『邂逅』07
夜空の中心に輝く月があまりに美しくて、枝里は見上げたまましばらく動けなかった。はっと気がついて手にしていたやかんに目をやると、すでに湯気の勢いが随分と弱くなっている。まぁいいか、と肩をすくめてカップ麺にお湯をそそいでいるうちに、気の抜けていた自分が段々腹立たしく思えてきた。
麺がほぐれるまでの間、枝里はまた夜空の月をぼんやりと眺めていた。月の気高く近寄りがたいさまにシルヴィアを思い出して、枝里の心は殊更に憂鬱になってしまう。自分の何もかもが不甲斐なかった。
「苦悩するのは悪いことじゃあない」
ふいに聞こえてきた声に振り向くと、オフィスの入口に佇むアナトの姿があった。
「いつからここに?」
「きみがやかんを片手にぼーっとしていたあたりから」
「悪趣味なのね」
「そうかな?」
アナトはすべてお見通しとばかりにビー玉のような瞳を細めた。実際、読心魔術でも使っているのではないか、というくらいアナトはいつも的確に枝里の悩みを言い当ててきた。彼曰く、読心などしなくても顔を見ればわかるのだという。
わかってるなら、と言いかけて枝里は口をつぐんだ。かつてはシルヴィアや緋桐と同じく魔法少女として活躍していた枝里だが、今はあくまでも彼女らを支えるマネージャーだ。いつまでも支えられてばかりというわけにはいかない。
「……ホント、難しい」
「別に頼っちゃいけないわけじゃない。相談なら応じるよ」
「まだ、今は大丈夫……と思いたいのよね」
カップの蓋を開けて割り箸を突っ込むと、わずかに硬い感覚が伝わってきた。
食器類を片付けて食堂を出、寮に向かうまでの間、緋桐はずっとシルヴィアから目が離せなかった。昨日の出逢いと今日の触れ合いで徐々に確信じみてきた考えなのだが、どうやら緋桐は自分でも無意識のうちに、まるでシルヴィアをテレビ画面の向こうに見ていたスター俳優のように思っているらしい。
相手は自分のことなど知っていなかったが、自分のほうは相手と知り合える日をずっと待ち焦がれていたような――――執着じみた既視感が、同じ時間を過ごすごとに強くなってきているのだ。
(こんな綺麗な子…………忘れられるわけがないのに)
「…………なに」
「……私たち、前にも会ったことが……」
「ない」
「……そう、だよね」
この日はじめて、シルヴィアが瞳を逸らした気がした。食い気味の即答も気にならないと言えば嘘になる。しかし彼女の面貌はいつもの鉄面皮のままで、訝しかろうともまるで感情が覗けないのだからどうしようもない。緋桐とて人を疑うような事はしたくない性分なのでそれ以上踏み込めず、結果として気まずい沈黙だけが二人の間に残った。
気を紛らそうとたまらず寮へ視線を向けると、二人の部屋の前に佇む人影があった。出で立ちは見るからに女性のそれだったが、脚をたっぷり肩幅まで広げて仁王立ちになり頭を掻き毟るさまは、男性的な粗暴さを窺わせる。
怪訝に思った緋桐は残り20メートルといった所で足を止め、人影を改めて注視する。髪の間に覗くうなじやホットパンツから伸びる脚の小麦色が、彼女が活動的な性格であることを物語っている。ラフな服装や若々しい様相も加味すると、どうやら彼女はシルヴィアと同じ“魔法少女”らしい。
――――と、緋桐がここまで考えたあたりで相手もようやくこちらに気付いたいたらしく、髪を振り回すようにして振り返った。ようやく露わになった面貌は、屈託のない笑顔がどことなくボーイッシュな美少女だった。
「ほほーっ!! あんたが新入りだね!!」
「ヒギリ、下がって」
「えっ?」
相手が身をかがめたのを認めると同時にシルヴィアが半歩下がる。状況をさっぱり理解できていない緋桐が言われるままに数歩下がると、少女はそれを追って壁を蹴り飛び掛ってきた。
