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利知未シリーズ高校編『大地を捉えて』  作者: 茅野 遼


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二章  カウントダウン・ 許されるまで……                 

間違えて消去してしまった部分です。 1990年代が舞台の、利知未と倉真が結婚するまでの長いお話の、利知未・高校編二章となります。

  二章  カウントダウン・…許されるまで…。                  


         一


 利知未と玲子が、高校へ入学して、始めての夏休みが終わった。

 新学期開始と共に、利知未のバイトは再び、土・日・祝の基本週二日へ。火・水・金曜は相変わらずバンド活動と言う生活に戻る。


 始業式の日。利知未は初めてバイクで登校して行った。信号や渋滞で止まってしまう時間も含めて一時間弱。約五十分で通う事が可能な事を知り、これからホンの少しでも睡眠時間を増やせそうな事を実感して、利知未は少し安堵した。

 今まで遅刻をしない為には、朝六時半には下宿を出る必要があった。それに比べて、これからは七時過ぎに出れば間に合う。

 朝の三十分は貴重だ。それを思って、気も楽になった。



 その日、食事も入浴も終えて、一応、明日からの軽い予習まで終わらせた利知未の部屋に、樹絵が現れた。

 樹絵はいつも通り、ノックをして返事も待たずに部屋に踏み込んだ。そして、少し驚く。

「ソファ、買って来たんだ!へー…、イイ感じだな。」

「前から欲しかったからな。奮発した。」

 利知未は今日、アダムでのバイト代を使ってクリーム色の一人掛け用の丸いソファと、小さなテーブルを買い込んできた。

「でも、アンマ利知未らしくない色みたいだな。」

「好みより、長く使えそうな色を重視したんだよ。」

「ソーかも。これなら、飽きなさそうだな。」

利知未は意外とセンスが良かったんだと思い、感心した。カーテンと、布団カバーは好みの色で統一している。そのソファにもバランスが取れる様に、柔らかい同系色の布が掛けてある。

「で、何の用だ?」

利知未はソファに掛け、バイク雑誌を眺めながら、タバコを吸っていた。

「用って言うか、相談なんだ。」

言いながらベッドに向かい、その端に腰掛けて、利知未と対面する。

「あたしの成績、今、学年人数一四八人中、八〇番近いんだよな…。」

「つまり、中の下ってことか。」

「ソーなる。…で、試験受ける学校、ちょっと難しそうなんだよな…。」

「どのくらい上げる必要があるんだ?」

「取り敢えず中の上。五十番代くらいにならないと、大変みたいなんだ。」

膝に両肘をつき、頬杖をついて、軽いため息を吐く。

「大体、三十番上げる必要があるって事だな。」

「…出来れば、今度の中間で上げるようにって、言われた…。」

「それで?」

「…上げられるのかなぁって、思った。」

情けなさそうに樹絵が言う。利知未がさらりと言った。

「上がるぜ。」

樹絵が驚いた顔で利知未を見る。利知未は雑誌から目を上げずに言う。

「中学時代の同級生、夏休みから中間までで四、五十番上げた奴がいる。」

高坂と大野だ。あの頃、良く利知未と貴子で勉強を見てやった。

「ま、ドン尻からだったから、上がりもデカかったンだけどな…。」

その頃の事を思い出し、軽く頬が緩む。タバコを消して、樹絵を見た。

「お前の場合は中の下から中の上だろ?いきなり上狙う訳じゃネーんだ。やり方次第だな。中の上から上の中狙うよりは確実だ。」

そう言って、新しいタバコに火を着ける。

「本当に大丈夫なのか?」

樹絵が驚いたまま、もう一度聞く。

「夏休みから勉強見てやっただろ?中学一年の二学期じゃ、範囲も知れてる。あの宿題範囲と、これからやる所が少しだけだ。宿題の出来は、まぁ平均って所だろ。範囲、確り確認してきな。テストは今月末だろうから、それまで大して進まネーよ。」

「ソーしたら、また見てくれるのか?」

「時間があるだけはな。ハイペースにはなるぜ?」

「…分かった、やって見る。サンキュー、利知未!」

いくらが吹っ切れた様子で言って、樹絵は部屋を出て行った。



 東都荒川中学。二学期が始まったばかりの、この時期。倉真は、他の生徒より一足早く、担任から、進路指導室へと呼び出されていた。

 本来、三年二学期の進路相談は、中間テストが終わってから行われるのが通例だ。特別措置である。

「館川、お前、本当に高校行く気あるのか?」

「…行かなくて済むなら、それが一番イーぜ。」

そっぽを向き、腕と足を組んで、背凭れに思いきり寄り掛かっている。

「ご両親から頼まれた。兎に角、進学させたいとのご意思だ。」

ヤンチャ者が揃っているこの中学で、三年のクラス担任を仰せつかっているのは、中々の優秀教師が多かった。倉真の担任も、その一人だ。

「おれは、進学の意志が無い生徒を、無理矢理に何処かの高校へ押し込むのは、余り賛成できない。だが、腹を割って話させて貰うが、今の社会で、中学卒業者の就職先は、少ないのも事実だ。解るか?」

そう始まり、その日。延々一時間半ほど、倉真は、この担任と狭い進路指導室内に、閉じ込められてしまった。


 城西中学応援団は、各運動部が秋季大会を控えているこの時期、少しは真面目に、訓練活動を行っている。

 去年、今年度の副団長に任命されてから、もう十ヶ月も経ってしまったのかと思うと、宏治も時が流れる速さを、実感せざるを得ない気分だ。

 その宏治の周りに、最近良く出没する女子生徒がいた。

「おい。また来てる見たいだぜ?二組の沢田。」

二年の団員が、その姿を見つけては、囁き交わす。

「どーせ副団目当てだろ?勝手にさせときゃイーよ。」

「…脈、無さそうなのに。ちょっと気の毒な気もするな…。」

小さく呟いたのは、去年、利知未に憧れ続けていた佐々木だ。最近出没する沢田 恵美は、佐々木のクラスメートだった。

 今年度の応援団部内では、宏治について、ある誤解が浸透している。

『卒業した団部マネージャー、瀬川さんと、深い関係らしい。』

そんな誤解だ。ある意味、事実かもしれないが、その言葉がさしている関係とは全然違う。あれだけ利知未の在校中に、仲良くしていたのだから、傍から見たら、当たり前な想像かもしれない。

 その手の噂については、宏治は利知未の態度を、見習うことにした。耳を貸さない、相手にしない。結局、ソレが一番かもしれない。問題さえ、起こらなければ…。ただし、この噂の元となった情報は、利知未の卒業間近、告白を断る時に言っていた『恋人がいる』と言う言葉だ。

『瀬川さん、少し面倒な置き土産してくれたな…。』

宏治は偶にそう思って、冷や汗を流している。



 残暑厳しいこの時期。和泉の妹・真澄は、気温の厳しさに不安を感じる、担当医師の見立てで、思ったよりも、退院が長引いてしまっていた。

『学校、もう始まっちゃったんだ。…詰らないな…。』

枕元の壁に掛けてあるカレンダーを眺めて、小さく息を吐く。

『誕生日までには、戻れるのかな…?』

九月十三日に、赤印がついている。八月十五日の兄・和泉の誕生日頃には体調も良く、まだ今回の入院前だった真澄は、母に手伝って貰いながら、兄の為にバースデーケーキを作った。準一も呼んで、その日は賑やかにパーティーをした。

 その時、はしゃぎ過ぎたのと、その翌日に、準一と、和泉と三人で、遊びに出掛けたりしたのとで、十七日は殆ど一日、家のベッドで横になっていた。

 十八日の昼過ぎに、気分が悪くなり、診察を受けて、そのまま入院だ。

『…でも、もう一週間も無いし。…やっぱり今年も病院で誕生日かな?』

この四、五年、夏から、残暑厳しい十月頃までは、殆ど病院のベッドの上で過ごしてきた。十二月のクリスマスから二月頃までも、毎年そうなる。

真澄にとって、家族でお祝いをする様な、楽しい時間を過ごすイベント時期は、少し苦痛に感じる瞬間だ。誕生日・クリスマス・お正月…。



 今日は日曜日だ。真澄がベッドの上で、小さな溜息を漏らしていた頃、和泉は宏治に教えて貰って、利知未がバイトをするアダムに顔を出した。

「いらっしゃいませ。」

鈴の音を聞いて声を掛け、出入り口付近から姿を表した和泉に、利知未は少し目を丸くした。

 店は暇な時間で、マスターは利知未にカウンターを任せて、気晴らしついでに、買い物に出掛けている。呑気な店主だ。

「どうも。今、少し話して平気ですか?」

カウンターに近寄って、和泉が軽く頭を下げる。

「宏治に聞いて来たのか?…ま、座れよ。」

利知未が、お冷とお絞りを出しながら、カウンターの一席を指し示す。

 店の席の埋まり具合は大体三割ほどで、ホールに出ている翠と、厨房に入っている社員一人で余裕の回転中だ。ランチタイムも終わっていた。

「あの時以来だな。…チョイ、気にはなっていたんだ。」

薄い笑顔を見せる。和泉は今日、FOXのセガワに頼み事があって、顔を出した。話しを切り出す前に、自分の事情も少し話さなければならない。

 取り敢えずメニューを手に取り、一番安いブレンドを注文した。

 オーダーを聞いた利知未が、自ら珈琲を淹れる。少しびっくりだ。

「悪いな。ウチの店、ランチタイム以外は、注文取ってから一杯ずつ淹れるから、少し時間掛かるぜ。」

作業をしながら、利知未が言う。

「瀬川さん、いつからココでバイトしてるんですか?」

「四月からだよ。心配するな。マスターから珈琲は終了免除貰ってる。」

軽く和泉を見て、セガワチックな、いたずら坊主の様な笑顔を見せる。

「紅茶の方が、あたしには大変だよ。アンマリ飲まないからな。その時は、あそこにいる翠を呼ぶんだよ。」

客席で、お冷のお代わりを注ぎに回っている翠を、チラリと見た。

 サイフォンから、珈琲の良い香りが流れてくる。

「そのマスターは、何処にいるんですか?」

「この時間は、タマに買い物に行っちまう。呆れるだろ?バイトにカウンター任せて、呑気なモンだよ。」

クスリと笑う。少し利知未らしい笑顔だ。和泉は益々、興味を惹かれた。…セガワの時と、笑顔まで変えているとは。器用な人だ…。

「お待たせ致しました。ブレンドです。」

今度は、店員らしい笑顔で、珈琲を出してくれた。


 それから和泉は、妹・真澄の話を、利知未に聞いて貰った。頼み事は、その後だ。無理を承知で、真澄の為に、歌を何曲かテープに吹き込んでもらえないか、聞きに来た。

 FOXの音楽は、何となく気持ちを明るくしてくれるような曲が多い。それもどうやら、セガワが作った曲に、多いような気がしていた。

 軽いノリの心地よい音。それが欲しい。病院のベッドの上で、じっとしているしかない真澄に、今年の誕生日プレゼントとして、責めて明るい気分をプレゼント出来ないかと、思っている。


 話しを聞いて、利知未は理解した。そして感じた。

 和泉が何故、歳よりも大人びた雰囲気を持っているのか。その答えと、真澄の事を、どれほど大切に思っているのか。その気持ちを。

 ついでに、準一と和泉の関係も理解する。この性格と、あの性格。釣り合いが良く取れている訳だ。

「良いよ。今週の練習日に、メンバーに話して、協力して貰おう。」

話しが終わって頼み事を口にした和泉に、利知未は快く頷いて見せた。

「本当ですか?…済みません、恩に着ます。」

驚いて、嬉しげに礼を言う和泉を見て、利知未は、裕一が生前、自分に向けてくれていた愛情を、思い出した。



 その週のライブに、和泉が来た。準一も一緒だ。

 ライブ後、いつも通りにファンの相手を終えたセガワが、カウンター席付近で、大人しく待っていた二人の元へ、近付いた。

「ワリー、待たせた。約束のテープだ。」

セガワスマイルで声を掛ける利知未に、二人は改めて感心する。利知未の普段を知ったばかりだ。バッカスでの利知未と、その後、パトカーに追われる、倉真達のバイクを追い掛けて行った姿は、印象深い。

「俺の方こそ、済みません。ありがとうございます。」

テープを受けとって、和泉が言う。

「一応、リクエストの曲は全部入れておいたぜ?時間余ったから、他の曲も適当にピックアップして、入れてある。アキのポップスで、良いのがあったんだ。お前も初めて聞く曲だと思う。良かったら、感想聞かせてくれよ。」

「え、マジで!?じゃ、オレにも聞かせてよ?」

準一が和泉に言う。準一はアキの綺麗な声が、実は好きだ。隠れファンである。和泉は知っている。

「明日、持って行く。一緒に行くんだろう?」

「勿論!じゃ、そン時、一緒に聞いててイイ?」

「構わないと思う。真澄の調子が良ければ。」

「やった!」

喜ぶ二人の姿を見て、利知未はセガワらしい笑顔を見せた。

『いつまでセガワが続けられるのか、判らないな。』

心の中ではそう思っている。だから、今の内にセガワとしてやれる限りの事はしておきたいと思う。それが誰かの役に立つのなら、一石二鳥だ。


 翌日の夕方。小さなバースデーケーキとプレゼントを持って、和泉と準一が、病院に来てくれた。

 真澄は、和泉からテープを受け取り、直ぐに聞いてみた。小さなカセットデッキは、許可を貰って持ち込んでいた。

 そして、一度にFOXのファンになってしまった。

「楽しい感じの音楽だね。歌ってる人、男の人?女の人?」

中性的な利知未の声に、先ず惹かれた。音も軽い感じのイイ雰囲気で、すぐに耳に入って来た。そして、アキの綺麗な声に感動した。

 和泉と準一は、セガワの性別を聞かれて少し戸惑った。

「真澄ちゃんは、どっちだと思う?」

準一が反対に聞く。深く考えてはいない事だが、真澄がライブハウスに行ける事は無い筈だから、思う通りに想像すればイイと思った。

 体調が良い時でも、流石にあそこはマズイだろう。

「…うーんと、そうだな…。女の人見たいにも聞こえるけど、もう一人の人との、ハモリも綺麗だから、男の人だったら素敵だな。」

「…当り!セガワが男で、アキが女。格好イイ人でさ、アキが、綺麗可愛い感じの人だから、近くで歌ってると見惚れちゃうよ。ね、和尚!」

一瞬、戸惑う顔をする和泉に、ヘラリと笑って見せる。

 まぁ、そう言う事にしてステージに立っているのだから、完全なウソとも言いきれない。自分達は夏休み後半のあの日まで、ずっとそう信じ続けていた。そう思って、和泉は準一の言葉に頷いて見せた。

