第二章……殺人犯
「おう、川原」
工事現場の入り口付近に、湯葉先輩は立っていた。湯葉先輩のズボンの右ポケットに携帯されている拳銃に、どうしても目がいってしまった。
「犯人は?」
走ってきたので、俺は息を切らしながら聞いた。
「おそらくまだ、工事現場の中に潜んでいるはずだ」
と、目の前にある建設途中のビルを指差した。
「他のやつらは、もうすでに工事現場の中に入って、犯人を探している。俺たちも手分けして探すぞ」
「はい!」
俺は自分を奮い立たせるように、勢いよく返事をした。
この結果次第では、俺の三係での立ち居地が変わる。
今まで雑用をさせられてきたこの俺が、来週からはようやく本来の仕事を任されることになるかもしれない。
それはつまり、俺の思い描いていた理想に近づく、ということなのだ。
俺は、慎重にビルの内部へと入っていった。
犯人が逃げ込んだ建設途中のビルの内部は、所々鉄骨が露出していた。そのせいで、視界も悪く、慎重にならざるをえなかった。
今日は、建設作業員は休みらしい。姿が見えない。不幸中の幸い、とでも言っておこうか。作業員を人質にでもとられたら、苦戦を強いられてしまうからな。
一般人がいなければ、こちらとしては思いっきり犯人を追いかけられるってもんだ。
「さあ出て来い、犯人」
呟くように、俺は言った。辺りを気にしながら、俺は慎重に歩を進めた。
「なんだ!」
後ろのほうで金属に何かがぶつかった音が聞こえて、俺は勢いよく振り返った。犯人が、鉄骨に足でも引っ掛けたのだろうか。
「犯人なのか?」
音のした方向を、俺はじっと見つめて言った。しかし、何の反応もない。
「いるなら、出て来い」
徐々に距離を詰めていきながら、ゆっくりと拳銃のほうへ手を伸ばしていった。いざとなったら撃つ。絶対に、逃がしてはいけないのだから。
「早くしろ」
拳銃にようやく手をかけたとき、陽気な声とともにその男は出てきた。
「見つかったか」
男はおそらく二十代前半で、長身で髪を茶髪に染めており、まさに今時の若者だと思わせるような格好をしていた。両手をポケットに突っ込み、不敵な笑みを浮かべながらこちらを見ている。俺は、その態度が気に食わなかった。何故、もっと焦らない。目の前に拳銃を携えている刑事がいるのだぞ。
「お兄さん、見たところ刑事だよね?」
「黙れ」
男からは、危機感というものをまったく感じられなかった。まるで友達と話しているような、リラックスした表情を見せていた。
「何でそんな怖い顔をしているの?」
だんだん腹が立ってきった。こいつだったら、躊躇なく撃てるかもしれない。
「どうして、人殺しなんかしたんだ」
なめた態度をとる男を睨みつけながら、俺は聞いた。
「若気のいたりってやつ?」
「お前!」
男が言い終わると同時に、俺は拳銃を抜き、構えた。一瞬、怯んだ表情を見せたが、すぐにまたもとの調子を取り戻して、男は言った。
「怖いね」
「撃つぞ!」
脅したつもりだったが、男には全く効いていないようだった。平然としていて、むしろ挑発的な態度をとってきた。
「撃てるものならどうぞ」
こいつ、俺が撃てないと思ってやがる。
俺ごときが、人を撃てないってか。
とことんなめやがって。
「俺だってな……」
言葉に詰まってしまった。あいつの言うとおりになるのが嫌で強がって見せたけど、やはり俺にはどうしても引き金を引くことができなかった。
「新米刑事にはありがちな傾向だよ」
上から目線の物言いに、俺は腹が立って仕方なかった。俺の何が分かる。人を殺した最低な野郎に!
