プロローグ〜一章 初めまして、これからよろしく
利知未と倉真の結婚までの長いお話し、高校編のスタートです。この作品の本編中は、90年代の前半ごろが、時代背景となっております。
利知未は初めての恋人を得て、半年。大人の恋愛を求め始めた。けれど、中学時代に若くして逝ってしまった長兄・裕一や、16歳と言う若さで、悲しい事件の被害者になってしまった由美のことは、まだ忘れられない。今だFOXでのセガワは、少年のままやり通している。芽生え始めた女としての感情と、セガワとしての存在を問う気持ちの狭間で、悩み始める。
この作品は、未成年の喫煙・ヤンチャ行動等を、推奨するものではありません。ご理解の上、お楽しみください。
プロローグ
町中の、ある建物に掲げられている看板には、『(有)日高自動車整備工場』 と記されていた。 敷地は、それ程大きくは無い。 隣には原動機付自転車と、自転車を売っている店があり、二つの建物の奥には、経営者の自宅がある。
この小さな町の整備工場で働いている、館川 倉真は、今年の四月で二十七歳になる。 眉尻の上がった釣り目、強面の背の高い青年だ。 そろそろ妊娠五ヶ月目に入る、一つ年上の妻を持つ。 かなりの愛妻家である。
職場の仲間達は、事ある毎に彼を冷やかす。
「どうしてお前なんかが、あんな美人で確り者のカミさんを貰えたのか、どうしても分からない」
言われる度に、彼は答える。
「俺じゃなきゃ駄目なんすよ。 見る目が有るか無いかが重要だな」
そして、ニヤリと笑ってやる事にしている。
今日も、職場仲間には何時も通りに答え、そのままつい、昔の事を思い出してしまった。
『そう。 見る目、だよな』
改めてニヤリと、口元が緩んでしまう。
彼の妻、利知未の旧姓は、瀬川。 彼女は現在も大学病院に勤務している外科医だ。 後、数ヶ月で産前休暇に入る予定だった。
利知未は、その昔。
倉真と出会った頃には、その正体を隠し、ある人気アマチュアバンドでリードヴォーカルを張っていた。
『俺が初めてアイツを見つけたのは、新宿のライブハウスだった』
まだ自分が、中学二年生になったばかりの、五月から…。
『一年と三ヶ月もの間、アイツの正体を知らないまま、FOXのセガワにただ、憧れていた。 単なる悪ガキだったんだ……』
彼女、いや、彼が、ステージ上で歌う姿も、声も。 リズムに乗りギターを弾いていた、あの仕草も。 ……今でも、良く覚えている。
『あの頃のアイツは、マジ格好良かった。 ……男として』 その格好良い姿に憧れていた。
あの頃の自分を思い出すと、苦笑いが頬へ浮かんで来てしまう。
記憶の中で、時間が巻き戻って行く。 まだ、彼女の正体を知らなかった、あの春へと……。
一 章 初めまして・これからヨロシク
一
利知未が中学を卒業した三月。 春休み始めのライブに、朝美が来た。
ライブ後、ファンに取り囲まれるセガワを待ちながら、前に来た時から何となくノリの合ったリーダーと、グラスを片手に話しをしていた。
「そっか。 朝美ちゃん、名古屋に行っちゃうんだ」
リーダーが少しだけ、残念そうな顔をした。 朝美はいつも通りの、あっけらかんとした笑顔を見せる。 それでも少しは残念そうだ。
「元々、親との約束だったから仕方ないね。 あたしもこっちの生活、楽しかったんだけどな……。 でも一年は長く居れたんだから感謝しなきゃ」
「オレも朝美ちゃんとは、もっと話しをして見たかったんだけどな。 ま、仕方ないって言えば、ソーだけどね」
喋っていて楽しい相手だった。 もう少し仲良く出来ていたら、さぞかし面白かっただろうと、お互いに思っている。
「でも別に、また遊びに来ようと思えば来れなくは無いし。 余り深く考え無い様にしたンだ。
……利知未の事、よろしくね。 ソレだけが気懸かりだよ。 あの子には何時、警察から呼出されるかって、里沙と二人でいつも冷や冷やさせられてたンだから! 本人、自覚無さそーだけど」
チラリと、まだファンの相手をしているセガワを振り向いた。 偶々目を上げた所に朝美の視線がぶつかり、セガワは口パクで詫びる。 『ワリー、もうチョイ』 口パクは、そう言っている。
視線を戻して、朝美は呆れた笑顔を漏らす。
「相変わらず、セガワってば、男っぽい事で」
「ホント、オレ達も感心してるよ。 ……アイツ、何か起る度に益々、男っぽくなってくから……本当は、キツイのかもしれないけどね」
自分が引き込んだ利知未だ、気には成る。 しかし今や、FOXにセガワは無くては成らない存在になっている。 敬太にも少し気の毒に感じている、最近のリーダーだった。
その敬太は、利知未の本来の姿を見て、その姿に触れる度に、どうしようもない想いに捕われる。 利知未を求める気持ちは、日を追う毎に募って行った。
以前の恋人相手でも、ここまで想いを募らせた覚えは無い。
『でも、もう少しだ。 ……責めて、もう少しの間、自分を抑えなければ』
そう何度も、心の中で呟いていた。
朝美は今月の二十四日には、引っ越してしまう。
今日も見納めのつもりでライブを見に来た。 利知未とは、もう少し長く一緒に居てあげたい所だが、四月一日から社会人としての生活が始まる。 これでもギリギリまで、下宿退去を延ばしていた。
けれど最近の利知未は、敬太と言う恋人のお蔭で大分、落ち着きを取り戻している。 昔の様な明るい笑顔も、見られる様になって来ていた。
玲子との口喧嘩も再開している。 こちらは、お互いに大人に成ってきた事もあり、皮肉と嫌味の応酬に近い様相を呈して来ていた。
冴史も一年を経過して、大人しげな様子に隠れていた、素の部分が表れ始めている。 彼女は、意外とロジカルな物の見方をする少女だった。 その点では、玲子とも話しが出来る。
自分が居なくなっても、三人の様子を見る限り、下宿内の人間関係は心配する事も無さそうだ。
里沙はマダマダ、利知未に心配をさせられる事に成るだろうが、偶には電話でもして話しを聞いてあげようと思っている。
朝美にとってもあの下宿は、自分の人生を変えてくれた大切な場所だ。
出来るだけ長く、そのままの姿で存在していて欲しいと願っていた。
朝美が退去して、利知未が一番、仲の良かった姉貴分との別れを寂しがっている間も無く、新しい入居者がやって来た。
今年の入居者は、北海道出身。今年、中学に入学する双子の姉妹だ。
佐藤 樹絵・秋絵。誕生日が違う双子だ。姉の樹絵は十二年前の一月二十三日、日付が変わる寸前に生まれてきた。秋絵が母のお腹から出てきたのは、数分後の二十四日の事だったらしい。
この二人は、とにかく賑やかだった。只でさえ明るく騒がしい性質の少女が、スピーカーで騒ぐ訳だから、賑やかさも二倍だ。顔はそっくりだ。入居した頃、髪をセミロングまで伸ばして、ろくに櫛も通さない男の子の様な方が樹絵で、ショートカットにして、それでも少しは身だしなみに気を使う方が秋絵。
樹絵の印象は、『中学一年当時の利知未ミニチュア』とでも表現したら近いかもしれない。
秋絵の方は、この下宿で生活する内に段々と、女の子らしくなって行く事に成る。切っ掛けは利知未だった。…反面教師だ。
二人が入居してきたのは、朝美が家族の元へ帰って行った翌日。丁度、利知未のバンド練習日の事だ。
三月二十五日。入居時には母親がついて来た。
「どうも。これから家の娘達が、お世話に成ります。」
そう言って里沙に頭を下げた母親は、元気で朗らかな印象だった。
「家は、お恥かしいながら子供が多くて…。この子達の上は、長女も長男も、もう手が掛からないんですが。下の子達が腕白盛りで、手に追えないんですよ、本当に。何しろ、まだ小学校低学年から中学年で。男の子ばっかり三人も!まー、あたしも毎日、毎日、あの子等があっちこっちで起こす騒ぎの後始末に、駆けずり回ってるんですよ!それでねぇ。こちらの様なお宅があるって知りまして、お願いしようと思ったんですよ。この子達は真ん中の所為か、何て言うんですか?逞しいから、預けるならこの二人だろうって、夫と話し合って…、」
と、一頻り家庭の事情を里沙に聞いて貰ってから、それでも二人を置いて行く時には、心配そうな顔をして帰って行った。
利知未は階下からの話声を聞き、賑やかな客が来たモンだと思った。
双子の母親が辞去する頃、時間を見て練習に行く準備をした。セガワスタイルだ。当たり前の様に、この双子ともセガワで初対面と言う事になってしまった。冴史の時と同様、双子にも驚かれた。
今回、里沙は少し考えて、利知未に先に紹介する事にした。
『利知未は今日も、バンドの練習で夕食の席には居ないでしょうから。』
そう思ったのだ。時間的にも、利知未が出掛けるまで後、三十分位は余裕があった。
それで二人を部屋に案内したついでに、利知未の部屋をノックした。
「鍵、開いてる。」
服を着替えて準備をし、一服していた。利知未はタバコを止めてはいない。ただ、敬太と出掛ける時は吸わない。そこは、やはり乙女心だ。
「まだタバコ吸ってるの?いい加減に止めた方が良いのじゃない?」
部屋に入った里沙が、軽く利知未を睨んで見た。利知未にとって里沙の睨みは『恐れるに足らず』と言う所だ。平気でニヤリとして見せる。
「窓、開けてるぜ?」
既にセガワテンションだ。物凄く男っぽい。里沙は本格的に呆れる。
そのやり取りを見て、里沙の後ろからそっくりな顔が二つ、目を丸くして話し出した。利知未を二人で、同じ様に指差している。
「何で男が居るんだ?!」
「ここって、女の子限定の下宿だよね!?」
「お兄さんがいる?!」「どうして!?」
同時に喋る。囁き声でも賑やかだ。
里沙が双子を振り返り、困った様な笑顔を見せる。
「…彼女は、瀬川利知未。今年から県立北条高校の一年生になる…、」
と、困った目を今度は利知未に向けて、軽く溜息を付く。
「…お姉さんよ。」
「えー!?」「はー!?」「「ウッソだろー!?!?」」
双子は目を合わせて叫んだ。…煩い…。
耳にツーンときて、里沙と利知未は顔を歪めた。いきなりの叫び声に驚いて、自室にいた冴史と玲子が、慌てた様子でドアを開けて廊下へ足を踏み出した。
「なに?」「何かあったの?」
こちらも同時に声を出す。その声に里沙が振り向いて、冷や汗混じりの笑顔を二人へ向けた。
「…あら、丁度良い具合に住人が勢揃いしたわ。ついでに紹介してしまいましょう。」
双子も振り向き、冴史と玲子を交互に見た。
「今日から入居する、佐藤樹絵さんと秋絵さん。双子の中学一年生よ。冴史の後輩って事に成るわね。よろしく面倒見てあげてね。」
里沙はニコリと笑顔を見せて、二人を紹介した。
里沙も下宿を続けてきて、利知未と言うヤンチャ者や優等生の玲子、年の割に論理的な様子を見せ始めた冴史、そして、つい先日、親元に戻って行った、明るくあっけらかんとした朝美と言う、個性豊かな住人達との付合いのお蔭で、随分と元々の度胸に磨きが掛かっていた。
「隣の部屋から顔を出したのが、仲田冴史。あなた達が四月から通う城西中学の二年生よ。階段横の部屋から顔を出しているのが石塚玲子。利知未と同じ高校一年生。彼女は、ここから近い東城高校へ入学するの。利知未と玲子は城西中学のOGよ。」
ニコリとした笑顔を崩さずに、双子に住人を紹介して行く。
「どんな感じのお姉さん達かは、これから段々と知って行けば良いわ。三人とも学校の成績は良いの。勉強も教えて貰えるんじゃないかしら?」
最後の言葉は、先住者に対するお願いだ。裏側には、『良く面倒見てあげてね』と言う、メッセージが入っている。
双子は大家族の兄弟姉妹、真ん中の二人だ。性質は逞しく、物怖じしないタイプの様だ。それから直ぐに、このクセのある住人達と打ち解けた。
双子の入居翌日。利知未は久し振りに、アダムへ珈琲を飲みにいった。
「いらっしゃいませ!…あら、利知未。久し振りね、ちょっと待って。」
店に足を踏み込むと、忙しげな翠が迎えてくれた。やや疲れている感じだ。店内を見て、その様子に合点が行く。
店は混んでいた。客席が全て埋まっている。カウンターの一部だけは、まだ二、三席空いていた。ランチタイムだ、分からなくは無い。
「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいでしょうか?」
翠と入れ違いに、学生バイトが案内に来た。利知未は始めて見た顔だ。素直に後へ従ってカウンターに向かう。マスターもカウンター内で忙しくしていた。顔を向ける暇も無い様子で、声だけ飛んできた。
「いらっしゃいませ!…なんだ、利知未か!」
それでも新しい客へ、水とお絞りを出そうと頭を上げて利知未を見た。そして次の瞬間、ひらめいた顔をして声を顰める。
「お前、今、時間あるか?」
「時間が出来たから、久し振りに来た。忙しそうだな。」
「バイトが一人ダウンした。手が足りん。お前ちょっと手伝わないか?勿論、バイト代は出すぞ?」
「何だよ、それ。客捕まえてバイト勧誘かよ?」
呆れた顔をした。それでもマスターには色々と恩もある。小さく溜息を付いて、椅子から立ち上がる。店内の様子は良く知っている。お運びくらいなら問題無く出来るだろう。
「…判ったよ。金も欲しいし、取り敢えず今日だけな。」
「済まん!一時間でも構わんから、頼む。」
新しい客が入ってくる。翠とバイトは大童だ。奥の厨房からも、料理が上がった声が掛かる。利知未は、ロッカールームへ向かいながら言った。
「制服は?」
「左上のロッカーだ。…いらっしゃいませ…!適当にサイズ見てくれ。」
ロッカールームで制服を見て、利知未は悩んだ。女物の制服はあるが、どうやらサイズが小さ過ぎだ。ブラウスはツンツルテンだし、スカートを腰に当てて見れば、膝上約15センチの超ミニスカート状態だ。
『流石にこれは、マズイだろ…。』
思案して、男物のシャツを着てみる。サイズは合った。パンツはウエストがぶかぶかだが、ベルトで止めれば何とか成りそうだ。
『シャー無い…こっち借りるか。』
着替えを済ませ、男物の制服姿で店に出た。
店に出て行くと、慌ただしい雰囲気の中、マスターが振り返った。目を丸くして利知未の姿を一瞬、眺める。
「…女物は、やっぱ小さかったか…?」
呆れたように聞いて来た。利知未が頷いて言う。
「今、167センチあンだよ。こっちで丁度良い。…どうせ今日だけだろ?」
厨房から料理の上がった声が掛かる。利知未はそちらに向かって行った。
利知未は即戦力になってくれた。お運びだけでなく、注文取りや案内も、直ぐにこなし始める。お蔭で翠とバイトは、漸く一息付ける様になった。利知未にして見れば、中学時代から頻繁に通っていた店のことだ。仕事は目で見て覚えていた。
十四時過ぎになって、客足が途絶えた。利知未は私服に着替え、いつものカウンター席に腰掛け、タバコを吸っている。一息入れながらマスターが言った。
「悪かったな、助かった。」
「…どー致しまして。…金は払ってくれよ?」
「勿論だ。…所で。お前、高校合格したんだろ?」
「ああ。チョイ遠いけどな。電車使ったら一時間以上掛かるよ。」
「そうか…。とすると取り敢えず、土・日・祝日だな。」
マスターの呟きに、利知未は顔を上げる。何を言っているのか?と思う。
「バイトに来い。美味い珈琲の淹れ方、仕込んでやるぞ。」
そう言われて、利知未は初めてここに来た日の事を、思い出した。
「…マジだったのかよ?」
あの時のマスターの言葉は、手におえなさそうな中学生を、真っ当な道に導こうとして、言っていただけの事だろうと思っていた。
事実そのお蔭で、少しは真面目に学校へも行き始めて、応援団部での、思い出深い出会いを経験する事が出来た。…今は感謝している。
「俺は嘘は言わない。面接はあの時、終わっている。」
ニコリとしたマスターを見て、利知未はやや戸惑いながらも、嬉しい様な気持ちになった。そして、初対面の時から変わらない、少し強引な位のこのマスターに、改めて気持ちを惹き込まれた。
