18.義、拳に宿るとき ―安喜を震わせた一撃―
安喜の復興がようやく軌道に乗り始めたころ、街道の向こうに塵が上がった。
関羽が目を細める。
「兄者、役人の列のようですな」
張飛は鼻を鳴らした。
「なんだぁ? また税の催促か? こっちは復興で手一杯だってのに」
劉備は首を振った。
「いや……旗印が違う。あれは――」
やがて、豪奢な馬車と、無駄に飾り立てた官吏たちが安喜の門前に到着した。
先頭の男が鼻で笑いながら名乗る。
「督郵である。劉備殿、出迎えよ」
その声には、民を見下す色がはっきりと滲んでいた。
劉備は静かに歩み出た。
復興のために泥にまみれた衣のまま、背筋だけは真っ直ぐに。
「遠路ご苦労である。安喜の民のため、何かお力添えを――」
「黙れ」
督郵は手を振って遮った。
「貴様、劉備。民と共に汗を流すなど、官の体面を汚す行為だ。
そのうえ、勝手に兵を動かし、商人と通じて物資を集めていると聞く。
不正の疑いがある。調べさせてもらうぞ」
張飛が一歩前に出た。
「てめぇ……兄者がどれだけ民のために動いてるか知らねぇのか!」
関羽が腕を伸ばして張飛を制した。
「張飛、下がれ。兄者の顔を立てよ」
劉備は深く息を吸い、督郵を見据えた。
「不正などしておらぬ。廠殿からの支援も、すべて民のために使った。
もし疑うなら、私ではなく、この安喜の民に問うてみよ」
督郵の言葉が、安喜の空気を凍らせた。
「民の声など聞く価値もない。官が決めるのだ」
その瞬間、井戸端に集まっていた老人が肩を震わせ、
復興作業に励んでいた若者たちが拳を握りしめた。
劉備の胸の奥で、何かが静かに切れた。
――異形よりも、この男のほうがよほど民を喰らう。
劉備は一歩、前へ出た。
泥にまみれた衣のまま、まっすぐ督郵を見据える。
「督郵殿。あなたの言葉は、民を侮辱している」
「侮辱? 下役風情が、官に口答えするか」
督郵は鼻で笑い、劉備の胸を指で突いた。
「貴様のような者が民と馴れ合うから、秩序が乱れるのだ。
この安喜は、今日から私の裁量で――」
言い終わる前に、劉備の拳が動いた。
乾いた音が、安喜の広場に響いた。
督郵の身体が宙を舞い、豪奢な馬車の車輪に叩きつけられる。
周囲の官吏たちが悲鳴を上げた。
劉備は拳を握ったまま、低く言い放つ。
「民を踏みにじる者に、官の資格はない」
関羽が静かに頷き、張飛は腹の底から笑った。
「兄者、よくやった!」
民たちがざわめき、やがて歓声が広がる。
涙を浮かべる者もいた。
督郵は地面に転がりながら、震える声で叫ぶ。
「き、貴様……逆賊の真似事を……!」
劉備はゆっくりと歩み寄り、冷たい目で見下ろした。
「逆賊とは、民を苦しめる者のことだ。
私は、民のために立つ。それだけだ」
その言葉は、安喜の空にまっすぐ響いた。
この日、安喜の民は知ることになる。
劉備という男は、異形にも、権力にも、決して屈しない。
義のためなら拳を振るう男だと。
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督郵は地面に転がりながら、なおも喚き散らした。
「き、貴様……官に逆らう気か! この私を殴るとは――」
劉備の足が、ぴたりと止まった。
その背に、関羽と張飛の気配が寄り添う。
「逆らう?」
劉備の声は低く、震えていた。
「民を踏みにじる者に、逆らわぬほうが不義だ」
督郵が口を開いた瞬間、劉備の拳が再び落ちた。
鈍い音が響く。
「ひっ……や、やめ――」
二発目。
三発目。
四発目。
劉備の拳は、怒りではなく、義の痛みで震えていた。
「民を……侮辱するな……!」
張飛が慌てて駆け寄る。
「兄者、さすがにもう十分だ、死んじまうぞ」
関羽も静かに腕を伸ばし、劉備の肩を押さえた。
「兄者。あなたの義は、もう皆に伝わっております」
劉備は荒い息を吐き、拳をゆっくりと下ろした。
その目には涙が滲んでいた。
「…民を守るための官であろうに。それを忘れた者に、私は仕えるつもりはない」
劉備は腰から外した県尉の印を握りしめ、倒れた督郵の胸元へ、無造作に投げ捨てた。
金属が乾いた音を立てる。
「この印は、お前が持っていろ。私は――」
劉備は振り返り、関羽と張飛を見た。
「我らは、原野に出る」
張飛が笑い、関羽が静かに頷く。
安喜の民は、誰一人として声を上げなかった。
ただ、深く、深く頭を下げた。
その背を、劉備はまっすぐに受け止めた。
こうして、劉備は官を捨て、義のために生きる道を選んだ。




