26.城壁を喰らう怪物群――長安、終焉の刻
洛陽の地獄を前に、連合軍は長い沈黙に包まれていた。
誰もが悟っていた。
この都は、もう戻らない。
復興のための議論は、一度も開かれなかった。
誰も言い出さなかったのではない。
言葉にするまでもなく、全員が理解していたのだ。
「……洛陽は、死んだ」
最初に口を開いたのは袁紹だった。
蒼白な顔のまま、彼は天を仰ぎ、震える声で続けた。
「我らに、これを立て直す力はない」
曹操は何も言わなかった。
ただ拳を握りしめ、血が滲むほどに強く噛みしめた唇から、かすかな息だけが漏れた。
「…解散しよう」
その一言が、連合軍の終わりを告げた。
兵たちは槍を下ろし、諸侯たちは互いに目を合わせることもなく、静かに、まるで逃げるように洛陽を後にした。
洛陽を取り戻すという大義は、異形の前ではあまりにも脆かった。
洛陽の空に立ち上る黒煙を振り返る者は、誰一人としていなかった。
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長安の空は、朝から重く垂れ込めていた。
灰色の雲が城壁の上に影を落とし、風は砂を巻き上げて荒野を渡ってくる。
最初に気づいたのは、城壁上の涼州兵だった。
荒野の向こう、地平線の揺らぎの中に、黒い影が蠢いている。
「…来たぞ!」
叫びが上がった瞬間、城壁の上に緊張が走った。
黒い影は、やがて群れを成し、砂煙を巻き上げながら、長安へ向かって押し寄せてくる。
異形の群れだった。
董卓はすでに城壁に立っていた。
荒野を睨みつけるその眼には、迷いも恐れもなかった。
「予想より早いな。」
呂布が戟を肩に担ぎ、隣に立つ。
その顔には、戦いを前にした獣のような静かな昂りがあった。
「数は……千か、それ以上か。」
「問題ない。」
董卓は短く言い切った。
「群れは兵で削る。大きな個体が出たら―奉先、お前が討て」
呂布は口元をわずかに歪めた。
「任せろ。」
城壁の下では、涼州兵が盾を構え、弓兵が矢を番え、長安の街では避難の太鼓が鳴り響く。
異形の群れは、ついに城壁の目前まで迫った。
その姿は、洛陽を喰い尽くしたものと同じ。
人の形を失い、肉と骨がねじれ、獣とも虫ともつかぬ動きで地面を這い、跳ね、走る。
「放て!」
董卓の号令とともに、長安の城壁から無数の矢が放たれた。
矢が異形の群れに突き刺さり、黒い血が砂に散る。
だが、異形は止まらない。
倒れた仲間を踏み越え、城壁へ、城門へ、長安へ―まるで飢えた獣のように殺到してくる。
董卓は静かに呟いた。
「地獄への誘い、か」
その言葉とともに、長安攻防戦が幕を開けた。
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異形の群れが長安の城壁へ殺到した瞬間、涼州兵たちは矢を放ち、油を撒き、火矢を投じた。
だが、異形は止まらなかった。
城壁に取りついた異形たちは、まるで飢えた獣のように、石を、土を、木材を、喰らい始めたのだ。
「何だと」
城壁上の兵が、声を失った。
異形の顎が石を噛み砕く音が、ゴリ、ゴリ、と不気味に響く。
「おい…嘘だろ……城壁を…喰ってる…?」
兵たちの顔が蒼白になる。
石が砕け、土が削れ、城壁の一部が、まるで腐った肉のように崩れ落ちていく。
董卓は、城壁の上からその光景を見下ろし、眉ひとつ動かさずに呟いた。
「…なるほど。洛陽を呑んだのは、こういうことか。」
呂布が戟を握り直し、低く唸る。
「壁が持たんぞ」
「決まってる」
董卓は即座に答えた。
「喰われる前に、叩き落とす」
その号令と同時に、涼州兵たちは槍を構え、石を投げ、城壁に取りついた異形を必死に引き剥がそうとする。
だが、異形は次々と群がり、喰い続ける。
城壁の下部が大きく抉れ、ついに城壁の一角が崩れ落ちた。
砂煙が舞い上がり、兵たちの悲鳴が響く。
城壁が喰われ、崩れ落ちた長安は、もはや戦場ではなく餌場だった。
異形の群れは止まらず、城内へ雪崩れ込み、兵も民も区別なく喰らい尽くしていく。
董卓は、城壁の上からその光景を見下ろし、静かに息を吐いた。
「…勝ち目は、ない」
その声は、誰よりも戦場を知る男の、揺るぎない判断だった。
異形の数が多すぎる上に、籠城しようにも城壁ごと喰われているのだ。
原野戦ではないので、呂布の騎馬隊も本来の力を発揮できない。
すぐに号令が飛ぶ。
「涼州兵は全軍、涼州へ退け! 生き残れ! 再び戦うためだ!」
兵たちは驚きながらも、董卓の声に従い、隊列を組んで撤退を始める。
さらに董卓は、城内の役人たちに怒鳴った。
「帝を守れ! どこでもいい、長安から離れろ! 民もだ! 散れ! 生き延びよ!」
混乱の中、避難の鐘が鳴り響き、民衆は四方へ逃げ出していく。
董卓は呂布を呼び寄せ、馬を走らせて城門を抜けた。
しかし、長安の外、荒野の中央に、それは立っていた。
巨大な人型の異形。
人の形をしているのは輪郭だけで、肉はねじれ、骨は外へ突き出し、その眼窩には、光の代わりに飢えだけが宿っていた。
呂布が戟を構え、一歩前に出る。
「董卓、俺が」
「奉先。」
董卓は、呂布の肩に手を置いた。
その手は、戦場を生き抜いてきた男の、重く、温かい手だった。
「今はお前も逃げろ。」
呂布の目が揺れる。
「董卓…」
「お前の武は、まだ死んではならん。」
董卓は、巨大異形を睨みつけながら続けた。
「いつの日か…奴らを絶滅させるのは、お前だ」
呂布は歯を食いしばり、拳を震わせた。
だが、董卓の言葉は揺るぎなかった。
「行け、奉先、これは命令だ。」
呂布は、深く頭を下げた。
「……必ず、生き延びる。」
そして、騎馬隊を率いて戦線を離脱する。
その背中を、董卓は一度だけ見送った。
巨大異形が、ゆっくりと董卓へ歩み寄る。
董卓は、腰の剣を抜き、荒野に立った。
「ただでは死なんぞ……化け物ども!」
その叫びは、長安の空に響き渡り、異形の咆哮とぶつかり合った。
董卓は、最後の時間稼ぎのために、ただ一人、巨大異形へと突き進んだ。




