『邂逅』06
“イシュタル”の寮は地上5階・地下2階からなる全7階建てだ。地下1階は魔術の訓練などに使われるトレーニング場、続く地下2階は休憩室となっている。
トレーニング場は特殊な空間魔術が展開されており、設計図上の面積を遥かに越えた空間が広がっている。転移結界によって本部へと戻ってきたシルヴィアが真っ先に向かう場所といえば、いつもここであった。だがこの日は先客がいた。
階段を半分ほど下りたあたりで緋桐の背中に目を奪われ足が止まる。未だ彼女とはまともに会話を交わせていないシルヴィアではあったが、緋桐が落ち込んでいるであろうことは一瞥しただけで察することができた。
時計は既に七時を回っている。食堂が開くこの時間帯に他の魔法少女たちの姿はない。群れることを嫌うシルヴィアは、普段からこの時間帯にだけトレーニング場を利用していた。故に本来ならば先客がいる時点で利用を躊躇うはずだったが、今回ばかりは違う。シルヴィアは自身でも呆れるくらいに、緋桐のことが気がかりで仕方がなかった。とはいえ、同じように人目を避けるためにここを選んだであろう彼女に話し掛けるというのも気が引けるし、なにより“話し掛け方”がわからない。結局、どうすることもできず、シルヴィアは無言でトレーニングを開始することにした。
「あっ……シルヴィア、ちゃん」
「………………」
すぐ横を通り抜けたのを見て、緋桐はようやくシルヴィアの存在に気づいた。その際、顔を上げた緋桐と、反射的に振り向いたシルヴィアの視線が交わる。緋桐の目は真っ赤に腫れ上がっていた。泣いていたのだ。
緋桐は咄嗟に腕で目元を隠したが、既に手遅れである。おおかた予想通りだったとはいえ、シルヴィアもこれには動揺して足を一瞬だけ止めてしまった。
「…………見られ……たよね?」
「……………………」
動揺を悟られないようシルヴィアはすぐさま足を進め、とりあえずの平静を装う。内心では、自分のポーカーフェイスに心底感謝していた。
「ごめん……その、ここ、あの…………うぅ」
緋桐はひどく取り乱している様子だ。この調子なら動揺は悟られてはいまい、とシルヴィアは僅かばかりの安堵を覚えた。同時に、緋桐に対して何も言えない自分に不甲斐なさを感じた。
せめて一言、「気にしなくていい」とでも言えれば良かったのだが、それを伝えるだけの勇気はシルヴィアにはまだない。
手持ち無沙汰を埋める目的もあって、シルヴィアはサンドバッグを使っての稽古を始めた。
短く深呼吸をした直後、シルヴィアの拳が、掌が、手刀が、目にも止まらぬ早さでサンドバッグを襲う。一の動作が二の動作へと間隙なく繋がり、更に次の動作へと流れていく。目で追うことすら困難な神速の連撃だった。
サンドバッグの揺れる幅は短いが、打撃はすべて、想定される急所を的確に仕留めている。どう見ても素人技ではない、それどころかテレビで見る格闘家などでは比較にならないほどのレベルの達人がそこにいた。
「ぅ……ぉお…………うおお!?」
緋桐が思わず我を忘れて感嘆の声を漏らす。それを聴き咎めたシルヴィアの拳には、少なからぬ熱が篭った。しかし決して息は乱さず、あくまで平常時と変わらない穏やかな呼吸を保つ。
それから三十分ほど打ち続けたあたりで、シルヴィアはようやく手を止めた。心の乱れを振り払うように最後にもう一回だけ強く突きを入れると、手をぽんぽんと叩く。彼女なりの締めの動作だった。
