第二十四章……事件の真相
病院の廊下は、ひんやりとしていた。ひんやりとしているのは、恐怖のせいでもあるかもしれない。過去に入院したことなんて一度もないから、夜の病院に対しての免疫がないのだ。
音を立てないよう慎重に歩を進め、ようやくナースステーションまで辿り着いた。
ナースステーションに明かりが点いているということは、人がいるということだ。つまり、ここからはさらに慎重に進んでいかなくてはならない。見つかったら、アウトだ。
俺はどうしても、この病院を抜け出さなくてはいけない。
あいつに会わないといけないんだ。
もう一度、ナースステーションの方へ目を向けた。明かりは点いているが、人の気配がない。看護師さんたちは、奥のほうにいるのだろうか。
俺は体勢を低くし、ここを一気に突っ切った。
体勢が低いことで、多少走りにくいこともあって音を立ててしまったかもしれないが、それでもなんとか見つからずに外へ出ることが出来た。
無事に外へ出られたことの安堵感で、腰が抜けてしまった。
額から滝のように流れてくる冷や汗を、懸命に手の甲で拭った。私服も、びっしょりだった。
しばらく休んだ後、立ち上がって病院の庭の真ん中に埋められている木のほうへ駆けていった。大胡からの手紙によれば、あれは木の下に埋まっていると書かれていたはずである。
木の手前まで来て立ち止まり、かがんで真っ暗闇の中地面を手で掘り進めた。
急がないと、あの人に見つかってしまう。
焦りと恐怖で、俺の頭の中はすでに真っ白だった。もはや、地面を掘っている目的すら忘れてしまっていた。
「やはり来たか」
俺は大げさに肩をびくつかせて、声のした方向へ顔を向けた。
見つかったか。
「よう、川原。お前の探しているのは、これだろ?」
湯原先輩は、右手に持っている拳銃をかざして俺に見せた。
あれこそが、俺の探していたものだった。
「湯原先輩、読んだんですね?」
「気づいていたのか?」
俺は立ち上がって、頷いた。
「ええ。手紙に汚れがついていたので、おかしいと思っていたんです」
「汚れ?」
「普通、手紙は屋内で書きますよね。そして、その手紙をそのまま封筒に入れれば、汚れはつかないはずです。けど、あの手紙には汚れがついていた。それはつまり、何者かが封筒を開け、汚れのついた手で手紙を読んだということですよ」
「けど、書いている最中に汚れなんかいくらでもつくことだってあるだろう」
「家で書いていたら、土の汚れなんてつきませんよ」
湯原先輩は、唐突に笑い出した。
「それもそうだ。少しお前のこと、見くびっていたのかもな」
笑いが収まり、湯原先輩の表情は一変して険しくなった。
「本当に、お前は会いに行くのか?」
「もちろんです」
「会って、どうする?」
その質問に、俺は言葉が詰まった。そこまで考えていなかった。
「やつが書いた手紙にはこう書かれていた。國藤を殺した犯人は俺だ、って。もう一つの真相を、教えてやるとも書いてあった」
「はい。それについて話したいから、夜の十時に二原第一公園で待つと。その際に、中庭の真ん中に立っている木の周りの地面を掘って、埋められている拳銃を持って来いとも書かれていました」
「手紙を読んだ俺は、お前よりも早く拳銃を掘り出した。なあ、どうして拳銃が必要なんだ」
俺も、確かにそれについて引っかかっていた。
「お前さ、本当にあいつと会うのか?」
「覚悟は、出来ています」
一歩も譲らない態度で、俺は湯原先輩に言った。
「お前は大体知っているのか? この事件の真相を」
数秒間、返答に時間を要したが覚悟を決めて頷いた。
「ええ。九割は」
「つまり、その一割のまだ知らない真相を埋めるために、お前は会いに行くのか?」
「はい」
湯原先輩は何度か頷いて、星空を仰いだ。納得してくれたのか。とりあえず、今は急いで公園に行きたいのだが。
「湯原先輩、その拳銃をこっちに渡してください」
星空を見上げたまま、湯原先輩は言った。
「殺すのか?」
「え?」
殺す、という単語があまりにも軽かったことに、俺は少なからず恐怖心を抱いた。
「お前には殺せないよ」