「そうだな。格好イイ人だよ。」

「…会ってみたいな…。でも、流石にそれは無理だよね。」

少しだけ残念そうな顔をして、小さな笑顔を見せた。

「頼んで見ようか?アキは無理かもしれないけど、セガワはもしかしたら、来てくれるかも知れないよ。」

準一が、また余計な事を言った。和泉は少し慌てる。

「それは、無理だろう?瀬川さんも忙しそうだ。」

「イイじゃん!聞くだけ聞いて見ようよ。」

本当に何も考えていない。それでも、その言葉に、嬉しそうな顔をする真澄を見て、和泉は一応、聞くだけ聞いて見ようと思った。



 数日が過ぎ、中間テストの時期を迎えた。

 利知未は約束通り、あれから樹絵の勉強を時間がある限り見てやった。

自分の勉強もある、バイトもしている、バンド活動も手を抜かない。

 流石に疲れた様子を見せる利知未に、敬太はいつも労わり深い態度で接してくれた。利知未が初めて、その事自体に悦びを感じ始めたあの日から、それでも二回ほどは、求め合っていた。

 この時期までに利知未は、二度目の朝帰りを経験している。その度に、里沙の恐い笑顔が玄関先で待っている。

「…一つだけ、言わせてね?…貴女は、まだ高校一年生の十六歳だという事だけは、忘れないで。」

流石に二度目の朝帰りの日、里沙が心配そうな顔をして利知未に言った。


 樹絵は無事、成績を上げた。三十番きっかり上げ、ようやく編入試験に挑む話しが、本格的に進み始めた。


 倉真は担任の根気強い説得の甲斐あり、進学する方向で話が纏まった。


 和泉は、テストが終わってから再びアダムに現れて、二度目の相談を持ち掛ける。今回は準一もくっついてきた。勝手について来たらしい。


 宏治の周りに出没する沢田は、最近、決心を固め始めている。

『手塚先輩が、三月に卒業しちゃう前に…、ううん。冬休みに入る前のがイイ。…ちゃんと、声掛けて見よう…。』

 先ずは、応援団部員に協力を頼まなくては…。そう思って、中でも恐い雰囲気の少ない、佐々木に白羽の矢を立てる。

『佐々木君と友達になったら、応援団に近付き易くなるかもしれない。』

そう計画を立て、テスト終了を始まりのゴングとして、沢田が動き出す。

 どうやら、宏治の周りで、一騒動起きそうな雰囲気だ。


 利知未はこの時期、忙しくしながらも、自分で決めたクラス内三十位以内のラインだけは、守り通した。

 ただし、流石に今回は、自分の勉強時間が削られた。その間にも必至になって勉学に励むクラスメート数人に、追い抜かれてしまった。

『今回マジ、ギリギリだ…。シャー無い、期末もうチョイ頑張るか…。』

テスト成績通知書の順位欄『30/40』『43/200』と並んだ数字を眺めて溜息をついた。クラスで十番、学年で二十番のダウンだった…。

         二


 二学期の中間も終了し、体育祭シーズンだ。

 北条高校は文武両道で知られた学校で、スポーツ活動の行事も盛んだ。E組は、一年から三年まで、スポーツ進学を目指すクラスだ。

 中学の頃、その俊足で、体育祭で活躍させられた利知未も、この高校では、一般生徒の中では、中々早いと言う程度のレベルだった

 体育祭の日、利知未は確り、サボりを決め込んだ。

『高校では、面倒臭い事、押しつけられない様にしよう…。』

そう思っている。只でさえ、普段から忙しくしている利知未は、手を抜ける所は見逃さない。その分、休養とストレス解消に回す。


 下宿の双子の片割れ、樹絵は、体育だけは得意だ。

 もう直ぐ転校してしまう予定の樹絵も、この恒例行事は思う存分活躍をした。編入試験は目の前だった。


 樹絵が体育祭で大活躍を収めた城西中学では、応援団部二年の佐々木が、クラスメートの沢田恵美からの積極的な友情ゲット作線に戸惑っていた。狙いが副団・手塚先輩にある事は、見え見えだ。

 佐々木は真面目で、成績も悪くない。沢田はソコに注目した。

「中間の復習やってるんだけど、佐々木君、数学得意だよね?ちょっと教えてよ!」

そう言って沢田が佐々木に近付いたのは、体育祭数日前の放課後の事だ。

 応援団は、まだ大会を勝ち残っている少数の運動部の為、この次期も訓練期間中である。

「訓練あるから。」

そう言って、教室を出ようとした佐々木に、諦めずにもう一言。

「明日の昼休みでも良いよ。次の数学、来週だし。」

タイミングは計算済みだ。それまで体育祭を挟んで五日はある。

「…別に、おれじゃなくても、イイ様な気がする…。」

ボソリと反撃した。佐々木は、声を荒げたり、睨みを効かせたりするタイプではない。ソコも、沢田は考慮していた。

「佐々木君じゃなくてもイイかも知れないけど、逆に佐々木君でもイイじゃない。今、丁度ココにいるんだし。」

運動部の生徒は部活動へと急ぎ、部活に参加していない生徒も、ホームルーム終了と同時に塾へ直行する生徒や、さっさと帰宅する生徒の方が多い。まだ残っている少数生徒の中で、他に数学が得意な者はいない。

「…ま、イイケド…。」

違う意味も込めて呟いて、佐々木は一応、承諾した。

「それなら、明後日の放課後にしてよ。土曜だから訓練の前に少し時間あるから。」

「解った!よろしくね。」

ニ、と笑って、教室を出て行く佐々木に、手を振った。


 気の毒だとは思っている。佐々木から見て、どう考えても沢田に脈は無さそうだ。何しろ、応援団部内に浸透している噂の相手は、去年自分自身が強い憧れを持って見ていた、瀬川さんだ。

 中学時代の学校での利知未。特に、敬太と恋人関係へと発展した後の利知未は、多くの男子生徒に憧れの眼差しを向けられていた、アイドルみたいな物だ。その上、女子生徒にも、結構な人気があった。

 隠れファンが多かったのも事実だ。

 もう一つは、FOXのセガワを見てのファンが、圧倒的に多かった。

 考えられる要因は、あの容姿。そして学業・運動における活躍。少し突っ張ったような雰囲気も、魅力の一つだったのだろうと思う。

 大人っぽい外見が、歳より少々、色っぽいような印象も与えていた。

 裕一の死後は、無邪気な子供っぽい部分が、見えなくもなっていた。

 沢田は、普通の中学二年生女子だ。他の少女より秀でた容姿を持っている訳でもなく、利知未のような、独特な雰囲気も無い。

 性格は、暗いか明るいかと言えば、決して暗くも無いし、明るい部類に入るのだろう。けれど、それだけだ。

 佐々木が沢田に、同情心にも近い感情を持つのは、ソコの部分だ。

『おれも、副団が瀬川さんの相手だったら無理だと思ったモンな…。』

現副団・手塚に対しても、尊敬の念を持っている。

『硬派な感じで、でも面倒見が良くって、喧嘩騒ぎでも召集かけられる喧嘩部隊・副長だモンな…。きっと、強いんだろうな…。』

そんな誤解も持っている。


 今の城西中学応援団部では、喧嘩騒ぎに向かう喧嘩部隊と言うモノが存在している。一般団員は、純粋に部活動としての応援団員としてのみ、活動している。佐々木は勿論その部類だ。喧嘩現場での宏治は見た事が無い。だから、勝手な想像が膨らむ。

 今年の新団員も、ヤンチャ者と、一般生徒が、半々で混ざっている。その半分は、佐々木と同じ立場の団員だ。

 ともすると、二派に解れて崩れてしまいそうな現団部内構成を、今の団長・副団長は良く纏めていた。宏治はやはり腕っ節よりも、その性格で、ヤンチャな後輩達にも、良く慕われている。

「副団は避けてて下さい!自分が仕留めます!」

そう言って、いつも宏治の喧嘩のバックを守っているのは、現一・二年の後輩である。彼らは、宏治の人柄に敬意を表している。

 拳が当れば倒せそうな宏治を、彼らはどうしても倒す事が出来ない。当らないからなのだが、返って隙を見て転ばされてしまう。

 無様に転んでしまった後輩を、宏治は決して笑いも蔑みもせず、必ず手を差し伸べて寄越す。そしてこう言う。

「お前、強いだろ?マトモにやったら、おれは負けるよ。…これから、おれ達を助けてくれよな。」

そして、相手を信じ切ったような目をして、少しだけ笑顔を見せる。

 大体のヤツが、それでヤられてしまう。そして通常応援団部を構成している佐々木のような後輩にも、出来るだけ目を配って、問題が起きた時の調停役など、進んで買って出て行く。

 その癖、嗜める時の睨んだ顔などは、中々の迫力だ。恐いと言うよりは厳しい。その意思の強さ、根性の座った様子が、見て取れる。


 応援団部室に向かいながら、佐々木は考える。

『沢田が副団に憧れるのも、解るとは思うしな…。』

そして、宏治は顔も結構イイ。それこそ、アイドルチックで、くっきり二重の可愛く整った顔をしている。

『…まー、イイか…。沢田がどうする気かは知らないけど、おれが気にする事でもないし…。』

戸惑いながらも、沢田の作戦に、乗って見てやろうかと思った。


 体育祭が無事に終了し、応援団部の訓練も、少しは落着いた頃。

 沢田は、積極的に応援団の活動場所へ現れ始めた。佐々木を出汁に使って、以前よりは、他の団員とも言葉を交わすようになってきた。勿論、佐々木タイプの、一般団員相手ではある。

 その内に、ヤンチャ団員とも、以前よりは構えずに話しが出来るようになり、沢田は内心、自分の計画の順調な進み具合に満足した。

『この調子なら、冬休み前には、手塚先輩とも話せるようになれるかも…!?』

放課後、一人帰路に着きながら、ニマニマしてしまう。

『先輩と初詣行って、一緒に受験のお守り探して、プレゼントしたいな。』

それが計画の中間目標だ。二人切りで等とは、欲を出さない事にした。

 団部の二年と話すようになって、一つの嫌な噂を耳にしたからだ。

【副団の彼女は、卒業した団部マネージャーらしい。】

そう言う話しが、応援団部内では、浸透しているらしい。

『でも、ウソだよね?だって、先輩って硬派な感じで、恋人とかいないような気がするモン…。』

その噂は、そう思う事にして、明るい未来だけを想像する。

『けど、本当にその噂通りなら…。』

自分には、勝ち目は無いかもしれない。噂の元団部マネージャーは、沢田自身の記憶にもハッキリしている、背の高い、綺麗な先輩だ。

 一年の時、クラスメート女子の一部でも人気があって、良くその活躍の噂は耳に入っていた。

『結構、不良っぽいイメージの先輩だったと思うけど。でも、手塚先輩にはきっと、私みたいな普通の子の方が、似合ってるよ、うん。』

それにも、自分で勝手に納得し様と、努力する。

 そうして、自分の想像に一喜一憂しながら過ごす内に、沢田にとって 又と無いチャンスが巡ってきた。



 沢田が宏治に対する憧れを強めていた、その間。

 下宿の双子は、成城学園中等部・編入試験に挑み、見事に合格する事が出来た。十月中旬の事だ。

 半端な時期ではあるが、十一月から、片道約四十五分をかけて、都内のその学校に、電車通学をする事になる。

 秋絵はともかくとして、利知未と似たり寄ったりの寝坊スケ樹絵は、これから約五年半続くその生活に、今から溜息を付いている。

 制服は可愛い。セーラーで、城西と同じミニ丈の襞スカートだ。

 肩のカラーと手首、スカートの色は、綺麗なネイビーブルーだった。

 スカーフではなくリボンタイで、上着の基本は白。

「流石は、お嬢様学校ね。」

送られてきた制服一式を眺めて、玲子が感心していた。

「ナンカあたし、直ぐに落ち零れそーだ…。」

ウンザリとした顔をする樹絵に、玲子独特の自信有りげな笑顔を見せる。

「良いわよ。私で良ければ、いくらでも勉強見てあげるから。」

秋絵は素直に頷いて、樹絵は益々、ウンザリしたような顔をした。



 その頃。倉真は、慣れない受験勉強を、チビチビとし始めていた。

「…あー、ッタリーな…。宏治の所かライブハウスでも行って、気ぃ晴らしてーな…。」

この際、喧嘩でも構わない。父親も最近は、母親に止められて、中々、殴り合いの説教にまで発展しない。

「…やっぱ、チョイ行くかぁ!?」

思い立ったら直ぐ実行。普段から親子喧嘩ばかりしている父親の血は、こんな所まで長男に影響している。

 それでも真面目に勉強にも手を付ける様子を見せ始めて、まだ一週間も経ってはいなかった…。

 さっそく時計を見て、電車を使ってもバッカスの閉店時間迄にはまだ間がある頃に到着しそうな事を確認し、倉真は財布とタバコをポケットに突っ込み、悪びれもせずに玄関へ向かった。


 玄関先で、行き先を問質す母親には、いつも通りに答える。

「コーラ買って来る。」

それは、本当にコーラを買って来る時か、それで無ければ、また宏治の所に転がり込む時の言葉である。

 さっさと靴を履いて、玄関を出て行く長男を、呆れた顔で見送った。



 利知未は、テスト期間終了後に、再び和泉が、バイト先に現れてした頼み事を、快く引き受けた。

「あたしも忙しいからな。行けるとしても、日曜のバイト後になるぜ?」

そう言ってくれた利知未に、和泉は深い感謝をし、改めて、尊敬の念を強めた。準一は、相変わらずへらへらと笑っていた。


 一週間後、利知未はセガワとして、真澄の病室へ訪れた。

それが、十月の下旬に差し掛かった頃の事である

 その日、夕食後。面会時間終了の二十時まで後一時間を残す夜七時頃。

兄と準一に、案内されてやってきた人物を見て、真澄は驚いた。

『綺麗な人…。でも、男の人?』

利知未は、ステージに立つ時のようなスタイルで、花束を持って来た。

「始めまして、真澄ちゃん。俺がFOXのボーカル、セガワだよ。」

セガワらしい男っぽい、けれど優しい笑顔で挨拶をした利知未に、真澄は一瞬、見惚れてしまった。声も勿論、ワントーン落としている。

 その後ろで、準一が面白そうなニヤケ顔をしている。和泉は少し困ったような、複雑な表情を、横を向いて誤魔化した。

「もう直ぐ、退院出来るんだって?良かったな。俺も、もうチョイ早く見舞いに来れたら良かったんだけど、中々、時間が無くてね。」

始めて会った自分に対して、済まなそうな表情を見せるセガワに、感動した。お礼の言葉が出るまでに、暫くかかってしまった。

「…そんな、私こそ我が侭言っちゃったから…。ありがとうございます。…何か、信じられない…!」

満面の笑顔になる。…可愛い子だな…。と、利知未は思う。

「私、初めて貴方の歌を聞いて、直ぐにFOXが好きになっちゃったんです。お兄ちゃん達から、セガワさんって、格好イイ人だって聞いて、会ってみたくなっちゃった。本当に会えるなんて、夢見たい…!」

