玲子に聞いた。

 美加は、まだ小学生だ。十時を回る時間に、紅茶を飲ませる訳にも行かない。強いカフェインで、眠れなくなってしまう。

 そう考えて、美加にだけは昼間。学校から帰宅した時、おやつとしてケーキと紅茶を出した。

「一応、声は掛けたけど。…冴史は趣味の世界に没頭し始めると、全く周りに合わせられなくなるから。」

 玲子は、今の店子の中で、冴史と意外と上手く行っている。

 他の住人とも、特に問題がある訳ではない。冴史とは頭の良い者同士、一緒にいて、気が楽なようだ。感情的でない部分も、丁度良い。

 利知未も頭は良い訳だが、生き方その物に対する意識と構えが、玲子とは、全く違い過ぎる。

 …優等生と問題児。安定と不安定。堅実と…、イイ加減。

 深夜二時近くなり、利知未が帰宅した。結局、里真達は起きていられなかった。


 里沙は、デザインデスクで仕事をこなしながら、利知未の帰宅を待っていた。玄関が開く音を聞いて、手を止めて廊下へ出る。

「まさか、飲酒運転してきたの…?」

ヘルメットを小脇に抱え、口から微かなアルコールの匂いをさせている利知未を見て、少し驚いた顔をしている。

「酒、冷めてから来たぜ。風呂、まだ入ってるよな?」

反省の気配も見せずに、さっさと靴を脱ぐ。廊下へ上がり、里沙の横をすり抜けて階段へ向かう。

 部屋から着替えを持って、再び二階から降りて来た。

『今更、驚く事でもないけど…。小学生も増えた事だし、もう少し自重させないと…。』

 そう考え、利知未が風呂から上がるのを待ち、リビングに呼ぶ。

「なんだよ?さっさと髪、乾かしたいんだけど。」

乾いたタオルで、髪をカシャカシャと拭きながら、利知未が現れた。

「私のドライヤーで良ければ貸すわよ?取り敢えず、ここで乾かしながら待っていて。」

部屋に戻り、ドライヤーを持ってリビングへ戻ると、利知未がいない。

「…あの子は…。」

呆れて呟いた時、利知未が上着を羽織って戻って来た。

「あの子は、何だって?ドライヤー、借りる。」

少し呆れて、ドライヤーを手渡す。キッチンへ行き、紅茶の用意をする。

 お茶の用意が整った頃、利知未のショートヘアが綺麗に乾く。

「…で、何だよ?もう3時だぜ。明日もバイトあンだけどな。」

出された紅茶を飲み、上着からタバコを取り出す。

「明日も早い人が、飲みに行ってどうするの。」

「今更…。」

タバコの煙を吐き出す。

「今更かもしれないけど…。…今度、入居した美加さん、まだ小学生でしょう?同居人が品行方正でいてくれないと、悪い影響を与えてしまいそうだから。改めて話し合おうと思ったのよ。」

「それで、こんな夜中まで待っててくれたワケだ。」

「…すっかり、中学生の頃に戻ってしまったみたいね。」

里沙も呆れながら、紅茶に口をつける。

「どうやら、これが、あたしの本性みたいだ。」

ニヤリと、笑みを見せる。自分でも、少し呆れている。

「今夜、私から貴女に言う事は二つ。一つは、里真達からの伝言よ。」

「里真達から?…アイツら、何か企んでンのか。」

「企んでると言うのは、少し違うけど。計画を立てているのよ。」

「…計画、ね。」

「来週の日曜、十四日の事よ。夜、新しい住人のお誕生会をするから、何かプレゼントを用意して、参加して欲しいそうよ。」

「美加のか?…あたしが、あーゆータイプに、何プレゼントすりゃイイんだよ?不参加でよろしく。」

「そう。そう言うとは思っていたけど…。里真には、貴女が不参加と言った事だけ、伝えておくわ。その後、あの子達が貴女に何て言うかまでは、責任持てないけど。良いかしら?」

