第一章……夢から覚めて
目を覚ますと、頬に冷たい感触が走り反射的に顔を上げた。どうやら、自分のデスクに顔を突っ伏して眠っていたみたいだ。
寝ぼけた状態でまぶたを指でこすり周りを見渡すと、三係はやけに閑散としていた。おそらく、何か事件でも起こったのだろう。大変だなぁと、俺は他人事のように胸中で呟いた。
俺が警視庁捜査第一課三係に配属されて、一年の月日が経とうとしていた。
刑事になりたいと漠然に思い始めたのは、高校二年生のときぐらいだったと記憶している。地元で大きな事件が起こり、その事件を解決した刑事に憧れ、刑事になりたいという夢を持つようになったのだ。
必死になって勉強して、その努力の甲斐あり公務員試験を二種で合格。三年間の交番勤務を得て、いきなり本庁の捜査一課に大抜擢されたのだ。
しかしいざなってみると、俺の思い描く理想とはずいぶんかけ離れていた。
捜査一課は、警察の花形と呼ばれている。その通りだと、俺は確信を持っている。俺が所属している三係は、殺人事件を担当としている。殺人事件が起きれば現場に急行し、犯人を捕まえるのが、三係の仕事だ。
けど実際、俺に舞い込んでくる仕事といったら、書類整理などのデスクワークが主で、たまに取調べとか、売春や援助交際といった他の係りがやるような仕事ばかりを、理不尽な理由で押し付けられるのだ。
先輩たちは、皆おいしいところばかりを持っていく。俺は、いいように扱われている、っていうわけ。このままだと、いつ警察署に飛ばされても不思議じゃないな。
ま、心の中で愚痴っていても仕方ない。文句を言える立場でもないし。
椅子の背もたれに深く背中を預け、天井を見上げて俺はこれからのことを考えていた。
このままずっと、刑事として生きていくのか。
最近、そればかり思う。どうしても人手が足りなくて、たまに本来の仕事をさせてくれるけど、いつも失敗ばかりをしてしまう。
そのことも、仕事をさせてくれないことに影響しているのかな。
深くため息をついた直後に、ワイシャツの胸ポケットに入れている携帯が振動した。誰かから着信が入ったのだ。
「誰からだ」
おもむろに携帯を取り出し、開いた。ディスプレイに、『湯原先輩』と表示されていた。三係の先輩だ。
「もしもし」
気持ちを切り替えて、俺は電話に出た。
「おう川原。お前、暇か?」
何か事件の予感がする。
「はい、丁度暇でした」
俺ははっきりと、素直に答えた。いつでも素直に、これが俺のモットーだ。自分でも、素直すぎるのはどうかと思っている。口は災いのもとと言うし、適度に嘘はついたほうがいい、というアドバイスを貰ったこともあったが、いまだに嘘をついたことはない。
素直な心こそ、刑事には必要なのだ。
「そうか。なら急いで現場に来てくれ」
湯原先輩の声は、緊迫感を帯びていた。携帯越しからでも伝わってくる。なにか、殺人事件でも起こったのだろうか。
「何があったんです?」
急いでいるのは分かるが、それでも一応聞いておきたかった。俺は、急な場面に対応する能力が著しく乏しいのだ。前もって聞いておき、心の準備をする必要があった。
「殺人を犯した男が取り調べ中に警官を殴って、逃走したんだよ。工事現場に逃げ込みやがった」
「分かりました」
携帯を耳に当てながら、俺は現場に行く準備を始めていた。今日こそ汚名返上のときだ。
「その犯人に、発砲許可が出されている」
「え?」
その言葉を聞き、俺は一瞬静止した。
「どうした?」
「いや……べつに」
発砲許可とは、つまりその犯人を撃っても構わない、ということだよな。
この俺に、犯人を撃つ度胸があるのか。
いや、べつに撃たなくてもいいんじゃないのか。あくまで、許可なんだし。他の人に任せておけば。
「大丈夫だ。心配するな」
俺の胸中を察したのか、湯原先輩は優しく言ってくれた。
「とにかく、現場に来い。すぐ近くの工事現場だ。簡単に分かるから」
「はい!」
電話を切り、俺は椅子の背もたれにかけていた上着を羽織って、急いで現場に向かった。