本当に嬉しそうな顔をする。和泉は、真澄の笑顔を見て、無茶を言って申し訳無かったと思う反面、来て貰って良かったと、心から思った。

「でも、格好イイって感じより、綺麗だったから、びっくりしちゃった!」

目を丸くして、セガワの顔をじっと見る。利知未は少し、照れ臭かった。

 そして次の真澄の言葉を聞いて、内心、ビクリとした。

「もしかして、女の人に間違えられたりしませんか?」

今まで、セガワでいた時に、そんな事を言われた事は無い。それは、つまり、男に見え切れなくなってきていると言う、現実だ。

「…そんな事は、無かったけどな?始めて言われたよ。」

無理に本心を抑え、セガワスマイルを作った。

「そうですか?…ゴメンナサイ。気に障りました…?」

「全然。大丈夫だよ。…じゃ、これからステージ立つ時、ソコを活かして見ようか?」

クスリと笑顔を見せる。女顔にならない様に、いつも以上に気を配る。

「どうやって?」

真澄も笑顔で聞く。男だと言う事を疑っている様子は無い。

「そうだな。…チョイ色っぽいカッコウして見るとか?」

「そしたら、本当に女の人に見えちゃうかもしれませんね。」

明るく笑った。和泉は利知未の無理を、少し感じる。

「真澄は、アキとのハモリが綺麗だって言って、感動してたんだよな。」

話しを変えて、和泉なりの助け舟を出した。

「うん!すっごい、感動しちゃった!アキさんの声も、天使の歌声って感じ。高くて、澄んでて、セガワさんの声と、凄く良く合ってた!」

利知未は、話しが変わった事に、ほんの少し安堵した。

「オレもアキの声大好きなんだ!今度テープ、ダビングしてよ。」

準一は、相変わらず空気を読まない。単純に、話題が変わった事に乗って話す。それから面会時間終了間際まで、三人は真澄と色々な話しをして、明るい真澄の笑顔に見送られて、帰って行った。


 沢田のチャンスは、十一月に入って直ぐの、文化祭に訪れた。

 応援団部は例年通り、校内警備係りを仰せつかっていた。結城と宏治は、以前の団長・副団と同じ様に、基本的には部室に詰めている。

 来年度の団長・副団も、話し合って決定済みだ。自分が副団長に任命された時の事を思い出して、喧嘩騒ぎでもそれなりに使える、二年団員の中でも、真面目なヤツを副団に任命した


 団長は、いつも宏治の喧嘩バックを勤めていた二年に任せる事になる。

来年度の団長・掛井 信二は、喧嘩の実力も勿論だが、信頼の置ける、面倒見が良いタイプだ。副団・藤堂 直行は、入団当初は真面目な新入生だったが、昔から近所の寺で少林寺を習っていると言う、実は和泉の顔見知りだった。同門の舎弟である。

 その情報は、和泉からもたらされていた。それで一度、宏治が確認を取った所、どうやら去年の譲渡式の後、和泉から、宏治の事を聞かれていた事があったらしく、直ぐに話しが通った。それから、喧嘩騒ぎにも声を掛ける様になった。毎回と言う訳でもなく、藤堂に声を掛ける時は、相手もかなり、ヤリそうな時だけだ。

「自分は、そう言う事に、拳法を使いたくは有りません。」

そう言って拳法を封じて騒ぎに挑むのだが、これが中々ヤル。ヤンチャメンバーと通常団員との間も行き来できる、宏治にとっては頼りになるヤツだった。団部内の問題調停役にも、一役買ってくれていた。

 その藤堂が、今回、沢田にチャンスをもたらしたキーパーソンだ。


 今年の文化祭は、ほんの少し、騒ぎが起こってしまった。

 騒ぎが起こったのは、沢田が宏治の姿を探して、取り敢えず、正門横の警備詰め所近くに来た時だ。

 馬鹿に大きなスクーターのエンジン音が、学校周りの道に響いていた。その場にいた誰もが、嫌な予感を感じていた。警備詰め所も緊張気味だ。

「団長と副団、呼んで来い!」

下級生が、来年度副団・藤堂に指示を出されて、部室に走った。

 余り騒ぎが大きくなれば、教師に連絡を着けるのだが、今の段階では、出来る限りの警戒をするしか、方法が無い。単に、イカレたヤツが学校周りを、走らせているだけかもしれない。

 その藤堂に、沢田が近付いて行く。

「藤堂君、何があったの?」

「何があったんじゃなくて、何か起こるかもしれないんだよ。」

沢田に声をかけられて、藤堂が答えた。藤堂は、佐々木とも仲が良い。沢田と佐々木は、隣のクラスだ。偶に、忘れた教科書の貸し借りもする。

「この音、スクーターかな?」

「みたいだな。」

正門に注意を向ける。また、意味無く大きく吹かしたエンジン音が響く。

「沢田も、ココにいない方が、良いかも知れないぞ。」

「…かな?でも、手塚先輩に渡したい物があったんだ。」

「オレが渡しとくよ。寄越しな。」

少し考えて、即売用にクラスの女子で作ったクッキーの包みを預けた。

「じゃ、お願いする。…何か、本当に怖そうだし…。迷惑になったら、嫌だから。…藤堂君も、気を付けてね。」

「ああ。早く教室戻りな。」

頷いて、沢田は校舎内に向かった。入れ違いで、クラブハウスの在る方向から、宏治と結城、二人を呼びに走った一年が、駆け付けた。

 騒ぎ自体は、応援団部が、教師の手を煩わせる事も無く納めた。

 スクーターで、そのまま正門に入り込んできたヤツを、団部メンバーが脅し付けて、追い出してしまった。問題児が多い応援団だが、こう言う時には、本当に頼りになる連中だ。


 このクッキーを渡した事が切掛けで、沢田にチャンスがやって来た。

         三


 文化祭シーズンは、敬太の大学にもやって来る。

 城西中学の文化祭があった十一月の二週目。その週のライブ後、敬太に送られる車の中で、利知未は、大学祭のパンフレットを受け取った。

「へー!このバンドが来るんだ!結構、金掛けてるんだね、敬太の学校。」

パンフレットに刷り込まれた、ステージのタイム・テーブルを見て、利知未が感心した。最近、売れてきたロックバンドが出演するらしい。

「そうだね。そのバンドのギタリストが、ウチの大学のOBらしいんだ。実行委員がそのツテで、かなり無理、お願いしたらしいよ。」

運転しながら敬太が言う。その横顔に、女らしい笑顔を向けて、利知未が聞く。敬太は横目で見て、少し見惚れるような気分だ。

『どんどん、綺麗になって行くな…。』

そう思う。

「敬太も、前座のバンドでドラム叩くんだね。見に行っても良い?」

「勿論。そのつもりで、チケットも買っておいたよ。…けど、オレの大学、ライブ見に来てくれてる友達もいるから…。」

残念そうな顔をする。利知未も少し、残念そうな笑顔を見せた。

「セガワで行くよ。仕方ないね。あたしがまだ、止められないんだから。」

「…やっぱり、そうなっちゃうか。…いつまで、続けたいの?」

「…責めて、次の由美の命日までは。」

少し俯く利知未の横顔を見て、敬太は小さく息を吐く。

「仕方ないか。利知未と文化祭後のキャンプファイヤー、眺めたかったな。綺麗なんだよ。」

「ごめん。あたしも、セガワじゃなくていれたら嬉しいとは思うけど…。」

利知未も小さく息を吐く。その様子を見て、敬太から利知未を誘った。

「…今日、遅くなったらマズイかな…?」

余り無い事だ。利知未は、敬太の言葉の意味を理解する。

「…良いよ。…寄ってこう?」

一気に、色っぽいような目つきになって、頷いた。

 この頃、二週間に一度の割合で、求め合っていた。利知未の身体は、益々女として、敏感に成長していた。それを実感する度に、セガワの終わりが近い事も予感する。それでも、求め合う気持ちは強まるばかりだ。

 そしてその日、利知未が下宿に戻った時間は、深夜二時を回っていた。



 城西中学では、文化祭が終わり、毎年恒例の権限譲渡式も無事、終了した。今年の譲渡式も、近隣住人の見物客が多い。

 つい先日、スクーター少年を追い出した活躍は、既に噂の的だった。その効果で、今年の見物客は、いつも以上に数が多かった。

 宏治は無事に権限を新団長・副団長に譲り渡して、ようやく肩の荷が下りる思いだ。気持ちにも余裕が出来て、やっと、文化祭に藤堂ツテで渡されたクッキーのお礼を告げに、二年二組の教室を訪れた。


 始めに、宏治の姿に気付いたのは、佐々木以外の応援団部員だった。

「うっす!ご苦労様です!誰、呼びますか?」

教室内を軽く見回し、誰かを探している様子の宏治に、部員が聞く。

「沢田 恵美って子、いるか?」

クッキーと一緒に渡された、メッセージカードを見る。

「ああ、それなら…。沢田!面会!!」

言いながら、やや窓際の席で、背中を向けて友達と話している少女に、声を投げる。振り向いた顔を見て、宏治は最近、団部周辺に顔を出していた女子生徒が、沢田 恵美だと言う事を知る。

「あの子だったのか。名前、知らなかったよ。ありがとう。」

取り次いでくれた後輩に、笑顔で礼を言った。

「うっす!失礼します!!」

団部式礼を残して、後輩は、自分の席に戻って行く。

 恵美は驚いた。まさか憧れの先輩自ら、自分の教室を訪れてくれるなんて、思いも寄らなかった。ドキドキしながら、廊下に向かう。

「お前が、沢田恵美だったんだな。クッキー美味かったよ、ありがとう。礼が遅くなってごめん。」

そう笑顔で言われて、恵美は言葉が出ない。照れて俯いてしまう。

 そばかすの浮いた頬を赤らめ、天然パーマの癖っ毛を指に絡めて弄ぶ。

『…どーしよう!?何て言ったら良いのか、解んないよ…!』

気持ちが焦る。冷や汗まで浮いてきそうだ。

 さっきまで恵美と話していた子の周りに数人の女子が集まって、その様子を見て囁きかわす。

「あれ、応援団の手塚先輩だよね?!」

「恵美ったら、いつの間に…?!」

「イーなー、手塚先輩からの呼出しなんて、恵美、ずるい!」

席に座ったままの生徒と、その周りに集まった三人の女子生徒は、宏治の隠れファンだった。…その整った外見も、硬派っぽく見える雰囲気も、今の宏治になら、いても可笑しくは無い。

 後ろでそんな事を言われているとは知らず、恵美は一生懸命、言葉を捜していた。

「…えっと、…あの、…その、」

その様子に、宏治は優しげな微笑を漏らす。

『団員に近付くの、大変だっただろうな…。』

こんなに普通の子が、学校からも、目を着けられている生徒が多い、応援団部員相手に、良く勇気を振り絞った物だと思う。

「礼だけ、言おうと思ったんだ。呼出して悪かったな。」

もう一度、笑顔を見せて、自分の教室に戻ろうと踵を返す。

「ぁ、あの!手塚先輩!!」

恵美は慌てて呼びかけた。こんなチャンス、二度とは無いかもしれない。

呼び止められ、宏治は軽く振り向く。

「…あの、…もし、良かったら、今度…、…その、」

慌てて呼び止めながら、続ける言葉は、浮かんでいなかった。宏治は軽く首を傾げるようにして、恵美の続きの言葉を待つ。

「あ…、兄の誕生日プレゼント、探すの、手伝って貰えませんか!?」

恵美に兄弟はいない。浮かんできたのは一つ年上の従兄弟の顔だった。勿論、プレゼントなんて渡す義理は無い。誕生日だって知らない。それでも、必至だ。

「おれが?」

少し面食らう。それでも必至な恵美の様子を見て、宏治は笑顔で頷いた。

「構わないけど。」

「本当ですか!?…本当に、良いんですか?」

自分で誘っていながら、信じられない。頭の中が真っ白になった。

「渡す物は、決まってるのか?」

「…あ、あの…、…まだ。」

一生懸命頭を働かせて、やっとそれだけ答えた。

「そうか…。それなら、探しながら店を回るか。」

宏治の真面目な顔を見て、恵美はボウッとしてしまった。次に聞かれた言葉も、意味が理解できない。

「いつにするんだ?」

「……。」

中々、返事が出無い恵美に、宏治がまた首を傾げる。

「沢田、どうした?」

声を掛けられ、恵美は、やっと気が戻って来た。

「…え?はい、えっと…、」

「おれはもう団部引退したから、放課後ならいつでも大丈夫だけど?」

言葉を変えて、同じ質問をする。恵美は話しがソコに言っていた事に、始めて気付いた。慌てる。

「えっと…。…そうですね、今日は、お金持って来て無いから、明日とか、大丈夫ですか…?」

下から見上げるように、顔色を伺う。宏治が頷く。

「大丈夫だ。じゃ、明日の放課後。」

そう言って、軽く手を上げて見せ、その場を離れた。


 宏治の姿が、階段に消えて見えなくなってから、恵美はフワフワした足取りで、自分の席に戻った。ストン、と脱力して、椅子に腰を下ろす。

「…チョット、恵美!あんた、お兄さん何ていなかったよね?」

集まって囁き交わしていた友人が、少し怒った顔をして、恵美の席に近付いた。四人に机を囲まれて、恵美はニヘラっと笑ってしまう。

「…信じられない…。手塚先輩が、クッキー美味しかったって、ありがとう、…だってぇー!」

机に突っ伏す。堪え切れずに、身体中でクスクス笑う。その姿を見て、怒っていた友人が、呆れた顔になる。

「…ダーメだ。人の話し、聞―て無いよ。」

集まって、話していた仲間を見回して、肩を竦める。

「コラ、恵美!抜け駆けしたわねぇ!?」

膨れっ面で、机に突っ伏している恵美の顔を、身体を倒して覗き込む。

「え?抜け駆けって?…ヤだ!ミっちゃん、もしかしてライバルだった?!」

自分のことばかり一生懸命で、実は手塚先輩が、意外な人気者である事には、気付いていなかった。

「あたしだけじゃないよ?手塚先輩、結構人気、あるんだから!」

「ソーソー!知らなかったの!?」

「…知らなかった。…ごめーん!」

『ごめん』の一言にも、誠意は感じられない。友人達は、再び呆れる。

「…ま、イイケド…。恵美ったら、本当に思い込んだら周りが見えなくなるタイプだよね。…連れて行きなさいよ…?」

「連れてくって?」

「明日!放課後!…断ったりしたら、恵美には本当は兄弟ナンカいないって、手塚先輩にバラしちゃうから!」

美津子は、恵美の親友だが、気の強い子だ。断ったりしたら、本当にバラされかねない。恵美は少し、剥れて答えた。

「…分かったよ。…でも、ミっちゃんだけ、だからね?」

「えー、何で?ずるいじゃん!」

他の友人が、不満を漏らす。それに美津子は、ニヤリとして見せる。

「まー、まー。あたしが一緒にいるんだから、これ以上の抜け駆けは、させないから。」

「手塚先輩だって、アンマリ大勢で行ったら、きっと困っちゃうよ。」

恵美は、これ以上、人数を増やしたくない、美津子の援護射撃に回った。

 それに、また膨れる友人達。その様子を、少し離れた席で、佐々木が注目していた。呆れている。ちょっと、羨ましくもある。

『女って図太いよな…。おれ、去年、瀬川さんに、そんな積極的な態度、取れなかったのに…。』

恵美の耳にも宏治の相手が、利知未であるらしい噂は、届いている筈だ。

『…やっぱ、女って逞しい…。』

小さな溜息を付いた。



 その日曜日。

敬太の大学の学祭に、アダムのバイトを休んだ利知未が、セガワらしい格好で現れた。敬太の出演するステージが、もう直ぐ始まる。

 そのステージに立つ、プロのバンド内では今、ある計画が進んでいた。

 そのメンバーは、本番が始まる前のリハーサルを見て、前座バンドでドラムを叩く敬太に注目していた。

 …敬太と利知未、二人の運命が、新しい局面へと向かい始める…。


 前座のステージが終わってから、敬太は裏を回って、利知未の隣席に着いた。ステージ転換の時間を挟み、十分の休憩中だった。

「利知未。」

セガワらしい格好の利知未に、囁き声で声を掛ける。パンフレットに目を落としていた利知未が、顔を上げて、小さく笑顔を見せる。自分らしい笑顔は、今は、大きく、その表情に出す事が出来ない。