「構わネーよ。で、もう一つは?」

「もう一つは、さっきも言ったけど。もう少し、美加さんの目を意識して、自重してくれないかしら?」

「自重ねぇ…。影響与えなきゃイイ訳だろ?今まで通り、距離を取っておく事にするよ。」

「それは、生活態度を改めるつもりはない、と言う意味かしら?」

「ソー取ってくれて構わないよ。…っツー事で、ご馳走様。」

 タバコを消して、灰皿と中身を飲みきったカップを持って、利知未はさっさとキッチンへと消える。

『あの子の性格じゃ、ここで引き止めたって無駄ね…。』

半分諦めた顔をして、里沙は頬杖をついて、溜息をつく。

 里沙にこんな態度を取らせる店子は、後にも先にも、利知未だけだ。


 約、二十分後。自分の紅茶をゆっくりと飲み切り、里沙は小さな欠伸をしてリビングを出た。自室へ戻り、朝まで短い睡眠を取る。


 利知未は、部屋へ戻っても眠れない。


 今日、バッカスへ現れた準一が悩んでいた。

「何とかして、和尚を外へ連れ出したいんだ。…何か、イイ案ないかな?」

そう言われて、宏治と倉真と、四人で頭を付き合わせて、話しをした。

 通常、土曜のバイト後。バッカスへ寄っても、十二時には店を出ていた。今夜、何時もより遅くなった理由はそれである。


『…二十日、真澄ちゃんの月命日だな。…そろそろ半年か。和泉、墓の前まで引っ張って行こうか…?』

そこで今の悲しみも悩みも、全て吐露させてしまえば…。少しは本人も気が楽になるのではないか…?

