プロローグ
はじめまして。承太郎と申します。
正直なところ書き始めたは良い物のこのサイトの機能の使い方から話の続きまで何から何まで自信がありませんが、とりあえず飛び降りてみました。火中の栗を拾う、あるいは、背水の陣です。更新は安定の遅さだと思いますが、感想など頂けると多少早くなるかもしれません。
諦めたらそこで試合終了だ。先生、俺、小説が書きたいです。
「1260×7はなんだ?」
板張りの部屋。壁紙は白いが、薄ぼんやりと灯されたレトロな照明のせいでほとんど黄色に見える。柔らかそうなラグに、拡張高い応接セット。その奥側に重厚な作りの執務机と、壁にはぎっしりと洋書の詰まった本棚が並んでいる。近代的な要素はほとんどなく、例外と言えば執務机の上に青白く輝く光だけで表示されたコンソールパネルと、そこから飛び出したガラスのようなディスプレイだけだった。
突如、声をかけられたジズは、ディスプレイから顔を上げて怪訝そうな表情を作って見せた。
「突然ですね。知りませんよ、そんなの」
なるべく、感情がこもらないように気を付けつつ、発音する。下手に出ても、怒っても、相手を付け上がらせるということをジズは経験から知っていた。
「ふむ……そうやって私の為にわざわざ感情をコントロールしようとしてくれているところに愛を感じるな」
しかし相手はなんということも無い様子でさらりとジズの心境を読み取ったようだった。ジズは胸中で舌打ちする。
目の前の相手はどこを見るということも無く、視線を宙に固定したまま、足を組んでソファにゆったりと身体を預けていた。何をするというわけでもなく、右手で長い漆黒のロングヘアを弄り続けている。
白衣を着た華奢な少女だ。見た目にはそう見える。だが、ジズは決してそれが彼女の本質ではないということを学習していた。歳は今年で27歳のはずだ。一分の隙もなく凛々しく整った顔立ちは、しかしどこか少年のようなあどけさを残していた。絹のような光沢を放つ髪をすく指は細く長く、それ自体が美術品のように美しい。もちろん、それは黒いワンピースから伸びた両足にも言えることだ。
その代わり、彼女の四肢は実務的な作業には向かないこともジズは知っていた。一流モデルのように無駄な要素を一切削ぎ落とした彼女の身体は、本来、人間が必要とする生産活動の一切を苦手としている。例えば、ペンを十分以上握れない。包丁を上手く扱えない。走るのも、一般人の平均的な歩行速度より少し早く動けるという程度。試したことは無いが、水に放り込めばきっと沈むだろう。
ちなみに、そうしたいと思ったことは一度や二度ではない。
文明の発達した現代でなければ到底生き残れないような──否、しかし彼女のことだ。きっと彼女は世界大戦時に生まれようが、中世ヨーロッパに生まれようが、原始時代に生まれようが今と同じ格好で何かに腰掛け、不遜な態度で遠慮なく話すのだろう。その美しい声で。
酷く脆弱で、通常生活に支障をきたしかねないような身体しか持たない彼女だが、しかしそれを補って余りある程の力を彼女は有している。財力、名声、地位。だがそれはひとえに彼女自身が生み出したものの副産物でしかない。彼女の本当の力は別のところにあった。
「残念だがその角度から私の下着を覗き見ようとするのは不可能だぞ」
彼女は相変わらずの姿勢でさらりと言う。
「誰もクィン先輩の下着なんて見たくないですから」
「そうだろうか。鑑定書と写真付きで私の下着をオークションに出せばきっと10万くらいにはなるぞ」
「いや、この会話のどこにそんな気持ち悪いリアリティを持ち込む必要があるんですか」
ジズはこめかみを押さえながら呻く。だが、クィンはまるで意にも介さない様子であとを続けた。
「なに、興味の無いふりをしてちらちらと私の身体を観察しているジズくんのことだからきっと喜んでくれるだろうと考えてのことなのだが」
「べ、別に先輩の身体を観察していたわけじゃないですよ!」
ジズは慌てて手を振った。この手のやり取りは一度や二度では済まないほどしているのだが、ジズはその度に慌ててしまう。やましい気持ちは無いのだが、言ってることは事実なのだから質が悪い。いや、やましい気持ちは断じてない。それは本当だ。多分。
「その割に視線に落ち着きがないようだが?」
