表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
REMNANT ― 廃棄予定の旧式兵器は、異世界で家族を得て心を覚える ―  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/35

第六話 ありがとう



 夜が来る。


 森は、昼とは違う音を持っていた。


 風が低く鳴る。

 虫の声が細かく響く。

 遠くで何かが動く気配がする。


 昼間には、村の生活音があった。斧が木を割る音。鍋の蓋が触れる音。リリの走る足音。エルナの穏やかな声。ガルドの短い返事。


 だが夜になると、それらは薄くなり、代わりに森そのものが前へ出てくる。


 草が擦れる音。枝がしなる音。地面の下を小さな虫が進む音。暗がりの中で獣が向きを変える気配。


 納屋の中に立つリマナントは、それらをすべて拾っていた。


【環境:低光量】

【生体反応:増加】

【警戒:維持】


 納屋の隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。


 昼間、リリが置いていったパンの欠片は、まだ棚の端にあった。エルナが持ってきた器も、空になったまま隅に寄せられている。床には土が少し落ち、壁には古い農具の影が伸びていた。


 そこは居住空間ではない。


 保管場所。


 物を置く場所。


 本来なら、リマナントが立ち続けることに問題はない。休眠姿勢を取る必要もない。眠るという機能もない。消耗を抑えるなら待機状態へ移行すればよいだけだった。


【状態:待機】

【優先行動:未定義】


 だが、完全な停止ではなかった。


 内部では、同じ記録が繰り返し呼び出されていた。


 リリの声。


 エルナの表情。


 差し出された食物。


 触れられた外殻。


 そして、あの言葉。


【語彙:ありがとう】

【状態:未完成】


 ありがとう。


 リリが何度も言った音。


 リマナントは、それを記録していた。


 音節として分解できる。発声に必要な口部の動きも計算できる。音として再現することも、不可能ではない。


 だが、なぜその音を発する必要があるのかは定義できなかった。


 食物を渡された時。


 エルナが布を置いた時。


 リリが笑った時。


 その場面と、この言葉は強く結びついている。


 だが意味はない。


 少なくとも、まだ意味として成立していない。


「……あ……」


 リマナントの口部装甲が、かすかに動く。


 音が出る。


 乾いた、歪な音。


「……り……」


 続かない。


【言語構築:失敗】


 内部処理が再試行を選ぶ。


 意味は分からない。


 だが、優先度だけが上がっている。


【再試行】

【優先度:上昇】


「……あ……」


 また失敗。


「……り……」


 そこで崩れる。


 音は出るが、言葉にはならない。


 そもそも、これは戦闘に使うものではない。命令でもない。警告でもない。敵を止める音でも、情報を伝える符号でもない。


 それなのに、記録から消えない。


 むしろ、繰り返すほど内部のどこかで信号が強くなる。


【未知信号:微弱】

【原因:不明】


 その時、納屋の外で足音がした。


 軽くはない。


 だが、ガルドほど重くもない。


 一定の速さで近づき、扉の前で止まる。


 少し間があった。


 すぐには開かない。


 相手は、こちらの様子をうかがっている。


 それから、扉がゆっくりと開いた。


「……まだ起きてるのね」


 エルナだった。


 手には小さな灯りを持っている。油を使った簡素な灯りで、炎は頼りないほど小さい。けれど、その小さな光は納屋の中の影を押し広げ、古い木箱や縄や農具の輪郭をやわらかく浮かび上がらせた。