『…やって見なけりゃ、判らネーけどな…。』

目を瞑り、少しトロトロとした。


 余り眠った気もしない内に、目覚し時計のベルに起こされた。

 起き出し、洗面所で顔を洗いながら、考える。

『月命日まで、待つ事も無いか…。準一には、言っておこう。』

考え事をしていたので、恐る恐る掛けられた声にも気付かない。美加が、利知未の後ろから、小さな声で、朝の挨拶をしていた。

 挨拶に返事もないと、美加は益々、利知未に畏怖の念を持ってしまう。

偶々その様子を目撃していた玲子が、厳しい声を掛ける。

「ちょっと、利知未。挨拶くらい返してあげれば?」

 きつい口調に振り向くと、美加の肩を後ろから優しく押えた玲子が、利知未に睨みを効かせている。

「ン?…ああ、ワリー。気付かなかった。」

玲子は無視して、美加にチラリと視線を向けた。美加はその目に、益々怯える。…どーしよーもネーな…。

 そう感じて、直ぐに自分の作業に戻った。

「美加、気にしないの。コイツは、誰にでもコーなのよ。」

玲子が優しげな声を出す。縋るような怯えた目を玲子に向けて、美加が小さく頷いた。洗面を終えた利知未は、さっさと自室へ戻ってしまった。



 翌・月曜日、朝八時。バイトに向かう為、克己のアパートを出た倉真の前に、制服姿の綾子が表れた。

「…館川君…!」

小さな呼び声に、顔を上げる。

「浜崎…?良く、ココが判ったな。」

驚いて聞かれ、綾子はモジモジして俯いてしまう。

「…館川君のお友達に、聞きました…。」

「ダチ?ココを知ってんのは、杉村達だけだ。…お前、良くアイツ等と話しが出来たな?」

目を丸くして言う。こんな所までやって来た事実も驚きだが、この少女が、ヤンチャ者達と言葉を交わせた事が、更に驚きだ。

「どうしても、館川君の様子が、気になって…。」

 小声で言う綾子を、倉真は驚いた表情のまま、見つめてしまった。


          八


 三月十日、水曜日。利知未は高校入学以来、始めて小テストをサボる。

 今は自分の成績順位よりも、仲間の方が大切だ。二学期の期末テストからずっと、学年順位も変わらない。


 透子は、朝から利知未が姿を見せない日。何時も同じ事を考える。

『シャーない。今日は何時もより、丁寧にノート取っておいてやるか。』

 この二人は、上手い事バランスが取れている。ギブ&テイクの関係だ。

 透子は、クラスメートの中に利知未が居る事で、つまらない学校生活も、それなりに楽しむ事が出来ている、と、感じている。


 利知未が学校をサボった理由は、和泉の問題を片付けに行く為だ。

 …片付けに行く…。とは言っても、そう簡単に片がつくとは、本人も思ってはいない。



 利知未は朝、九時前。萩原家を訪れる。

 母親はパートへ出掛け、父親は仕事。家には和泉一人が居る筈だった。

 ドアチャイムを鳴らして、暫く待つ。返事はない。数十秒待ち、再びチャイムを鳴らす。…そんなことを、暫く繰り返した。

 漸く足音が聞こえ、面倒臭そうに鍵を開ける音がする。

 顔を出した和泉が、目の前に居る利知未を見て、驚いた。

「誘いに来たぜ。天気もイイし、真澄ちゃんに会いに行かないか?」

直ぐに扉を閉めようとする、その隙間に。利知未は足を突っ込んだ。

「タマには、外に出ないか?目的もあるんだ。」

「…どうして貴女が?…関係ないと思います…。」

「関係ない事は、無いんだよ。…姪っ子の名前、真澄ってンだ。」

その言葉に、和泉の表情が変わる。利知未は続けた。

「名前、あたしが付けた。丁度、四ヶ月になるんだ。元気に育ってるぜ。だから、報告しに行きたいと思ってた。…付合わないか?」

「…勝手な人だ…。」

「無理矢理にでも、付き合せるつもりで来た。」

俯いて視線を外した和泉に、毅然とした言葉を投げる。

「…どうせ、家に居ても、何もする事ネーンだろ?…行こうぜ。」

足で扉を弾いて、片手で広く開いてしまう。読めない行動に戸惑う和泉の、腕を掴んで引っ張り出した。

 弾みがついた和泉の身体を、その力を利用してサラリと流してしまう。合気道の技の応用だ。身体が玄関から出た所で、扉を閉め、和泉の背中を押して歩き出す。反抗する力も出なくて、そのまま流されてしまった。



 暫く歩いて、利知未が小さく吹き出した。

「母親のサンダルか?今にも潰れそうだな…。」

足元を見る。ウンザリした表情で、和泉が言う。

「…貴女に無理矢理、引っ張り出されたからです。」

「ソーだったな、ワリー。…、運動靴でも、買ってくか?」

可笑しそうに小さく笑う。行先にある、町屋の靴屋を見付けて指を指す。無反応な和泉を引っ張り、店に入って行った。

「…強引な人だな…。」

呟く和泉に、いたずら坊主のような笑みを見せる。

「お前、サイズ幾つだ?」

答えない和泉の足に、自分の足を並べて比べる。

「二六.五ってトコか…。履いて見ろよ?」

勝手に靴を持って来て、和泉の足元へ置く。

利知未のペースに巻き込まれ始め、渋々ながら、靴を履き変える。

「ピッタリだな。すみません、これ、買います。」

利知未は、自分の財布から金を出し、店の主人と言葉を交わす。

「箱は、どうしますか?」

「入りません。変わりに、ビニール袋1枚貰えますか?サンダル入れてきたいんで。」

 挟みを借りて新しい靴のタグを切り、サンダルを袋に入れて店を出た。


 ココまで来たら、和泉はもう利知未の行動に逆らおうとはしない。

 利知未の性格を、ある程度は、理解しているつもりだ。

『この人は、何時もこうだ…。始めてライブハウスで会った時も、倉真の事件の時も…。どうして、人の為にココまでするのだろう…?』

行動も突拍子が無く、ヤル事も早い。…深く考え込んでいる姿は、余り見た事が無い…。イメージが決まれば、前進あるのみ。

『感情的な所も、殆ど見せない人だな…。』

 知り合って、二年三ヶ月は経った。今まで見た感情的な姿は、初対面の時、倉真と二人で騒ぎの制裁を加えられ張り倒された時と、セガワの正体がバレた、あの夜。その二回くらいだ。