『この人の下で働くのは、楽しいかもしれない。』
そう感じて、小さく笑ってしまった。
「…ソーだな。免許も取りたいし、バイクも欲しいからな。金はいくらあっても足りないくらいだ。」
マスターを見て答える。
「バイト、来てやるよ。四月からで良いか?」
「よろしく頼む。」
利知未は、中学時代、初対面時のマスターとの約束を、この四月から果たす事に成った。
四月六日、月曜日。利知未の高校生活が始まった。
利知未がこれから通う北条高校は、公立高校の中でも学業レベルが高かった。有名大学への進学率も良い。ライバルは有名私立高校だ。
その所為もあるのだろうが、学生の雰囲気は、どちらかと言うと玲子タイプの優等生が多かった。利知未は初日から浮き立ちそうな雰囲気だ。
入学式の最中に、欠伸をして半分眠ってしまった。
「…えー、我校の伝統として…、…進学率においてのライバルは……、その中で、生徒の個性を重視し……、自由な校風の……。」
長々と話している校長の言葉が、半分眠った頭の中へ途切れ途切れに聞こえてくる。その舟を漕ぎ掛けた姿を、やや引いた視線で注目する生徒達の中に一人、同じ様に詰らなそうにしている女子生徒がいた。
『…つまんないな…。この校長、話し長いよ……。』
そんな気持ちが態度に、ありありと見て取れる。暇つぶしにキョロキョロとし始めて、舟を漕ぐ利知未の姿を目に入れた。
『なんだ!いるじゃナイ。アタシと似たようなのが…!』
そのまま利知未を観察して、時間を潰す。椅子に掛けているが、身長が高い様だ。座高は低い様だが、長い足が狭い通路の間で窮屈そうだ。
この学校は不思議な学校で、一応、制服と言うモノも存在している。式着みたいなもので、普段は私服登校可能ではある。だが、今は入学式。
もしも私服姿でいたのなら、恐らく利知未は、かなり多くの生徒達に性別を誤解されていた事だろう。その中性的な顔付きにも興味が沸く。
うたた寝をしながらも、人の視線は感じる物だ。自分に向けられる冷ややかな視線の中、ちょっと違う気配を感じて、利知未は目を開けた。その方向を面倒臭そうに振り向く。
『…なんだ?アイツ。』
目が合って友好的な笑顔を見せられ、利知未は少々面食らう。
その少女も背が高い。髪は真っ黒のロングヘアーだ。顔付きは、知り合いの中に、誰か似た様なヤツがいた気がする…。
『誰に似てんだ…?』
暫し考え、先ずは女友達や女性の知り合いを思い浮かべる。…貴子とも違う、鵜野じゃない。下宿のメンバー…違う気がする。アキやFOXの少女ファン、いないな…。美由紀さん…?その周りの人物…。そこで、ハッとする。
違う、女じゃない。男の知り合いだ…!団部メンバーを思い出して、後輩まで思い出した時に、思い付いた顔があった。
『…準一の、女番みたいなんだ…。』
細めで呑気そうな眉と、準一ほどの大きさは無いが、優しげに垂れた目尻。ただ、その感じは、優しげと言うよりは、単に何も深い事を考えない性格を表している。準一はそうだった。
『アイツも、あーゆー性格だったりして…。』
思うと少し笑える。最近は準一とも、何度か会う機会があった。その度に呆れさせられ、苦笑、爆笑、説教を繰り返していた。
少し面白そうな顔をした利知未に、その少女は益々、笑顔を見せた。
式が終わり講堂を出た時、垂れ目・長身・ロングヘアの彼女が利知未の肩を叩いた。振り向く利知未に、呑気そうな笑顔を見せる。
「はじめまして。アタシ、藤原 透子。何て名前?何組?」
「…瀬川 利知未。クラスはAだよ。お前は?」
「なーンだ、クラスメートじゃん。これから、よろしくね。」
入試の成績順にクラス分けをされる学校だった。Aクラスは入試一位から四十位までのクラスだ。呑気そうな雰囲気とは裏腹に、どうやらこの少女の頭は良いようだ。利知未は少しだけ、面白そうな予感がした。
二
高校生活スタートの四月は、瞬く間に過ぎた。
利知未の通う高校は、進学率の良い学校と言う事もあり、生徒の学習意欲にも凄まじい物がある。一年から大学受験に備え、学習塾に通う生徒も多い。
利知未はバイトとバンド活動に忙しく、特に成績優秀者が多いA組の中で、勉強時間は他生徒に比べて平均の半分だ。それでも入試成績の順番では、十位から十五位の間にいた様子だ。勿論、努力の結果そうなった。
入学式当日から、何となく利知未と仲良くなった藤原透子は、どうやら上位三位までに着けていた天才肌の少女だったらしい。
週一回は小テストが行われ、常に生徒同士のライバル意識を煽る様な、授業カリキュラムの中、利知未は一つのラインを設定する事にした。医者を目指すと決めたからには、勉強も余り手を抜く事は出来ない。
幸いにもA組のクラス内順位は、そのまま、ほぼ学年順位に反映する。つまり学年内で上位にいる為には、このクラスから落ち零れない事が良い目安に成ると言う訳だ。
そこで利知未は、どんなに忙しくても、クラス内順位を三十位以下には落とさない様にしようと、自分の中でラインを引いた。
その設定を崩さない為、この一ヶ月間、利知未は自分の生活時間配分を模索していた。
元々は物覚えも良く器用な利知未である。この間で分かった事は、授業に追い付いている状態なら、後は一日一時間程度の復習時間を取れば、設定のクラス三十位以内をキープ出来そうだという事だった。
そこに教科毎の宿題が入ると、最低でも一日二時間くらいは、下宿でも勉強机に向かう事になる。アダムでのバイトは土日祝日だ。バンド活動が無い日は、それでも何とかなる。その代わり週に三日は、睡眠時間が約三時間〜五時間位しか取れない。学校までも少し遠い。
その結果、ホームルームの時間を捨てる日が週に三日となる。
利知未は入学式から一ヶ月も経っていない、この時期。既に問題児として、有名になってしまった。
バタバタした生活の中、ゴールデンウイークを迎えた。
その一日目。利知未は今月頭から始めたバイトを、始めて休んだ。
敬太と二人で、由美の墓参りに行く。その支度をしている朝九時前。ノックの音がして、今年入居した双子の片割れ、樹絵が顔を出した。
「ちょっとイーか?」
振り向いた利知未が、いつもよりも更に暗い色の服を着ているのを見て、少し目を丸くする。真っ黒なシャツブラウス。ジーパンではない、同じく黒のパンツ姿だ。驚いた樹絵に、利知未が言う。
「これから出掛けるんだ。…何の用だ?」
「あ、ごめん。直ぐ済むよ。…あのさ、利知未は中学校の制服って、まだ取って置いてあるか?」
「制服?一応、まだ有るけど。」
「本当に?じゃ、さ。洗い替えにくれよ。どーせ捨てるしか無いよな。」
ドアを開け放して、樹絵が利知未の部屋に踏み込んだ。
樹絵・秋絵の双子は、五人の姉・兄・弟達に囲まれて育ってきた故にか、直ぐにこの下宿での集団生活に馴染んでしまった。利知未の事も、初対面の翌朝には既に呼び捨てだった。今までの入居者と違って、その素の性格も直ぐに発揮されていた。中々、逞しくチャッカリとしている。
「構わないぜ。今は時間ネーから、夜には出しといてやるよ。」
「サンキュ!じゃ、また今夜にでも取りに来るよ。」
「お前には、デカ過ぎると思うぞ。」
「イーよ、直して貰うから。店に頼んでも、買うより安いみたいだし。」
流石、大家族の真ん中だ。経済観念も、中学一年にしては確りした物だ。利知未は、自分が樹絵達と同じ頃、やはり色々と節約していた事を思い出す。今も成るべく、無駄金は使わないようにしている。
「秋絵は玲子のお古、貰ったんだ。…な、玲子ってスッゲー優等生なんだな。制服もまだ、綺麗だったよ。」
「その辺は期待するなよ。あーゆーのは丈夫に出来てるから、平気だとは思うけどな。」
「イーよ。穴あいてなければ。じゃ、よろしく。」
樹絵が部屋を出て行った。扉が閉まると、利知未はタバコを取り出し、窓を開ける。
利知未は今日、セガワとして墓参りへ行こうと思っていた。敬太と二人と言う事は、多分、違う自分が出て来易いだろうと思い、改めて男っぽさを上げる為の、儀式の様な気持ちでタバコに火を着けた。
彼の前で出て来る自分が、くすぐったい感じだ。
自分の記憶の中であの感じに過去、一番近かったのは、恐らく裕一のアパートで、冬にゴキブリと遭遇した時だろうか?
あの時も、自分で自分の反応にびっくりした。
恋人といる時の姿が、アレを目撃した時の姿と近いと言うのは、ちょっと複雑な感じもする。けれど、つまりは極限状態に陥った時にこそ、人はその本性を表すと言うのなら、ソレはソレで有りかもしれない。そんな風に思うと我ながら少し笑えてくる。
裕一の事を思い出して笑える様になるとは、自分でも驚きだ。…全て、敬太のお蔭だと思う。その敬太を求める気持ちは、日を追うごとに、どんどん膨れ上がっている。
『誕生日まで後、約二ヶ月。…そうしたら…、』
…敬太は自分の想いに、応えてくれるのだろうか…?
浮かんできた、女としての感情を振り払うように、利知未は軽く頭を振った。…今日はFOXのセガワだ…。
小さくなった煙草を灰皿で揉み消して、利知未は部屋を出て行った。
五月に入り、その一週目のライブ終了後。
利知未はふと思い付き、ファンの相手を終えてから、リーダーに相談を持ち掛けた。
「…六月二十三日。月曜日なんだけど、何処かでライブ出来ないか?」
「六月二十三日?」
聞き返すリーダーに、その隣からアキが言う。
「セガワの誕生日ね!バースデーライブって事?」
頷く利知未を見て、リーダーは思い当たった表情になる。
「…俺、やっと自分の歳に追い付いたから。その記念と、皆への感謝の意味を込めて。」
少し考えて言葉を工夫しながら、自分の思いを伝える。
始めてここに立った日。裏の事情から、年齢を十六歳と誤魔化した。
今年、やっと自分の本当の歳が追い付く事に成る。勿論セガワとしては、十八歳に成る訳だが、それでも自分の中で深い意味のある事だ。
もう一つ。素の自分としても、その日は心に決めた日でもある。
「それに…。いつまでヤれるかも益々、判らなくなって来る。そうなる前に、今まで応援して来てくれた皆にも、感謝の気持ちを伝えたい…。」
言葉の裏の真剣な思いは、メンバーにも伝わった。
その思いを受け取り、リーダーが頭を働かせる。
「…そうだな。だったら、いっその事、ココ貸し切らせて貰うか?!」
「そんな事、出来るのか?」
「出来るよ。タマに芝居の団体がやってる。」
利知未の質問に、アキの向こう隣で話しを聞いていた拓が答えた。
「チョイ、別料金になるけどね。バイト契約で何時もライブやってるのとは、システムが変わるから。」
「ま、その分の出費は、チケット代で稼ぐ形になる。音楽ライブの場合は一晩、機材代込みで七、八万だったか?」
リーダーが珍しく、実務的な思考を巡らせた。拓が頷く。
「チケット代、いつも通りに設定しても、キャパ一杯入ればお釣りが来る計算だね。FOXの集客率なら難しい事じゃないよ。」
ニコリとして言った。利知未は禁止事項の目、見開き顔に成りそうになり、慌ててセガワ・スマイルを作る。
「…じゃ、イケそーだな?」
メンバーが頷く。一瞬の見開き顔を慌てて収めたセガワの様子に、軽く笑ってしまう。敬太は利知未の隣で、黙って話を聞いていた。
「後は当日のステージ状況次第だね。早速、確認取って見よう。」
実務担当の拓が席を立って、店員の元へと向かった。
その様子を他のメンバーが、カウンターからじっと見つめる。
拓と店員が短いやり取りを交わし、店員がステージ予定表を確認する。顔を上げて、また何かやり取りを交わす。メンバーはじっと待つ。
拓が顔を振り向けて、右手でOKサインを見せた。
全員、笑顔になって顔を見合わせた。リーダーとアキ、セガワと敬太がグラスを軽く当てて乾杯した。拓はそのまま、書類手続きを済ませる。
暫くして席に戻った拓を入れて、改めて乾杯した。
バースデーライブまでには、まだ間がある。チケットはそのライブ用に、特別に作った。アキが、この四月に入社した会社のコピー機を、勝手に拝借して作ってしまったので、チケット製作の出費は無かった。
利知未が頼んで、チケット代は当日で一五〇〇円・前売りで一三〇〇円に設定して貰った。百円でも良いから、安くしたいと思った。今回のライブは、ファンに対する感謝の気持ちを込めている。
ライブ時間は一時間半。二回経験したニューイヤーライブで、その位までなら客を飽きさせ無い様に、ライブを構成出来ると踏んだからだ。
五月の中旬、その土曜夜。利知未はセガワらしい格好で、営業中のバッカスへ向かった。
最近、困ったことに土曜の夜になると、例の少年達が店に現れるようになっていた。宏治からその話を聞いたのは、四月の半ば過ぎだ。
春休み中に店へ顔を出す事が出来ず、遅れ馳せながら高校入学の報告をする為、美由紀に会いに行った日だった。
結局、利知未は、まだ少年達に正体を明かしていない。理由は、高校が私服登校可能だったので、正体を隠す事が楽になったからだ。ついでにアダムの制服も、態々、自分の為だけに新しく発注して貰うのも勿体無い気がして、そのまま男性用の制服を着用している。
アダムには最近、若い女性客が増えてきた。…利知未効果らしい。
その日、バッカスへ行ったのは、バースデーライブのチケットを少年達に渡す為だった。先ずは宏治に報告した。そこから倉真達にも知られ、宏治経由でチケット購入の依頼があったからだ。また宏治経由で渡して貰っても良いには良いが、今は中学と高校に離れた訳だから、どの道、宏治に渡しに行くか、取りに来て貰うしかない。それなら折角だから、顔を見てやろうと思ったのだ。
セガワ・スタイルで店に入ると、美由紀はいつも、少し呆れた様な顔を見せる。本当の少女らしい利知未を見ている、敬太以外で唯一の人物だ。その気持ちも判らない事も無い。けれど、協力もしてくれる。名前を出さない様にしてくれるだけだが、それで充分だった。
中学時代の仲間にも連絡をした。こちらは来てくれると言う仲間には、アダムまで、喫茶ついでに取りに来て貰った。チケットは売り切れた。
忙しい生活の中で、利知未は始めに自分で設定した、クラス三十位以内の成績をキープしていた。五月終わりにあった中間テストでも、ラインを切る事は無かった。その分、睡眠時間が削られる。
そして、六月二十三日。何時もの店で、バースデーライブが始まった。
思い出の曲から始めた。初めてこのステージに立った時の全六曲は、間にMCと別の曲を混ぜながら、全て演奏リストに入れた。
この約二年弱の間で、利知未の周りで起った様々な事柄と、その度に増えてきた新しい曲も全て、発表してきた順に組み込んで行った。
一つの曲を演奏する度に、その時々の思いも甦って行く…。
裕一の死後、思い出を音に載せた曲。由美の事件の後、彼女に対する贖罪の思いで作った曲。過ぎて来た初恋に、始めて気付いたその瞬間にも作っていた。敬太と、初めてのキスを交わした後にも…。
後半に従い、その時々の利知未の心を反映するかの様に、バラードが増えてきた。曲の流れを組んでくれたのはリーダーだった。
敬太との思い出を音に載せた曲が終わって、二、三曲は、ノリの良いアップテンポの物を組み込み、後半の盛り上がりを作って行く。
一時間半と言うライブ時間を駆け抜け、あっという間にラスト曲の時間が来た。
新たに、今までのFOX時代を総集し、今の自分を形作っている思いを込めた、作ったばかりの曲をラストの一曲に選んだ。
ラストの曲に入る前に、セガワが話し出す。
「…突発でやった俺のバースデーライブに、こんな大勢の…ファンの皆が集まってくれた事に、心から感謝してる。…FOXに出会ってホンの二年くらいの、この間に。俺は、幾つかのサヨナラを経験してきた。また会う約束が可能な別れと、…二度と会う約束が出来ない、哀しい別れも。…けど、一生、忘れられない出会いも沢山あった。その中に、今日ココに集まってくれた、皆との出会いも勿論、入ってる。…だから、今の俺が皆に伝えたい感謝の思いを、この曲に込めて、…贈ります。」
