『邂逅』10
「あり得ないあり得ないあり得ない!! 何なのよあいつ!?」
追跡してくるプラチナブロンドの魔法少女へと差し向けたゴーレムが、ものの数秒のうちに無力化されてしまった。その事実は白いローブの少女を愕然とさせた。
牽制攻撃は距離を問わず悉く避けられ、ゴーレムは瞬く間に全て無力化されてしまい、手持ちの飴は全て使い果たしてしまった。そのうえ、飛び散った水飴は既に魔法・“甘美なる破壊者≪ヴァイオレント・キャンディ≫”の効果範囲を外れてしまっている。追手も魔法少女であることから、通常魔術を今更使おうとも牽制にすらならないと考えられる。
完全に詰まされた。
自身の敗色を肌で感じ取ったローブの少女は、一か八か、ビルの合間の路地裏へと飛び降りた。
「入り組んだこの路地でなら、撒けるはず……!」
肌を刺すような日差しはビルに遮られ、代わりに室外機の熱風が吹きつける。体を内側から温められるみたいで気持ち悪かったが、そんなことは気にしていられない。
塀を越え、フェンスを越え、ビルが形作る都会の迷路へと呑み込まれていく。視界に映るものは何もかも無機質なコンクリートばかりで、人の気配など微塵も感じられない。閉塞感に息が詰まりそうな中でただ一つ、真上にある狭い青空だけが見守ってくれているようだった。
頭上の小さな青空に目を奪われていると、突如として身体が軽くなったような感覚に襲われ、そのまま薄汚れた地面へと叩きつけられた。どうやらあまりの疲労に足が絡まってしまったらしい。
それもそうよね、と自嘲気味の笑いが零れる。おそらく彼女の人生においてこれほどまでに“全力で逃走した”ことは、そう幾つと無い。そもそも逃げ出すほどに追い詰められたことなど、殆ど無かったのだから。
立ち上がるのがやっとという有様の少女の背後に、冷たい足音が迫る。振り返ると、黒い祭服に身を包んだプラチナブロンドの魔法少女がいた。
「糞っ……もう追いついたっていうの? イシュタルの魔法少女ごときに負けてらんないのよ!!」
残る力を振り絞り、敵めがけて左の拳を突き入れる。突きはやはり簡単に避けられ、そのまま流れるような動作で左腕を絡め取られた。
「えっ……」
そしてそれは余りにあっけなく、唐突だった。腕が軽くひねられ、あっという間に肘の関節を砕かれてしまったのだ。
下手な操り人形のように、腕が本来とは逆の方向へしなだれる。事態を把握できず混乱する少女の脳に、遅れて痛覚が飛び込んできた。
「あっ…………いやあああぁぁぁぁぁっあああぁぁぁあぁぁぁあっ!!」
もはや痛みで何も考えられなくなった少女は、本能で“殺される”と知った。
いつも殺す側であった少女が心から“殺される”と感じたのは、これが人生で2度目だった。それも相手は彼女が主として認めた上位者でも何でもない、13歳程度にしか見えない魔法少女だ。これほど屈辱的なことがあるものか。
迷う余地はない。少女は懐に潜ませていた一枚の札を取り出すと、半ば無意識のうちに空へ投げた。それは自分以外の人間を卑下して止まない高慢な少女が、プライドをかなぐり捨ててまで訴えた印だった。
立ち並ぶビルの合間から信号弾が顔を出す。青空に術式陣を描いて消えていくそれは、少なくとも科学の産物ではなさそうだ。
枝里は信号弾の撃ち出された場所がそう遠くないことを確認すると、適当な路肩に車を停め、ロックもせず路地裏へと駆け込んだ。
慌てて助手席を降り後ろについてくる緋桐は、ほんの少しだけ察した様子で枝里に問う。
「あれは救けを求める信号か何か……なんですか?」
「そう、簡単な魔術で作る信号ね。……イシュタルの術式陣ではなかったようだけど」
「それって……!」
「ええ……たぶん、敵が放ったものよね」
面持ちに焦燥を浮かべる枝里の様子を受けて、緋桐も顔を強張らせる。細い路地を共に駆け足で進んでいく二人は、ほどなくして現場へと辿り着いた。
現場にいる人物がシルヴィアと相手の魔法少女の二人きりであることを見咎めた緋桐は、一瞬、安堵のため息を吐きそうになる。だが相手の有様を理解すると同時に、彼女はっと息を呑んだ。
白いローブの少女はフラフラとだらしなく揺れる左腕を抱え、おかしな方向へ折れ曲がった右足を引きずり、惨めに股を小便で濡らして、迫るシルヴィアから必死に逃れようとしている。群れからはぐれた草食動物と、狩り殺さんとにじり寄る肉食獣の図がそこにあった。
「シル……ヴィア……ちゃん?」
「……ヒギリ」
思わずこぼしてしまった声に、シルヴィアが反応する。振り返った彼女の空虚な瞳を緋桐は直視できなかった。
これまでの無感動で冷たい瞳とは何かが違う。
シルヴィアは緋桐と枝里が駆けつけたことを確認すると、何もなかったかのように再び相手の魔法少女へと向き直った。
「……殺し、ちゃうん……ですか」
「…………」
声を震わせながら問い掛ける緋桐に対して、枝里は何も答えない。無視したわけではないらしく、顔からは逡巡が読み取れるようだった。やがて意を決した枝里は一歩踏み出し、いつになくきつい口調で指示を告げる。
「それ以上痛めつける必要はないわ。今すぐ拘束して、ここを離脱するのよ」
「…………」
「その子が撃ち出した信号弾を見たでしょう。長居はできないのよ」
「…………」
「シルヴィア。離脱、するのよ」
「…………バインド」
シルヴィアが短く詠唱すると、地面のコンクリートが鎖の形に変質し、怯える相手を締め上げて気絶させた。枝里の叱責を受けてようやく指示を受け入れたらしい。
拘束したのを見届けるなり、三人は踵を返して細い路地を駆け戻った。白い少女を縛る鎖も、蛇のように蠢いてそれを追ってきている。
気まずい沈黙のなかで覗き見たシルヴィアの顔は依然、飢えた獣のようだった。
都心に密集する数々のビルには、現在は使われていないものも幾つか存在する。中でもとりわけ背が高いそのビルは、近隣では幽霊ビルとしてほんの少しだけ有名だ。その都市伝説に異能社会の事情がどれだけ干渉しているかは不明だが、少なくとも今この時は、魔法少女たちの待ち合わせ場所として機能していた。
「アナトは何を考えてこんな所にあたしらを?」
「さあ。ただわたくし達を選んだということは、つまりそういうことですわね」
幽霊ビルの15階に、朱莉と紗雪の姿があった。二人はガラス戸の取り外された窓から、ビルの眼前に伸びる大通りを見下ろす。
「まったく、仕事終わりくらいゆっくりさせてくれよな……」
「わたくしは朱莉と一緒なら何でも構わないですわ」
「そうは言うけど……とにかく、背中は任せておきな」
「ええ。背中は任せましたわ」
目的も知らされずアナトに待機を命じられた二人は、他愛もない雑談を交わしながらも、緊急事態に備えて周囲を警戒する。特に大通りの監視には最大の意識を注いでいた。街一番の高所に配置された理由を考えれば、大通りに目的があるとしか考えられない。
しばらくして、二人の目つきが変わる。埃を舞い上げていく少し強い風に目を細めながら、二人は対象を注視したままに頷きあった。