 利知未が感情を露わにした事があるのは、恐らく敬太との関係でのみ。

 …しかし、その姿を、和泉達は知らない。


 墓へ着くまでに、献花と線香を買って行った。靴屋にも寄って来た。墓前へ手を合わせる頃には、十時を回っていた。

 利知未が墓石に頭を垂れている姿と、その背景に見える木々の若葉が小さく芽吹いている景色に、和泉は、春めいて来た気候に改めて気付く。

『真澄の部屋に篭ってから、こんなに時が経っていたのか…。』

 冬から春に掛けての変化は、目まぐるしい物がある。


 二月の始め。この冬、一番の寒さを記録した日。

 …和泉の時は、その日から、ずっと止まっていた。


「お前も、手を合わせろよ?」

 頭を上げた利知未が、呆けっと周りの景色を見つめている和泉に声をかける。その声で、我に返る。

 軽く利知未に視線を向けてから、墓前に頭を垂れた。

 その姿を、利知未は黙って見つめる。

『こう言う姿は、いつ見ても…。相手が誰でも、悲しい物だな…。』

目を伏せて、悲しげな表情になる。


 和泉が墓前に手を合わせた頃。

 準一に案内され、倉真と宏治が墓所へ着いた。今日この時間に和泉と利知未が墓参りに来ている事は、準一だけが知っていた。和泉の様子が気になっていた二人は、準一から話しを聞いて、ジッとしていられなくて、ここまで来てしまった。

 準一は登校しようと家を出た所を、バイトを休んでバイクを走らせて来た倉真に、拉致されて来た。宏治は、倉真の監視をするような気分だ。

「墓、どっちだ?」

バイクを止め、エンジンを切って、倉真が聞く。準一がタンデムシートから降り、先へ立って案内をして行った。


「…どうして、真澄の名前を付けようと思ったんですか…?」

頭を上げ、墓石を見つめたままの和泉が聞く。

「…生まれたのが、四十九日の4日後だった。四十九日ってのは、魂が極楽へ行く日だろ?…生まれ代わりって訳じゃ無いんだろーけど…。」

一度言葉を切って、微かに笑う。可笑しな事を、言おうとしている。


 話している二人の姿を、遠目で宏治達が見付ける。足音を静かにして、邪魔をしない様に気遣いながら、三人が近付いて行く。


「…もしかしたら、真澄ちゃんがお前の事を心配して、天国行くの止めて、兄貴の所へ来ちまったのかと、思ったんだよ。」

和泉は何も、返事を返さない。利知未は続けて言う。

「…あたしも、真澄ちゃんが頑張って生きていた事を、知っているから。生きる事を蔑ろにするヤツが、増えてんだろ?姪っ子には、そんな風に育って欲しくないとも思った。…一応、医者目指してる身だからな…。」

