2-4
警視庁公安部公安四課のホムロは苦渋に満ちた顔で総革製のソファーにその身を沈めていた。隣には相棒であるミナセが、何故か笑顔で前のめりに座っている。部屋は最近の流行に反して物に溢れていた。といっても、それはあくまでもホムロの感覚に準じた表現であって、調度品は全て高級品でありなおかつ統一されたもので、シンプルかつ気品に満ちている。サイバーネットが普及してから本や雑誌という物理的な紙媒体は希少になったし、テレビやラジオ、パソコンという言葉も死語になって久しい。全て<SeConD>という装置に取って代わられ、それぞれはコンテンツという言葉に統合されてしまった。だが、この部屋は違う。時代から取り残されたように本棚があり、本が納められている。照明が部屋に飾られた絵画を印象的に照らし出し、奥に設置された執務机はおそらく天然の樹を使ったものに違いない。その上に、よく分からないオブジェが飾ってあった。絨毯は漆黒の絨毯はふかふかで、ソファーの座り心地はホムロの家の物と比べるべくもない。二人の前に並んだティーカップは内装とは対照的に非常にレトロでアンティークなものだった。陶器製で、縁には花柄のラインがあしらわれている。きっと高級品だろう。端的に言えば鼻持ちならない金持ちの部屋だ。だが、ホムロが気に入らないのはそれだけではない。
目の前に座った女性。
三人がけの中央に座した女性は優雅に紅茶などを味わっている。公安部の刑事二人に睨まれて、この女は平然とした態度で普段通りに装っている。それが、ホムロは気に入らない。
「お名前を教えていただけるかしら?」
カップを下ろした女性が、静かにそう言った。やはり鼻持ちならない声だ。想像通り、と言って良い。だがきっとミナセなどは喜ぶだろう。案の定、ミナセはぺこぺこと頭を下げて自ら名前を名乗った。
「公安四課のミナセといいます。こちらは──」
「おなじく、四課のホムロだ」
いくつか用意している声の中で、下から二番目の低音で答える。そうして、相手の顔をじっと見る。そうすると相手が勝手に怒っていると勘違いして、萎縮する。圧力を加える。そうすることによって中のものを吐き出させる。それがホムロの常套手段だった。しかし意外なことに女性は全く目を逸らさずに、ホムロを見つめたままだった。それがより一層ホムロを苛立たせる。
「四課と言いますと、昔は資料係でしたね。今は国内担当かしら?」
知ったかを──。時々、こういった手合いがいる。階級章を見て階級を言い当てたり、デマを多分に含んだサイバーネット上にアップされた警察の内情を我が物顔で語って主導権を握ろうとする小市民だ。下らない。
「すみません。警察の内部情報をお知らせすることは──」
「キヅさんはお元気かしら?」
ミナセの言葉を遮った彼女の言葉に、ホムロは目が大きくなるのを我慢できなかった。ミナセなど、ぽかんと口を開けたまま静止している。
「キヅ……といいますと」
「わたしがお知り合いになった時は確か一課長でしたね。キヅレンジロウ警視正です」
「……今は、参事を勤めております」
「あら。それではご出世さなれたのですね。彼は優秀な方でしたから」
ホムロは折れるのではないか、というくらい歯を食いしばった。一体この女は何者だ? キヅレンジロウは確かに警視庁公安部参事官であり、ホムロやミナセの上司である。だが、この目の前の女とはどういう関係なのだろう。親子ほども歳が離れているというのに、この女の口ぶりはまるで親戚の子供の出世を喜ぶ大人のそれと一緒だ。黒髪の女性はそうと知らなければまだ未成年のようにも見える。どこか少年のような凛々しさとあどけなさを持った、不思議な眼差し。黒いシャツに、スカートを履いている。
「喪に伏していますの」
女性の声に、ホムロは再度彼女の顔を見た。油断ならない。本能がそう告げている。
「ええ、そうです。あなたの視線を読みました」
そう言って女性は口で三日月を形作る。
「あなたも、優秀ですね」
「あの、喪に伏すとはどういう──」
ミナセがおずおずと聞いた。
「ヒノヒビトさんが亡くなったからです」
それは、衝撃的な発言だった。ホムロは反射的に立ち上がりたかったが、拳を握ることによってそれを我慢する。この女は、何者だ? 何度目かの疑問が脳裏を過った。
