ガーデン
一日に一度だけ来る一両電車のドアをくぐって、誰も座っていない長い座席の端に腰を下ろす。左の空席に荷物を置いて、膝の上に花束を預ける。蒸気音を出しながらドアが閉まって、ゆっくりと電車は動き出す。
腕時計を見る。時間はまだ昼前だ。昼食は食べていないけれど、用事が済んでからでも十分だろう。そんなに遠くへ行くわけでもないし、元々食欲はあまりない。
色とりどりの花束から漂ってくる香りが鼻をかすめる。その真ん中に一本だけ据えられた、真っ白な罌粟の華。
目が痛くなるほど、鮮やかな純。
――電車が揺れる。
とても穏やかな速さで、電車は目的地へと進んでいく。
僕は目を閉じて眠ることにした。到着したら、きっと車掌が起こしてくれる。……どうせ、この電車の行き場所なんてあの場所くらいしかないのだから。
後頭部を窓、体を金属の冷たい手すりに傾けて、僕は意識を手放していった。
*****
緑、緑。一面の緑。
爽やかに滲む花と葉と茎の踊りと静穏。
青をほんの一粒足して不均一に混ぜたような、実と像とを曖昧に切り取る二色の虹模様を見る。立体のぎこちない駆動。ピクセルの細かい組織を照らして彩色する橙の混じった光が、輪郭線を虚にして暖となり空となる。細やかな風の音色は哀に塗れ静かで懐かしい。自身の下に、灰色を隠して。
柩が眠っている。
墓が眠っている。
踏みしめる植物と地面の手応えのない感触。大地は鼓動と気配を吸い込み、集めることなくただ吸うのみ。魂が身体の先から溶け出していくような気分を、今はただ無感動に味わう。
柩の一つにたどり着く。
この中にまだ、彼女がいる。
砂と埃とが混ざり合った透明で惰性な塊たちを払って、扉に彫られた文字を読む。
『nostalgia』。
この中にまだ、彼女がいる。
僕はまだ、この静寂を知っている。
古びた壊れ物のごとく、柩の扉は音を立てる。決して傷つけないように、何も目覚めてしまわないように、扉を開く。鍵はない。
人形のように、崩れない顔が見える。
扉が開いていく。腕が見える。体も見える。足も見えて、すべてが見える。白装束に身を包む、彼女の眠る姿が見える。体の周りに撒き散らされた死骸の華も見える。胸の上に重ねて乗せられた両手が見える。薬指にはめられた指輪も見える。そして顔が見える。首元の陰が見える。唇の桃色が見える。頬の白色が見える。瞳の水晶が見える。そしてただ漫然と広がる黒色の髪が見える。
人形のように、彼女は眠っている。
澱む大気と庭の平穏。
僕は手に持った花束を、彼女の胸の上に差し出す。ひっそりと、何も起こしてしまわないように。
鮮やかな白罌粟の華。
光を受けて、滲まず、輝く。
僕は静かに手を合わせる。あるはずのない音を聞く。ただ微量に沈んだ残滓に耳を澄ますようにして、まだ綺麗なままの彼女の、あるはずのない脈動を感じて。
あなたはもうここにはいない。
確かな悲観。哀と諦心。
眠り続けるたった一つの体の頬を、そっと撫でる。
殻。
抜け落ちた静動に憂う。
返事はなくとも、従順で固められた肌色の実が、それだけで答えだ。
僕はあなたが好きだった。
愛していた。
あなたに抱かれて眠ったことを覚えていた。
風に揺れない白罌粟の華。
世界樹の希望。
僕はあなたを愛していた。
あなたが愛してくれたように。
滔々と、睡を流す夏の日と緋と群れ。
漂う埃の粒の薫。
ただ愛するだけで、愛されるだけで、すべてがそこにあった、
失うことも、得ることもなく、墟に形どられて佇む、
怠惰と熱情に包まれた、たった二人だけの、消えることのない世界を、
今この場所に、
忘れてしまおう。
あなたはもう、ここにはいない。
もうここにはいないんだ。
風が急かす。草はうねる。
僕は箱庭の出口を探す。
愛していた。
僕は確かに、愛していた。
そうして今も、愛している。
あなたもきっと、そうでしょう?
*****
電車に揺られて考えていた。いつか見た世界樹の夢を。
希望に満ち溢れたその世界を。
僕はまだ、その希望を捨てずにいる。捨てられずにいる。僕の根底のどこか一辺に、根を伸ばして貼りついている。僕と同化し、僕の心を包んでいる。
驚くほど、哀が待っている。
腕時計を見る。もうすぐで三時。どこか近くの、どこかに行って、何かを食べたいと思った。電車が揺れ動く。無気力に身を任せて、帰りの駅までの時間を逆算する。
窓の外には、途方もなく眩しい光の粒子が舞っている。