俺は片目をつぶって、徐々に銃口の照準を男の顔に合わせた。しかしそれでも、男は微動だにしない。それどころか、笑みを崩さずに俺を煽るかのような仕草もしてみせていた。
「こいよ」
いつの間にか、銃を持つ手が震えていた。次に、足も震えだしてきた。その場に立っていられないぐらいの精神状態に、俺は追い込まれていた。
先輩たちは皆、このような修羅場を潜り抜けてきたのだろうか。
一発撃てば、俺も変われるのかな。
「どうしても撃たないのか?」
笑みから一変して、今度は呆れた表情を浮かべて男はこちらを見ていた。
「そろそろ飽きた」
どういうつもりだ、あの男は。
「なあ、撃たないなら、行っちゃうぜ?」
男は出口のほうを指差して、言った。
俺がこのまま撃たなければ、男はどこかへと逃げてしまう。
発砲許可は、なんのために出ているというのだ。あの男を、絶対に逃がしてはいけないからなのではないのか。
そうやって自問自答を繰り返しているうちに、男は逃げる体勢に入っていた。
「じゃあな、刑事さん」
「おい、ふざけんな!」
俺は拳銃を構えたまま、大声で言った。
「楽しかったよ」
言い終えた直後に、男は出口に向かって一直線で走って行った。俺は構えていた姿勢を崩し、握っている拳銃を一瞥した。
今ここで撃てば、何とか男に命中して捕まえることが出来るかもしれない。そうなれば、三係の補欠要員から脱することが出来るだろう。
そうこう悩んでいるうちに、男はどんどん距離を離していく。悩んでいる時間なんて、一秒たりとも存在しない。今すぐ、決断しなくては。
俺は――撃たない!
「待て!」
拳銃を握りながら、俺は全速力で走った。
こうなってしまったら、必ず男を捕まえなくてはならない。
もしこれで男を逃がしたとしたら、俺はさらに先輩たちからの信頼を失ってしまうだろう。
だから、捕まえなくてはならない。何が何でも。
「くそ!」
これはさすがに、ハンデがありすぎる。最初から男との距離が結構離れていたし、撃つか撃たないかで数秒悩んでしまっていたんだ。全速力で走っていても、男との距離は一向に縮まる気配がない。
男は、もう少しで出口に到達しそうだった。
だが、本来そのガラス張りの出口は自動ドアで、建設途中のこのビルでは当然電気も通っていないから、ただのガラスでしかないのだ。
つまり、男はそのガラスの手前で絶対に止まらなくてはならない。
男を捕まえることが出来る。
まさか、血だらけになってまで逃げたいとは思わないだろう。大人しく捕まってくれるはずだ。
そう安心しきっていると、男は走りながら体勢を低くして、床に置いてあった鉄パイプを器用に拾い上げた。
そして、その片手に持った鉄パイプでガラスを叩き割って外に飛び出していった。
想定外だった。何故鉄パイプがよりによってそんなところに落ちているのだと、内心突っ込みを入れて、俺はさっきよりもさらにスピードを上げて走った。
しかし、追いつけるはずもなく、男の姿が徐々に小さくなっていった。
もう無理だ。追いつけるわけない。ほとんど見えないよ。
俺は立ち止まって、その場に座り込み額から瀧のように流れてくる汗を、手の甲で一生懸命拭った。ワイシャツはびしょびしょだ。こうなるんだったら、上着なんか着てくるんじゃなかった。
時間が経つにつれ、俺は自分のおかれている状況に焦りを感じ始めていた。発砲許可が出されているにもかかわらず撃たなかったし、しかも犯人を逃がしてしまった。今回ばかりは、間違いなく何らかの処分が下されるはずだ。そう考えると、気が重い。
悩んでいると、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。俺はゆっくりと立ち上がり、周りを見渡して音が聞こえてくる方向を探した。
「川原!」
まもなくして、先輩が動いていないエスカレータを走って降りてきた。その表情には、焦りが見受けられた。
「ここで何か音がしたが、なんだ?」
俺のところへ来るなり、先輩は聞いてきた。
音というのは多分、犯人が外へ出るためにあのガラスを鉄パイプで割ったときの音だろう。それを聞きつけて、急いでやってきたというわけか。
「犯人に、逃げられてしまいました」
俺は余計な感情を交えずに、平然と言った。
その態度が気に食わなかったのか、先輩はいきなり俺の胸倉を掴み怒鳴り散らした。
「お前、ふざけるなよ! あいつは、絶対に逃げしてはいけないやつだった! だから、発砲許可だってでていた! それなのに、お前は逃がしたというのか! 撃たなかったのかよ、川原!」
絶対に聞かれるなと、思っていた。何のために発砲許可をだしたとおもうんだ、何故撃たない――そんなのは、聞きたくない。どうして撃たなきゃいけないんだ。捕まえるために、やつの足でも撃っておけばよかったのか? それでもし外して、殺してしまっていたらどう責任をとればいいんだ!