少女は一切視線を動かしていないにも関わらず、まるで全てを見透かしているかのようなことを言う。否、きっと見えているのだろう。時折、ジズは彼女が背後まで見通せているのではないかというおぞましい妄想にとらわれることがあった。
「わかりました。わかりましたよ」
ジズは両手を上げて諦めるように言った。クィンはジズに相手をしてもらいたくて、彼が無視できない方向へと話題を向けているのだ。それは百回以上にも上るサンプルから既に学習済みだ。ただ、毎回それに抗おうとしているだけ。成功した試しは一度も無かった。
「お話をお伺いしましょう。1260×7でしたっけ? それがなんですか?」
「今から依頼するバイトの報酬だ」
「8820円ですね!」
ジズは即答する。クィンはリッチなセレブだが、ジズは都内の大学に通う貧乏な学生だった。地方から上京しており、多少の仕送りはあるにしても食うに困ることは多々ある。クィンとの関係が絶てない理由がそこにある、とジズは考えていた。
ジズとクィンは大学で出会った。ジズが一年のときにたわいもない会話から仲良くなった教授をクィンが訪ねて来たのである。彼女はジズが通う大学の卒業生で、そのとき彼女を指導していたのがその教授というわけだった。クィンはとある事情からバイトを募集しており、信頼できるアルバイトがいないかということで恩師である教授を訪ねたのだ。そこでジズの名前が出た。
それからはずっと、二年経った今でもアルバイト代という餌に釣られてこの関係を続けている。
クィンの性格とその能力を知っていたら、断っていただろうか。ジズは今でも時折考えるが、答えは出ていない。十秒考えて、回答の出てこない問題はそのままそっとしておくのが良い。というのがジズの信条だった。事なかれ主義、もしくは楽観主義というのか。あるいは刹那主義だろうか。それも考えたことがあるが、まぁ、どちらでも良いことだ。深く考えてやぶ蛇をつつくよりかは。
「それって、一日だけですか?」
ジズは俄然やる気になって聞いた。やりかけのレポートを放り出した状態だったが、どうせ締め切りはまだまだ先だ。
「いや、一応、十日間ほどだが、特に勤務日数は強制しない。ちょっとした調査なんだが、十日間後に簡単な報告を聞きたいというだけだ」
「今、大学は冬休みですからね。いくらでも時間はありますよ」
両手を合わせてジズは言った。自然と頬がつり上がる。
「えっと、十日間フルタイムでやれば……」
「8万8200円だな」
クィンは間を置くことなくさらりと言う。
「報告後に追加報酬として同じだけ出そう」
「それはまた、えらい豪儀ですね」
だが、ジズとしても全く不足はない。
「それって、どういう仕事ですか?」
「エデンズライフのことだ。覚えているか?」
クィンはようやく、そこで初めて視線を上げて言った。エデンズライフというのはサークルサンズというメーカーが二年前に販売したゲームソフトの名前で、電脳世界に構築された疑似世界に入り込み、そこで自身が設定した架空の人物に成り切って様々な試練を乗り越えて目的を達成する、ロールプレイングゲームと呼ばれる種のものだ。
「そりゃあ、当然ですよ」
ジズは頷いた。エデンズライフは世界中で大ヒットを記録し、売れに売れた。販売総数はなんと4000万本。ゲーム史上最も売れたソフトとしてギネスに登録された記録に届こうかという勢いで、日本はもちろん、米国やヨーロッパ、南米やアジア諸国でも社会現象になるほど売れた。開発元兼販売元であるサークルサンズ社はたった一年で世界で最も有名なゲーム会社として名を馳せることになった程だ。
ドラゴンや吸血鬼、天使や悪魔といった怪物達が蠢く異世界の住人となったプレイヤーはそこで様々な冒険を繰り広げ、ときに囚われとなったお姫様を助け出し、ときに大海賊の隠された秘宝を求め、ときに国家間の争いに介入するといった様々な試練をくぐり抜け、世界の滅亡を望む悪者を討ち滅ぼすのがエデンズライフをプレイするプレイヤーたちの当面の目的となる。
ジズも当然のことながらそのゲームは発売当初から持っていたし、とある事情から通常のプレイヤーとは違った関わり方をしていたのでエデンズライフに関する知識はかなりある。ただ、一時期は大学に行かなくなる程やり込んでいたものの、もう半年以上プレイしていない、という状態だった。
「ただ、最近、ちょっと人気も衰えてきた感がありますね。僕ももう全然プレイしてないですし」
「まぁ、発売から二年だ。それも仕方あるまい。どんなものも勃興があれば衰退もする」