「お疲れ。中々、イイ出来だったじゃ無いか?」

心の中で、女の自分が身を捩るような思いだ。その心は、決して表に現さない。直ぐ隣に、次のステージを待つ学生がいる。

「ありがとう。前座じゃなかったら、セガワにも、ステージに上がってもらいたい所だったよ。」

ニコリとして言う。敬太の心の中でも、もどかしい想いが微動している。

「それも、面白そうだったな。」

利知未は、セガワスマイルを見せる。敬太が、耳元で囁いた。

「ライブが終わったら、ちょっとだけ学校離れよう。」

利知未は、小さく頷く事で、返事を返した。

 約二時間のコンサートが終わり、二人は、男同士の友人のような振りをして、校内から出て行った。


 態々、二駅を電車で超えてから、小さな喫茶店に入る。そこで漸く、利知未は力を抜いて、敬太の前での自分に戻れた。

「あのバンド、最近、良くテレビにも出てるよね。」

随分と女らしくなってきた笑顔を見せて、ステージの感想を話し合う。

「そうだね。実際、近くで見ていて感動したよ。イイ曲ヤッてる。」

敬太も、いつも二人でいる時の、恋人らしい利知未に笑顔だ。暫く話しをしてから、敬太が言った言葉に、利知未は驚いた。

「…実は。来年、あのバンドのドラム・オーディションをやるらしいんだ。…さっき、受けて見ないかって、聞かれたよ。」

「今のドラマー、抜けるの?」

「そうらしい。事情は知らないけどね。…オレ、本気で受けてみようかと思ったんだ。」

敬太の目は、真面目だった。その奥には、強い決心が見える。

「…敬太、プロの道を目指すんだ…。」

呟くように聞いた利知未に、敬太が、真剣な目で答える。

「前から、チャンスがあればって、思ってはいたんだ。このタイミングが、良いか悪いかは 判らないけど…。やって見たい。」

色々な懸念も浮かんできたが、本気で愛していると思える恋人の夢だ。利知未は、励ますような笑顔で言った。

「良いんじゃない?敬太なら、きっと受かるよ。応援する。」

それに…、と思う。

『あたしがセガワを続けるのも、そろそろ限界だ…。何とかゴールデンウイークまでは、頑張りたいけど…。』

三週間程前に、和泉の妹・真澄に言われた事を、思い出す。

『…やっぱり、難しそうな気もする…。』

それなら、自分が抜けた後のFOXでドラムを叩き続けて貰うよりは、このタイミングで、本当に敬太がオーデションに受かって抜けるのを、自分のタイミングにしてセガワを終わらせるのも、良いかも知れない。

『…由美も、許してくれるよな…。…多分…。』

ソコまで頑張れれば、自分も心の整理が、着くかもしれない。

「オーディション、いつ?」

「多分、来年の二月か、三月になるだろうって。」

「…そっか。…頑張れ!」

何かを決めたような利知未の表情に、敬太は確り、頷いた。

「頑張るよ。やれるだけ、やって見る。」

「うん。」

頷き返した利知未に、意思の強い、イイ顔を見せた。



 宏治は、勉強机に向かいながら、軽い溜息を漏らす。

 十日ほど前。約束通り、宏治は沢田恵美のプレゼント探しを手伝った。一緒に来た、大場 美津子と言う少女は、恵美の親友だと言っていた。

所が、その日。どうやら少し微妙な雰囲気が、二人の間に存在していた。

『…あれは、…何だ?』

宏治は一緒に行動している間、常に冷や汗と困った表情の連続だった。

『女同士の友情ってのは、どんな物なのヤラ…。』

一番身近な、同世代の女と言えば、利知未だ。

『瀬川さんの交友関係は、余り参考になりそうも無いよな…。』

小さく首を振る。この夏に覚えたばかりのタバコへ、手を伸ばした。

「おい、宏治!」

ノックと、ドアの開く音がして、兄・宏一が顔を出す。

「おお!お前もついに覚えたか!?流石、血は争えネーな。」

少し嬉しそうな声を上げられた。宏治は咥えたタバコに火を着け、一吸いして、煙を吐いたタイミングだった。

「何?」

振り向きもせずに短く聞いた。兄貴の態度に、敏感に反応する様な気分では、全く無かった。

「あ、忘れてた。電話だ。女から。」

保留ボタンが点灯している、コードレス電話の子機を、宏治に渡した。

「…サンク。」

恐らく、恵美か美津子だ。この十日間、毎日、電話が掛かって来る。恵美の時もあれば、美津子の時もある。同日に、二人から掛かって来たのは、プレゼント探しを手伝った日だけだ。…今日はどっちだ…?

 小さく息を付いて、気を取り直して保留ボタンを解除した。宏一は、子機を手渡して直ぐに、部屋を出て行っていた。

 居留守を使うのも気が引けるし、だからと言って、電話はしてくるなとは、やはり言えない。宏治は、気の優しいタイプだ。特に、女の子や老人、自分より年下相手には、親切にする。半分は、利知未の影響だ。

 その優しさは、実際に宏治と会って、少しの時間、一緒に過ごせば、自然と相手にも伝わる。恵美と美津子も十日前の放課後、宏治の様子を見て、すっかり、団部員相手の恐怖心を、忘れてしまった。

 そして、この親友二人は、その日を切掛けに、本格的に恋のライバル同士になってしまった…。最近の二年二組では、どうやら、二人の目が合う度に、熱い火花が散っているらしい。

 佐々木は、思いも寄らなかった展開に、少し驚いて、その様子を眺めている。やはり、女は図太いと言うか、逞しいと言うか…。


 宏治が電話を切り、子機を充電器に戻しに行こうかと思い、立ち上がった時、再び電話が鳴った。通話ボタンを押して、その電話に出た。

「はい、手塚です。」

「宏治?宏一さん?」

電話の向こうから、倉真の声が聞こえて来た。

「倉真か?最近、全然、姿見せなかったな。どうしてたンだ?」

「宏治か。それがなー、聞いてくれよ…。俺、今、監視されてんだよ。」

少し囁き声だ。ウンザリした様子だった。

「監視?どうして。」

「妹が親父から小遣い貰って、部屋の前で粘ってンだよ。…受験勉強、サボらせネー様に。今、電話してんのだって、時間、計ってんだぜ?」

宏治は吹き出した。倉真と話すのは、約一月振りくらいだ。

 そして、久し振りに二十分ほど話しをし、受験勉強の息抜きをした。


         四


 十一月の終わりから、十二月の頭。二学期の期末テストが行われた。

 利知未は中間で成績を落としてしまった事を受け、十一月二十三日・二十四日の連休を、テスト勉強に当てた。


 ここに来て始めて、利知未はマスターに、自分の志望を話した。

マスターは、医者を目指していると言う、利知未の言葉に、驚いた。そして、利知未が何故、ここから通うには随分、距離がある、北条高校を選んで受験したのか、その理由の一つを知った。

「それで、あんな遠い高校を選んだのか。確かに進学率のイイ学校だな。ショーがない。その代わり成績、確り戻して来いや。」

言って、感心した顔をして、利知未を見る。

「なんだよ?」

「中学時代から成績、良かったんだな。」

今更のように、そう言われた。

 北条高校の入試レベルの高さは、県下でも有名だ。中学時代の利知未の成績が良かった事が、意外だったと言わんばかりの表情になる。

「…知らなかったのかよ?意外と見る目、ネーな。」

平日。他のバイトの、ピンチヒッターだった。カウンターでタバコを吸いながら言う利知未を見て、マスターは、やや呆れた顔になる。

「手の着けられない不良中学生が、あっという間に高校生とはな。」

「時間が経つのは早いモンだ、とか、ジジ臭い事言う気か?」

「口が悪いのは中々、変わらないモンだ。」

小さく鼻で笑う。それでも、利知未のそう言う所が、気に入っている。

「…相手に寄るんだよ。」

そう言って、小さく笑い返した利知未の表情に、少しは、女らしく成長しているらしい事を見て取った。

「…そーか。成る程な。」

勝手に想像して納得する。マスターの呟きに、利知未は軽く眉を上げる。

「ま、そう言うことで。次の日・祝は悪いけど、休ませてもらうよ。」

タバコを消し、話しを区切って、席を立った。



 テスト一週間前になり、二年二組の恋のライバルも一端、活動休止だ。

 だからと言って、以前のように、仲良くテスト勉強をするでもなく、ただ、宏治に対する電話アタックが、静まった程度だ。

 お蔭でその週、宏治は気がね無く、勉強に集中する事が出来た。変わりに、今の電話の相手は、倉真だ。

「期末終わったら、またライブ行きてーな…。」

「そーだな。けど、お前、そんな事してて、受験は大丈夫なのか?」

「大体、ンなレベル高いトコ、狙わネーよ。宏治はどうなんだよ?」

「おれも、それほど無理はしないよ。ただ、東城高校が、通うのに便利だからな。取り敢えず、ソコが平気なら問題無い。」

「そー言や、お前は真面目な生徒してたンだったな。…感心するぜ。」

吐き捨てるように、ぼやかれた。

 宏治は十一月の中旬、倉真から監禁報告電話が入った時から、二・三日に一度くらいの割合で、短い気晴らし電話をするようになっていた。

「それにしちゃ、良く倉真が、進学する気になったモノだな。」

「担任が煩くてよ。親父もお袋も、学校まで俺に進学承諾させるように、頼み込みに行ったらしいんだよな。…全く、余計な世話だってンだ。」

膨れる倉真の顔が目に浮かぶ。宏治も利知未と同じで母子家庭だ。父親がそこまで心配してくれると言うのは、幸せな事かもしれないとも思う。

「あの親父さんがね。…結構、イイ父親なんじゃないか?」

「…俺は、お前の所の方が羨ましいぜ。」

美由紀の物分りの良い所が、羨ましいと思う。自分の母親も、それほど悪いとは思わないが、結局は、父親の味方の様な気もしている。

 宏治は最近、少しずつだが、館川家の様子が見える様に成ってきた。詳しい事は解らない。倉真は相変わらず、細かい事までは言わない。

「お兄ちゃん!息抜き終わり!!」

電話の向こうで、女の子が叫んでいるのが聞こえる。宏治は少し笑ってしまう。電話の度にコレだ。見た事は無いが、随分、活発そうな子だと思う。流石は、倉真の妹だ。

「あー、解ったよ!ウルセーな!!…その内、抜け出して行くからな。」

小さな声でそう言って、倉真が電話を切った。



 川上中学にも、期末テストは勿論、やって来る。

 和泉は、家庭の事情により就職希望だ。だからと言って、決して勉強に手を抜いて来たりはしていない。

 和泉が、勉強も頑張ってきた理由は、真澄だ。

 テスト前のこの時期、決まって準一も一緒に、勉強会を開く。準一が、テスト範囲を、確りと把握して来て真澄に伝え、勉強その物は、和泉が見てやる。準一も、ついでに教えてもらう。


 どうしても授業への出席率が少ない真澄は、学校の勉強に置いて行かれないようにするのも、一苦労だ。それで、その真澄に、勉強を教える為にも、和泉は学校の勉強も頑張っている。担任は、成績も素行も悪くない和泉が、就職希望である事を、非常に残念に思っている。


「テスト終わった頃には、また入院する様な事になっちゃうのかな…?」

勉強の手を止め、小さく呟いた真澄に、和泉は元気付ける様に答える。

「そうならない様に、気を付けるんだ。今年は一緒にクリスマスも正月も、迎えるんだからな?」

準一も、真澄を励ます。

「そーそー!紅葉は見に行けなかったけど、クリスマスプレゼントは、考えてるよ。だから、今年は一緒にパーティーしようよ!」

準一が一応、少しはモノを深く考える瞬間だ。

 真澄の事は、可哀想だと思っているし、結構、好きなのだ。

 真澄が、可愛い笑顔を見せてくれると、準一も嬉しくなる。

「…うん、そーだね。私も、今年は自分で、二人のプレゼント、買いに行きたい。お父さんと、お母さんにも、何かプレゼントしたいし…。」

少しだけ明るい表情になって、真澄が頷いた。

「ね、お兄ちゃん。お父さんと、お母さん、何、あげたらイイかな?」

頬杖を付いて、楽しそうに考え始める。

「それは、テストが終わってから一緒に考えよう。今は勉強しないとな。」

「もー、お兄ちゃん、本当に真面目なんだから。…けど、そーします。」

少しだけ膨れて見せるが、直ぐに言う事を聞いて大人しく勉強を始める。


 和泉は二人の勉強を見てやってから、自分の勉強を改めてしなければなら無い。いくら就職志望だからと言って、手を抜くのは嫌だった。

 本心では、今しか出来ない事だからこそ、全力を尽くしたい。それが和泉の真面目さだ。それに真澄も、少しでも長く生きる事が出来れば、その内に、適合する心臓も見つかるかもしれない。

