『邂逅』08
向日葵畑がビル街の裏路地に塗り換わっていくのを目にして、緋桐は思わず感嘆の溜息を吐いた。初めて自らの手で行う転移魔術は、枝里に連れられて転移した時とはまた違う瑞々しい感動を彼女に与えた。だが、その感動も間もなく消え失せる。
緋桐が降り立った場所のすぐ目の前には遺体を模ったらしき人型の白線が引かれていて、先ほどまで思い浮かべていた殺害の瞬間の想像図がより鮮明に緋桐の脳裏に焼きついた気がした。
「ここが……殺害現場なの?」
「…………」
シルヴィアが無言のままに頷く。早速参ってしまっている緋桐とは対照的に、彼女は眉根一つ動かさずにいた。
殺害現場などには既に慣れきってしまっているのか、それとも人の死に対して何も想うことがないのか。シルヴィアの思惑がどちらなのかは、沈黙のせいでわからなかった。
「やっぱり……気持ちのいい場所では、ないよね」
「……長居無用。聞き込みを開始する」
「えっ、もう!?」
「……既に現場は充分に調べた」
相変わらずの無表情を逸らして歩を速めるシルヴィアの背中に、緋桐はほんの少しだが人らしい感情が垣間見ええたような気がして、安堵を覚えた。
置いていかれまいと足を踏み出した緋桐はその直後、何の前触れもなく嘔吐した。
欺瞞、殺意、恐怖、喜悦、驚愕、焦燥、後悔、理解、確信、苦痛、苦痛、苦痛――――――事件当時の現場に渦巻いていた様々な感情が突如、間欠泉の如く噴出して緋桐の脳を貫いてくる。殺人現場すら初めて見るような少女にとっては、その全てが想像を絶する感情だった。
いや、そもそも緋桐がこの場所を見るのは、果たして初めてなのだろうか。
「ぅう……っ……あ……」
「……!?」
くずおれた緋桐のもとにシルヴィアが急いで駆け寄る。この時ばかりは鉄仮面のシルヴィアも不安の色を顔に浮かべていたが、それも今の緋桐の目には映らない。
感情の濁流と吐き気が一旦落ち着いてくると、今度はわけもなく涙が溢れて緋桐の頬を浸していく。
心臓が狂ったように早鐘を打つ。どれだけ呼吸を繰り返しても息苦しさは絶えず、深海へ引きずり込まれるみたいに途方もなく絶望的に思えた。
あまりにも苦しいから、自分はきっとこのまま釣り上げられた魚みたいにのたうち回りながら死ぬのだろうな、と緋桐はどこか冷静に自身を客観視しはじめる。そのまま客観視している自身と苦痛にもがく自身との距離が離れていき、星と星ほどの距離にまでなる。やがて臨界点を越えた音がどこかから聞こえ、全てが刹那のうちに一点へ収束していった。
「……見えた」
「ヒギリ……?」
突如、緋桐が何も無かったように勢いよく立ち上がった。いつものおどおどしている緋桐とはまるで別人で、亡霊に似て虚脱した雰囲気を放っている。
異変を察知したシルヴィアが咄嗟に後ずさる。怪訝げに視線を向ける彼女に、緋桐は井戸の底みたいに深く暗い瞳で返した。
「被害者が一人、犯人が二人、目撃者が二人。ぜんぶ見えたよ」
「…………」
「犯人のうち一人は取引相手として被害者の気を引きつけてた。もう一人は流体操作能力で被害者を殺害し、取引相手役がマジックアイテムを使う。そこを鉢合わせてしまった人が二人いて、犯人はすぐさまそれを殺害して…………うっ」
「……!」
糸が切れたように倒れかけた緋桐の身体を、シルヴィアが確かと抱きとめる。シルヴィアのうなじからは包み込まれるような優しい香りがして、緋桐の心が妙に落ち着いた。
「……一体何が?」
「わからな…………ぃ」
「なるほど……残留思念を読み取る魔法、とはね」
緋桐に異変が起きたのと同じ頃、オフィスへ向かうアナトの手に握られた契約書が薄黄色に輝いた。魔法少女の契約書だ。光と共に浮き上がった文字に目を通したアナトは、愛らしい見た目に反して深刻な面持ちになった。
人の感情や思念は時として呪いにも近しい現象としてその場所に残留する。緋桐の持つ魔法はそれらの残留思念を読み取り、理解する能力のようだ。これは捜査を進める上でこの上なく利便性に長ける能力だが、しかし殺人現場の思念ともなると、常人には想像もつかない極限の精神状態をもたらすことが考えられる。とても十四歳の少女が耐えきれる精神的ダメージとは言えない。
アナトは緋桐の安否が不安で仕方なかった。
