29.歴史が軋む音――袁術、皇帝を名乗る
洛陽も長安も落ち、天下の象徴が宙に浮いたその隙を突くように、寿春の袁術がついに「皇帝」を僭称した。
その報せは、涿郡にも瞬く間に届いた。
袁術は自らを「仲家の正統」と称し、天子の玉璽を持つことを理由に、堂々と帝位を宣言したのだ。
そして孫堅に、臣従するように迫ったのだ。
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孫堅は激怒した。
「俺が誰の臣下になる? ましてや袁術などに」
若き孫策は父の背後で拳を握り、孫権は冷静に情勢を読み取っていた。
袁術の背後には、金と兵糧がある。
だが、孫家の武威は江東を席巻しつつあった。
孫堅は迷わなかった。
「袁術の旗の下に入るつもりはない。俺は俺の道を行く」
だが、袁術は引かない。
彼は皇帝として、孫堅を従わせるための軍を動かし始めていた。
江東は、再び火薬の匂いに包まれようとしていた。
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曹操は袁術の僭称を聞き、静かに笑った。
「愚か者め。帝を抱く者はこの曹孟徳ただ一人。皇帝を名乗るなど、天下の笑い者よ」
だが、笑いながらも目は鋭かった。
袁術が皇帝を名乗った以上、袁術は逆賊である。
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袁紹は激怒した。
「袁家の恥さらしめ…!」
河北四州を制し、北方の覇者として揺るぎない地位を築いた彼にとって、袁術の皇帝僭称は“自分より先に出た”という、何よりも許しがたい行為だった。
すぐさま軍議が開かれ、袁術討伐の声が上がる。
だが、側近たちは一様に口を揃えた。
「殿。涿郡は、どう扱われますか?」
袁紹は短く息を吐き、即答した。
「あそこには手を出すな」
その声音には、怒りとは別の冷静さがあった。
涿郡に手を伸ばせば、呂布軍が動く。
そして、あの不可解な“神軍”が必ず反応する。
異形を屠るあの軍勢は、いまや天下の誰もが恐れ、同時に頼りにしている存在だった。
「奴らは異形にしか興味がない。天下の趨勢は我らに任せるつもりだろう。
ならば、やっかいな化け物どもは、勝手に討ってもらえばよい」
袁紹はそう言い切ると、ゆっくりと軍議の場を見渡した。
河北四州を制したのは自分だ。
兵も、糧も、人材も揃っている。
天下に号令をかけるべきは、袁術ではなく、自分だ。
その確信が、彼の胸中で揺らぐことはなかった。
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砦の城壁の上。
廠は、織を傍におき、再び夜風の中に立っていた。
紅陽が報告書を手にして言う。近くにはかすみもいる。
「袁術が皇帝を名乗り、孫堅に臣従を求めたとのことです。江東は荒れますな」
織は眉を寄せた。
「袁術が皇帝…? そんなこと、歴史には…」
廠は静かに頷いた。
「本来なら、袁術が皇帝を名乗るのはもっと後だ。だが、董卓の死も、長安の陥落も、帝の移動も、すべてが早まっている」
織の声が震える。
「歴史が、また変わったのね」
廠は夜空を見上げた。
「袁術の僭称は、天下を二つに割る。曹操と袁紹は必ず動く。
孫堅も黙ってはいない。そして――」
紅陽が続きを引き取る。
「乱世の渦が、涿郡にも及ぶということか」
廠はゆっくりと頷いた。
「避けられない。だが、俺たちは“異形”を討つ軍だ。
人の争いに深入りするつもりはない」
織がそっと廠の袖を掴む。
「でも、廠。もし孫堅が袁術と戦い、
曹操と袁紹が動き、天下が割れたら…
涿郡は、どこに立つの?」
廠はしばらく沈黙し、そして静かに答えた。
「涿郡は、涿郡に立つ。俺たちは誰の臣下にもならない。
異形を討ち、民を守る。それが揺らぐことはない」
紅陽が力強く頷く。
「殿の旗は、殿のものだ。誰にも奪わせん」
夜風が吹き抜ける。
その風は、これから始まる“人の争い”の嵐を告げていた。
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南側の村。
劉備・関羽・張飛の三人にも、袁術が皇帝を名乗ったという報せが届いていた。
張飛が真っ先に怒鳴った。
「袁術が皇帝だと!? ふざけやがって!」
関羽は眉を寄せ、静かに兄をうかがう。
「兄者、いかがいたしますか?」
劉備はしばらく空を見上げ、深く息を吐いた。
「どうするもこうするもない……皆、天下をつかもうとしている。
誰もが、自分こそが正しいと信じて動いているのだ」
関羽が一歩踏み出し、問いかける。
「では兄者は、これからどうなさるおつもりですか?」
劉備は村の人々の暮らしを見渡し、静かに答えた。
「乱世はまだ大きく動く。今は、焦って旗を掲げる時ではない。
しばらくは情勢を見極めるしかあるまい」
張飛は不満げに鼻を鳴らしたが、関羽はその言葉に深く頷いた。
「兄者らしいお考えです。民を守るためにも、軽挙は避けるべきでしょう」
劉備は二人を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「廠殿の治めるこの地が安らかである限り、我らはここで力を蓄えればよい。
乱世がどう転んでも、動くべき時は必ず来る」
三人の視線が、夕暮れの村へと向けられた。
その静けさは、嵐の前のわずかな安息のようでもあった。