いつも通りの稽古を終えてすっきりしたシルヴィアは、何も考えず緋桐の方を振り返った。一心不乱にサンドバッグを打つことで目の前の状況を綺麗さっぱり忘れてしまったらしい。本当に何の考えもなく振り返ったシルヴィアは一瞬、後悔した。だがそれは間もなく驚きに変わる。
「す、すごい……! シルヴィアちゃん、すごい!」
「……………………?」
振り返った先にあったのは、感動のあまりすっかり涙も引いた緋桐の笑顔だった。
「そ、その……拳法? なんていうの!?」
「…………マジカルマーシャルアーツ。アナトが発案した、魔術との併用を目的とした格闘技」
「こ、ここの子はみんな出来るの!?」
「全員、ある程度は習得している」
「あの、わ、わたし、映画大好きで!! アクション映画とかも見るんだけどっ!! それ……さっきの、あれ……詠春拳、みたいでかっこよかったよ!! すごく!!」
「……アナトによれば世界中の様々な格闘術の要素を組み込んでいるらしい。その詠春拳という格闘技もルーツにある可能性はある」
「すっごい! すごい!! すごいすごい!!」
「…………む、う」
緋桐が目を輝かせて見つめてくる。その眼差しにはまだ僅かに陰りが見えるものの、笑顔そのものに偽りはないように感じ取れた。先ほどまでとの変わりように呆れると同時に、シルヴィアは心のどこかで嬉しいと思う。彼女も緋桐に合わせて笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉が強張ってそれを認めてくれなかった。
「んっ……と、これは一体?」
イシュタル寮の地下二階、休憩室のソファに背を預けて眠っていたアナトは、上階から聴こえてくる激しい音に目を覚ました。時計を確認すると午後八時。普段なら上階のトレーニング場でシルヴィアが稽古をしている時間帯だ。だが今日は少し様子が違う、とアナトは直感する。
サンドバッグの表面が叩きつけられる軽快な音、鎖が軋む音、突きに体重を乗せて踏み込む音。それらが同時に二つの箇所から発せられているのだ。他の魔法少女たちがトレーニングに使っている時間帯ならともかく、シルヴィア以外に利用する者のいないこの時間帯にあって“二つの音”というものは不可解なのである。
腑に落ちないアナトが上階に上がってみると、そこにはシルヴィアにマジカルマーシャルアーツの指導を受ける緋桐の姿があった。
(まさかあのシルヴィアが他の子に武術を指導をしているなんて……)
アナトにしてみれば信じられない光景であった。新参者で縮こまっていたあの緋桐が、よりにもよってシルヴィアと親密になりつつあるなど、恐らくイシュタルに所属する全員が想像すらしなかったことだろう。そして何よりもアナトの目を見張ったのは、サンドバッグに向かう緋桐の動きだった。
(彼女の動き、既に基礎が出来上がりつつある……いつから始めたのかは知らないけど、早いなんてものじゃない……!)
一口に武術と言っても、武器のみを取り扱うものから素手による格闘のみを取り扱うもの、或いはその両方など、様々な形がある。そんな中で全ての武術に一貫して共通する基礎要素と言えば、“反復練習によって体に覚えこませる”こと。動きを体で覚えることで、実戦に際してその動きを反射的に繰り出すことができるようになるからだ。
ところが緋桐は、恐らく練習を始めてから一時間もかけていないであろうというのに、既に反復練習をほぼ完璧にこなしつつあるのだ。隣で指導するシルヴィアも、表情だけは鉄面皮を保っているが、その挙動の節々に驚きが滲んで見えた。
(もしや…………救仁郷緋桐、それが君の魔法なのか……?)