 十五歳になれば、日本で移植手術も可能な事ではある。

 そう成った時の先に、勉強を確りやっておかなかった事を、後悔する事にも成りかねない。だから、何にしても、頑張って貰いたい。

 和泉は、自分の一生を掛けて、妹を大切に、守って行きたいと思う。

 小学校に上がる前の、小さな頃から、時々、襲ってくる苦しみと戦い続けている妹が、可哀想だった。



 利知未は、テスト期間中も、ライブ活動を行っていた。

 セガワとして、ステージに立つ事に対しての悩みが、最近一つ増えた。

『胸は誤魔化し利くけど、腰のライン、そろそろヤバイかもしれない…。』

入浴する度、鏡の前で考える。

『ロックやってるんだから、スリムタイプは、外せないよな…。』

セガワで人前に現れる時、ヒップサイズに合わせて用意した、メンズのスリムタイプジーンズを、愛用していた。

 最近、そのサイズを、一つ上げざるを得なくなった。レディースと違って、ヒップラインは、その膨らみを持たない所為だ。

『…顔付きも、変わってンのかな…?』

それに付いては、自分では判別出来ない。ただ、真澄に言われた言葉は、今も気になっている。

『シャツ出して着るか、ウエストに何か、挟み込むかだな。』

取り敢えず、暫くは、それで様子を見る事にした。



 それぞれの学校で、無事に期末テストが終了した。

 利知未は睡眠時間を削って勉強をした。そして何とか、一学期の期末テスト順位と、同じ所まで成績を立て直した。

 渡されたテスト成績通知書を見て、ホッと胸を撫で下ろす。

 入試成績の順位より、五番から十番の開きがあるのは、致し方ない。


 樹絵・秋絵の双子は、転校した成城学園中等部の、学業レベルの高さに、改めて冷や汗を流す。あんなに頑張って城西中学一学年中で、中の上まで成績を引き上げたのに、中の下から、下の中辺りにいる自分達の順位を見て、一気に血が下がる思いだ。

「仕方ないね、これから頑張ろう。」

「…取り敢えず、また玲子達に教わろう…。」

双子が寝起きをしている下宿の一部屋で、顔を見合わせて励まし合った。


 宏治は、団部内の安定と平和に費やして来た時間の大半を、受験勉強に当ててきた。その甲斐あって、身の回りのバタバタ騒がしい気配にも負けず、中間から大きく成績を上げる事が出来た。

「やっと本領発揮してきましたね。この調子で、三学期も努力を続けるようにして下さい。」

担任の女性教師から、満面の笑顔で、通知書を渡された。


 川上中学三年C組では、担任教師が本当に残念そうな顔をして、和泉に、通知書を渡している。

「萩原。本当に進学、諦めて良いのか?お前の成績なら、奨学金制度も、問題無く受けられるぞ。」

「それも、将来返して行かなければなりませんから。家では無理です。」

きっぱりと、迷い無い表情を見せた。


 同じく川上中学。二年B組とD組では、其々の教室で、準一と真澄が通知書を受け取る。

「渡辺君は相変わらずですね。可も無く、不可も無く。落とす事だけはしないで下さい。」

眼鏡を掛けた、神経質そうな、男の数学教師が担任だ。準一に、いつも通りの言葉を掛ける。

 真澄の方は、授業参加日数はギリギリながら、何とかクラスでも真ん中辺りの順位に居続けている。担任の社会科担当女性教師も、いつも言う事は同じだ。

「萩原さんは、兎に角、無理をしないで。身体を第一に、考えるのよ?」

優しい声に真澄は、小さな笑顔を見せ、頷いた。


 東都荒川中学。倉真は、複雑な表情の担任に言われた。

「館川…。お前は、本当に受験勉強しているのか?」

「頭ワリーのは、前からだ。」

フン、とそっぽを向いて、通知書を奪い取る様に受け取った。



 冬休みに入る前、高坂と大野が、ライブを見に来た。

「大体、二ヶ月振りくらいだな。」

ライブ後、久し振りに、二人とグラスを合わせた。

「相変わらず客、入ってるな。セガワの人気も、相変わらずそうだ。」

その人気は、衰える事を知らない。ただ、一時期の様に、どんどんと新たなファンが増えて行くような事は、無くなっていた。

 チケットを購入出来るのが、最近、常連のみになって来ていたのが、一つの理由だ。新しい客が、入る余裕が無い。

「…けど、瀬川は正直、辛くなってきたみたいだな。」

大野が小さく呟く。ライブハウスの中だ。滅多な言葉は言えない。

「…そうだな。そろそろ限界、感じてる。」

セガワスマイルが、以前より、優しい感じになっている。

「女が見えたって事じゃないんだが、歌ってる時の雰囲気も、何となく変わってきてるよな。」

高坂が、グラスに口を付けながら呟いた。大野も頷く。

「…そーだな。何となく、な。」

二人は、久し振りに見たステージで、セガワに少々、セクシーな雰囲気が加わってきた様に、感じていた。まだ一応、中性的な感じではある。

「何とか、由美の命日までは、持たせたいんだけどな…。まだ、半年近くある。…自分でも、どうすればイイのか解らネーよ。」

利知未は、少し疲れた横顔を見せた。気分を変えて、高坂に聞く。

「所で、最近アダムにも、来なかったな。貴子はどうしてる?」

「高校の駅伝全国大会、今にあるだろ?大変そうだよ。」

「選手なのか?」

「そりゃ、貴子だからな。」

答えになっていない。けれど、この仲間内では、それで通じる。

「だよな。」

クスリと笑って、顔を見合わせた。随分、男らしく育ってきている高坂の笑顔を見て、利知未は、ふと思う。

『高坂と貴子は、まだ清純な付合いなのかな…?』

高校生になり、九ヶ月も経つ。二人の付合いも、それ位になる筈だ。


 利知未と敬太の関係は、最近、益々、抑えが利かない雰囲気になって来ていた。利知未の不安は、もしも敬太が、本当にプロの道へ進む事が出来た時、二人の関係が、どうなってしまうのか?と言う部分にある。

 嫌な予感に襲われる毎に、つい又、敬太を強く求めてしまう。

 敬太も、自分の将来に対する期待と不安が、後押しとなっている様で、利知未と同じ想いの強さで、恋人を求める。

 二人は、まだ十六歳と二十歳だ。情熱も、それを支える体力も、充分過ぎるくらいに、有り余っている。

 敬太は、自分の前で、どんどん女として、綺麗になって行く利知未に驚き、益々、熱い想いで見つめてしまう。

 その分、ライブ中のセガワを見ての複雑な気持ちも、強まって行く。

 そして利知未は、益々セガワとしての、自分の振舞いに限界を感じる。


『来年になったら直ぐに、オーディションがあるんだよな…。』

敬太の夢は、応援すると決めた。セガワも、そのタイミングで終わりにしようと、ほぼ決心をつけている。

…それまで後、恐らく四・五ヶ月。



 直ぐに冬休みに入り、利知未は、最近の、気持ちの憂さを晴らす意味も込めて、再び教習所へ通い始めた。目標は、限定解除の免許取得だ。

 その為、バイトは、この冬休み、時間を増やさない事に決めた。


「お前も忙しいヤツだな…。」

その話しをした時、マスターが、また呆れたような顔をして呟いた。

「多分、春休み以降の長期休みからは、もっと出来るようになると思う。」

「シフトは考えるから構わんが、忘年会は参加しろよ。」

「忘年会、やるのか?」

「毎年やってる。基本的に、全員参加だ。」

「いつだよ?火・水・金曜は無理だぜ。」

「今年は二十八日、日曜だったな。」

 毎年、日付だけは動かさないと言う。年末の、仕事納めの日だ。

 そしてまた、一月四日が仕事始めだ。それも、毎年の事だと言う。

「解った。教習所も、その辺から休みだ。」

しかし利知未は、出来れば、その前に取得してしまうつもりだ。

 中型免許を持っているのだから、実地教習が終われば、後は視力検査だけで済む筈である。一週間在れば、何とかなるだろう。

「会費制だ。未成年は二千、成人は男四千・女三千。」

「店閉めてからだろ?未成年が参加して、イイのかよ?」

「毎年その日は早仕舞いだ。喫茶のみ営業で、十九時半には閉めちまう。」

「イーのか?それで。」

「堂々と深酒出来るタイミングを、俺が逃す訳、無いだろう。」

自慢気な笑顔だ。今度は利知未が呆れる。

「イー加減な店主だな。それで良く、店が潰れないモンだ。」

「年がら年中って訳じゃない。ウチは味で勝負している店だ。」

自信満万に言い切った。


 宏治は期末テスト後、冬休み中も、恵美と美津子の電話アタックに、辟易していた。倉真との息抜き電話の途中にも、キャッチホンが入る。

「最近、電話回線、混雑してンな。」

「悪いな。話し聞いてるの、チョイ辛いんだよ。あの子達のは。」

今日も、キャッチホンに断ってから、再び、倉真との話しに戻った所だ。

 あの二人の話し相手をするよりは、倉真が相手の方が気楽だ。

「断っちまえば?もう電話してくんなって。」

「そう言ってしまって、イイ物かな…?」

「構わネーんじゃネーか、別に。彼女とかじゃネーンだろ。」

「まぁ、そうなんだけどな。」

小さく息を吐く。倉真が話しを変え、途中だった話を再び切り出した。

「さっきの話しだけどよ、年末、お前の所に置いてくれ。」

宏治は、恵美と美津子に、初詣へ一緒に行こうと、誘われていた事を思い出す。特に用も無かったので、断り切れずに承諾してしまっていた。

恵美には美津子、美津子には、恵美も一緒でよければと言っておいた。どちらか一方だけと約束する気は、毛頭無かった。

「そーだな。そうしたら、お前も元旦、付合えよ?」

倉真も一緒なら、あの二人に挟まれて、辛い思いをする事も、いくらかは軽減されそうだ。

「ちょーどイイ、俺がナシ着けてやンぜ。」

「…穏やかに、頼む。」

「俺も、女相手に暴力は振るわネーよ。」

話しが着いた所で、倉真の後ろから、いつも通りに一美が叫ぶ。

「はい!お兄ちゃん、時間!!」

倉真は素直に電話を切った。宏治はまた、小さく笑ってしまった。


         五


 利知未は、クリスマス・イブからの一夜を、敬太と一緒に過ごす事が出来た。曜日が丁度良かった。

 イブが水曜日だった。それで練習の後から、翌日木曜の一日を、思う存分、二人切りで過ごしたのだ。

 去年、敬太に買って貰った、一揃えの洋服を、練習スタジオに持って行った。背は、あの頃から一、二センチしか伸びていない。

 随分と、女らしくなって来た身体のラインに、去年は大人びて見えていたデザインが、ピタリと填って見えた。スパッツは、ストッキングに変えた。スタジオへの出入りは、いつも通りのスタイルだ。

 練習が終わったその足で、敬太の車で、都内を脱出したのだった。


 このイブは、敬太が予約していた店で、夕食を共にした。堅苦しさのない、ラフな店だった。

利知未は敬太へ、ドラムのスティックに、二人の名前を掘り込んだ物を、プレゼントした。

敬太は利知未へ、自分がオーディションを受ける予定のバンドの、最新アルバムを、プレゼントした。利知未からの、リクエストだった。

「この前の、大学祭のライブが、凄く良かったから、是非。」

 と、別の物を考えていた敬太に、利知未が言った。

「これから、敬太が参加する事になるかも知れない所だから。…敬太も、あのバンドの音楽、好きだって言っていたよね?」

 恋人が好きな音を、一緒に楽しみたいと言って、笑顔を見せた。


 食事の後、高層ビルの展望台へ行き、二人で夜景を眺めた。

そして、年越しを、二人で過ごす約束をした。


 その後、利知未は、限定解除の免許を予定通り、年内に取得した。

 二十八日。忘年会で、始めてマスターを始めとする、アダムの従業員と酒を飲み、自分が酒に、かなり強かった事を知った。

 マスターと翠も、かなり飲む。二人と、最後まで酒を酌み交わせたのは、従業員の中でも、利知未だけだった。

「利知未ったら、随分強かったのね。流石は、ヤンチャ・クイーン…。」

翠は、二次会まで雪崩込んだ利知未に、感心してしまう。

「お前、もしかして、小学校から飲んでたのか?」

マスターも呆れ顔だ。

「そーでもない。小学校は卒業してた。」

酒を覚えたのは、母の元にいた、ホンの一ヶ月半の間だ。タバコも、そのタイミングだった。

手を出した切掛けは、殆ど、母親に対する反抗心だ。

「どーでもイーだろ。そんな事は。」

「どーでもイイって事も、無いと思うけど…。」

翠も呆れ顔になる。利知未は翠に、肩を竦めて見せた。

「でも、自分が、これだけ飲めるとは、思わなかった。」

「また、問題行動を開花させてしまったな。」

深刻そうでも無い様子で、マスターが言った。



 年末、三十日。倉真は宣言通りに、部屋を抜け出して来た。

「今日は、電車か?」

徒歩で、家を尋ねて来た倉真に、宏治は、珍しそうな顔をする。

「初日の出ツーリング行くって、断られた。」

面白くなさそうに、倉真が言う。初日の出ツーリングとは、言葉にすればたいした事は無いが、恐らく暴走系の走りでは無いかと、宏治は思う。

 いつも倉真が借りてくるバイクは、ナンバープレートが、羽の様に、上に向けて曲げられていた。カラーペイントも、独特だった。

 それが目を引いて、パトカーからも、追われ易かった。

「自分のバイクが、早く欲しいぜ。」

「その前に免許だな。瀬川さんに、この前、言われたよ。」

小さく肩を竦める。

「今、無免で捕まったら、十六になってから、免許取れなくなるってさ。」

「そりゃ、そーだ。…捕まらなけりゃ問題ネーよ。」

「お前、解ってて無茶してたのか?呆れるヤツだな。」

「知らなかったのか?…っつーか、俺が誘ってンのか。」

へっと気楽な笑顔を見せる。宏治は、また少し呆れてしまう。


 倉真の性格も、一年半近くの付合いで、漸く把握してきた。

 肝が据わっていると言うか、やや、いい加減な感じも見えて来た。

 それでも、どうやら、これだと思う事に関しては、粘り強さも持っている様子だ。少し、中学一年から二年頃の、利知未を思い出す。

裕一の死や、その後の、FOX絡みの大事件を超えていなければ、今の利知未も、こんな感じになっていたのかもしれない。

 もう一つ、利知未と倉真の共通点を見るのなら、母や父に対する、頑ななまでの反抗心と、その思いを、頑固に持ち続けている所だろうか?