「…それだけですか?」

「もう一つ、最後の理由。同じ名前を持った子が、元気に生きて行く事が出来れば…。真澄ちゃんの魂も、救われるんじゃネーかと思った。」


 三人が、直ぐ近くで、別の墓石の影に隠れた。

「何で、隠れるの?」

「…暫く、様子見た方が、イイかと思う。」

準一の質問に、宏治が小声で答える。

「…面倒臭せーな…。とっとと出てっても、良いンじゃネーか?」

短気な倉真も憮然とする。宏治は一瞬、不安を感じる。

『コイツ、暴れ出しそうだな…。』

 ソレでも、一度は大暴れした方が、和泉も倉真もスッキリするかもしれない、とも思う。


「…当てつけかと思いましたよ。いつまでもグズグズしてンなって…。」

和泉が、吐き捨てる。その言葉に、隠れていた倉真が反応する。

「判ってンじゃネーか!?お前、グズグズし過ぎなンだよ!」

いきなり現れた倉真に、利知未と和泉は驚いた。準一が、慌てて倉真を

押え込もうと努力する。

「倉真!暴力反対!!」

今にも撲りかかりそうだ。準一では押さえが利かない。利知未は準一を引き摺る様にして出て来た倉真を止め様と、手を伸ばしかける。

「瀬川さん…!準一も…!」

その腕を、宏治が止める。利知未が振り向く。

「…一度、やらせましょう。…荒療治も、必要かもしれない。」

「そんな事…!二人が喧嘩し始めたら、真澄ちゃんが可哀想だよ!!」

「倉真も、アイツなりに和泉の事を心配して来たンだ。…思いきり暴れさせた方が、和泉もスッキリするかもしれないだろう?」

 言い合っている内に、倉真と和泉は、大喧嘩を始めてしまった…。


 相変わらず、腕っ節は互角だ。それでも最近篭りがちで、覇気が無くなっていた和泉が、倉真にボコボコにされている様に見える。

「頭くンだよ!お前が沈んでンと!!」

「関係無いだろう!?」

「関係無いだと…?!ふざけンな!!」

 倉真が胸座を掴んだ和泉の頬に、拳を振り抜いた。渾身の一撃だった。

 掴んだ手から、和泉の身体が外れて、後ろに飛んだ。

「…お前、俺が拘置所入ってる時、何で瀬川さん達と一緒に暴れてくれたんだよ…?喧嘩相手だったよな?お前とは…。」

吹っ飛んだ和泉の胸座を再び掴み直して、倉真が言った。

「義理を通しただけだと、言った筈だ。」

「…義理を通す為に、真面目なボーズが、あんな危ネー騒ぎに参加したのかよ…?違うだろう…?……俺も、同じだよ…。」

言って、掴んでいた胸座を離して、踵を返す。

 倉真は『仲間だろう?』等と、臭い事を言えるタイプでは無い。

 バイクの置いてある場所へ歩き出す倉真を、宏治と準一が追い掛けた。


 利知未は和泉の傍らに近付いた。膝を付き、和泉の口端に流れる血を掌で優しく拭う。痛みに顔を顰める和泉の頭を、そっと抱きしめる。

「…お前は…。真面目過ぎだ…。」

 驚いて、腕の中でピクリとした和泉に、利知未は小さく呟いた。



 自分が、悲しみのどん底にいた時、救ってくれた敬太。

 別れてしまった恋人が、かつての自分に、示してくれた優しさ。

 利知未は、女として…。今、目の前で。

体も、心も傷付いている仲間に、教えて貰った温かさを、伝えていく。


 かつて、敬太に教えて貰った温かさは、和泉の心にも届いた。

『…この人は…。この人の、優しさは…。』

理解出来ないと思っていた、人の為にココまで出来る、心の強さは…。

 …この優しさが、原動力だ…。


 目から流れ出す温かい滴を、和泉は、押えられなくなってしまった。



「…見っとも無いな…。」

「…そんな事は無いよ…。我慢することも無い。…今、ココにいるのはあたしだけだ…。同じ悲しみを、知っている…。」

