婚約破棄二世の苦悩
「俺を騙したな! 舞踏会の件はお断りさせていただく!」
ーー騙したつもりはないのですが……。
公爵令嬢であるセレーネ・グリプス、十七歳は、心の中でそう呟いた。
授業が全て終わり生徒会室へと向かおうとしていたところ、途中で声をかけられこの状況である。
他の生徒の姿もちらほらと見えるので、セレーネは頭の中で穏便に済む方法を確認し、反論しないことを選んだ。
昔であったなら多少言い返していたかもしれない。だが、何十回と同じような経験をしてきたセレーネにとっては「またか」と思うだけだった。
事の発端は、来月開催される舞踏会にある。
セレーネが通う学園主催の舞踏会は、新学年を祝うと同時に別の大きな役割があった。
それが、婚約者探し、つまり婚活だ。
多くの女子生徒が学園を卒業すると同時に嫁いでいく。それはセレーネもまた同じ。
だが、今現在、最終学年となったセレーネに婚約者はいない。
しかも、婚約者候補になり得る相手とファーストダンスの約束をしていたのだが、たった今断られてしまった。
相手は伯爵家の次男で、セレーネのひとつ下の後輩にあたる。向こうから声をかけてきたので手応えはあったのだが、どうやら思い違いだったらしい。
ーーまた舞踏会のパートナーを探さなくては……。
「承知しました、では」
多少凹む気持ちを切り替え、反論も縋ることもせずそのまま立ち去る。
「ちょっ! 何だよその態度! 騙した上に愛想もないなんて最低だな! どうせ誰にも相手にされないんだろ!」
セレーネの手応えのない態度が癪に触ったのか、男は後ろから喧しく言葉を吐き始めた。
何事かと、他の生徒たちが遠巻きにヒソヒソと言葉を交わしている様子がチラッと視界に入り、セレーネは面倒な事になったとうんざりする。
ここで反論などしようものなら、さらに事態が悪化するのは過去の経験で知っていた。
「せいぜい足掻くんだな、婚約破棄二世め!」
ーーまた、その言葉……。
慣れたはずなのに心の奥が軋むように痛い。
投げかけられる罵詈雑言を背中で聞き流しながら、セレーネはため息を吐くのだった。
◇
『婚約破棄二世』という言葉が広まり出したのは、ここ数年の話。
セレーネ達の親世代で、婚約破棄がブームとなった。
それまでは家同士の政略結婚が主流だった。だが、恋愛結婚という思想の波が広がり、今では一般的になりつつある。
もちろん、貴族社会である事は変わらないため、完全に自由な選択ができるわけではないが、それでも婚約破棄ブームが社会に与えた影響は大きかった。
それは良い部分だけではなく、悪い部分も生み出した。
その弊害のうちのひとつが、婚約破棄が多発した時代に生まれた子供、セレーネ達の世代に及ぼした影響だ。
婚約破棄をした側には、自分勝手で裏切り者というレッテルが貼られ、婚約破棄をされた側は何かしらの問題があったのではと社交界で噂の的となる。
セレーネの家も例外ではなく、公爵令嬢と言えどかなりの曰く付きの家柄である。
当時公爵家長男であった父と男爵家の母は、元々お互いに婚約者がいたにも関わらず恋に落ち、結果、子供ができて元々の婚約が破綻した。
その時の子供というのがセレーネなのだ。
貴族社会では、親が親なら子も子、という考えが根強い。
おかげで、セレーネを婚約者にと望む人はなかなか見つからず、最終学年の舞踏会がどんどん迫ってきていた。
◇
「今回もまた、大変だったそうじゃないか」
放課後の生徒会室にて。
生徒会で副会長を担当しているセレーネが手元にある書類と睨めっこをしていると、そんな言葉が投げかけられた。
視線を上げれば、端正な顔に甘い笑みを浮かべる人物が立っている。
フィリップ・アレベール。
セレーネの同級生であり、学園の生徒会長であり、そして、この国の第一王子である。
ブロンドヘアに海のような青い瞳を持つ容姿端麗なこの男は、誰にでも優しく笑顔が素敵と、女子生徒からはもちろん、男子生徒からも慕われ、教師たちからも一目置かれている存在。
だが、その本性はかなりの腹黒だと、セレーネは知っている。
こうやってセレーネが振られるたびに、どこから話を聞いたのか毎回いじってくるのがその証拠である。
「君が傷ついていないか心配だよ」
「お心遣い感謝致します。ですが、いつもの事ですので」