「凄まじい才能だ……だが彼女を傷つける為にあってはならない」
しな垂れ始めている向日葵の向こうに立ち上る入道雲を眺めたアナトの目が、ほんの少しだけ哀の色を孕んだ。
現場に足を運んだ相模を待ち受けていたのは、意識を失った見知らぬ少女とそれを抱きかかえるシルヴィアだった。
見るからに異常なる状況なのだが、それよりも相模の目を奪ったのは、あのシルヴィアの鉄面皮に薄らと焦燥の色が浮かんでいることだった。あの無口なミミズクにも感情というものはあるのか、と驚きを隠せない。
相模は急いで自分の車へと二人を招き入れて、病院へと走らせた。
「その子は一体誰なんだ?」
「救仁郷緋桐……新人チームメイト」
「なるほど」
新人という呼称に相模はなんとなく自身を重ねて見てしまう。だが魔術の才能や素質に恵まれた少女と彼ではかかる期待の度合いが違うのだろう、と思ってすぐにその考えは捨てた。
「彼女は魔法で残留思念をロードし……事件当時の状況を読み取って見せた」
「おそるべき才能だな。……が、大きそうな代償だ」
「…………」
シルヴィアを一瞥すると先ほどまでの焦燥は失せており、いつもの鉄面皮が復活を果たしていた。ただほんの少しだけ俯いているようにも見える。その僅かな角度の差がもう一人の少女を気遣う気持ちに起因するものなのなら、それは見間違いであって欲しくない。
フロントガラスに反射した相模の瞳が、窓の向こうの病院に重なる。車を出発させてからまだ5分と経っていない。
現場からこれだけ近くに病院があるというのに、鬱蒼としたコンクリートの森の中にいては、たった一人の男の命すら目に留まらないのか。そう考えるほどに相模は忸怩たる想いを禁じえないのだった。
命を奪われることの絶望と理不尽に対する怨嗟が紫煙のように気管へ押し入り、内臓を握り潰されそうになる。心臓が痛いほど早鐘を打って、頭に抉られるような痛みが広がって、溺れたみたいに息ができない。この苦しみから解き放たれるためなら今すぐ死んでしまいたいと思った。
朦朧な白の光芒を割る二つの影が見える。それはすかさず後背より現れた新たな影によって断ち割られ、のた打つ自分と顔を向き合わせるかたちで倒れた。影は一組の男女だった。頬骨の浮いた薄幸そうな男と、くしゃくしゃの髪で顔が隠れた女である。
二人はこの世の終わりを見ているような顔で悶える。きっと彼らも今すぐ死んでしまいたいと思うほど苦しくて、しかし終焉の幕があまりに遠すぎて絶望しているのだろう。ミミズの如くのた打つ二人の姿は同じく苦しみもがく自分自身が投影されているようで、惨めな気持ちになる。こんなものは人の死に方ではない。
やがて視界のコントラストに黒が際立ちはじめ、全身の痛覚が遠ざかっていくような気がした。もう音も殆ど聴こえない。ここは深海のようだ。そう思ったのを最後に、ふっと全てが途切れる。
砂垣匠の死はあまりに無慈悲で唐突だった。
喜怒と楽が抜け落ちた、絶望の諦念だけしかない最悪の死だ。
徐々にまた明るくなっていく無彩色の視界なかで、砂垣匠の死を追体験した救仁郷緋桐は泣いた。彼の不条理にまみれた死があまりにも哀れで、人の尊さを踏み躙られたようで、どうしようもなく悲しかった。
「緋桐ちゃん……緋桐ちゃん! 目を覚ましたのよね!? 大丈夫!?」
意識を取り戻しベッドに起き上がった緋桐の傍らには、青ざめた枝里の姿があった。
カーテン越しに刺さる日光が眩しい。クーラーの冷風が肌に心地良い。消毒薬のような匂いが鼻腔をくすぐる。枝里の必死な声が少しうるさい。五感を一つ一つ確認して、自分が生きていることを実感した緋桐は、今度は安堵の涙を零した。
どうやらいつの間にか、どこかの病院に運び込まれていたらしい。あやふやな記憶を辿ってようやく状況を理解した緋桐は、はっとして枝里に問うた。
「シルヴィアちゃんは……今どこにいますか」
緋桐を運び終え所在のない相模は、我知らず瀬川の病室を訪れていた。面持ちにより一層の陰りを見せる相模を、瀬川は苦笑とともに迎え入れた。
「今日はえらく早いな?」
「……いえ、捜査に協力している魔法少女……の二人目が倒れて。搬送ついでに寄ったんです」
「ほう、それはまた」
