第十六章……誘拐事件
休憩室のソファーに座り、俺は買ったジュースを早速一口飲んだ。からからだった喉が、あっという間に潤された。少し癒された気がした。
立て続けに色んなことが起こったせいで、頭の中は混乱していた。
こうして独りになり、冷静になって考えてみると、やはりどこかこの現実を頑なに受け入れない自分がいた。それが、無性に腹が立った。
「何しているんだよ、健人」
どうして会いたくないときに、やつはいつもやってくるんだ。
芝原は自販機でジュースを買うと、黙って俺の隣に腰掛けた。図々しいやつだ。
「やっぱり係長の死は、ショックか?」
こいつには、デリカシーのかけらもないのか。
「どうなんだよ?」
悲しみと怒りで、気が狂いそうになった。駄目だ。堪えるんだ。
俺は残りのジュースを一気に流し込んで、芝原のほうへ顔を向けた。
「お前に俺の気持ちは、分からないよ」
「ああ、分からないさ」
即座に頷いて、芝原はスーツのポケットから一枚の紙を取り出した。
「けど、事件を解決したい気持ちは一緒さ」
芝原の口調には、いつもの小ばかにしたようなものが込められていなかった。こんなの初めてだ。俺は少し、険しかった表情を和らげた。
「それは?」
芝原の取り出した紙が気になり、俺は訊いた。
「俺は一応捜査二課所属の刑事だけど、調べるのは自由だからさ」
そう言うと、芝原は紙を広げて俺に見せてきた。
「なんだよ、これ」
「実はな、あのアパートの大家から事情徴収をしてきたんだ。黒総大胡っていうやつは、一体何者なのか、ちょっと気になって。お前の勘は、結構鋭いからな」
照れくさそうに、芝原は言った。こっちも、なんだか照れくさい。こいつは、絶対に俺のためにこんなことをしてくれるようなやつじゃない。それなのに、俺を信じて大胡のことを調べてくれたなんて。
「そしたら、興味深い事実が判明した」
「なんだよ、それ」
俺は一通り、紙に書かれた大家の事情徴収の内容に目を通してみたが、その興味深い事実というのが何なのか、皆目見当がつかなかった。
「黒総があのアパートに移ってきたのは、あの事件が起こる一週間前らしい」
「一週間前? つい最近じゃないか」
よくみると、確かにそう書かれていた。
しかし、どういうことだ。何故わざわざ、あんなアパートへ越してきたのだ。普通、もっとましなところを選ばないものだろうか。
いや、もしかすると、前までは高い家賃のマンションに住んでいていたが、金が底をついてあのアパートへ引越しをせざるをえなかったとか。
他のやつらであれば、その可能性は大いにあるが、あの大胡だぞ。金だってちゃんと管理できるだろうし、万が一なくなれば実家から仕送りをしてもらえれば、当分問題ないはずだ。
なのに、何故あんな人生のどん底のようなアパートへ越すというのだ。どうしても、その点が解せなかった。
「それで、前の住人のことも調べてみた」
「前って、大胡があのアパートに移る前の住人、ってことか?」
「ああ。大学生だったみたいだ」
「大学生……」
ということは、あの部屋に大量にあった大学ノートは、すべて前の住人のものだったのか。
「面白いことが分かったぜ。前の住人には、中学生のときに前科があったんだよ。その罪状が、この事件の真相を解く鍵になっている」
言ってから、芝原はまたポケットから一枚の紙を取り出して見せてきた。その大学生のの、調書だった。
「こいつ……」
「どうだ。ようやく、真相がつかめてきたんじゃないか」
一歩、前進することが出来た。徐々に、俺は事件の真相に迫ってきている。
「あとは証拠だな」
俺は手のひらに拳をうちつけて、呟いた。
「ああ。係長の無念を、お前が晴らすんだ。係長のおかげで、お前は刑事を志したんだからな」
「え?」
「あれ、知らなかったのか?」
驚いた表情を浮かべ、芝原は言った。
「お前たしか、言っていたよな。刑事を志した理由は、地元の事件を解決した刑事に憧れたからだって」
「ああ」
「その事件はあれだったよな。えっと……」
「無差別殺人事件」
「そう、それ!」
もう十四年前になる。俺の地元で、無差別に地元の人間が殺害される事件が起こった。被害者は減るどころか、数を伸ばしていった。いつか、自分がその被害者になるのではないかと、怯えながら日々の生活を送っていたことを記憶している。
そんな時、ある刑事がその無差別殺人を、誰も予想しなかった方法で食い止めて見せた。その姿に憧れて、俺は漠然と刑事を志すようになった。
芝原の口ぶりからすると、おそらくその刑事は係長だったのだろう。ぜんぜん気づかなかった。何故なら、あの時の刑事は誰よりも男らしかったのだから。