 けれど、その思いを、他人に愚痴るような事は、殆ど無い。その思いは、話しを聞いた時、その様子を見た周囲の人物が、感じ取るだけだ。


「明後日、何時だ?」

「十時。ウチの学校の、正門前って事になってる。」

「顔、イイのか?その子達。」

「うーん、どうだろうな…。悪い顔じゃ、ないと思うよ。」

「並か。じゃ、性格が良ければ、お前も解らなかったな。」

「性格、ね…。悪い子じゃ無いって位しか、言えないな。」

どっち道、自分自身の顔付きと、懇意にしている利知未の容貌を見慣れている宏治には、かなり高レベルな容姿の持ち主でなければ、外見でその気を引く事は、不可能だろうなと、倉真は思った。

 倉真から見た宏治は、兎に角、信用が置けるヤツだと言う所だろうか。今までの付き合いでは、その温和な外見に似合わず、強い意志を持っている奴だとも思う。

真面目に見えて、ヤンチャ方面にも明るい感覚が面白い。母親や兄貴の性格も、倉真から見て羨ましい存在だ。

『ウチの一美じゃ、話しに成らないからな…。』

 自分にも、宏一のような兄貴がいたら、家での生活も、もう少し楽しいのでは無いかと、思っている。



 利知未は、三十一日から、また泊り掛けで出掛けて行ってしまった。

『十六歳の女の子が、恋人と泊り掛けで出掛けて行くのを、黙って見ていて良い訳は、ないわよね…。』

里沙は、そう思いながらも、その行動を止める事は、出来なかった。

 中学二年の終わり頃から、三年に掛けて、利知未が大変な経験を乗り越えて、成長して来た姿は、身近で見ている。

 どうやら、その心が立ち直って行く過程で、今の恋人の存在が大きく影響していたらしい事は、見て取っている。

 そして利知未は、問題行動も多いが、それが学業に影響しないように、かなりの努力もしている。

『やっぱり、勉強の妨げになる様な行動は控えなさい、とは、どう考えても言えないわね。…どう言ってあげれば、利知未の行動を抑える事が出来るのかしら…?』

 下宿の店子・保護者代理の里沙としては、頭の痛い問題だった。


 利知未は、敬太と過ごしている年越しの、この瞬間。最近、気付き始めた自分の、隠されていた、女としての本能の部分に、戸惑っていた。

『あたしは、コレがないと敬太の想いを信じる事が出来ないのかな…?』

最近、頻繁に、その考えが頭を過る。

 その行為自体に身体が敏感に反応を示すようになって、まだ四ヶ月だ。

 人それぞれ、愛情の感じ方、確かめ方は色々だ。ただ、一緒に過ごす時間の中で、それを感じられる人もいれば、唇を重ねる事で、お互いの想いを強く感じ合える、恋人達もいる。

 利知未は、身体を合わせる行為で、その事を実感できるタイプだった。

 まだ、異性を知ってからは、半年も経っていない。

 敬太は最近、そんな利知未の、女の部分を感じ初めて、驚いている。

『利知未は、もしかしたら…。』

彼女が持つ、女としての魅力に、利知未本人が気付いていないだけだとも思う。だから、その行為を通してのみ、自分が、利知未を女として求めている事を、やっと実感出来る。

…そう言う事なのかもしれない。

『そんな事は、無いんだけどな…。』

 隣で眠る利知未の寝顔を見て、敬太は、そう思った。


 元旦。ホテルのベッドで目覚めた二人は、新年の挨拶を交わす。

「明けまして、おめでとう。」

「今年も、よろしく?」

 こんなシチュエーションでの挨拶に、照れ臭さを感じる。


 朝食に向かった、ホテルのビュッフェでの正月料理を見て、利知未は昔、大叔母の元に預けられていた頃の、お節料理を思い出した。

 雑煮も、関西風と関東風、二種類用意されていた。利知未が、二つの雑煮を少しずつ持って来て、敬太と二人で、東西の味比べをした。

「関西風、白味噌だ。色の割には、薄味なのかな?」

どちらかと言えば、薄味好みの、利知未の味覚を、敬太は始めて知った。

「でも、どっちも美味いね。利知未は、薄味が好きだったんだな。」

「あたしに料理仕込んでくれたのが、大叔母さんだったから。薄味で、お年寄りだから和食が多かったよ。野菜の煮付けとか、絶品だった。」

昔の事を思い出す。利知未が、小学校二年から六年までの約五年間。

利知未達兄弟が、一番幸せに暮していた頃。


「それ、家族の話しだよね?」

敬太が、嬉しそうな笑顔を見せた。利知未は、自分で少し驚いた。

「…そっか。家族の思い出、無い訳じゃなかったんだ…。」

 あの五年間の思い出くらいは、家族の思い出と、言えるのでは無いか?それに気付いた利知未は、思わず笑みを漏らす。

「…ありがとう、敬太。」

「何が?」

「大切な事、教えて貰ったよ。」

 利知未の言葉に、敬太も笑顔で頷いた。



 同じ頃。萩原家では、真澄が、六年振りに我が家で、お正月を迎える事が出来た。本人も家族も、良く気を着けて、真澄の体調を気遣った。

気温の変化も例年より緩やかで、家族の努力も、数年振りに報われた。

 この元旦。我が家の、自室のベッドで、新年を迎える事が出来た真澄は、明るい表情で家族と、新年の挨拶を交わした。



同じ、元日。朝九時半過ぎに、宏治と倉真は連れ立って、城西中学の正門前に向かった。のんびり歩いて、丁度、約束の時間に到着する。

 振袖姿の恵美と美津子が、相変わらず微妙な雰囲気を、その間にかもし出している。それを遠目で見て、倉真が軽く肩を竦めた。

「…何か、恐ろしげな雰囲気じゃねーか。宏治も苦労するな。」

「苦労って言うか、疲れるのは確かだな。」

宏治も少し引き気味だ。それでも自分に、どうやら好意らしい感情を見せる二人の少女に、冷たい態度は取れないでいた。今、特に気になっている相手も、そう言う関係の彼女もいない。

『去年の瀬川さん見たいに恋人でもいれば、話は早いんだろうけどな。』

そう思って、小さな溜息をついた。倉真は少し、ウンザリしたような、同情したような顔をして、宏治を見た。

 仲良さげに宏治と話しながらやって来る、派手な頭をした少年の姿を遠目に見て、恵美と美津子は今のライバル関係も忘れて顔を見合わせる。

「ちょっと、手塚先輩と一緒にいる人、怖そうじゃない。」

「そうだね。…応援団って、やっぱりそっちの人達の集まりって事?」

「そー言う事なのかな…。」

「どうしよう?」

「どうしようって言われても…、」

二人で手を取り合い、ハタと気付く。慌てて手を離し、そっぽを向いた。

「…あーら、恵美ってば怖いの?だったら帰れば?」

ライバル関係を思い出して、嫌味の応酬を始める。

「ミッちゃんこそ、あっちの人の方が、お似合いなんじゃない?」

「何ですって?!」「何よ!?」

同時に言って睨み合い、舌を出し合った所に、宏治と倉真が近付いた。

 その二人の表情に、敢えて突っ込む事はしないで、宏治が声を掛けた。

「悪いな、待たせたか?明けましておめでとう。」

「おめでとうございます!」

二人は慌てて睨み合っていた視線を外し、挨拶を返す。宏治の少し斜め後ろから、倉真は二人を観察した。

「ダチが遊びに来たンだ。一緒でも構わないか?」

斜め後ろから二人の事を検分している倉真を、後ろ手に親指で指す。

「…えっと、」

「あの…。」

その容姿に、恐ろしげな目を向けて、恵美と美津子が言い淀む。

「噛み付きゃしネーよ…。」

倉真は呟いて、ポケットからタバコを取り出して、咥えた。

「中学校の正門前で、それはマズイだろ?」

咥えタバコに火を着け一吸いする倉真に、宏治は少し呆れて言う。恵美と美津子はその様子にかなりビビる。倉真はニヤリとして、挨拶をした。

「構わネーよな?コレで丁度2対2だ。…俺は倉真。お前等は?」

問われて益々、小さくなった。

『こんなモンか。ま、宏治の相手にゃ、なれネーだろうな。』

煙を吐き出しながら、小さく鼻で笑った。一応少し、可哀想な気もした。

「…私は、大場美津子です…。初めまして…。」

ロングヘアをアップに纏めた、赤い柄の振袖姿の少女が、意を決した様に挨拶を返す。負けまいと、頑張っているようだ。しかし、その態度はビクビクしたままだ。それでも、その努力を、倉真は買った。

「おお、よろしくな。」

いくらか優しい笑顔を見せた。その様子に宏治も小さく笑う。その笑顔を見て、恵美もライバルに負けまいと頑張る。

「さ、沢田、恵美です…。初めまして。」

一瞬、裏返ったような声を出すが、更に頑張って、やや引き攣った笑顔を作る。倉真は、恵美の努力も買ってやる事にした。

「おお。…行くか?」

恵美にも少し、優しい笑顔を見せて、宏治に振る。

「…で、何処行くんだ?」

歩き出し掛けて立ち止まる。宏治はまた少し呆れた顔で笑ってしまう。

「初詣だよ。近くの神社。」

「そーいや、ソー言ってたな。」

赤毛モヒカンで、怖い感じの少年の、何となく惚けた雰囲気を見て、恵美と美津子は、やっと少しだけ緊張が解れた。

 倉真の存在は、宏治にとって有り難かった。

 どうしても、少し遠巻きに倉真に接する二人は今日、自然と言葉を交し合っている。お蔭で、二人の飛び散る火花の真ん中に立たされる事だけは、免れた。自分は、倉真と呑気に話していれば、問題無かった。

「ナシ、着けるまでも、無さそーだな。」

晴れ着姿の二人の、やや後ろを歩きながら、倉真が小さく言った。

「今日の様子が、続くなら。」

そう倉真に答えて、最近の、電話での様子を思い出す。

 二人からの電話が余り得意でない理由の一つは、何でもない話をしながら、お互いの足を引っ張り合う様な言葉が、チラホラと聞こえる所だ。

最近は、お互いに対して、持っている不満を愚痴る事もシバシバだった。

相談する振りをして、そんな事を言われても、どう答えて良いのか、見当も着かない。…女同士の友情って何なんだ…?益々、解らなくなる。

「性格が、物凄く悪いって訳じゃ、無いとは思うんだけどな。」

何となく、やり様が無くて、宏治は自分のタバコをポケットから出した。

「宏治もついに、自分で持ち歩くようになったか。」

タバコを咥えた宏治を見て、倉真が、宏一のような事を言う。ニヤリとしながら、自分もタバコを出した。二人で一吸いして、同時に煙を吐く。

「手塚先輩、やっぱり!?」

「応援団って、やっぱり、そう言う人達の集まり何ですか?」

宏治が指に挟んでいる、火の着いたタバコに注目して、恵美と美津子が目を丸くする。宏治が、そこまでのヤンチャ者だとは、意外だと思う。

「そう言うヒト、ね…。」

倉真が、タバコを咥えた口の端から、煙を漏らしながら呟いた。

「こっちの奴ばかりじゃ無いけどな。佐々木みたいな奴も半分はいる。」

宏治が少し、肩を竦める。別に特別な事でも無いと、態度で言っている。

『やっぱり、世界が違うのかな…?』

恵美は心の中で呟いた。それでも、やっぱり格好イイと思ってしまう。

 悪っぽい先輩に、憧れ易い年頃だ。少女漫画の読み過ぎかもしれない。

『あたしは、やっぱり恵美には負けたく無い。』

美津子はそう思って、もう少し積極的に行こうと、計画を練り直した。


 その日、宏治は学業成就のお守りを、二つも持って帰宅した。

「…女って、怖いかも知れネー…。」

夕食の時間、手塚一家と食卓を共に囲んでいた倉真の呟きに、美由紀は意味深げな笑みを見せた。



 直ぐに三学期が始まった。中間テスト・実力テスト・学期末テストの、テスト三昧の日々に突入だ。宏治と倉真には、ソコに受験まで加わる。

 宏治の周りでは、恵美と美津子の恋愛バトルが変らず展開されている。

流石に、受験勉強の邪魔になっては、マイナスだと思ったらしく、電話でのアタック作戦は、一時的に収まっていた。


 和泉は、自宅の近所にある、機械部品を制作している小さな工場への就職が、直ぐに決まった。有限会社ではあるが、業績は安定している。成績も、素行も悪くなかったのだから、当たり前かもしれない。


 真澄は可哀想にも正月明け、新学期が始まると同時頃、急に冷え込んでしまった気温の影響で、再び体調を崩し、病院に逆戻りしてしまった。

この入院は、三月中旬まで続いてしまった。丸々三学期間、欠席だ。

 来年、もう一度、中学二年を、やり直さなければならなくなった。

           六


 利知未は勉強とバンド活動、アルバイトに忙しくしながらも、今まで以上に、敬太との時間を大切にした。お蔭で朝帰りの日も益々、増えている。里沙の心配は、そろそろ天まで届いてしまいそうだ。

