17.江東の虎と安喜の義、怪異迫る乱世の幕開け
冀州から遠く離れた江東の地にも、異形の噂は届いていた。
黄巾賊が各地で暴れ、戦が起これば必ず“何か”が現れる――そんな不気味な風聞だ。
孫堅は、行軍の最中に駆け込んできた村人の訴えを聞いた。
「孫堅様! 村が……黄巾と、得体の知れぬ怪物に……!」
孫堅は眉をひそめた。
「怪物、だと?」
「はい! 人の形をしているようで……子供のようで……死体に群がって……!」
兵たちがざわめく。
だが孫堅は、わずかに口角を上げた。
「面白い。行くぞ」
馬に飛び乗ると、部下が追いつくより早く駆け出した。
「孫堅様、単騎は危険です!」
「遅れるな!」
その声は、戦場を切り裂くように鋭かった。
----
村の外れに着いたとき、異形の群れが見えた。
黄巾賊の死体に群がり、骨まで喰らうようにむさぼっている。
孫堅は馬を止め、目を細めた。
「……なるほど。噂どおりだな」
異形は人の子のような姿をしている。
だがその動きは獣じみており、目には理性の光がない。
孫堅は剣を抜いた。
「俺が先に行く。続け!」
馬腹を蹴り、ただ一騎で群れへ突っ込んだ。
異形が一斉に振り向く。
その瞬間、孫堅の剣が閃いた。
一体、二体、三体――
斬られた異形は悲鳴も上げず、ただ崩れ落ちる。
「孫堅様、援護します!」
後続の兵が駆け込んできた。
「怯むな! こいつらは戦うための兵ではない。死肉を喰うだけの獣だ!」
孫堅の声に、兵たちの士気が一気に上がる。
異形は数こそ多いが、統率がない。
ただ群れ、ただ喰らうだけ。
孫堅は斬り伏せながら、冷静に観察していた。
「……生きている者より、倒れた者に集まるか。やはり“戦を喰らう”怪異だな」
やがて、最後の一体が槍に貫かれた。
村に静寂が戻る。
兵の一人が息をつきながら言った。
「孫堅様……思ったより弱いですな」
孫堅は剣についた血を払った。
「弱いからこそ厄介だ。戦が続けば、いくらでも増える」
その目は、遠くを見ていた。
「冀州では曹孟徳が異形を討ったと聞く。涿郡には神の旗を掲げる義勇軍もいるらしい」
兵が驚いたように顔を上げる。
「文台様、まさか……」
孫堅は笑った。
「戦乱が広がるほど、怪異も増える。ならば俺が斬り払うまでよ」
江東の虎と呼ばれる男の声は、迷いなく響いた。
----
劉備が張角の最期を官軍に報告すると、宮廷からは中山国・安喜県の県尉を任じられた。
涿郡から安喜までは徒歩で二、三日、馬なら一日半ほどの近さであり、廠の軍とも行き来できる距離である。
赴任した劉備は、まず役所に座るよりも先に、民の声を聴くことに心を砕いた。
荒れた村を歩き、井戸端に集う老人に耳を傾け、畑に立つ農夫に言葉をかけ、子どもたちの遊ぶ姿を見守る。
「まずは、この地の息づかいを知らねばならぬ」
そう語る劉備の姿に、安喜の民は次第に顔を上げ始めた。
異形の正体を突き止めなければ、この世界に平和など訪れはしない。
劉備も、関羽も、張飛も、それを痛いほど理解していた。
黄巾の乱の戦場で見た“あの怪物”は、戦そのものに引き寄せられ、死者を喰らい、混乱を増幅させる。
放置すれば、いずれ天下を呑み込む災厄となるだろう。
だが――。
「まずは、民だ」
劉備はそう言って、安喜県に赴任したその日から、役所に籠もることをしなかった。
涿郡から安喜までは馬で一日半。廠の軍とも行き来できる距離である。
それでも劉備は、軍勢を動かす前に、荒れ果てた村々を歩き、倒れた家屋を見上げ、
井戸端に集う老人や、畑に戻れず困り果てた農夫たちの声に耳を傾けた。
「異形を討つのは、いずれ必ずやる。だが、民が立ち上がれぬままでは、戦う土台すら築けぬ」
関羽は黙って頷き、張飛は腕を組んで鼻を鳴らした。
三人とも、戦うことよりも難しい“復興”の重さを知っていた。
劉備は、壊れた橋を修繕するために兵を派遣し、
飢えた村には廠の軍からの援助を取り付け、
孤児となった子どもたちには、読み書きを教える場を作った。
戦乱の爪痕が深いほど、劉備の足は止まらなかった。
やがて、安喜の民は口々に語るようになる。
「劉備様は、戦の英雄ではなく、我らのために動いてくれる人だ」
「黄巾の乱で疲れ果てたこの地に、ようやく人の心を持つ役人が来た」
その噂は、隣郡へ、さらに遠くへと広がっていった。
こうして、劉備の名声は静かに、しかし確実に轟き始める。
----
安喜に劉備が県尉として赴任してきたころ、廠の名はすでに冀州から遠く離れた地にまで届いていた。
張世平の商隊が扱う馬は、どれも精悍で、戦場で異形を蹴散らしたという噂までついて回る。
「異形すら退ける大商人・張世平の馬」
そんな触れ込みが各地で囁かれ、商売は空前の繁盛を見せていた。
もちろん、その噂の半分は織が軍資金を集めるために巧みに流したものだ。
だが、残りの半分――廠が実際に異形を退けたという事実は、誰も否定できなかった。
廠は、冀州で命を救ってくれた劉備のことを忘れていない。
安喜の民が黄巾の乱で疲弊していると聞くと、張世平の商隊を通じて、馬や資金、食糧を送り届けた。
「恩は返す。あの人は、返すに値する人だ」
廠はそう言って、涼しい顔で荷を積ませた。




