第五章……思い出された忌まわしき過去
俺たちはマンションへ入って行き、エレベーターの手前まで足を運んだ。
「被害者は四階に住んでいるんだ」
言いながら、湯原先輩はエレベーターの上昇ボタンを押した。
「お前には、きちんと被害者のことについて把握してもらわないとな」
チン、という音とともにドアが開き、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。
「被害者は男だ」
「男ですか」
胸ポケットから手帳とボールペンを取り出し、メモを取る準備をした。
「年齢は、五十二歳。職業は中学教師。妻と、殺された父親が勤務している中学に通っている十五歳の娘がいる。娘が事件の第一発見者で、通報をしてきた」
頷きながら、俺はメモを取った。
今の俺って、本物の刑事みたいだ。捜査一課に配属が決まったと同時に買ったこの手帳に、早くも事件のメモをとることができるなんて。嬉しい限りだ。
「他には?」
俺は、メモを取りたくて湯原先輩を催促した。
「もうないよ」
「え?」
俺の手帳には、まだ三行しか書かれていない。これで終わりだなんて。
「どうして?」
「電話で聞いただけだからな」
「名前は?」
湯原先輩は振り返って、呆れた表情を浮かべ言った。
「そんなことは、現場に着いてから聞けばいいの。焦るなよ」
「はい」
それもそうだな。被害者の奥さんから、事情徴収をすればいいか。
旦那さんは普段どういう人だったのか、何か恨まれることでもあったのかと、俺は奥さんに質問する内容を頭の中で練っていた。
「降りるぞ」
ドアが開き、俺たちはエレベーターから降りた。
殺人現場に近づくにつれ、徐々に俺の鼓動は早くなっていった。
実際のところ、俺に殺人事件を捜査することが出来るのだろうか。
死体を見ることにもなるし、犯人を見つけられなければ、被害者の身内にも責められることになるだろう。
精神的にも弱い俺には、もしかしたら向いていないのかもしれない。
今更だが、そのようなことを考えていたら徐々に怖気づいてきてしまった。やはり怖い。逃げ出したい。
「あそこが、現場だ」
数メートル先の部屋の前で、刑事や鑑識の人たちがたむろしていた。湯原先輩は、歩きながら白い手袋をはめていった。
「警視庁捜査一課三係の湯原です」
手際よく警察手帳をスーツの内ポケットから取り出し、キープアウトと書かれたテープを潜って、殺人現場へと入っていった。
「同じく警視庁――」
湯原先輩と同じように、俺も警察手帳を取り出そうとしたら、再び頭痛が襲ってきた。
さっきよりも、はっきりとした痛みがあった。
これほどまで、不吉な予感がしたことはなかった。この先に、何が待っているというのだ。
「どうしました?」
警察官が、俺の身を案じて声をかけてくれた。俺は右手をあげ、大丈夫だと示して見せた。
「早く入ってこいよ、川原」
部屋の中から、湯原先輩のせかす声が聞こえてきた。俺は返事をし、テープの下を潜って部屋の中へ入った。
とたんに、嗅いだことのないような異臭が、鼻をついた。とっさに、鼻に手を当ててしまった。そんな俺を見て、湯原先輩は軽く鼻で笑った。
「そんなんでどうするんだ」
俺は靴を脱いで、慎重に死体のある奥へと進んで行った。
一歩一歩足を進めるごとに、頭痛が酷くなっていく。もう、何がなんだか分からない。熱だってないし、今日は絶好調のはずだ。
だとしたら、頭痛の原因は一体なんだ。
「ほら、これが被害者の男性だ」
湯原先輩は、下のほうを指差した。俺はゆっくりと、視線を落とした。
とうとう、俺の目に死体が映った。
その刹那、俺の頭をいっそう激しい痛みが襲った。あまりの痛さに、立っていられないほどだった。
急に座り込んでしまった俺に、湯原先輩は何かを言っている。しかし、俺の耳にはもはや届いていなかった。
どうしてだ。どうして、死体を見ただけで頭痛が起こるのだ。
意識が朦朧としている中で、俺は頭痛の原因を必死で思案した。だが、思い当たることはなかった。
まずい、このままじゃ本当に気を失ってしまう。
俺は危なげに立ち上がり、湯原先輩を見た。湯原先輩は真っ青な表情で俺を見ているが、俺の今の顔色はもっと酷いんだろうな。
俺は一息つき、もう一度死体を見た。
被害者の男性は、頭から血を出して倒れている。血がまだ固まっていないところからして、殺されてまだあまり時間は経っていないだろう。
頭の近くには、鈍器のような物が置かれており、背中には一枚の色あせた写真が乗っけられていた。
その写真を、俺は目を凝らして見てみた。どうやら、どこかの学校の教室で撮られたクラスの集合写真のようだった。皆、いい笑顔をしている。
それじゃあこの写真は、殺された被害者の学生時代ということになるのかな。これは、犯人が残したメッセージだと考えるのが妥当か。すると、犯人の動機はこの人の過去にあるとか――。
「うわ!」
なんだ、これは。
今度は頭痛なんかじゃない。頭の中で、いろんな映像が駆け巡っている。
「おい、川原」
湯原先輩が、心配そうに声をかけてきた。
「ちょっと待ってください!」
俺は言って、頭の中で駆け巡っている映像の数々を、必死で繋げていった。
全て繋がれば、きっと何か分かるはず。この頭痛の原因と、殺人現場に近づいたとき感じた不吉な予感が。
しばらくして、ようやく全ての映像を繋げることに成功した。
「おい、聞いているのか、川原」
湯原先輩が俺の肩に手をかけようとしたとき、俺はそれを振り払って部屋を勢いよく出て行った。
「おい、川原!」
湯原先輩が、俺の名前を大声で叫んだ。しかし、俺は止まる気など微塵もなかった。走り続けたかったのだ。
何故なら、全て分かったから。
目を覚ましたときに何故か何も覚えていない夢の内容、そして頭痛の原因、殺されたあの男と、男を殺した犯人の正体が、全て分かったのだ。
俺は階段で一階まで降りていくと、ロビーで立ち止まり、壁に背中を預けた。上がっている息を整えるためだ。
「そういうことか」
俺は、誰もいないことを確かめて独り言を呟いた。
「もう忘れていたのにな」
俺が過去を覚えていない理由の辻褄が、ようやく合わさった。
「どうしてだよ」
いつの間にか、俺の目からは一筋の涙が流れていた。
「どうして、実行したんだよ」
壁に手をついて、堪えきれず俺はとうとう泣き崩れた。