どこで、係長は道を間違えたのだろうか。気になったが、今はそんなことはどうでもいい。後で、いくらでも調べられる。
「あのカマ係長、すごい人だったんだよ。なんで、三係の係長でくすぶっているのかが、俺には分からない」
あの人が凄いということは、前々から分かっていたつもりだったが、どのように凄いのかまでは把握していなかった。
係長がいたからこそ、俺は今ここにいる。感謝しても、しきれなかった。
「あの人は、覚えていたはずだぜ。お前のこと」
その言葉を聞き、俺は目頭が熱くなった。係長は、ただ俺を気に入っていただけじゃない。俺のことを気にして、優しくしてくれていたのかもしれない。
俺の、都合のいい解釈だけど。
「係長の分まで、頑張るんだ。必ず、この事件を解決しろ」
芝原に激励されて、俺は係長の死を乗り越えることが出来た。
この事件を解決すること、それが俺の精一杯の償いだ。
「ああ。ありがとうな」
俺が芝原にお礼を言うなんて。芝原も、意外だという表情をしてみせていた。
「俺も、黒総が犯人だと思っている。この推理が正しければな。あとは、証拠だ」
そこで、いつも行き詰ってしまう。犯人が特定できていても、証拠を集められなかったことで逃してしまうことは多々あることだ。
けど、今回はそういうわけにはいかなかった。全てを犠牲にしても、俺は大胡を捕まえなければならない。
「ま、そのうちぼろが出るさ」
気楽に構えている芝原であったが、大胡と会えばいやでも思い知らされることになるだろう。只者じゃない、と。
「感謝しろよ、何の事情も突っ込まずに捜査してやったんだからな」
俺の肩に手を置いて、恩着せがましく芝原は言った。その態度も、俺は許せた。今は一人でも仲間がほしい。こいつには、素直に感謝している。
けど、俺に協力したことがばれてこいつも銃殺されたら、どうしよう。
嫌な予感が、脳裏をよぎった。
俺が巻き込んだことによって、係長は銃殺された。だったら、こいつも係長と同じ目に遭うかもしれない。その可能性は、否めない。
「どうしたんだよ、浮かない顔して」
今の胸中を察せられてはいけないと思い、俺は慌てて立ち上がって言った。
「いや、なんでもねえよ。また今度な」
「え?」
「協力してもらいたい時に、言うからさ」
「どういうことだよ。今更、引き下がれないよ」
「本当に、お前には感謝している」
わけが分からないといった表情で、芝原は俺を見上げていた。
「いろいろと、ありがとうな。おかげで、謎が解けた」
「俺が協力してやる、って言っているんだぞ。素直に受け取れよ」
「お前は、本来の仕事に戻れよ。大胡を捕まえるのは、俺の仕事だ」
もうこれ以上、俺のせいで周りの人間が傷つくのをみたくない。
「卑怯だぜ、健人」
「悪いな。本当に感謝しているぜ、芝原」
俺が言った直後に、スーツのポケットに入れてある携帯が震えた。誰かから着信が入ったのだ。
「はい、もしもし」
「湯原だ」
湯原先輩の声は、緊迫感を帯びていた。それが、何か事件が起こったのだと予感させた。
「どうしました」
自然と声のトーンを下げ、俺は言った。
「ああ。実はな、身代金目的の誘拐事件が発生した」
「誘拐ですか? けど、うちの担当じゃないはずでは」
「人数が足りないから、応援要請が出ているんだ」
「またですか」
もう、うんざりだ。きちんとしたローテンションを組んでほしい。
「しょうがないだろう。今、出られるか?」
「はい」
俺は芝原を見た。露骨に、不満そうな表情を浮かべている。
「大丈夫です」
とりあえずよかった。ここを出られる口実ができた。
「よし、なら早速準備をしろ。今な、身代金の受け渡し場所にいるんだ」
「どこですか」
俺は、芝原に軽く手を振った後、足早に休憩室を出て三係に戻った。
「二原第一公園だ。分かるな」
「はい」
携帯を耳に押さえながら、俺は必要なものをそろえた。
「よし、急いで来いよ。あと三十分で、犯人が来る」
「分かりました」
「絶対に、犯人に気づかれるなよ。俺たちの存在がばれたら、誘拐された娘さんが殺されちまう」
「任せてください」
「いいか、絶対に失敗は許されない。もし、お前のへまで犯人に気づかれるようなことがあれば、クビは免れない。いいな」
湯原先輩は、念を押した。
「すぐ行きます」
俺は通話を切り、携帯をポケットにしまった。
二原公園へ向かう前に、俺は自分を落ち着かせようと深呼吸をした。
これは、チャンスなんだ。皆の信頼を取り戻すための。
失敗は許されない。
覚悟を決め、俺は三係を勢いよく飛び出した。