両腕に抱えた花束が重いと感じるのは特別重い花だからなのか、自らの疲労のためなのか、よくわからなかった。病室の前で足を止めるとそれはより重くなって感じられて、どうやらこれは気持ちの問題らしい、と相模は自答した。
意を決して病室の扉を開くと、部屋の主がこちらを振り向く。壮年の男性だった。
「瀬川さん、ご無沙汰です」
「おぉ、マグロの相模か」
「そ、そのあだ名は勘弁して頂けませんか」
「いいじゃないか。まぁとにかく座れ」
相模は促されるままにベッド脇の椅子に腰掛けて、花束を手渡す。瀬川と呼ばれた男性は顔を綻ばせながらたっぷりと十数秒ほど花を眺めた。病室には既に見舞いの花が飾られているが、迷惑がられている様子は特になく、相模はほっとする。
「どうだ、捜査のほうは」
「なんとか……順調に」
「そうか。それは良かった」
相模にとって瀬川は理想的な上司であり、もう一人の父親とも言える。今の時代には少ない義理と人情を地でいく人物で、激昂するときは誰よりも恐ろしく、しかしその温情は誰よりも心に染みる。彼には新米時代から大いに世話になったし、単純に一人の人間として深く尊敬すべき対象でもあった。
そんな彼の恩義に報いる為と言っては大袈裟かもしれないが、彼も認める一人前の刑事になることが、相模には何よりの目標だ。しかしいざ瀬川という師を欠いた状態になってみれば、年端もいかないシルヴィアにおんぶに抱っこで相模自身は殆ど何もできていないというのが現実であった。
瀬川を安心させてやれるような一人前の刑事には、まだまだ程遠い。その事実に打ちのめされて、せっかくの面会だというのに、相模の心は落ち込んだままだった。
「どうした? 妙に落ち込んでないか」
「……正直なところ、今回のヤマは協力してくれる魔法少女に頼ってばかりというか…………」
「ガキんちょに頼ってる自分が不甲斐ないってか?」
「…………はい」
「馬鹿。専門家の方が詳しいってのは当たり前だろうが」
「しかし、自分では瀬川さんの鮮やかな手並みとはまるで程遠くて……」
「それでいいんだよ。最初からうまく行くよりよっぽどいい。失敗を知らない奴ってのは転んでから立ち上がれなくなるからな」
「そんなものでしょうか」
「おうよ。俺も昔はお前みたいにな……」
少しだけ気を取り直した相模を見て機嫌を良くしたのか、瀬川は自分の昔話をはじめた。そんな瀬川の様子に相模は内心で胸を痛めた。
トレーニング場を出た緋桐は一旦シルヴィアと別れ、アナトの指示を受けて事務室へと向かった。アナトは何枚かの書類を手にしている。どうやら緋桐についてのことらしい。
「ご実家のことは……すまない。きみの身の安全を優先させてもらったよ」
「いえ、大丈夫です……なんとなく覚悟はできてましたから」
「そうか…………とりあえず座って」
アナトが手近な椅子を引き寄せて、緋桐に腰を下ろさせる。腰あたりの高さから見上げるアナトの体躯は案外大きく、顔との違和感がより強く思える。
「いよいよ明日から、緋桐にも魔法少女としての活動を始めてもらう予定なんだが……まだ魔術と魔法の使い方がわからないだろう?」
「はい……情報が雪崩れ込んできたということだけはわかるんですが」
「それを感じられるようなら現時点では充分すぎるほどさ。これを見てごらん」
そう言って差し出されたアナトの書類には、魔方陣らしきものが描かれていた。上部には"魔法少女:救仁郷緋桐、適正診断:A"と記されている。
「魔術を効率的に行使するための術式陣だ。魔術を発動する際に、大抵はどちらかの腕に浮かぶようになっている」
「術をかける相手じゃなくて自分の腕……なんですか」
「受ける対象にも"術式痕"……術式陣の痕跡は不可視ながら残るよ。陣の形状は人によって異なるから、さながら指紋のように証拠能力を持つこともある。術式痕の復元には高度な技術が必要だけどね」
「つ、つまり……私だけの、魔方陣……?」
「そういう解釈で問題ない。僕が分け与えた知識を引き出せ……るかな?」
「えっと……それは一体、どういうふうに?」
「あぁ、感覚を掴めないんだね。とりあえず、頭に両手を当ててみてごらん」
言われるがまま緋桐は両手を左右のこめかみに当てる。それから彼女の頭に蒸すような熱が広がっていくまで、大して時間はかからなかった。しかしその熱は数十秒を数えたあたりから、まるで抜け落ちるように失せていった。気が付けば熱は既になく、代わりに超常の叡智がまるで小学校で習った漢字のように"常識"として意識下に残っていた。