凹んでいる事を悟られないよう、セレーネはそう言葉にする。
誰かに不満を漏らしたところで現状は変わらない。
であれば、もう忘れて切り替えてしまった方が楽になれる。
だからセレーネは、この話題についてはもう触れないでいただきたいという意図を込め、フィリップ殿下に言葉を伝えたのだが……。
「君はどうして婚約者ができないのだろうね」
殿下は話の流れを変えるどころか、セレーネの心の傷に塩を振りかけてきた。
「女性にそのような事をストレートに言うものではないです、フィリップ殿下」
セレーネは地雷を踏まれ、思わず棘のある声音でそう答える。
フィリップ殿下はそんなセレーネの態度に引くどころか「そうやってちょっと怒った所も、私は可愛いと思うのだけどね」と、心にもない事を言って反応を面白がっている。
セレーネが眉根に皺を寄せ不快感をあらわにした表情で黙り込むと、フィリップ殿下はより一層ニコニコと笑った。
ーー解せない……。
「フィリップ殿下。今は私をからかっている暇などありません。そうでしょう?」
セレーネは感情が消え去った笑みを貼り付け、目の前にある資料の山を指差した。
学園主催の舞踏会は生徒会が中心となって取り仕切られる。当日のスケジュール管理、賓客のリストアップに食事のメニューや仕入れ先、音楽を奏でる演奏家達の手配。そして、それらにかかる費用の計算などなど。
学生の催しとは言え、規模は大人の貴族社会で行われる舞踏会と変わりはない。
セレーネが生徒会に立候補した理由には、学生のうちにこういった仕事の経験を得られる点もあった。公爵家の後継として、身につけておくべきスキルでもある。
だからこそ、セレーネにとって今回の舞踏会を成功させることは、生徒会の副会長としての責務を全うし自信をつける大きな意味合いもあった。
たとえ自分の婚活がうまくいかない状況だったとしても、課せられた仕事はしっかりやり遂げ、舞踏会を成功させたい。
その為には、意味のない会話に時間を割いている場合ではないのだ。
会長であるフィリップ殿下にも、真面目に頑張っていただきたい。
資料を探しに出てしまった書記と会計の二人が早く戻ってきてくれないかと、セレーネは心の底から願う。
「私のことを心配してくださるのなら、どうでもいい話はせずに今回の舞踏会が問題なく執り行えるように協力してください」
「私にとってはどうでもいい話題ではないのだが」
「この大量の書類に目を通す事が、今は最優先ではないでしょうか」
「舞踏会の成功はもちろん前提として、私は君の幸せを願いたいのだよ。だから」
「殿下」
セレーネは無礼だとは思いつつも、フィリップ殿下の言葉を遮る。
「私ももちろん幸せになりたいと思っております。ですが、一番優先すべきは公爵家の跡取りとして与えられた使命を全うすることですわ」
セレーネの心には、公爵家に恥じぬ人間になりたいという強い志がある。
もちろん、素晴らしい人と出会い幸せも手に入れられたらと、理想を思い浮かべていた時もあった。だが、そんな望みは諦めなくてはいけないと、ここ数年で思い知った。
高望みをしてはいけない。
一番大切な事を見失ってはいけない。
だから、セレーネは公爵家の跡取りとして立派な人になる事を選んだのだ。
なのに……
「自分の幸せを諦め、公爵令嬢として家のために身を捧げると?」
フィリップ殿下は、先ほどまでの不気味な笑顔を消し、真剣な眼差しを向けて問いかけてくる。
「ええ、そうです」
セレーネがそう伝えれば、なぜかフィリップ殿下は痛みを堪えるような苦い笑みを浮かべた。
二人の間に沈黙が降りる。
重々しい空気をどうにかしなくてはと思い「それに、私は婚約破棄二世ですから」と、自嘲の笑みを浮かべた。
なんとなくフィリップ殿下の顔を見ることができず、手元の資料に視線を戻す。
「この話はもう終わりにしましょう。それより、当日のスケジュールを確認したのですが」
セレーネが無理やり仕事の話に切り替えようとした瞬間、
「関係ない」
ハッキリとした声音が、生徒会室に響き渡った。
驚いて顔を上げれば、フィリップ殿下が眉間に皺を寄せ、苛立ちを露わにしていた。
ーーいつも何を言われようと笑顔で返すあのフィリップ殿下が、怒っている?