バラードではなく、ハード過ぎる音でもない。初めて作った曲に近い、軽いノリの心地よい音だった。その音には、隠された利知未としての、少女の心も潜んでいる…。
ラストは、セガワが決めて音が止まった。
「今日は本当にありがとう!また、この場所で皆と会えますように!」
照明が落ちた。直ぐに拍手と声が掛かり、アンコールが掛かる。
一端舞台袖に引っ込んだFOXのメンバーが、その声を聞いてセガワの背中を押した。
再びセガワがファンの前に立つ。メンバーも改めて準備をし、ファンの声に答え、演奏を始めた。
アンコールが三回掛かり、結局ライブは二時間続いた。
ライブが終わったのは、二十一時過ぎだった。それから店で、ファンと一緒にパーティーに成った。
中学時代の仲間や、始めてココにセガワが立った時から、ファンで居続けてくれている少女達や、補導少年達。皆に祝われ、改めて出来る限り長い時間を、セガワとしてステージに立てるように気を引き締めた。
同時に、心の奥では疼き始めている思いがある…。
『…帰り道、自分に戻ったら…、』
その想いが膨れる度に、今はセガワだと自分に言い聞かせる。
パーティーがお開きになったのは、二十三時過ぎだ。
本来の利知未にとっては、とてつもなく長く感じた時間。セガワとしての自分には、あっという間の時間だった。
ファンから貰ったバースデープレゼントを、敬太の車に積み込み、何時も通りに利知未に戻れた、その時間。
『…何処で…?』
利知未が思う。今日は楽屋の更衣スペースで、メンズのシャツから普段着のTシャツに着替えた。その上に薄手の上着を着込んで、車に乗るまではファスナーを胸の上まで上げて誤魔化した。
バレンタインデーの時、自分の服装に残念な気持ちが残っていた事が、頭の片隅にあった。責めて少女に戻って、敬太と二人でいる瞬間くらいは、服装だって変えていたい。
中々、切り出す事が出来ずに、今日のライブの話しをしていた。下宿の近くまで着いてしまいそうだ…。少しだけ焦った。
「…いつか、寄り道してもらった高台の公園、覚えてる…?」
話しの切り目に、利知未が言った。
「覚えてるよ。…寄って行きたいの?」
利知未が頷いた。その雰囲気に、敬太がどきりとする。
『……凄く、綺麗に見える…。』
『あそこなら、他の車も余り通らない…。それに、思い出もある…。』
利知未の一人称が変わった瞬間。あの高台から、二人で星を眺めていた。
「…良いよ。行こう。」
遅くなると、心配させてしまうのでは無いか?そんな質問は浮かんで来ない。…敬太も、何かを感じている。
進路をあの公園に向け、黙って車を走らせた。
高台のあの場所に着き、エンジンを止めた。改めて二人、向かい合う。
「…敬太。初めてのキス、覚えてる…?」
目を見て、少女の利知未が優しく問い掛ける。
「…勿論、覚えてる…。」
見詰め合う。お互いの心が、速度を上げて近付いて行く。
「…あの時から…、あたしは…。…敬太…。…キス、して…。」
恥かしげに言葉に出して、利知未が囁く。敬太はその想いを受け止める。
二人の唇が重なった。求め合う心が、強さを増していく…。
唇が離れて、利知未が言った。
「敬太…。敬太を、もっと感じたい…。…一つに、なりたいよ……。」
ギアとサイドブレーキが、体の下にある。思い切り上半身を伸ばして、腕を敬太に巻き付ける。敬太は一瞬戸惑う。けれど直ぐに利知未の身体を、その腕に受け止める。
「…あたしじゃ、駄目か…?」
「…オレも、今直ぐ、…利知未を抱きたい。」
少し身体を離して、顔を見つめる。…二人の真剣な瞳が交わった。
「…今すぐ、抱いてよ…?」
もう一度戸惑って、敬太が真剣な瞳で聞く。
「良いのか…?こんな所で。」
「何処だって、構わない…。相手が敬太なら…。」
お互いの想いは、我慢の限界を迎えていた。
利知未の想いに敬太が応え、敬太の想いを利知未が実感する。
二人は狭い車の中で、初めて男女の契りを結んだ。
結ばれた後、まだ露わな姿の利知未が謝る。…車を汚してしまった。
その言葉に敬太が謝った。
「オレこそ、ごめんな。…ありがとう、かな…?初めての相手、オレで良かったのか…?」
「…敬太じゃなきゃ、嫌だった。…ありがとう。」
利知未が大人びた笑顔を見せた。そして再びキスを交わした。
その瞬間。二人の想いが、絆となった。
三
敬太と初めて結ばれた夜から、まだ一週間も経ってはいない。
あの翌日、月の物がやって来て一応ホッとした。
『まだ敬太の子供が欲しいとかは思えないけど…。女に生まれて良かったとは思えそうだ。』
心の中で、そっと里沙に呟いた。利知未は初潮を迎えた時の事を思い出して、少し笑ってしまった。
『…本当に、ガキだったんだよな…。』
今だからそう思える。しかし、あれからまだ三年も経っていない。
この間の利知未は、本当に色々な事を経験してきていた。
いくつかの出会いと別れを繰り返し、深い絆で結ばれた恋人も出来た。
その、今の幸せを感じた利知未の、暫く隠れていた活動的な心が、弾みをつけ始めている。次の目標は、バイクの免許取得だ。
勉強机に片頬杖を突いて、利知未は自分の通帳を眺めていた。
『三十万か…。我ながら頑張ったモンだ…。』
これだけあれば、中型免許から取り始めて、直ぐに限定解除まで取得出来る。バイクの教習授業料は、入学金を入れても十万前後だ。
『免許取っても、十万は残るよな。でも、バイクまでは、まだ手が回らなさそうだ…。』
教習所のカリキュラムによっては、中学時代のサボり利知未の復活も有り得る。そうすると、学校の授業の方も心配だ。
『…透子のノート、アテにさせて貰おうか…?』
以前、一度だけテスト前に睡眠不足が祟り、午前の授業を寝坊で遅刻してしまった日があった。その日、昼休みに授業のノートを見せて貰って感心した。かなり殴り書きに近いような、威勢の良い字を書くものだとも思ったが、纏め方は上手かった。流石、入試三位の実力の持ち主だ。
藤原透子は、最初に想像した通りの性格だった。もしかしたら、それ以上かもしれない。呑気と言うよりは、正しく深い事を考えない。時により、かなりの天然ボケを発揮してくれる。そんな少女だった。
利知未は優等生が多いあの学校で、透子といる時間だけは気が楽になる。透子もどうやら、その点で同じ気持ちのようだ。今ではすっかり仲良くなってしまった。お互いに気を使わない相手と言う様な関係だ。
その癖、どうも勉強に才能が開いている風な感じだ。IQも、かなり高いのでは無いだろうか?利知未は透子に、そんな印象を持っている。
『後は、アダムだな。土日じゃ無いと受けられない教習もあるみたいだ。』
通帳を置いて、教習所のパンフレットを眺めた。
木曜の夜である。高校に入ってからの利知未にとって、毎日の勉強も終わらせ、のんびりとした時間を過ごせるのは月・木だけである。
土日はアダムでバイトをしている。土曜は十八時から二十一時までの三時間だけ入る。本当はラストまでいたい所だが勉強もある。日・祝は逆に開店から十八時までの七時間だ。間に休憩も入るので、金になるのは六時間分だ。それでも一月やれば、祝日の無い月でも三万位にはなる。
『先ずは中免取ってから、限定解除は夏休み入ってからにするのが良いかもしれないな…。夏休みはバイトも、もう少し入りたいし…。』
そう思ってから、敬太の事を想う。
『…でも、敬太とも、もう少し一緒にいたいな…。』
敬太は今、家族と暮している。勿論、泊り掛けで会いに行く事なんて不可能だ。それでも責めて、時間を作って遊びに行きたいとは思う。
『それは、またこれから…。ゆっくり敬太と話してみよう。』
敬太の事を想って女らしくなる自分の姿は、住人達には見られたくない。立ち上がり、ドアに鍵を掛けに行こうと思った時、ノックの音がした。
「利知未、風呂入っちゃえって。それから時間あったら、ちょっと勉強教えてくれよ?」
返事も待たずに、樹絵がドアを開けて顔を出す。利知未は、気持ちを切り替えるまで、数秒かかってしまった。
その間の、一瞬の利知未の雰囲気に、樹絵はちょっとだけ不思議な印象を持つが、何しろマダマダ、そちらの方面には興味の無い樹絵だ。深い所まで気付く前に、その感じを忘れてしまう。
「…いきなり開けるなよ。…びっくりした…。」
やっと何時もの感じを取り戻して、利知未が言った。
「教科によっては、玲子の方が良いんじゃネーか?」
「数学なんだけど。」
理数系は利知未の担当になる。軽く溜息を付いて、仕方なく頷いた。
「…分かったよ。一時間後にまた来い。」
「サンキュ。じゃ、後でな。」
樹絵がニコリと返事をして、自室へ戻って行った。
双子の勉強は、この五月の中間テスト前から、利知未と玲子が主になって見てやっていた。
玲子はどちらかと言うと、語学や社会科系に強い。自然と割り振りが決まってしまった。冴史は現代国語・古典に強い。英語も、まぁまぁイケる。それでも中学一年の勉強だ。利知未も玲子も忙しい時には、冴史も面倒を見てくれる。
教え方にも個性があり、樹絵はどうやら利知未に教わるのが一番、解り易い様だった。秋絵は、冴史か玲子が良いらしい。なので樹絵は偶に、理数系以外の教科も利知未の部屋へ持ち込んでくる。
利知未は、通っている学校のレベルも高い。それなりに、どの教科も教える事は出来る。ただし利知未は、店子の中では一番忙しい。
その夜は風呂から上がり、樹絵の勉強を一時間くらい見てやってから、十二時前にはベッドへ入った。睡眠時間も、取れる時には確り取っておかなければ、身体を壊してしまう。
翌日のライブは、バースデーライブに来てくれたばかりだと言うのに、倉真と宏治が現れた。ライブ後に話して知ったのだが、倉真は今週に入って、宏治の家に泊まり続けていたと言う。
「また、どうしたンだ?…美由紀さんは何も言わないのか?」
セガワの質問に、宏治が答えた。
「どうやら、親父さんと大喧嘩したらしいです。」
その隣でビールを煽り飲んでいる倉真を、呆れた顔で眺めた。
「暫く様子を見るって言ってた。倉真の家にはお袋が連絡していました。」
宏治も少し呆れた様子だ。どうやら美由紀さんは、倉真の事も、自分の息子の様に接してくれているらしい。肝っ玉母さんだ。
その流れで、美由紀と倉真の母親の間では、付合いが始まったらしい。ただし父親は、その交流にずっと気付かなかった。ここから何年も…。
母親同士の間では、このヤンチャな息子には、父親からの逃げ場所も必要では無いかと言う意見が、一致しているらしかった。
翌日、アダムのバイト後、利知未は倉真に頼まれ、宏治の家へセガワとして、ギターを持って出掛けて行った。
「昨日のライブでコピーしてた、アレ、ダブルギターのヤツ。教えて下さいよ?!」
宏治の家に着いた途端、倉真が言った。今日の昼間、父親が留守の時を見計って、自分のギターを取りに行っていたらしい。
「お前。態々、ギター取りに戻るくらいなら、そのまま帰ろうとは、思わなかったのか?」
セガワが呆れて倉真に言う。
「ジョーダン!誰があんな家に…!」
利知未の中では、少し羨ましい気持ちがあった。
父親と喧嘩をして、飛出す事が出来る。家族が揃って暮している家がある。その事の幸せは、まだ幼い様な倉真には、多分、解らない事だろうとも思った。
利知未は、館川家の事情の詳しい所は知らないが、それでも良いなとは思う。
「…ショーがネーな。教えてやるよ。だけど、条件がある。」
「何スか?!」
「…教えたら、取り敢えず一度、家に戻れ。…その後、また家出して来たって俺は何も言わないが、…母親に、キッチリ元気な顔を見せて来い。」
そう言われて、倉真は少し剥れる。小学生みたいな顔だ。
『何か、昔のあたしみたいだ…。』
そう思い、素の自分で笑ってしまいそうになり、気を引き締める。
「その約束が出来ないんなら、教えないぜ?」
セガワスマイルで、ニヤリとして見せて、倉真の反応を観察した。
「…分かったよ。…母親に恨みある訳じゃネーし…。」
ボソリと呟いて、気分を変えて、ワクワクした顔を見せる。
「じゃ、頼みます!」
「OK。」
そうして、昨日のライブでやった曲を倉真に教えた。
倉真は普段、ハードロックかメタルをやっているらしく、それよりもいくらかテンポが緩いロックの曲は、直ぐに覚えてしまった。
夜も遅かったので、今度、機会を見てセッションをして見ようと約束をして、深夜になって帰宅した。
宏治一家だけの事ならば、泊まってしまっても構わないとは思うが、倉真がいる以上、そこに泊まるのはやはり憚られる。どんなタイミングで、セガワの正体がバレてしまうかも知れなかった。
翌日はバイトを夕方からにして貰い、片道一時間以上も掛かる学校近くの教習所へ、入校手続きをしに行った。
学校帰りや、授業を抜け出して教習を受けに行く計画上、下宿近くの教習所は無理がある。土日しか受講できない教習は、卒業までに一度か二度あるだけだ。それ位なら、アダムのバイトを蹴る事に成っても仕方が無い。何より、免許は早く取りたかった。
バイクの事も、なんとか成りそうだった。
橋田の兄・始が、自分が乗っていたバイクなら、安く譲ってくれると言ってくれた。了の近況を聞くついでの様にして、利知未から連絡を入れた。同じ学区内にある橋田家だ。利知未が土日祝にアダムでバイトをしている事を告げれば、相手の都合の良い時にいつでも会える。
そういう点で、中学時代の仲間達も偶には会う事が可能だ。
高坂と大野、貴子などは、一ヶ月か二ヶ月に一度位は顔を出してくれた。最近はアダムが、高坂と貴子の待ち合わせ場所にも成りつつある。
この二人はどうやら、中学卒業後の春休みくらいから、付き合い始めていたらしい。どちらから告白したかは、恐らく貴子からだったのでは無いかと、利知未は推測した。
貴子は高校でも陸上部に所属し、既に期待の星となっている。
高坂、大野は帰宅部だ。こいつらは応援団以外は向かないだろうと、利知未も思う。二人が入学した高校には、団部は無い。
高校でも、ヤンチャ方面で既に、かなりの有名人らしかった。
そして二人は利知未との約束通り、月に一度はライブを見に来てくれていた。
利知未は、中学時代の応援団部での出会いには、特に深く感謝をしている。
六月二十九日に入校手続きをして、直ぐに期末テストだった。
取り敢えず、テスト期間中だけは教習所通いを止めた。テスト最終日にはライブがあり、その後、夏休み前までの三週間弱で、利知未は中型免許を取ってしまった。勿論、学校をサボった。
テストが終われば、各教科も進み具合がぐんと減る。その間のノートは、夏休みに入る前日、終業式の日に透子から借りた。
「良いタイミングじゃん。利知未なら八月頭迄には追いつけるよ。」
ヘラリと力の抜ける笑顔で、透子は全教科のノートをドサリと利知未の机上に置く。パラパラと眺めて見て、軽く溜息を付く。
「…って言うか、それでもこんなに進んだんだな…。」
冷や汗が出てきそうだ。
そのノートを、学校にいる間に一部だけ写し取った。当然、終業式は蹴った。そしてまた、問題児・瀬川利知未の名前が定着する。
七月一杯はアダムのバイト時間も増やさず、兎に角、一学期のサボりを取り戻す事に充てた。夏休みの宿題にも手を付ける。
『敬太とゆっくり会えるのも、八月入ってからになりそう…。』
偶に手を止めて、女の利知未が溜息を付く。バンド活動は続けている。
あれから一度だけ、ライブの帰りに求め合った。…生理が終わった途端、想いが疼き出してしまったのだ。それでも少しは我慢していた。
『でも、本当は、もっと一緒にいたいな…。セガワじゃなくて、自分で。』
その時の事を思い出すと、また想いが疼き出してしまう。
