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利知未シリーズ高校編『大地を捉えて』  作者: 茅野 遼


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三章  贖罪の終り       

利知未と倉真の結婚までの長いお話し高校編・三章です。作品は90年代の前半ごろが時代背景となっております。(現実的な地名なども出てまいりますがフィクションです。実際の団体、地域などと一切、関係ございません。)

宏治、倉真、和泉が中学を卒業し、和泉は家庭の事情により、小さな工場に就職する。倉真と宏治は、高校へと進学をした。下宿にはまた新たな入居者・里真(りま)がやってきた。

そして、敬太はプロの人気バンドの、ドラムオーディションにチャレンジをした。今、結果待ちだ。利知未は敬太の夢を応援するが、心の中では、これから先の二人の関係に強い不安を感じ始めている。『このまま、二人が会えなくなってしまったら…?それに、セガワももう限界だ。…そろそろ、区切りをつけないと…。』新しい局面に向かって、利知未達の運命は動き始めた。

この作品は、未成年の喫煙・ヤンチャ行動等を、推奨するものではありません。ご理解の上、お楽しみください。

  三章  贖罪の終り       


         一


 香川 里真は、里沙の母の、妹の娘だ。今年で中学三年生になる。

 入居日、久し振りに、里真に付き添ってきた、叔母と会った里沙は、昔の事を思い出して、アルバムを見ながら、話し込んでいた。

 アルバムが、この春までの写真に移った頃、里真の母親が言う。

「本当に、こんな半端な時期に、いきなりお願いする事になっちゃって…。ごめんなさいね、里沙ちゃん。」

「いいえ。部屋は、まだ空いていますし。家には良い家庭教師が居るから、里真の受験勉強にも、丁度良いと思いますよ。」

「取り敢えず、高校出るまでね。」

「分かってます。でも、もしも、行きたい大学まで行けそうだったら、もう少し伸ばしてよね?」

「…そう言う約束だモノね。仕方ないわね…。」

「よっし!頑張ろう!」

里真が、小さくガッツポーズを作った。

 香川家の家庭の事情は、複雑な訳ではない。ただ、どうしても親から離れて暮して見たかっただけだ。それで、中学二年の成績を立てに取り、『もっと勉強に集中できる環境が欲しいから。』と、駄々を捏ねた。

 そう言う訳で比較的、軽い気分での入居だ。

 里沙も、小さな頃から良く知っている里真を受け入れるのは、今までの入居者を迎えてきた経験から比べて、少しは気も楽な事だった。

 里真の母は、その日。それぞれの実家に戻っている双子や玲子、冴史の居ない下宿で、里沙と娘と三人で昼食を共にして、帰って行った。

それは、三月二十九日。日曜日の事だった。

 同日。利知未は、アダムでのバイト後、初めて、優の暮すアパートへ、泊り掛けで出掛けていた。


 この年の春休み。本当だったら、裕一、優と、三人で暮らせるようになる筈だった、その、約束の春だ。今年、利知未は、高校二年になる。

 優が今日、珍しく利知未に、泊り掛けで来るよう、声を掛けたのは、紹介するべき女性が、出来たからだ。

 大学に入ってからの約二年間、交際してきた女性だった。

 彼女は今夜、優のアパートへ来る、約束に成っている。利知未とは、初対面だ。彼女の名は、須藤 明日香。優より、二歳年上だ。

 中々の、活動的な性格の持ち主で、芯も確りしている。それでいて、女性らしい優しさも持った人だ。かなり個性的な妹・利知未とも、上手くやってくれそうな人だと思っている。


 利知未は、住所を頼りに、優のアパートへ向かった。

『明日、バイト朝入りなんだよな…。いきなり連絡寄越されてもチョイ、辛いぜ…。』

バイクを走らせながら、そんな事を思っている。

 優から連絡があったのは、今朝の事だ。

バイトに向かおうとする利知未の部屋に、電話連絡が入った。


 自室の電話は、春休みになってから入れたばかりだ。偶々、勉強机の影になっていた電話線のプラグを、見付けた。直ぐに里沙に聞いて見た。

「あら、ついに見つけてしまったの?」

そう、惚けた顔で言われた。

「前から、各部屋にあるのは知っていたんだけど、皆、入居した頃は、まだ中学生でしょう?非行の原因に繋がったら怖いから、隠しておいたのよ。」

そう言って、笑っていた。確かに、一理あるかもしれないとは思う。

「でも、もう利知未も高校二年だし…。特に貴女は、これ以上酷くなり様も無さそうだし。いいわよ?電話入れても。あなたの部屋の番号は、確か、この家のナンバー下一桁が、8に成る筈よ。調べておくわ。その代わり電話代、管理費に上乗せする事に成るけど、構わないかしら?」

そう言う里沙を、呆気に取られて、眺めてしまった。

 利知未は直ぐに電話を買って来た。そして直通番号は敬太と優にだけ知らせておいた。敬太には勿論、初めに知らせた。

 優も今は一応、日本での利知未の保護者代りだ。今年の一月、成人式も無事に迎えていた。

 それと前後する様に、里沙宛てに、利知未の母親から、手紙が届いていたらしいが、利知未は知らない事だ。


 優のアパートへ到着したのは、夜七時頃だ。

外階段を上がり、扉に203と表示されている、奥から二番目の部屋の、ドアチャイムを鳴らす。

『ここ…。裕兄が住んでた所と、近いんだな…。』

外廊下から街を見やると、昔、裕一と二人でゴミ箱を買って帰った、総合ショッピングセンターの看板が、暗くなった街の中、ライトアップされているのが見える。

優が何を考えて、大学に通うには少し面倒な場所にあるこのアパートを選んだのか、利知未は、何となく理解した。

「取り敢えず、あがれよ。」

ドアの鍵を開けて、優が利知未を迎えた。

「相変わらず、デカイな…。」

優の顔を下から見上げて、呟いてしまう。

優の頭は、利知未の視線の上にある。一八六センチは、ありそうだ。

「お前も相変わらず、女とは思えねーデカさだな。」

利知未の呟きに、優が言い返す。昔だったら、ムッとしたかもしれない、その言葉も、今は二人の変らない関係を感じられる、一つの証しだ。優は生きている。そう思って、ほんの少しだけ、頬が綻んだ。


 優のアパートは、六帖の洋室と、四帖のキッチン。バス・トイレはある。それで月、管理費込みの、五万八千円の部屋だ。

 キッチンが思いの他、整っている事に、感心した。

「優兄、夕飯どうするんだ。出前でも取るか?」

冷蔵庫を、勝手に検分して見る。殆ど使える物は、入っていない。

「お前、腹へってるのか?後三十分待ってりゃ材料持って人が来るぜ。」

何から話せば良いのか、少し悩んでいた。利知未の質問は丁度良かった。

「人が来るって?…ハーン。成る程ね…。」

キッチンが整っていた事を、理解する。『女か。』そう思う。

 優は、利知未の言葉に、少し照れ臭いような顔をしている。

「ま、イーンじゃネーか。優兄だって、二十歳だモンな。」

敬太も二十歳だ。優と敬太は同い年である。その敬太の恋人として自分が存在しているのだから、優に彼女がいたとしても、不思議は無い。

「インスタントで良けりゃ、珈琲入れるぜ。」

照れ隠しだろう。以前の優だったら、そんな事、してくれる訳が無い。

 利知未はニヤリとして、ガス台に薬缶をかける優を眺めた。

「どんな、彼女なんだよ?」

面白そうに聞く。優はまた照れる。その様子を見るのは楽しい。

「来れば判る。…それに、」

「なんだよ?」

「ま、イイ。彼女が来たら話す。」

「…そーかよ。じゃ、部屋で寛がせて貰うかな。」

笑いを含んだ利知未の言動に、優は少し、不思議な感じを受ける。

『…何か、昔より女っぽくは、なってるみたいだな…。』

中学まで、自分と取っ組み合いの喧嘩をしていた。裕一の前でも、弟の様だった。その利知未と、今の利知未は、どことなく違って見える。

『コイツも一応、成長してるって事か。』

取り敢えず、そう納得する事にした。


 優が入れたインスタント珈琲を飲みながら、六帖の部屋で、テレビを眺めていた。優は何も言おうとしない。呑気に画面を見て、笑っている。

『彼女ね…。優兄の操縦、大変だろうな…。』

その優を横目で見ながら、そう思った。裕一に比べて、かなり乱暴者だ。捻くれた所もある。利知未は、自分と優は顔もスタイルも似ているが、性格もそっくりである事を、理解している。

『敬太も、大変なのかな…。』

小さく溜息が出る。そのタイミングで、ドアチャイムが鳴る。

「…来たな。」

小さく言って、玄関に立って行く優の後姿を眺めた。利知未も腰を上げる。一応、出迎えるべきかもしれない。

 部屋のドアから顔を覗かせると、優の背中越しに、ショートカットで背の低い女性の姿が目に入る。顔は可愛い。少し貴子を思い出す。

 覗いている利知未と目が合い、女性はニコリと微笑んだ。

「初めまして、利知未さん?私、須藤 明日香と言います。今夜は私がご飯作るから、待っていてね。」

優も少し振り向く。横顔は、見た事無いような、優しげな笑顔だ。

「成る程…。」

もう一度、言う利知未の言葉に、優が反論した。

「さっきから、なんだよ?」

少しムッとした顔だが、隣の彼女の影響か、表情の基本は笑顔だ。

利知未もつい、小さく笑ってしまう。

「…っつーか、優兄。ソコ、邪魔じゃネーの?」

彼女が、上がるに上がれないでいる。

「ワリー。」

少し慌てて彼女に言って、優は、やっと身体を退ける。

「ったく。相変わらず、気ぃ利かネーな。」

言って、自分もキッチンに出て行く。

「初めまして、家の馬鹿兄が、世話に成ってます。」

彼女に軽く笑顔を見せて、挨拶をした。明日香はニッコリと微笑み返す。

「馬鹿兄ってのは、どー言う意味だ。」

優が剥れた。ガキ見たいな顔だな、と、利知未は思う。

「馬鹿は馬鹿だ。脳みそまで筋トレする、馬鹿兄貴。」

昔の様に、からかってやった。

「テメー。やっぱ、変らネーな…。」

利知未に、さっき感じた雰囲気は、どうなったのだろうと思う。

「とにかく、男は邪魔だ。さっさと部屋行って、テレビの続きでも見て、ヘラヘラしてろよ。」

アッカンベーと、舌を出す。そして再び笑顔を作って、明日香を見た。

「あたし、バイトの後、直行して来て腹減ってんだ。手伝うから、チャッチャとやっちまおうぜ?飯の仕度。」

こんな言葉使いの利知未を、明日香は驚きもしないで素直に受け止めた。

「そうね。じゃ、お願い。」

ニコリとして言う明日香に、利知未は好印象を持った。

 優はムッとしているが、明日香と利知未が、思った通り上手くやって行けそうだと感じて、取り敢えず、気を取り直す。

「…ンじゃ、任せる。」

短く言って、部屋に戻って行った。

 優の消えたドアを見て、利知未と明日香は、軽い笑顔を見せ合った。

「今夜は余り、時間が無いから、鍋でイイ?」

「何でも。ンじゃ、取り掛かるとすっか!」

 利知未は、明日香とキッチンに立ちながら、直ぐに打ち解けて話しを始める。彼女の印象は、明るく活発で、さっぱりしている感じだ。

 明日香は、優から何度か、利知未の話しを聞いていた。

『話通りみたい。優にそっくりだわ。』

そう思って、初対面と言う事を、忘れてしまう。

「それにしても、瀬川家って長身なのね…。私も低くないと思っていたけど…。こうして並んでると随分、差があるわ…。」

明日香は、初めの印象に比べれば、まだ長身だった。一六〇は無さそうだが、隣に立つ肩の高さは、利知未の肩と、十センチ程の差があった。

「明日香さん、でイイのかな。」

「良いわよ。直ぐに苗字が変る予定だから。よろしくね。」

その言葉で少し驚く。二人の関係は、どうなっているんだろうか?

『ま、イイか。後で詳しく聞こう。』

「あたしの中学時代の友達で、明日香さんと似た印象の子がいるんだ。その子、本当に背が低くてさ。中学卒業で、一五一センチくらいだったカナ…?その隣に立つと、結構コンプレックス感じたよ。」

「丁度、恋人同士の理想の身長差があった訳ね。知ってる?誰が言い出したか知らないけど、バランスのイイ身長差って、十六センチくらいなんだって。私、優と並ぶと、二十八センチくらい違うから、いつも実際より、小さく見えてしまうみたい。」

「…羨ましい事だ。」

 始めて利知未と会い、性別を知った人は、揃ってソコを話題にする。

 驚かれるのだ。いい加減、慣れては来たが、最近は敬太の事を思って、素直に普通の外見を持った女性を、羨ましいとも思う。

「…優兄と、いつから付き合ってたンだ?」

話しを変えて、利知未が聞く。

「あいつ、妹にも全く話してないのね。呆れちゃうわ。…優が大学入学した夏前だったんだけど…。まさか、本当に私の卒業まで続くとは思わなかった。」

はっきりと言う人だと思った。そして利知未は、また好印象を持つ。

「…でも、長く付き合えば、付き合うほど、ほって置けないような気がして来たのよね。…優って、得な性格だと思うわ。」

そう言って、少し肩を竦めて見せる。

「…ご迷惑、お掛け致します…。」

利知未も肩を竦めて、明日香に言った。

「掛けられてます…、って、冗談。」

利知未にとっては、肩の力を抜いて、付き合えそうなタイプだと思った。自分に性格が、そっくりな優の彼女なのだから、当然なのかも知れない。


 仕度を終えて、すっかり打ち解けた様子で、鍋を囲んだ。

 優は内心、ホッとした。そして、食事をしながら、やっと打ち明ける。

「結婚?!…学生結婚って事か?」

打ち明けられて、利知未は驚く。

「生活費、どうするんだよ?明日香さんに頼るのか?」

真面目な顔をして聞いた。

「オレもバイトしながらになる。…お前、後七ヶ月後にはオバサンになるんだぞ。」

明日香は現在、妊娠三ヶ月だと言う。

「ごめんね。急な事なんだけど、そうなってしまったの。」

明日香も言う。利知未は少しだけ呆れる。それでも、自分にも有得る事だと思うと、異論は唱えられない気分だ。

「…シャーねーじゃん。それなら、それで確り責任取れよな?」

変りにそう言って、二人の結婚を承諾した。

 その夜、利知未は、明日香と二人で優のベッドを占領して休み、翌朝九時過ぎには、アパートを後にした。


 四月三日。春休み最後のライブ後。

何時も通り、利知未を送る車の中で、敬太が言った。

「結果、今日来たよ。」

「…どうだったの?」

カチリ、と、不安にスイッチが入る。自然に表情に、現れてしまう。

「…実は、まだ開けてない。利知未の前で、見ようと思った。」

そう言ってくれた、敬太の気持ちが、嬉しいとは、思う。

「今、持ってるの?」

「…部屋に置いて来たよ。…拙かったかな?」

「…行っても、イイの?」

「来て欲しい。」

きっぱりと言い切る敬太の言葉に、利知未は小さく頷いた。

『けど、あの家に行くと、また不安が、膨れちゃいそうだ…。』

少し複雑だ。…それでも、行きたい気持ちもある。


 敬太は黙ったまま、進路を改めて、自宅へ取り直した。



敬太の部屋で、オーディションの合格を、確認した。

 利知未の不安が膨れた。

それでも笑顔で、敬太の夢への道を喜び、祝った。

あの日、最終オーディションを受けたのは、十人以上いたと言う。

「その中で、選ばれたンだ。凄いね、敬太!」

そう、喜んでくれる利知未の、その裏の思いも、敬太には見えていた。


 不安に襲われた時、彼女はいつも、自分を求める。だから、良い知らせである事を祈りながら、利知未を自室に誘った。

 利知未の不安が、これから先の二人の関係にある事は、確かだった。


 四月六日、月曜日。それぞれの学校が始まる、始業式。

 利知未は何とか、クラスで三十位、学年で四十位以内の成績を保った。お蔭でクラスが変わる事も無く、また一年、透子とクラスメートだ。

 クラスで、三十位以下にいた生徒の一部が、B組C組のトップと入れ替わり、三十三名ほどは、代わり映え無い顔触れだ。

 つくづく、学習塾のようなクラス編成だと思う。それでも将来の道を決めている利知未にとっては、自分のレベルが解り易くて、有り難い事でもある。何しろ、この一年は、本当に綱渡り状態だった。

『バンド活動が終ったら、もう少し、勉強に力を入れないとな…。』

そう、思っている。



 翌・七日、火曜日。練習を始める前に、利知未が話しを切り出した。

「敬太が、オーディションを受けていたんだ。多分、五月頃からプロのバックで、ドラム叩く事に成る筈。だよな?」

セガワに言葉を投げられ、敬太は無言で、頷いた。

 リーダーも拓もアキも、自分の事のように喜んだ。そして、セガワの次の言葉を予感した。

「セガワも限界だよ。…今までありがとう。そろそろFOXのロック期、終らせよう。」

強い決心を見せる。その利知未に、メンバーは頷いてくれた。

「じゃ、ラストライブ、決めないとな。」

返事の変わりにリーダーが仕切り初め、四月二十九日、祝日に何時ものライブハウスで、ロック期の、ラストライブを決行する事になった。

「後、一月無いな…。精一杯、やり切ろう!」

全員で円陣を組み、気合を入れた。


         二


 都立 北篠崎高等学校。

倉真が、この四月に入学した高校には、荒川中学出身者と、近隣中学出身者の、ヤンチャ高校生が群れ集う。

 倉真と諸先輩方との関係は、中学時代から、懇意で味方になってくれる数よりも、その目立つ頭と、言動で、知らず知らずに恨みを買ってしまっている数の方が、圧倒的に多い。

 近隣中学三校からの出身者と、荒川中学一校からの出身者では、どうしても数に差がある。倉真の周りは、敵だらけだ。

 入学式当日から、近隣中学出身先輩グループに、取り囲まれてしまう。倉真に対抗しようと思えば、一人に対して、五、六人で掛からないと、

反対に大怪我をする事は、充分、知れ渡っている事実だ。

 当然、その人数は、七人を超える。早速、同中学出身の先輩三人が、後輩のピンチに駆け付けた。倉真を守ろうと言うよりは、中学時代からの因縁を背負っての、参戦だ。

 式前から、正門付近の校庭では、大乱闘だ。血の気が多い生徒が多いため、その内に、関係無いヤツまで混ざってしまう。

「いい加減にしろ!!!」

怒声を上げ、木刀を振りかぶって、体育教師が、他数名の教師と乱闘を止めようと、必至だ。

 入学式でやって来た父兄が、警察に通報してしまう。

「ヤベ!サツだ!!」

パトカーのサイレン音が響き、乱闘していた内、数名が退散して行った。中心で、倉真と乱闘を始めたグループには、サイレン音さえ効果を成さない。

 高校入学と同じに、倉真は、警察のご厄介となってしまった…。

 そして入学した、その日から、一週間の停学処分を言い渡された。


 同日。宏治が入学した、県立東城高校入学式は、平穏無事に終った。

 その夕方。宏治は、配達されてきた夕刊紙面に、今日、倉真が入学した学校の名前を、見付けてしまった。

『まさか、倉真が関ってなきゃイイけど…。』

すっかり仲良くなっていた親友の身を案じながら、勉強机の前で椅子に座り、タバコを咥えていた。

『結局、癖になったな…。』

反省をする。舌の感覚が無事ならイイのだがと、一応は考えた。


 この春休みから、宏治は週二日間で、バッカスの手伝いをし始めた。美由紀は大助かりだが、十六歳の誕生日も迎えていない未成年を、家族とは言え、スナック営業を手伝わせる事に対して、思案中である。宏治の誕生日は、十二月十九日だ。