「殺すとか、そいうのは当たり前のように使っちゃいけないと思います」
反抗的な態度をとると、湯原先輩はこちらに顔を向けて凄い形相で怒鳴った。
「俺に意見するな!」
静寂の中、湯原先輩の激昂した声が遠くまで響いた。看護師たちに気づかれたのではないかと、湯原先輩に怒鳴られたよりもそちらのほうに気がいってしまった。
「お前は、病室で寝ていろ」
普段の口調に戻り、湯原先輩は言った。
「俺が、捕まえにいく」
そう言うと、湯原先輩はこちらのほうへ歩いてきて通り過ぎようとした。
「ちょっと待ってください」
湯原先輩の肩を掴み、俺は懇願する口調で言った。
「俺に行かせてください。俺が捕まえないといけないんです」
「お前は駄目だ。もう刑事じゃないんだ」
「まだ刑事です。少なくとも、入院中は。言ったじゃないですか。検討する、って」
「それでも駄目だ。傷がまだ完治していないんだろう?」
湯原先輩はただ、大胡を捕まえて手柄がほしいだけなのだ。
けど俺は、手柄なんか度外視して、あいつの親友として行きたいのだ。あいつだって、俺が来ることを望んでいる。だから、俺にあの手紙を書いた。
「俺が、あいつを止めます」
「お前がやつを逮捕したところで、立場は変わらない。このまま反抗すれば、検討するという話は白紙にするぞ」
どうやら湯原先輩は、俺が刑事を続けたいがために大胡を逮捕しに行く、と思っているらしい。
それはとんでもない勘違いだ。そもそも、刑事を続けさせてください、と言ったのは大胡を捕まえるためだ。大胡を捕まえたら、刑事を潔く辞めるつもりだ。いくら俺が、そう説明したとしても湯原先輩の心には届かないかもしれない。
湯原先輩には、手柄しか見えていないのだから。
それでも、俺は湯原先輩に理解してもらうため全てを話す覚悟を決めた。
「俺があいつを、殺人犯に変えてしまったんです」
湯原先輩の目つきが、少しだけ変わった。少なくとも、先ほどまでの険しさは幾分和らいでいるように見えた。
「厳密には、俺だけのせいではないんですけど、けど俺にも責任の一端はあります」
俺は湯原先輩の肩から手を離し、目を向けた。湯原先輩も、真剣なまなざしで見つめ返してくる。
「どういう意味だ?」
持っていた拳銃をポケットにしまい、湯原先輩は呟くように言った。
「俺のせいで、やつに國藤を殺すきっかけを与えてしまったんです」
「作り話ならいらないよ」
そうは言ったが、湯原先輩自身も俺の言っていることが嘘ではないと、思っているはずだ。その証拠に、大胡の待つニ原第一公園へ行こうとしない。俺が今から話すことを、真剣に聞くつもりだ。
「今から話すことは、全て事実です。信じてください」
湯原先輩は、無言で俺を見つめているだけだった。それが、俺に話せと合図しているように思えた。
軽く深呼吸をし、俺はこの事件の真相を語りだした。
「先輩は、黒総大胡という男をご存知ですよね?」
「ああ。そいつと会ったからな。直接、俺に手紙を渡してきた」
その言葉に、俺は驚かなかった。湯原先輩は、さきほどから大胡のことをあいつ、と呼んでいた。つまり、完全に知らない人ではないということだった。
おそらく大胡は、湯原先輩に手紙を渡した際、軽い自己紹介でもしたのだろう。その時は大胡がこの事件の犯人だと、湯原先輩は疑ってなどいなかった。けど手紙を読み、確信した。俺宛に手紙を渡しに来た黒総大胡が、この事件の犯人だったと。
「まさか、あの黒総大胡って男が、教師殺しの犯人だったとはね」
「その通りです。俺と大胡は、中学時代の親友でした」
「それは、あいつも言っていたよ。健人の親友の黒総大胡と申します、って。随分丁寧な口調だった」
やはり自己紹介をしていたか。しかし俺は、やつの真意を計りかねた。大胡は、俺のことをどう思っているのだ。
「話を戻せよ」
「あ、はい」
頭を切り替えて、本題に戻った。
「俺は中学二年生の頃、担任の國藤からひどい苛めを受けていました。その理由については不明なのですが、その苛めのせいで俺は何度も死にたいと思うようになりました。
そしてとうとう我慢できなくて、自殺をしようと屋上のフェンスの外側に立ったとき、大胡が現れたんです。大胡は、俺に自殺を思いとどまらせようと、こう言ったんです。