身体がその事について、良く反応する様にはまだなれないが、ソレによって敬太との深い絆を感じられると言う事が、大切だった。
『…今日、練習日だな…。』
女の自分が頭を擡げて来る。今月も月の物が終わったばかりだ。
『…我慢、出来ないかもしれない…。』
物思わしげな吐息が漏れた。
八月に入り、一週目が終わるまでには、一学期の遅れを取り戻す事が出来た。それからやっと、バイト時間を増やした。
アダムの定休日は毎週木曜日だ。火・水・金はバンド活動があるが、利知未は、ここに来てやっと、その木曜日を敬太と会う時間に充てる事が出来た。バイトは土・日・月曜と、火・水曜の開店から十七時で入る事にして、金曜はライブのみに集中する。
『ショーが無いな。限定解除は冬休みまで待つか…。』
色々考えて、利知未は限定解除の免許取得をそこまで延ばす事にした。それに、橋田兄から譲り受けた、400がある。暫くはこれで我慢だ。
二学期からバイク通学をする事にすれば、今まで一時間半近くの時間を掛けて通っていた学校も、約半分の時間で済む。
バンド活動日は今まで通り、帰りのホームルームを蹴って、一度、帰宅するつもりだ。敬太と二人でいられる時間を削るのは勿体無い。
敬太にとっても利知未を送って行く時間は、お互いに忙しい恋人同士が一緒に居られる、プチ・デートタイムみたいな物だ。
美由紀にも、敬太の事は改めて紹介したいと思うのだが…。
最近のバッカス事情を考えると、中々、難しそうだった。
十日過ぎ。利知未がバイト中のアダムに、宏治が現れた。
「次のライブ前、時間ありますか?」
カウンターに座った宏治が、淹れ方を教わったばかりの珈琲を出してくれた利知未に聞く。マスターは利知未に、この店のメニューに載っている珈琲・紅茶の淹れ方を、全て教え込むつもりだ。
「夕方までなら、空いてる。」
「倉真から伝言です。約束を守ったから、一度この前の曲をセッションして下さい、って。」
「ソー言う事か…。構わないけど、また宏治の部屋を借りないと場所が無いな…。」
宏治が、珈琲にミルクだけを入れて掻き混ぜる。最近、砂糖を入れなくなった。この店で飲む珈琲は、砂糖無しでも充分、美味い。
「それは構いません。…瀬川さん。また腕、上がった?」
珈琲を飲んで、宏治が言った。生意気に味が判る様子だ。
「サンキュ。あのヒト結構、厳しいんだぜ。」
軽く片目を瞑って見せる。マスターはカウンターの隅で、呑気に新聞なんぞ呼んでいる。
「…成る程。カウンターは任せたって、感じですね。」
「その、つもり見たいだな。」
呆れが混ざった様な笑顔を見せた。内心は、嬉しくない事も無い。
『元々、瀬川さん、物覚え早いし器用だからな。』
宏治も納得した。今は店も暇な時間である。
宏治は高校に入ったら、バッカスを手伝うつもりだ。調理師免許も取るつもりでいる。将来に渡って、母を手伝おうと決心していた。
それで味覚を鍛えているが、その事は誰にも話した事は無い。
「じゃ、金曜。済みませんが、お願いします。」
宏治の言葉に頷いて見せる。宏治は、それから三十分程して帰った。
その週の金曜。利知未は約束通り、セガワで宏治の家に行った。倉真は待ち構えていた。
「俺、あれからケッコーやって来たンす!早く始めましょうよ!?」
顔中、嬉しげにほころばせている。
利知未はこのモヒカン少年に、偶に自分の昔を見る。まだ裕一が生きていた頃。団部センパイ達の周りを、チョロチョロしていた頃の自分だ。それで補導少年達の中でも、印象が強い。
和泉は、また別の意味で印象深い奴だ。あんな真面目そうな奴が何故、最近、コイツを含めた少年達と一緒に行動しているのか、やや不可解だ。
和泉と倉真は、相変わらずライバル視し合っている。だから、喧嘩をしに顔を合わせている様な物なのだ。
何を好き好んでそんな事を続けているのかは、やはり理解に苦しむ。
倉真に急かされ、ギターをアンプに繋げて準備をした。ここは住宅街だ。音は小さめに設定する。いくら昼間でも限度という物がある。
カウントを取り、セッションを始めた。
セガワは何処で演奏していても格好イイと、倉真は感じる。
利知未は意外とフィーリングの合う音を奏でる倉真に、感心した。
似た者同士で、音に対するイメージも似ているのかも知れなかった。ついノッてしまって、歌まで口を突いて出て来た。倉真も上手くハモリを入れた。宏治は少しだけ感動した。
『倉真って、意外とやるんだな…。』
改めて、知り合ってまだ一年しか経っていない、この少年を見直した。
曲が終わりポーズが決まる。たった一人の観客、宏治が、拍手を寄越した。倉真は初めての体験で、少し照れて見せる。
利知未はセガワスマイルを倉真に向けて、手を差し伸べた。
「気持ちイイ音、持ってんじゃネーか?」
へへっと笑って、照れ臭そうに握手をしながら、倉真が礼を言った。
「やっぱ、セガワさん格好イイっす。ありがとうございました!」
利知未はまた一人、気の合う仲間を見つけた。
四
夏休みも残り二週間を切った頃になって、倉真の家出グセが一端、収まった。最近は自宅に戻っている日も、少しは増えている。
倉真は、その顔付きにも見て取れる様に、頑固な性質を持っていた。
セガワに対して、尊敬と憧れの念は強い。宏治とも、ここに来て随分と仲良くなっている。それでも、自分の家庭事情などの詳しい話は、愚痴としてでも、決して口にしなかった。
その反動で、かなり血の気が多くて喧嘩っ早い。ストレスは喧嘩とバイクで発散する。音楽は、純粋に楽しむ為だけにやっていた。
宏治は、館川家の事情は知らない。ただ、倉真が父親と何か大喧嘩をして、家出をして来たのだろう、と言うくらいは想像がつく。
大体、宏治の家に泊り掛けで現れる時の倉真は、いつも顔を腫らしていた。
二十日頃の話しだ。倉真が数日振りに、宏治の家へ遊びに来た。
夏休み中だと言うのに、宏治が学ランを着て出掛け様としている所へ、やって来た倉真が不思議そうに聞いた。
「この暑いのに、何でンな格好してんだよ?」
またも友人に借りたバイクでやって来た倉真に、宏治は言葉を濁した。
「…チョイな。…義務、果たしに行ってくる。」
何時もの柔らかい雰囲気と、少し違っていた。
倉真の覚えでは、今の宏治はライブハウスで和泉と再会した時、自分に鋭い声で注意を促した、その時の印象に近かった。…ピンと来る。
「…喧嘩か?」
曖昧な表情で軽く首を傾げる宏治に、倉真はニヤリとして言った。
「面白ソーじゃん。俺も連れてけよ?」
「お前には、関係無い事だ。」
軽く突き放す言い方をする。それでも倉真は、ニヤリとした表情を崩さない。
「こんなトコまで遊びに来たダチを、無視して出掛けよーってのかよ。」
バイクへ跨ったまま、ハンドルに器用に頬杖を付いている。
「…気に入らネーなぁ…。チョイ、ムシャクシャしてたんだ。お前が断っても、勝手に付いてくぜ?」
そう言って、タンデム用のヘルメットを宏治に投げて寄越した。宏治は投げ渡されて一応、落とさない様に受け取る。
「乗れよ。何処まで行くんだ。」
タンデムシートを親指で、後ろ手に指差した。
『…コイツ、言っても聞かないんだよな…。』
そう思い、半分呆れながら、宏治はバイクの後ろに向かった。
同じ頃に、利知未のバイト先へ双子の片割れが現れた。すっかり利知未に懐き始めた様子の、樹絵の方だ。
「な、夏休み一杯、勉強教えてくれないか?」
チョコレートパフェを長いスプーンで突き崩しながら、樹絵が言う。
「いきなりどうした。…夏休みの宿題、溜まってるのか?」
利知未はアダムでバイトをしている間、どちらかと言うとセガワに近くなる。制服が男物の所為かもしれない。条件反射だ。
「違うよ!」
樹絵が頬を膨らませて、異論を唱えた。気を取り直して話し始める。
「昨日まで実家に戻ってただろ?そんでさ…、何か従兄弟の中で、一番年上のが都内にいるんだけどさ。」
言って、バナナにかぶり付く。租借して飲み込んでから、続けて言った。
「そのヒト、成城学園って中学でセンセイしてるんだって。幼稚園から高校まで、エスカレーター式の学校。」
今度はアイスだ。口に頬張り、冷たさにキーンと来る。
「…それで?」
少し呆れた顔をして、利知未が先を促す。
「だから、親が言うには、『あんた達は離れて暮してるから、色々と心配もするのよ。でね、学校で信夫ちゃんの目が近くにあれば、少しは安心も出来るんじゃないかと思うのよ。確かに入学金や授業料は高いけど、あんた達の安全の為だと思って、その辺は何とかするから、そっちの学校に編入しないかい?』…だってさ。」
母親の口調を真似しながら樹絵が言う。利知未は双子の入居時、階下から聞こえて来た賑やかそうな喋りを思い出す。
「あーあ。城西も面白くなって来てたンだけどなー…。…でもさ、ウチだって余裕がある訳じゃないから、スッゲー決心して言ってたと思うんだよな、母さん。だから、我が侭も言ってられナイだろ?」
生意気に、カウンターに両頬杖を突いている。片手を上げて、今度は黄桃をフォークで『ぶすっ』と刺して、口に運び頬張る。
「それにさ。あたし、高校受験なんて面倒臭そうな事、アンマしたくナイから、ちょーどイイかと思って。」
今度はニヤリと笑って見せる。嫌々ながら、自分で納得しようとしている様子だ。逞しいと思う。利知未は最近、この双子を見て、本当の逞しさを知った気がしている。
何かに一途に頑張って、頑固に貫き通す事が、逞しいと言う事かと思いがちだったが、実は、その反対の様な気がしてきていた。
新しい環境に素早く慣れ、それに上手く順応して行く能力が優れている者ほど、実は本当の逞しさを持っている、と言う事なのではないか?双子は、その典型の様に見える。見習うべきかもしれない。
「それで編入試験、受けるのか?」
利知未の質問に、樹絵が頷いて言った。
「ソー。だからさ、それまで一応、勉強ガンバローかと思って。」
「…あたしも忙しいからな。そんなに時間、取れないと思うぞ。」
「イーよ。玲子にも教えてもらうし、冴史だってあたしよりかアタマ、イーだろ?一年の勉強なんて、ヘノ河童って感じじゃん?」
だったら自分が教える事も無さそうだと思う。利知未の表情に素早く樹絵が反応する。
「でもさ、理数はやっぱ利知未じゃないと解らないんだよ。玲子も冴史も頭良過ぎて、ムツカシー言葉、使うから、混乱しちゃうんだ。」
「…それは、どー言う意味だ?」
また呆れてしまう。ヒトにモノを頼むヤツの言葉にしては、違うだろうとも思う。同時に少し可笑しくも有る。樹絵らしい。
「だからさ、頼むよ。秋絵はあたしよりも勉強出来るから、問題ないと思うんだよな。って事でさ、理数の専属家庭教師してくれよ?」
もう決めた!と、言い放つ。
「…仕方ない…。見てやるか。けど、本当に時間ナイからな。覚悟して置けよ。ハイペースで行くぜ。」
「…だよな…、分かったよ。努力しまーっす!よろしく、先生。」
ニコリとして返事をし、残りのパフェを平らげに掛かった。
リノリウムの床を、大きな足音を立てない様に注意して歩いている。6102号室へ向かう、その途中。準一が和泉に話し掛ける。
「一昨日からかぁ…。真澄ちゃん、最近、調子良かったのにね。」
「そうだな。…夏と冬は、特に落差が激しい感じがする。」
「…オレが連れ回しちゃったから…。疲れさせちゃった…?」
下から覗き込む様にして、和泉に申し訳無さそうな表情を見せる。
準一が、それでも反省している様な表情を見せるのは、真澄の事を気遣う時くらいだ。後は去年の秋、ライブハウスで大騒ぎを起こして、セガワに頬を張られた時くらいだろうか?
補導された時でさえ、親にも、自ら巻き込んだ倉真に対しても、ヘラリとしていたくらいだ。
「そう言う訳じゃないだろ。お前が気にするな。それに、真澄が元気な時くらいは、一緒に遊んでくれる奴がいないと可哀想だ。」
和泉の言葉に、準一が笑顔を見せる。気を取り直して言う。
「そーだよね。オレ、真澄ちゃんのコト好きだよ。いくらでも遊んでやるよ!…今度、退院してきたら、どっか行こう!」
「そーだな。…お前は真澄の前で、そうやって元気にしていてくれよ。その方がアイツの気が晴れる。」
「任せてよ!」
何時ものヘラリとした笑顔になって、病室のドアを開けた。
その頃、倉真の運転するバイクが、城西中学自転車置き場へ到着した。集合場所だ。倉真と城西団部喧嘩部隊が、初顔合わせをする。
派手な頭の、見慣れない奴を連れて来た宏治に、団長・結城が聞く。
「手塚、ソイツは?」
「悪い。部外者だ。…さっき偶々、おれの家に来たんだ。」
「で、連れてきたのか?」
結城は少し呆れた顔をする。
「ワリーな。喧嘩って聞いたから、混ぜて貰おうと思った。勝手に着いて来たんだよ。…俺は、館川倉真。あんたは?」
「城西中学三年、応援団部団長・結城一彦だ。…お前、何処の学校だ?」
「都内の、東都荒川だ。三年。」
東都荒川中学。ヤンチャ騒ぎで結構、有名だった。宏治は以前、一度聞いていた。尾崎を始めとする城西団部メンバーが口笛を吹く。
「城西の喧嘩騒ぎに、他校の生徒が混ざるのは、どうかと思うんだがな。」
腕を組んで、結城が少々顔を顰めた。宏治は軽く溜息を付く。
「イーンじゃネーの?足手纏いにならないヤツなら。」
尾崎がマイペースに言い放つ。倉真が、その言葉に反応する。
「話しの解るヤツ、インじゃネーか。腕っ節、試して見るか?」
スタンドを掛けてバイクを降りる。向き直って指の関節を鳴らす。
尾崎にストレートパンチを放った。尾崎は、その拳を掌で受け止めた。
ヒュー!と、息が鳴る。お互いにニヤリとし交わす。
「団長、コイツ中々、ヤリそーだぜ?連れてこうぜ!」
宏治と結城は顔を合わせ、首を竦めて溜息を付く。団長と副団が了解すれば、他の連中は異論を唱える事は出来ない。
「…し方ネーな、手塚の客人だ。…持てなさせて貰うか!」
「…悪い。」
二人が言葉を交わし、倉真と尾崎は、再び目を合わせてニヤリとした。
それから宏治をタンデムシートに乗せて、城西団部喧嘩部隊と一緒に移動した。
喧嘩現場での倉真は、水を得た魚だ。生き生きと拳を振るう。宏治と結城は呆れ半分で眺めた。尾崎は倉真の喧嘩を見て、少し嬉しそうだ。
『アイツのパンチ、マトモに食らってたら、どーなってた事ヤラ…。』
そう思いながら、自分も嬉々として敵を張り倒して行く。元・団旗持ち尾崎は、パワーファイターだ。倉真も中々パワーがある。そしてバネもあった。どうやら、運動神経と反射神経は優れているらしい。
宏治は相変わらず、相手の攻撃を上手い事、交わして行く。隙があれば、利知未に少しだけ教わった力の受け流しを使い、相手を転ばす。
仕留めるのは別メンバーの仕事だ。宏治の喧嘩はそれで良い。偶には転んだ時の打ち所が悪くて、伸びるヤツもいる。
倉真達が、喧嘩騒ぎで大暴れしている頃。和泉と準一は、真澄の病室を見舞っている。
「準一君、来てくれたの…?ありがと。」
真澄はベッドに半身を起こし、可愛い笑顔を見せた。
「起き上がって、大丈夫なのか?」
ベッドに近付きながら、和泉が気遣わしげに聞く。
「うん。今日は調子良いの。これなら、何時もより早くに帰れそう。」
「良かったね。じゃ、退院したら何処、行こうか!?」
準一が嬉しそうに聞いた。真澄が少し考えて答えた。
「そーだな…。紅葉、見に行きたいな。」
「じゃ、どっか綺麗なトコ、探しておくね。」
「うん。楽しみにしてる。」
準一の呑気そうな笑顔は、いつも真澄の気持ちを和らげてくれる。
和泉は準一の、時に寄ってはとんでもない騒ぎを引き起こしてくれる呑気さに、呆れながらも感謝もしていた。
真澄の事は、自分の一生を掛けても大事にしてやりたいと思う。
真澄も和泉に良く懐いている。小さい頃から病弱な自分に、愛情を注いで来てくれた。自分の事で苦労を掛けてしまう両親にも、和泉は真澄の感謝の気持ち分だけ、余計に良く助け使えている。