 敬太が参加するドラム・オーデションは、目前に迫っている。


 利知未と敬太は最近、良く、これから先の事を話すようになっていた。

 敬太の前での利知未は、益々、女っぽくなっている。普段は変らず、男っぽい言動のままだ。

『この姿は、他の奴には、見せられないな…。』

自分の雰囲気の、余りの差に、利知未自身、戸惑っている。

『…けど、どっちが本当の、あたしなんだろう…?』

どちらも、無理をしているつもりは無い。最近、唯一、無理を感じる瞬間は、セガワとして、ステージに立っている時だけだ。


 今も、隣には敬太がいる。こうして朝まで寄り添う様に過ごすのも、今年に入って、もう四回目だ。

 大晦日から、元旦の朝。一月四日、敬太の誕生日。一月最後の土曜から、二月一日の日曜日の朝。そして今。バレンタインデーの夜。

 翌日は、日曜日だ。また十一時から、アダムへバイトに行く。



 これより、二週間前。一月最後の、土日。利知未は、敬太の元へと、バイクを走らせていた。

あの夜、敬太と一緒にいたい気持ちが、どうしようもなく溢れてきた。

利知未が、約束も無く、敬太に会いに言ったのは、あの時、一度だけだった。

 自宅近くの公衆電話から、彼の部屋へ、直通のナンバーを押した。

何度目かの呼び出し音の後、敬太の声が、受話器から聞こえた。

「はい、北崎です。…もしもし?」

利知未の心臓が、ビクンと震える。

「…敬太…?あたし…、」

「利知未?どうしたの。こんな時間に。」

バイト終、直ぐに向かって来たが、恐らく、既に十時半は回っていた。

 自分の心臓が、ドキドキと、鼓動を早めるのを、利知未は感じる。

敬太の自宅は、住所だけを便りにして来た。初めてこんな近くまで、訪れたのだ。少し躊躇ってから、利知未は言った。

「…今、近くにいるんだよ。…多分、あそこが、敬太の部屋かな…?…カーテン越しに、影が見える。」

少し先にある、少々豪華な、二階建て家屋。恐らく、そこが敬太の自宅だと判断した。利知未は、受話器を持ったまま、二階の窓を振り仰ぐ。

「本当に?」

敬太が、驚いた声を出す。カーテンを開いて、窓を開いた。外は勿論、真っ暗だった。街燈の明かりに、利知未のバイクが光っている。

利知未からは、シルエットの敬太が見えた。

「あれ、カナ…?バイクで来たの…?」

「…うん。」

「待ってて。直ぐ行くよ。」

敬太は慌てて電話を切り、窓とカーテンを閉め直した。取り敢えず、コートを持って、急いで部屋を出る。

利知未の目には、敬太の部屋の明かりが消えた事が、確認できた。

『あたし、また無茶しちゃったみたいだ…。敬太、ごめん。…ありがとう。』

 受話器を静かにフックへ戻し、利知未は電話ボックスの硝子へ、背中を預ける。外にいるよりは、少しは寒さも凌げる。

 少し、ぼうっとしていた。五分程待っていると、敬太が角を曲がって、利知未の前に姿を表した。

「利知未!」

声を掛けられ、ボックスのドアを押し開けた。外に出ると、敬太の顔を見て、利知未は小さな声で言った。

「…どうしても、会いたくなって…。バイクで、来ちゃったよ…。」

今更の様に、自分の衝動的な行動が、恥かしくなった。利知未は恥かしさを誤魔化す様に、小さく笑った。

 敬太が近寄り、利知未を、優しく抱き締めた。

 今は、一月の終りだ。外は、まだまだ寒い。すっかり冷えてしまった利知未の身体を、敬太が温めてくれた。

 暫く、そうして抱き合っていた。利知未の腕も、敬太の背中に回る。

「…また、無茶したモンだな…。」

利知未の耳元で、敬太が囁く様に言う。そして、少し顔を離してから、困ったような笑顔を見せた。

 本音では、嬉しい。こんな無茶をして、自分に会いに来てくれた恋人を、心から愛しく思う。

「…ごめん。…もう、平気。敬太の顔見たら、ホッとしたよ。」

これ以上、迷惑は掛けられない。そう思い、素直に帰ろうとした。離れようとした利知未の肩を、敬太が、確りと押えた。

「…部屋、おいでよ。」

「…でも、敬太の家族に悪いよ。こんな夜中に、上がり込んだら。」

「平気だよ。良く、大学の友達もやってるから。」

安心させるつもりで言って、慌てて付け足した。

「勿論、男友達だよ?」

変な誤解を、させてしまうと、思ったのかも知れない。慌てた様子に、利知未は小さく笑う。

「…じゃ、セガワで行こうか?」

冗談めかして、そう言った。敬太も、少し笑った。

「利知未が、その方がイイなら。」

「…でも、バイクがあるし。」

「ガレージに入れちゃおう。余裕はあるから。」

「イイのかな?」

「大丈夫。…これ、どうなってるんだ?」

敬太が自ら、バイクに手を掛ける。足元が暗く、スタンドの位置が良く解らない様子だった。利知未が手を伸ばし、バイクを支える。

「自分で、やるよ。」

「…情けないな。何も解らないよ…。」

敬太は、眉尻を下げて、本当に情けなさそうな顔をする。

「興味無ければ、解らなくて当然。全然、情けない事なんか無いよ。」

利知未は小さく笑って、バイクのスタンドを払った。

「重そうだな。そんな力持ちには、見えないンだけどね。」

バイクを押し始めた利知未の姿を見て、敬太は感心した。

「これは400だから、まだ軽いよ。その内、大型にするつもりだけど。」

教習所で引回した時の、750の重さを思い出した。


 話しながら、2、3分ほど歩くと、敬太の自宅へ到着した。

敬太は先に立ち、ガレージのシャッターを開けた。開かれたガレージの中を見て、利知未は驚いてしまう。自家用車が、三台もある。

その上で、まだ余裕のある広さだ。

「うわ、凄いな…。もう1台くらい、入りそうだ。」

「父が昔、車道楽だったらしいよ。今は、両親の車とオレのワゴンだけ。」

それでも、凄いと思う。本当に敬太は、お坊ちゃんだったのだと感じた。

『…敬太の優しさって、両親の、余裕の生活が、培った物なのかも知れない…。』

利知未はつい、そんな事を考えてしまった。

 玄関も、家の中も広い。下宿並だ。これが、一家三人の生活空間だ。利知未は益々、自信を無くす思いだ。敬太は、敏感に感じる。

「そのまま、オレの部屋に行こう。」

余計な心配をさせ無い様に、気遣って、そう言った。確かに、この一家の家族と対面するのは気が引けると、利知未は思う。敬太に指を指されるままに、階段へと足を掛けた時、女性の声がした。

「敬太さん?鍵、閉めてくださいね。」

「解った。父さんは?」

その声に、利知未が少し振り向く。敬太はウィンクをして、先に上がるようにと、無言で促す。

「今日は、戻らないらしいわ。明日、川合さんに言って、着替えを届けてもらわないと…。」

最後の言葉は、呟く様だ。軽い溜息らしい、息遣いも聞こえた。利知未は、どうやら、お手伝いさんがいる家庭らしいと、驚いてしまう。

「日曜まで仕事か。父さんも大変だ。」

敬太は、肩を竦めた。利知未は、益々、自信喪失の気分だ。

まさか、敬太が、これ程のお坊ちゃんだとは、思いもしなかった。

『…本当に、会えなくなったら、続かないかも知れないな…。』

 自分自身の境遇を思い、嫌な予感が、頭を掠めた。


 敬太の部屋で、二人きりになり向き合うと、利知未は漸く、少しだけ落ち着くことが出来た。

 敬太の部屋は、九帖くらいの洋室で、綺麗にセンス良く、纏められていた。ドラムも置いてあった。普段、ライブの時に叩いているのとは、また違う物だ。…ドラムセットだって、安い物では無い筈だ。

 益々、自分との差を、感じてしまう。

「叩き始めてから、建て替えしたから、広くして貰ったんだ。防音も、して貰ってあるよ。だから、文化祭の即席バンドは、ここで練習してた。」

「そうなんだ。」

 それしか、言葉が出なかった。利知未は気分を切り替えて、好奇心に任せて、敬太に、お願いをしてみた。

「あたしも、ちょっと叩いて見てイイ?」

敬太は頷いて、初心者用のリズムを、利知未に教えてくれた。

 バスドラムのペダルを合わせ直しながら、敬太が感心して言った。

「利知未、やっぱり足、長いんだな。オレと5センチは身長違うよね?」

「…そうなのかな?自分じゃ判断つかない。トップシンバル、ちょっと遠いな…。」

椅子の位置をずらして、それからやっと、少しだけ叩かせてもらった。敬太が思い付いて、キーボードを用意する。少し指鳴らしをして、簡単な音楽を演奏した。

 二人で一曲、演奏をして、利知未が言う。

「敬太、キーボードも出来たんだ…。」

「小さい頃は、ピアノ、習わされていたんだよ。それでも、十年くらいは、やっていたかな?」

利知未は益々、びっくりだ。自分とは、本当に世界が違う気がしてしまった。…徐々に、心の中の不安が、膨らみ始めていた。

「利知未は、何やっても器用にこなすな…。驚いた。」

利知未のリズム感の良さに、敬太は反対に、驚いていた。利知未は、照れ臭い。

「簡単なヤツなんだよね?敬太の教え方が、上手なんだよ、きっと。」

「リズム感の問題だよ。流石、我FOXのリードボーカルだね。」

ニコリとされて、また照れてしまった。

 ドラムセットから離れ、敬太がオーディションを受けるバンドの音楽を掛けた。二人はベッドの端に腰掛けて、寄り添う様にして話し始めた。

「結構、イイ音だよね。…敬太、本当に、ここのドラムになるのかな…?」

「まだ、判らないけどね。でも、やるからには狙うよ。」

「そうだね。…うん、頑張って。」

「ありがとう。」

頷き交わす。…利知未は、また不安に襲われてしまう。

…益々、敬太が離れてしまいそうだ…。

「利知未、どうしたンだ?」

 少し、俯いてしまった利知未を見て、敬太が聞いた。

「…受かったら、忙しくなるよね。」

「…そうだね。」

「…あたしの事、忘れちゃうかも…。」

「そんな事、無いよ。毎日でも、連絡する。」

「無理、しないで…。」

少し暗くなった雰囲気を、敬太は笑顔で、明るくしようとする。

「気が早いよ。結果処か、まだオーディションだって受ける前だ。まだ一月半もある。」

「…そうだけど…。」

…確かな絆を、感じたい…。利知未の心は、敬太を求める。


敬太の手は、利知未の肩に回っていた。

顔をそっと覗き込んで、その唇を求めた。敬太は応えた。そのまま、利知未から腕を、敬太の背と、首筋に回す。…徐々に、力を込める。

敬太の腕も、利知未の背中に、回された。


 利知未は、思う。…恥かしいけれど…。

『また、自分から、誘ってしまうよ…。…いい加減、呆れられちゃってるかな…?』

 けれど、その不安よりも、これから先の不安の方が、大きかった。

始めて敬太の家を訪れた事で、利知未は二人の距離を、また、感じてしまった。…不安は、膨れるばかりだった…。

 敬太は、気付いている。

 利知未が、自分の夢を応援してくれている、その心の裏で、強い不安に、捕われている事を…。

 何かを堪え、我慢をしている利知未の姿は、敬太が初めに、利知未を少女として意識し始めた、その姿だ。

…あれから、そろそろ二年経つ。

 あの頃から、敬太は利知未が隠し続けている華奢な心を、自分が守りたいと、思ってきた。…今も、その想いは変わらない。


 二人が始めて結ばれた夜。それから何度目かの利知未の変化。そして、求め合う数が増え始め、今に繋がる。利知未はその度毎に綺麗になった。

 その、激しいくらいの、想いの裏側にある、利知未の、心の真実。

 それに気がつき始めた時、また更に、彼女の心を守りたいと言う思いが強まった。…彼女の不安を取り除く為なら、その衝動的な行動も全て、包み込んでしまいたいと思う。受け止めて行こうと思った。

 そして、この日。二人はまた、一夜を共に過ごした。


利知未の身体は、益々、敏感になっていた。

『こう言う事って、すればするほど、敏感になって、しまうモノなのかな…?』

 少し、恥かしい。…けれど。

利知未は益々、積極的に、敬太を求める…。


何時もより、深く、強く抱き合いながら、利知未は、言い様ない不安に、包まれてしまう。

『こんなに、深く繋がっているのに…。』

 …それでも、彼との距離が、今までよりも、遠い…。

『…これは、心の問題。あたしが、彼を遠く感じてしまっているから…。』

 抱かれながら頬に伝う涙に、利知未自信は、気付かない。

『…これは、きっと、汗だから…。』

「…どうして、泣いているの…?」

抱き合ったまま、敬太が体を起こして、利知未の頬に、キスをする。

「…、あたし…、泣いてる…?」

「…涙…。」

もう片方の頬にも、キスをした。

…利知未は、更に激しく、敬太を求めた…。


 身体が離れた後、利知未が呟いた。

「…どうして…。」『遠いの…?』

…こんなに、ピッタリと、寄り添っているのに…。

 隣の敬太に、片腕を絡めて。片手は、彼の胸の上に。

「何が、悲しいの…?」

利知未の耳元で、敬太の優しい声が囁く。

「…オレを、信じて…。」

…信じたい。その心も。敬太の暖かさも、優しさも…。

 それでも、会えなくなったら、やはり、…無理かも知れない…。

「…不思議…。こんなに近くに、居るのに……。」

敬太に絡めた腕に、利知未は、力を込める。

「どうしたら、利知未の不安は、無くなるの…?」

小さく首を振って、利知未が答えた。

「あたしも、解らない…。」

「…もっと、二人の時間を作ろう?」

「…うん…。」

頷く。…それしか、無いのかもしれない……。


 翌朝。まだ朝靄が消える前に、利知未は、敬太の部屋を出た。


 下宿では、また里沙の、心配そうな顔が出迎えた。

「信じているって、言ったけど。心配は、やっぱり消えないものね…。」

小さく息を付く里沙に、利知未は頭を下げた。

「…ごめん。…でも、今は、…これから暫くは、見逃して。」

敬太の前での雰囲気が、消え切っていなかった。里沙は、少しだけ驚く。

「…仕方ないわね…。今の貴女から、恋人との時間を奪ったら、一生、恨まれてしまいそうよ?」

「…そんな感じに、見えるんだ…。」

「ええ。…けど、そんな経験も大切なのかしら。私にも、貴女にも…。」

二人は、リビングのソファで話していた。肘掛に片肘を突いた姿勢で、顎を乗せて、里沙は、小さな溜息を一つ。

『…里沙のこんな仕草を見た事あるの、きっと、あたしくらいだ…。』

「バイト、行くんでしょう?シャワー浴びて、スッキリしてきなさい。」

顔を上げて、里沙が言った。

「…そうするよ。」

利知未は小さく答えて、リビングを出かけて、振り向いた。

「里沙、…本当に、ごめん。」

「その気持ちがあるなら、まだ大丈夫かしら…?」

里沙は、そう言って、少し疲れた笑顔を見せた。


 シャワーを浴びて、軽い朝食を取り、本の1時間くらいの仮眠を取ってから、利知未はバイトに向かった。少し寝不足なのは、自業自得だ。


 学校行事では、実力テストが迫っている。こちらも、頑張らなければならない。

里沙の心配の一つは、恐らく、その事だと思う。これ以上、心配をかけ無い様に、利知未は改めて、気持ちを引き締めた。

         七


 宏治の中学生活も、そろそろ、終わろうとしている。

 小学校六年生で、初めて利知未と会った頃から、この中学時代を経て、宏治は随分と、男っぽく成長してきた。

 その姿に憧れる下級生の女子が、噂を囁き合うようになって、約半年。積極的に近付いてくる様になって、約三ヶ月。

 無事、東城高校の入試を終え、合格連絡が届いた頃。

倉真からも、都内の高校入試結果の、喜ばしい報告が届いた。


宏治に連れられ、初めて利知未のバイト先、アダムに、倉真が現れた。

「久し振りに、ライブ行きたいンすけど?」

 今日は三月十五日、日曜日。昨夜また、外泊先から、バイトに直行してきた利知未の雰囲気に、倉真は少しだけ、微妙な変化を感じた。

「そうだな。…今の所、来週のチケットならまだ残ってるな。」

始めて、バッカスで、セガワの正体を知った夜より、何となく綺麗な容姿に、磨きが掛かっているようだ。

 利知未は前日、敬太との、ホワイトデー・デートだった。当然の様に、外泊コースだ。まだ少々、疲れが取れていない。


 倉真が利知未に会ったのは、約五ヵ月振りだ。去年の十月末頃から、受験が終わった、この三月まで、倉真は殆ど、自室に監禁されていた。

 年末に抜け出して、三箇日過ぎまで、宏治の家に転がり込んではいたが、その間、利知未と会う事は、無かった。

 そして、再び自宅に戻ると、今まで以上に厳しい妹の、監視の目が、待ち構えていた…。今度は、お年玉を奮発されたらしかった。


 利知未は、敬太に対してまた、新たに強い想いが募った五ヶ月だ。

 普段の雰囲気にも、その影響は現れる。偶には会う事があった宏治や和泉、準一には、その変化は少しずつの事で、自然に流れてきている。


「二十七日分か。丁度イイっす。春休みだし。」

「お前は休み、関係無いだろ?」

最近、本数が増えてしまった、タバコの煙を軽く吐いて、宏治が言う。

「そりゃ、ソーだな。」

倉真も宏治と同じ様に、煙を吐き出しながら言った。

「何にしても、高校合格おめでとう。倉真は大変だったんじゃないか?」

利知未が、セガワチックな笑顔を見せる。その笑顔も優しくなっていた。

「ストレスで、気が変になりそうだったぜ。」

それでも、利知未としての素顔を、余り見た事の無い倉真は、その雰囲気の差を、素直に受け入れた。口角を微妙な角度に下げて、ウンザリした顔を見せた。その表情を見て、利知未と宏治は、面白そうに笑った。



