毒ではない
毒だなんてものでいい訳にはならない。これはただの、
俺は今理解に苦しんでいた。それはもう盛大に。目の前でにやつく男の、いつもの冗談の中で言ったら最高に最悪なレベルの冗談に俺は今頭痛すら遠のき頭がふらつくレベルまできていた。
「………何の真似だよ。」
「んー?言わないと分かんねーの?キスだよキス。」
何の悪びれも無い様子で男はいつもの笑みを絶やさずへらりと答える。その反応は想定内のものではあったが、だからと言って何か解決する訳でもなく。これに対する言葉をわざわざ発するのに俺は軽く俯き、ため息を吐くことになった。頭痛すら遠のくとはどういうことだ。
「あー…いやそれは分かる、俺が聞きたいのは…何で『俺に』キスしたかってことだ。」
普通の人であれば男が男に、しかもかなり良い年をした大人の男に、キスをされた時点でうろたえパニックに陥るのだろう。俺もできればそうしたかった。そうしたかったが仕事から帰ってきたばかりで疲れている上に『あの男』の行動だ。驚かないと言えば嘘になるが、何となく「ああ、やりそうだなこういうこと」と思ったのでそう大げさに驚くことはなかった。それだけだ。
「ああ、なーんかムラッと来ちゃって。」
今度こそ俺は頭を抱えた。何でだ、女にならまだしも何で俺なんだ。もう三十路もとっくに過ぎてる男だぞ、俺の一体どこに欲情するポイントがあるというんだ。一度森にいるあの多腕の医者に診てもらった方がいいのではないか、頭を。
と長いため息を吐く間にぶわっと頭に浮かんだが言葉にはしなかった。何故かと聞かれれば、人の性癖には色々あるし趣味も人それぞれであるともう理解している。それに口出しするのはどうかと思ったからだ。思ったからだが半分以上は『面倒臭い』と思っていたのは内緒だ。
「何で俺に対してムラッとしたのかは知らんけど…溜まってんだったら女相手にやってくればい」
疲労の入り混じった俺の文句はそこで途切れた。いや、無理矢理途切れさせられたと言った方がいい。気付いた時には俺は目の前の男に再び口づけられていた。
言葉を放つために開いた口を塞がれ、思わず閉じようとした歯の間にいつのまに差し込んだのか男の舌が滑りこむ。背筋をぞわりとした何かが走り後ろへ身を引こうと一歩足を引いたらちょうど座っていたコンテナにぶつかった。ぬるりと男の舌が歯列の裏をなぞるように撫ぜる。肌が粟立つ感覚を覚え、思わず目を強く瞑った。
「ん…ッ!ふ……、…ぅ……!」
男を押しのけようと相手の胸に手を置いて思い切り押そうと上げかけた腕が掴まれる。油断した瞬間にもう片方の手も行動に移すことの無いように男の左腕が掴みあげた。目の前の男は素早く、そして器用にも俺の両腕を頭上へ一まとめに縫い付けてしまった。思った以上に変な体勢で、振り解こうにも腕にうまく力が入らない。
顔を逸らそうとした反動で引っ込めていた舌が動いたのを男は見逃さず、易々と下から掬い取るかのように舌が絡め取られてしまった。口づけが更に濃密なものに変わり、湿った水音が微かに耳に入る。
段々と呼吸がしづらくなりロクな抵抗もできなくなってきた頃、ふっと唇が離れた。
「ひひっ、いーい顔してんじゃん?」
「っかは、はぁ…っは……」
最初こそ文句の一つでも言ってやろうと思っていたのだが、息すら吐かせぬ程の深い口付けに荒くなった息を整えるだけで精いっぱいになってしまい嫌味の一つも口に出せない。そうこうしているうちに、顎をくいと持ち上げられた。
「なあ、俺といいことしない?」
こんなことになって『いいこと』と言われるともはや一つしか選択肢は無い。俺は全力で否定すべく、ふうっと息を吐くとまともに力の入らない身体に鞭打ちキッと目の前の男を睨みつけた。
「…お断りするね、俺はその手に関してはトラウマを持ってるんだ。」
「んー、そんな涙目で言われても煽ってるようにしか見えないんだけど。」
「煽ってない!大体あの時もお前痛いから嫌だだの死ぬとこだっただの言ってたじゃないか!」
「あれは無理矢理されたからっつってんだろーが、きちんとすれば気持ちよくなれるぜぇ?」
そうだ、過去に一度軍に所属していた時に無理矢理やられたことがあり俺はその件でこの手絡みのことが一種のトラウマでもあった。あとから男同士でもやろうと思えばできると人づてで聞いたことがあるが、おそらく目の前の男はその事を言っているのであろう。きちんとした手順を踏み、正しくやればできる。と。
だからと言ってはいそうですかと頷く訳にもいかず、反論すべく言おうとした言葉を男が遮った。
「そうは言っておきながら、結構よかったろ?」
「……何が。」
「キス。」
「………………」
それだけは、即座に切り捨てることができなかった。実際、気持ち良いと思ってしまったのだから。
「…………」
「沈黙は肯定、って受け取っていいのかあ?」
「うぐっ……」
俺が返答に困り変な声を出してしまったのを見てくつくつと笑いながら男はつつ、と顎を指でなぞる。いつの間にやら自分の背中は壁に付いており、逃げる術が見当たらない。いや、それ以前に本気で逃げるのならば、口づけられた時点で舌を噛むなりして逃げればよかったのだ。逃げる方法なんか考えればいくらでもあった。
逃げる方法はあったのにそれを行動に移さなかったのは。所詮自分も人間で快楽には弱く、そしてそれに貪欲な生き物なのだということなのだろう。俺はまた一つため息を吐いた。
「お、ようやくヤる気になった?」
「………おい何だその股の間に入れてる足は。」
「いや気持ちよくさせてやろーかなって思って。」
「まだやって良いとも悪いとも言ってねーだろ!!」
「いい加減決めろよ往生際悪いぜぇ?そんなビビんなよ生娘じゃねえんだし。」
「きっ…!?って、あ!てめ、そう言いながらどこに手突っ込んでんだよ!!」
「だから気持ちよくさせるために?」
「うるせ…ッ!ぅ……!」
いつの間に肌蹴させたのか、胸元が大きく開かれておりその中に着てるシャツの下から手が入りこんできた。脇腹をすうっと撫でられるとくすぐったさとはまた別の感覚を覚える。にやにやと興味深そうに見つめる男を出来る限りの力を込め睨みつけてやがて観念したように肩から力を抜く。
それを察した男が意外そうに肩を竦めた瞬間、俺は男の首から下げているゴーグルを引っ掴んでぐいと引っ張った。そのまま引き寄せられる男の唇を今度はこちらから奪ってやる。舌を入れるなんて面倒なことは今はしない。ただ、離れる時に男の唇を挑発するようにぺろりと舐めてやった。
「……まだ、完全にあんたを受け入れた訳じゃねえぞ。」
「ひっ、ははは!こりゃあかわいらしいキス貰っちまったなあ!っはははははは!!」
「笑い声うるせえよ!」
「くっくっく…っつーことは、据え膳いただいちまっていいんだな?」
「……」
了承の言葉は言わず、俺はただ目線を斜め下に逸らした。それがおかしかったのか、男はまた笑った。