廊下まではうだるように暑かったというのに、病室内は別世界のように涼しく、汗に濡れたシャツがあっという間に冷たくなる。着替えないと風邪を引きかねないくらいだ。いつもは夜になってから訪れていたので、日中に面会に来るのは初めてだった。
空調の冷風を避けて窓際に立つ。外は散歩に出た入院者や、退院する者とそれを迎える家族など、絶え間なく人々が往来している。彼らはここが殺人現場のすぐ近くだということを知らない。それが異能による超常犯罪だということなどは尚更、知る由すらなかろう。表と裏に分けられた社会は、こんなにも薄い隔たりのもとに成り立っている。相模は異能犯罪対策部という肩書きの重さを、改めて実感していた。
「何か悩んでる顔だな」
「わかりますか」
「わかりやすいな、全く」
「……この社会の均衡を、どう考えますか?」
「ひどく脆弱で不安定だな。少しずつ手を加えられてきたとは言え、未だ突発的な不測事態には弱すぎる」
一般社会の影に異能が暗躍する裏社会という体系の始まりは、意外にも古くない。
遡ること五十年ほど前、地球の意思によって選ばれた各生物の代表者――星の眷属たちが“大いなる災厄”を予言したことに端を発する。彼らはやがて訪れる災厄に備えるため、人類に“現象の制限を解き放つ”力である魔術と魔法をもたらした。その一方、制限を逸脱した現象の数々によって生じた世界の歪みが、突然変異の如く異能力者――俗に無制限能力者とも言う――を生ませた。
“魔術師”と“魔法使い”と“異能力者”。一纏めに“異能”と称される彼らの為の社会が成り立つにまで至ったのが、それから20年ほど後。
今の裏社会はほんの30年前にようやく確立されたばかりの、余りに幼い文明なのだ。表社会とのバランスはかつてに比べれば遥かに改善されたものだが、それでもまだ完全とは言い切れないのが現状だ。
「俺は異能に関わる身として……第二世代ってところだろうか。裏社会が確立して間もない頃の世代だが、はっきり言って本質はその頃から何も変わっていない」
「本質、とは……?」
「隠蔽体質。この50年、魔術と異能力の存在をずっと秘匿してきた性質のことだ。……が、そもそも社会を表と裏に分け隔ててしまったのが間違いだと俺は思う。異能の存在を社会に徐々に浸透させ、認めさせていくことが出来ていれば、こんなリスキーな環境にはならなかった」
「今から表社会に認めさせていくということはできないんですか?」
「無理だろうな。社会の二分化を推し進めた連中っていうのは、要するに能力者の特権を独り占めしたがっていた連中だ。昔も今も、そういう連中がいる限りは不可能な話だろうよ」
「表社会にも、反異能を主張する保守派がいる…………やはり今からでは遅すぎるんでしょうか」
「引っ込みがつかなくなってしまってるんだよ。革命でも起こさない限り、永遠に」
語気を弱める瀬川の面持ちは、相模のそれを上回る陰りをたたえている。
かける言葉が見つからず、相模は黙りこくってしまう。社会そのものの在り方を憂い苦悩する瀬川がとてつもなく大きな存在に見えたからだ。
還暦までそう遠くない瀬川にとって病室で燻っているだけの時間がどれほどもどかしいか、相模には想像すらつかない。それに比れば使命の重さを恐れる自分などは余りにちっぽけで、ひどく情けなかった。
瀬川の弟子として次の時代を担っていかなければならない立場に自分はあるというのに、一体何をしているのか――――相模の気持ちは殊更に沈む。
「すいません、少し長居しすぎたかもしれないです。そろそろ失礼します」
「…………何か悩みがあるんなら、抱え込まないで相談しろ」
「はい。……ありがとうございます」
相模は後ろめたい気持ちから半ば逃げ出すように出入り口へと向かう。雰囲気からなんとなく察したらしい瀬川がかけてくれる励ましすら、いまは胸が痛くなるだけであった。
病室を抜けて廊下に出ると、そこにはシルヴィアが待ち受けていた。
「聞いていたのか?」
「…………」
問い詰める相模に対してシルヴィアは何も答えない。ただ病室のネームプレートを睨みつけるばかりで、相模のことなど文字通り眼中にない様子だった。静止して一点を見つめる姿は骨董品のフランス人形と見紛うほどに見目好いのだが、対話が成り立たないのでは人形というのも強ち間違いでないように思えてしまう。
