22.異形、汜水関に現れず――怨念は虎牢関へ集う
汜水関北側の谷を進んでいた神軍だったが、異形はついに一体も現れなかった。
谷を抜けた先の山道は、まるで時間が止まったかのように静まり返っている。
紅陽が耳を澄ませ、紅仁が槍を構えたまま周囲を探った。
だが――何もいない。
風が木々を揺らす音だけが、谷を抜けていく。
「……おかしいな」
廠は足を止め、地面に残る痕跡を指先でなぞった。
兵たちの恐怖も憎悪も、この谷に流れ込んでいるはずだった。
それなのに、異形の影すらない。
紅陽が眉を寄せる。
「廠様の読み違い、ということは……?」
「いや、違う。」
廠は静かに首を振った。
「異形は“ここではないどこか”に集まっている。
汜水関よりも、もっと強い怨念が渦巻く場所へ。」
その言葉に、紅仁が息を呑む。
「……虎牢関、ですか。」
廠は短く頷いた。
紅陽が遠くの空を見つめる。
「行くぞ。」
その一言で、神軍は再び歩みを進めた。
次の戦場――虎牢関へ向かって。
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汜水関が破られた翌日、連合軍本陣の幕舎には、重い空気が漂っていた。
曹操は地図の前に立ち、眉間に深い皺を刻んでいた。
「……おかしい。」
その呟きに、幕舎へ入ってきた袁紹が反応する。
「曹操、何を考えている?」
曹操は振り返り、低い声で答えた。
「異形だ。汜水関ほどの戦で、ひとつも現れなかった。」
袁紹の表情がわずかに曇る。
彼もまた、冀州で異形の噂を聞き、密かに調べさせていたのだ。
「確かに……死体を喰らいに現れるはずの奴らが、影も形も見せぬ。
李傕・郭汜の兵は多く死んだはずだが……」
曹操は静かに首を振る。
「死体がある場所に現れるのではないかもしれない。怨念が渦巻く場所に現れるのかもな」
袁紹は息を呑んだ。
「では、汜水関よりも……さらに怨念が集まる場所があると?」
「ある。」
曹操は地図の一点を指で叩いた。
虎牢関。
袁紹は腕を組み、深く頷いた。
「…異形は、虎牢関に集まっているのか。」
「おそらくはな。汜水関に現れなかったのは、“もっと濃い戦場”を選んだということだ。」
二人の間に、しばし沈黙が落ちた。
外では兵たちの声が響くが、幕舎の中は異様な静けさに包まれている。
袁紹が口を開く。
「孫堅はすでに虎牢関へ向かった。異形が現れようと、怯まず突き進むだろう。」
曹操は目を細めた。
「だからこそ危うい。孫堅の武勇は確かだが、異形が現れれば、ただの武ではどうにもならぬ。」
袁紹は曹操を見つめ、低く問う。
「孟徳、お前はどう動く?」
曹操は短く答えた。
「虎牢関へ向かう。董卓を討つためではない。
“何か”が起きる。それを見届けねばならぬ。」
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連合軍が陣を敷く前に、まず目に飛び込んできたのは、虎牢関の前に仁王立ちする一人の巨躯だった。
華雄。
その姿は、まるで戦場そのものが形を取ったかのようだった。
黒鉄の甲冑は血と煤で汚れ、肩には斬り伏せた敵の血が乾いてこびりついている。
手にした大刀は、振るうたびに空気を裂くような重さを感じさせた。
連合軍の兵たちは、近づく前から足を止めてしまう。
「…あれが、董卓軍の華雄か」
「噂以上だ…どうやって倒すんだ……」
兵の怯えは、まるで目に見えるように広がっていった。
諸侯たちは次々と華雄に挑んだが、誰一人として突破できなかった。
名を上げようと焦る者、袁紹の前で武勇を示そうとする者、ただ勢いで突っ込む者。
だが、華雄の前ではすべて無意味だった。
華雄はただ一太刀で敵将を斬り伏せ、返す刀でその配下をまとめて薙ぎ払う。
そのたびに、虎牢関前の地面には新たな血が広がった。
幕舎の中で、袁紹が歯噛みする。
「くっ……また敗れたか。誰か、華雄を討てる者はいないのか!」
曹操は腕を組み、静かに華雄を見つめていた。
幕舎の外では、華雄の咆哮が響き渡る。
連合軍は完全に足止めされていた。
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最初に気づいたのは、董卓軍の前衛だった。
山の影から、黒い染みのようなものが地面に広がり、そこから“形”が立ち上がる。
異形。
どこからともなく現れたそれらは、まるで戦場の怨念に引き寄せられるように、
一直線に虎牢関へ向かって進み始めた。
連合軍の兵たちはざわめき、後退しかける。
「な、なんだあれは……!」
「冀州で噂に聞いた化け物か……!?」
異形たちは、虎牢関の前に転がる董卓軍の死体へ群がり、骨ごと噛み砕くように貪り始めた。
その光景に、董卓軍の兵は恐慌状態に陥る。
「ひ、ひぃっ……! 化け物だ!」
「やめろ! 食うな! やめろぉ!」
連合軍の兵は逆に動けなくなる。
敵を襲う異形を見て、どう反応すべきか分からなかった。
曹操はその様子を見て、低く呟く。
「…やはり来たか。
汜水関に現れなかったのは、ここに集まるためだったのだ。」
袁紹も顔を青ざめさせながら言う。
「だが、なぜ董卓軍だけを……?」
曹操は目を細めた。
「分からんが…ただ、付近にいるからという理由かもしれん」
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虎牢関の前で、華雄は異形が兵を喰らうのを見て、怒号を上げた。
「化け物ども!この華雄が相手だ!」
大刀を振りかざし、異形の群れへ突っ込む。
異形の一体が華雄に飛びかかるが、華雄はその頭を一刀で叩き割った。
黒い体液が飛び散り、地面を焦がす。
「化け物風情が……!」
華雄は次々と異形を斬り伏せていく。
だが、倒しても倒しても、異形は湧き続けた。
董卓軍の兵は叫ぶ。
「華雄将軍! 退いてください! 数が多すぎます!」
「黙れ! 退けば虎牢関が破られる!ここで踏みとどまるのが華雄の務めよ!」
華雄の咆哮が戦場に響き渡る。




