第三章……ひと時の休息
警視庁へ戻る頃には、時刻はすでに八時を回っていた。
三係がある六階まで行こうとエレベーターに乗り込み、ドアを閉めようとボタンを押そうとした矢先に、一番会いたくないやつが入ってきた。
「よお、健人」
こいつは、俺と同期で捜査二課に所属している芝原雄大。警察学校で知り合い、一緒に勉強をしてきた仲なのだが、こいつとはどうも馬が合わず、俺はずっと意図的にこいつを避けてきた。向こうから気づいて、こちらへ近づいてきた場合は会話せざるをえなかったが、極力見つからないようにしている。
しかし、このような密室に入ってこられると、もう逃げようがないのだ。捜査二課のある四階までの辛抱だと、自分に言い聞かせて俺は気を落ち着かせた。
「聞いたぜ、犯人を逃がしたんだって?」
その言葉に俺はため息をついた。またあの人が言いふらしたのか。けど、事件が経過してまだ二時間も経っていないぞ。あの人の情報収集能力は、やはり侮れないな。
「どうなんだよ?」
この狭い空間で、芝原は俺に詰め寄ってきた。
「お前なら撃てたか?」
あの時、俺が置かれた状況について皆に考えてほしい。万が一外して、犯人を殺してしまっていたら、取り返しの付かないことになっていた。それでも、こいつは撃てたというのか。
「俺だったら撃てたよ」
軽い口調で、芝原は言った。
「いや、もう少し考えてくれよ」
「練習しているから、外すなんてことはないよ」
なるほどな。練習では上手く的を外さないで撃てているから、本番でも外さないと。
「あのな、練習と本番とでは圧倒的に違うんだよ」
たしか、芝原はまだそのような局面に出くわしたことがなかったはず。だから、撃てるとか軽く言えることが出来るのだ。
「なんだかんだ言って、逃がしたんだろう、犯人を」
そこだけをピックアップされると、俺がどうしても情けなく見えてしまう。いや、実際に情けないのか。
「その通りだ」
観念した。言い訳の仕様がない。
「お前が捜査一課でいられるのは、やっぱりあのカマ係長のおかげだな」
意地悪い笑みを浮かべて、芝原は言った。
「刑事でい続けたいんだったら、あのカマ係長に抱かれるしかないな」
「冗談にもほどがあるぞ」
妙にリアルだから、そういうことは言わないでほしかった。
三係の刑事でいる限り、あの係長からは逃れることが出来ないのかな。
「お、着いた」
ようやく四階に着き、ドアが開いて芝原は降りた。
「あのカマ係長によろしく」
適当に頷いて、俺はボタンを押してドアを閉めた。
「よろしく、って言われてもなぁ……」
今日もまた、係長からセクハラを受けるのだろうかと考えると、憂鬱な気分に陥ってくる。こんなことを言うのも失礼だけど、生理的にあの人は受け付けない。
でも、係長のおかげで捜査一課の刑事でいられるのが現状なんだよな。俺は刑事の仕事が好きだ。これから徐々に、係長に慣れていけばいいさ。
ドアが開き、俺は四階に降り立った。
三係は、俺が湯原先輩に呼び出された時と全く変わっておらず、誰もいなかった。
「戻ってきたか」
後ろから声をかけられ、俺は振り返った。湯原先輩が、缶コーヒーを片手に立っていた。
「皆さん、どうしたんですか?」
「係長は、発砲許可を独断で出したということで、上から呼び出しを受けている。まあ上のやつらも、建前だけで係長を呼び出したんだろうけどな」
係長を本気で叱れる人って、ごく一部の人間だけだと思う。かなり権力を持った人とか、それとも度胸のある馬鹿か。
「他のやつらは、残業だよ。事後処理とか、あとはまあ取調べとか、いろいろかな」
湯原先輩は言い終わると、缶コーヒーを飲み干してごみ箱に投げ捨てた。
「今日は忙しかったですもんね」
「のん気だな、お前は」
湯原先輩は自分の椅子に座ると、頭の後ろに手を回してリラックスし始めた。
「お前もさ、もう少し手柄たてようとか思わないの?」
「常日頃、思っています」
真剣に言ったつもりだったのだが、湯原先輩には上手く伝わらなかったみたいだ。
「お前、真面目に刑事やるつもりあんのか? たとえばさ、他のやつらの手伝いに行くとか、手柄を立てようという姿勢を見せてくれよ」
湯原先輩がもっともなことを言い終えた直後に、デスクに取り付けられている固定電話が鳴った。
「はい、もしもし」
即座に、湯原先輩は受話器を取った。
俺も、捜査一課で何でもいいから手柄をたてないと。皆に認めてもらい、本当の捜査一課の刑事になりたい。
迷惑かもしれないけど、他の人たちの手伝いに行こう。湯原先輩も言っていたじゃないか。手柄を立てようという姿勢を見せろ、って。
帰ってきたばかりだが、俺は他の人たちがどのような事件に関わっているか調べて、手伝いに行こうと思った。
「おい、川原」
そう思った矢先に、湯原先輩が声をかけてきた。
「はい?」
「どこ行くんだよ?」
「他の人たちの手伝いに」
胸を張って、堂々と言った。湯原先輩は、きっと誉めてくれるはず。しかし、俺の期待は見事に裏切られた。
「やめろ、迷惑だ」
手柄を立てようという姿勢を見せろ、って言われたから手伝いに行こうと思ったのに、迷惑だなんて。まあ、迷惑だから呼ばれないということもあるのだろうが。
「それよりも、俺と一緒に来い」
「え?」
思わず聞き返してしまった。予想外だったのだ。まさか、湯原先輩からそんな言葉が出てくるなんて。なんか、凄く嬉しい。
「都内のマンションで、殺人事件が起きた」
「殺人事件!」
思わず大声で叫んでしまった。
「うるさい!」
湯原先輩の叱責を受けて、俺はもう何があっても叫ばないと心に誓った。
「言っておくが、俺はお前には何一つ期待していない。今は人数がいないから、ついてきてもらうだけで、余計なことはするなよ」
言いながら、湯原先輩は手際よく現場へ行く準備をしていた。俺も、デスクから手帳やボールペンなどを取り出し、上着の胸ポケットにいつでも取り出せるように閉まった。
「それじゃあ、行くか」
「はい」
不謹慎だが、俺は今から殺人現場に行くと思うとわくわくしてしょうがなかった。今まで、三係の仕事では傷害事件しかやったことがないからだ。こんなに早く、この俺が殺人事件に関われるなんて。
しかし、待っていたのは俺の想像を絶するものだった。
まさかこの殺人事件が、俺の運命を大きく狂わすことになるとは、まだ知る由もなかった。