『本当は、十八歳以下じゃ、マズイはマズイのよね…。』

それでも、次男の気持ちは有り難い。毎日でも手伝おうと言う息子に、取り敢えず、高校生活に慣れるまでは、仕事を覚えるつもりで、週二日程度の手伝いで良いからと、話し合った。



 和泉は漸く、新しい生活にも慣れ始める。初出勤から、十日経った。

同期入社の他七名と、小さな工場の入行式に出席したのは、四月一日の事だった。


 十一日の夕方。和泉の帰宅を待ち、準一が自宅にやって来た。真澄は既に、自室へ引き取っている。

「和尚!お疲れ。どう?慣れた?」

軽い調子で、玄関先に出た和泉に、声をかける。

「漸く、少しはな。それより、どうしたンだ?」

「チョイ、出ない?」

「可笑しなヤツだな。いつも勝手に上がりこんで飯食ってるだろう。」

少し怪訝そうな表情をした和泉の腕を引っ張り、玄関を出た。


 呑気に土手道を歩きながら、準一が切り出した。

「真澄ちゃん、家でどんな感じ?」

「どうって、特に変わった事は無い。朝、学校へ行って、夕方帰宅して、部屋で宿題やって、飯食って、風呂入って寝る。その繰り返しだ。」

 準一が、言わんとする事は、解る気がした。最近、真澄は少し、ボンヤリしている事が多い。

「そっか。…学校でさ。学年違っちゃったから、やり難そうに見えるんだよね。だから、チョイ気になったんだ。」

普段は、物事を余り深く考えない準一だが、真澄の事となると、少しは、気も働く様になる。小さな頃から、三人で行動する事が多かった。真澄の身体の事も、準一は良く解っている。

「それは、あるんだろうな。…真澄自身がその事を言い出さないから、返ってそっとしておいた方が良いんじゃないかと、俺は思ってるよ。」

「…かな…?でも、一応オレも、気にしておくよ。」

「そうだな。気は配っておくよ。…良く、FOXのテープ聞いてるみたいだ。少しは気が晴れるみたいだよ。…瀬川さんには、感謝しないとな。」

「また、ライブ行かない?」

「そうだな…。久し振りに行こうか。」

 翌日、日曜。利知未のバイト先へ、二人が顔を出した。



 宏治達が、アダムへ利知未と話しをしに来る時、いつもランチタイムが終わった、暇な時間にやって来る。

 四月十二日も、午後二時半を回ってから、和泉と準一がやって来た。

 二人がそれぞれ、ブレンドを飲み、パフェを平らげながら、チケットの残り状況を聞く。

「丁度良かったよ。二十九日、FOXロック期の、ラストライブがある。二人にも、声を掛け様と思っていたところだ。」

「ラストライブって?」

準一が聞く。和泉も少しびっくりして、利知未の顔を見る。

「元々、FOXは定期的に、やる音楽、変えてきてたンだ。いつも二年~三年で変えて来たらしい。その度に、ボーカルも変わってたんだ。」

「…って事は、瀬川さん、FOXやめるんですか?」

和泉が、驚いた表情のまま聞く。

「ああ。…このロック期は、あたしの我侭で、二年と八ヶ月でピリオドだ。…今までサンキュ。」

ニコリと、セガワチックな笑顔を見せた。その表情は優しい。

「じゃ、今度は、瀬川さんのままで、どっかでやるの?」

準一は、利知未に続けて欲しいと思う。ステージに立つ利知未は、本当に格好良くて、憧れている。

「…もう、バンド活動は終わりにするよ。…勉強、頑張らないとならないからな。…けど、バイクには、今までよりハマっちまいそうだ。」

寄り目気味に、上目使いになり、楽しそうな笑顔になる。

『やっと、少し楽になれる…。』

そう、思っている。準一が思いきり残念そうな顔をする。和泉は残念な気もするが、それより肩の荷をやっと下ろせる、と言う雰囲気の利知未を見て、『お疲れ様』と、労うような気持ちだ。

「…そっか。楽しい事、一つ減っちゃうな。」

残念ではあるが、準一は物事に、余り執着心を持たない。そう言って、片頬杖を突く。片手では、パフェのアイスを、スプーンですくう。一口アイスを口にして、頬杖を解くと、ニカリと、笑顔を見せる。

「じゃ、絶対、そのライブ行くから、チケット売って!」

「OK。今回は、二時間で千四百。小遣い、有るんだろうな?」

「中学生割引、利かないよね…?」

そう言う準一に、もう一度笑顔を見せて、利知未が言った。

「シャーネーな。準一は、まだ中三だからな。負けるよ。」

「サンキュー!じゃ、来週ここに持ってくる。それでイイ?」

「チケット、取っておくよ。和泉は、どうする?来てくれるのか。」

さっきから、言葉を発さない和泉を見る。

「勿論、見に行きます。俺は千四百で。」

「そうしてくれると助かる。いつ渡せばイイ?」

「来週、ここに来ますよ。取っておいて下さい。」

「判った。…二人共、ありがとう。確り、見ておいてくれよ?」

 それから一時間程して、二人は帰って行った。途中、今日も暇な時間、利知未にカウンターを任せ、散歩ついで買い物に出掛けていたマスターが戻って来た。和泉の頭を見て、少し目を丸くしていた。

 更に三十分ほどした午後十六時過ぎ。今度は、宏治と倉真が現れた。

「今日は、お前の客だらけだな。ウチはいつからホストクラブになったんだ?」

「ホストクラブって、どう言う意味だよ…?」

マスターの言葉に、利知未がボソリと呟いた。

 最近、利知未目当ての常連が、少年達意外にも増えているのは確かだ。

下宿の樹絵も勿論だが、普通の少女が多いのは、どう言う意味だ?と、利知未本人、思うことも偶には有る。

「自覚は、しているみたいだな。」

マスターがニヤリと、利知未を見た。


 宏治と倉真は、先週十日のライブも見に来ていた。そこで、ライブの最後に、ラストライブの告知を聞いた。

 チケット完成が今日になると、利知未から聞いていた。それで今日、そのチケットを受け取るために、アダムへやって来た。

 二人は、この際、十七日と二十四日の、通常ライブも見に行く予定だ。親から、小遣いを前借して、チケット代を作った。

 倉真は最近、知り合いヅテでバイトも始めているが、そのバイト代は四月十九日の誕生日を迎えて直ぐ、取得したいと思っている、バイクの免許に回す予定だ。教習所に行くのは、面倒臭くて、自分でテキストを購入して来た。既に、勉強を始めている。

しかし、今年の十九日は日曜日。免許センターも休みだ。


 チケットの受け渡しを終えて、宏治達の話は、免許の話題に移った。

「筆記の勉強、進んでるのか?」

「受験勉強に比べりゃ、よっぽどマシだぜ。実技の心配は全くネーし。」

宏治と倉真の話しを聞いて、利知未は、仕事をしながら話しに加わる。

「そりゃ、ソーだろーな。」

 倉真に自分の正体がバレた夜、パトカーとの追いかけっこを思い出す。タンデムシートに宏治を乗せて、あれだけのバトルを繰り広げられるのだから、問題は無さそうだ。

「で、瀬川さんに、頼みがあるんスけど…?」

「バイク貸せって事か?構わないけど、あたしも学校行く足にしてるからな…。」

少し考える。しかし、無免許で走り回られて捕まる事を心配するよりは、

試験日だけ貸してしまった方が、楽な気もする。

「シャーないな…。その日だけ、電車使うか…。」

「マジっスか!?ありがとうございます!!」

「そこに運ぶまでの足は、あるのか?」

「そっちは、宛てがあるんで。ただ、いつも借りてたのは二五〇だし、あのペイントだから、やっぱマズイっしょ?」

思い出して、頷く。宏治も頷いて言う。

「そりゃ、ソーだ。」

「二十九日は、バイクで堂々と、ライブハウス乗り付けます!」

ニヤリと、自信満万な笑顔だ。

「あのバイクで、来るのか?」

「免許、一発で取ったら、中古買う予定っす。」

「金、あるのか?」

利知未の質問に倉真が答え、その答えに、宏治が目を丸くする。

「チョイな。計画あンだよ。」

詳しくは話そうとしない。倉真は、母親に約束を取り付けていた。


 倉真の母親は、勉強嫌いな息子が、自力で勉強をして、本当に一度で免許を取る事が出来れば、中古のバイクを買うお金を貸してあげても、良いだろうと考えていた。それ位の褒美が無ければ、可哀想だとも思う。

 頑固な長男が折れて、あれほど嫌がっていた高校受験の為、受験勉強を頑張ってくれた事が、嬉しいと思っていた。そして、ギリギリとは言え、何とか都立の学校に、合格してくれた。

 確かに、問題の多い高校では有るが、倉真の性格と行動を考えれば、反って丁度良い学校かも知れないとも思う。

 イザとなれば、レベルが低い私立の学校でも入ってくれればと思った。そうなれば、高くつく入学金も、学費も、今まで少しずつ溜めてきていた。そのお蔭で余裕もある。中古のバイク代位は、現金で払える。


「ま、ソー言う事だ。」

「何も話さずに、ソー言う事だ、って言われてもな…。」

利知未の突っ込みに、宏治が頷いた。

「とにかく、免許取ったら一番に見せに行きます!瀬川さんの学校までバイク乗って、その日の内に返しに行くぜ。」

倉真は、自信満万だ。

「それなら、メットだけ持ってくとするか。」

その倉真の様子に、利知未は軽く、笑みが漏れる。

『多分コイツは頑固な分、自分の言い切る事には、責任持つヤツだ。』

利知未は倉真の事を、そう見ている。高校受験だって、乗り越えた。

「ソーして下さい。」

ニヤッと笑て、倉真が言った。

 利知未のバイト終了は、十八時だ。偶には、この面子で飯を食うのも良いかも知れないと思い、里沙に連絡を入れ、三人で夕飯を済ませて帰った。勿論、利知未が奢った。



 二十日までの間、倉真は、偶には真面目に学校へ行った。

 小賢しいヤンチャ仲間の計算で、問題にならないギリギリの出席日数は、確認済みだ。その間に、ちょっとした出会いが訪れる。


 その少女は、浜崎 綾子と言った。倉真のクラスメートとなった、中々可愛いルックスの持ち主だ。性格は、大人しい。

 しかし、その外見や雰囲気とは裏腹に、中学時代までは色々とあったと言う噂は、聞いていた。様々な騒ぎにおいて、彼女は被害者になり易いタイプらしい。倉真と関りが出来たのも、やはり、そんな事情だった。


 彼女が生きて来た十五年の歳月中、最悪な事件は、中学二年の夏に、遭遇した。思い出すのもおぞましい、嫌な記憶だ。

 暴行事件である。その後の中学時代、彼女は精神を病んでしまった。病院に通う事になる。

 最も嫌な記憶の中に、事件後、産婦人科でされた検査がある。そう言う種類の、暴行事件だった。

 当時の綾子は、学校も普通に通う事が、出来なくなってしまった。中学二年の二学期から、卒業まで、特殊なクラスで過ごす事になった。

 成績は元々、悪い事は無かった。幼い頃から大人しい性格で、友人の数は少ない。その代わり、付き合いの深い、良い親友もいた。

 お蔭で、こうして生きている。手首には、今もリストバンド。睡眠薬のお世話になった事も有る。…治療目的以外で、だ。


 その線の細い彼女が、学校の男子トイレに、連れ込まれてしまった。

 連れ込んだのは、色気付いた、どうしようもない連中だ。

 偶々、倉真が同じトイレの個室で、タバコを吸っていた。それで綾子は助けられた。

 倉真は乱暴者で、どうしようもない所も多分にあるが、それでも完全に、人の道に背を向けて生きて来たタイプではない。

 腕っ節も、近隣中学の卒業生にまで、知れ渡っていた程の実力だ。

 色気付いた半端なヤンチャ者が、四、五人束になって掛かって行ったとしても、結果は、火を見るより明らかだ。

「…テメーら、クダラネー事やってんじゃネーぞ…?」

 個室から出て来て睨みを効かせた倉真の一言で、直ぐに逃げ出した。

 倉真の腕は既に、入学式の大騒ぎで、同学年でも有名だった。


 助け出されて、怯えるでもなく、泣き出すでもなく。ただ、ボンヤリと焦点を失った目をした綾子の頬を、軽く叩いて、正気を戻した。

 綾子は、正気が戻ったとたん、ヒステリックに叫び出す。

「キャー!!嫌!!来ないで!!止めて!!!」

そう叫びながら、振り回した手が、倉真の顔に傷を付ける。引っかいた爪の間に染みだす倉真の血を見て、綾子はビクリとして、ストップする。

 それは、本当にストップだ。まるで再生中のビデオを一時停止にしたかのような、見事な静止。

 倉真が呟く声も、話し掛ける言葉も、綾子には、まるで聞こえていないかのよう…。

「おい、お前、大丈夫なのか?」

「…。」

「どうした?何処か怪我でもしたのか?」

「……。」

綾子の視線が、微妙に動く。その瞳に、倉真の頬の、自分の爪と肌の間に滲む、血を映す。少しだけ、表情が動く。

「これは、お前の血じゃネーだろ?」

「………。」

「おい、お前。同じクラスの…なんだっけ?名前なんて覚えちゃイネーな…。同じクラスの連中、殆ど解らネーや…。」

「………ゴメンナサイ……。」

やっと、幽かな声が聞こえる。殆ど息声で、小さく動く唇の形を追わなければ、その単語さえ読み取れない。

 それでも倉真は、意外と優しい顔で微笑む。

「気にスンな。とにかくココ、出ようぜ?」

男子生徒が一人、用を足そうと扉を開く。倉真と綾子を見てびっくりして、慌てて踵を返す。

「お前がココにいたんじゃ、便所使えネーよ…。」

慌ててドアの向こうに消えた、同級生の背中を見送り、倉真が情けない表情を作る。

「…今のヤツ、誤解したな。…ま、シャーネー…。行くぜ?」

そうぼやいて、動きが追い付かないままでいる綾子の腕を掴み、男子トイレから、引っ張り出した。

 その後。倉真は全く身に覚えの無い事で、教師からの呼び出しを受けてしまった。


          三


 四月二十日。倉真は宣言通り、北条高校正門前へ、利知未のバイクで乗り付けた。貰ったばかりの免許を手にし、自慢気で嬉しそうな笑顔だ。

 前日の内に、学生時代はヤンチャで鳴らしていたと思われる、二十代前半の友人が運転する軽トラで、利知未のバイクを借りに来ていた。

「おめでとう。まさか、本当に一発で取ってくるとはな…。見直したよ。」

自分のヘルメットを小脇に抱えて、倉真に笑顔を向けた。

「これで堂々と走れるぜ。」

倉真も、照れ臭そうな笑顔を見せる。

 キーを返して貰い愛車に跨った。エンジンを掛ける。音で整備されて来た事と、燃料が満タンになっている事に気付く。良い整備状態だ。

「昨日のダチ、アマオートのパドック入ってンす。ホイール掃除して、オイル交換してくれた。けど、普段から良く整備されてるって、感心してたっス。」

「ソーか、サンキュ。…折角だ、後ろ乗って行かないか?送るぜ。」

「マジっスか?」

「マジだよ。こっち、ヨロシク。」

そう言って利知未は、自分の教科書が入っているザック型バックを倉真に投げ渡す。確り受け取り、右肩に掛けて、タンデムシートに跨った。

 利知未は倉真を、その自宅近くの、中古バイク屋まで乗せて行った。

 店の前で下ろして、直ぐに方向転換する。自分も七五〇の下見をしたい心境だったが、さっさと帰って勉強机に向かわなければならなかった。


 下宿に戻ったのは、十九時半だ。横須賀付近の学校から、倉真の自宅近くを回って帰って来たのだから、当たり前の時間だ。時計を見て、入浴を先に済ませる事にした。

 脱衣所で、今年の入居者、香川 里真に出くわした。

「キャ!!」

と、黄色い悲鳴を上げられる。それから、利知未で有る事を、確認し直した里真が、照れ臭そうな誤魔化し笑いを見せた。

「って、なーンだ!利知未さんかぁ!…一瞬、男が入って来たかと思っちゃった…。」

「…この下宿で、そりゃ無いだろう。」

呟くような言葉に、もう一度、照れ笑いを見せる。

「ソーなんだけど、いつも余り姿見無いから。まだ、慣れ切らないみたいです。ゴメンナサイ!」

ぺこりと頭を下げた。

「どーでもイイけど、さっさと服着ろよ。風呂、空いたんだよな?」

「はい、空きました!お先に。」

里真は入居して直ぐに、双子と打ち解けてしまった。特に樹絵から、利知未の話しを聞いていた。


 初対面は三月三十日、月曜の夜だった。

 利知未は平日アダムでのバイトに、去年の八月と同じ時間帯で入っていた。二十九日から、三十日は、優のアパートへ一泊で出掛けて、そのまま、バイト先へ向かっていた。

 利知未と里真が下宿で顔を合わせたのは、この時で五、六回目という程度だろうか。それも、かなり短い時間だ。脱衣所で鉢合わせ、見慣れない利知未の容姿に一瞬、驚いても、無理は無いかもしれない。