呆気に取られてしまったセレーネに、フィリップ殿下が机に両手をつき、先ほどよりも近い距離で口を開く。
「婚約破棄はご両親の問題であって、君は君だ」
胸をギュッと掴まれる。
誰かにずっと言って欲しかった言葉。
でも、今はその言葉だけは聞きたくなかった。
自分の決めた意思が、崩れてしまうような不安感。それ以上に、込み上げてくる嬉しさと悔しさ。
気丈に振る舞っていたセレーネの心が、揺るがされる。
瞳に熱が集まり、今にも泣いてしまいそうだった。
ーーダメ、このままだと……。
フィリップ殿下の前で泣くわけにはいかない。そんな弱いところを見せたら、また何を言われるか。
セレーネは思わず立ち上がった。
「セレーネ?」と問いかけられても、フィリップ殿下の顔をまともに見る事は出来なかった。
「すみません、気分が悪くなってしまいました。本日は失礼します」
鞄を手に持ち、そのまま扉に向かう。
後ろからもう一度名前を呼ぶ声が聞こえたが、セレーネはそれに応える事なく生徒会室を後にするのだった。
◇
空模様が綺麗なオレンジ色に染まった頃。
セレーネは疲労感に苛まれながら馬車に揺られ、グリプス公爵家の邸宅へと辿り着いた。
使用人に荷物を預けた後、いつも通りこの家の主に帰宅の挨拶へと向かう。
目的の人は、コーヒーの香りが漂う書斎で仕事をしていた。
「ただいま戻りました、叔父上」
「おかえり、セレーネ」
公爵家当主であるセレーネの叔父、オーランド・グリプスは、セレーネと同じ翡翠の瞳に優しげな笑みを浮かべていた。シルバーブロンドの短髪はしっかりとセットされ、その顔つきは年嵩を多少感じさせるものの、キリッと男らしく公爵家当主としての威厳を放っている。
「舞踏会の準備は進んだかい?」
「だいぶ進んできましたが、まだまだ仕事が残っているので、明日以降も帰りは遅くなってしまいそうです」
「そうか。頑張る事はいい事だ。だが、体調には気をつけるんだぞ?」
「はい、そういたしますわ」
実の娘ではないセレーネを、叔父は本当の娘のように思ってくれている。
それはセレーネもまた同じで、叔父を実の父以上に尊敬し、返しきれないほどの恩を感じていた。
元々、セレーネは母方の生家である男爵家で育った。
婚約破棄騒動により、父はその責任を負って公爵家の家督を弟である叔父に譲り、母の男爵家へ婿入りしたためだ。
つまり、セレーネの父は事実上、公爵から男爵へと降格。
そして、生まれたセレーネも当然、男爵家で生まれ育つことになった。
しかし、家督を譲り受けた叔父と、その妻である叔母様は子供に恵まれなかった。そして、後継問題を解消する為選ばれたのがセレーネだった。
男爵家に降格された父を持つ婚約破棄二世を選ばずとも、叔母様の親戚を辿れば適任者は他にもいたはず。なのに、叔父たちはセレーネを選んだ。
当時十二歳だったセレーネに叔父はこう言った。
『セレーネはセレーネだ。兄のしでかした罪を君が背負わなくて良い。家族で一緒に暮らしたいのであれば、男爵家に残っても良い。もちろん、公爵家に来てくれたら、行きたい学校、やりたいことがあれば全力でサポートする。セレーネにはそれらを選択する自由があるんだ』
勝手に決めることなく、叔父はセレーネの意見を尊重してくれた。
そしてセレーネは自分の選択で公爵家にやってきた。
叔父夫婦は約束通り、セレーネを本当の娘のように可愛がり、学費や生活面でサポートしてくれている。
だからセレーネは、二人に恩返しするためにも公爵家後継としてふさわしい人になりたいと思っていた。
学業も手を抜かず、生徒会の仕事も精一杯行っている。
それでも、婚活問題はどうにもならない。
「セレーネ」
「なんでしょう?」
「舞踏会の準備もだが、その、あまり気負わなくていい」
叔父の言っている意図にセレーネは気付き、何も言い返さずぎこちない笑みを浮かべる。
「セレーネがこの家のことを大切にしてくれる気持ちはもちろん嬉しい。だが、私たちはセレーネに幸せになってもらいたい。だから、公爵家の後継に」
「叔父上」
その後に続く言葉を聞く訳にはいかず、思わず言葉を挟む。
なぜか一瞬、フィリップ殿下の姿が思い浮かんだ。ギュッと両手を握りしめ、記憶に蓋をする。
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけで、私は充分幸せ者ですわ」
今見せられる最大限の笑みを向け「叔父上もちゃんと休養とってくださいね!」と一言伝え、その場を後にするのだった。
