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今度は三国志の真っ只中にいます  作者: 水原伊織


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16/19

16.戦を喰らう怪異、そして帰還の夜

曹操は、冀州で“異形”が発生したという報告を受けていた。


潁川に敷いた陣へ、密かに放っていた間者が戻ってきたのだ。

報告は一つではない。

冀州のみならず、人が争う場所には必ず異形が現れ、倒れた者の死体を喰らい尽くすという。

そのため黄巾賊は官軍に討たれるよりも早く、異形に喰われて自然と数を減らしていった。


曹操は報告書を静かに閉じ、短く息を吐いた。


「……戦の趨勢すら変える怪異、か。張角の妖術ではないな」


その目に宿るのは恐怖ではなく、鋭い興味と警戒だった。


傍らには夏侯惇が控えている。

「殿、涿郡より――神の旗を掲げた義勇軍らしき一団が、冀州の張角の本拠へ攻め込んだ模様です」

「義勇軍だと。劉備以外にもいたのか」

「はい」

曹操は劉備の名を知っていた。

関羽・張飛という剛勇を従え、各地を転戦している。その名声はすでに広く響いている。

曹操は脇に控える間者へ視線を向けた。


「調べておけ」


間者は深く頭を下げ、幕舎を出ていった。

その入れ違いに、伝令が駆け込んでくる。

「異形の群れが、現れました!」


曹操は立ち上がった。

「夏侯惇、行くぞ」

「はっ!」


二人は幕舎を出ていった。


----


異形というが、数が多いだけで、奇怪な子供が群れているようにしか見えない。

眼前の原野にひしめいていた。


曹操は、剣を高く掲げた。

「みな、恐れるな。人を喰うと言うが、あいつらが喰らっているのは兵ではなく、弱い人間だけだ」


夏侯惇は、傍についている。

「我らの敵ではない、みな続け」


曹操は馬腹を蹴った。


先頭に立ち、群れへと駆け出していった。


----


曹操の号令とともに、官軍は陣形を崩さず進んだ。


盾兵が前に出る。

その背後から槍が突き出される。


異形は数こそ多いが、統率がない。

ただ群れ、ただ噛みつこうとするだけだ。


「押し返せ!」


曹操の声は澄んでいた。


最前列の異形が槍に貫かれる。

血が飛び散る。

だが――悲鳴はない。


倒れた異形は痙攣し、やがて動かなくなる。

その上を、後続が無言で踏み越えてくる。


夏侯惇が斬り伏せた。

「殿、手応えはある!」

「当然だ」


曹操は冷静に群れを観察している。


異形は、生きている者へ襲いかかるよりも、倒れた兵へと集まろうとする傾向があった。


「……やはりだな」

曹操は低く呟く。

「こやつらは戦をするのではない。戦の後を喰らう」


官軍が陣形を保つ限り、突破されることはない。


やがて、最後の一体が槍に貫かれ、群れは静まり返った。


兵の間に、ざわめきが走る。


「思ったより、弱い……」

「噂ほどではないな」


だが曹操だけは、剣についた血を見つめていた。


血は赤い。

肉も骨も、人と変わらぬ。


しかし―斬られる瞬間、一体だけ、確かに笑った。

子供のように。


曹操は空を見上げる。

戦場の上空を、黒い鳥が旋回していた。


「…これは始まりか」


誰にも聞こえぬ声で呟く。

「戦がある限り、現れるということか」


夏侯惇が近づく。

「殿、追撃は?」


曹操はゆっくり首を振った。

「不要だ。敵は兵ではない」


その目は、すでに遠くを見ていた。


----


その夜。


屋敷は、昼の賑わいが嘘のように静まり返っていた。

灯りは低く落とされ、庭の虫の音だけが遠くに響いている。


織の下女として、かすみは隣室に控えていた。

同じ部屋には紅陽がいる。紅仁は、さらに奥の間へ下がっている。


襖一枚隔てた向こうに、主の寝所がある。


----


衣擦れの音が静かに重なった。

低く、囁くような声。


「……織」


名を呼ぶその声音には、戦場では決して見せない柔らかさがあった。

織の息がわずかに震える。

「廠……本当に、無事で……」


言葉はそこで途切れた。

布が滑り落ちる音が、かすかに響く。

長い別離を埋めるように、二人の影が揺れていた。


織の指が、廠の肩にすがる。

戦の傷跡に触れたのか、織の小さな息がこぼれた。


「痛むのでは……?」

「いや…痛みも生きている証だ」


低い声とともに、織が抱きすくめられる。

重なる吐息。

唇が触れ合い、離れ、また重なる。

言葉よりも深い確かめ合い。


夜気に混じる、甘くかすれた息遣いが、次第に間を満たしていく。

織の声が、抑えきれずに零れる。


「…廠…」

それは歓喜でも、羞恥でもなく、“戻ってきた”という実感に震える声だった。


廠は織の名を呼び返す。

強く、しかし壊れ物を抱くように。

灯りが揺れる。

影が重なり、ひとつになる。


やがて、荒かった息はゆっくりと整い、織は廠の胸に額を預けた。


「廠…離れないでね」

「ああ、離れないよ」


静かな誓い。


屋敷の夜は深く、穏やかに更けていく。


戦の記憶も、怪異の影も、今はただ遠い。


再び巡り合えた二人の温もりだけが、確かにそこにあった。

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