「…なんだよ?」

脱衣籠へ、衣類を脱いで行く様子を、じっと観察された。

「…え?あはは。やっぱりチャンとお姉さんだったんだな、と思って…。」

ぺろりと小さく舌を出す。利知未から里真への印象は、アイドルみたいな雰囲気を持った、明るく、屈託無い少女。

「人を何だと思ってたンだ。…ま、イーけど。」

さっさと服を脱ぎ、その裸体をタオルで隠すような事もせずに、カラリと浴室へのドアを開けた。

『思ったより、女らしい体形してたンだ。』

その後姿を見送りながら、里真はそう思った。

『でも、足、長…!ウエストも、細!』

「羨ましー。」

自分のウエストラインを見比べ、服を着ながら呟いた。



 里真は早速、仲良くなった双子の部屋へ向かった。

 今、見た利知未の姿と感想を、双子に話す。

「な、利知未って見てると結構、面白ソーだろ?」

「でも、確かに愛想は、良い方じゃないよね。数学の勉強は、解り易く教えてくれるけど。」

「本当に利知未さんって、理数が得意なの?」

「何たって、医科大学志望らしいから。得意みたいだよ?」

樹絵が言う。利知未のお蔭で苦手な数学も、少しは出来るようになった。樹絵は少し、利知未に憧れている。

 秋絵は利知未の様子を見る度に、自分はもっと女らしくなろうと決心する。北海道にいた頃のままでは、あーなってしまうかもしれない…。

「…そっか。じゃ、私も教えて貰おうかな?数学は大の苦手なのよね。」

「イーンじゃネーか?今度、一緒に利知未の部屋、押しかけようぜ!」

「その時は声、掛けてね。」

「OK!月曜と木曜の夜しか、見てもらえないけどな。」

「忙しいんだ。」

「ソーみたいだね。」

秋絵は、樹絵ほど出来が悪い訳ではないので、玲子か冴史に教えてもらえれば、基本的には大丈夫だ。

 それから三人は賑やかに雑談に盛り上がり、九時を回ってから慌てて学校の宿題を始めた。



 二十四日。FOXの通常ライブが、そのロック期の終りを迎える。

「今まで、サンキュ。ラストライブ、またココで皆に会えますように!」

セガワが閉めた。ラストライブのチケットは、完売だ。

 その日のチケットが取れなかったファンから声が上がり、昼過ぎからもう1ステージ追加する運びになっていた。先週のライブ後、急遽決定した事だった。そちらのチケットも、残り僅かだ。


「二十九日、2ステージもやって大丈夫?」

敬太が、帰りの車の中で聞く。

「…大丈夫。頑張るから。敬太こそ、筋肉痛起こしたりして?」

「オレは、大丈夫。これから、もっと大変になるよ。」

「そうだね。…全国ツアー、直ぐに始まるんだもんな…。」

利知未の横顔に、一瞬の不安が走った事に、敬太は気付いた。

「…毎日、連絡するよ。」

「…無理、しないでイイよ。…信じてるから。」

自分自身に言い聞かせる。もっと一緒にいたい気持ちを、押え込む。

 下宿の前まで送られ、長いキスを交わして、車を降りた。

『中間近いし、…今日、あの日だし…。仕方ないか…。』

方向転換をして夜の街に消えるワゴンを見送って、小さく息を吐いた。



 二十九日。何時ものライブハウスに、午前中から集合した。

 ラストライブのステージを、準備しながら、FOXに出会ってからの、二年八ヶ月の出来事を、思い出す。

『本当に、色々あったな…。』

 中学二年の夏。始めてメンバーに出会った。

 初ステージで由美と出会った。その秋から冬、ゴールデンウイーク迄の間が、大変な時期だった。由美や年上の女性ファンからの、積極的な誘いに辟易して、青年誌やレディースコミックを読み漁っていた時期もあった。危ない世界に足を踏み込んでいた、由美。

自分が追い込んでしまった事で、悲しい別れに繋がった記憶。

 裕一の死に、その悲しみから、歌にのめり込んでいた時期。

 …気付けなかった、由美のサイン…。

 あの時期を越えて知った、異性を愛すると言う想い…。

『あたしを支えてくれたのは、敬太との関係。敬太の、優しさ…。』

セガワでいる時には、見せないようにしていた想いが、今は溢れ出る。

『今夜は、素のままで、ステージに立ってしまおうか…?』

一瞬思うが、首を振る。

『セガワじゃなきゃ、ダメだ。…ファンで居続けてくれた皆と、由美の為に…。』


「二時からのチケットも、売り切れたな。」

「驚きだよ。FOX過去最大の人気だな。」

リーダーと拓が、言葉を交わして、準備中のセガワに視線を向ける。

「…ホンと、原石だったな。」

「…オレは、見直したぜ?リーダー。」

「今まで、どう思って一緒にやって来てたんだ。」

「自意識過剰なナルシスト?」

「お前は…。」

「一緒に居て面白い。」

「…ったく。」

「イイ音、作れて来たんじゃ無いか。」

「…ソーだな…。これから、もっと気張らないとな。」

 次は、ハードロックに手を出すつもりだ。それならと言う事で、別のバンドでやっていた、リーダーの弟が、次のボーカルに決まった。

 今夜のライブも、見に来ると言う。試しにステージに上げてしまおうかと、思っているリーダーだった。


「楽しかった。…FOX。」

「アキも、ラストライブか。」

「そう。敬太もね。…でも、敬太はプロ、私は花嫁修行。」

「結婚式、いつ?」

「今年の秋頃の予定。本当は皆に来て貰いたいけど、敬太は無理かもしれないわね。」

「…ごめん。予定立たないな。」

「気にしないで。一応、招待状だけは送るけど。…お互い、頑張ろう。」

「お互いに。」


 それぞれの未来が、この先に待っている。今日のライブは、始まりの為の終り。新たな出発に向かっての別れ。…開始時間が、迫っている。


 午後二時。一度目のライブを開始する。

 構成は、夜と基本的には同じだ。この時間は知り合いよりも、ロック期FOXのファンでいた客が殆どだ。

 利知未は、セガワとして、感謝の思いを込めて歌った。

「今まで、本当にありがとう。俺とアキは今日が本当のラストステージになる。敬太は五月から、ブラウン管を通して、皆に会うことになる。

リーダーと拓は、ハードロック期の準備期間に入る。今度、俺が皆に会うのは、きっと客席だな。その時は、ヨロシク!」

挨拶をして、ラストの曲に入り、アンコールに答える。

 昼のステージ終了時間は、予定時間を三十分超していた。


 最終ステージに立つ寸前、袖にメンバーが集まって、円陣を組む。

「このメンバーで立つ、最後のステージだ。悔いの残らない様、精一杯オレ達らしいステージを。」

リーダーが言う。利知未が一言、声を出す。

「今まで、本当にありがとう。ラストライブも、ヨロシク!」

気合を入れ、顔を見合わせ、強い瞳を交わして、頷き合う。


 夜七時。本当のラストライブが、始まった。


 バースデーライブの、最終曲から始まった。FOXらしい音が、客席に広がる。曲が終わり、セガワがマイクに向かう。

「またココで皆に会えた。始めてステージに立った時の事、思い出した。あれから二年八ヶ月。今まで、本当にサンキュ。…歌ナシでこうやって喋るの、相変わらず苦手だよ…。何を、どう伝えればいいのか解らネー。だから、歌で。今の思いを伝える事にしようと思う。最後までヨロシク頼む。」

 そして、何時もよりも演奏曲の多いライブが始まる。

 今回は、アキもラストライブだ。ポップス時代の曲も二、三曲、組み込まれている。覚えたばかりのドラムをセガワが叩き、キーボードを敬太が引き受ける。初の試みだ。ファンは驚く。けれど、最後の最後に新しい姿を見せるFOXに、昔からのファンは流石と思い、賞賛を与える。

 古くからのFOXファンは、その変化を楽しむバンドの姿勢を、好ましく思う。新しいロック期のファンは、ポップス時代の音に、逆に新鮮さを感じてくれた。

中盤の息抜きタイムで、リーダーのMCは、相変わらずファンの心を捉える。花束を持って、新たなメンバーが、ステージに上がる。利知未は、いつか同級生の、怪我の手当てをしてくれた、堀田高校の少年を見て、少し驚いた。ドラムも、彼と同じバンドから移動してきた。

「試しに一曲、どうだ?」

「ファンの皆がOKしてくれれば。」

客席から、快諾の拍手が起こった。

「FOXファンって、心が広いんだな!」

新たなボーカルが、目を丸くする。

「じゃ、即席ディオって事で。」

 一曲だけ息抜き演奏を挟んだ。

その時、一応、セガワと同い年と言う事になる本物の男と、自分の声質の違いに、利知未自身、妙な納得をした。

『やっぱり、ココ迄だったンだな…。少し、遅かったかも知れない…。』

曲の途中、メンバーと絡みに行き、その中で敬太にそっと、素の笑顔を見せた。敬太もそれに、目で返事を返す。

 客席には見えないアイ・コンタクト。利知未は直ぐにセガワに戻る。


 後半に入り、益々ステージはヒートアップする。客席との一体感を感じて、利知未は自分を支えてくれていたのが、メンバーや敬太だけではなかった事を、改めて感じる。

『皆、俺の事を見てきてくれていた…。どうしようもない悲しみと後悔を持って歌い続けていたあの時も、限界を感じ始めたあの時も…。』

目が、言葉が、思いが。全てが。今の自分を支え続けてくれていた。

 客席の中で目立つ頭の少年達も、いつか下宿まで押し掛けてきた少女達も。中学時代の団部の仲間も、クラスメートも。

 家族ぐるみで支えてくれた、弟分も。

『皆、本当に…、本当にありがとう!』

精一杯の感謝の思いを込めた。その思いは歌を通して、客席にも届いた。

 その夜、FOXのロック期ラストライブは、今までで最高の盛り上がりを見せ、幕を閉じた…。



 五月三日。利知未は一人、由美の墓参りに出掛けた。バイトは休んだ。


 墓石に頭を垂れ、報告する。

『由美…。頑張ってきたけど、限界が来ちまったよ…。もう、今の俺は由美が愛したセガワには戻れない…。最後まで、騙し通してごめんな。』

…けれど、利知未は思う。

『今のあたしは、同じ女として異性を愛しく思う気持ちが解る。この、一年と言う時間は、あたしに由美の心を教えてくれる為の、大切な時間だったのかもしれない…。それを通して、本当の意味で、由美のあの時の心を、知る事が出来たんだと思う…。だから…、』

「ごめんだけじゃない。…心から、ありがとう。」

頭を上げて、石に刻まれた文字を見つめる。長い時間、そうしていた。

 足音が聞こえて、自分の後ろで止まる。ゆっくりと、振り向く。

「…、敬太!…仕事は?」

驚いた利知未に、少しだけ疲れたような、笑顔を見せる。

「空き時間、少しだけ抜けてきたんだ…。」

献花を、墓石の前に捧げる。頭を垂れ、手を合わせて目を瞑る。

 十秒、二十秒。

 やがて目を上げ、呟いた。

「ごめんな。この三日間、連絡が中々、取れなくて…。今日も、一緒に来たかったんだけど…。」

利知未への謝罪だ。利知未は、諦め掛けたような笑顔になる。

「…気に、しないで。…敬太は、やっと夢に向かって、歩き出したんだから。あたしは、その重荷には、なりたく無いよ…。」

敬太が振り向く。申し訳無い表情を見せる。

「明日から、ツアーに回る事になってるんだ。…時間見付けて、必ず連絡するから。…待っていてくれるかな?」

黙って、小さく頷いて見せた。気分を変えて、明るい笑顔を作る。

「頑張ってきて。身体、壊さないで。あたしの事はイイから…、信じてるから…。だから、敬太は思いきりファンの皆に、自分のリズムをアピールして来てよ。これから、ココのリズムは、俺に任せろって。」

「頑張るよ…。そろそろ、戻らないと。」

「うん。そこまで、一緒に行こう。」

「ああ。」

もう一度、由美の墓石に視線を向けて、小さく呟いた。

「由美、さよなら…。」『安らかに…』

そして二人で、肩を並べて、歩き出す。


 バイクまで無言で歩き、別れる時に、軽いキスを交わす。

「じゃ、敬太。本当に身体、大事にね。風邪なんて引いて戻ってきたら、承知しないよ?次のOFFには、…会えたら、会おう。」

「約束するよ。」

変わらない、優しい笑顔を見せてくれた。

 敬太が、自分の車に乗り、エンジンを掛けて走り出す。少し振り向いて、軽く手を上げて、合図をする。利知未も合図を返した。

 車が見えなくなってから、利知未は、ポケットからタバコを取り出す。

タバコを咥える時、指が唇に触れた。一度、タバコを唇から離し、自分の唇に軽く触れる。ついさっき触れ合った、敬太の唇を思い出す。

『変なの…。つい、さっきなのに…。何か、もう何時間も前の事みたいだ…。…敬太が…遠いよ…。』

軽く首を振り、タバコを咥え直して、火を着けた。…閉じた瞼の裏側が、熱くなった。


         四


 利知未の中間テスト成績は、余り良くなかった。

 自分の設定ラインギリギリだ。テスト終了から、FOXのラストライブを挟んだ、ゴールデンウイーク明け。登校した途端、透子が言う。

「ちょっと、利知未!あんたの男、芸能人だった訳?」


 このゴールデンウイークは、敬太が五月に新メンバーとして加わったお披露目の為だったのかもしれない。例のバンドが音楽番組に良く登場していた。利知未はその度に、下宿の中で現在、唯一テレビの置かれているリビングから、席を外していた。

 一人切りでなら、じっと見つめてしまっていたかも知れない。けれど

そこには大抵、双子か里真がいた。


「だったって訳じゃない。五月からなったんだ。」

「ソーみたいね。一瞬、誰だか解らなかった。」

透子は、敬太と利知未の恋人関係を知っている、数少ない友人だ。

 このゴールデンウイークの間、貴子や鵜野からも電話が入っていた。二人にはその時、自室の直通番号も知らておいた。

「それより透子、テスト前のノート、チョイ見せてもらえないか?」

「イーよ。どれ?」

「英語と、古文。後、数学。」

「はいよ。」

今日、授業が有る教科だ。透子は直ぐに、鞄から三冊のノートを取り出して、利知未の机の上に置く。

「中間、ヤバかったん?」

「チョイな、サンキュ。授業まで貸しといてくれるか?」

「OK。」

そして利知未は自分のノートを出し、それぞれの教科を見比べてみる。

「…ココか!ヤバ。寝てたカナ…?」

記載ミスに気付いて、直して行く。透子は自分の席へ向かう。


 お互いに、勉強の邪魔をする事は無い。今までは、主に利知未が透子に教えて貰っていた事が、多いくらいだ。

「あんたが、もうチョイ勉強に力入れたら、直ぐ抜かれソーだね。」

透子は始めて利知未の勉強を見てやった時、そう呟いていた。

『バンド活動終ったし、責めて入試順位まで、戻しておかないとな…。』

利知未は、そう思っている。戻すには、クラスで二十番、学年で三十番は上げないとならない。ツワモノどもの間に繰り込む為には、かなりの努力が必要だ。バイトも当分、今まで通り、土・日・祝日のままだ。

『成績戻ったら、平日も少し入れて、月に一日くらいは、日曜も休み、取りたい所だな…。』

そうして金を溜め、早いうちにバイクを、七五〇に乗り換えたいと思う。

 …免許証の限定解除の文字が、泣いている…。

『その頃には、宏治も免許、取ってるかも知れネーし。倉真も誘って、ツーリングに出掛けるのも、イイ気晴らしになるかもしれない…。』

そう思っていた。

 今はとにかく、敬太の事を、思い出さない努力をしていた。想ってしまわなければ、連絡が取り難くなっている現状を、嘆く事も無い。


 敬太は、あれから、何とか時間を見付け、毎日とは行かないまでも、二日に一度は必ず、連絡をする努力をしてくれている。

 利知未は、その想いが嬉しい。同時に、彼の負担になっている様な気がして、申し訳無いとも思う。

 …二人の距離は益々、遠くなって行く気がしている…。


 敬太は、本当に忙しい毎日に、利知未への想いも忙殺される感じだ。

『…会いたいな…。声を聞きたい。』

そう思い時計を見ると、利知未の就学時間か、夜中の二時を回っている。

『…今日も、ダメか…。』

そして、小さな溜息をつく…。その度に、明日こそはと思う。



 倉真の日常は、喧嘩とバイクに明け暮れている。

『FOXも、ボーカルが、瀬川さんじゃ無けりゃ、アンマ見たいとは思わネーな…。ハードロック期、来週から始まるとは、言ってたケドな…。』

 思いながら、中学時代から付合っているバイクのグループ。暴走系のグループである。その集会にも、自分の愛車で参加する日々だ。

 そこに行けば、いくらでも喧嘩騒ぎが待っている。倉真にとっては、良いストレス解消法である。

 バイトは、今までやっていた、バイクショップで店番のままだ。

 金を稼ぎ、一日も早く母親からの借金、中古バイク代十六万を返してしまいたいと思う。その内、限定解除まで免許を取る予定だ。それも、出来るだけ早い方が良い。

『本当はバイク便、やりてーンだよな。毎日バイク乗り捲れるなんて、最高なバイトだぜ。』

 しかし一応、高校生だ。長期休みならイザ知らず、現代社会の構造上、お得意様である各、企業が機能している時間帯に、走れないライダーは要らないと、一度断られた。免許取得後、半年は無事故無違反でなければ、雇えないとも言われた。十月以降まで、望みは叶いそうも無い。