真澄の心臓は、生まれた時から変形していた。それに気付いたのは小学校に上がる前だ。それから、真澄の闘病生活が始まった。
心臓移植をするには、年齢が若過ぎる。日本での移植手術は、十五歳にならなければ受ける事が出来ない。
元気な時には自宅に戻る。しかし、不整脈が頻繁に起ったり、何かショックを受けた時には、どうしても病院に逆戻りだ。真澄はそんな生活の中、健気に生きようと頑張っていた。
調子の良い時は、準一が良い遊び相手になってくれた。準一と真澄は幼馴染で、同い年だ。そして和泉は、この妹を大切にしている。
元々、このままで行けば、二十歳まで生きられるかどうかも保証出来ないと、医者から宣告を受けている。
その事は真澄自身、薄々気付いている。家族は、その事は一言も口にしないが、自分の身体の事は、自分が一番良く解る。
それに気付き始めた頃は、調子が良くて家にいる時でも、どうしても暗く沈みがちになってしまった。その真澄を笑わせ、元気付けてくれたのは、いつも和泉と準一だった。真澄は、二人の事が大好きだ。
「今日はね、真澄ちゃんに見せてやろうと思ってさ。新しい手品、覚えてきたよ。見たい?!」
「うん!今日のも、トランプ?ちょっと待ってね。」
真澄が腕を伸ばし、テレビ台の下の引出しを開けて一組のカードを出す。トランプを受け取り、準一は覚えて来たばかりのカードマジックを披露した。真澄はいつも、それを楽しみにしている。
和泉も窓際に寄りかかって、それを眺める。真澄の楽しそうな笑顔を見ると、安心出来た。
『…まだ、ちゃんと生きてる。笑うし、驚くし、手を叩く…。』
そう思って自分の表情が緩んでいくのを、心地良い気分で受け止めた。
その日の夜。バッカスに、少年達と利知未が偶然にも集まった。
本来バンドの練習日だった。今日はメンバーの都合が悪く偶々、時間が空いたのでバイトを入れた。帰宅後、樹絵に頼まれて勉強を二時間程見てやってから、美由紀と女同士の話しをしたくて、夜十時過ぎになってからバッカスへ顔を出した。それで身体のラインが隠れない、普段着のTシャツを着てきた。念の為に、メンズのパーカーは羽織って来ていた。
最初に顔を出したのは、宏治と倉真だった。二人共、怪我をしている。
倉真の姿を見た利知未は、少し慌て、パーカーのファスナーを胸の上まで上げた。美由紀は利知未の様子を見て、困った様な呆れた様な、何とも言えない表情になる。
『さっきまで女の子らしい利知未だったのに…。全く!二人共、間が悪いったら無いわね…。』
軽く溜息まで出てくる。宏治が母親の様子に気付いて、バツの悪い顔をする。
「あれ?!セガワさん!今日は来てたンすね!」
倉真が、絆創膏だらけの顔で笑いかける。利知未は気持ちを切り替え、セガワらしい態度になる。声の高さまでワントーン落ちる。美由紀はもう一度、小さな溜息をついた。
「久し振りにな。…お前、その顔どうしたんだよ?」
宏治の方が怪我自体は少なかった。利知未の訓練のお蔭だ。
「…チョイ、騒ぎがあって…。倉真も乱入したんです。」
宏治が少し呆れた顔で説明した。倉真が横から口を出す。
「乱入ってのは、チゲーだろ?助っ人って言ってくれよな。」
カウンター席の、利知未の近くに座りながら言った。そのまま今日の喧嘩騒ぎの話しを始めた所に、和泉が珍しく顔を出した。準一も一緒だ。
この二人は、宏治に用事があった。電話を入れて見た時、倉真と二人で出掛けて行った直後だったらしい。電話口に出た宏治の兄・宏一から、多分ここにいるだろうと言われた。
和泉は店に顔を出した途端、怪我だらけの倉真が目に入り、ここに来た理由も忘れ早速、睨み合いだ。真っ赤なモヒカン頭、いつでも挑戦的な視線。見るだけで気分を苛つかされる。
「モヒカン、いたのか…。また随分と男前になっているじゃないか。」
軽めの口調に反して、表情は厳しい。
「なんだよ、ボーズ頭。お前が来たんじゃ、気分が白けちまうぜ。」
倉真も、口だけでニヤリと笑って言い返す。
「お前の気分なんか、俺には関係無い。…宏治に用があるんだ。ちょっと良いか?」
倉真を一睨みして、直ぐその存在に無視を決め込む。倉真は和泉の真面目腐った態度に、いつも苛立ちを覚える。
準一は一席空けていた、利知未と倉真の間の席へ、ちゃっかりと腰掛けた。相変わらずの呑気な笑顔を向け、倉真の苛立ちをまた煽る。
和泉はそのまま、宏治を挟み、倉真と距離を置く様にして話し始める。倉真の右隣に宏治、その隣に和泉が座っている。利知未は美由紀と顔を合わせ、小さく首を竦めた。
準一の、何時も通りの軽い言葉が、倉真の癇癪スイッチに触れた。
「何で、そんな怪我してんの?バイクでコケたの?」
ヘラリと笑う。倉真のスイッチが、もう少しで入りそうだ。
「チゲーよ。」
「じゃ、喧嘩だ!もしかして負けて来たの?!倉真でも勝てない相手って、どんなんだ!?もしかして、宏治と喧嘩して負けたの!?」
何も考えていない。ただ、宏治の方が怪我が少ないから言って見た。
ヘラリとした準一の、Tシャツの後ろ襟首を掴んだ。ギリギリと力を入れる。
「わ、わ、わ!ちょっとタンマ!!オレ、何か言った!?」
利知未に視線を向け、SOSサインを送る。利知未が厳しい表情で立ち上がり、倉真の腕を掴む。
「倉真!…店ン中で騒ぎ起こすんじゃネェよ?」
低いが、その睨んだ瞳と並んで迫力がある。美由紀は、こうなると利知未に任せてしまう。
少し椅子から浮いた様になってしまった準一の尻が、ストンと元の場所に納まった。首へ手を当てて小さく咳込む。
和泉も椅子から立ち上がっていた。宏治の後ろを回り込み、ツカツカと倉真に向かって行く。気付いた倉真の胸座を、正面から掴み上げた!
「和泉!」
利知未の声が飛び、宏治が立ち上がって和泉を止めに掛かる。
「テメー!準一が、何したってんだ!?」
ギリギリと掴み上げられた倉真が、和泉の手を下から払う。離れた反動で、後ろのセガワに、身体ごとぶつかった。
その時、倉真は背中で、有得ない筈の何かを感じた。
五
その瞬間、美由紀は首を摩って小さく咳込む準一に、水を出していた。
宏治は、同じ様に反動で、少し後ろに弾かれた和泉の身体を支えていた。
倉真はセガワに支えられ、背中に触れた男の体には有得ない、柔らかい部分を感じ、驚愕の表情で振り向いた。
倉真の身体が離れた瞬間、利知未は、その視線の先にある自分の胸を、両腕で覆い隠す様にして視線を外した。
「…セガワ、さん…?あんた…。」
呟く倉真の声に、利知未は何も返せない。美由紀はその雰囲気を見て、困った様な表情の裏で、少しだけ安堵した。
準一と和泉は、二人の様子を、訳の分からない顔で振り向き見た。
宏治は離れた和泉の背中を通して、利知未の様子を見つめる。
「…マジかよ…?あんた、女だったのか!?」
その言葉で、和泉と準一も表情が変わった。驚きと信じられない思いが一気に膨れる。和泉は倉真が嘘を言っているのでは無いかと目を見張る。
何も言葉を発さない利知未の変わりに、美由紀が声を出した。
「…バレちゃったんじゃ、仕方ないんじゃない?」
諭す様な美由紀の声に、利知未は小さく頷いた。足に力が入らない。そのまま椅子に掛け直す。
倉真と和泉は立ち尽くす。準一は、徐々に表情が解れていく。
『兄貴じゃ無かったんだ…。じゃ、姐御かな?』
どっち道、深くは考えない。任侠漫画には、格好良い姐御も付き物だ。逸早く、ショックを新たな楽しみに変え、隣のセガワをじっと見る。
『へー。美人じゃん!?これは、これで楽しそう…!』
呑気な感想を持った。
面白そうなニヤケ顔をセガワの横顔に向けている準一を見て、和泉は、その興味の変化に気付いた。半分、呆れながら観察してしまう。
『コイツは、また直ぐに順応しやがった…。』
そして、そのお蔭で、自分も冷静さを取り戻した。
倉真は自分の身体で感じたセガワの正体を、まだ信じられない思いで呆然としている。
『…何でだ?セガワさん。…本当に、本当なのか…?そりゃ、男だって女だって、関係無いかも知れネーけど…、』
釈然としない。
始めてライブハウスでセガワを見た時、本気で格好イイと思った。
それから何度も、ライブに足を運んだ。この人は、ずっと格好イイままだった。
補導事件の時、自分の腕を捩じ上げた力は、女の物とは思えない。あの時、後ろから囁かれた声は、凄みの効いた音でビクリとした。
準一達と再会した時の、あの大騒ぎ。自分と和泉を投げ飛ばした強さ。拳で撲られた頬の痛さ。睨みを効かせて叱り飛ばされた、あの瞬間。本物の強さを感じた。
喧嘩も、その後の態度も。店に詫びを入れた時の潔さ、格好良さ。
そして十日程前の、あのセッション…。セガワは何処で歌っていても、格好良かった。
曲が終わった時の、あの笑顔。握手を交わした手の……。
そこまで思い出して、今更の様に気付く。セガワの手は指が細くて長くて、…柔らかかった。自分の手を見る。まだ中学三年とは言え、手首から親指の形は…。
あの手に比べて大きく、少しはゴツイ。
『セガワは、十八歳の高三の筈だ。ギタリストの手って、あんな感じで綺麗なヤツも多いけど…。セガワの手は…。』
とても自分より三歳も年上の、男のモノとは思えない。
「…倉真。大丈夫か?」
宏治の声がして、倉真は物思いから現実に引き戻される。
「…悪い。まだ、何か混乱してる。…頭、冷やしてくる。」
言い置いて、倉真は店の出口に向かった。
利知未はピクリとして、立ち上がろうとした。
『アイツは…ショック、デカかったみたいだな…。…追い掛けた方が良いかも知れない…。』
思うが、力が入らない。宏治が後ろから、その両肩を優しく抑えた。
「瀬川さん、おれが行きます。…貴女は、和泉達に話してやって下さい。」
その声に、入りかけた力がまた抜けてしまう。利知未の力の変化を両手で感じて、宏治は静かに踵を返して、倉真を追い掛けた。
美由紀は息子の成長をまた感じて、頬が少し緩む。
『良く、育ってくれたモノだわ…。利知未の影響かしら?』
「さ。倉真の事は宏治に任せて、利知未は二人に説明してあげたら?」
三人に、薄い水割りを出してくれた。
倉真を追い掛けた宏治は、手塚家の方向へ向かう後姿を見付けた。
『バイク、取りに行くのか。』
納得して後を追い掛ける。倉真の足取りは、あまり覚束ない。
ゆっくり追い掛けて、家の前でバイクに跨る倉真に追い付いた。
「倉真!飲酒運転は危ないだろ?」
声を掛けられ振り向く倉真に、近付いて行く。
「…お前は、知ってたンだよな。」
一瞬俯き、軽く顔を上げてから、倉真が言った。宏治は黙って頷いた。
「悪かった。騙す事になった。」
真摯な瞳を倉真に向ける。言い訳は、しない方が良い。
暫く沈黙があり、ヘルメットを投げ渡された。
「チョイ、付き合えよ?」
飲酒運転の後ろに乗るのは、危険な気もするが、今はそんな事を気にしていられない。ヘルメットを素直に被って、タンデムシートに跨った。
バッカスでは利知未が、FOXに参加し始めた中二の頃からの事を、和泉と準一に少しずつ話し出した。美由紀には二度目の話しだ。
今回も由美の事には触れずにいた。ただ少しだけ、身近な人物が二人も亡くなった事にだけは触れた。その部分は、美由紀も聞いたのは始めてだったが、利知未が深く語ろうとしない事を、詳しく聞くのは止めた。…いつか、聞かせてくれるだろう。
話しを聞いている内に、和泉は、真澄の事を思い出した。
利知未が最愛の兄を失った経験は、いつか自分も、同じ様な経験をする事になるだろう。
だが、自分には…。哀しい事だが、その事に対して心の準備をする事が、いくらかは出来る。いつか消えてしまう命を慈しみ、大事にする時間は、まだ少しは残っている筈だ。
準一は、ただ感心して、感動しながら聞いていた。そして益々、憧れる。自分は、決して辿る事は無いだろうと思う様な、波乱万丈な人生だ。
その、いくつかの大事件を乗り越え、格好良く生きている利知未に、新たな興味が沸いてくる。男とか女とか、そんな事は、準一には余り深い意味なんか無い。ただ、兄貴が姉御になるだけだ。
「…あたしの本当の名前は、瀬川 利知未。十六歳。…まだ、高校一年になったばかりだ。」
そう話しを区切って、利知未は水割りを飲み干した。
「…この事を、FOXのライブに来てくれている皆に話すかどうかは、…お前等に、任せるよ。」
心は決まっている。まだ、由美への贖罪は果たし切っていないとは思う。だが、自分を何故か、ここまで慕ってくれている少年達に、正体を明かした以上、それを無理に押し通す気も無い。それは、二重に人の心を裏切る事になる。
『ごめんな、由美。』
心の中で詫びた。
もう二度と、由美が愛したセガワは、あのステージに立てないかもしれない。
悔し涙が浮かんできた。利知未は慌てて、そっぽを向いた。それでも泣かない。裕一と約束した。
「別に、イーじゃん。セガワが女でも。」
準一が呑気な声を上げる。水割りを飲んで、舌なめずりをする。
「オレ、FOX好きだし。セガワさんが、男じゃ無いとバンド出来ないってンなら、言う必要も無いジャン?態々、話し広げるのもバカバカしーし。和尚は、どうすんの?」
「…俺も、広げる気は無い。…何か複雑な事も、あるみたいだしな。」
準一が、ニコニコして言った。
「男セガワ、格好良くて好きだよ。瀬川さんって、本当に器用なんだな!今まで全然、判らなかった!」
準一の呑気な性格は、周りの人間も巻き込んでしまう。利知未は不思議とリラックスして行く自分を感じた。
『…透子といるみたいだな…。』
そう思うと、徐々に気持ちが楽になる。やっと笑顔を作る事が出来る気分になり、利知未は改めて二人を見た。
「…ありがとう。」
FOXのセガワではなく、利知未としての微笑を初めて、二人に見せた。
倉真達のバイクは、街中を当てもなく走り続ける。無言でバイクを駆る倉真に、宏治がエンジン音に負けない様に大声を出した。
「次、右折してくれ!」
返事の変わりに黙ってウインカーを出し、バイクを傾ける。
そのまま道なりに進んで行くと、高台に出る。
利知未が敬太と初めて結ばれた公園に、バイクが走り込んだ。
「良い眺めだろ?」
バイクを止めて、両足で支えている倉真に、宏治がヘルメットを脱ぎながら、声をかけた。
「…そーだな。」
呟いてエンジンを止める。スタンドを掛けてバイクを降りた。宏治も倉真と並んで、バイクに寄りかかる。倉真がポケットを探り、タバコを取り出した。自分で一本咥えて火を着けてから、宏治にも振るい出す。
宏治は今まで、タバコを吸った事は無い。倉真が偶に吸っているのは見た事があった。
黙って一本貰って咥え、火を着けて見る。小さく咳込む。
「…こんなモン、美味いなんて思えないな…。」
煙りを吐き、タバコの先と、そこから立ち上る紫煙を眺めた。
「安定剤ってヤツ。」
咥えタバコで、口の端から煙を吐き出しながら倉真が答えた。
「成る程…。」
呟き返して、宏治は改めて吸って見る。静かに煙を吐き出して、倉真の言う安定剤の意味を、微かに知る。
無言のまま二人で一本を吸い終わり、足元に捨てて揉み消した。
「…少しは、落ち着いたか?」
周りを見回しジュースの自販機を見つけて、宏治はゆっくり歩き出す。後ろから、倉真の呟きが聞こえる。
「…驚いたよ。」
そして、またタバコを一本、口に咥える。火を着け一吸いした時に、声と缶珈琲が飛んできた。片手で受け取る。
「騙していた事になるな。…ごめん。」
改めて倉真に詫びた。倉真は缶珈琲のプルトップを引き上げ、がぶりと一飲みする。再びタバコを咥えて吸い込んだ。ゆっくり煙を吐き出す。
「何があったんだ?セガワが、FOXのライブに参加する時。」
気を落着けて、宏治に問い掛けた。
宏治が事実を黙っていた事に、腹が立っている訳では無い。
