16.戦を喰らう怪異、そして帰還の夜
曹操は、冀州で“異形”が発生したという報告を受けていた。
潁川に敷いた陣へ、密かに放っていた間者が戻ってきたのだ。
報告は一つではない。
冀州のみならず、人が争う場所には必ず異形が現れ、倒れた者の死体を喰らい尽くすという。
そのため黄巾賊は官軍に討たれるよりも早く、異形に喰われて自然と数を減らしていった。
曹操は報告書を静かに閉じ、短く息を吐いた。
「……戦の趨勢すら変える怪異、か。張角の妖術ではないな」
その目に宿るのは恐怖ではなく、鋭い興味と警戒だった。
傍らには夏侯惇が控えている。
「殿、涿郡より――神の旗を掲げた義勇軍らしき一団が、冀州の張角の本拠へ攻め込んだ模様です」
「義勇軍だと。劉備以外にもいたのか」
「はい」
曹操は劉備の名を知っていた。
関羽・張飛という剛勇を従え、各地を転戦している。その名声はすでに広く響いている。
曹操は脇に控える間者へ視線を向けた。
「調べておけ」
間者は深く頭を下げ、幕舎を出ていった。
その入れ違いに、伝令が駆け込んでくる。
「異形の群れが、現れました!」
曹操は立ち上がった。
「夏侯惇、行くぞ」
「はっ!」
二人は幕舎を出ていった。
----
異形というが、数が多いだけで、奇怪な子供が群れているようにしか見えない。
眼前の原野にひしめいていた。
曹操は、剣を高く掲げた。
「みな、恐れるな。人を喰うと言うが、あいつらが喰らっているのは兵ではなく、弱い人間だけだ」
夏侯惇は、傍についている。
「我らの敵ではない、みな続け」
曹操は馬腹を蹴った。
先頭に立ち、群れへと駆け出していった。
----
曹操の号令とともに、官軍は陣形を崩さず進んだ。
盾兵が前に出る。
その背後から槍が突き出される。
異形は数こそ多いが、統率がない。
ただ群れ、ただ噛みつこうとするだけだ。
「押し返せ!」
曹操の声は澄んでいた。
最前列の異形が槍に貫かれる。
血が飛び散る。
だが――悲鳴はない。
倒れた異形は痙攣し、やがて動かなくなる。
その上を、後続が無言で踏み越えてくる。
夏侯惇が斬り伏せた。
「殿、手応えはある!」
「当然だ」
曹操は冷静に群れを観察している。
異形は、生きている者へ襲いかかるよりも、倒れた兵へと集まろうとする傾向があった。
「……やはりだな」
曹操は低く呟く。
「こやつらは戦をするのではない。戦の後を喰らう」
官軍が陣形を保つ限り、突破されることはない。
やがて、最後の一体が槍に貫かれ、群れは静まり返った。
兵の間に、ざわめきが走る。
「思ったより、弱い……」
「噂ほどではないな」
だが曹操だけは、剣についた血を見つめていた。
血は赤い。
肉も骨も、人と変わらぬ。
しかし―斬られる瞬間、一体だけ、確かに笑った。
子供のように。
曹操は空を見上げる。
戦場の上空を、黒い鳥が旋回していた。
「…これは始まりか」
誰にも聞こえぬ声で呟く。
「戦がある限り、現れるということか」
夏侯惇が近づく。
「殿、追撃は?」
曹操はゆっくり首を振った。
「不要だ。敵は兵ではない」
その目は、すでに遠くを見ていた。
----
その夜。
屋敷は、昼の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
灯りは低く落とされ、庭の虫の音だけが遠くに響いている。
織の下女として、かすみは隣室に控えていた。
同じ部屋には紅陽がいる。紅仁は、さらに奥の間へ下がっている。
襖一枚隔てた向こうに、主の寝所がある。
----
衣擦れの音が静かに重なった。
低く、囁くような声。
「……織」
名を呼ぶその声音には、戦場では決して見せない柔らかさがあった。
織の息がわずかに震える。
「廠……本当に、無事で……」
言葉はそこで途切れた。
布が滑り落ちる音が、かすかに響く。
長い別離を埋めるように、二人の影が揺れていた。
織の指が、廠の肩にすがる。
戦の傷跡に触れたのか、織の小さな息がこぼれた。
「痛むのでは……?」
「いや…痛みも生きている証だ」
低い声とともに、織が抱きすくめられる。
重なる吐息。
唇が触れ合い、離れ、また重なる。
言葉よりも深い確かめ合い。
夜気に混じる、甘くかすれた息遣いが、次第に間を満たしていく。
織の声が、抑えきれずに零れる。
「…廠…」
それは歓喜でも、羞恥でもなく、“戻ってきた”という実感に震える声だった。
廠は織の名を呼び返す。
強く、しかし壊れ物を抱くように。
灯りが揺れる。
影が重なり、ひとつになる。
やがて、荒かった息はゆっくりと整い、織は廠の胸に額を預けた。
「廠…離れないでね」
「ああ、離れないよ」
静かな誓い。
屋敷の夜は深く、穏やかに更けていく。
戦の記憶も、怪異の影も、今はただ遠い。
再び巡り合えた二人の温もりだけが、確かにそこにあった。