「うまくいったかな? 軽く質問をしていくから、答えてくれ……"現象制限"とは何か?」
「万物には単体で起こし得る現象に限界が設定されている。これを魔術界では"現象制限"と称する……」
「完璧だね」
学んだ覚えのない情報がすらすらと口を突いて出てくる感覚は、まるで心と身体が別々になったようであった。
――――魔術とは世界そのものにアクセスし、自らに課せられた"現象制限"を解禁する力。そして世界と自らを繋げるための橋のような役割を果たすのが術式陣である。アナトから受け取った情報をうまく引き出せなかったのは、力と情報を得て間もなく繋がりが薄かったためだ。一度開通しさえすればもはや自由自在である。
「……だいたい理解しました」
「一応説明しておくけど、魔法は魔術とは違う能力だよ」
「細分化されていて訓練すれば誰にでもある程度は使いこなせる学問の"魔術"と…………効果が少し大味で、眷属と契約した少女にしか得られないのが"魔法"、なんですね」
「魔術は状況に応じて自由に選び発動できる一時的な能力だが魔法は常に機能していて、発動するしないではなく強弱を制御するものだ……わかるね?」
「魔法少女は変身能力によって魔法の制御をより精密に行える……と」
「うん、契約に伴う情報の提供は問題なく完了したようだね。この確認がしたかった」
アナトは手元の書類になにやらペンで書き込みをしている。その面持ちは満足げで、彼の緋桐に向ける期待の大きさがそこはかとなく感じ取れた。
書き込みがひと段落すると、束ねた書類を更に捲り、また新たな書類を緋桐の前に示してくる。そこには女性の名前を書き連ねた表が記されており、うち一つの列に緋桐とシルヴィアの名前があった。
「明日からはシルヴィアと共に仕事にあたってもらうよ。マネージャーの枝里にも伝えておくから、わからないことがあれば彼女に訊いてほしい」
枝里の言った通り、やはり緋桐はシルヴィアと同じグループに配された。そのことに緋桐は内心で舞い上がっていたが、同時に底知れぬ不安も湧き出てくる。果たして自分のような平凡でつまらない人間にシルヴィアの仲間が務まるのかと思うと、悲しいことに全くと言っていいほど自信がない。
緋桐の悩みとは裏腹に、アナトは深く息を吐いて安堵している様子であった。
受け取った書類を眺めて複雑な想いを巡らせながら、緋桐は事務所の食堂へと足を運んだ。ピークを過ぎたせいでまるで人気がなく、利用者は緋桐に先駆けて食堂へ訪れていたシルヴィアのみであった。
鍋の前を離れて席についたシルヴィアは、机の中央に備えられた調味料を吟味していた。彼女が机に置いた盆は二つ、両方とも同じ献立が揃っている。どうやら緋桐のぶんまで用意してくれていたらしい。
「それ、食べて」
「シルヴィアちゃん……ありがとう」
「……」
別次元の存在のようにすら思えていたシルヴィアが少なくとも自分を気にかけてくれている。そう思うと、心に巣食う不安が僅かに軽くなったような気がした。
緋桐は急いでシルヴィアの隣の席につく。間近で見るシルヴィアはやはり美しく、調味料を手に取るさますら白鳥のように優雅であった。そのまま蝶のごとく軽やかに手を振る。その美しさは彼女の周囲に光が舞っているような錯覚すらさせてしまうほどだ。
「というかシルヴィアちゃん……胡椒かけすぎじゃない?」
主菜のカレーライスめがけて一心不乱に胡椒を振るその姿は異様でありながら、しかし不思議と絵になる麗しさがあった。
「……これくらいでなければ物足りない」
瓶の中身が半分ほどまで減ったところでシルヴィアはやっと手を止めた。本来なら軽くまぶす程度の調味料のはずが、彼女の手にかかってはもはや具材の一つみたいだ。
首を傾げながらも緋桐は既に自らのカレーを食べはじめていた。辛さの加減は、市販のレトルトカレーなどに例えるならば中辛といったところか。そのままで充分に辛いものをなにも更に辛くすることはないだろう、と考える緋桐にとっては甚だ不可解な行動であった。
粛々と手を合わせると、シルヴィアはようやくスプーンを手に取った。そして胡椒まみれのカレーをすくい、小さく整った口へ運ぶ。
表情から感情を読み取ることはできなかったが、その後ペースを変えずに間断なく口へ運んでいるところを見るに、よほど気に入ったのだろう。
「辛いの好きなの?」
「……」
シルヴィアは手を止めずに無言で頷く。その姿に緋桐は小動物の食事を想起した。