『ま、シャーネーか…。タマには、学校にも行かネーとな…。』

そう思い、適当に走らせていた進路を、北篠崎高等学校へと向けた。

…平日、十時過ぎの事である。


 真澄は最近、気持ちの問題が影響しているのか、どうも心臓の調子がよろしくない。一学年下のクラスで勉強をする事になった、学校生活が、そのストレスの原因だ。

 ゴールデンウイーク中は、気持ちが平穏を保っていた。連休明けになり、学校で気を失ってしまい、そのまま保健室。その日の午前中の内に、帰宅した。母親が、三十歳を越してから取得した普通車の免許が、こう言う時には、役に立つ。

 真澄の為に所有している軽自動車で、学校まで迎えに行った。

「入院は嫌…。」

本人の言葉で、今は自宅療養中である。


 四月の末、和泉が、始めての給料を、その一部だけ小遣いと、貯金に回して、残りを全て、母に渡した時。

「和泉が働いてくれるお蔭で、私もやっとパートを辞められる。これからは毎日だって、真澄の世話が出来る。…あんたには、本当に感謝してるよ。好きな事もやりたい様にさせて上げられなくて、本当にごめんね。」

母は、目に涙を溜めながら、そう言っていた。

 和泉の母が、パートで稼いでいた金額は、月、八万円程度だ。和泉の手取りは、色々な諸手当が含まれて、月、十三万円程だった。

 その内、一万五千円を自分の小遣いにし、一万五千円を貯金に回す。ボーナスが出たら、その半分は、貯金をするつもりだ。自分の為と言うよりは、家族の為である。そして残りの十万を丸々、家に入れた。

「増えた二万は、適当に、母さんの小遣いにでも回しなよ。」

そう言って渡したのだった。母親の涙は、息子の優しさに零れた涙だ。


 真澄の心臓は、そろそろ、いつその機能を止めてしまうか、判らない状況だと、連休明けに診察した時、医者に言われた。母はその言葉を、長男に伝えるのは止めていた。夫にだけ、打ち明けた。

「和泉には…、あの子達が、本当に仲が良いのは分かっているから…。」

だからこそ、伝えられない。真澄が十五歳になるまでもってくれたら…。

少しは、望みも生まれるかもしれない。海外での手術費用までは、どうしても、出せる訳が無い。何百万円所か、何千万円の世界だ。

 それなら、母として、真澄の世話を、その最後の瞬間まで、思う存分してあげたいと思っていた。夫も、やり切れない思いのまま、頷いた。



利知未は、敬太がツアーから帰る日を待っている。予定は六月の頭だ。

 それまで毎日、ステージが待っていると言う。一箇所の土地に一泊~三泊。そのスケジュールで、全国を回っている。

 バンドメンバー変更と、来月頭に発売される予定のアルバムを、宣伝して回る為のツアーだ。間にレコーディングも、含まれていると言う。

『地方テレビにも出演する訳だし、どうしたって、暇なんか有る訳無い。』

それは、理解している。だからこそ、こちらからの連絡も出来無ければ、敬太からも中々、連絡をする暇が無いのだろう。

利知未は、不安が膨れる程に、敢えて、勉強に、バイトにと、忙しく活動していた。

 アダムでのバイトは、バンド活動終了後、十九時までに延ばしていた。

バイトをしていれば、少しは気も紛れる。

敬太からの電話を、じっと待っている時間も、短くなるからだ。


その日、バイト終了後。元気のない利知未を、マスターが呼び止めた。

「急いでいるのか?」

「…別に、そうでもない。」

 時計を見て、利知未は小さく、首を竦める。この時間、敬太は、何処かのコンサート会場に入っている筈だ。利知未は、思わず小さな溜息を漏らす。

「お前が、そんな女っぽい顔をする事があるとは、驚きだ。」

 少し、からかうように言って、カウンター席へ座るように、促した。

利知未は素直に、腰を下ろす。

「悪かったな。ホストクラブの店員が、キャバクラの女に見えて。」

憎まれ口を叩きながら、ポケットから、タバコを取り出した。

「控え室で、客の指名を待っている、姉ちゃんか?」

「良く知ってるな。マスター。そう言う店の、常連か?」

「馬鹿言え。俺は女に酌をさせるより、自分で作った酒を女に出す方が好きだ。」

 軽く笑みを見せ、自らシェーカーを振り、カクテルを作って、利知未の前へ置いた。

「アダム・オリジナルカクテルだ。『Waiting for….』…さて、お前は、何を待っている?」

出されたカクテルの色は、淡いグリーンだ。

 マスターからの謎掛けに、利知未は内心、どきりとした。

「…キザ臭。…何だよ?あたしが、何を待っているか?」

気持ちを見透かされないように、利知未は、何でもない風を装う。

「ま、ちょっとした遊びだ。」

マスターは、面白そうな顔をしている。

「教える訳、ネーだろ。」

小さくアッカンベーと舌を出した利知未を見て、益々ニヤリとする。

「おお、反抗期か?」

「あたしは昔から、年中反抗期だ。」

「それもそうだな。」

 マスターに納得されて、利知未は少々、ムッとする。

「家の佳奈美も、そろそろ、そんな年頃を迎えるか…?」

急に、心配顔になって、呟くマスターを見て、利知未は軽く笑い返してやった。

「もう少し、余裕、あるんじゃネーの?今の内に、精々、仲良くして貰えよ。」

 佳奈美というのは、彼の愛娘だ。奥さんの連れ子だった。マスターとの、血の繋がりは無い。だが、大切な娘だ。

 カウンターの裏には、マスターの家族写真が飾られている場所がある。利知未も、佳奈美の顔だけは知っている。

 彼のアキレス腱とも言える、大事なお嬢さんの事で、これ以上のからかいは、しない方が良いだろうと、利知未は話を変えた。

「それより、渉。一歳になったか?」

「まだ、十ヵ月だ。最近、ヤンチャでな。智子が、ベビーサークルを買って来た。」

 実の息子だ。こちらも、可愛くて仕方が無いらしい。

「もう歩けるのか?」

「伝い歩きはするぞ。足腰も丈夫そうだ。将来は、一流アスリートに、成るかも知らん。」

 ニヤニヤと、嬉しそうだ。

「そう言うの、親バカって、言うんだぜ?」

 利知未もニヤリとして、突っ込んでやった。カクテルに口をつける。

「親バカ結構!…自分の子供にバカになれない親は、気の毒だ。」

「そー言うもんか?」

「そう言うもんだ。」

 呆れた利知未の言葉に、マスターは大真面目に答えた。

 利知未は、少し羨ましいと感じる。この人が父親であったなら、子供は、きっと素直に育つのではないか?と思う。

 自分の両親には、自分が幼い頃から、遊んで貰った記憶も無い。

「…親バカ談義に付き合わされる前に、帰るかな。」

肩を竦めて、カクテルを飲み干した。

「いくらだ?」

「奢りだ。気になるんなら、今月のバイト料から引いておくぞ?」

「サンキュ。…素直に、奢られとく。」

 少し考えて、そう答えた。それから、アダムを出て行った。

『マスター、あたしの事、元気付けようとしてくれてたんだろうな。』

 店を出て歩きながら、利知未は、そう理解した。



 その夜、十一時半を回って、敬太から電話が入る。二日振りだった。

「昨日はごめん。連絡する時間が無かったよ。」

少し疲れたような敬太の声に、利知未は胸が、締付けられる思いだ。

「…気にしなくてイイよ。身体、壊して無い?」

「大丈夫だよ。利知未こそ、大丈夫?」

「元気だよ。…今日、マスターが、オリジナルカクテル作ってくれたよ。」

「どんなカクテル?」

「何だろう…?メロンフィズみたいな色だったな…?リキュールなのは確かだと思うけど。」

「何て名前?」

「…『Waiting for….』って、…ナゾ掛け見たいな事されたよ。」

「…そうか。」

『敬太、何を思ったんだろう…?』

済まなそうな敬太の声を聞き、利知未は思う。…言わなきゃ、良かったかな…?連絡が来なかった事を、遠回しに攻めている様に、聞こえてしまったかも知れない…。そう感じて、慌てて言葉を足した。

「メニューのメッセージに『待ち合わせの時にどうぞ。軽めの飲み易いカクテル』って書いてあったから。…余り深い意味は、無かったと思うよ。」

何事も無い様な、声を出した。

「明日、何時から?」

直ぐに話しを変え、二十分弱の電話を終えて、十二時には、ベッドに入った。

 本当は、もっと、ゆっくりと話していたいと、勿論、思う。けれど、疲れている様子の敬太を、余り長くは、付き合わせられないとも思う。

『あたしへの電話、負担になっていなければイイけど。』

ベッドへ転がり、眠れないままに、考えてしまった。



 倉真が学校に顔を出すと、綾子は少しだけホッとする。

 初めは怖い印象を持っていた。なるべく近付かない方が良い様な気がしていた。しかし、あの男子トイレ事件後から、倉真が見せる優しさは、クラスメートの中では恐らく、綾子だけが感じる事が出来ている。

 あの翌日から、倉真は綾子のことを、注意して見ている。

 特に好意を持ったつもりも無いが、彼女が持つ独特の、被害者体質な雰囲気が、危うい印象を与えるからだ。

『何ツーか、瀬川さんと、全く逆のタイプだな…。あの人は、こんな妙な不安、人に感じさせネーからな…。近付いたら、逆にこっちがぶっ飛ばされソーだ…。』

そう思って、冷や汗混じりの、苦笑いが浮かんでくる。

 倉真が目を光らせている間は、男子トイレに綾子を連れ込んだ連中も手を出せない。登校していない日は、毎日ビクビクして過ごしている。


 しかし、二人の間に何となく流れている雰囲気は、倉真を敵視している連中にとっては、美味しい情報になる。

「館川のヤツ、クラスメートの浜崎って女が、弱点かもしれネー…。」

別のクラスや、敵対している諸先輩方には、利用し甲斐のあるネタだ。

「そのままオレらで利用してもイイケドよ、もっと面白い所に情報売らネーか?」

「何処だよ?」

「あいつが関ってる、族。かなりヤバイことやってるみたいだぜ。利用出来そうなら、メンバーでも容赦ネー所よ。」

「面白ソーだな。誰が繋ぎつける?」

「そっちはさ……。」

コソコソと、怪しげな作戦会議が行われた。

 倉真はそれに、全く気付く事が出来なかった。



利知未の、電話待ち時間の、バイト以外での使い方は、勿論、勉強だ。

とは言え、自分の勉強よりも、樹絵や里真の家庭教師の方が、忙しいのも事実だ。

それでも、以前よりは教科書に向かう時間も、増えている。お蔭で、毎週一度、行われている小テストの成績も、どんどん、上がっている。

 担任は、最近の利知未の様子に目を丸くしている。問題児・瀬川が、今やクラスで十位以内の生徒と、肩を並べて競っている。


 敬太からの連絡は益々、少なくなっている。


 朝、利知未は、敬太に抱かれている夢を見て、目が覚めた。

 カレンダーを見て、敬太が戻る予定日まで後、三週間以上は在る事を確認して、溜息を付いてしまった。枕元の目覚まし時計を見て、のんびりしている時間は無い事を知り、慌てて起き出した。

『あれから三日だ。…まだ、連絡、来ないな…。』

今日は週中、水曜日だ。

利知未には、毎週恒例の、小テストが待っていた。



          五


 明けて、木曜日。昨日は、敬太からの連絡がなかった。

利知未は、また昨日と同じ夢を見てしまった。

『あたし、いつの間に、こんなスキモノになっちゃったんだろう…?』目を覚まし、夢の余韻を感じながら、少し、ふざけてそんな風に思ってみる。けれど、それは、きっと違うと、自分でも判っている。

『…ただ、敬太に会いたいだけ。距離を、埋めてしまいたいだけ…。』

物思わし気な溜息をつき、のろのろとベッドから離れ、準備をする。


夜十一時過ぎ、三日振りに、連絡があった。今日の電話は、短かった。

「ごめん、また直ぐ、ラジオの仕事が入ってるんだけど、今の内じゃないと、利知未の声が聞けないから…。変わりは、無い?」

「うん、大丈夫。敬太こそ、疲れて無い…?」

「オレは大丈夫だよ。…良かった。利知未の声が聞けて。また明日も、頑張れそうだ。」

「あたしも、敬太の声が聞けて良かった…。」

『本当は、会いたいよ…。』

心の中で呟く。けれど、そんな我が侭は言えないと、小さく首を振る。

「本当にごめん。時間だ。探しに来た。…お休み。」

「お休み。敬太は、これから仕事か…。頑張って。」

「ありがとう。…じゃ。」

そうして、敬太からの、慌しい電話は切れた。

 朝、見た夢を思い出してしまう。益々、会いたい気持ちが、溢れ出す。

『…あれ?涙…?』

 受話器を置いて、自分の頬を濡らすものに、利知未は気付いた。

『…どうしたンだろう…?あたし、どんどん弱くなって行くみたいだ…。まだ、会えなくなって、十日しか経っていないのに。…こんなんじゃ、ダメだね…。』

 涙を拭いて、ベッドへ転がる。

『勉強、する気に、ならないや…。』

 そのまま、目を閉じ、じっと動かない。…動けない。


 次に連絡が来たのは、また、それから四日過ぎた二十三日・土曜日の事だった。


利知未は、学校から帰宅し、バイトへ向かおうとしていた。その時、電話が鳴り、慌てて受話器を上げる。

「利知未、まだ時間、大丈夫?」

「敬太?この時間に連絡、良く出来たね!」

「ごめん。また直ぐ、スタジオに入らないとならない。」

「…そう。…そうだよね。どうした?何かあったの?」

「さっき、チケット送ったから。多分、月曜には着くと思う。」

「そっか。ありがとう。じゃ、約一ヶ月ぶりで敬太に会えるね。」

「ああ。…その日は、朝まで一緒に居られるかな…?」

「…一緒にいたいよ…。」『本当は、ずっと…』

「それを聞けたら、安心したよ。…ごめん。休憩終りだ。じゃ、また連絡するから。」

「うん。待ってる。でも、無理しないで。」

「利知未の声を聞かないと、オレが落着かないよ?」

「…解ったよ。凄く嬉しい。じゃ、今日も頑張って!」

「ありがとう。」

そして、また短い電話が終る。

『やっと、敬太に会えるんだ。…でも、あたし…。』

 今のままじゃ、彼の負担になってばかりだと思う。自分は、どうして敬太に、こんなにも心を、委ね切ってしまうのだろうか…?

 それから利知未は、色々な事を考えた。…これから、先の二人の事。

『あたしは、これから、どうすればイイのかな…?』

 思いは、行き止まりにぶつかる。…見たくない、考えたくない未来が、その行き止まりの先には、待っている…。



 二十五日、月曜日。利知未の、最近の学校生活は、透子と過ごす時間にのみ、気分も晴れる。

「ついと、ここまで追い付かれたか。」

教室の後ろに、先週の小テスト成績が、張り出されていた。

「つくづく、嫌味なコトする学校だよな。」

表情を嫌そうに歪めて、利知未が言う。

 毎週行われている、主要五教科小テストのクラス順位は、翌月曜から貼り出される。利知未はこれを見て、バンド活動中も、勉強時間を微妙にコントロールしていた。

 利知未と、すっかり親友となった透子は、手を抜いていても、クラス四位から、落とす事はなかった。いつも、トップ争いの只中にいる。

 先週の結果は、利知未の名前が、他二名と同列6位に並んでいた。

 それなりに勉強にも力を入れて、電話の待ち時間を潰している成果だ。

「先々週までは、十五位から、三十位までの間を、ウロチョロしていたのにな。」

いつも九位以内で争っている男子生徒が、利知未の後ろで、嫌味っぽく呟いている。彼の名前は、始めて二桁に並んでいた。

この辺りで競っている生徒達は、毎週毎週、気が狂いそうな程に勉強をしている。昼休みも、弁当を広げながら、参考書を捲っている。

 利知未に対する嫌味な態度も、判らない事ではなかった。

 その日は、天気が良かった。昼休み、利知未と透子は、中庭に出る事にした。木陰のベンチを陣取り、弁当を広げる。

昼食を取りながら、午前中、利知未に嫌味を言っていたクラスメートについて、透子が意見を述べている。

「ま、アイツも可哀想なヤツね。勉強の才能ない分、努力で登り詰めてるヤツだから。」

「別に、気にしてネーし。」

言いながら、利知未も持参弁当箱の蓋を開けた。直ぐに透子が反応する。

「なに?珍しい!いつも購買部利用の利知未が!作ってもらったの?」

「気晴らしに作ってきたんだよ。」

「自作―!?アンタって、本当に面白いヤツ。」

「何が?…ま、言いたい事は、何となく解るけどな。」

「全然、ヤリそうもなく見えるって、自分で解ってンね。戴き!」

透子は、箸を利知未の弁当箱に突っ込んで、惣菜を攫った。口にほおり込む様を、利知未は呆れて眺める。

「う、まーい!!アンタ、コックも出来んじゃん?!」

幸せそうに、租借して飲み込んだ透子の隙を、窺がった。

「ったく。…反撃!」

「あ!ヤラれた!」

「へ。透子の母さん、料理上手いよな。」

今度は利知未が、透子の弁当箱から、惣菜を奪った。口にほおり込んで、不敵な顔をして見せた。

「今度、弁当交換しようか?アタシはね、ポーチドエッグが入ってれば文句無いから!」

「…勝手に決めるし。…まぁ、暇つぶしには、イイかも知れないな。」

「じゃ、明日!明後日でもイイけど?」

「解ったよ。明後日。」

「決まり!」

学校での利知未は、いつもこんな雰囲気だ。利知未は、透子とバカな事をやったり、話したりしている間は、気が紛れている。


その日、帰宅した利知未の元へ、ツアー最終ステージ、都内でやる、コンサートチケットが、敬太から届いた。短い手紙が、同封されていた。

『利知未に会いたい。打ち上げ、抜け出すから待っていて。  敬太』

そう書いてあった。コンサートは、六月七日・日曜、十九時半開演。

『あたしも、会いたいよ…。』

チケットを抱き締めた。一筋の涙が、利知未の頬を濡らした…。

 物凄く、敬太に会いたくなった。責めて、声が聞きたいと、切に願う。…けれど、今日は、電話が来ない…。

胸が苦しくなる。気持ちが落ち込むのが、自分でも判る。

『どうして、彼を信じて待っている事が、こんなに難しいんだろう…?』

…もっと自信があったら、イイのかな?多分、そうなんだ…。

 けれど、利知未は思う。

…そんなモノ、あたしは持てない…。いつも自分勝手に彼を求めて、衝動的に行動して、自分が辛い時ばかり、敬太に甘えて…。今、敬太が一番大切な時には、何もしてあげられない。