飛び掛ってくる少女の姿は緋桐の目には弾丸の如く映ったが、実際は地を蹴り壁を蹴り空を蹴り、時に身を捻りながらの跳躍や前転を織り交ぜることによって効率的に移動速度を高めているだけに過ぎない。この特殊な移動法はいわゆるパルクールの要素を取り込んだマジカルマーシャルアーツの派生の一つだ。
一方で落ち着き払っているシルヴィアは特に身構えることもせず、少女が緋桐めがけてシルヴィアの隣をすれ違った瞬間に着地点に足を置く。果たして少女は躓き、派手に転倒した挙句緋桐の目前で大の字に倒れ伏した。
「い゛て゛え゛……」
ぴくりとも動かない大の字から、恨めしげな声がこぼれる。
緋桐が顔を覗こうとしゃがむと、少女が急に立ち上がってくるので、咄嗟に頭を引いた。
「だ、大丈夫……ですか?」
「多分ね……それにしても酷いねぇシルヴィア。あたしゃただ新入りの顔を拝みたかっただけなのに」
「…………」
「だんまりかい……まぁいいけどさ」
「えっと……私にご用ですか?」
「あたしは粟ヶ窪朱莉! 新しい後輩ってのがどんな子か、会っておきたかったのさ」
緋桐が困惑気味に訊ねると、朱莉と名乗る少女はやはり屈託のない笑顔で応えた。
「今さっきのもマジカルマーシャルアーツなんですか?」
「ああ。あたしなりのアレンジを加えた亜流で、あたしは勝手に“エクストリームランニング”って呼んでる」
「マジカルマーシャルアーツはそれぞれ自分の魔法に合った活用法にアレンジするのが前提とされていますものね」
「そうなんですか…………っ!?」
突如として朱莉のほうから、快活な彼女に似つかわしくない淑やかな声が聞こえてくる。その声は明らかにシルヴィアとも朱莉とも違う、また別の人間の声だった。
まさか朱莉が声を変えて喋りかけてきたわけではあるまい、と怪訝に思った緋桐が朱莉を注視していると、その背後にぼんやりと人影、それも長髪の女性らしき姿が浮き出てきた。
「ぃっ!?」
「おいこら紗雪、新入りをビビらせるんじゃないよ」
思わず目を剥いた緋桐の表情に何かを察したらしい朱莉が呆れた様子で肩をすくめると、その肩を抱き抱えるようにして後ろから細腕が伸びる。
蛍光灯のもとに露わになったのは、細目のにこやかな表情にどことなく気品が漂う、ウェーブがかった長髪の少女だった。
「あら、ごめんなさいね。こればっかりは私の癖ですの」
「ゆ、幽霊……っ?」
「違いましてよ。わたくしは朱莉のパートナー、上福元紗雪と申します」
「救仁郷緋桐、です」
「今後ともどうぞよろしくお願いいたしますわ」
「あっ」
紗雪と名乗った少女は微笑を見せたかと思うと、朱莉の背後から掻き消え、いつの間にか緋桐に抱きついてきていた。
まるで気配というものを感じさせない彼女の身のこなしに、緋桐はにわかに戦慄した。
「あー、紗雪はね、相手の視野を認識する能力――そういう魔法を使うのさ」
「ですのでわたくしは一撃必殺に特化した暗殺術のようにマジカルマーシャルアーツをアレンジしましたの」
「そういえばシルヴィアちゃんも、相手の急所を攻撃する練習をやっていた……よね」
「…………上福元紗雪のアレンジとは趣旨が違う」
「そう、なんだ?」
先ほどから一向に会話に参加しようとしない様子を気にし、緋桐はシルヴィアと朱莉たちの様子を交互に見やる。シルヴィアはどことなく不機嫌そうというか、拗ねているように見える一方で、朱莉も紗雪も彼女に苦笑を向けている。それは決して厭味でなく、どことなく親心を覗かせるような苦笑だった。