 エルナは中へ入ってすぐ、足を止めた。


 リマナントと目を合わせる。


 その視線には、警戒がまったくないわけではない。だが、昼間に村人たちが向けたものとは違った。


 決めつける視線ではない。


 確かめる視線だった。


「眠るのかしら……それとも、そういうものではないのね」


【音声解析:継続】

【意味:部分一致】


 リマナントは答えない。


 答えるための語彙がない。


 エルナはその沈黙を、拒絶とは受け取らなかった。少しだけ首を傾げ、納屋の中を見渡してから、ゆっくり近づいてくる。


 距離を詰めすぎない。


 けれど、完全に避けもしない。


 その間合いは、昼間から変わらなかった。


「寒くはないのね」


 エルナはそう言いながら、リマナントの腕にそっと触れた。


【接触:発生】

【未知信号:増加】


 指先は温かかった。


 外殻表面の温度より高い。


 力は弱い。


 攻撃ではない。


 検査とも違う。


 その手はすぐに引かれたが、接触の記録は内部に残った。


「冷たいわね」


 エルナは小さく言った。


「ほんとうに……不思議な子ね」


 子。


【語彙:子】

【意味:未定義】


 リマナントはその音を記録する。


 子。


 リリに対して何度も使われていた語彙でもある。エルナがリリを呼ぶ時、その音には特定の信号が伴う。声が少し柔らかくなる。視線の角度が変わる。近づく速度も変わる。


 その語彙が、今、自分に向けられた。


【関連:リリ】

【対象:自己】

【処理:保留】


 エルナは持ってきた布を、納屋の隅に置いた。


 厚手ではない。古いものだ。端は少し擦り切れている。それでも、よく乾いていて、丁寧に畳まれていた。


「使えるかは分からないけれど……一応、置いておくわね」


 無理に手渡すことはしない。


 リマナントに巻きつけることもしない。


 ただ、届く場所に置く。


「無理しなくていいのよ」


 その言葉で、内部の信号が揺れた。


【未知信号:反応】


 無理。


 強制ではない。


 命令ではない。


 行動を求めていない。


 それなのに、行動の可能性を残している。


 不明。


 けれど、排除対象ではない。


 エルナは少しだけ微笑んだ。


 その表情は、リリの笑顔よりも静かだった。大きく変化するわけではない。けれど目元が緩み、声が低くやわらかくなる。


 その変化も記録された。


 外から、別の足音が近づいた。


 今度は軽い。


 小さい。


 速い。


 すぐに識別できる。


【対象:リリ】


「おかあさん!」


 リリの声がした。


 扉の隙間から、眠そうな顔がのぞく。髪は少し乱れ、目も半分閉じかけている。それでも納屋の中にエルナがいるのを見つけると、ぱっと顔を上げた。


「きてたの?」


「ええ。少し様子を見に来ただけよ」


「リリも!」


「あなたは寝ていたはずでしょう?」


「起きたの」


「そうね。起きてしまったのね」


 エルナは叱るような声では言わなかった。


 リリは納屋の中へ入ってくる。眠気は残っているが、足取りは迷わない。彼女にとって、この銀灰色の存在はもう、ただ怖いだけのものではなくなっていた。


 リリはリマナントの前に立つ。


「ねえ」


【音声解析:継続】


「さっきの、できた?」


【語彙:さっき】

【意味:未定義】


 さっき。


 過去。


 近い時間。


 食事の時。


 言葉を教えられた場面。


 ありがとう。


【語彙:ありがとう】

【状態:未完成】


 リマナントは動かない。


 だが内部処理は集中した。


【内部処理:集中】