『こんなんじゃ、ダメだよね。…あたし…。』

 …敬太の夢の、邪魔になってるだけかもしれない…。


 利知未の心の奥にある、見無い様に、気付かない様にしてきた言葉が、自己主張を強める。

『…もしかして、このまま、……サヨナラ……?』

 二人の為に、一番イイのかも知れない。


 自分の我が侭。立場が変わってしまった彼の、負担になるだけの弱さ。

『…それでも、決心になるまでは、もう少し掛かりそう…。』

 流れる涙は、中々、収まってくれなかった。


 敬太は新メンバーとして、その実力と共に、柔らかい人当たりと芯の強い性格で、メンバーだけではなく一緒にツアーを回っているスタッフからも、可愛がられている。既に、ファンにも浸透した。

「敬太って上手いね。ドラム変わってどうなるかと思ったけど、全然、悪くないよ。彼女がさ、可愛いって言って、ファンになっちゃった。」

以前からのファンの一部から、そんな言葉も聞かれるようになった。

 丁度、上り調子のバンドだ。仕事は益々、忙しくなる。

 FOXで敬太を知っていたファンも、新しいファンの列に並ぶ。全国的に見て微々たる物では有るが、一応、売行きにも貢献している事になるのだろうか。都内から態々、近県のコンサートに足を運んでくれた、FOX時代からのファンの姿を見付け、利知未の泣き顔を思い出す。

『昨日も、連絡できなかったな…。チケットは、着いたンだろうか…?利知未は、来てくれるのかな。』

 お揃いのリングとネックレスは、身に着け続けている。会えなくなる程に、愛しさも強まる様だ。

『オレの前でだけ、見せてくれていた、笑顔も、涙も。』

交わしたキスも、抱き合った身体の温もりも…。衝動的なその行動も。

 …全てが、愛しい…。

 二人の間に在る距離と時間が、歯痒く思う瞬間もある。

『利知未、泣いていないよな…?お前を受け止めてくれるヤツ、見付けてしまったか?…それは、…もしも…、…。』

それで、利知未が安心して笑えるのなら、その方が良いかも知れない…。

時々、そんな風にも思う。

 敬太から見て、利知未は魅力的な女性であると、感じている。

 モテていても、不思議は無い。距離が遠くなる事にあれほどの反応を見せる利知未だ。…これからの自分は、彼女を守る事が出来なくなってしまうかもしれない…。

  …二人の距離は、その心の距離に反して、離れ始める…。


 二十八日、木曜日。利知未が、夕飯と入浴を済ませて、勉強を始めたのは、九時半過ぎだった。

今日も、樹絵が里真を引き連れて、利知未の部屋へ現れる。里真は、利知未が教えている事を、別のノートに纏めている。

「面倒臭い事、するんだな。」

「ん?だって、こうしておいた方が便利なんだモン。解らない所、その度に、ページ捲り直して見るより、早いでしょう?」

「…ソーかもな。」

「そっか。じゃ、あたしも、これからそうしよう!」

樹絵が、目から鱗の表情をして言った。

十時半頃まで、二人の勉強を見てやった。二人が部屋から出て行ってから、漸く自分の勉強を始めた。


そして、一時間…。電話が鳴る。利知未は急いで、受話器を上げる。受けながら、部屋の鍵を掛けに行く。

「利知未。やっと利知未の声が聞けた…。」

「敬太…。仕事、忙しそうだね?」

「…ごめん。チケットは、着いた?」

「謝らないで。チケット、月曜には着いたよ。…凄く、会いたくなったよ。」

「オレも、早く利知未に会いたい。」

『抱いて欲しい。』

今日の昼間、透子としていた会話が切っ掛けで、利知未の中で、その想いが強くなっていた。無意識に、声が変わってしまう。

「…会いたいよ…。」

「…利知未。…後、一週間か。」

「…後、八日。」

「…歯痒いな。」

お揃いのリングを着けた右手で、胸元のペアネックレスを弄る。

 ネックレスを弄っている手が、胸の辺りに触れ、妙な疼きを感じてしまう…。

「……どうしよう…。今、凄く抱いて貰いたい……。」

小声で、言ってしまう。…今は、禁句だった筈の言葉。

「ごめん。変な事、言っちゃった。」

恥かしさが、こみ上げる。

「…ごめん。…早く、会いたいな…。」

敬太の声は、変わらず優しい。謝られて、悲しい気持ちになってしまう。

『…あたしって、どうしようもない我が侭女だ。』

「…時間、大丈夫なの?」

「そんな事、気にしないでいたいな。…けど、」

謝られる前に、利知未が言った。

「イイよ。仕事だもん、仕方ない。…いつも、どのくらい眠れるの?」

「4、5時間は寝てるよ。大丈夫。」

「そんなに忙しいんだね。じゃ、身体、大事にして頑張って。」

「ありがとう。…心配かけてごめん。」

『謝らないで。』

敬太から、ごめんの一言を聞く度に、利知未の心が痛む。

「また、連絡するよ。」

「うん。…待ってる。」

「じゃ。お休み。」

「…お休み。」

電話が終る。こんなに切ない電話は、始めてだと感じた。

利知未は、勉強を続ける気力が、無くなってしまった。

…そのまま、ベッドへ、倒れ込む。


 六月一週目、その土曜日。

 宏治が手伝うバッカスに、倉真が遊びに来た。悪いタイミングで和泉も宏治に用があり、店に現れる。

「相変わらず、馬鹿ヤッてるのか。」

倉真の変わらない、真っ赤なモヒカンに、和泉が珍しく突っ掛かる。

「テメーに言われる筋じゃネーな。」

へ、と馬鹿に仕返した笑いに、和泉が思わず自分から、手を出し掛ける。


 真澄が、調子の悪い事で、気分も落ち込みがちだ。何とか元気付け様と、準一と頑張っているが、どうも最近、反応が悪い。

 その事で、無意識の内にイライラが溜まっている。…自分が情けない。


「和泉!おれに用があるんじゃないのか?」

宏治が、団部副団時代に鍛えた、厳しい声で制止を掛けた。それ以上に、相手の拳を避け、撲り返した倉真の拳が、一瞬早く和泉の頬を張る。

 後ろに飛ばされ、カウンターに背中をぶつける。

 カウンター上の灰皿が落ちて、高い音を上げて、二つに割れる。

 和泉は直ぐに立ち直り、倉真の胸座に掴みかかる。

 そのまま乱闘になりかけた時、カウンターからグラスの水が撒かれる。

 氷入りだ。冷っとした感触に、二人の騒ぎが止まり、水を撒いた人物を見る。…美由紀の、厳しい顔がふっと緩む。

「ホンと、良く効くのね。この方法。利知未に教えて貰っておいて良かったわ。」

 その表情に、二人の気が反れてしまった。掴み合っていた腕を離し、そっぽを向いて、お互いに離れたカウンター席へ、乱暴に腰掛ける。

「流石、お袋。」

宏治が、目を丸くして美由紀を見た。


 七日。利知未は、朝からバイトに行った。昨日の内に、十七時上がりにする事を、頼んであった。バイクでアダムへ向かう。そのまま、仕事終了後、都内へ向かう予定だ。


 早い時間に、敬太から電話があった。待ち合わせの場所を決めた。

「…やっと、利知未に会えるよ…。」

その言葉が、切ない。利知未も嬉しかった。けれど、決心もしていた。

「ごめん。本当は最前列の真ん中、欲しかったんだけど。ファンクラブが、その辺押えてるんだ。…打ち上げ、必ず抜けて行くから…。」

敬太は、打ち上げ会場近くの、深夜までやっている店で、待っていて欲しいと言った。

「…本当に朝まで、一緒に過ごせる…?」

「大丈夫だよ。明日は、午前中OFFだから。」

「…そっか。ツアーラストライブ、頑張って。」

「ありがとう、頑張るよ。」

そして、電話が切れた。利知未は思う。

『それでも、午前中だけの、OFFなんだ…。』

全国を回って戻った翌日が、そんなスケジュールだ。驚くし、先の事も、改めて考えてしまう。

『今夜、朝まで過ごせたら…。』

…彼の想いと、存在を、自分の中に、刻み付けたら…。

『…サヨナラ…。』

 それが、利知未の決心。

 涙が出て来て、思う。

『…あたし、こんなダメな女だったんだな…。』

それでも、やはり。

『…敬太の事は、愛しているから…。』

 切ない決心を胸に、利知未は静かに、受話器を置いた。


           六


 利知未は客席から、久し振りに敬太の姿を見た。敬太が送ってくれた席は、三列目の、左隅だった。

待ち焦がれていた嬉しい気持ちの裏に、悲しい決意も、浮かんでいる。

『やっぱり、敬太には、夢を大事にして欲しいから…。あたしの存在が、その邪魔になるのだけは…。…嫌だから…。』

 今夜は、朝まで一緒に過ごして。

『…そして…サヨナラ…。』

 正直、少し疲れてもいる。毎週三日は一緒に居られた、FOX時代。

 その中でも、敬太がオーデションに受かってからは、必ず週に一度は抱き合っていた。

そうする事で、利知未は、感じてしまった二人の距離を、埋め様としていた。

 会えなくなり、連絡も中々、取れなくなって、初めの内は落ち込んだ。待っているから、構えているから駄目なんだと思い、違う事に集中して見た。…それでも、苦しさは拭い切れない…。

『本当は、今は、あたしが、敬太の事を、支えてあげなくては、いけなかったのに…。』

…それが出来ない、自分の心の弱さが、彼の負担になってしまう…。



 敬太は、今朝の電話での、利知未の声が気になっていた。

『…利知未…。不安を、感じさせてしまっていた…。』

 守りたいと思った彼女の、その華奢な心を、自分自身が傷付けている。

 そう感じた。いっその事、家を出てアパートでも借りてしまおうか…?

 自分が居ない間でも、中々、会えない日々でも。利知未がその部屋にさえ来てくれれば、そこで自分の帰りを、待っていてくれさえすれば…。

『彼女の不安は、少しは癒されるのだろうか…?』

 今夜、話しを切り出して見ようか…?



 利知未は、会場へ入る為の、長い列に並ぶ。その待ち時間の長さに、彼と自分の、遠過ぎる距離を思う。

『時間は、距離と同じだ…。』

何でもない時でも、彼の元へ向かう時間。顔を合わせて、語り合えるまでの時間。

 道を辿ってA・B地点間の距離を超えるまでの時間。会いたくても、会えない時間。…遠ければ遠いほど、その時間も長くなる…。

 心の距離。実際の距離。…立場の違いによって生まれる、二人の位置関係。もどかしいくらい、ゆっくり過ぎて行く時間。…待つ身の、辛さ。『じっと、待つ事の出来ない女は、仕事に忙しい恋人を、持ってはいけない。…。』

今、利知未は、そんな風に感じてしまっている。

 人気者の彼氏を持つのも、信じられなくなってしまう。

『…自分に、自信が持てないから…。』


 漸く会場に入り、指定された席に着いた。ステージと自分の距離を、再確認してしまう。

『遠いな…。』

FOXで、立っていた時のライブハウスとは、広さが違う。

『前からたった、三列目なのに…。』

警備員が、ステージ前に張られた、綱の後ろに立っている。

『こんな所で、叩いてたンだ…。』

ドラムは必ず、バンドの一番後ろだ。唯でさえ遠い距離が、益々遠い。ライブが始まり、利知未はステージ上に、遠い敬太の姿を見た。

『…来ない方が、良かったかも…。』

その距離を、実感してしまう…。

『…いけない。涙が、出てきてしまいそう…。』

 新メンバーの紹介で、指し示される敬太の姿に、堪え切れずに、涙が流れてしまった。ファンから名前を呼ばれて、敬太は短くドラムを叩いて、返事をする。メンバーとの雰囲気は良かった。すっかり仲が、良くなっている様子だ。

「何か今日は、コンディション良いじゃないか。」

敬太はそう言われて、チラリと、利知未がいる席の辺りを見て、照れ臭そうに笑っていた。演奏の呼吸も、合っていた。

『…きっと、努力して、こうなったんだろうな。』

 その敬太の頑張りは、利知未には、良く判る。


 ライブが終り、客席が閑散として会場整備が始まるまで、利知未は、じっと、動けずにいた。

 客席チェックに回って来た人に声を掛けられて、漸く席を立つ。

 ライブの途中で目が合った時、何時もの優しい、そして嬉しそうな笑顔を見せられて、利知未は胸が、苦しくなった。その思いで、今も心が締め付けられている。

 会場外で、出待ちをしているファンの群れを抜けて、利知未は、待ち合わせの店へ向かった。



 その店は、アダムの様に、喫茶とバーを併営している店だった。少し考えて、利知未は一杯だけ、カクテルを頼む。

『敬太が来るまで、きっと、時間が掛かるから…。』

 FOX時代に良く飲んでいた、モスコミュールを注文した。時計の針は、十時を指していた。

 グラスを手に、今までの、色々な事を思った。

『初めて敬太の事が、気になり出した時は、何時…?』

 多分、あの時。…敬太の笑顔が、可愛く見えた瞬間…。

『年上の男に可愛いなんて、あの時、始めて感じたんだ…。』

けれど、あの時は。

自分の感情の、芯の部分には、まだ気付けない。

…とても幼い、愛情の始まり…。


 少しだけ、敬太に対する、不思議な感情に気付いた頃。まだ、裕一が生きていた、冬休み過ぎ。

『あの頃は、由美の想いに、戸惑っていた。』

どれくらい好きな相手になら、その身体を委ねる気持ちに、なれるのかも。全く解らなかった。想像がつかない想いに、翻弄されていた時期。

 三学期が始まり、学校とバンド活動と、団部の仲間といる時と、全部の自分がバラバラで、疲れ始めてもいた頃。

…裕一が亡くなってしまう、ホンの少し前…。

『まだ、気付けはしなかった…。ただ、裕兄といるような安心感だけ、感じていた。』


 裕一が亡くなり、歌にだけ、悲しみを乗せるようになった頃。

 敬太が利知未を、ライブと練習の後、毎週の様に車で送ってくれた。

由美の変化に、その、切羽詰った心のサインに、全く気付けなかった。

『あの時を超えて、敬太の事を愛し始めた…。その想いに、気付き初めた…。』


 卒業式後の祝賀会で、初恋が櫛田先輩だった事に、やっと気付いた。

 それに気付けたから、敬太への想いも、やっと理解した。教えてくれたのは、橋田だった。

『…俺から、あたしに、一人称が変わった夜…。それから後は、いつも敬太の優しさに、救われ続けた…。』

由美の大事件の時でさえ。あの時は、心だけではなく、その行動も。利知未を決して、表立って事件に関わらせない様に、心を砕いてくれたのは、敬太だ。

『あんなタイミングで、そこまで人の事を思い遣れる優しさが、敬太の本当の強さ…。』

 その強さは、きっと、メンバーの中でも、利知未だけが知っていた。

 あの事件を超えた夏。敬太との、始めてのキス。

…二人の心が、伝わり合った瞬間。

『始めて、由美のセガワへ対する想いに、…気付いた。』

悲しい心を、理解した。愛しい想いを、自分で知った。

『教えてくれたのは、…敬太。』


 気が付くと、利知未は、三杯目のモスコミュールを、手にしていた。

『敬太が来る前に、酔ってしまわないように、気を付けよう…。』

時計の針は、十一時三十分を、回っている。


 利知未の想いは、再び巡る。

ファーストキスを交わした後の、クリスマス前。中学三年の、冬。

『激しく、敬太を求める想いが、あたしの中で、疼き出した…。堪え続けた、バースデーライブまでの日々。』

 始めて敬太と結ばれた夜。それから四度目の、自分の身体の変化。

 求め合った、高一の一年間。

『抱かれるほどに、敬太への想いは、強まった…。』


 バーテンダーの声で、瞬間だけ、我に返った。

「お代わり、作りましょうか?」

「…いいえ。ジンジャーエール、貰えますか…?」

「畏まりました。」

 時計の針は、十二時を回っていた。利知未は、ふと、タバコに手を出し掛けて、手を止める。

『もう直ぐ、敬太が来る筈だから…。』

 ジンジャーエールを一口飲んで、出入り口を見る。

『敬太、まだ来ない…。まだ、抜け出せないのかな…?』

涙が、出そうな気分になる。首を振って、不安を振るい落とす。

 その時、扉が開く。その先に立つ、待ち焦がれていた、…影!

