9.まだ無名の旗は、朝靄を裂いて――廠、冀州へ
廠と織が覚悟を固めたその頃――
乱世の各地では、すでに“英雄たちの戦い”が静かに熱を帯び始めていた。
張角率いる黄巾党は、依然として勢いを失っていなかった。
「蒼天已死、黄天當立」
その合言葉とともに、黄巾を巻いた賊徒たちは村を焼き、郡を襲い、官軍を翻弄していた。
しかし、ただの反乱ではない。
廠と織が遭遇した“異形”の影は、黄巾党の各地にも忍び寄っていた。
まだ誰も気づいていないだけで、乱世はすでに“本来の歴史”とは別の道を歩き始めていた。
----
その中で、劉備は義勇兵を率い、各地の黄巾賊を討伐していた。
劉備の軍は小規模ながら、民の信頼は厚い。
その姿に、村人たちは涙を流し、食糧を差し出し、兵を志願する者まで現れた。
だが、劉備はまだ知らない。
この乱の裏に“異形”という、歴史に存在しない脅威が潜んでいることを。
----
一方、曹操は漢軍の将として、より大規模な戦線を指揮していた。
統率された軍勢は、黄巾賊を次々と制圧していく。
曹操は戦場で冷静に状況を見極め、時に大胆な策を用いて敵を殲滅した。
「乱世こそ、英雄が試される場だ」
彼の目には、すでに“天下”が映っていた。
しかし、曹操の軍の一部でも、不可解な現象が起き始めていた。
討ち取ったはずの黄巾賊の死体が、夜に消える。
血の跡だけが残り、兵たちは不安を口にする。
曹操は眉をひそめた。
「……妙だな。何かが動いている」
----
江東では、孫堅が地方の賊徒を次々と討伐し、“江東の虎”として名を上げていた。
孫堅の軍は素早く、勇猛で、敵に恐れられていた。
彼は戦場で誰よりも先に駆け込み、誰よりも深く斬り込む。
「賊徒どもを放っておけば、民が泣く。俺がやるしかない!」
その豪胆さは、兵たちの士気を大いに高めていた。
だが、孫堅もまた、戦場で奇妙なものを目にする。
倒した賊徒の中に、
“人ではない何か”が混じっていたのだ。
「……なんだ、これは」
孫堅は剣を握り直し、空を見上げた。
乱世の空は、どこか不穏に揺れていた。
----
翌朝。
涿郡の空はまだ薄暗く、夜の冷気が地面に残っていた。
張世平の屋敷の前に立つ廠は、すでに旅装を整えていた。
織は不安を隠しきれない表情で、廠の胸当ての紐を結び直す。
「……本当に、一人で行くつもりなの?」
廠は苦笑しながら答えた。
「一人じゃないさ。行く途中で兵を集める」
張世平も腕を組み、渋い顔で廠を見つめていた。
「廠殿。わしの私兵はすべて置いていくと言ったな。冀州までの道は荒れておる。黄巾賊も多い。無茶ではないか?」
「無茶なのは分かってます。でも、まずは張角をなんとかしないと」
廠の声は静かだったが、揺らぎはなかった。
織は唇を噛みしめ、廠の手を握った。
「…必ず戻ってきて。軍を作るんでしょう?その旗揚げの瞬間、私が隣にいないなんて、絶対に嫌だから」
廠はその手を握り返し、穏やかに笑った。
「戻るよ。絶対に」
張世平が大きく息を吐き、廠の背中を軽く叩いた。
「ならば何も言うまい。だが、廠殿――兵を集めるなら、まず“名”を上げることだ。
冀州へ向かう途中、賊徒を討ち、民を救え。その積み重ねが、やがて軍となる」
「分かってます。…策はあります。行ってきます」
廠は馬に跨がり、手綱を引いた。
まだ薄明るい道の先に、冀州―張角の本拠がある。
織が声を張り上げた。
「廠! あなたは一人じゃないわ!
あなたの背中には、必ず人がついてくる!」
廠は振り返らず、ただ片手を上げて応えた。
馬の蹄が土を蹴り、朝靄の中へと消えていく。
その背中は、まだ軍も旗も持たない。
だが――確かに“始まり”の背中だった。
----
涿郡を出て北へ向かう街道。
まだ春浅い風が吹き抜ける中、廠は一本の旗を掲げて歩いていた。
白地に、黒く大きく描かれた“神”の一文字。
それはまだ誰にも知られていない、新しい時代の象徴だった。
道行く人々は、最初こそ怪訝そうに廠を見たが、すぐに笑い声が上がった。
「なんだあれ、神の旗だとよ」
「世も末だな、若造が天下を取る気か?」
「ははっ、面白ぇ!」
廠は気にする様子もなく、ただ前を向いて歩き続けた。
笑われることなど、とうに覚悟している。
(…笑いたきゃ笑え。俺はやるしかないんだ)
そんな廠の前に、数人の荒くれ者が立ちふさがった。
肩で風を切り、酒臭い息を吐きながら、廠の旗を指さす。
「おい兄ちゃん、その旗はなんだ? 神だぁ? 笑わせんなよ」
「天下を平定する? お前みたいな若造がか?」
「その旗、へし折ってやろうか!」
廠は立ち止まり、静かに旗を地面に突き立てた。
そして、ゆっくりと荒くれ者たちを見渡す。
「…くすぶってる暇があるなら、俺と来い」
「はぁ?」
「何言ってやがる!」
廠は一歩踏み込み、木刀を握った。
「天下を平定する。異形に怯える民を救う。そのために―俺は軍を作る」
荒くれ者たちが嘲笑を浮かべた瞬間、廠の木刀が一人を叩く。
続けざまに、二人目の腹に膝を叩き込み、三人目の腕を叩きつける。
動きは速く、迷いがなく、ただ“戦い慣れた者”のそれだった。
倒れた荒くれ者たちは、呆然と廠を見上げた。
「…な、なんだお前……」
「強ぇ……」
「本当に、天下を…?」
廠は旗を引き抜き、肩に担いだ。
「俺は廠。異形…あの化け物を倒す者だ」
荒くれ者たちは顔を見合わせ、やがて一人が立ち上がった。
「…分かった。行くよ、兄ちゃん。こんなとこで腐ってるより、よっぽど面白ぇ」
「俺もだ!」
「天下平定だろ? 乗ってやるよ!」
廠は小さく頷き、歩き出した。
その背後には、さっきまで道端で酒を飲んでいた男たちが、いつの間にかついてきている。
旗は風に揺れ、朝日を受けて輝いた。
まだ小さな一歩。
だが、この一歩が――後に“神軍”と呼ばれる軍勢の始まりだった。




