28.董卓なき乱世で、涿郡は“歴史の外側”へと踏み出す
董卓の死から、天下は三つに割れた。
董卓の死と長安の陥落は、天下の均衡を完全に崩し、各地の雄たちは一斉に勢力拡大へと動き出した。
江東では、孫堅が稲妻のような速さで地盤を固めていた。
その背後には、若き孫策と孫権が控え、父の旗の下で次々と敵を打ち破っていく。
江東の民は、孫家の武と統治に希望を見出し、瞬く間に一大勢力が形成された。
徐州では、献帝を保護した曹操が、帝を中心に据えた“正統”の旗を掲げていた。
帝を抱く者は曹操ただ一人。
その事実が、諸侯の中で彼の存在を別格のものへと押し上げていく。
徐州の地は、帝を守るための軍勢と、曹操の野心を支える民とで満ちていた。
北方では、袁紹が河北四州を制圧し、圧倒的な兵力と物資を背景に“北の覇者”として君臨していた。
彼のもとには名士が集い、河北は乱世における巨大な安定圏となりつつあった。
そのどれとも異なる“もう一つの勢力”があった。
涿郡。
かつては辺境の、地方にすぎなかったその地は、今や北方最大の都市へと変貌していた。
周囲の郡県を含めた広大な地域が、張世平、いや、廠の治める自治区として扱われていた。
誰も手を出せない。
出そうとすら思わない。
理由は単純だった。
異形の脅威に対抗できるのは、神軍だけだったからだ。
涿郡の城壁は巨大で、街は活気に満ち、農地は広がり、民は笑っていた。
乱世のただ中にありながら、そこだけがまるで別世界のように安定していた。
諸侯たちは互いに争いながらも、涿郡だけは避けた。
避けざるを得なかった。
「異形を討つ軍を敵に回す愚は、誰も犯さぬ」
それが、天下の共通認識となっていた。
こうして、孫堅・曹操・袁紹がそれぞれの地で勢力を伸ばす中、
涿郡は“乱世の外側にある力”として、静かに、しかし確実に存在感を増していく。
そして廠は、次に訪れる嵐を見据えていた。
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涿郡内にいくつもある砦の城壁の上は、夜風が冷たかった。
遠くに灯る街の明かりは、乱世のただ中とは思えぬほど穏やかで、
その静けさがかえって廠の胸に重くのしかかっていた。
織がそっと隣に立つ。
「…廠、どうしたの?」
紅陽も腕を組み、夜空を見上げた。
「長安の件か。それとも董卓殿の死か?」
廠は首を振った。
「違う。もっと大きな話だ」
二人が視線を向けると、廠は城下の灯りを見つめたまま、静かに言葉を続けた。
「…もう、歴史は変わっている」
織の目が揺れる。
紅陽も眉をひそめた。
「どういう意味だ、殿?」
廠は深く息を吐いた。
「本来なら、董卓は、呂布に殺される。曹操が帝を抱いて徐州に向かうのも、早すぎる」
織は小さく息を呑んだ。
「これから先は?」
「分からない」
廠ははっきりと言い切った。
「俺が、いや俺たちが知っている三国志は、もう参考にならない。
異形の存在が歴史を狂わせ、俺たち神軍の行動が、さらにその流れを変えている」
紅陽は腕を組み直し、低く呟く。
「つまり…これから何が起きるか、誰にも読めないということか」
「ああ。孫堅も、袁紹も、曹操も…彼らが次にどんな動きをするか、もう予測がつかない」
廠は夜空を見上げた。
「歴史の答えが消えた以上、俺たちは自分たちの判断だけで、この乱世を進むしかない」
織はそっと廠の袖を掴んだ。
その手は震えていたが、声は強かった。
「なら…私たちが支えるから、廠。歴史がどう変わろうと」
紅陽も頷く。
「殿、俺たちはもう歴史の外側にいる。なら、俺たちのやり方で乱世を切り開けばいい」
廠は二人を見つめ、静かに微笑んだ。
「ああ。これから先は、俺たちの物語だ」
「歴史が俺たちに追いつくまでな」
涿郡の夜風が、三人の間を通り抜けていった。
その風は、未来がまだ白紙であることを告げているようだった。
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涿郡の北外れには、広大な野営地が広がっていた。
そこに並ぶ旗は、呂布軍のものだった。
五百の騎馬隊は、荒野を駆け続けた疲労をまだ完全には癒していない。
だが、彼らはいつでも出撃できるよう、整然とした陣形を保ち、武具の手入れを怠らなかった。
呂布が望んだのだ。
「いつ異形が現れても動けるようにしておきたい」
紅陽が廠に伝え、廠は即座に許可を出した。
涿郡の外縁は、もはや神軍の軍事区画として整備されており、呂布軍が駐屯するには十分すぎるほどの設備が整っていた。
呂布は野営地の中央で、静かに戟を磨いていた。
その背中には、董卓を失った痛みと、異形への憎悪が刻まれている。
だが同時に、涿郡という“拠り所”を得た安堵もあった。
「紅陽、神軍…これなら異形と戦える」
呂布はそう呟き、夜空を見上げた。
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一方、涿郡の南側。
かつて劉備の生家があった村は、今や神軍自治区の一部となっていた。
村の周囲には新たな城壁が築かれ、農地は整備され、避難してきた民が穏やかに暮らしている。
劉備、関羽、張飛の三人は、久しぶりに故郷の土を踏んでいた。
「…変わったな、兄者」
張飛が腕を組んで村を見渡す。
「良い方に、だ」
関羽が静かに答える。
劉備は、生家の跡地に立ち、深く息を吸った。
そこにはもう古い家はなく、代わりに神軍の倉庫が建っていた。
だが、劉備は微笑んだ。
「廠殿が守ってくれたのだ。この地が荒れ果てずに済んだのは、神軍のおかげだ」
村の者たちは劉備を見つけると、驚きと喜びの声を上げた。
劉備は一人ひとりに声をかけ、無事を喜び合う。
その光景を見て、関羽は静かに呟いた。
「兄者は、やはり民のための人だな」
張飛も鼻を鳴らす。
「だがよ、兄者。この村、もう廠の領地だぜ? どうするんだ?」
劉備は迷いなく答えた。
「廠殿の治める地なら、私は安心して任せられる。今は民が生き延びることが第一だ」
その言葉に、関羽も張飛も頷いた。
その夜。
涿郡の北方で、見張りの狼煙が一本、静かに上がった。
――異形、確認。