「…遅くなって…、」

ごめんは、言わせたくなかった。驚いているバーテンダーの視線を無視して、利知未は立ち上がって、敬太にキスをした。

「…利知未。」

「おいくらですか?」

「四千二百円になります。」

五千円札を出して、釣りを受け取り、財布をポケットに突っ込んだ。

「…敬太、出ようよ…?」

利知未の、最後の我が侭だ。

びっくりしながらも、敬太は優しく頷いた。腕を絡めて、扉を潜る。

 バーテンダーは、何も無かったような顔をして、仕事に戻った。


 店を出て、もう一度、敬太に利知未から、長いキスをした。

「…どうやって、ここまで来たの…?」

「…タクシーで。」

敬太からも、アルコールの匂いがしていた。

「これから、何処に行こうか…?」

「…何処でもイイよ。…抱いて…?」

 利知未の目を見て、敬太が驚いて呟く。

「…利知未、何時もと、違うね…。」

「…違う?…やっと、敬太に会えたから…。」

『…凄く、今すぐにでも、敬太に抱かれたい…。』

「…距離を、埋めて。」

敬太から、キスを返した。二人は初めて、舌を絡ませ合った。

 心の底からお互いが、求め合っている想いが伝わる…。

 二人の横を遠慮がちに通り抜けて、店に入るカップルが、キスの間に、二組あった。

 敬太の手は、利知未の胸に触れていた…。利知未も、彼の胸の上に、手を当てる…。

 唇を離して、ピタリと寄り添いながら、歩き出した。



 駅の近くのラブホテルへ入った。…遠くまでは、我慢出来無い…。

 シャワーも浴びずに、服を脱がせ合う。…早く、少しでも早く…。

 利知未は敬太に、身体を愛撫されながら、ベッドへ崩れて行く…。


 裸で抱き締め合い、もう一度キスをする。唇から、絡ませ合う舌から、求め合う想いが迸る。


 二人は、一ヶ月以上の時間と距離を越えて、抱き合った。


 今までで、一番激しく、一番強く。

超えてきた、離れていた日々の分。

その間の、不安と想いの全てを、取り戻す様に…。


 今まで以上に、利知未の身体は敏感に、感じやすくなっていた。

 彼の動きに合わせて、利知未も動き出す。

 利知未の心が、反応する。…敬太のリズムは、ドラムと同じだ…。

『…何時も、あたしに、安心感をくれた…。』

「利知未…。」

「…敬太、震えてる…?」

 敬太の反応も、今までと、全く違っていた。

『…気持ちイイ…。感じるって、コレ…?』

とっくに、解っている筈の、ニュアンスだけれど…。

…今は、特別かも知れない…。やっと今だけ、距離を忘れる。


 一度目が終って、二度目も。今日は、敬太から、激しく求める。

「お願い、敬太…。あたしに、貴方を……、」

『あたしに、貴方を、刻み付けて…。…その想いも、身体の反応も…。』

「ずっと、忘れない、ように…。」


利知未の言葉の意味は、正しくは、伝わらない。


「…会えない時でも、忘れない様に…。」


 初めて、避妊を考えない、彼の行動に、利知未は思う。

『コレで、子供が出来たら…?』

けれど、不安は一瞬で消えた。

『もしも、そうなったら、その時は、その時。…でも…。』

 利知未の身体の上で、ぐったりと力が抜けた敬太を、彼の頭を、優しく撫でた。利知未の小さな胸に、彼が頭を埋める。そこに小さくキスをして、利知未の口から、吐息が漏れる…。

『…母性本能、あたしにも、ちゃんとあるみたい…。』


 ようやく身体を離して、二人ピタリと寄り添った…。

「…利知未、考えたんだけど…。」

「…なに…?」

「オレ、家を出ようと思う。」

「…どうして?」

「そうしたら、気兼ね無くオレの事、待っていられないかな…?」

「…一緒に、住むの…?」

「…それでもイイし、…でも、まだ利知未は学校があるから。」

敬太が、頭の向きを変え、利知未を見る。

「…鍵、渡すよ…。」

優しくて、強い。その瞳は、嘘を言う目じゃない。利知未は、心の奥の決心を隠して、笑顔を作って頷いた。


 敬太が口にした提案は、利知未には、本当に嬉しい事だった。

けれど、それによって、敬太の平穏で裕福な生活を奪うのは、利知未にとっては、辛い事だ。

 家族で暮せる敬太の生活を、自分の為に捨てさせるのは…。

『それで、敬太の生活を乱す事になるのは、…あたし自身が、耐えられないから…。』


「その内、手料理、作ってくれるかな?」

「…あたし、料理は得意だよ…。裁縫は今イチだけど…。」

敬太が、小さく笑ってくれた。

「…楽しみだよ。…利知未の笑顔見たら、ホッとした…。少し、眠るよ。」

「…うん。お休み…。」

キスをして、敬太の腕に抱かれながら、直ぐに寝息を立て始めた彼の寝顔を見つめた。

 ずっと、そうして見つめながら、バーで思っていた続きを思い出す。

 FOXでの活動を終り、敬太がプロとして活動を始めてからの事を思う。

 彼が忙しい事は、理解していたけれど。

 …それでも、じっと待っていられなかった、自分の心を思う…。

『最後には、彼の事を、疑い始めてしまった…。』

その自分が、情けない…。彼が、もしかしてファンの女の子と過ごしているんじゃないかと、疑ってしまった。そんな疑惑が浮かんできた。

「…あたしは、芸能人の恋人には、向かないね…。」

良く眠っている彼の頬にキスをして、そっとベッドを抜け出す。

 メモを見つけて、サヨナラを書く。

『敬太、昨夜の話しは、本当に嬉しかった…。』その言葉は、本物。

『本当に愛してる。でも、』でも、やっぱり…。

『…サヨナラ。』これ以上、貴方の重荷には、なりたく無いから…。

『ありがとう。大切な事を沢山、教えて貰ったよ。』

指のリングにキスをして、涙が零れる…。

『コレは、置いて行こう…。…ネックレスだけは、思い出に…。』

 メモの端にリングを置いて、もう一度彼の唇に、軽いキスをする。

 少しだけ、彼の寝顔を見つめて、良く眠っているのを確認する。

「…ごめんね。敬太…。愛しているよ…。」

小さく呟いて、涙を払って、部屋を出た。


 …起き出した後の敬太がどうしたかは、もう、分からない…。


 敬太は明け方まで、そっとベッドを抜け出た利知未に気付く事も無く、眠り続けた…。朝。目覚めて、利知未の短い手紙を見付ける。

 昨夜は、利知未の指に光っていたシルバーリングが、手紙の端に置き去りにされている。

「…利知未…。」

愛しい恋人の、名前を呼ぶ。

…けれど、それが…。二人の、別れの朝だった。

            七


ホテルを出て、利知未はバイクを走らせる。

『あたし、バイク持っていて、良かった…。』

走っていれば、少しは、吹っ切れるかも知れない…。

『これが、きっと二人の為には、一番イイ…。』


 自分は、敬太への依存心が、強過ぎるから。

離れて待つ事が、出来ないから…。

敬太には、自分よりも相応しい相手が、きっと現れる…。


『…あたしには、現れるのかな…?』

 …いつかは、現れるかも知れない、けれど…。

『今はまだ、敬太を愛し続けて行こう…。…本当に、大切な人だから…。』


いつか、この想いが浄化する日も、来るかもしれない。

それまでは、大切に、大切に…。


視界がぼやけ、利知未は危うく交差点で、普通車と接触しそうになる。

 クラクションが後ろから鳴らされ、運転手がなにかを叫ぶ。


 …全ては、曇りガラスを隔てた、向こう側の世界での出来事…。



 倉真は、今日も学校をサボる。ヤバイ仲間と、バイクを走らせる。

「徹夜明けは、やっぱキツイぜ。」

コンビニの前。見た目に怪しい友人と、口から煙を吐き出している。大きな欠伸が出る。足元にはだらしなく、珈琲の空き缶が転がる。

「お前さ、チョイ、ワリのイイ仕事、引き受けないか?」

「仕事?…そりゃ、金は稼ぎてーケドな…。どんな仕事だよ?」

「運んで欲しい物があるってだけ、聞いてンだ。オレがやるっつったら、お前じゃダメだってよ。」

「なんだよ、それ。」

「バイク、上手いヤツに任せたいっツって。したら、お前に声掛けとけ、だとさ。アダチさんが。」

「…んだ?内容、言わネーのかよ?…どーすっかな。」

少し、考えて見る。


 倉真と、そのグループの関係は、微妙なラインだ。

 メンバーに、完全に入ったつもりも無い。今、話をしている、年上の友人が偶々、一昨年頃から、関りを持っていた。

 それで、派手なペイントのバイクを時々、貸りていた。

 倉真が中々の腕っ節の持ち主である事から、バイクを借りる変わりに何度か、騒ぎの助っ人を引き受けていた。

 毎回その集会に参加するのではない。自分のバイクを手に入れてからは、騒ぎのある時に声が掛かれば、連中の群れの中を擦り抜けるようにして走らせ、現場に向かう。最近は、喧嘩騒ぎが多かった。


「別にメンバーって訳でもネーし…。内容が解らないで引き受ける義理もネーな…。」

余り乗り気はしない。金は欲しいが、本気でヤバそうな所へ自ら進んで飛び込んで行くほどの、馬鹿では無い。

 喧嘩とバイクさえ出来れば、群れて馬鹿騒ぎするような付き合いも、積極的に持ちたいとは思えない。

 腕には自信がある。弱い者同士で庇い合う必要は、喧嘩にもバイクにも感じてはいない。

「っつーか、アダチさんはお前の事、半分メンバーだと思ってる見たいだぜ。断れるかどーか、判らネーと思うけどな。」

「偉い誤解だ。俺は喧嘩がシテーだけだ。」

短くなった咥えタバコを、足元に吐き出す。靴の裏で踏み消す。

「ま、ソーユー事だからよ。ワリーな。」

この友人は、倉真の頑固な性質も理解している。本人がNOと言えば、誰に何と言われようと、覆す事はしない。

「オレも詳しく知ってるワケじゃネーからな。一応、断っとくか?」

「ソーしてくれ。」

友人も同じ様にタバコを消し、バイクに跨りエンジンを掛ける。

「徹夜ついでに、このままどっか走らせるか?」

「ソーだな、付合うぜ。」

倉真が答える。二台のバイクが、公道に出て走り去る。


 同時刻、同公道。そこより数キロ先に、利知未のバイクが走る。

 涙は、乾いていた。今はただ、海に進路を取り、走り続けている。


 三台のバイクと、それを駆るライダーが顔を合わせたのは、それから二時間ほど後の事だ。偶々、休憩に適当な場所が、同じ所だった。


 二台のバイクが、同じ海岸沿いの駐車場へ走り込む、その一時間程前。

 利知未は、バイクを止め、缶珈琲を買って、防波堤の上に、海を眺めて腰掛けた。それから一時間。ただ、じっと。

 波の音と、繰り返し寄せては引いて行く潮を、眺めている。

 敬太との思い出が、頭の中を巡り続ける。

 時々、瞼が熱くなる。その度に目を閉じ、波の音に耳を傾ける。

 そうしていると、だんだんと気持ちが落ち着いて行く。

『…デカいな…。海って。自然って…。』

裕一が昔、良く言っていた。

『大自然の中に居ると、自分が本当に小さく感じるよ。…自分の悩みも、悲しい気持ちも、それに比べると何て小さい事だったんだと気付ける。』

利知未は今、その亡き兄の教えを、実行している。

 そうしている内に、時間は何時の間にか、進んで行く。

 大分、落着いて来た頃。二台のバイクが後ろの駐車場に走り込んで、停車する気配を感じる。特別な事でも無い。振り向く事もしない。

 特別だったのは、その本の十分後。自分を呼ぶ、聞き慣れた声。


「…!瀬川さんじゃないっスか?!サボりっスか!」

「何だよ、倉真。知り合いか?」

それで、やっと振り向いて見た。よく知った顔と、始めて見る顔。

「俺が前、イイって言ってた、FOXのボーカルやってた人だ。」

「ソーいや、言ってたな。」

二人の様子を見ながら、利知未は徐々に気持ちの焦点を現実に引き戻す。

「…物凄い、偶然だな…。」

心映像と、現実映像が、ゆっくりと重なった。初めに口を突いた呟き。

 その声を聞き、始めて見る顔が頭を突き出し、利知未を観察し直す。

「…?女か…?」

 敬太との別れに、女としての想いで満たされていた利知未の雰囲気は、FOXでステージに立っていた時とは、随分違う。

 少し肩を竦め、小首を傾げるようにして、軽く眉を上げて見せる。

「…ソーだよ。」

倉真が答える。少しだけ、びっくりしている。

『随分、初対面の時と、印象変わってるな…。』

正体を始めて知った夜よりも、また少し違う。

 その顔に、何時ものキリッとした表情を戻し、利知未が言う。

「お前のダチか?初対面で、良くあたしの事、女だって判ったな。」

『そりゃ、さっきの貴女を見て、男だと思うヤツは、いないだろう。』

そう思う。今、アダムで話しをしている時の雰囲気を取り戻した利知未は、再び中性的な印象を、相手に与えている。

「…女で、良いんだよな?」

始めて見る顔が、軽く利知未を指差し、倉真に疑問の視線を向ける。

「イーンだよ。」

その表情に、流石に軽く吹き出した。利知未も、少し笑ってしまう。

『やっぱ、ソーくるか…。』

自分が、女としての魅力に欠けている事を、再確認してしまう。

『…だったら、イーか…。』

小さく、諦めたような溜息をつき、防波堤の上に、キリリと立つ。

「瀬川利知未。一応、女。…ついこの前までは男って事にしてステージに立ってた。…ヨロシク。」

少年チックな笑顔を見せ、右手を差し出す。

「オレは、コイツのバイク仲間で、克己だ。ま、ヨロシク頼む。」

怪しげな外見と比べて、意外と気の良さそうな雰囲気だ。印象としては、元・城西中学応援団長・橋田了が、少し似た雰囲気を持っていた。

 軽く慣れない握手を交わして、視線を利知未の頭の先からつま先まで一往復させる。先ほどの利知未の自己紹介を納得する。

「倉真と身長、あんま変わらないか…?」

利知未のライダーブーツは、三センチくらいの高さがある。倉真と並ぶと二センチほどの差だ。今の倉真は、一七三センチ在る。克己はプラス三センチほどだろうか…?

『ま、ソーくるだろうな。…だったら、気にするのは、もう止めよう…。』

 …敬太と、恋人同士として並んで歩いていた時のコンプレックスにも、もう、サヨナラだ…。

「お蔭で、ライブやってた時は、助かってたよ。」

小さく肩を竦めて、諦めた笑いを見せる。

 二人と、どうでも良いような会話を交わしている内に、利知未の表情に、楽しげな笑顔が戻る。

 …そろそろ気分を変えて、走りだそう…。

 自然と、そんな気持ちになる。別れの悲しさが癒えた訳では無いが、自ら決めたサヨナラだ。…前向きに、前向きに…。

 その言葉を、自分の心に言い聞かせる。

 …良かったんだ、これで…。きっと…。


「こっから、どっか回るのか?」

「ソーだな…、ここまで来たし…。江ノ島辺りまで走らせて見るか。」

克己に聞かれて利知未が答える。ここは三浦半島、海沿いの道。江ノ島まで出るのは、容易い。

「俺も、そっち方面、走らせたいと思ってたンす。」

「じゃ、三人でツーリングと洒落込むか?」

暴走族ペイントのバイクを駆る克己が、普段と違う走りをしようと言うのだ。それも、面白いかもしれない。

「蛇行すンなよな?」

倉真が、克己に突っ込んだ。

「無意味な吹かしもナシって事で?」

利知未も、その言葉に被せる。

「普通に走ることくらい、出来ンぜ?」

克己も、怒り出す事も無い。

 三人でバイクを並べて、湘南海岸方面へ、進路を取った。


 一人でいるよりは、気分が晴れた。利知未は倉真だけでなく、初対面の克己とも、息投合する。バイクが好きな事だけは、一緒だ。

 メタル好きでも、音楽好きな部分も、気持ちが良い。

 江ノ島到着後、適当にフラフラしながら、克己のバイクの話しが出る。

「あのバイク、変な走りさせなきゃイイのにな。」

「…っスすよね。結構、乗り易くて走らせ易いンスよ。お前、勿体無いことしてンぜ?」

二人に言われて、変な顔をする。

「またどうして、暴走なんてやってんだ?」

利知未の疑問に、少し俯いて軽く息を付く。

「…ナンだな。初対面のヤツに言われる筋でもネーケドよ。…自分でもなんであのメンバーと居るかな…?」

変な質問口調だ。利知未は少し呆れるような感じだ。

「抜けちまえば?」

「ソー簡単にナシつく問題じゃ、ネーンだよ。…アンタには、解らネーだろーがな。」

肩を竦める。倉真と友人関係を続けていると言う事は、好き嫌いがハッキリしていそうな倉真にとって、嫌なヤツでは無いと言う事だ。

 利知未は話していて、初めの印象よりも、少しは大人な感じも持っていたんだなと、思い始めていた。

「確かに、あたしには、理解不能な集団行動だな。」

「アンタも倉真も、群れるタイプじゃなさソーだな。」

克己に言われて二人、目を合わせる。

「ソーみたいだな。」

少し吹き出して、利知未が言う。倉真は変な感じだ。自分が人として、憧れている相手だ。かなりデカイ借りもある。いつか、二人でギターをセッションした時、フィーリングが合ったと感じたのは、二人が似た者同士だった故にと、そう言う事だろうか…?