◇
夜が明けて間もない、白っぽい薄明の世界。
誰よりも早く学園へ到着したセレーネは、連日早朝に馬車を出してくれている御者に感謝の言葉を伝え、生徒会室へと向かった。
まだ残る眠気があくびを誘う。抗うように一つ深呼吸をして清々しい朝の空気で肺を満たす。窓の外を眺めれば、太陽の光が顔を出し始めていた。
「セレーネ先輩?!」
セレーネが資料と真剣に向き合ってそれなりに時が経った頃、生徒会室に人の姿が現れた。
「ごきげんよう、イーリス」
「ごきげんよう……じゃなくて! いつからここにいるのですか?!」
生徒会で会計を任されているイーリス・マーベルは、一学年下に在籍する伯爵令嬢だ。そばかすがトレードマークの可愛らしい顔をしている彼女だが、今はその頬をぷくっと膨らませ、丸いメガネ越しにセレーネをジトっと見つめている。
「私も先ほど着いたばかりよ」
「先輩の言う先ほどはニ時間前とかも含まれるじゃないですか!」
セレーネは後輩の鋭い指摘に、言葉も出ず笑みを浮かべることしかできない。
「ちゃんと休んでください!」
「ありがとう、イーリス。でも本当に大丈夫だから」
「全然大丈夫じゃないです! この際だからはっきりと申し上げます!」
そう断言すると、イーリスはセレーネの目の前まで歩みを進め、大きく息を吸った。
「先輩がこの舞踏会にどれだけ力を入れているかは、みんな分かっています。仕入れ先の農家に直接交渉しに行かれたり、実際に料理を試食して料理長と意見交換をしたり、頑張っている先輩を見て私も頑張らなくちゃって思っています。ですが、同時に心配で仕方がないのです! 先輩に何かあったら、私たちは悔やんでも悔やみきれないですし、フィリップ殿下も……ああ、想像するだけで怖すぎるぅ」
頭を抱え、今にも泣きそうな表情をしているイーリスを見て、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
後輩をここまで心配させてしまっていたなんて。
ーーちょっと気負いすぎていたのかもしれないわ。
セレーネは立ち上がると、頭を抱えていたイーリスの両手をそっと取って、自分の両手で包み込んだ。
「ごめんなさい、イーリス。あなたに心配をかけてしまって」
「私だけではありません。生徒会のみんながセレーネ先輩の努力や人柄を知っています。そして同じように心配しているのです」
うるうると煌めく瞳が真っ直ぐにセレーネへと向けられる。
フィリップ殿下や叔父、そしてイーリスや生徒会のみんな。
自分のことを慮ってくれる人がこんなにもいるのだと知り、セレーネの胸はひだまりの様な温かさに包まれる。
ちゃんと見てくれている人がいる。
それだけでセレーネは救われるような気分だった。
「ありがとう。イーリスのおかげで目が覚めたわ。確かに最近の私はちょっとやり過ぎたのかもしれない。一緒に無理のない形で進められるようにスケジュールを見直してもらえると嬉しいわ」
「もちろんです!」
二人で視線を合わせ微笑み合っていると、「私も混ぜてくれないかい?」と声が聞こえた。
扉の方に視線を向ければ、今し方到着したであろうフィリップ殿下の姿があった。
「二人で楽しそうじゃないか」
「でででででで、殿下! これは、その、えっと」
「さあ、イーリス。殿下のおふざけに構っている時間はないわ」
あわあわと焦り始めたイーリスにセレーネがそう言って微笑みかける。
「殿下も来たからには真面目にお仕事をしてくださいね」
フィリップ殿下は少し残念そうに肩をすくめたものの、すぐにいつもの笑顔を見せる。
「分かったよ。今日も舞踏会成功のために頑張ろう」
「私も頑張ります!」
「ええ、みんなで」
穏やかな朝日と仲間たちの声が、生徒会室に満ちていた。
◇
舞踏会も明日へと迫った昼時。
準備は大詰めを迎え、最終チェックでお昼の時間も取らずセレーネは動いていた。
校舎から中庭を通り、舞踏会の行われるホールへと向かう途中、話し声が聞こえてくる。
「あなたは明日の舞踏会、どのようなドレスを準備しているの?」
「淡いブルーのドレスよ。彼が用意してくれたの」
「まぁ! 素敵ね!」
女子生徒達がランチタイムで優雅にご飯を食べながら、明日の舞踏会について話の花を咲かせていた。
だが、セレーネが近くを通り過ぎようとした瞬間、彼女たちの声がピタッと止まる。
ヒソヒソと何やら話しているのが横目でも分かった。
せっかくの楽しい時間を邪魔してしまった事に罪悪感を覚えると同時に、不覚にも羨ましいと思っている自分もいた。