ただ、余りにも見事にファンを騙し切ってきたセガワに、少し腹が立っている。…違う、騙されて、信じ切っていた自分に腹が立つ。
「セガワは…、いいや。彼女の本当の名前は、瀬川利知未。まだ十六だ。」
彼女と表現した宏治の言葉に、驚きながら微かに納得をする。
「…どっちにしろ、十六にゃ見えネーな…。」
倉真の声に、宏治は小さく頷いて話しを続けた。
「あの人は、FOXに参加するようになってから、ホンの二年足らずで、色んな事を体験して来たンだ。…昔は、もっと歳成りの無邪気な人だったよ。…けど、昔から男みたいだった。」
その頃の事を思い出し、宏治は小さく笑った。
初めて利知未と会ったのは、まだ自分が小学校六年の頃だ。丁度、夏。丸々三年の月日を経過している。
セーラー服を来ていた、中一の利知未。初対面の印象は、活発で喧嘩が強い年上の少女。あの時は、二、三歳は年上に見えていた。そしてセーラー服でなければ、きっと自分も彼女の性別を誤解していた。
けれど、あの頃の利知未は、今に比べて無邪気で明るい印象が強い。中学の入学式で再会して始めの半年は、団部先輩達の周りで楽しげに笑っていた。そして本当に少年の様だった。
利知未がFOXに出会った頃、宏治はまだ中学一年。団部の下端として、彼女に馴れ馴れしい態度を取るのは禁止されていた。
その頃の噂では、前年卒業した元・団部副団の彼女として、大事にされていると聞いていた。しかし当時の利知未を見る限り、どうもそう言った色っぽい話には、縁が無い様な感じもしていた。
「初めてセガワがライブに参加した頃、まだ瀬川さんは十四歳だった。それで正体を隠す必要が出来た。それなら年齢だけじゃなく、性別も偽った方がバレ難いだろうって、話しだったみたいだ。」
倉真が二本目の煙草を消した。珈琲を飲む。
「普段から良く間違われてたみたいで、男の振りをするのも難しい事じゃなかった様だ。…背も高かったし。」
軽く首を竦めた宏治に、チラリと視線を向けて、やっと少し笑った。
「…確かにな。今も俺と殆ど変わらネーし。」
宏治は最近、160に届いたばかりだった。倉真は既に170近くまで伸びている。親父も長身で、良い体格をしている。どうやら血筋だ。
「…にしても、それから二年経つ訳だ。…無理があり過ぎないか?」
倉真が再びタバコを取り出す。もう一度、宏治に勧めながら、自分も咥えて火を着ける。宏治は素直に手を伸ばす。さっき初めて吸ってみたが、大した事は無かった。今は、頭を整理するのにも役立つ。
倉真が火を貸す。一吸いして落着き直して、話しを再開する。
「おれもそう思う。けど、あの人はまだ続けたいみたいだ。」
FOXに参加し始めて、半年ほど経った頃。兄を失った悲しみを紛らわす様に、歌にのめり込んだ。その話しは以前、美由紀と聞いていた。
そして、その頃の利知未を、宏治は近くで見て来た。
「おれが初めてFOXのセガワを見たのは、お前と始めて会ったあの日だよ。…それまでの事は、余り知らない。ただ、利知未さんとしての姿は、ずっと見てきた。」
あの頃の利知未を思い出す。突然の訃報で一週間、学校を欠席した後に現れた利知未は、それまでの雰囲気が全く無くなっていた。
無邪気で明るい活動的な姿が、なりを顰めていた。そして、笑顔も中々見せなくなった。変わりに真面目に、授業を受ける様になっていた。
その頃のセガワは、宏治の知らない所だ。ただ、橋田達の卒業式の日。祝賀会で歌を披露して、最後に笑顔を見せた、その顔だけは覚えている。
「始めて瀬川さんの歌を聞いた時、感動した。色々な思いが込められて、それを皆に、伝え様としていた。…あの時は、先輩達に対する、感謝の気持ちが、おれにも伝わった。」
言葉を切った宏治に、倉真が言う。
「FOXのライブ、始めて見た時。俺は、あの人に何故だか凄く惹かれた。良くテレビで報道されていた事件の後、FOXの復活ライブだった。」
小さくなったタバコを揉み消す。吸殻がまた一本、足元に転がった。
「…伝わったんだ。あの事件で、セガワが感じて来た悲しみや、口惜しさが。その時は、ただ何となくだった。…でも、震えた。」
「その頃から、去年の夏までのセガワは、お前の方が良く見ていると思うよ。だから、おれが言う事は無い。…一つだけ確かなのは、FOXのセガワは、決して彼女の嘘の姿では無いって事だけだ。あの姿も含めて、あの人は瀬川利知未と言う、一人の人間だ。…おれは、そう思う。」
利知未の歌、セガワの歌。両方とも同じだ。どっちで歌っている時も、心を込めて音を楽しみながら、想いを乗せながら、そうして歌っている。
宏治達の前では、素の時もセガワの時も、その態度・仕草は、それほど変わらない。ただ、セガワに成る時だけは、持ち前の男っぽさに更に磨きを掛けている。それでも、全く別人になる訳ではない。
「…多分、瀬川さんの正体をバラすかどうかは、お前に任せてくれると思うよ。…そんな気がするだけ…、だけどな。」
話しはここまでだ。その気配は伝わる。倉真は珈琲を飲み干して、離れた屑篭に投げ入れる。缶は屑篭の縁に当って跳ね上がり、軽い音を立てて地面に落ちた。
「…クソ!外した。」
宏治も飲み干して、同じ様にほおり投げる。缶は屑篭の中に、放物線を描きながら吸い込まれていった。面白く無さそうな顔をする倉真に軽く笑って見せて、宏治は思う。
『気持ちが落着くまで、まだ掛かるかな…?』
「もうチョイ、走るか?」
「…そーだな。」
宏治の言葉に返し、倉真は口惜しげに眺めていた屑篭から視線を離した。再び二人でバイクに跨り、公園を後にした。
時間は既に深夜〇時過ぎ。バッカスでは店を出た切り、中々戻らない二人を案じ始めていた。
「…遅いな。」
利知未の呟きに、美由紀が頷いた。
「そうね。利知未の事も心配されている頃じゃない?連絡入れた方が良いわね。」
和泉と準一は、あの話を聞いて、暫くして帰って行った。三十分ほど前の事だ。まだ中学生の二人を、店に受け入れる事も問題ではある。
その事については美由紀自身、案じ事ではあるが、女手一つで二人の息子を、ここまで育てて来た美由紀は、度胸が据わった肝っ玉母さんだ。子供を信じる心も忘れていない。
今は落着いた長男・宏一も、中学・高校の頃はかなりのヤンチャ者で、中々、手を焼かされてきた。高校も出て、今は真面目な社会人だ。
美由紀に言われて、利知未は店の電話を借りて連絡を入れようとした。その時、電話が鳴り出した。利知未は反射的に電話を取った。
「はい…、ありがとうございま…、」
バッカスであった事を思い出し、言葉を直し掛けた受話器の向こうから、ついさっきまで話しをしていた声が、慌てて口を切る。
「瀬川さんですか!?和泉です!今、物凄い勢いでパトカーに追い掛けられてるバイクがあって…!」
「宏治達だったんだよ!どうしよう!?」
準一の声が割り込んできた。話しを聞いて電話を切り、美由紀に告げて慌てて店を飛び出した。
六
和泉達の家は、川上中学の学区内になる。バッカスからのんびり歩いて、大体三十分ほど掛かる距離の筈だ。電話は途中のコンビニ前に有る公衆電話から掛けていると言っていた。少し考えて、自分の息を嗅いで見た。利知未は自分のバイクを取りに一度、下宿へ戻る事にした。
ついでに慌しく、まだ起きて待っていた里沙に一声掛けて、玄関の鍵を受け取ってから、自分のバイクに跨った。
そこから十分も走らせ、和泉達が待っているコンビニへ到着する。
「和泉!準一!倉真のバイクは、どっち行った!?」
ヘルメットの風除けを上げて、大声で聞く利知未に、二人は西の方角を指差して叫び返す。
「どうやって探すんですか!?」
「適当に走らせる!お前等は帰って、風呂入って寝ろ!」
特にセガワとして振舞っている訳ではなかったが、その男っぽい様子に、二人は場違いな感動を覚える。
『瀬川さんって、本当にあんな人なンだ!』
『騙していたって訳じゃ、無さそうだ。』
準一は素直に憧れ、和泉は別の意味で納得する。
つい、見惚れた様になってしまった二人の前から、愛車を駆って西へと、利知未が走り去った。
暫く走らせると、静かな住宅街の向こうから、パトカーのサイレンが聞こえ始めた。
『有難い…!』
夜の街ではその音は、かなりの広範囲へと響き渡る。音で目星をつけて、その方向へとバイクを走らせる。
二人に追い付いて、どうしようとは考えていない。まだ中学生で、無免の二人組だ。兎に角、見つけて、場合によっては自分が囮になってでも、二人を無事に美由紀の元へと帰したいと思う。
二人がこれから先、十六歳になって免許を取ろうと思った時。ここで捕まっていては、その希望も叶わないだろう。
利知未はその思いだけで、二人を探して夜の街を抜けた。
「次、左!!」
宏治の声で倉真が、ウインカーも出さずにハンドルを切る。
後ろから追い掛けてくるパトカーは、しつこかった。もう三十分以上は追いかけっこを続けている。
「直ぐ、また左!」
宏治はこの辺りに、それほど詳しくは無い。だが隣の学区内の事だ。いくらかは覚えもある。
タンデムシートから指示を飛ばし、パトカーが追いかけて来られない様な、狭い道、狭い道へと誘って行く。
パトカーもこの時間、静かな住宅街に響くバイクのエンジン音を聞き逃す事も無い。その音に目星をつけ、追い掛ける。中々、引き離されない。
「クソ!執念深いパトだ!」
倉真がイライラと短く叫ぶ。宏治は、後ろを振り向いて見る。
「次、左行って、直ぐ右!」
言われた通りに走らせた。広い道へ出る。ここを暫く乗り切って、その先を曲がれば、今度こそパトカーを巻ける計算だった。
100キロ近い速度が出ている。目前の信号が黄色から赤色に変わった。無視して通り抜ける瞬間、右折をして来た普通車にぶつかりそうになり、危うくかわした。抜けてきた交差点で急ブレーキをかけた車が止まった。幸い他の車は無く、大事故だけは免れた。
その車の隣を、サイレン音を響かせてパトカーが抜ける。
利知未の目前で、交差点に可笑しな角度で止まっている普通車と、走り抜けるパトカーの、点滅ライトが閃いた。
『あっちか!』
左折の合図を出し、スピードを緩める事無く、思い切り車体を傾ける。
建て直し、益々スピードを上げて、パトカーを後ろから追い掛ける。
バックミラーに映り込んだ、物凄いスピードで突っ込んでくるバイクの姿を見止めて、パトカーの注意が反れた。利知未は更にアクセルを回し、パトカーを抜き去った。
直ぐに倉真と宏治のバイクに追い付く。クラクションを鳴らし、注意を自分に向けてから、タンデムシートで振り返った宏治に手で合図した。
『次を、左折しろ』
かなりのスピードだ。一瞬片手を離すのも、殆ど賭けだ。それでも利知未は宏治の頷きを見て、ホッとしてパトカーの注意を自分に向けた。
「今のは!?」
倉真の驚きの声に、宏治が大声で言った。
「次、左折しろ!」
言われた通りにハンドルを切った。
左折した直後、今まで自分達を追い掛けてきたパトカーが、新たに現れたバイクを追い掛けて、直進して行った。
倉真は、そのまま暫く進めてからスピードを落とした。二人は、バッカスのある町から2区も離れた土地の端を、掠めて来ていた。バッカスがある地区方面へ、進路を取り直す。
利知未はパトカーを引き付けながら、勘だけを頼りにハンドルを切る。一端左折して、態とスピードを緩めた。
パトカーは、暴走バイクが観念して停車をしようとしたと見て、追い詰めの体制に入った。
その様子をミラーで確認し、利知未は再びアクセルを回す。一気にハンドルを切り返し、車体を傾けて、今度はパトカーへと向かって行った。
いきなりの急回転に、追跡者達は一瞬まごついた。その隙を突き、擦れ違う様にして、暴走バイクは真横を掠めて走り去った。
再び、追いかけ始められる前に、利知未は横道へと逸れて行く。進路をバッカスへと向けながら、利知未は思う。
『喧嘩と、同じだ。』
相手の力を利用し、それを受け流し、隙を突いて留めをさす。
場違いな微笑が、浮かんできた。自分に呆れる。
『取り敢えず、戻ろう。』
今戻れば、閉店時間間際には到着出来るだろう。
バッカスへ戻ると、倉真のバイクが店の前に止まっていた。
『無事に着いたんだな…。』
そう思って安堵する。看板は消灯していた。腕時計を見て、深夜二時になる事を確認する。
利知未は、倉真のバイクの隣に自分のバイクを止め、鈴を鳴らして店内へ踏み込んだ。
「お帰りなさい。…ご苦労様。」
美由紀がホッとした笑顔で迎えてくれた。倉真と宏治は、カウンター席に着いて、うな垂れている。一応、反省している様子だ。
利知未は真っ直ぐに、その隣席へ向かい、腰掛けた。
「迷惑掛けました。」
宏治が椅子から立ち、頭を下げる。倉真は、じっと動かない。
「…気にするな。」
宏治に声を掛け、利知未は素の自分で、倉真の横顔に視線を向けた。暫く見つめる。何を、どう言って良いのか見当が付かない。
ポケットを探り、タバコを取り出した。美由紀が軽く睨む。
「…ごめん、負けてよ?」
小さく肩を竦めて見せる。今まで美由紀の前では吸った事がない。灰皿を引き寄せて、咥えたタバコに火を着けた。吸い付け煙を軽く吐く。
「…全く、呆れちゃうわね。利知未は、家の宏一以上の不良娘だわ。」
美由紀も肩を竦めて、軽く息をついた。
「…私にも、一本頂戴。」
その言葉に宏治が驚いた顔をする。母親がタバコを吸うなんて、初めて知った。美由紀は、同じ様に、少し驚いた顔を見せた利知未から一本受け取り、宏治に情けない笑顔を見せる。咥えてカウンターに置いてある、店名入りライターで火を着ける。その仕草、慣れた物だ。
女二人が、一本ずつ吸い終わったタイミングで、今度は倉真が自分のタバコを取り出した。美由紀は益々、呆れた顔になる。
「ここは、いつから不良少年の溜まり場になっちゃったのかしら…?」
軽い言い回しに、宏治が小さく笑って答えた。
「主が、お袋だからな。…倉真、おれにも一本くれよ。」
「…あんたまで、いつの間に覚えてきたの!」
目を丸くする美由紀。利知未も少しびっくりして、貰ったタバコに火を着け、軽く吸い込む宏治を眺めた。
「ついさっきだよ。」
「…悪い、美由紀さん。…俺が教えた。」
俯いたまま、倉真が呟いた。
利知未は倉真の声をやっと聞き、少しだけホッとする。倉真は、火の着いたタバコを指に挟んで、カウンターを見つめながら呟いた。
「…さっきは、助かった。…礼言わないとな。」
躊躇いがちに、利知未の姿を目に入れる。…そして、少し驚く。
『セガワじゃない時は、こんな表情をする人なんだ…。』
カウンターに両腕を上げて、軽く小首を傾げる感じで、自分の視線を受け止めている。やや節目がちの瞳は、少女らしく優しい。
利知未は小さく頭を振って、倉真の視線を、その視線で受け止めた。
「礼は、いらない。…あたしがお前を、…追い詰めたんだ。」
また、人の心を追い詰めてしまった事実に、利知未の心が苦しさを覚える。今日は、これで良かった。倉真は生きて、無事な姿でここにいる。
「…筋は、通させて貰う。」
倉真は視線を引き剥がした。今、隣にいる利知未の姿に、戸惑っている。
「あんたには、また借りが出来た。…感謝する。」
軽く頭を下げ、そのまま続けた。
「…けど。…正直まだ、本当のあんたを受け入れられない…。もう少し時間が必要だ。落着くまで…それまで、その正体を振れ回る気も無い。」
顔を上げ、利知未の視線を捕らえ直した。
「それで、今は勘弁してくれ。」
「分かった。…あたしはもう覚悟してる。お前の思う通りで構わないよ。」
強く優しい光が、その瞳に宿る。その光りを見て、倉真は席を立った。
「美由紀さん、宏治。迷惑掛けて悪かった。…今日は、家に帰る。」
頷く宏治に軽く手を上げ、踵を返して店を出て行った。
倉真が扉を抜ける鈴の音を、利知未は背中で聞いていた。
気配が店外へと消えた事を感じ、利知未の張り詰めていた気持ちが、ふっと緩んだ。軽い息となり、体の外へと吐き出される。