「……貴女には、敵わない……。」

 最後に、そう呟いて、和泉は。

 …利知未の胸を借りて、静かに涙を流し続けた…。


 太陽が南天に差し掛かり、少し西に動くまでの、長い間。


 三月十四日、日曜日。アダムに、準一が来た。和泉を連れている。

 和泉の様子は、すっかり落ち着きを取り戻していた。準一も元に戻って、呑気な表情を浮かべている。

「和尚、仕事決めたって。」

「そうなのか?良かったじゃないか。どんな仕事だ?」

「…現場仕事です。俺は学歴も資格も無いから、どうしても。」

「それでも良かったよ。資格なんて、これから取っていけばイイ。お前は元々、真面目なんだ。どんな勉強だって、やり切れるさ。」

ニコリとした利知未に、少し照れ臭そうな笑みを返して、和泉が言う。

「そうですね。…俺は、真面目過ぎみたいですから。」

その言葉に、意味ありげな微笑を利知未が返す。

「あれ?ナンかあったの!?二人だけの秘密の出来事とか!?」

深く考えない準一の質問に、和泉と利知未が視線を合わせ、可笑しげに笑った。準一も、その雰囲気に笑顔を見せる。


 元に戻った二人の様子に安堵し、利知未も、やっと少し落着いた気分になった。バイト後、思い付いて商店街へ寄ってから帰った。



 帰宅し、リビングの横を通りかかる。部屋を飾り立てている里真と、双子がいた。廊下を行く利知未に気付いて、樹絵がリビングを出る。

「お帰り!お疲れ。」

「ああ。ただいま。…パーティーの準備か?」

「ソーだよ。…なァ、一瞬でもイイからさ、乾杯の時だけでも、顔出してくれないか…?」

 先週の日曜から顔を合わせる度、里真と双子から言われ続けていた。

「…ソーだな。考えとくよ。…これ、預けとく。」

商店街の玩具屋の袋を、樹絵に渡す。

「これ…?あ!美加のプレゼント?」

「…一応な。…ま、そー言う事だ。」

「判った!預かっとく。…出来れば、自分で渡してくれないか?」

「…面倒臭い。あたしがパーティーに参加するのも、美加には怖いだけじゃないか…?っツーことで。」

自室へ向かう利知未の後姿を、樹絵は、嬉しそうな笑顔で見送った。


 十九時半から、階下ではパーティーが始まった。

 ギリギリまで忙しかった準備の中。樹絵が抜け出して、利知未の部屋をノックする。

「…開いてるぜ。」

「利知未、乾杯だけでイイよ、チョイ出て来てくれよ?」

ベッドに転がって、タバコを咥えていた。

「危ないなぁ!火事になったら、どうするんだよ?」

腰に両手を当て、近付いた樹絵が、利知未のタバコを取り上げた。

「アチ!」

取り損ねて、火傷しかけてしまう。

「バカなヤツだ。そーヤって持つからだ。…見せてみな?」

樹絵の手からタバコを摘み、灰皿へおく。掌を見て、少しだけ赤くなっている痕を見る。

「ナンとも無さそうだな。」

「…なぁ、何で、ワザと冷たい振りしてンだ?」

「別に。普通にしてるだけだ。」

タバコを咥え直す。その目の前に、樹絵が灰皿を持ち上げる。

「後で吸えばイイジャン。取り敢えず、乾杯だけ顔出してくれよ?」

「…しつこいヤツだな。」

咥えタバコの口端から、声と共に煙を吐き出す。樹絵が灰皿を、グイ、ともう一度、差し出す。

「…判ったよ。乾杯だけな。」

タバコを揉み消し、灰皿を樹絵の手から取り上げ、ベッドの宮台に置く。

 にっと笑って、踵を返した樹絵の背をトンと軽く押し、部屋を出た。


 飾り立てられたリビングへと入る。

 利知未を見て、里真と秋絵が嬉しそうな顔をする。皆の輪の端につくと、玲子がグラスを黙って差し出す。受け取り、里真が音頭を取って、乾杯をするのに合わせ、軽くグラスを上げて、一気に飲み干した。