俺と一緒にやつを殺そう、って」
「で、お前はどうした」
「自殺をやめました」
「つまり、お前にもいくらかの殺意があったわけだ」
「それは分かりません」
俺は否定した。
「分からないんです。國藤に対して殺意があったかどうか。おかしいですよね。大胡のあの言葉で自殺をやめたのに、殺意があったかどうか覚えていないなんて。けど、それほど強い殺意があったとは思えないんです。なかったとも言えないんですが、おそらくあの頃の俺は相当追い込まれていて、助けを求めたかったんだと思います」
「黒総にか?」
迷うことなく頷いた後、俺は続けた。
「あいつと俺は、大学ノートに國藤の殺害計画を思いつくままに綴りました。その中から一つ選び実行しようと、大胡は俺に言ってきました。けど、俺は断りました。当然、やつは怒りました。今更、何言っているんだって」
「やはり、國藤を殺すことは躊躇われたのか」
「それもありますが、最大の理由はやつの目です」
「目?」
小首を傾げるのも無理はなかった。俺は当時抱いた心境を鮮明に思い出して、語った。
「あいつの目は、俺のために國藤を殺すのではなく、自分の欲求を満たすために人を殺そうとする、殺人鬼の目でした。だから俺は断りました。あの時俺が頷いていたら、本当に実行していたでしょう。
それから月日が経ち、卒業式の日。大胡は俺に近寄ってきて、こう言いました。いつか、國藤の殺害計画を実行しよう、って。俺は、断ったらまた大胡が怒り出すだろうと、容易に想像できました」
「頷いたのか?」
湯原先輩の冷ややかな口調が、俺の罪悪感をいっそう募らせた。
「大胡が町を引っ越すということと、卒業式の日に喧嘩したくないという理由で、俺は頷いてしまいました。けど、この選択が間違っていたと、國藤が殺された時にようやく気づきました」
いくら後悔しても、しきれない。
俺が、大胡を殺人犯に変えてしまったのだ。
「なるほどね。やつは、その殺害計画を十六年ぶりに実行したということか。
なあ、一つ聞いてもいいか?」
後ろめたい気持ちで伏せていた目を上げ、湯原先輩を見た。
「どうして黒総は、十六年も経った今、実行しようとしたんだろうな」
湯原先輩の疑問は、的を射ていた。そしてその疑問の答えが、この事件の真相を導き出すのだ。
「同じ中学に勤務していたら、殺すチャンスは充分にあったろう。そこがどうしても、不可解だな」
「その通りです。あいつは、なかなか実行をしようとはしなかった。何故なら、時間が空いてしまった分、実行するきっかけを失ってしまったからです。
けど大胡に、國藤を殺す第二のきっかけを与えてしまった人がいました」
それが、この事件の始まりだった。
「大胡は容姿端麗で、頭脳明晰、運動もできてまさに理想を具現化したような人間でした。中学の頃、あいつは女子から凄い人気がありました」
「まあ、それはそうだろうな」
「教鞭をとっていた神南中学でも、女子生徒から絶大な人気を誇っていたようです」
羨ましがる素振りを、湯原先輩は見せた。
「神南中学の教員になって六年が経ち、ある一人の新入生が大胡に近づいていきました」
「一目ぼれ、ってやつか」
俺も教師になればよかったかなと、湯原先輩は独り言を呟いた。
「その女の子の名前は、國藤由香。殺された國藤の娘です」
湯原先輩の表情が、一瞬で強張った。
「湯原先輩のおっしゃったとおり、由香ちゃんは入学式で大胡のことを見て、一目ぼれをしたそうです」
「國藤由香が近づいていったのは、入学式があった日か」
「ええ。その日から、彼女は大胡に猛烈アタックを開始しました。大胡に思いを寄せる他の子達よりも、ずっとしつこく。
まあ大胡は、アタックしてくる子に慣れていますからね。六年間で相当鍛えられているでしょうから。当然、上手く断りますよね。相手は生徒ですし、何より同僚の娘ですから。それでも由香ちゃんは、諦めず何度も告白したそうです」
呆れた表情で、湯原先輩は耳を傾けていた。
