『邂逅』03
閉め切ったカーテンの僅かな隙間から真昼の陽光が差し込む。ベッドから起き上がった少女はその光芒に僅かに目を細めた。
緋桐と同年代のようだが、顔も体型も緋桐のそれとは比較にならないほど端麗な少女だった。しかしその面持ちにはまるで感情というものが見受けられず、整った容貌と相まって体温のないマネキンのようでもある。
少女は名をシルヴィアという。アナトと契約した魔法少女の一人である。
「…………新入り」
彼女の視線は窓の向こうの向日葵畑にいる緋桐に釘付けだった。
案内されるまま上がり込んだ天文台の中は、先刻の簡素で無機質な事務所とはまるで違い、雑多で生活感溢れるオフィスとなっていた。これといってファンタジーな要素も見当たらない、表社会のそれと大差ない平凡な中小企業のオフィスらしい。
それぞれのデスクに向かう職員たちは、とりわけ忙くもないらしく、時々手を止めて緋桐に好奇の視線を送ってくる。緋桐にとってそれは心底むず痒く、たまらなく居心地が悪い。なので気を紛らそうと、窓際に飾られた観葉植物に意識を集中することにした。
(魔法のオフィスならマンドラゴラとか置いててよさそうなのに)
観葉植物と睨めっこを始める緋桐を尻目に、アナトは書類を纏めながら小走りで奥のデスクへと向かっていった。その後姿はイタチ頭の存在感こそ異様だったが、仕事に向かう“大人の背中”そのものである。
ついていって邪魔をするわけにもいかず、緋桐は観葉植物の隣に留まることにした。
「……ひんひひはんへ?」
背後から声をかけられ、緋桐の肩がびくり、と跳ねる。突如として耳に届いた意味不明な言葉に戸惑いを覚えつつも、何らかの呪文ではないかと期待を秘めて緋桐は振り返った。
「あら、ごめんなさい」
――もちろん、そんなことはなかった。
緋桐の目の前で、スイカのような巨乳をぶら下げた女性が、割り箸を口から離す。割り箸と唇をつなぐ糸がやけに淫猥だった。
どうやら割り箸を咥えたまま喋っただけで、呪文の詠唱や高等な言語などではないらしい。このオフィスに入ってからもう何度目かわからないが、緋桐は改めて落胆した。
「カップ麺を調理する時、いっつもこうしちゃうのよねぇ……貴女、新入りさんね?」
「あ、えっと、はい。そのようです」
「私は宗頤枝里。アナトは儀式の準備に取り掛かるらしいから、その間に私がココを紹介することになったのよ。よろしくね」
「は、はい、よろしくお願いします」
シルヴィアは舞い上がる自分の心に戸惑いを覚えていた。何故そのようになったか、何が彼女をそうさせるのか、皆目見当もつかない。どういうわけかシルヴィアの本能は、アナトが連れていたあの少女との間に運命的な何かを感じ取ったらしい。
この奇妙な昂ぶりを単なる体調不良と断じるのは容易である。しかし彼女がそうしなかったのは、己の体調などよりも仕事を優先しているからだった。
心のざわつきを押し隠す鉄面皮のまま、黒のトレンチコートを羽織って寮室を出た。向日葵の咲き誇る晩夏にあって異様なそのロングコートは、彼女の矮躯にはとうてい不釣合いで、まるで背伸びした子供が親のものを勝手に持ち出したようだ。だが合成皮革の鈍い輝きは、彼女のプラチナブロンドを際立たせるには打ってつけとも言える。
階段を下り切ると、ちょうどオフィスから枝里が少女を連れて出てきたところだった。
「あら、シルヴィアちゃん」
「……宗頤枝里」
枝里の呼びかけに応じてシルヴィアも渋々立ち止まる。迷いを振り切るために仕事に集中しようとしていた矢先のことであった。
例の少女といま正に対面している。その事実を理解した途端、心臓が鼓動を早め、視線が勝手に緋桐を捉えてしまう。一秒ごとにシルヴィアの内心の動揺は大きくなるばかりだ。
しかし客観する分には、シルヴィアは些かも平静を取り乱さず落ち着き払っているように見えた。
「あぁ、この子? 新入りさんの……えーっと?」
「救仁郷、緋桐……です」
「おぼえた」
「「えっ?」」
たった四文字の返答をもって、シルヴィアはさっさと緋桐に背を向けてしまった。これ以上は動揺が顔に出てしまうと悟ったためである。
その言動はシルヴィアの思惑通り、無関心という印象を緋桐たちに与えた。その結果にシルヴィアは些かも疑問を抱かない。この上ない関心を寄せているからこそ、彼女は素っ気無く振舞うのだ。感情を捨てることこそが、彼女にとっての仕事に臨む心構えであったから。