その利知未を労わり深い瞳で見つめて、美由紀が言う。
「何にしても、三人とも無事で本当に良かったわ。利知未、ありがとう。」
「…あたしは、何も。…ただ。」
視線を落とし、利知未は零れ落ちそうな涙をじっと堪えた。
美由紀と宏治は何も言わずに、そっと利知未を見つめていた。
翌日。利知未は余り眠れないままに、朝を迎えた。
今日は敬太との約束があった。起き出して服を着替えて、外出の準備をする。それから洗面を済ませるために、部屋を出た。
『酷い顔だな…。』
洗面台の鏡を覗いて、利知未は小さな溜息をつく。
『また、敬太に心配させちゃいそうだ。』
そう感じて、笑顔の作り方の練習をしてみた。背後でドアが開く音がして、慌てて表情を変えた。
「昨夜は遅かったのに、もう目が覚めたのね。」
部屋から出て来たのは玲子だ。挨拶よりも先に、少し挑戦的な口調で利知未に突っかかる。
「挨拶も抜きで、朝っぱらから喧嘩吹っかけんのかよ?」
何時もの様子を作り、利知未は鏡越しに玲子を軽く睨んでやった。
「あら、悪かったわね。こんな時間に、あんたに会うことが珍しかったから。…おはよ。」
「…ったく。」
冴えない様子の利知未に、玲子は気付いた。
『また、何かあったのかしら?』
喧嘩相手でライバルでもある利知未の様子は、玲子には良く判る。心配な気持ちも浮かんでは来るが、今更のように優しい声を掛けるのも、何と無く態とらしい感じだった。
「…さっさと食事、取りなさいよ。」
ふいと視線を逸らすと、利知未の後ろを横切って、手洗い所のドアへと消えた。鏡へ映っていた玲子の姿が消えてから、利知未は自室へと戻った。朝食を食べられる気分にはなれなかった。
直ぐに小さなバッグを持ち、部屋を出て来る。階下へ降り、真っ直ぐに、玄関へ向かった。
敬太は今日も、下宿の前まで迎えに来てくれた。利知未は約束の時間よりも少し早くに、玄関を出て待っていた。
「お早う。待たせちゃったかな?」
運転席側の窓を一杯に開けて、敬太は何時も通りの優しい笑顔を見せてくれた。
今日は練習時間前までの、慌しいデートでは無い。ゆっくりと二人で長距離ドライブを楽しもうと、父親の車を借りて来た。
「今、出てきた所だよ。…今日は何処まで行こうか?」
気分を切り替えるように努力をして、利知未は洗面台の前で、練習していた笑顔を作って見せる。
その笑顔の裏側の気持ちを、敬太は何と無く感じる。また何か悲しい事が彼女の身に起こったのだろうかと、少し心配になった。
「どこでも。利知未が行きたい所まで、連れて行ってあげるよ。」
気持ちを尋ねる代わりにそう言って、敬太は利知未を助手席へと迎え入れた。
「そっか。…じゃぁ、今日は山方面が良いかな。どっか気持ちの良い所、行きたいな。」
助手席に座りシートベルトを掛けながら、少し考えて、利知未はそうリクエストをした。
「それなら、奥多摩湖辺りを目指してみようか。」
チラリと視線を泳がせて、敬太は直ぐに行き先を決めた。
二人がFOXで出会った頃。敬太には、自分の意見を発言する事が少ない、大人しい人と言う印象を持っていた。けれど、由美の事件の時。あの時、その優しさの陰に隠れていた、彼の芯の強さを、利知未は初めて知ったと思う。
敬太の優しさ、強さを感じると、利知未はつい心を委ねきってしまいたくなる。…裕一が生きていた頃、感じられていた安心感を、敬太は何時も利知未に与えてくれた。
目的地に向かう車内で、二人は何時も通りの会話を交わす。敬太の問いかけに答える様子が、今日の利知未は時々、上の空だ。
「ね、利知未。」
敬太が呼びかける声のトーンが、急に心配そうになった。首を傾げる利知未を、ミラー越しにチラリと目に入れ、敬太が言う。
「どうしたの?…何か、あった?」
一瞬、返事の言葉を考えた。けれど敬太には隠し通せそうにないと、利知未は軽く目を伏せる。
「…うん、ちょっと。」
素直に頷いて、利知未は昨夜の事を、改めて思い出した。
「もしかしたら、もう二度とステージに立てなくなるかも知れない…。」
少しの沈黙の後、利知未は一言そう呟いた。
「もし、そうなったら。…オレは、何時でも本当の利知未と過ごせる様になるよ。」
本の少し驚いた表情の後、敬太は優しい笑顔でそう答えてくれた。余計な言葉を重ねて、利知未の濁した部分を追求しようとはしない。
敬太の以前から変わらない優しさを感じ、利知未の心が漸く少しだけ、呼吸を取り戻す。
「…あたしも、それは嬉しいと思う。…でも。」
けれど、それは。…逃げ出したいと、感じていると言う事。
自分らしくないと、小さく頭を振る。それでもこの弱い心が、本当の自分の心なのかも知れない。昨夜、かなりのショックを受けていた倉真の様子を思えば、これ以上の裏切り行為は、し続けてはいけないと思う。
けれど由美への贖罪を果たし切れていないと言う思いが、利知未の心を益々、重くしている。…そして、また心が逃げ道を探し始める。
『やっぱり、昨夜の事が切掛けになって、正体がばれてしまったのなら…。今のあたしは、その方が…。』
その方が良いと、感じ始めている。負けてしまえば、楽になれるのかも知れない。
「まだ、自分を許せないと思っているの…?」
そう問い掛けて敬太は、車を路肩へと静かに停止する。改めて利知未の表情を、優しい瞳で覗き込む。
『今、彼女は、苦しい思いで一杯みたいだ…。』
それなら我慢などせずに、吐き出してしまって貰いたい。自分は彼女の心を支えて行くのだと、そう感じた想いは、今も変わっていない。
「由美の事、まだ忘れられないのに…。あたしはまた、大事な仲間を一人、追い詰めてしまったから…。」
「…それが、苦しいんだね…。」
泣きそうな心を必死で抑えていた。けれど敬太の言葉で、我慢の限界が訪れてしまった。
「…オレは。…どうすれば利知未の心を、守れるんだろう…?」
無理矢理に笑顔を返そうとして、利知未の心を覆っていた壁に、亀裂が入ってしまった。
敬太は利知未の涙を、その温かい胸で受け止めてくれた。
七
暫らく車を止めたまま、利知未の涙が収まるのを、じっと待った。
再び出発をして、暫らくした頃、敬太が言った。
「目的地、変更しよう。」
「何処へ?」
「体、動かさない?確か、この近くで、プールを開放しているホテルが在ったんだ。…昔、家族で行った事がある。」
気分転換だ。山道を歩くよりも、利知未の気分が晴れるのではないかと、考えた。
敬太の提案に、利知未は軽く目を丸くして見せた。
「水着、持ってナイよ?」
「買っちゃおう。」
ニコリと笑って、敬太は進路を取り直してしまう。
「また、無駄にお金使っちゃうよ。」
小さく肩を竦めて見せて、利知未はチラリと、微かな笑顔を見せる。
考えたって、答えの出ない問題だ。…答えを持っているのは、倉真なのだから…。それならば、思う存分、敬太との時間を楽しもう。…責めて、今日だけは。
ホテルへ着く前に、水着を買う為に入った店で、利知未はセパレートタイプの、ブルーの水着を選んだ。
ビキニは恥かしい。かと言って、ワンピースには、好みのデザインが見当たらない。買い物をしている間に、気分が少しだけ変わってくれた。
やがて到着したホテルのプールの豪華さに、利知未は少々、気後れをしてしまった。
『こんな所、始めて来た。』
幼い頃から、小遣いに余裕のある生活をした事は、無かった。学校以外で行った事があるのは、市民プールや海水浴や、河川の上流。
この更衣室には、個室のシャワールームが7つ。全てにシャンプー・リンス・ボディーソープが、備え付けられている。
華美な装飾を施されたドレッサーの前には、ドライヤーの他にも、ローション・ミルクローション・洗顔フォーム。…どれも、高そうな物ばかりだ。
『敬太って、もしかしたら、かなり裕福な家庭で育ったのかな…?』
着替えをしながら、利知未はふと、そんな事を思った。
更衣室を出ると、敬太が一足先に着替えを済ませて待っていた。照れた様子で現れた、水着姿の利知未を見て、敬太が嬉しそうな笑顔を見せる。
「似合う似合う。やっぱり利知未は、スタイルがイイね。」
「…胸が、寂しいと思う…。」
赤くなって、利知未が呟く。その様子を見て、敬太が小さく吹き出した。
「自分で言わない。」
そんな笑い方をする敬太を、利知未は始めて見た。恥かしいけれど、彼の初めての表情に、少し嬉しさも覚える。利知未の頭を、敬太が軽くクシャっと撫でた。彼の癖だ。そうされるのは、気持ちが良い。
…幼い頃、祐一も利知未の髪を、同じ様にしてくれた。
利知未が漸く、自然な笑顔を漏らしてくれた。敬太もやっと、ほっとした気分になった。
「泳ぎは、得意?」
「苦手でもないけど、学校の授業はアンマ好きじゃない。」
「どうして?」
「水泳キャップ。…あれ被ると、頭が締め付けられるみたいで、苦手。」
思い出して、少し表情を歪めて見せた。
「成る程。ココなら、キャップ無しで、大丈夫だよ。」
「それは良かった。」
もう一つ苦手な事がある。濡れた髪が、額や首筋に絡まる感じが、本当は好きではなかった。けれど、それは言わない事にした。嫌な事ばかり考えていては、折角のデートが台無しだ。
利知未は気分を切り替えて、精一杯、はしゃいで過ごす事にした。
屋外に丸い、水深の深いプールが在り、屋内には、遠浅の海岸のように、段々と深さが変わって行くプールと、長方形のプール。
南国のような雰囲気で統一されているスペースの一角に、軽い食事や飲み物をオーダー出来る、喫茶スペースがあった。
一般にも開放されているとは言え、会員制システムらしく、まだ夏休みが終り切らないこの時期でも、それ程の混雑は無かった。家族連れやカップル、友人同士らしい集団が、楽しそうに遊んでいる。グループの中で一人が会員ならば、一緒に入る事は出来るらしい。
「敬太のお父さんは、どんな仕事をしてるの?」
自分が居てはいけない場所に居るような気分になって、利知未は敬太に始めて、家族の事を聞いた。
「建設会社の、役員だよ。」
少し考えて、敬太はそう答えてくれた。
「大きな会社?」
「…うん、まあ、小さくは無いかな?」
名前を言えば、誰でも判るような知名度の有る会社だった。けれど、余りその事を、自分の周囲の人達に言うのは、憚られると感じていた。
裕福な家庭に育ったけれど、中学校までは公立の学校に通っていた敬太は、その事で、多少は苦労をして来た経験があった。
敬太の言葉を聞いて、利知未は更衣室で、ふと思った彼の家庭についての感想が、大きく外れてはいなさそうな事を確信した。
『…あたし、敬太と付き合っていて、良いのかな…?』
脳裏に掠めた疑問を、軽く頭を振って追い払った。気分を切り替えるために、辺りの様子を眺めて見る。
視線の先に、仲の良さそうな親子連れを見つけて、目が止まる。
「ここのプールは、そんなに高くないから。オレも小さい頃、良く家族で来てたんだよ。」
利知未の視線の先を見て、敬太が言った。
「そうなんだ。」
もう一度、掠めた疑問を押し込めて、利知未は軽い笑顔を見せた。
「…利知未の家の事は、聞いた事が無かったね。…話したくなければ、構わないけど。」
利知未の笑顔に少しの無理を感じて、敬太が小首を傾げて問い掛ける。
「…言いたく無いって言うか。…言うべき事が無いって言う方が、イイのかな…?あたしは、四歳の頃から、家族と離れて暮して来たから…。去年の二月に亡くなった裕兄と、今、一人暮ししてる優兄との、三人だけの思い出しか、無いから。」
少し考えながらそう答え、慌てて付け足した。
「気にしないで。ただ、ソーユー事。」
今度は、思い切りニコリとして見せた。そして話を変える。
「あ、ねぇ!あれ、借りてこようよ!」
少し先を指差して、利知未が元気に言った。指差した先には、水に浮かべて寝転がれる、エアーマットで遊んでいる、小学生位の兄妹がいた。利知未達もエアーマットを借りて来て、のんびりと過ごした。
午後三時頃には、プールから上がった。時間を見て、何処かで食事をして行こうと話しをし、都内に戻る前のファミレスへ入ったのは、六時過ぎだった。
午後七時半を回る頃。二人は食後の珈琲を飲んでいた。さっきまで遊んで来たプールを思い出し、利知未が言う。
「初めて、あーゆー所に行ったよ。結構、面白かった。」
「また行こうか?折角、水着も買ったんだし。」
「…でも、やっぱり恥かしいな。水着って。」
利知未は、自分のスタイルに自信が無い。水着など着た時には、余り大きいとは言えないバストが、悪く目立ってしまうと感じている。
「どうして?似合ってたよ。それに、スタイルだってイイし。オレは、少し鼻高かった。」
敬太はニコリと笑顔を見せる。利知未は、また照れてしまう。
「どこが?あたしは、そんな自信、無いよ。やっぱり、出るところ出て無いと格好悪いし…。」
利知未は照れ隠しに膨れてしまう。頬杖をついて、敬太から視線を反らした。敬太の小さな笑いを感じた。敬太は、利知未の照れている様子が、可愛らしいと感じる。
「将来、医者じゃなくて、モデルでも目指して見たら?」
「ジョーダン!人目に晒されるのは、好きじゃないよ。」
「いつもライブで、人目に晒されてる。」
「…あれは、あたしだけど、あたしじゃ無いから、我慢出来る。」
利知未の言葉を聞いて、敬太がくすりと笑う。利知未は敬太の視線を感じ、見つめられている気がして視線を戻した。
二人の視線が合った。彼は柔らかい眼差しで、利知未を見つめていた。
利知未の頭の中に、裕一とアダムのマスターの事が一瞬、過った。何となく、似ていると感じる。
瞬間、ぼうっとしてしまった。その利知未を見つめたまま、敬太が語調を改めて、ゆっくりと話し出す。
「プール行く前、言っていたけど…。」
敬太の顔を、利知未は改めて見つめ返す。
「もしも、本当にバンド活動が出来なくなるなら。オレは、それでも構わないと思うよ。利知未は、もう充分、頑張ったと思うから。あの子も、きっともう許してくれているよ…。」
そう言って、優しく微笑する。
「それに。…それならそれで、これから何処でも人の目を気にしないで、利知未と一緒にいられる…。オレは、その方が嬉しい。」
ニコリと笑う。その笑顔に、利知未は心がくすぐられる様な思いだ。
敬太の優しい笑顔に、利知未の心が疼きだす。…我慢が、出来なくなってしまう…。
ここまでで、二人は三度、体を重ねている。 …利知未の女の心が、強く反応している…。
我慢、しなくてもイイのか…?そう思った利知未の目は、無言で敬太を求めてしまう。敏感に彼は、その思いを察してしまう。恥かしい。と、利知未は感じる。
「…そろそろ、出ようか?」
珈琲を飲み干して、敬太が言った。利知未も頷いて、立ち上がった。
ファミレスを出て、帰り道。どちらからとも無く、お互いを強く求める想いを感じた。
車は静かに、ホテルの駐車場へと滑り込んで行く。
敬太との絆を感じられる、その行為は。利知未にとって、身体よりも心が満たされる事。
心が弱っている時は、何時も敬太を感じたくなる。日々の生活に疲れた時も。
敬太との、四度目のその夜。利知未は、自分の身体の変化を知った。
始めに知った事。唇を重ねた瞬間、身体の芯の部分が熱くなった。
二人が今の関係に進む前のキスは、お互いの気持ちを確かめ合う為の、セレモニーの様だった。
敬太が堪え続けてくれていた十五の冬。利知未も、唇を重ねる事で我慢をしていた。
『本当は、もっと早くに、敬太と一つになりたかった。繋がって、自分の中の彼を感じる事が出来たら…。』
初めての夜、狭い車の中。夢中で彼を受け入れた。痛みを超えた先の何かに、期待をしていた。
『期待は裏切られなかった。気持ちイイと感じるよりも、ただ、自分の中にあるその熱さが、彼とあたしの距離を消してくれた。』
そして、絆が生まれた。
二度目の時。もう一度彼と一つになりたい、絆を感じたい。その思いだけで、抱き合った。