それから一向に口を開かず相模を困惑させていたシルヴィアが、今度は唐突に階段のほうを振り向く。すると程なくしてそちらから緋桐が現れた。緋桐の顔には少々疲れが滲んで見えたが、シルヴィアを見つけるなりそんなものは消し飛んだと言わんばかりに顔を綻ばせた。
「シルヴィアちゃん、ここにいたんだ……ふぅ」
「……体調は」
「問題ないよ、大丈夫。……そ、それより、何かあったの?」
「いや…………何か感じた?」
「……うん。そ、そこの病室から、なんだか変な感じがする……」
相模が自己紹介がてらに話し掛けようとするも、シルヴィアの発言につられて緋桐も心ここにあらずといった様子だ。ただ一人、異能の力をほぼ持たない相模だけが怪訝に首を傾げる。緋桐は変な感じがすると言うが、つい先ほどまでその病室にいた相模には何も感じられなかった。魔術や無制限能力などの知識に疎い相模とは感覚器官がそもそも決定的に違うのかもしれない。
才能を持つ者たる彼女たちとはやはり住む世界が違うのか、と相模が嘆息するのと同時に、突如として病室の方向からがたん、と金属が叩き付けられるような大きな物音が聞こえてきた。それは何か物を落とした程度で発せられる音では断じてなく、ただ何らかの破壊音であることだけははっきりとわかる、そんな物音だった。
直前までの少女たちの奇行も手伝って混乱に放心していた相模は、数秒経ってからようやく“病室から破壊音が発せられた”という事態を理解した。気付けばシルヴィアと緋桐は既に病室へと突入している。追って病室へ駆け込むと、そこには血みどろになりながら床を這う瀬川と、白いローブに身を包み宝玉を手にする少女の姿があった。
「瀬川さん……!?」
「ひいっ!? 血……血が!」
「クル・ヌ・ギア……!」
「ちっ……」
ローブの少女はこちらに気付くと、ばつの悪そうな表情でおもむろに窓から飛び出す。投身自殺かと思われたのも束の間、少女は隣のビルへと飛び移っていた。恐らくは壁を蹴って跳躍したのだろうが、とても人間技とは思えない。シルヴィアたちと同じ魔法少女なのだろうか。
目を疑う相模をよそにシルヴィアは独り言のようにぶつぶつと何かを呟いたあと、少女を追って同じく窓から飛び出していった。カメラからフレームアウトするように、シルヴィアの姿が見えなくなる。彼女のあの矮躯で同じような真似ができるのだろうか、と不安がよぎったが、ものの数秒後には隣のビルへと弾丸のごとく飛んでいくシルヴィアの姿が再び見えた。ただし、服装は先ほどまで着ていた漆黒のロングコートとは打って変わって、西洋の祭服に似た装いになっていた。
相模はしばし呆然としたのちに、はっと気がついて瀬川のもとへと駆け寄る。傷は胸部にあり、湧き水のように血が溢れてきている。
ナースコールの方へ目を移すと既に緋桐が押してくれていた。看護師や医者が駆けつけるまでどれだけかかるかわからない。それまでに止血だけでも出来れば良いのだが、胸の止血法など相模には皆目見当もつかなかった。手当たり次第にベッド上のシーツなどで押さえつけてみたが、純白の生地が赤く染まっていくばかりで流血は少しも止まらない。
狼狽に涙ぐむ相模の肩を震える指が掴む。瀬川の顔は先ほどとはまた少し違う、悔恨に歪んだ表情を浮かべていた。
「相模……俺は謝らなきゃ……ならん」
「無理に喋らないでください!!」
「砂垣匠……あれは……俺が殺した」
「は……!? な、何を言ってるんですか瀬川さん!?」
「正しい……先輩でいられなかった…………それだけ……謝らんと、な……」
「どういうことなんすか!! 何言ってるかわかんないですよ!!」
相模の涙目をしっかりと見据えたまま、次第に瀬川の指から震えが収まっていく。肩越しに力が無くなるのを感じたかと思うと、瀬川の手がぱたりと滑り落ちた。それはあまりにも唐突すぎて、まるで世界に一人だけになったような、途方もない虚無感に襲われる。
紛れも無く今この瞬間、瀬川は命を落とした。いくら目を逸らそうとも認めざるを得ないその現実を前に、むしろ涙は引っ込んでしまった。唯一頬に残った雫がゆっくりと顎へと到達し、墜落する。
雫は開け放たれた窓から吹き抜ける風に運ばれ――――瀬川の膝から外れたギプスにぶつかって消えた。