『それならそれで、嬉しくネー事もネーな。』

頬が少しゆるむ。こんな女、他には知らない。どちらかと言うと、兄貴と呼ぶ方が、相応しい雰囲気の持ち主。


 その後、軽く腹ごしらえをして暫く遊び歩いた。夕方までには三人、それぞれの帰途へ着いた。



 数日後、事態は、急激に動き出す。

 倉真と暴走グループの関係に、危うい雰囲気が流れ始める。

 克己は、今やあのグループに執着する気も無い。それなら倉真という友人をこそ、大事にするべきだと思い始めている。

 倉真が仕事にNOと言った事から、事態は変わり始めた。

 初めは懐柔作戦。『お前はもう、グループの大事な戦力だ』そう言って、離れようとする倉真の意志を、受け入れない。

「仲間の頼み、引き受けるのが、義理ってモンじゃネーのか?」

アダチの言葉に、嫌な予感が走る。

 克己が持って来た返事に、倉真は気分がクサクサする。

 気晴らしに、宏治が手伝うバッカスまで、バイクを走らせる。


 土曜の事だ。利知未はバイト後、美由紀と話しをしたくなり、その日。バッカスで、イライラする倉真と顔を合わせる。

 かなりハイペースで酒を煽っている。美由紀は呆れ顔。宏治は、倉真の酔い加減を親友の目で見ながら、微妙にコントロールして酒を出す。

「最近は、いつもこうなのか?」

グラスを傾け、片頬杖を突きながら、倉真と宏治のコンビネーションを、利知未が眺める。美由紀が答える。

「そうなのよ。…まぁ、今までも良く、部屋で酒盛りしていたみたいだから。呆れるくらい、お互いの癖を良く解ってるみたいね。」

ボックス席から呼ばれて、美由紀が利知未に目配せをして、移動した。

『悪いけど、宜しくね。』

美由紀の目は、そう利知未に伝えていた。

「ったく、ジョーダンじゃネーぜ。俺がいつ、アイツ等のメンバーになったってんだ?呆れるじゃネーか。勝手なことホザキやがって…。」

「無視したら、良いんじゃないのか?」

「あーゆーグループは、シツコイぜ?いつかのパト以上だ。」

倉真と宏治の会話の端々で、何となく倉真の荒れ様を、理解する。

「倉真、克己と連絡取れないか?」

何気なく、話しの切れ目を見付けて、利知未が問う。

「克己に?またどうして。」

「こないだのバイク、チョイ、弄らせてもらえないかと思ってる。」

本当は違う。詳しい話しは、克己の方が知っていそうだ。話してもくれそうだ。倉真は恐らく、利用され掛けているのじゃ無いかと、勘が働く。

「宏治、電話。」

少し酔っ払っているようだ。深く考えずに、その場で連絡を着ける。

 直ぐに利知未と電話を変わる。利知未は、ここで話しをする訳にも行かず、本人の連絡先を直接、教えてもらう。

 適当に酒を飲み時間を潰し、まだ飲んでいる倉真を横目に、店を出た。

『チョイ、関り過ぎかな…?』

自分でも、そう思うが、今は何か行動を起こしていないと、気が滅入る。

 倉真に、自分の昔を見る事もある。宏治、和泉、準一。三人と比べても、一番ほって置けないような気がするのも、それゆえかもしれない。

『困った弟が、出来たような気分だ。』

そう感じて、少し笑ってしまった。



 翌日バイト後。利知未は都内の族集会所へ、そのライダー姿を表す。

 バイクに跨ったまま、エンジンも掛けたまま。ヘルメットの風避けを上げ、そのキリッとした眉と鼻筋、瞳を見せる。

「お前等のリーダー、どいつだ?」

低めの、少し張りのある声を、腹から出す。二年八ヶ月のボーカル経験で、その腹筋も、声を出す為の機能を、覚え込まされた。

「…ンだぁ?コッカラ先はカンケー者以外立ち入り禁止ってヤツよ?」

「オレの関係者だ。」

克己が、その後ろから姿を表す。三年間の暴走を経て、自分以下にも下端が出来ていた。利知未を制止したのは、下端だ。『チッ』と舌を打つ音がして、利知未の前に道が開く。

「ワリー、邪魔する。」

「マジ、来るとは思わなかったぜ。…イイ度胸した女だな。」

少し、呆れながら感心する。

「久し振りに言われたな。」

中学時代の、喧嘩騒ぎを思い出す。小さく笑ってしまう。

「…で、克己は、まだ抜ける気、無いのか…?」

「スパイっての、居たら便利じゃネーか?」

「…意外と考えてんだな。」

何かを、小声で話している二人を、下端が面白く無さそうに遠目に見る。

「…じゃ、そろそろ行くか?」

「芝居、デキンのかよ?」

「シバイー?!マジになってりゃイイだけだろ。」

「…頼もしいスパイだな。」

ヘッと笑ってみせる克己と共に、頭の居る場所へと向かった。


 自分のことは自分でケリを着け様と、倉真はバイクを走らせていた。今、利知未が、自分のために仕様としている事を、倉真は知らない。


 交差点の赤信号。青に変わった時が、スタートの合図。賭けレースだ。

大きな交差点の信号を無視して、その次の信号まで。事故らずに、その先の交差点を回り先に戻れば、勝ち。…ゲームが始まった。

         八


 利知未の反応速度は、早い。青に変わった途端に、走り出す。

 直後、倉真のバイクが走り込む。族の頭と、利知未のバイクが、走り去る姿を目に入れて、横様にブレーキを掛けた。

「克己!どーなってンだよ!?今の、瀬川さんのバイクじゃネーか!?」

「平和的解決だとよ。…物スゲー度胸だな、瀬川ってのは。」

「…なに、…考えてンだよ?あの人は…。」

「オレが話したンだ。…聞かれてよ。言ってたぜ?最近クサクサすっから、その喧嘩、自分が貰ったって。…お前、出遅れたな。」

 呆れて、物も言えない。倉真は初めて、そんな心境に置かれた。

「…にしたって…、こんな所で、呑気に構えてられっかよ!?」

ギアチェンジしかけた倉真に、克己が言う。

「追い掛けたって、意味ネーぜ?どーせココへ戻ってくっから。」

言ってる内にエンジン音が、後ろから聞こえ出す。

「どっちだ!?」

見物に立っているメンバーが、一斉に振り向く。

 爆音と共に、利知未の四〇〇が、目の前を走り抜けた。

 ペイントバイクが、後を追いかけてきた。

 数秒の差をつけ、ゴールを抜けた利知未のバイクが、少し先で横様に止まった。風避けを上げて、倉真を見る。

「遅かったじゃネーか!勝負、着いちまったぜ?」

「何、賭けたンスか!?」

「お前の、自由!」

大声で返す利知未の声に、倉真は、何も言えなくなる。

『…敵わネーな。あの人には…。』

 自分でケリを着けようとした場合、大乱闘になる事は予想できた。

 それでも、負ける気も無かった。…余計な事してくれンぜ…。そう思うが、憎めない。本当に、変わった人だと思う。


 この賭けレースの結果。名目上、倉真は、この暴走グループから、足抜け出来た事になる。だがしかし、事は益々、大事件を呼んでしまった。



 江戸川署の黒木 剛は、この四月に北篠崎高校入学式、大乱闘事件の現場に向かった刑事だ。いわゆる、現場担当デカである。

「この界隈で暴れてる走り屋どもの様子が、どうも最近、怪しい。」

そう睨んでいる。リーダーが、危ない組織と繋がりを持っている様子だ。

しかし、○暴は自分の畑とは違う。いくら同署内とは言え、畑違いの情報は、それを引き出す事が中々、難しい。

 やきもきする思いを秘めて、通常は自分の担当、主に少年犯罪を取り締まる毎日だ。…何か証拠さえ掴めれば…。そう心の奥で、思っていた。



 賭けレースから数日が過ぎ、克己が、倉真の元を訪れる。

「どーした、珍しーな。お前が正門前まで、出迎えか?」

「お前こそ、珍しいじゃネーか。マトモに登校してるっつーのは。」

「一応、計算してんだぜ。これでも。」

「頭の切れる仲間がいるって事か。」

はは、とからかうような笑い方だ。

「俺は、肉体労働派だ。」

倉真は、やや不貞腐れた顔をする。克己が、真面目な顔になる。

「お前、浜崎 綾子って女、知ってるか?」

倉真の顔色が変わる。

「同じクラスだ。…どうして、お前が知ってる?」

「睨むな。オレも伝言されただけだ。最近その女、学校来てんのか?」

「…いいや。」

小さく首を横に振る倉真を見て、克己の顔色も変わる。

「アダチさんからの伝言だ。その女が心配なら、一度集会に顔を出せ。」

 倉真は、しつこく仕事を依頼してくるグループの下端に、断り続けている。『もう関係ネーだろ?』そう、使いに来る度に言い渡してきた。

「…ンだよ…?そりゃ。…克己、お前…、」

「落ち着け!オレは、詳しい事は、一切聞かされてネー!」

睨みを効かせる倉真に、真面目な目を向ける。

「どうやらオレは、アンマ信用されてネーみたいだからな。」

やり様が無い、と言う顔で、首を竦める。

「ただ、お前に伝言だけ、預かって来たんだ。」

嘘を言っている訳では無さそうだ。長い付合いで、倉真にも判る。

「チョイ、待ってろ。」

そう言って倉真は、校内に戻って行く。克己は、その場で待った。

 二十分程すると、倉真が綾子の住所を調べ、戻って来た。

「付き合えよ?」

頷く克己を促して、二台のバイクが、走り出した。



 翌日の夜・十時を回る頃。倉真が集会場所へ現れた。

「よく来たな。」

昨日、倉真と克己は、綾子の自宅近くで屯している、グループの下端を見付けた。その場は克己が出て行った。理由を知らされていないのは、お互い様だ。意味も無く屯している奴等を怒鳴り付けて、解散させた。

「随分と面倒な事、してンじゃネーか…?浜崎とは、何も関係ネーぜ?」

「そのワリには、呼出しに応じたじゃネーか?…どうしても、お前に引き受けさせたい仕事だ。これ以上、無駄な騒ぎ起こされたくなけりゃ、協力してくれネーか…?」

「…呆れるぜ。」

「断れば、あの女の昔の傷を、エグル事になると思うがなぁ…?」

倉真の表情が、厳しくなる。迫力の睨みを、アダチに向ける。

 エンジン音が、後方から響いてきた。

「来たな。…コッチが口だけじゃネーって事、教えてやろう。」

振り向く。綾子が、ライダーの腰の前で両腕を縛られて、足をタンデムシートに括り付けられ、猿轡を噛まされて、ぐったりとしていた。

「浜崎!…テメー…、どー言うつもりだ!?」

「難しい事じゃネーよ。或る物を、ある店に運んで貰えりゃそれでイイ。」

顎で合図をすると、メンバーが一人、三号サイズの茶封筒を倉真に渡す。

 中には何か、細長い箱のような物が入っている。

 倉真はその封筒を、引っ手繰るように受け取る。

「…今回限りだ。この仕事が終わったら、二度と浜崎に手を出すな。俺の前にも、二度と現れるな!」

「イイだろう。女は何時もの店で丁重に扱わせてもらう。…ソーだな、手を出させない約束に、克己を見張りに着けておこう…。」

ニヤリとする。倉真と共に、克己の表情も変わる。しかし、倉真に強い瞳で頷いて見せた。『オレが、手を出させネー。』そう伝わる。

「…ワリーな、克己。…任せる。」

「任されてヤラー。…倉真が戻れば、直ぐに解放してイインだよな…?」

克己の質問に、アダチが不敵な笑みを見せる。

「約束してやる。運び先は、新宿のショットバーだ。」

そう言い、店の地図が入ったマッチを、倉真に投げる。

 片手で受け取り、地図を確認し、倉真はバイクに跨った。

「おっと、バイクも交換だ。…克己!お前のバイク、燃料入ってンな?」

「バイクまで人質かよ…?まぁイイ。克己、交換だ。」

 バイクを乗り換え、倉真は夜の街へと、走り出した。


 一直線。国道十四号をひたすら、西へ。途中、都道三〇二へと名を変え、靖国通りとなり、地下鉄・都営新宿線の上を辿るように進めて行くのが、早い筈だった。

 ところが、荒川を越える頃、検問に引っ掛かる。迂回する事も考えたが、時間が惜しかった。検問突破を試みる。

 だがしかし、そこに黒木の姿を見付ける。入学式の大乱闘で、世話になった刑事だった。人柄を思い出し、担当を思い出す。一瞬、綾子の事を任せられないだろうか?と、何時もの倉真に無い考えが過る。

 その一瞬の迷いが、更に事態を大きくしてしまう。


 倉真は、何も知らされていなかった。茶封筒の中身も、このペイントの暴走グループが、ある懸念により、最近マークされていた事も…。


「違反車両だ!」

その嫌疑で、既に嵌まってしまう。免許証だけでは済まない。所持品まで確認される。

「麻薬・覚せい剤所持法違反の、疑いがある。」

「…?!」

意味が分からない。ナンだよ!?それは?!叫び声が、黒木に届いた。


 連行された倉真は、警察で母に会う。

「そんな筈は…!?」

信じられない思いで、母親が落着きを失う。初めて見せる母の様子に、倉真はやっと、今の自分の状況を、冷静に判断し始める。

「中身は、知らされていなかった。」

綾子の事を伝え様と思うが、克己の事も思い出す。

『どースりゃイイんだ…!?』

知らぬ存ぜぬを、通すしかなかった。


 克己は、戻らない倉真を案じ始める。そのまま綾子を見張りながら、朝まで店に缶詰だ。今更、アダチが自分を、倉真の助けに行かせない為の措置だったのだと、思い始める。情報は、店員からもたらされた。

「警察が来た。」

グループの屯している店と言う事で、警官が事情聴取に来たと言う。

 昼過ぎになり、アダチが自ら現れた。

「解放だ、女も無事に送り届けて置け。」

「…倉真はどうした?バイクは!?」

「アイツのバイクで行きゃイイだろ?」

 先ずは綾子が先だと思い直す。無事に送り届け、それから動き出そう。


 倉真は十六歳だ。この頃、まだ少年法は改正前。

 その憲法に則り、先ずは警察から通告を受けた家庭裁判所で、事件の調査が始まる。審理が行われている間、その身柄は拘束できない。

 だが所持していた薬物は紛れも無く、麻薬・覚せい剤所持法違反に該当する薬物だ。仮措置となる。



 夜、克己から、利知未に連絡があった。

「コッチの問題だ。アンタに言うモノかどうか迷ったんだが…。」

「…いや。連絡貰って良かったよ、ありがとう。…今、倉真がどうなってるかは、判らないか…?」

「…家には、戻ってない。」

「…そうか。」

電話の向こうで、沈思する利知未の言葉を、ジッと待つ。

『…どうするか?モノは、本物だったと言う事だ。…嵌めたヤツ、警察に突き出しても、現行犯じゃ無ければ、ドウにもならない…。』

「…一つ、試して見るか…。」

ようやく聞こえて来た声に、克己が問い直す。

「あのグループが関ってるのは、事実だよな?」

「誤魔化し様がネーぜ。」

「だったら、協力してくれないか…?あたしもコッチで、仲間集める。」

 そして利知未は、一つの作戦を語り出す。

「…やるだけやって見るか。」

「頼む。早い方が良い。明後日、決行しよう。」

 翌日一日で、利知未は仲間に声を掛けた。主に、団部時代のヤンチャ仲間だ。後輩の協力も必要だ。そちらは、宏治に連絡を任せる。


 そして、当日。懐かしい顔が集まった。


 和泉と準一も、恩の有る利知未の頼みだ。呼びかけに答えてくれた。

 和泉が準一に呟いたと言う言葉に、利知未が、頼もしげな笑顔になる。

「事が事だ。暫く休戦だな…。喧嘩相手も、必要だ。」

 準一は、連絡係としての参加となった。


 高坂と大野は勿論、高校でのヤンチャ仲間まで、引き連れて来た。

 久し振りに会った先輩方と、不敵な笑みを交し合う、結城と尾崎。

 他にも、歴代団部・喧嘩部隊が集合する。総勢で、二十名ほどに膨れ上がる。克己は、利知未の起動力に、目を丸くする。

「随分、人気者だったんだな…。群れるタイプじゃネーと思ったのは、間違いだったか…?」

克己の呟きに、結城が答えた。

「群れるタイプじゃ、ないっスよ。ただ、自分たちが瀬川さんを慕っているだけです。」

 その言葉を、聞こえない振りをして、利知未が合図をする。

 克己が働き、集まってきたグループと、大戦争が始まった。


 例のグループは、総勢三十名近い人数がいた。

 それでも、城西中学団部OBメンバーの、敵ではなかった。

 適当に大乱闘をしている内に、準一が遠くから、合図を寄越す。

 利知未達のバイク所持者が、誘導して行く。

 ギリギリまで引き付け、仲間は無事に、現場を脱した。


 後は、通報を受けて駆け付けた、警察に任せてしまう。


 グループのリーダーは、暴力事件と違反車両・交規違反でしょっ引かれ、様々な調査が行われた。その結果、倉真がただ、利用されていただけで有った事が知れるまで、およそ一週間。

 その間一時、倉真は、少年鑑別所の飯の味を覚えさせられたのだが、ホンの五日ほどで済んだ。


 倉真の母から連絡を受けた美由紀が、自分の離婚調停で世話になった事務所から、少年法の得意な代理人を、紹介して貰った。無事、保護処分取り消しとなり、犯罪記録も抹消される。


 その辺の詳しい事は、後に説明を受ける事になったが、倉真は難しい法律用語の飛び交う話しに、頭の理解が、追い付かなかった。

「良く解らネーケド、無実の罪が、証明されたって事だ。」

その言葉に、母と代理人から、説教が始まる。

「確かに、今回の事は、何とかなりましたが。君の普段の問題行動で、随分、苦労させられましたよ。これからは、余り親御さんに心配賭け無い様に、充分気を付けて下さい。君はまだ、未成年なんだ。希望に溢れた将来が、台無しになってしまいますよ。」

「先生の言う事、確り聞いて頂戴。あんたって子は、本当に…。」

母親の涙は、得意ではない。頑固な倉真も、流石に一言、謝った。



 館川家は、これから父親との関係において近所の視線において、また大変な局面を迎えて行く事になるが、今はまだ、一つの大事件が片付いた安堵感が、家庭の中を柔らかく満たしていた…。



 倉真が無事戻った。早速、バッカスに顔を出す。

「倉真、あんな事件の後で、また店に顔出したりして…。」

美由紀の呆れ顔に、ニヤリと笑う。

 倉真は、美由紀が代理人の世話をしてくれた事は、知らされていない。

母親同士の間で、その事は、秘密にする事を約束していた。

 息子の性格を吟味した場合、逃げ道を奪う事にも、成りかねない。

「礼、言いに来ただけっす。今回は、和泉の野郎にも、世話になっちまったらしいから。」

美由紀は、裏事情は知らない。それでも、いつも喧嘩をしていた二人が和合するのなら、その事の方が、重大だ。

「別に、お前の為じゃ無い。…瀬川さんに、義理を通しただけだ。」

「言ってくれんじゃネーか…?そーいや、まだ、お前とはケリ着いてなかったな…。これからやるか…?」

直ぐに喧嘩腰だ。利知未が二人の頭を同時に張って、呆れた顔をする。

「お前等、イー加減にしろ!」

睨み合っている間に、二人の間に立った利知未には、気付かなかった。

 張られた自分の頭を、それぞれ同時に撫でる。準一が吹き出す。

「二人共、実は似た者同士だったりして?」

二人、同時に準一を睨む。それを見て、美由紀と利知未も吹き出す。

「…お前等、本当は、気が合ってンじゃネーか?いい加減、認めろ。」

フンと、二人同時に、そっぽを向く。自らその、気の合方に気付く。

 視線を外したまま、不機嫌な顔の、和泉が言う。

「名前で呼ぶのは止めろ。まだ、ボーズ頭の方が良い。」

「お前も、モヒカンって呼んでンじゃネーぜ。俺は、倉真だ。」

倉真も視線を外したまま、準一の水割りを、奪い取って飲む。

「あ、オレの!瀬川さん、倉真がオレの取った!」

「なに、ガキ見たいな事、言ってンだよ?!」

倉真に頭を軽く小突かれ、準一が剥れた。利知未は、美由紀と顔を見合わせ、肩を竦めて笑う。

「…倉真!準一に当るな!」

和泉の言葉に、倉真が答えた。

「寺の和尚は、殺生がお嫌いってか?」

お互いに、チラリと睨み合う。そして小さく笑ってしまう。二人の視線の間で、準一が変な顔をしていた。睨めっこだ。

「…ったく、敵わネーな…。お前の呑気さには…。」

「全くだ…。」

倉真と和泉、二人が呟く。

準一は、変わらずヘラヘラしている。宏治は黙って、これまでの様子を眺め、利知未と母に、笑顔を見せた。この日から、四人の少年達は、利知未を中心として、本当の気持ちが繋がる。



 同じ頃。綾子は一人、深い悩みを抱え込む。

自分が捕えられた所為で、倉真が、どんな目に合ってしまったのか?