「何度告白しても断り続けられ、それに比例するかのように由香ちゃんの大胡に対する愛は深まり、彼女はどんな手を使ってでも大胡を自分のものにしたいと、強く思うようになりました。それが、あの殺人事件を起こしてしまったのです」
「一体なんだよ、それ」
強気な口調とは裏腹に、湯原先輩の表情からは恐怖の色が窺えた。俺も、由香ちゃんの口から聞いたときは恐ろしくて、そして悲しかった。
けど、現実に起きてしまったのだ。
「由香ちゃんは、自分に振り向いてほしくて、こう言ったそうです。
お父さんから虐待を受けている、助けてほしい、って」
その嘘の告白が、大胡を殺人鬼へと変貌させてしまったのだ。
「大胡はその告白を真に受けて、由香ちゃんと約束したそうです。必ず助ける、と。もちろんそれは、一人の教え子としてだと思います」
「國藤由香の嘘の告白を真に受けた、っていうことは、黒総は騙されたっていうことになるのか?」
「いえ、あながちそうではないと思います」
「何?」
「信じたふりをしたんだと思います。これでようやく、あの殺害計画を実行できる、とでも思ったのでしょう」
「なるほどな。あいつは神南中学の教師になって、ずっと機会を窺っていたから。ラッキーぐらいに思っていたのか」
「由香ちゃんは、大胡を自宅に招待したいと、國藤に言いました。國藤は、不審に思いながらも承諾したそうです。
大胡を招待した日は、自宅のマンションには國藤と由香ちゃんしかいなかったそうです。その日をあえて狙ったと、由香ちゃんは言っていました」
「ちょっと待て。それってつまり……」
「ええ。由香ちゃんは、父親が殺されることに賛成したそうです」
湯原先輩の表情が、恐怖で歪んだ。
「学校が終わり、國藤は仕事を早めに切り上げて大胡と一緒に自宅のマンションへと帰りました。
部屋に上がって、そこで大胡は國藤と談笑しながら酒を飲み、國藤にアルコールが回ってきたところで、殺害計画の書かれたノート取り出し、実行したのです」
「これが、お前の言う事件の真相か」
「殺人事件に関しては、そうですね」
俺の返答に、湯原先輩は不満げな表情を浮かべた。
「どういう意味だ?」
「二つ、この殺人事件のせいで起こった事件があるんですよ。その真相です」
「なんだ、それは」
「一つは、西島係長が銃殺された事件です」
「偶然じゃなかったのか?」
「いえ、必然でした。その件に関しては、同期の芝原のおかげで何とか真相を導き出すことができましたけど、もう一つの事件は、まだなんです」
「誘拐事件のことか?」
俺は頷いた。
「あいつが手紙に書いていたもう一つの真相って、お前のせいで取引が中断してしまったあの誘拐事件のことか」
嫌な思い出を蒸し返されて、不快な気分になった。
「なあ、一ついいか。お前が導き出した、っていう西島係長の銃殺事件の真相を話してくれよ」
それについて、話すのは躊躇われた。湯原先輩は、その事件の真相を興味本位に知りたいと思っているだけであったからだ。西島係長が銃殺されたことは、もはやどうでもいい。ただ、その謎を純粋に知りたいという強い意志が、こちらにひしひしと伝わってきた。
仕方がないので、渋々だが俺は話し始めた。
「俺は、大胡に自首する意志がないと判断し、逮捕することを決めました。しかし、やつが殺したという証拠はどこにもない。現場からも指紋は検出されず、目撃証言も得られていませんでした。
そこで俺は考えました。どうすれば、やつを逮捕することが出来るのか」
「なるほどな。それで、俺に喫煙室で相談したというのか」
「はい。殺害計画の書かれたノートを見つけようと考えました」
「けど、ノートを見つけただけじゃ逮捕までに至らないだろう」
「しかし、重要な証拠です。筆跡鑑定にかければ、有力なものとなります」
とにかく、一つでもやつが殺したという証拠がほしかった。
「湯原先輩に断られ、どうしようかと悩んでいたら西島係長が力になってくれたんです。
西島係長は、知り合いの裁判官に偽造の捜査令状を発行してくれ、と頼んでくれました。多大なリスクを覚悟で」
「西島係長、すごいな」
苦笑を浮かべて、湯原先輩は言った。
「俺はこの作戦を正直上手くいくとは思っていませんでした。大胡を、騙せるとは思えなかったからです。