 リリは両手を後ろに回し、少しだけ背伸びをする。


「ありがとう、だよ」


 ゆっくり言う。


「あ、り、が、と、う」


 一音ずつ区切る。


 それから、リリは今度は少しだけ伸ばした。


「ありがとー」


 音の形が変わる。


 けれど、同じ意味を持つらしい。


【音声解析:再構築】

【語彙:ありがとう】

【音節分解:成功】


 出力準備。


 口部装甲がわずかに動く。


「……あ……り……」


 止まる。


【言語構築:不完全】


 リリは待った。


 すぐに続きを言わない。


 笑わない。


 できないことを責めない。


 ただ、じっと見ている。


 その沈黙は、研究所での沈黙とは違った。


 研究所の沈黙は評価だった。失敗を計測する空白だった。廃棄判定へ近づく余白だった。


 だが、リリの沈黙は違う。


 待っている。


 失敗しても、次を待っている。


「ゆっくりでいいよ」


【再試行:許可】


 その言葉で、内部処理の優先順位が変わった。


 成功しなければならない、ではない。


 直ちに完了する必要もない。


 再試行してよい。


 その許可が、なぜか内部の負荷を下げた。


 もう一度。


「……あ……り……が……」


 形が近づく。


 あと一音。


 だが、まだ足りない。


【未知信号:増加】


 記録が重なる。


 リリの手。


 エルナの布。


 食物を受け取った時のリリの笑顔。


 エルナの「無理しなくていいのよ」。


 リリの「ゆっくりでいいよ」。


 それらが一つの塊になる。


 戦闘記録のように直線ではない。


 命令系統のように上から下へ流れるものでもない。


 散らばっていたものが、中心へ集まっていく。


 そして。


「……ありがとう」


【音声出力:成功】


 納屋の中が静かになった。


 外の虫の声まで遠くなる。


 リリの目が大きく開かれる。


 エルナも、言葉を失ったようにリマナントを見つめた。


 たった一言。


 音としては短い。


 それでも、その場にいた二人には、それがただの音ではないことが分かった。


「……できた!」


 リリがぱっと笑った。


 眠気など、どこかへ消えていた。


「おかあさん、できたよ!」


「ええ」


 エルナは静かに目を細める。


「……言えたのね」


【語彙:ありがとう】

【意味:未定義】


 意味はまだ定義されていない。


 しかし、関連信号が強く一致した。


【関連信号:一致】


 リリの笑顔。


 エルナの表情。


 手渡されたもの。


 待ってくれた時間。


 それらが「ありがとう」という音と結びつく。


【意味:仮定義】


 暖かい。


 そう記録された。


 それは正確な温度ではない。


 外殻表面に熱が加わったわけでも、機導炉が出力を上げたわけでもない。


 だが、内部のどこかで、確かに温度に似たものが生まれていた。


【未知信号:温】


 リマナントはその信号を処理できない。


 だが、破棄もしなかった。


「もういっかい!」


 リリが言う。


 少し声が弾んでいる。


「ありがとう!」


 リマナントは、リリを見る。


 口部が動く。


「……ありがとう」


 今度は少しだけ早かった。


【出力:安定】


「わー!!」


 リリは両手を上げそうになって、夜であることを思い出したのか、途中で少しだけ抑えた。それでも顔は笑っている。


「すごい!」

リリは両手を上げそうになって、夜であることを思い出したのか、途中で少しだけ抑えた。それでも顔は笑っている。

「ちゃんと言えたね!