結局、セレーネはダンスのお相手を見つけることができずにいる。
楽しげに明日の舞踏会について語ったり、婚約者からドレスを贈られたり。
どうしようもなく憧れてしまう自分が、情けなく思えてしまう。
セレーネは彼女たちの存在を意識しないよう足早にホールへと向かう。
気を引き締めるためにも、より一層やるべきことに集中しよう。仕事に集中し体を動かせば、気は紛れる。
「セレーネ先輩は大人ですね」
ホールの入り口手前で、一人の男子生徒がセレーネに声をかけてきた。
「あの人たち、あなたを笑っていましたよ」
そう言った彼は、射抜くような視線を真っ直ぐセレーネに向けてきた。少しクセのある髪は茶色で、幼い顔つきは人懐っこい笑みを浮かべている。だが、その瞳だけは冷たく静かな怒りを帯びていた。
「あなたは?」
「失礼、申し遅れました。僕は、シリル・ルモンドと申します」
「もしかしてルモンド子爵の」
「はい」
セレーネが覚えている限りでは、ルモンド子爵には三人の息子がいたはず。確か、一番下の息子はセレーネの一つ下だった。おそらくその人で間違いないだろう。
「失礼だと思いませんか」
ルモンド子爵についての情報を思い浮かべていると、シリルはセレーネにそう言ってきた。
「セレーネ先輩は副会長として、誰よりもみんなのことを思ってくれているのに」
こんなことを言ってくれる人がいるのだと、セレーネは驚きと同時に嬉しさが込み上げてきた。
「ひとりでもそう言ってくれる人がいるなら、私は嬉しいわ。ありがとう」
少し熱った頬を緩め、笑顔でそう伝える。
「あなたのおかげでもう一踏ん張りできそうです。では」
そう言ってホール内へ入ろうとした時だった。
「僕なら、あなたを悲しませたりしません!」
「え?」
「セレーネ先輩、僕と明日舞踏会に行ってもらえませんか?」
突然の提案に戸惑うセレーネに彼はこう続けた。
「私も婚約破棄二世なんです」と。
◇
舞踏会当日、セレーネは自分の瞳と同じグリーンを基調としたドレスを身に纏っていた。シルバーブロンドの髪を結い上げ、スッキリとした首元には翡翠が埋め込まれたネックレスが煌めいている。
馬車から外の景色を見つめながらも、セレーネの頭は別のことを考えていた。
『私も婚約破棄二世なんです』
昨日舞踏会に誘ってきたシリルは、そう言葉にした。
子爵家の三男で婚約破棄二世の彼は、セレーネと同じく婚活に悩んでいたという。
『セレーネ先輩の事をお慕いしています。だから、僕の身の上のお話は、安心材料として受け取っていただければ』
シリルは、何も知らずに声をかけてきた訳でもなく、むしろ婚約破棄二世だと分かっていて声をかけてきた。
同じ境遇であることにも共感が持てた。
『婚約破棄二世だからと避けられる苦しさ、私も知っているのです』
『何度も朝早く生徒会室へ向かう姿をお見かけました。頑張るあなたの姿を見て、私も勇気を出さなくてはと思いました』
『少なくとも僕は婚約破棄二世だからと笑ったりしません』
話しているうちに警戒心は少しずつ和らぎ、セレーネはシリルを信じてみようと思った。
馬車が止まり、扉が開く。
セレーネが降りようとドレスの裾を持ち上げ踏み出そうとした瞬間、目の前に手が差し伸べられた。
「本日はお任せください、セレーネ先輩」
それだけで、今夜の舞踏会が心から楽しめるような気がした。
「ええ、よろしくお願いしますね」
にっこりと微笑みシリルに手を預け、セレーネは馬車を降りた。真っ直ぐ背筋を伸ばし、堂々と歩く。
ーー何も恥じることはない。
ーー今日の舞踏会はきっと上手くいく。
ホールの出口前でふと顔を上げれば、バルコニーから見知った人物がこちらに視線を向けていた。
ーーフィリップ殿下……。
「どうかされましたか?」
一瞬歩みのペースが遅くなり、シリルがそう尋ねてきた。
「いえ、なんでもないわ」
急いで笑顔を取り繕う。セレーネは上からの視線を振り払うように、前を向いた。
けれど胸のどこかにささくれのような痛みが残ったまま、セレーネはホールへと足を踏み入れるのだった。
◇
演奏が始まり、ワルツ調のゆったりとした曲がホールを支配する。
周りにいた生徒たちは、パートナーたちと手を取り合い、踊り始めた。
「私たちも行きましょうか」
セレーネもダンスを踊るべく、シリルに声をかけた。
が、返答がない。隣にいるシリルを確認すると、ホールの中央で踊り始めたものたちに真っ直ぐと視線を向けていた。
ーー緊張しているのだろうか?