 綾子の元には、眠れない夜が、訪れた。



         九


 大騒ぎを抜け出て、数日後。期末テストが目前に迫る。利知未はサボってしまった六月頭のノートを、透子に借りた。

 敬太との別れの朝から、そろそろ一ヶ月。バタバタとした騒動に紛らせていた想いが、今更のように疼く。

『今年の夏は、…どう過ごそうか…?』

勉強の手を止めて、ふと思う。FOXも止めた。バイクの免許も取ってしまった。…二人きりで過ごしたいと思える相手も、…今は、居ない。



 館川家は、前にも増して、騒がしい。

 騒ぎの核を抜け出た後、暫くは平穏な気分で過ごせるかと思ったが、とんでもなかった…。父親との大喧嘩には、最近、拍車が掛かっている。

 隣近所の一部から聞こえてくる、良くない噂話も煩い。

 一美は元々、気が強い。倉真が少年鑑別所の飯を食っていた頃から、学校では『いじめ』が始まってしまった。

 だが、一美は負けない。やり返すくらいの根性は、持っている。

「だけど、やり返すと『少年院の妹はやっぱり強暴だ』って言われる。」

ぷーっと剥れて、倉真に愚痴を零す。

「…無視しとけ。俺は罪、犯した訳じゃネー。」

「解ってるよ。どうせ、来年の三月卒業だから。」

「中学行けば、環境も変わる。」

「そう思ってる。」

そんな事で、一美の事は、それ程、心配してはいない。

 心配なのは母親だ。自営業の父親も最近、面白くない事が多い。

 売上への影響は、心配した程の事も無かった。

少年犯罪扱いだ。表立って騒がれる事は無い。しかも、処分取り消し。

「大変だったね。」

そう言ってくれるお得意様に当たる事は、勿論無い。息子への叱り方が激しくなってしまうのは、二度とあんな心配をかけられたく無いからだ。

「アイツは乱暴だが、人の道を踏み外すような事だけはしない筈だ。」

審理の最中は、良く妻に、そんな言葉を漏らしていたと言う。

 近所付合い担当の母親は、やはり多少、骨を折っている。変わらず良くしてくれる家が多いのは、今までの、母の功績だ。

 それでも、噂が立つのは止められない。口に戸は閉てられないとは、良く言った物だと、呆れ半分に思う。

「まぁ、人の噂も七十五日って言うから。何とかなるでしょ。」

勤めて、前向きに、前向きに考える。


 家族よりも、気になる相手が一人。

 綾子が最近、何事に付け、倉真に申し訳なさそうな瞳を向ける。

 学校側は、倉真の事件を重く見た。

 深夜〇時を回る頃に、派手なペイントバイクで検問に引っ掛かってしまった事実に、厳しく処分を与えた。一週間の、停学処分。

 その貼り出し通告を見た時。それを目にした生徒のざわめきの中で。

 処分を受け終わり、登校してきた倉真が、全く関係無い事で、教師に呼び出しを受ける、その瞬間。…教室で、目が合った瞬間…。

 それら、全てのタイミングで、綾子の瞳が曇る。


 夏休み直前。倉真は綾子の自宅近くで、彼女を待ち構える。

「…今更だけどよ、悪かったな。変な騒ぎに巻き込んだ。…もう、気にすンな。それと心配すンな。二度とアイツ等はお前に手を出せネーよ。」

それだけ伝えて、直ぐにバイクで走り去る。

 綾子は倉真の後姿を、驚いた表情のまま、見送った。


 夏休みに入る頃。真澄はついに、入院してしまう。

 和泉の見た目にも、明らかに、真澄の体調は、思わしくない。過去の入院でも、これ程の危うさを感じた事は、無かった。

 和泉は毎日、仕事が終わると、病院に向かう。例え五分でも十分でも、真澄の生きている姿を目にしないでは、落着かない。

 準一も休みに入って、マメに顔を出してくれた。

 母親は、朝の家事を終えると直ぐ病院に向かう。面会時間一杯、真澄に付き添う…。和泉は毎日、一目だけ妹の姿を見て、帰宅する。

 父親は通うに、少し遠い場所に勤めている。朝は七時前には家を出て、帰宅は毎日、二十時を過ぎる。変わりに自分が、母を手伝う。

 昔から、妹が入院する度に、そんな生活を続けてきた。お蔭で和泉は、家事一般を、最近の若い女性以上に、器用にこなす。

 …和泉の今年の七月は、そんな日々…。



 利知未は、ここぞとばかりにバイトを入れて、金を貯める。

『七五〇は、新車で欲しいな。…それに、大学に掛かる金も、出来るだけ貯めて行きたいしな…。』

 この夏休みから、利知未より、一学年上の男性バイトが、一人増えた。

「高三の夏から始めて、受験、平気なのか?」

「この時期だからこそ、だよ。大学入る前に、車の免許、欲しいからね。」

そう言って、快活な笑顔を見せる。妹尾 満と言う、体育会系な外見の持ち主だった。気楽なヤツで、利知未とは、バイト仲間として直ぐに仲良くなる。その後、妹尾との付合いは、長くなった。

 妹尾が大学三年で、就職活動が忙しくなるまでのバイト仲間となる。


 下宿では、今年の入居者・里真が新たな数学の生徒に加わり、樹絵と共に、利知未の勉強時間を奪っている。

『結局、自分の勉強時間は、アンマリ増えそうも無いな…。』

そう思うが、特に今は、一人でいるよりは、気も紛れる。

「利知未!コッチは?」

里真の質問に答え、樹絵の問題を解決すると、また里真だ。

 何時の間にか樹絵につられて、里真まで、利知未の事を呼び捨てだ。

「あー!今度、これがコンガラがった!利知未、ヘルプ!」

「…って、さっきの応用じゃネーか…。お前等、本当に数学の才能ネーんだな…。」

 呆れてしまう。それでも、中学生の勉強を見るのは、自分の中学時代も思い出し、少しは心楽しい事でもある。

『不思議だけど、余りイヤな事は、思い出さない物だな…。』

思い出されるのは、主に団部の仲間達との、楽しい時間。クラスメートとの、くだらない喋り。先輩達との思い出、喧嘩三昧のヤンチャな日々。

 …FOXの事だけは、霞が掛かる。それはイコールで、敬太との思い出。


 八月に入る。この約二ヶ月で、土曜バイト後の常連となった利知未は、バッカスで良く、倉真に会う。宏治は夏休み中、その三分の二は、店を手伝っている。気の合う者同士だ。会話の中で最近、倉真が女の扱いについて、疑問を持ち初めた事が知れる。

「例の騒ぎで、巻き込んじまった女が居てよ…。」

そんな風に、話しは始まった。ココには美由紀がいる、利知未もいる。

「その子。お前が、もうチョイ、気を使ってやンな。」

ロックグラスの氷をカラリと鳴らして、利知未が言う。美由紀は常連のボックス席に呼ばれてしまった。

「気ィ使うったって、…解らネー…。」

「その子は多分、自分の所為で、お前が大変な目に合ったって、そう思って、気にしてるんだろう?」

「…やっぱ、ソーっすよね…。」

小さく言って、グラスを煽る。

「解ってるんなら、アフターケアが、必要だろ。」

言いながら、タバコを取り出して火を着ける。軽く一吸い、薄く煙を吐き出す。利知未独特の「女の勘」が働いた。

『その思いが、どう言う想いに、変わって行くのかな…?』

話しを聞いていて、何となく、そんな風に感じた。

「あれが瀬川さんだったら、アイツ等もタダじゃ終ンなかったよな。」

「悪かったな。その子に、合気道でも教えるか?」

ぼやく倉真をからかう様に、両眉を上げる。

「…必要かも知れないな。」

利知未の言葉に、宏治が本気でも無さそうに、呟いた。


 和泉と準一は、最近、バッカスには現れない。準一が偶に、利知未がバイト中のアダムに現れる。

「真澄ちゃんが、また入院しちゃった…。」

何時もの軽い口調とは違う、少し落ち込んでいるような雰囲気だった。

「…そうか。気の毒だな…。」

「あのさ、瀬川さん。…もう一回だけ、お見舞い行ってくれないかな?」

珍しく、真面目な目をしている。利知未は考える。

『今のあたしは、どう見えるんだろう…?』

「FOXのセガワは、もういないぜ?」

「…だよね。」

小さく溜息をつく。準一のそんな様子は、見た事が無い。

「…分かったよ。ケド、真澄ちゃんがどう感じるかは、判らないぜ?」

優しげな表情を見せる。準一は少し、利知未を以前より女らしく感じる。

「お願いします!」

それでも頼んだ。それで少しは、真澄が元気を取り戻してくれるのじゃ無いかと、微かな期待をかけた。

 利知未は、その週、木曜日。セガワの時に愛用していたジーンズ姿で、病室を訪れた。和泉は仕事中だ。お盆休みは日曜からだった。


 病室に入り、ベッドに横になったまま、ジッと動かない真澄の様子を見て、利知未は、胸が締め付けられる思いがした。

 以前、見舞った時よりも、明らかに生気を、感じられない。

 準一が連れてきた利知未の姿に、母親が、少し驚いた。

「あなたは、真澄のお友達…?」

「始めまして。瀬川と言います。和泉君の、友人です。」

静かな寝息を立てている真澄を見て、利知未は素のままで挨拶を交わす。

柔らかい雰囲気を出し、なるべく性別の誤解を受けないように振舞う。

「真澄ちゃんが好きなテープ、知ってるよね?その歌を歌っていた人。」

準一に言われ、母親はテープの歌声を思いだし、今の声を聞き比べる。

「…事情があって、性別を誤魔化して歌っていました。真澄ちゃんは、知らない事です。…ですから、彼女が元気になるまで、そのままで…。」

小さく頷き、改めて見舞いの礼を言う。渡された花束を持ち、利知未に椅子を勧めると、花瓶の水を入れ替えに出て行った。


 暫く椅子に掛けたまま、準一と二人、静かに真澄の寝顔を見つめた。

 母親は中々、戻ってこなかった。利知未から、『元気になるまで』と、言われ、改めて自分の娘の、可哀想な現状を再確認してしまった。一人、静かに、涙を流していた。

 やがて、真澄が、その可愛い瞳を薄く開く。自分を見つめている顔を見て、少し驚き、その目を、はっきりと開く。

「…今日は。久し振りだな。」

静かな声で、真澄に声をかける。優しい、セガワスマイルを見せる。

「…セガワさん?来て、くれたんですね。…ありがとう…。」

久し振りの、真澄の微かな笑顔を見て、準一が喜ぶ。

「オレが連れてきたんだ。…真澄ちゃんは、笑顔の方が、絶対イイ。」

その嬉しげな顔を見て、真澄は準一にも、久し振りの笑顔を見せた。

「目が覚めたの?」

母親が、生け換えた花瓶を持って戻った。その真澄の笑顔に、信じられない思いがする。少し明るい気分を取り戻した真澄と、話しをした。

「元気になったら、その内、ライブ見に来てくれよ?」

最後までFOXのセガワとして、いまだ活動を続けているような振りをして、利知未は、二十分程の面会を終え、病室を出た。


 部屋の外まで送って出た母親が、利知未に、深深と頭を下げる。

「本当に、ありがとうございました。真澄の明るい顔、久し振りに見せて貰いました…。準一君も、ありがとう。」

 静かな笑顔を、準一が見せる。始めて見る、初対面の頃より、少しは大人っぽくなった顔だ。利知未は準一の、真澄に対する想いを理解した。



 それから、一週間後。

 母親からの連絡を受け、和泉は仕事を早退して、急いで病院へ向かう。


 心臓は、その機能ゆえに一瞬で明暗が分かれてしまう臓器だ。

 何処にいようが、その危険度が高いのは、事実だ。


 朝から不整脈が出ていた。母親も必至だった。けれど、真澄の心臓は、病巣をその臓器内に持つ種類の病気ではない。心臓その物が、爆弾だ。

 その爆発は、激しい爆風と爆音を、轟かせる種類の物ではなかった。


  ………タダ、静カニ、ソノ機能ヲ、停止スル………。


 働きに堪え切れなくなった部品が原因となり、その機械全体の動きをいきなり停止させてしまう。

 そんな壊れ方だった。


 和泉が病室に駆け付けた時に、既に手を尽くしきった医者と看護婦は、次の仕事に取り掛かっていた。


「…つい、さっきまでは、動いていたのよ…。」

足音と、呼び掛ける声に、振り向きもせずに、母が呟いた。

「……真澄……!」

その遺体に近寄り、和泉は妹の、まだ温もりが消え切らない手を、その手に取る。…直ぐに涙は、流れない…。


「ごめんね…。本当は……、」

 衝撃が大き過ぎ、身動ぎも出来ないでいる息子の姿。

 母親は、ゴールデンウイーク明け、医者から伝えられた言葉を、隠し続けた行為に、自身で疑問を抱いてしまう。

「…母さんが、謝る事は無い…。」

口が勝手に動く。和泉の、母へ対する、思い遣り。

 本心では、唇を動かす事さえ億劫だ。…息を吸う事でさえ。


 ショックは、時間の経過と共に深まり、現れる。


 その真面目さが仇となる。他に気を紛らせる事を知らずに生きて来た、十六年。自分の一生をかけて、大事にしたかった妹の……。


 …その、逝くには、まだ若過ぎた、早過ぎた旅立ち…。


『肉体とは、魂の牢獄である。』

利知未は、そんな言葉を思い出す。誰が言った格言か、名言か?定かではない。

 真澄の事を知らせたのは、準一だった。

 倉真と宏治も「和泉の妹が亡くなった」事実は耳にするが、実際に姿を見て、言葉を交わした事のある利知未に比べて、ショックは小さい。

 身近な人が亡くなる悲しみを、利知未は、嫌と言うほど知っている。

 自分の感じたショック以上に、和泉と準一の悲しみがどれ程、大きな物だったのか…。想像するだけで、苦しさを覚える。


 和泉が壊れて行く様を、切ない思いで、見つめ続ける…。


『今の和泉に、何を言っても、ダメだろう…。』

 裕一が亡くなった時、自分はどんな思いで、日々を過ごして来たか…?

『和泉は、先の目標を、見付け直せるのか…?』

 自分は、裕一の夢を引き継ごうと決心した。…それまでにも、泣いて過ごした時間が、どれ程あったか…?

『悲しみを紛らわせる為に、歌に、のめり込んだ。』

折れてしまいそうな心を支えてくれたのは、…敬太だった…。

 思い出し、涙が零れそうになる瞬間。利知未は必ず、一人切りになる。


 準一は、…自分でも驚く事に、覚悟をしていた。

『小さな頃から、一緒に居たけど…。』

 その身体の不具合を知り、実際に目で見て、感じて、そして思う。

『この子は、オレ達が大きくなるまで一緒にいられる子じゃ、無いかもしれない…。』

 一緒になってハシャイで笑って、楽しい時間を過ごしながらも、一歩その心の奥に踏み込めば、いつも、その思いが、自己主張をしていた。

『先の事、考えていたら、楽しい事も、楽しく無くなっちゃうな…。』

そんな風に感じ始めて思う。今の楽しい瞬間を思う存分、堪能し切ろう。

『それが、真澄ちゃんが笑顔を見せてくれる為の、決まりゴトなんだ。』

幼い心が、そう結論を出した。

 物事を余り深く考え過ぎては、いけない。

 それをすると、ツマラナイ事ばかりを呼んでしまう。

 そうすると、真澄の笑顔が悲しく見えてきてしまう…。

 それは、自分も悲しい。きっとで、真澄も悲しい…。

『だから、しない。』

 何時の間にか、その幼い恋心が、今の準一を形作ってきた。


 和泉は、酒の味を、その身体に、本格的に覚え始めた。

『飲んでも、飲んでも、酔っ払った気はしない…。』

 工場には、だんだんと行かなくなる。

 街で些細な事を原因として、喧嘩をする様になる。

『…自分が、こんなダメなヤツだとは、思わなかった…。』

自嘲的な気分で、皮肉げに笑う。

 一番、色々な事に挑戦したかった時期や、様々な事柄に、興味を覚え始める時期を、和泉は、真澄と家族の為に、犠牲にして来た。

 自身で、犠牲にして来たとは、思っていなかった。

 その真面目さゆえに、可哀想な妹の明るい未来をただ、ただ信じて、信じ続けてきた。卑屈になったり、したつもりも無い。

 その心の奥の、自分でも気付かなかった負の部分を、倉真は無意識に感じていたのかも知れない。それが、反発の原因だったのだろう。

 しかし今は、冷静に自分を判断する目さえ、失っていた…。


 …気が付けば、九月。新学期が、始まっていた。


利知未シリーズ高校編、三章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。<(__)>

敬太との関係に終止符が打たれたこの章、随分と長くなってしまいました。次回からは、また少し(少しだけ?!)短めになります。

 四章の予告は…、真澄の死から立ち直れない和泉。その和泉の力になりたい準一。そして、仲間の心を取り戻したい利知未達が、どう動くのか…?

同時に、倉真にとって気になる少女・綾子の存在や、友人・克己も関わって参ります。

この仲間たちは、どうなって行く?

…と、言うところでしょうか?次章も編集中です。また来週、皆様とここで会えますように…。

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