 名前。」


【語彙:名前】

【意味:未定義】


 その語彙も記録される。


 まだ意味は分からない。


 だがリリの中では、それも大事なものらしい。


 エルナは、灯りを少し持ち上げた。小さな火が揺れ、リマナントの銀灰色の外殻に淡く映る。


「ええ、どういたしまして」


 穏やかな声だった。


 返すための言葉。


 リマナントはそれを聞き取る。


【新規語彙:どういたしまして】

【意味:未定義】


 ありがとう。


 どういたしまして。


 二つの言葉が並ぶ。


 一つは受け取った時の言葉。


 もう一つは、それに応じる言葉。


 関係。


【概念:関係】

【状態:未定義】


 まだ理解できない。


 だが、そこには一定の構造がある。


 戦闘とは異なる構造。


 命令とは異なる構造。


 リリが差し出す。


 リマナントが受け取る。


 ありがとう。


 エルナが返す。


 どういたしまして。


 そこに、損傷は発生しない。


 敵対も発生しない。


 それでも、何かが変化する。


 リリはまだ嬉しそうにしていた。


「もう一回言って!」


「リリ、あまり遅くまで起こしてはいけないわね」


「でも、言えたんだよ?」


「ええ。だからこそ、また明日でもいいのよ」


「明日も?」


「もちろん」


 エルナはリマナントを見る。


「明日も、少しずつ覚えればいいわね」


【語彙:明日】

【意味:未来】

【語彙:少しずつ】

【関連:エルナ/リリ】


 少しずつ。


 それも記録された。


 研究所では、性能は即時に評価された。


 不適合なら廃棄。


 遅延は欠陥。


 不明は異常。


 だが、ここでは違う。


 未完成でも待たれる。


 失敗しても続きがある。


 明日という概念がある。


【処理:保留ではなく継続】


 リマナントは言った。


「……ありがとう」


 今度は、誰かに促されたわけではなかった。


 リリが目を丸くする。


 エルナも少し驚いたように見つめる。


 リマナント自身にも、なぜ出力したのかは分からない。


【自発出力:発生】

【理由:未定義】


 だが、出た。


 その音を聞いたリリが、ゆっくり笑う。


「うん」


 ただ、それだけだった。


 それだけで、内部の信号はまた増えた。


 エルナは置いた布を軽く整えた。


「今日はもう休みましょう。リリも寝ないと、明日起きられないわよ」


「はーい」


 リリは少し名残惜しそうにしながら、扉の方へ向かう。


 だが途中で戻ってきた。


 リマナントの腕にそっと触れる。


 昼間と同じように。


「また明日ね」


【語彙:また明日】

【意味:再会予定】


 また。


 明日。


 消えない関係。


 続く時間。


 リマナントは少し遅れて出力する。


「……また、明日」


 リリの顔がまた明るくなる。


「うん!」


 エルナも微笑んだ。


「おやすみなさい」


【新規語彙:おやすみなさい】

【意味:未定義】


「……おやすみ、なさい」


 言葉を返す。


 正しいかどうかは分からない。


 だが、リリは嬉しそうに頷いた。


 エルナはリリの肩に手を添え、納屋を出ていく。


 扉がゆっくり閉じる。


 灯りの光が細くなり、最後に消えた。


 納屋は再び月明かりだけになった。


 森の音が戻ってくる。


 虫の声。


 風。


 遠くの獣。


 だが、先ほどまでと同じではない。


 納屋の中には、音が残っていた。


 ありがとう。


 どういたしまして。


 また明日。


 おやすみなさい。


 それらはすべて、戦闘には不要な言葉だった。


 敵を倒すためのものではない。


 標的を識別するためのものでもない。


 命令を遂行するためのものでもない。


 それでも、その言葉は内部の深い場所に保存された。


【語彙:ありがとう】

【状態:安定】

【関連信号:温】

【自発出力:確認】


 リマナントは立ったまま、扉の方を見ていた。


 閉じた扉。


 その向こうに、リリとエルナがいる。


 さらにその向こうに家がある。


 家の中には、ガルドの気配もある。


【生体反応:三】

【状態:安定】


 守るべき対象。


 そう定義することはできる。


 だが、その言葉だけでは足りなかった。


 対象。


 保護対象。


 非武装個体。


 それらの分類では、今の信号を説明できない。


【未知信号:名称未設定】


 リマナントはもう一度、小さく出力した。


「……ありがとう」


 誰も聞いていない。


 反応もない。


 それでも、言葉は納屋の中に落ちた。


 木の壁に吸われ、夜の空気に混ざり、静かに消えていく。


 消えたはずなのに、内部には残る。


【記録:保存】


 初めての、意味ある言葉。


 それは、戦うための言葉ではなかった。


 壊すための言葉でもなかった。


 つながるための言葉だった。


 リマナントはまだ、それを知らない。


 心という言葉も知らない。


 感謝という概念も知らない。


 けれど、この夜。


 銀灰色の旧式兵器の中で、ひとつの音が確かに形を持った。


 ありがとう。


 それは小さすぎる始まりだった。


 だが、この場所で生まれた最初の灯だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