通例であれば男性から誘うべきだが、ここは学生主催の舞踏会。女性から誘うこともマナー違反ではない。
「一緒に踊りましょ?」
セレーネは気を使い、自分からそう言って右手を差し伸ばした。
が、次の瞬間。
「触るな!」
パシッ! と大きな音が響き、後からじわじわと手が痛み出した。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
だが、自分の痛む右手と、冷たい視線でこちらを睨みつけているシリルの姿で、だんだんと思考が冷静さを取り戻し始める。
二人の雰囲気に異変を感じ取った人たちが視線を向け始めた。
逃げ出したかった。
それでも、聞かなければならない。
「シリル……どういうことかしら?」
「簡単なことですよ」
そう言って笑ったシリルの顔は、今までセレーネを嘲笑ってきた人たちと同じ陰を纏っていた。
「お集まりのみなさん、私、シリル・ルモンドはセレーネ・グリプスに脅され、今日のダンスの相手を強要されました!」
その発言は、シリルの裏切りを決定づけた。
ざわざわと周りからどよめきが起き、ダンスの演奏も知らぬ間に止まっていた。
いつもであれば無視する事ができるが、ここは舞踏会真っ最中のホール。演奏止めるほどの事態を起こしてしまった説明責任は、果たさなければならない。
「私はあなたに強要していません。あなたから持ちかけてきた提案です」
「そんな話、誰が信じる? 証拠は?」
「ありませんね。ですが、同じように私が強要したという証拠もありません」
シリルが苦虫を噛み締めたような顔で言い淀んだ瞬間、群衆から「俺、見ました!」と、声がした。
驚いてそちらの方に視線を向ければ、前に言いがかりをつけ約束を反故にしてきたどこぞの伯爵次男だった。
「シリル君が嫌がっているのにセレーネ嬢の方からダンスに誘おうとしていたところ、見ました」
当然の如くシリルを擁護する発言。
群衆がどよめき、勝手な憶測で話を伝染させていく中で、セレーネの頭の中は冷静にとある結論へと導かれていた。
ーーそう、最初から私を陥れるつもりだったのね。
「これで誰が嘘をついたかはっきりしましたね。公爵家という立場を利用し私を脅した彼女は、この場に、いや、この学園に相応しくない!」
独壇場を決め込むシリルが声を上げれば、周りの人達は一斉にセレーネへ冷ややかな視線を向け始める。
「公爵家としての品性を疑う」
「彼女って確か婚約破棄二世よね」
「やはり、親が親なら子も子ね」
「彼女のせいで舞踏会が台無しじゃない」
シリルの裏切りや伯爵次男からの嫌がらせよりも、次々に飛び交うその他大勢の言葉の方がよっぽどセレーネにはこたえた。自分の生き方や努力が全て否定されるような言葉が、雨のように降り注ぐ。
自分の婚活以上に力を入れた舞踏会は台無し。
どんなに足掻いても世間からの評価は結局、婚約破棄二世という言葉が消してしまう。
ーーだったら、私に存在意義はあるのだろうか?
