19.義の波紋 ―安喜から譙県へ、時代が動き出す―
劉備が督郵を打ち据え、県尉の印を投げ捨てて原野へ出た。
その一部始終は、安喜の民が語り、旅の商人が広め、やがて豪族たちの耳にも届いた。
「官に屈せず、民のために拳を振るった男がいるらしい」
「こういう時代には、ああいう者こそ必要だ」
「賊に悩まされている村を救ってくれるかもしれぬ」
黄巾の乱で治安が崩れ、各地の豪族は賊に苦しんでいた。
彼らはこぞって使者を送り、劉備を呼び寄せようとした。
原野に出た劉備は、関羽・張飛とともに粗末な陣を張り、
民の訴えを聞きながら、必要とされる地へと馬を走らせた。
官を捨てても、義を捨てる気はなかった。
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そのころ、廠は紅陽・紅仁との訓練を終え、張世平の屋敷に戻ると、間者の報告を受けていた。
「劉備殿、督郵を殴り飛ばし、官を辞したとのことです」
廠は目を細めた。
冀州で命を救ってくれた男が、また義を貫いたのだ。
「あの人らしいな」
報告を持ってきた間者は、織が組織した者たちだった。
張世平の金を巧みに使い、織は独自の情報網を作り上げていた。
商人の往来に紛れ、各地の情勢を集め、廠のもとへ届ける。
「劉備殿の名声は、今や安喜どころか中山国全体に広がっています。豪族たちが次々と声をかけているようで」
廠は静かに頷いた。
「義を貫く者は、必ず人を惹きつける」
紅陽が笑みを浮かべ、紅仁が槍を肩に担ぐ。
「廠様、劉備殿とまた肩を並べる日が来るのでしょうか」
「来るさ。あの人は、乱世に必要な人だ」
廠は窓の外を見た。
遠く、安喜の空の向こうに、劉備の姿があるような気がした。
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張角が斃れ、黄巾の乱がようやく鎮まった。
だが、洛陽の空気は静まるどころか、むしろ濁りを増していた。
帝は再び宦官どもを重用し、好き勝手に政を弄び始める。
乱の原因を作った張本人たちが、何事もなかったかのように権勢を振るう。
曹操には、その光景がどうしても耐えられなかった。
病を理由に官を辞したのは、半ば本心であり、半ば方便だった。
戦の疲れは確かにあった。
だがそれ以上に、宮廷の腐臭に身を置き続けることが、彼には何よりの毒だった。
譙県へ戻る道すがら、曹操は馬上で何度も振り返った。
洛陽の城壁は遠ざかり、春の霞に溶けていく。
あの都に、未来はあるのか――そんな問いが胸の奥で燻り続けた。
故郷の譙県は、戦火こそ免れたものの、民の顔には疲れが色濃く残っていた。
黄巾の乱は終わったはずなのに、どこか落ち着かない。
村々には、得体の知れぬ噂が流れていた。
「冀州の北で、奇怪なものが現れたらしい」
「人ではない、獣でもない。夜に光る影だと」
曹操は笑わなかった。
むしろ、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
乱が終わったというのに、世はなお乱れようとしている。
帝も宦官も、そんな兆しに気づきもしない。
ならば、誰がこの国を救うのか。
譙県の屋敷に戻った夜、曹操は灯火の下で静かに目を閉じた。
病を理由に退いたとはいえ、ただ隠れて暮らすつもりはない。
時代は、必ず次の“英雄”を求める。
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譙県に戻ってからの日々は、静かであるはずだった。
だが、曹操の屋敷には、静けさとは程遠い影が次々と訪れた。
黄巾の乱が終わったとはいえ、朝廷の腐敗は深まるばかり。
帝は宦官に囲まれ、政は乱れ、民は疲弊し、諸州の豪族たちはそれぞれに不満を募らせていた。
そんな中、密かに洛陽を見限った者たちが、譙県の曹操を訪ねてくる。
「霊帝を廃し、新たな帝を立てるべきだ」
「あなたほどの才があれば、この乱世を正せる」
彼らは口々にそう囁いた。
曹操はそのたびに、薄く笑って首を振るだけだった。
「……俺が動いたところで、何が変わる。
今の朝廷は、乱れるだけ乱れてしまえばいい」
その声音には、諦念ではなく、冷ややかな観察があった。
腐敗した政を正す気など、今の曹操には微塵もない。
むしろ、腐りきったものが崩れ落ちるのを待つ方が、よほど効率がいいと考えていた。
彼は知っていた。
いま手を出せば、ただの反逆者として潰されるだけだ。
だが、時代がもっと深く壊れたとき――そのときこそ、真に必要とされる者が現れる。
そして、自分はその“必要とされる者”の一人であることを、曹操は誰よりも理解していた。