「それで、そのエデンズライフが何なんです?」
「年明けにアップデートがある」
アップデートというのは発売されたソフトの機能拡張を行うことだ。レイアウトを見直したり、便利な機能を追加したり、あるいは不必要な機能を削除したりして機能の向上を目指す。エデンズライフにおけるアップデートとは、マップやイベント、武器などのアイテムを追加したり、新しい魔法や機能を実装したりすることだ。
「ああ、らしいですね。初めてのアップデートですから、結構話題になってますよね。衰えたといってもさすがにエデンズライフだなぁと思いましたが」
サークルサンズが発表したアップデートは来年の一月一日の午前0:00時に行われるらしい。一日と言えば今からちょうど十日後になる。大晦日から大々的にゲーム内でフェスティバルを開催し、そのままアップデートを行うらしい。ニュースサイトのトップに大々的に載っていたから印象に残っている。
「ただ、4000万人のアップデートって大変ですよね。それを再起動無しのリアルタイムで行うって、可能なんですか?」
「ああ、まぁそれはな。そもそもアップデート自体を一日その日にするわけじゃない。そんなことをしたらさすがに回線がパンクしてしまうだろう? アップデートのデータ自体は二ヶ月前から配信されているんだ。その間にエデンズライフを起動したプレイヤーは強制的にデータをダウンロードさせられる。しないと、ゲームがプレイできない仕様に変更されているらしい。その一連のプログラムパッケージを開封するためのコードを一日に発表する。まぁ、発表すると言っても実際にパスワードを打ち込む必要は無くて、全てバックヤードで処理されるわけだが。家の増築だけはしておいて、鍵だけあとから渡すわけだな」
「で、それと僕のアルバイトと、どんな関係が? 一体何を調査すれば良いんですか?」
「何、ちょっとそのエデンズライフをプレイして、そのアップデート前の雰囲気を体験してきて欲しいだけだ。特別何かを調べて欲しいわけじゃない。全体的な雰囲気。プレイヤーたちの期待や、その言動がどんなものか、アップデートの案内は滞り無く行われているのか、その内容は? そういったことだ。できれば、一日のアップデートはリアルタイムで体験してきて欲しい」
「それだけで、17万ですか?」
明らかに、おかしい。それではただ単にゲームをプレイして感想を述べてくれと言っているようなものだ。たったそれだけの作業を十日間続けるだけで17万円というのはさすがに法外といって良い。
「まさか、企業スパイとかじゃあないですよね?」
クィンはサイバーネットにおけるソフト関連の会社を幾つも経営している。ゲームのようなライトで分かりやすいものではなく、もっと深くて固い方面──例えば銀行や省庁に導入されているシステムだったり、人工衛星やミサイルに搭載された制御プログラムだったり、一体全体何に使うのかさっぱり分からない用途のもの(本人曰く、それは積み木の欠片だよ、と言っていたが意味がわからない)まで、とにかく小難しくて用途や全体像を説明し辛いもの、想像し辛いものが主だ。しかしだからと言って、ゲームに使われている技術がまるで稚拙で、役立たずだなどというわけではない。きっと、流用できる有用な技術だってあるに違いない。特に裕福なこの国ではゲームに使われている技術は常に最新のものだ。かつて米国空軍が日本製のゲーム機を研究用だかなんだかに利用していたという眉唾物の話まである。
「そんな仕事を君にやらせたりはしないよ」
「他の人間にならやらせるんですか」
「第一、企業スパイにしては報酬が安すぎる」
ジズの言葉をさらりと流して、クィンは先を続ける。
「それに滅多にないことだが──、他者の助けが必要なら、私の場合はそれを本人に伝えるだけで事足りる。十中八九断られたりはせんよ」
大胆な物言いだが、それが事実であることをジズは知っている。それだけの力を彼女は有しているのだ。
「サークルサンズ社のヒノ社長とは旧知の仲でもあるしな」
「そうでしたね……じゃあ、一体、何を?」
「ふむ……」
そこで彼女は言葉を切ると、わずかに逡巡するように視線を斜めへと向けた。それは彼女にしてはとても珍しい行動と言える。クィンが何かに迷ったり、言い淀むという場面は滅多に見られない。いや、今だって、何かを迷っているわけではない。ジズは確信していた。彼女は既に思考を終えている。彼女の場合、思考はほんのわずかだ。それは考えない、という意味ではない。その逆で常に考えている。ただ、ひとつひとつの案件に対して与えられる時間が極度に短い。それは、彼女の思考速度が抜群に速いせいだ。