ーーあぁ、いっそこのまま消えてしまいたい……。
全てを諦めそんな気持ちが生まれる。
ーーだけど……。
一緒に頑張ってくれた殿下や、イーリスを始めとした生徒会の後輩、そして、舞踏会に協力してくれた方々の努力まで壊されることに、なによりも強い怒りを覚えた。
ここで負けてはダメだと、ドレスの下で震える足に力を込める。今にも溢れそうだった涙をグッと堪え、セレーネは俯きがちだった顔を上げた。
「私はただパートナーをダンスに誘っただけです。私がいつあなたを脅したと?」
シリルが「嘘をつくな!」と声を荒げた瞬間だった。
「なんの騒ぎかな?」と、柔らかい声音がホールにハッキリと響いた。
「殿下……」
バルコニーからホールへと続く階段を降りてくるフィリップ殿下に、脅されたのだとシリルが被害者面で訴え始める。
「では、いつ、どのような場所で、どのような言葉を使って脅されたのか教えてくれるかい?」
シリルは一瞬唇を歪ませたものの、「もちろんです、殿下」と胸を張って語り始める。
「昨日、こちらの会場入口近くでセレーネ嬢に声をかけられました。そして、私を脅してきたのです。舞踏会で一緒にダンスを踊らねば、私の家など簡単に潰せると」
周りの群衆が一気にざわめき立つ。
シリルはでっち上げた話で優位に立てたと、満足げな表情をして見せた。
「昨日、この会場入口近くでセレーネに声をかけられ、脅された。間違いないのだね?」
「はい、フィリップ殿下」
「ではセレーネ嬢、君の意見を聞かせてくれないか?」
フィリップ殿下はどちらに肩入れするわけでもなく、冷静に事実確認を求めくる。
変に生徒会のよしみで擁護されれば、シリル優勢の状況下ではむしろ群衆の反感を買いかねない。中立の立場でいてくれることが、今はとてもありがたかった。
ーー自分の言葉で示さなくては。
「はい。では、私からひとつ質問をさせてください」
セレーネはシリルに向き直り、まっすぐと力強い視線をぶつけた。
「あなたはなぜ、昨日この会場入口近くにいたのでしょうか?」
セレーネの質問に、シリルは怯むように視線を彷徨わせる。
「それは、えっと、ですね……たまたまです! そう、たまたま!」
初めて焦りを浮かべたシリルは、セレーネの問いかけに曖昧な答えを返してくる。
「おかしいですね。私は昨日、会場の最終チェックをしにここへ来ました。そして、出口付近であなたから声をかけられましたわ。舞踏会に一緒に行ってくれませんか、と誘っていただきました。ですが、今思えば不思議ですね。何故、生徒会でも業者の方でもないあなたがここにいたのでしょうか?」
「だから、たまたま通りかかったと言っているだろう!」
「あの!」
群衆の中から可愛らしい高い声がハッキリと聞こえ、人の間を掻き分け一人の少女、イーリスが姿を現した。
彼女はドレスの裾を皺ができるほどぎゅっと握りしめ、強い視線を真っ直ぐこちらへ向けている。
「私、昨日その方の姿を見ました! ずっと入口近くを行ったり来たりしていたので、不自然だなと思い気にしていたのです。まるで、誰かを探しているかのような……」
「言いがかりはよしてくれ! 誰かと勘違いされては困る!」
「勘違いではありません! この目でハッキリ見ました!」
激しく抗議し始めるシリルに、イーリスが涙目になりながら立ち向かってくれている。
そして……。
「フィリップ殿下、実は私も目撃しておりました」
「俺もです!」
「ずっとうろちょろされて不審だったから気になっていたんだよ」
口々にシリルの不審な目撃情報が寄せられ始め、場の空気が変化し始める。
「シリルくん。君の主張した、たまたま通りかかったら声をかけられ脅されたという主張は、いささか疑問が残るようだが?」
フィリップ殿下にそう言われ、シリルの顔には先ほどまでの余裕はなく、引き攣った表情は青ざめていた。
そんな彼の姿を見て、この馬鹿馬鹿しい騒動に終止符をうたねばとセレーネは口を開いた。
「あなたの主張は真っ赤な嘘です」
声を上げてくれたイーリスやその他の方々に視線を向け、セレーネは胸を張りお腹の下に力を込める。
「なにより、この舞踏会を壊すような事を私は絶対に望みませんので」
セレーネには公爵令嬢としての矜持がある。
いくら婚活で焦っていたとしても、人を脅してまで相手を作ろうとは思わない。まして、仲間と作り上げた大切な舞踏会に、そのような後ろめたい気持ちで参加などできるはずがない。
ふっ、と漏れたような声が横から聞こえ、そちらに視線を向ければ、フィリップ殿下と視線がぶつかる。
いつもはセレーネの感情を掻き乱す殿下の笑みが、今日ばかりはとても穏やかに安堵感をもたらした。
そして、フィリップ殿下は群衆の方に視線を向け、声を発する。