よりシルヴィアのことを知っていそうな二人の様子を見て、緋桐はなんとなく胸が苦しくなるような気がした。
一日で最も深い闇が白み始めた頃、寂れたバーのカウンター席に相模の姿があった。彼は隣に座る男に無言でバーボンを手渡すと、引き換えに差し出されたメモを確認してポケットに突っ込んだ。
言葉なく済ませた取り引きにほっと胸を撫で下ろした相模を見て、隣の男はゆっくり口を開いた。
「瀬川のおやじは?」
「入院してます」
「そうか……お前さんも一人で任されるようになったわけだ」
「何か間違ってましたでしょうか……?」
「いや、サマになってきたじゃないかと思ってな」
「まだまだです。今も瀬川さんの真似をしてるだけで」
「今はそれでいい」
席を立った男に合わせて相模もバーボンを飲み干し立ち上がる。会計には万札だけを置き、釣りも貰わずにさっさと店を出た。
二人とも特に挨拶を告げることなく無言のままに別れる。ただ別れ際の刹那、相模は男の哀しげな表情を盗み見た。意味深げなその面持ちは訝しいものがあったが、それは今は忘れることにした。
既に東の空には朱色が差している。この夜一睡もしていない相模は、しかし未だ冷めそうにない情熱によって瞼を突っ張っていた。これといって予定はなかったが、セオリーに従い再び現場に足を運ぶことにした。
「いたいた。一応連絡しておきましょうね」
早朝からカレーを頬張る緋桐とシルヴィアを見つけて、両手いっぱいに資料を抱えた枝里が食堂に駆け込んできた。枝里は資料の束を一旦机に置くと、力尽きるように椅子にへたり込む。目元にはうっすらと隈が浮かんでいて、彼女の疲労の度合いが見て取れた。
「だ、大丈夫……ですか?」
「ぅ……いらない心配はしないの。まずは情報の共有をしておかないと」
緋桐の心配を一蹴すると枝里はポケットから取り出した缶コーヒーを一気飲みし、あっという間に空にした缶をゴミ箱へ放り捨てた。しかしそれでも眠気が取れないらしく、瞼を擦りながら話を始める。
「大まかな事件概要は緋桐ちゃんにも既に話してあると思うのだけど」
「はい……転売屋さんの殺害事件ですね」
「オッケーね。それでシルヴィアちゃんの調べによると――死因は体内部からの不可解な爆裂。現場に術式反応なし。争った形跡なし」
「うっ……」
被害者の死因を想像して、緋桐の顔が見る見る青くなっていく。身体の内側から破壊される死に方というのは、とても食事時に聞いていて心地の良い話題では無かった。
すっかり食欲の失せた緋桐を見かねて、シルヴィアは無言のままに緋桐の皿を取り、残るカレーを平らげた。
「シルヴィアちゃんの推測では、同業者ないし何らかのマジックアイテム所有者か、暗殺に特化した異能力者……つまり殺し屋。このどちらからしいわね」
「……殺し屋さんの場合は、依頼した人が後ろ盾にいることになるんですか?」
「そうなるのよね。暗殺者の口を割らせることは難しいから……逆に依頼主から暗殺者を割り出すべき」
「なるほど……」
「それじゃあ後は現場でよろしくね」
連絡を終えた枝里は全身重くてたまらないといった様子に腰を上げると、また資料を抱えて去っていってしまった。去り行く枝里の背中は葬式か何かでもあったのかと思わせるほどにくたびれている。食堂を出る直前、出入り口近くの購買でカップうどんをダンボール一箱まるごと買って自ら荷物を増やしていたのは不可解であったが。
「枝里さん……どうしてあんなにお疲れなの?」
「宗頤枝里は他のチームのマネジメントも行っている」
「捜査が重なってるんだ……」
「…………」
この三日間でもう何度目か分からない気まずい間に緋桐が振り向くと、シルヴィアがほんの少しだけ頭を俯かせているように見えた。