彼女の中で結論は既に出ている。彼女が話した、という事実がそれを裏付けている。ジズのような一般人は話しながら考えるが、彼女は常に結論ありきなのだ。それくらい、思考速度に差がある。
では言い淀む理由は何か。そう演出する理由はなんだろう──。
「これはまだ説明できる段階にないことだ。インスピレーション、風の便り、あるいは、違和感と言っていい。良く言うだろう? 嫌な予感がする、と」
「そんなのフィクションの中だけですって。大体、なんです、それ? 結構危ない感じですか?」
「そうだな。そうかもしれない」
クィンは顔を上げて言った。彼女は真っすぐにジズを見つめている。黒い瞳。力を持った視線だ。
「正直なところ、現状ではなんとも言えない。確かなデータはおろか、状況証拠すらないからな。邪推、あるいはこじつけと言っていい。だがそれでもあえて直感的に確率に表すなら君に危険が及ぶ可能性は1パーセント未満だ。しかしそれでも、ゼロではない以上、君には伝えておかなければなるまい」
ジズは片側の眉を吊り上げて息を吐くと、大げさに肩を竦めてみせた。
「まぁ、話はわかりました。良いですよ、お引き受けします。1パーセントって、普通のバイトで事故にあう確率の方が高そうですし。知ってますか? この国で交通事故に遭遇する可能性は」
「一生涯で約45パーセント。2.2人に一人の割合で交通事故に遭う」
クィンが最初から知識としてそれを知っていたのか、それとも計算したのかは分からない。ジズはしかし、ただ微笑んで、頷いておいた。どのみち、断る手はない。その気も無い。結局のところ、彼女がもし本気でそう望んで実行に移した場合、逃れる術はないのだ。
会話が途切れたのを見越したように、間の抜けたインターホンの音が室内に鳴り響いた。
それに呼応するように、ジズの背後に光が収束していき、まるで魔法のように人型を象る。本棚の手前、机の間の何も無い空間から進み出るように現れたのは、メイド服に身を包んだ少女だった。濃紺のミドルボブ、その上には定番の白いカチューシャに、黒いワンピース、そしてフリルのついた白いエプロンをきっちり着こなした少女は無表情のまま、両手を前に部屋の主であるジズに来客を告げた。
「ジズ様、アリス様がお見えです」
「アリスが? なんだろ」
ジズは大学の友人の顔を思い出しつつ、何か約束しただろうかと考える。
「はい、なんでも、冬期休暇中に出されたレポートの参考資料を見せて欲しいとのことでしたが」
「そんなの、別に全部デジタルなんだからメールで送れたのに」
「それはご本人に直接仰って下さい」
髪と同じ色の瞳から、メイドの感情を読み取るのは不可能だ。淡々とした調子で主人に返答するだけである。このメイドはジズが雇っているわけではなく、人間ですらない。ジズが所有しているコンピュータや家電など、全ての電子機器を統合管理している人工知能である。
「やぁ、ガブリエラ。久しぶりだねぇ」
「ご無沙汰しております、クィン様。と申しましても、17日前にお会いしておりますが」
コンピュータなのでこの手の計算は速い。
「ふむ、だが、わたしにとって17日というのは随分と遠い過去のことなのだよ」
クィンの言葉の意味がジズには分からなかった。きっと、ガブリエラにも分からないだろう。ガブリエラは何も言わなかった。
「さて、ではわたしはそろそろ退散するとしよう。少しプロジェクトが佳境でね。一週間後にまた会おう。報告はその都度でも構わないし、まとめてでも構わない。メールを送ってくれ」
「わかりました」
ジズは立ち上がったが、クィンはそうしなかった。ただ、軽くソファに乗せた掌をジズに向けただけで、一瞬にして姿を消した。同時に、それまで部屋の形を成していたものまでもが、まるで手編みのマフラーを解いていくかのように分解し、消えていく。本棚も、照明も、ラグも、ソファーも、全てが闇に消えた。遅れて、ジズの視界には<サイバーネット回線切断/システムシャットダウン>というメッセージが白いウィンドウに表示されていた。
電脳世界から物質世界へ。ジズは数時間ぶりに物質として実在する本来の自室でその目を開いた。