三度目。まだ快感と言うには、遠い感覚だった。
『ただ、やっぱり…。彼と自分の距離が無くなる、その瞬間に、あたしの心が幸せを感じた。』
…敬太も、あたしを求めてくれている。愛してくれている…。
…そして、今。
不思議な感触が、彼の手と指と唇を伝って…、身体から、流れ込んでくる…。
利知未の身体の敏感な部分が、鋭敏な感覚を持ち始めた。重ねた唇がくすぐったい。
そこから、漏れ出す何か。
今までよりも、彼女の反応が違っている。それに気付いて、敬太の反応も今まで以上に鋭くなった。
「…利知未?」
耳元で囁かれる声に心が反応を強め、身体の反応を呼び覚ます。
「…敬太…。」
夢見心地で彼の名前を呟いた。優しい愛撫に、その身体の反応に、利知未は何かを予感した。
『…今夜の、これは…もしかして…?』
息と切なげな声が、微かに漏れた。
その夜、利知未の身体と心は、女としての開花を迎えた。
何時もよりも、激しく抱き合った。利知未の漏れ出す声と息に合わせて、敬太は益々、利知未の身体に没頭して行った…。
それは、恥かしいけれど嬉しくて…、そして、気持ちが良かった…。
二人は初めて、一晩で三度も求め合った。
漸く弾んでいた息も落着いた頃。敬太の身体に、利知未がピタリと寄り添う。
「…ね、敬太。」
「何?」
「…こんなに気持ち良かったの、初めてだった…。」
「…オレも。」
「疲れちゃった?」
「…チョット。」
「…あたしも。眠って行っちゃおうか?」
敬太が、小さな欠伸を噛み殺す。横になって会話をしていた。
「心配、させてしまわないかな?」
「今更だと思う。それに、眠いの我慢して車を運転しないで欲しい。」
もう少し一緒に居たい。そう感じている。少しねだる様な利知未の目を見て、敬太が答える。
「…そうだね。事故る訳にもいかないし。」
「明日の朝、無事に送って行って?」
「そうしよう。」
もう一度欠伸をして、敬太が小さく笑った。それから、寄り添ったまま、朝まで二人で眠った。
この日、利知未は始めて朝帰りをしてしまった。
利知未が帰宅をしたのは、まだ朝の七時前。車を降りる前に、二人は長めのキスを交わした。名残惜しい気分を引き摺ったまま、利知未は運転席の敬太へ、女らしい笑顔で手を振った。
玄関を入ると、里沙が寝不足の顔をして利知未を待っていた。
「…ごめん。」
利知未は、余計な事は何も言わずに取り敢えず謝った。里沙が安堵の混じった溜息をつく。
「…全く。連絡くらい、入れて貰いたかったんだけど…。」
少し怒った顔を、なんとも表現しがたいような微妙な表情に変える。
「…それ所じゃ、無かったのかしら…?…忙しくて。」
腰に手を当て、含みを持った怪しげな目を向けられた。お見通しなのか?と、利知未は少々、冷や汗を流しそうな気分だ。
「…反省してる。…今日は、あたしが夕飯作るから、ソレで勘弁。」
「…仕方ないわね。けど、次からは必ず連絡してね?誰と何処にいるかまでは、聞かないで上げるから。」
里沙には珍しい、ニマリと言うような笑顔を見せた。やっぱりお見通しみたいだ、と、利知未は改めて思う。
「約束する。…取り敢えず、シャワー空いてるか?」
「こんな朝早くからシャワー使うのは、寝不足の頭をスッキリさせる為に必要な私と、昨夜の汗を流す必要のある、不良娘位だと思うわよ?」
これも珍しい、嫌味だった。少し玲子の言い方を真似している様子だ。場違いではあるが、利知未は軽く吹き出してしまった。
「そーだな。心配かけて悪かったよ。…シャワー使うよ。」
言いながら靴を脱ぎ、利知未は部屋へ着替えを取りに向かった。
「朝ご飯、今、作っているから。シャワーが終わったら、ちゃんと食べなさいね?」
階段を上がる利知未の後ろから、いつも通りの、里沙の声が追い掛けて来たのだった。
八
瞬く間に一週間の時が過ぎた。夏休みも残り四日を数えるばかりだ。学生達は、宿題を片付ける為に、ラストスパートをかけ始める。
下宿の住人も同じだ。とは言え、優等生の玲子や、キチンと計画通りに勉強を進められる冴史はその頭数から外れる。利知未も、ここまでで大半の宿題を終わらせていた。忙しい時間の中、溜めてしまった場合の恐怖には、早々に気付いていたからだ。
今は折角の休日を、双子の勉強を見る事に費やしている。
『ま、イイけどな。どうせ今日は、敬太も用事が有るって言ってたし…。』
女の利知未が心の中で、溜息をつく様な思いだ。
一週間前のあの日から、利知未の中で新たな悩みが増えている。
由美と同じ様に、形は違うが、セガワとしての自分に深い思い入れを持つ少年たちの存在。それに改めて気付かされた。
あの翌日。色々な事があり過ぎ、疲れた様子を見せた利知未に、敬太は変わらない優しさで接してくれた。心がクタクタになって、その反動でまた、強く敬太を求めてしまった。
あの夜。利知未は、自分の女の身体の変化を知った。その行為自体に、敏感に反応するようになった身体を、信じられない思いで受け入れた。
『…こう言うモノなんだ…。これって…、』
癖になりそうだ…。そんな風に感じてしまった。
あの瞬間を思い出すと、自然と顔が赤くなってしまう。頭を振って、その気持ちを振り払った。
「…どうしたの?何か顔赤いよ?」
秋絵が利知未を見て首を傾げる。その秋絵に、軽く首を振って見せる。
「何も。…秋絵は他に、解らない所は無いのか?」
「今の所は。樹絵とは出来が違うから。」
ニマリと笑う。樹絵が膨れて異論を唱える。これが始まると、暫くは勉強になら無い。双子は賑やかに口喧嘩を始める。
その間に利知未には、別の物思いが始まる。
『男として振舞ってる自分を受け入れてくれる人の方が、多いんだよな。…敬太だけだな。素のあたしを、丸ごと受け入れてくれるのは…。』
その思いが、女としての自信を、どんどん削いで行く。
元々、そんな自信は殆ど持っていなかったが、今、敬太との関係が無ければ、自分はいったい、どんな風になっていたのだろう…?
『敬太を想う気持ちが、罪なのか?セガワとしてステージに立ち続ける事が、罪なのか…?』
女の身体が目覚めるごとに、セガワが遠くなって行く…。
『由美。…そろそろ、限界が近いみたいだ…。ごめん。』
最近、バストサイズが本の少し上がってきた。ウエストの下、腰周りのラインも、段々と女の身体らしくなってきた。スリムタイプのジーパンを履いて見ると、その変化は歴然とする。
それでも、後もう少し。何とか誤魔化せないだろうか…?責めて次の、由美の命日まで。
倉真は一週間、何もする気が起きなかった。一日中、ベッドに転がって時間を潰す。その様子を見た一美が文句を言い、父親は腑抜けた気分に捕われる。母親だけは、心配そうに見つめながら、息子の様子を見守っている。
ベッドへ横になっているからと言って、良く眠れる訳でもない。セガワの正体を知ってしまった、あの瞬間から。倉真の時間は止まっている。
『男とか、女とか、拘っているのがバカバカしいとは、思うんだけどな。』
どうしても、釈然としない。和泉や準一は、あの事実をどう受け止めているのだろう?
パトカーとの追いかけっこから助けられた後。バッカスのカウンターで見せた、セガワの…、いや、利知未の。少女らしい優しい瞳は、目を瞑る度に映像として蘇る。
それと同時に、一年と三ヶ月もの間、憧れ続けたセガワの姿も、何度も何度も映像化されて、脳裏に現れる。
バイクの持ち主である年上の友人には、あの翌日、バイクを返しに行ってから会っていない。あの日、どこかイラつき、その癖、呆然としている倉真の様子を見て、何とも言えない表情をしていた。
残り少ない夏休みを大いに満喫しようと、倉真を誘いに来る学校の悪仲間にも、そんな気分にはなれないと言って、釣れない態度を取り続けている。喧嘩をする気も起きはしない。
『俺は、どんだけFOXのセガワに、憧れていたんだろう。』
今更そんな事を思い、その思い入れの強さを実感してしまっている。
だから、口惜しい。…そしてイラつく。
『宏治は、セガワも、瀬川 利知未も、嘘では無いと言っていた。』
その姿も含めて、瀬川利知未という一人の人間だと言っていた。だが解らない。…嘘は嘘だ。
年齢詐称くらいの事なら、自分だってやっている。ライブハウスで酒を飲む時や、タバコの自販の前で、見知らぬ大人に怪訝な顔をされた時。
けれど性別を偽るなど、少し外れた生活をしている輩でさえ、そうそうやる事など無いだろう。その上、あのライブハウスにやってくる数多のファン達、全員に対して、よくも二年以上もの間、気付かれないまま偽り続けてこられた物だ。
…自分も、すっかり騙されていた。
考えも気持ちも、堂々巡りだ。その、自分の心でさえ前に進む事が出来ない事実に、苛立ちが益々募る。
『…こうしてても、ショーがねーンだけどな…。』
ごろりと寝返りを打つ。
「イライラする!」
吐き捨てる様に呟いて、勢いをつけて起き上がる。枕元にある筈のタバコの箱へ手を伸ばし、中身が空っぽな事を知り、苛立ちに任せてくしゃりとパッケージを握り潰した。
ゴミ箱へ投げ捨てて、縁に当って跳ね返る。
「くそ!」
あの夜、公園で投げ捨てた空き缶が跳ね返った映像が蘇り、益々面白くなくなって、再びごろりと横になる。壁側を向いて腕を頭の後ろで組み、膝を曲げて顔を歪める。
そうしている内に、また一日が虚しく過ぎて行く。
ふと、明日は金曜日だと思い当たった。
『ライブ見たら、踏ン切るコト出来っかな…?』
ムクリと起き上がり、漫画とバイク雑誌や音楽雑誌が、雑然と山積みにされた勉強机の上から財布を探り出す。
『あった。』
二週間ほど前に、セガワから買ったライブチケットを見付けた。もう一度ベッドにドサリと寝転ぶ。
『…取り敢えず、明日だ…。』
寝返りを打つ。壁に立て掛けてあるギターが、久し振りに目に入る。
『…あのセッションは、気持ち良かった…。』
夏休みの始め。宏治の部屋での、セガワとのセッションを思い出した。あの音は清々しくて、二人の呼吸もピタリと合っていた。
『…音には、嘘は付けない…。』
明日のライブには、ギターを持って行こうと思った。再び起き上がり、ギターを取ってチューニングを始める。
階下で母親が、微かに聞こえて来たギターの音に耳を澄ませた。
『やっと起きたみたいね…。』
小さく安堵の息が漏れた。
『それで良いわ。あの子が沈み込んでると、お父さんまで調子が狂って大変だもの…。』
鼻歌交じりで、取り込んだ洗濯物を畳み始めた。
一美はプールから帰り、兄の部屋から聞こえている音に気付く。
『また始めた。これ、こないだまで練習してたヤツだ。』
煩いけど、今夜は我慢してあげようと思った。
翌日のライブで、利知未はステージの上から、ギターを背負った倉真の姿を見つけた。
利知未もこの一週間は、あまり落ち着かない時を過ごして来た。
『…気持ちは、落着いたのか…?』
そう感じて、何時もよりも真剣な瞳の倉真を、ステージ上から、じっと見つめた。
『…もしかすると、今夜のライブが最後になるかもしれない…。』
そう思って、何故か少し安堵する。
『…もう、疲れちまったのかな…?』
倉真の口から真実が漏れて、ステージに立てなくなるのなら、それはそう言う運命なのだろうと思う。
小さな笑顔を作り、リーダーに視線を送る。間奏で、並んでギターをセッションしながら、耳元で囁いた。
「次、俺が喋る。その後の曲、変更してくれ。」
少し驚いた顔を見せながら、リーダーは微かに一つ頷いた。
一曲目が終わり、セガワがマイクに向かう。リーダーが振り向いて、少し驚いたメンバーへ目配せをした。
「今夜もココで皆に会えた。いつもサンキュ。…今夜はリーダーのMC減らして、歌いたい気分だ。」
軽くリーダーを見て、いたずら坊主の様な笑顔を見せる。お互いの会話の呼吸は掴んでいる。リーダーは確りアドリブで合わせてくれた。
「そりゃ無いだろ?ほらほら、オレの喋りのファンがブーイングしてんじゃナイ?…って、静かだな…。」
大袈裟にキョロキョロするリーダーの仕草に、客席から笑いが起こる。
「シャーネーな。ンじゃ、今日はセガワに舵任せるかァ!?」
拍手が起り、口笛が飛ぶ。
「サンキュ。じゃ、早速で悪いんだけど、こないだやったコピーと、俺が復活ライブで始めて歌ったヤツ、その後、始めてココで歌ったあの曲と、…バースデーライブでラストに歌った曲。四曲付合ってくれよ?」
客席に振る。その中で、倉真の瞳を再び捕らえた。
『良く、聞いててくれ。』
心の中で呟いて、渾身の思いを込めて、歌を歌った。
ライブは、その後、セガワの舵取りで、最後の曲まで終わった。
今日は敬太に断って、倉真と電車で帰る事にした。倉真はセガワの正体を、ファンに明かさなかった。
少しの距離を置いて、黙って歩いた。倉真が駅前の広場で、ふと立ち止まる。少し振り向いて、利知未が軽く首を傾げる。
「…セガワさん、頼みがある。」
利知未を確りと見つめ、真面目な視線を向けている。利知未は改めて、倉真と確りと向かい合う。
「…今ココで、瀬川利知未の音で、セッションしてくれ。」
一瞬、利知未は驚いた。直ぐに表情を変え、軽く呼吸を整えた。セガワの時から、ワントーン上がった利知未の声で、笑顔で倉真に頷いた。
「喜んで。」
利知未の返事を聞いて、倉真は辺りを見回した。その場で街頭ライブをしているバンドを見付けた。近寄り、頼み込んでアンプを借りる。
驚いて顔を見合わせるバンドメンバーの近くに、利知未がゆっくりと歩いて来た。その姿を認めて、メンバーが更に驚いた。彼等はFOXのライブを見た事があった。セガワの歌は、彼らの心にも届いていた。セガワの顔を見て、彼らは気持ち良く、アンプを貸してくれた。
準備を終えた、二人のセッションが始まる。
通行人が、一人、また一人…。どんどん集まってくる。何時の間にか小さな人垣に囲まれ、二人の音は、益々、冴えて盛り上がった。
観客が、乗りの良いテンポの演奏に合わせて、体を動かし踊り出す。手拍子も起こる。アンプを貸してくれたバンドのメンバーも、途中から演奏に味を加える。
利知未と倉真の音は、その場に居る人達の心を、瞬く間に捕らえて行った。…その音は、ライブハウスでの音と、何ら変わらない…。
倉真は、初めてセガワとセッションした時の、あの気持ちを思い出した。
演奏を終え、顔を上げた倉真の目に、信じられない光景が映る。自分達の演奏に、拍手と歓声と、口笛が飛んでいる。
利知未が観客に深々と礼をし、バンドのメンバーに礼を述べ、倉真を促してギターを片付け、人混みを抜けた。拍手と笑顔に送られて、二人は改札を抜けて行った。
ホームで、電車を待ちながら、やっと向き合って言葉を交わした。
「…解ったぜ。宏治の言っていた事。…FOXのセガワも、瀬川 利知未も、嘘じゃないらしい。…やっと、受け入れられそうだ。本当の貴女を。」
倉真は、改めて思う。…音は、嘘を付けない…。
「…改めて、初めましてだな。…これから、よろしく!」
利知未は、素のままの笑顔で、挨拶を交わした。
そして、二人の友情は、この時から始まった。
利知未シリーズ高校編 一章 了 (次回は10月19日 22時ごろ更新予定です。)
高校編・一章にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。
この高校編から、元々、本編として書き上げた物に、18禁パターンで作った敬太とのお話しを組み込んでおります。(内容は少々直してあります。)なので、少々長い章区切りとなってしまいました。
今回も、全6章構成となります。高校編からの読者の皆様、興味がありましたら、中学編『幸せの種』も、覗いて見てください。
中学編からの皆様、長いお付き合いを本当にありがとうございます。また、宜しくお付き合いください<(__)>
また来週、皆様とお会い出来ますように…。