拳銃を構えたとき、嫌な想像が頭を駆け巡り俺は引き金を引けなかった。そんなことじゃ、捜査一課の刑事なんか務まらないことは重々承知している。けど、俺だって人間だよ。人を殺してしまうようなことはしたくない。たとえ相手が、人殺しであったとしても。
「おい、あれ」
先輩は説教を一時中断し、俺の肩を叩いて犯人が出て行った方向を指差した。
ゆっくりと振り向くと、数百メートル先に数台のパトカーが、赤いランプを点灯して停まっているのが見えた。
遠くから、人影がこちらに近づいてきていた。その人影が誰なのか、大体の予想は出来ていた。
それでも俺は、外れてくれ、と心の中で何度も祈った。
「ご苦労様です!」
その人がようやくはっきりと見えた瞬間に、湯原先輩は綺麗な敬礼をした。俺も続いて、敬礼をする。
その人は、ゆっくりと落ち着いた様子で歩みを進め、俺たちの数メートル手前でとまった。
「どうも」
目の前に立っている人は、俺たちが所属している三係の係長、西島係長だ。
温厚そうな顔と声で、初めて会う人ならば、係長に対してなかなかの好印象を持つかもしれない。俺もそうだった。
しかし実態は、俺の想像をはるかに超越した人物であった。
三係の係長でありながら、警視庁の影の支配者と称され、その頭脳と的確な判断で、数々の難事件を解決してきた大ベテランだ。
俺のような新米刑事にはまさに雲の上の存在で、係長に憧れて捜査一課を志望する刑事も数え切れないほどたくさんいる。本当に凄い人なのだ……あれさえなければ。
「今日は、とくに暑いわね」
ここで一つ言っておくが、この人は女性じゃない。れっきとした男だ。本人は男だと、絶対に認めないが。
初めてこの人に会ったとき、頭を殴られるような衝撃を受けたことを、鮮明に覚えている。こういう類の人は、テレビで見たことは何度かあったが、実際に生で見たことはなかったのだ。
最初は少し抵抗があるだけで、仕事などに支障をきたすことはなかったが、配属されて一ヶ月を過ぎたあたりから、俺は係長からちょくちょくセクハラを受けるようになっていた。
係長いわく、スキンシップらしいのだが、それにしてはなで方がいやらしく、たまに視線を感じると思って振り向くと、係長が俺に熱いまなざしを送っているのが原因だったのだ。
だから俺は、係長がいやなんだ。係長を見ると悪寒が走り、声を聞くと吐き気を催してしまう。少し、言い過ぎか。
しかし、直接そんなことは言えない。そんなことを言えば、飛ばされるかもしくはクビの可能性があるからだ。最近になって思ったのは、係長のおかげで俺はまだ捜査一課の刑事でいれているのかもしれない、ということだった。ほとんど他の係の事件に駆り出されて、三係の仕事など滅多にさせてもらえないが、それでも一応肩書きは捜査一課三係の刑事だ。
俺は捜査一課三係の刑事であり続けたい。だから、影の支配者を怒らせてはいけないのだ。
「なんだか、疲れちゃったみたい」
係長はそう言うと、一歩踏み出した時にわざとらしく足を踏み外し、俺のほうに倒れこんできた。
避けるわけにもいかず、仕方なく俺は倒れこんできた係長を支えて、一声かけた。
「大丈夫ですか?」
係長の頬が高潮したのは、気のせいだろうか。
言っても、この人今年で四十九歳だからな。
この人のセクハラ攻撃に耐え続けるのは、容易なことではない。しかし、我慢しなければ。俺は捜査一課の刑事になるために、何年も頑張ってきたのだ。一時の感情で、それらの努力を水の泡にしたくない。
「ありがとう」
まるでどこかのセレブのような上品な口調で、係長は言った。
俺は、係長を支えていた手をさりげなくゆっくりと離そうとした。すると、係長は俺の手を握ってきて、再度言った。
「ありがとう」
もう分かったから、とりあえず離してくれ。どうして俺が、こんな目に遭わなくちゃいけないんだよ。
自分の不運さを嘆きながらも、係長に気に入られたからまだ捜査一課の刑事でいられるといるという感謝な気持ちとで、複雑な心境を抱えていた。
「それで係長、犯人のことなんですが……」