サークルサンズ代表取締役社長兼CEOのヒノヒビトの死体が発見されたのは12月31日午後13時30分頃、──つまりほんの数時間前のことだ。まだニュースにすらなっていない。一般人がその情報を手に入れる手段はないはずだった。ヒノヒビトの死体が見つかったのは、とあるビジネスホテルの一室だった。都内ではない。チェックアウトの時間を過ぎても降りてこない客を不審に感じた従業員が部屋に入ったところ、机に突っ伏す形で事切れたヒノを見つけた。死因は薬物による中毒死で、床には空になったグラスが転がっていた。他殺か自殺かはまだはっきりしていない。はっきりしていないからこそ、ホムロとミナセが派遣されることになったのだ。事件自体は他殺の可能性が完全に否定されない限り、捜査一課の担当だ。だが、日本有数の大企業の社長が死んだとなればテロの可能性もゼロではない。その可能性を探るため、二人は派遣されてきた、というわけだ。一代で会社を立ち上げ、ここまで牽引して来た優秀な社長が突然死んだわけだから株価への影響は避けられないだろう。
まずサークルサンズで聞き込みをしたところ、ヒノはなんと17日前から出社していないという。会社自体はなんとかとか言うゲームソフトのアップデートの為、休みを返上してフル稼働している最中だというのだから、違和感を感じずにはいられない。名目は出張であったが、帰社予定の28日を過ぎても、ヒノは会社に顔を出さなかった。何故警察に届け出なかったのか、と問いただしたが誰もが一様にヒノ社長ならやりかねない、という反応だった。ではこれまでにもそのようなことがあったのかと問うとそんなことは無いという。だが、こういうことはたまにあることだ。通常の殺人事件でも、あいつならやりかねないと豪語する証言者にその根拠を尋ねると、目つきが気に入らないだの、挨拶をしなかっただの、ゴミ出しのルールを守らないだのという些細なことばかりを列挙する。少しも論理的ではない。人は普段、自分の良いようにしか世の中を見ていないものだ。ヒノヒビトは少しばかり派手好きだが、仕事には実直で、誰よりも優秀だったようだ。陽気で滅多に怒らないが、こうと決めたらテコでも動かない人物だったらしい。交友関係も仕事一筋でそれ以外の関係はほとんど皆無だった。
続いて、出張中にヒノへ連絡して来た人間をピックアップした。同業の社長や取引銀行、下請けの社長など、仕事関係ばかりが名を連ねる中、一人だけ少し毛色の違った電話があった。それが彼女だったというわけだ。大学の同窓で、仕事を手伝ったりもしていたらしいが、今は基本的に関係ないという彼女が一体どんな用でヒノに連絡をよこしたのか。ホムロはそれが気になった。
「何故、それを知っているのかをお聞きしてもよろしいですか?」
ホムロは慎重に言葉を選んで言った。
「今は、できません」
女は簡単に首を振った。
「何故?」
ホムロはなお問いつめる。語尾が多少、荒くなっていた。
「その時間が無いからです。あなたは優秀ですけれど、その手法は好きになれません。時間がかかりすぎます。また、現時点でわたしがあなた方の不信を完全に晴らすこともできません。きっと、信じては頂けないでしょう。ですから──」
女は長い髪を払いながら、ゆっくりと、言葉を発する。
「あなた方の持っている情報をわたしに提供していただきたいのです」
そう言った。
「あ、あんたは……」
自分の言ってることが分かっているのか。ホムロはしかし、その言葉を発することが出来なかった。逸脱している。この女は、狂っている。そう感じた。
「あ、あんた……ええと、名前はなんと言ったか」
「九鬼まどかと申します」
「九鬼さん、あんた自分が何を言ってるのか分かって言ってるのか? 話を聞きに来た警視庁の捜査員に向かって、自分の話すことは何も無い、そちらの持っている情報を教えろと、こう言ってるんだな?」
「そうです」
「ふざけるな!」
ホムロは我を忘れて立ち上がっていた。ミナセが驚いて彼の背広を引っ張るが、そんなことを気にしてはいられない。警視庁が、公安部がこうも舐められて黙っていられるわけが無かった。否、舐められているのは自分か、それともミナセか──この際どちらでも一緒だ。
「そんなことができるとでも?」
精一杯の怒気を含んだホムロの言葉にも、まどかは全くたじろぐ様子を見せたりはしない。彼女は両手を膝の上に乗せたまま、毅然とした口調で断言した。
「できます」
その瞳に、変化があった。今までは全くの無表情で、冷静沈着だった彼女に灯った感情を、百戦錬磨のホムロが見逃したりはしない。しかしそれは恐れや怯え、何か隠し事をしている矮小な人間のそれとは全く違うものだった。
「この件に関して、申し訳ありませんがわたしは持てる力のすべてを総動員させていただきます」
その瞳に映った感情は、──怒りだった。
「わたしの友達を守るために」
その宣言は意味不明ではあったが、しかしホムロの目にさえ、何かの不正に対して怒りの炎を燃やす正義の女神に映った。