 恵美達は、焦っていた。憧れの手塚先輩の卒業が、間近に迫っている。

 バレンタインデーには頑張って、手作りチョコを渡した。ライバルの美津子は、手作りチョコケーキを渡したらしい。ソコで差をつけられたと思った。そして、本当に沢山のライバルがいた事を、実感した。

 宏治はホワイトデー、美由紀に無理矢理、お返しを持たされた。

「こう言う物は、女の子の真心が込められているんだから、いい加減にしたら、呪われるわよ。」

そう言って、母に脅され、チョコをくれた子全員に、全く差の無い品物を渡した。本命チョコにも、義理チョコにも、お返しは同じだ。

『やっぱり、噂の先輩が、恋人なの…?』

今は美津子も、今年度の団部内に流れていた噂を、耳にしていた。

『でも、だったら初詣、予定が空いていた訳無いよね?』

そう思うが、その噂の恋人が、宏治の受験勉強を気にして態々、その日、誘わなかった事も、考えられる。

『お返しは、皆に同じだった見たいだし…、』

『…全く、可能性が無いって言う事だって、無いよね…?』

それぞれ、勝手に解釈をして、納得しようと努力していた。



 三月二十日、春分の日には、敬太の挑むオーデションが、行われる。

 その日は、FOXのライブ日でもある、金曜日だ。

 その二日前は宏治・倉真・和泉、それぞれの中学の卒業式でもあった。

 身近な人達が慌しい動きを見せる、その一週間。利知未は自分の事でもないのに、何となく落着かない気分を味わった。



 宏治は、毎年の卒業生と同じ様に、その日は、午後からの登校だ。

 宏治にとっての中学生活は、身近な存在だった利知未の影響を、多く受けた三年間だった。

 一年の頃は、夏頃に、喧嘩稽古をつけて貰った。応援団部に籍を置く事になったのも、利知未の一言が、あったからである。

 その冬、兄との死別の悲しみを超えようと頑張る、利知未の姿を見た。心に残る姿だった。その数ヶ月後、また襲ってきた苦しみを抜けて、夏過ぎには、少女として成長して来た利知未も、見ている。

 同時に、その頃。セガワとしての、利知未の姿を始めて見て、その男っぽさに、舌を巻くような思いがした事も、印象深い。

 その姿と、学校での利知未の姿の差を感じ、自分自身、もっと男らしくならなければと感じた。

 可笑しな話しではあるが、男らしさの理想の姿を、女の利知未に教えて貰ったと思う。利知未の卒業後も、その影響は大きかった。

 二人の関係を、勝手に噂されていた事で、その場にいない利知未の存在が、いつも宏治の隣に、影の様に付いてきてもいた。

 倉真や和泉、準一が絡んだ事件も、その大元は、利知未だ。

『これも、振り回されていたって事に、なるのかな…?』

そう思うが、利知未に煩わしさを感じる事は無い。何よりも、彼女からは受けた恩の方が大きい。そして彼女の生きて行く姿勢は、今も宏治にとって、一つの師表でもある。

『結局、彼女を追い越す事は、出来ないかもしれないな…。』

身長も、生き方も。男らしさも、その強さも。


 東都荒川中学では、校長が頬を腫らして卒業式の壇上に立った。

 倉真と同学年、今年の卒業生の一部が、何を恨みに思っていたのか、式の前日、お礼参りと称して、校長室に撲り込んだ事件は、当日の朝が来る前には、全校生徒が知る事件だった。

 その生徒たちは、卒業式への出席を、禁止された。

『カッタリーな…。俺も昨日、参加すりゃ良かったぜ。』

そうしていれば今、この長々しい面倒な式典に参加する必要も無かった。

 退屈な来賓挨拶には耳を塞いで、気晴らしに、違う事を考える。

『宏治も、今日は卒業式だよな。…あの女の後輩、宏治に纏わりつくんじゃネーか?苦労すンだろーな。』

 欠伸が出る。もっと他に、考える事は、何か無いだろうか…?

『…そういや、瀬川さん。…始めて正体、知った時より、随分、雰囲気変わってたな…。女って、そう言うモノなのか?…ってことは、一美もあれくらいの歳になったら、変わるのか…?ソーゾー出来ネーな…。』

ウトウトする。和泉の顔が浮かぶ。

『あのボーズ頭、結局、ケリ着けずに終わってンな…。アイツも、卒業か…。その内、ケリ着けるチャンス、あっかな…。』

舟を漕ぐ。父兄席から母親が、息子の姿を呆れ顔で眺めていた。


 川上中学でも、和泉が卒業証書を受け取っていた。

 つい二日ほど前、真澄は退院して来ていた。

 出掛けてくる時、兄の卒業式での晴れ姿を見たいと言って、駄々を捏ねる真澄を諭し、登校して来た。

式の行われる体育館は、寒い。無理をしては、また病院に逆戻りだ。

 変りに準一が、真澄からカメラを、託されて来ていた。


 卒業式終了後、謝恩会が始まる前に、準一に正門の立て看板の前まで、引っ張って行かれた。『県立川上中学卒業証書授与式』の看板横で、卒業証書が入っている黒い筒を持った和泉が、ファインダーに収まった。



 城西中学でも、同じタイミングで、宏治が下級生の女子、七人程に、囲まれている。恵美と美津子も、その中にいる。

 写真を一緒に撮って貰おうと、順番待ちをしていた。

「結局、引き分けみたいね…。」

「そうみたいだね…。やっぱり、噂の恋人…?」

「そうなのかな…?」

顔を見合わせる。二人はそれぞれ、式が始まる前、宏治に告白していた。

 美津子は、登校してきた宏治を、正門近くで待ち構えた。恵美は最後のホームルームが始まる前に、宏治の教室へ、足を運んだ。

 二人共、同じ事を言われた。

「ありがとう。けど、悪い。」

何故かと言う理由は言われなかったし、聞く事も出来なかった。

「手塚先輩、面食いなのかな?」

恵美の顔を見て、美津子が言う。言葉の意味を理解して、恵美が膨れる。

「なーによ?そんなこと言ったら、ミッちゃんだって…!」

「あはは、ごめん。…でも、噂の先輩って、凄く綺麗な人だったよね。」

「…そうだったね。…スタイルも良かったかも。」

噂の先輩が、体育祭で活躍していた姿を、朧げに思い出した。二人は揃って、小さな溜息をついた。


 謝恩会が終わり、今年も団部の祝賀会だ。

 後輩に例年通りの言葉で迎えられ、宏治もやっと自分が卒業する事を実感する。制服のボタンは全て、無くなっていた。校章まで無い。

「寒そうな格好だな。」

この一年、共に団員を纏めてきた結城一彦が、少し呆れ顔だ。

「お前も、確り無くなってる所が、あるじゃないか?」

小さく笑う。結城の学ランは、第二ボタンが無くなっている。

「…まぁ、何だ…。」

照れたような顔をして、小声で聞かれた。

「お前、本当に瀬川さんと、付き合ってたのか…?」

この一年、その噂を聞く度に、気にはなっていた。本音を言うと、結城自身、彼女には、憧れていた部分がある。

「…親も、公認だよ。」

驚いた顔をする結城を見て、宏治は吹き出した。

「姉貴としてな。」

「なんだ、そりゃ?!」

「噂とは、少し違うな。でも、ある意味、深い付き合いだよ。」

小さく笑い続ける宏治を見て、結城も釣られてしまう。

「…ソー言う事か。」

軽く吹き出して、二人で笑い出した。酒も入っている。

「おい、結城さんと手塚さん、笑い上戸なのか!?」

笑い続ける二人を見て、後輩が言った。



 利知未は、二十日。アダムでバイトをしながら、落着かない気分だ。

『敬太、上手くやってるのかな…?』

ランチタイムだ。それでも祝日で、平日ほどの騒がしさは無い。仕事の一瞬の隙に利知未は、今、オーディションの只中にいる敬太の事を気にしていた。利知未らしく無い、小さなミスを犯してしまう。

「…お前、今日はやけに落着かないな。」

手を滑らせて、グラスを割ってしまった利知未に、マスターが言った。

「済みません。弁償します。」

バイト中は、マスターに対しても敬語だ。

「そんな事は構わンが、…ランチタイム終ったら、早上がりするか?」

最近の利知未を見ていて、何となく、男の気配は感じていた。

 利知未は素直に、マスターの言葉に甘えた。

『このまま行けば、普段も少しは、女らしくなるか?』

ランチタイムが終り、急いで着替えて、店を出る利知未の後姿を横目で見送り、少し、面白そうな顔をした。


 利知未はバイクで、都内のオーディション会場に向かった。


 会場となっている建物の駐車場に、敬太の車を見付けた。少し考えて、隣のスペースにバイクを止めて、ビル内に入る。

 一階のロビーで、紙コップのジュースの自販を見つけ、珈琲を買って、ソファに座る。落着かない。イライラと爪を噛んだ。

『タバコ、持ってくれば良かった…。』

敬太の前では吸わない。けれど、今、待っている時間は欲しかった。

 ビルの出入りは、この一階インフォメーションで、仮の証明書を受け取らなければ、奥に進め無い様になっていた。

 つまり、その証明書を返しに、もう一度、ビルを出る前に、ここへ寄らなければ成らない筈だ。敬太の車の近くで待っていても良かったが、今は三月。流石に、地下駐車場は肌寒い。


 一時間半も、そうして待っていた。受付嬢は、偶に、利知未の姿を、チラリと目に入れる。何か問題行動を起こされたら、大変だ。

 時計を見る。十七時半。ライブまで、後一時間半。

『敬太、遅いな…。』

上手く行っていて、二次・三次まで残っているのかとも、思う。大体何人くらいが受けているのかも、解らない。

 受付から、内線で確かめて貰えないだろうかと思い、立ち上がる。

 インフォメーションに向かって歩き、受付嬢と目が合った時、声。

「利知未!」

それは、驚いた敬太の声。振り向いて、その姿を見て、お互い駆け寄る。

「敬太!」

流石に飛び付いて抱き合う事は出来なかった。受付嬢が驚いている。

「どうしたンだ?」

「気になって、仕事が手に着かなかった。…マスターに、暇出されちゃったよ。」

小さく舌を出して笑う利知未の顔を見て、敬太の頬もほころんだ。

「どうだったの?上手く行った?」

「結果は、来月の頭くらいに出るって。」

「そっか。…それまで、まだFOXで、叩いてくれるんだよね?」

「勿論。…それから先の事は、また話そう。今日のライブに遅れちまう。」

笑顔を交し合う。敬太は証明書を受付に返しに行く。

 待っていた利知未の元へ戻り、腕を絡め合い、地下駐車場へ向かった。


「利知未。ギター、車に積んで行ってあげるよ。」

バイクの横に立つ利知未に、手を差し出す。

「サンキュ。…失敗したな。今日ライブの後、一緒にいたかったのに。」

小さな溜息をついた。大切な筈のバイクが、邪魔になってしまう。

「そうだね。オレも、一緒に過ごしたかった。」

情けない笑顔を交わす。

「その代わり明日、会えるかな?」

「学校は?」

「終業式は、サボっても構わないよ。」

いたずらっぽい笑顔だ。敬太もつい、釣られる。

「そうかもね。…そうしよう。」

頷いて、バイクに跨った。敬太の車と前後して、駐車場を出た。


 翌日、利知未は一応、式着の制服姿で、学校に向かった。電車を使う。終業式が始まる前のホームルームで、通知表だけ受け取った。

 講堂に向かわず、正門に向かおうとする利知未に、透子が声を掛けた。

「サボり?アタシもサボろうかな。」

「残念。デートの予定があるんだ。透子には、付き合えないよ。」

何時もより、女っぽい笑顔を見せる利知未に、透子は、少し驚く。

「利知未に男が居るんだもんな。この世も末だ。」

「なんだよ、その言い草。透子も、モテてんじゃないか。」

今年の卒業生と付き合っているのは、知っていた。

「そっか、あいつ、呼出せばイイんだ。利知未、約束何時?」

「…もう、車来てるよ。」

「丁度イイから、紹介してよ?」

「マジかよ?」

面食らう利知未の背を押して、正門に向かった。


 それから近くの喫茶店に入り、透子の彼氏が来るまで三人で過ごした。 敬太の前で何時もより女らしい利知未を見て、透子はニヤニヤしていた。


 翌週のライブには、倉真と宏治が現れた。

 二人共、久し振りに見たセガワの姿に、何か、今までと微妙に違う雰囲気を感じた。

「…そろそろ、FOXのセガワも、見納めかもな…。」

倉真の呟きに、宏治も黙って、頷いた。


 セガワの醸し出すセクシーな雰囲気に、また別のタイプのファンが、着いていた。今までの少女ファンに比べて、いくらか年上の女性達だ。

 過激な誘いも、受けるようになってきた。その意味は、今の利知未には、良く解る。だからこそ、その誘いをかわすのも中々、重労働だ。

『けど。後、少しだ…。最終ライブ、リーダーと相談しないとな…。』

思いながら、ファンと言葉を交わす。最近は下ネタっぽい話題も多い。

『解らない事じゃないから、話しは合わせられるけど…。疲れる…。』

小さく溜息を付いたその様子に、大人の女性ファンは、また惹かれた。


 敬太のオーディションの結果が出るまで、まだ少し時間がある。


 リーダーや拓、アキは、そろそろ利知未の感じている限界にも、気付き始めている。リーダーは、次はどの音楽に挑戦するか、思案中だ。

 アキは、ロック時代が終る時、同時に自分も、止めるつもりだ。

 拓は、そろそろハードロックも、試して見たいと思っている。

 そして敬太は、後悔の無い様に、ラストスパートを掛け始めている。



 三月最終週。下宿には、また新たな入居者がやって来た。

 中々、明るく気立てのイイ子で、里沙の従兄弟だった。双子とどうやら、気が合いそうだ。これから益々、騒がしくなる事だろう。


利知未シリーズ高校編、二章にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。<(__)>

改めて、三章より先もUPし直します。

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