申し訳なさそうに切り出した先輩の顔が、正直おかしかった。何年も係長と一緒に仕事をしてきた先輩でさえも、係長の言動や行動に若干引き気味の様子だった。
「ああ、そのことだけど、もう解決したわよ」
その言葉に、俺はとくに驚かなかった。犯人が出て行った方向に、数台のパトカーがとまっているということは、先回りをして係長たちが犯人を捕まえたということだろう。
俺はその迅速さに、感服せざるをえなかった。これで普通の人だったら、憧れの存在になっていたのに。
「そういえば係長、前の事件解決したのですか?」
湯原先輩は、いまだに俺の手を握っている係長に聞いた。
「解決したから、来たんじゃない」
ようやく俺の手を離して、係長は言った。
「ちなみに、発砲許可をだしたのもあたしよ」
その事実に、俺と湯原先輩は同時に声を上げた。
「え、湯原先輩も知らなかったんですか?」
湯原先輩も驚いたので、聞いた。
「ああ。俺も、発砲許可が出たということだけしか聞かされていなかったからな」
「発砲許可を出した理由は、ここへ到着する前に犯人に逃げられてしまうからよ」
なるほどなと、俺は普通に納得してしまい同時に、発砲許可も出せるなんてさすが影の支配者だと、感心してしまった。
「殺人犯が逃げたって聞いたときは、焦ったわ。たまたま前の現場が、この工事現場と近かったからよかったものの、このまま逃がしていたら大変なことだったのよ。だから、最悪の事態も想定して発砲許可をだしたの」
「けどこいつは、撃ちませんでした」
湯原先輩は俺を一瞥して、言った。
「でも、犯人も何とか捕まえられたし、いいのよ、これで」
係長のその慰めの言葉が、逆に辛かった。なんだか、申し訳ない気持ちになってしまう。
「ちょっと、あまいんじゃないですかね?」
湯原先輩の反抗的な口調が、係長の気分を害したようだった。
「いいじゃない、べつに。物事は結果が全てなのよ。過程はどうでもいいの」
どうしても、湯原先輩は納得がいかないみたいだった。俺だって湯原先輩と同じで、納得いかない。
係長は、俺に対してあまい。その理由については説明するまでもないが、その感情を仕事にまで持ち込むことはどうかと思う。
「とりあえず、今日はこれで解散ね。お疲れ様」
係長は笑みを浮かべて、パトカーのほうへ戻っていった。
しばらく経ってから、湯原先輩は俺のほうへ向き、再び胸倉を掴んで言った。
「お前、あまり調子に乗るなよ」
どすの利いた声で、湯原先輩は言った。
前にも同じようなことが何度かあり、その度に湯原先輩は脅すような態度で俺に詰め寄ってくるのだ。
係長の件に関しては俺のせいじゃないのに。湯原先輩は、俺が係長に媚を売っているとでも思っているのだろうか。
とりあえず誤解を解こうと、いつも必死で説得を試みるのだが、俺の意見は聞き入れてもらえないのだ。
「でも、俺は――」
「言い訳なんか、聞きたくねぇよ!」
湯原先輩は俺を突き飛ばして、吐き捨てるように言った。
「いいか? もう少し、真剣にやれよ。お前が手柄でもたてれば、文句は言わねぇ。係長のお気に入りだかなんだか知らねぇけど、あまりいい気になっていると、これ以上刑事でいられなくしてやるからな」
今までに同じ台詞を、何度聞いてきたことだろうか。こうして俺が失敗して係長に慰められると、一語一句同じ台詞を言うのだ。俺は、この台詞を間違えずに言える自信がある。
「とにかく、これ以上俺たちに迷惑をかけるようなことはしないでくれ」
そう言い残し、湯原先輩はこの場を去った。
俺は冷静に立ち上がって、湯原先輩が言った言葉を深く考えた。
皆に迷惑がかかっていることは、俺だって自覚している。俺が係長に気に入られているということも、他の人たちには気に食わないようだった。気に入られているというのは、違う意味でなんだけどなぁ。
とりあえず、捜査一課の仕事で手柄をたてよう。他の係で活躍しても、何のメリットも生じない。三係で、俺は活躍するんだ。
そうすれば、いつかきっと皆に認めてもらえる日がくるはずさ。
俺は今まで以上の強い決意を胸に抱き、踵を返して警視庁へと戻った。