けど、不自然すぎるぐらい上手くいったのです。案の定、罠にはめたつもりがいつの間にか、はめられていたんですけどね」
自嘲気味に言って、俺は夜空に浮かぶ月を見上げた。
「大胡は、本当に凄いやつです。計画に抜かりがない」
俺は、湯原先輩のほうへ顔を向けてから、いよいよ真相を語りだした。
「大胡の実家は、金持ちなんです。父親が、大手企業の社長で、金には困らない生活を送っているはずなんですが、俺たちが案内された家は今にも潰れそうなボロアパートでした。そこが、二つ目に不自然だと思ったところです。
実は、やつは國藤を殺害する一週間前にあのアパートへ移ってきたらしいのです。前の住人は大学生で、その住人は中学生の時に銃刀法違反で書類送検されたという前科がありました。
ここで興味深いのは、前に大胡が住んでいたのは家賃二十万以上の高級マンションだったらしいのです。それで、大胡が二十万の高級マンションからあのボロアパートへ移る前、偶然アパートの大家が大胡のことを、そのアパートで目撃していたらしいのです。大学生の住人に、大胡が札束を渡していた現場を。
つまりこういうことです。大胡は、俺たちがいずれ捜査令状を発行することを予想していた。そこで、銃刀法違反という前科を持っている大学生の住人に金を渡し、こう頼みました。持っている銃で、アパートの部屋に入ってきた男を撃ってほしい、と」
「じゃあ、西島係長が一緒じゃなかったら、お前が撃たれていたということか」
「いえ、それはおそらく違います。俺が、上司を連れて部屋へ来ることを大胡は分かっていました」
「そんなのって……。黒総って、予知能力者か」
冗談ではなく、本気で言ったのが俺には少々滑稽に見えた。
「違いますよ。俺が上司を連れてくることは、容易に想像できると思います」
「どういうことだ」
「だって、俺の階級じゃ、裁判所に捜査令状を申請することが出来ません。俺一人の力では、家宅捜索をするのは無理だ、ということです。まあ、係長の階級でも捜査令状を申請することは不可能なんですけどね。係長に裁判官の知り合いがいたことは、ラッキーでした」
腕を組んで、納得したかのように湯原先輩は頷いた。
「それで黒総は、今どこに住んでいるんだ?」
「あいつは、住んでいたマンションを解約したわけではありませんでした」
「ということは、戻ったわけか」
「そうみたいですね。金を渡した住人は、もっといい所に移ったらしいですけど」
「なんていうか、言葉がねえな。何者だよ、黒総は」
俺も、大胡には感服せざるをえなかった。やつは、全て予測した上で行動している。そして、その計算は一ミリも狂っていないのだから、凄い。全て、やつの計算どおりに事が進行しているのだ。
由香ちゃんが、俺に事件の真相を話したということを除けばだが。
「なるほどな。分かったよ、大体のことは。こいつは、面白くなりそうだぜ」
湯原先輩は、挑戦的な眼差しを向けてきた。
「お前はここで待っていろ」
「嫌です」
頑固として、俺は引き下がらなかった。
「俺が、大胡と話してきます」
これだけは、湯原先輩が相手でも譲るわけにはいかなかった。湯原先輩と違って、俺は手柄を狙っているつもりなど毛頭ない。親友の俺が、決着をつけなくてはいけないのだ。
「たとえ黒総を逮捕しても、お前が刑事を首になるということに変わりはない。つまり、逮捕しても何のメリットもないのだ。それでもいいのか?」
「はい」
迷わずに即答すると、湯原先輩の目つきが徐々に緩和されていった。
「どうしてお前は、そこまで……」
脱力した声で、湯原先輩は言った。
「行かせてください」
俺の強い口調におされてか、ようやく湯原先輩は道を開けてくれた。
「ちくしょう。ふざけんなよ。昇進のチャンスを逃しちまったじゃねぇか」
愚痴をこぼすと、湯原先輩はポケットに入れていた拳銃を俺に渡してきた。
湯原先輩の態度には、もはや敵意など感じられなかった。俺は、認められたということか。あの湯原先輩の心を動かしたのだ。
目頭が熱くなってきたが、それを堪え俺は頭を下げてから大胡の待つ公園へと駆け出して行った。