シルヴィアは転移魔術を展開して、瞬く間にその場から消え失せた。
「あの子は……」
「私がマネジメントしてるシルヴィアちゃん。掴み所がないっていうか、感情が見えなさすぎて、私も手こずってるのよね」
「……シルヴィア、さん」
「気になる?」
「なんとなくですけど……」
――――一方で緋桐も、シルヴィアのことが気がかりでならなかった。
理論値を突き詰めた人形のような容貌、一切の贅肉を廃した流麗な体型、プラチナブロンドと黒い外套のコントラスト――――すべてが鮮烈に美しい、女神の光臨。
その邂逅に緋桐は尋常ならざる感動を覚えていた。そしてやはり彼女自身、なにゆえの感動なのかわかっていない。ただシルヴィアと違い、緋桐の受けた衝撃には、そこはかとない既視感が紛れているような気がした。
「たぶん貴女も私のチームに配属されることになるでしょうし、あの子とも仲良くしてあげてよね」
「は、はい……」
「それじゃ戻りましょっか」
「……えっ?」
緋桐が頭を悩ませる一方、枝里はひどくさっぱりした物言いで踵を返しはじめた。その背中を追う緋桐の足取りは忙しない。
事務所と寮を案内してくれる約束だと緋桐は記憶していたし、実際そうである。なのに彼女が自らの記憶を疑ってしまったのは、信じられないほど“何も案内されなかった”からだ。
「あ、あの~……ここの案内をして頂けるというのは……」
「うどん」
「……はいっ?」
「カップうどん、そろそろ5分経つのよ」
「…………なるほど」
挙句の果てにカップ麺如きのために案内を放棄されたとあっては、強引に納得するしかない。
ここに所属する人物は須くこのような脳みそここにあらず人間だけなのだろうか。そんな憂慮に、緋桐は更に頭を悩ませた。
「私、カップうどんが大好きなの。だから常に五分刻みで行動してるのよね」
「はぁ」
「緋桐ちゃんが来た時点で既に2分経過してて、そろそろ4分半。そういうこと」
「そ、そうなんですか」
「どっちにしろ案内するようなこともないのよ。天文台は一階が事務所で、隣には寮があって、それだけ。契約する前に環境を確認してもらうのが規則なのよね」
「へぇ……」
寮室の中を見せてもらうだとか、そういった確認の仕方を期待していた緋桐は、今日何度目かわからない落胆の溜息を吐いた。おそらくその寮も例外なく、マジカルも何もない平凡な寮なのだろう。
“やっぱりここに神秘を求めてはいけない”というルールが、緋桐の未熟な経験則をまた一つ成長させた。
視界いっぱいに広がる黄金の向日葵畑が、鈍色のビル街へと塗り換わる。転移魔術によって辿り着いた先は、先ほどまで緋桐たちがいた裏路地に程近い場所だった。
シルヴィアの背に不釣合いなコートも、ここでは路地裏の暗闇に溶け込むカモフラージュとして立派に機能している。
程なくして、表通りから人影が駆け寄ってきた。
「君がアナトの派遣魔法少女か?」
「そう」
「自分は警視庁異能犯罪対策部第一課の相模だ。よろしく頼む」
「魔法少女派遣“イシュタル”所属魔法少女シルヴィア」
「……よ、よろしく」
相模と名乗った刑事は背広姿の似合う生真面目そうな男性だった。見たところの年齢は二十代後半から三十代前半ほど。がっしりした体格が頼もしく、叩き上げの刑事らしい精悍な印象だ。しかし魔法少女との協力捜査は初めてなようで、警視庁の極秘捜査に手を貸す協力者が義務教育すら果たしていない少女であるという事実に、少なからぬ不安を抱いている様子だ。
泳いでいる目からも、どう接触を図るか思い悩んでいる様子がありありと伝わってくる。
「あー……喫茶店にでも寄った方が?」
「早く現場へ」
「……」
仕事に向かう時のシルヴィアは事件のこと以外は、協力する相手にすら興味を示さなかった。彼女の上品な佇まいと無感情な言動は、初めて会った人間によく動物のミミズクを想起させる。
一方で相模は、上司から“図体はでかいが一本気すぎる”とマグロのあだ名で親しまれている自分とシルヴィアを比べて、なるほど、肉食の鳥とは気が合わないはずだと一人でに得心した。相模は不安な前途に戸惑いながら、また小走りで現場へと向かった。