 背中を突つかれ、振り向くと、樹絵が預かっていたプレゼントを差し出している。小さく溜息を付き、受け取って、美加に声を掛けた。

「…おめでとう。」

美加が目を丸くして、差し出されたプレゼントを、恐る恐る受け取る。

「…ありがとう…。」

小さな声で呟く。利知未は直ぐに、リビングを出て行ってしまう。


 その夜。パーティーが終り、静けさを取り戻した、十時頃。


 微かにノックの音が聞こえた。遠慮がちな、小さな音だった。

「鍵、開いてるぜ?」

勉強机の前で、振り向きもせずに答える。静かに、部屋へ踏み込もうとする気配に、妙な空気を感じる。

「…あの、勉強中に、ごめんなさい…。」

声に振り返ると、美加がおずおずと、立っていた。

「ナンだ?」

「…この子、あの…。すごく嬉しかったから…。」

熊のぬいぐるみを、大切そうに抱っこしている。

「…ああ。」

少し、照れ臭い。

 夕方、玩具屋で購入し、ラッピングをして貰った時、気恥ずかしかったことを思い出す。

『余りにも、自分に、似合わネー買い物だ…。』

そう思った。店員も、意外そうな目をしていたように感じたのは、気の所為だったのだろうか?


「あのね、美加、利知未さんの事…。怖いと思ってたの…。」

「…だろーな。別に、間違いじゃネーよ。」

「……この子、抱っこして寝ても、イイ…?」

「好きにしろよ。もう、お前のモンだろ。」

「…うんと、…あのね、大切にするね…。おやすみなさい。」

「ああ。お休み。」

挨拶を返して貰って、美加は嬉しかった。…本当は、怖い人じゃないのかもしれない…。そう感じた。

 利知未は、勉強を再開する気が逸れた。

『そーいや、まだ風呂入ってネーや。』

気分を変えるため、準備をして、階下へ降りていった。


 その日以来、美加と利知未の関係は、本の少し改善された。



「でも、もう少し、仲良くして貰いたいよね…。」

双子の部屋で、里真が呟く。

「ま、仕方ネージャン?その内、ナンとかなるよ。」

樹絵が言う。利知未は、本当は面倒見が良いような気がして来ている。

「利知未には、母性に欠けている所があるのかもしれない。」

秋絵が、もっともらしい事を言う。

「なーに?冴史の受け売り?」

里真が笑う。そう言う物言いをするのは、冴史だ。

「判った?冴史なら、そー言うかと思ったんだ!」

秋絵も笑いだす。樹絵は一人、…そーなのかな…?と、疑問を感じた。



 卒業式を迎え、里真と冴史、準一が中学を卒業する。

 城西中学では、今年も恒例のエール交換が行われる。

 喧嘩騒ぎは、時代の流れと共に減ってきたが、応援団の仕来りは、

また次の世代へと、連綿と、受け継がれて行く…。



 春休みを迎えた。倉真は、綾子と会う事が増え始めた。

 自分のようなヤツと、真面目な綾子が関るのは拙いと感じて、倉真は綾子を、冷たくあしらう。

 綾子は、そうされる度、悲しい思いに捕われる。

『それでも、館川君は、本当は優しい人…私は、館川君が好きだから…。』

惹かれる想いは、強くなる…。


 三月の終わり、倉真は久し振りに戻った自宅で、父親と大喧嘩となる。

「ジョーダンじゃネーよ!俺は、親父の後を継ぐ気は、毛頭無い!!」

「いつまでフラフラしているつもりだ!?お前はまだ十六だぞ!?これから先、どう生きて行こうと言うんだ!?」

「俺には、俺の目的ってモンがあンだよ!!親父に、とやかく言われる筋合いはネー!!」

 そして、家を飛び出した。…行先は、宏治の自宅。

『克己の所じゃ、近過ぎる…。』

 …街路樹の、桜が咲き始めた道を、西へと、バイクを走らせる…。


高校編4章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。更新が少々、遅くなってしまいました。すみません。


さて、5章の予告です。和泉の心も立ち直り、利知未達の間には漸く平穏な時間が訪れた。

そんな中、倉真に思いを寄せる綾子は、一つの決心をする。倉真と綾子の関係は、どうなって行くのか?

……そんな感じでしょうか。また来週、ここで皆様と会えますことを、心よりお祈り申し上げます。

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