「私は、生徒会長としてこの一年間、誰よりも近くでセレーネ嬢を見てきた。彼女は自分の事より舞踏会を優先していた。休むよう何度言っても早朝から準備を続け、仕入れ先との交渉や演奏家との調整、会場設営も全て彼女が率先して動いていた。生徒会のものなら皆知っている事実だ。そんな彼女が、自らこの舞踏会を壊す理由がどこにある?」
すると空気が一気に変わる。
「確かに……」
「そういえばセレーネ先輩、毎日一番早く来てた」
「俺も見た」
「私も」
フィリップは静かに周囲を見渡す。
そして今にも地団駄を踏みそうなほど悔しげに顔を歪めた、いつぞやの伯爵次男へ視線を向ける。
「君は先ほど、セレーネ嬢がシリル君をダンスに誘おうとした所を”見た”と言ったね」
「は、はい」
「では聞こう。嫌がるシリル君や無理やり誘うセレーネ嬢の言葉をハッキリ聞いたかい? それとも、ダンスへ誘う場面だけを見たのかい?」
問われた本人は「そっそれは……」とだけ口に出し、それ以上は答えなかった。
「つまり、君の証言は脅迫の証拠にはならない。にもかかわらず、一人の令嬢を断罪しようとした」
「ちっ、違うのです殿下! そんなつもりは!」
「では、君の証言は勘違いという事でいいかな?」
「はい! そう見えただけです。軽率でした……」
「他に、この件について証言したい者はいるか」
会場が静まり返る。
フィリップ殿下が「まだ嘘を続けるか?」と問えば、シリルは憎悪を孕んだ鋭い視線をセレーネに向けた。
何が彼をここまで突き動かしているのだろうか。
セレーネは口を閉ざし睨みつけてくるシリルの前まで歩み寄り、口を開く。
「私がそんなにお嫌いなら、どうぞ好き勝手言っていただいて結構です。が、他の方々を巻き込みこのような騒動を引き起こした責任はどのようにお考えで?」
「チッ……同じ婚約破棄二世のくせに!」
シリルは偽る事を諦めた様子で、悪態をつく。
「お前は何なんだよ! 公爵家に引き取られて! 生徒会でも慕われて! 殿下まで味方につけて! 俺は……」
そう捲し立てたシリルは、悲痛な表情で叫ぶ。
「俺は! 誰にも見向きもされなかったのに!」
膝から崩れ落ちたシリルの姿は、全てを諦めたような悲壮感を漂わせていた。
ーーこの人も苦しんでいたのね。
確かにセレーネは恵まれている。特に、支えてくれる人たちに出会えた事は大きかった。
そうでなければ、今頃セレーネも目の前にいるシリルのように『婚約破棄二世』という言葉に取り憑かれ、苦しんでいただろう。
シリルの行った事は許せない。だが、彼の気持ちを理解はできる。
セレーネはシリルに視線の高さを合わせた。
「あなたは一人で抱え込みすぎてしまったのね」
優しく問いかけ、セレーネは心の底から湧いた言葉を伝える。
「できればこんな形ではなく、あなたと出会い語り合いたかったわ」
俯くシリルの表情は分からない。が、その後彼が言葉を発する様子はない。
教師たちが静かにシリルへ歩み寄り、その肩に手を置く。彼は抵抗することなく立ち上がり、背中を向け歩き始めた。
ーー婚約破棄二世ね……。
シリルの寂しげな背中を見ながら、今までの出来事が思い浮かび上がる。けど不思議と、今はその言葉で傷付く事はなく、むしろ清々しさすら感じていた。
セレーネは背筋を伸ばし、胸を張り、大きく息を吸った。
「私は、婚約破棄二世です!」
セレーネが張り上げた声に反応したのか、シリルがぴたりと足を止めた。
振り返らない彼の背中に向け、セレーネは再びお腹に力を込める。
「ですが、私は私です!」
シリルだけではない。偏見を持つすべての人に向け、セレーネはそう宣言する。
強がりではなく、本心からそう思えた。
フィリップ殿下に視線を向ければ、嬉しそうな笑みを浮かべこちらへと近づき手を取ってきた。
「さて、舞踏会を続けよう!」
驚くセレーネに微笑みかけたフィリップ殿下は、群衆の方に向き直りそう宣言した。
「音楽家の方々、曲をお願いできるかな?」
フィリップ殿下の声かけに応じるように、ダンスの音楽が流れ始める。
「さて、踊ろうかセレーネ」
ガッチリと手を取られ逃げ場を失ったセレーネに、フィリップ殿下は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「さあ、私たちが踊らないと舞踏会は始まらないよ?」
完全にやられたと思いつつも、どこか嬉しさが込み上げてくる。
「私でよろしければ、喜んで」
向かい合いフィリップ殿下の肩に手を添える。距離が近まり、途端に緊張感が体を走った。
「君はまだ、自分の幸せを諦めるつもりかい?」
フィリップ殿下がそう問いかける。
「少しだけ、考え直してみます」
セレーネはそう伝える。
まだ答えは見つからない。
だが、気付いたことはある。
ーー私は婚約破棄二世。
ーーけれど、それは私という人間のすべてではない。
ーー私は、私なのだ、と。




