12.冀州地獄戦――神軍、異形に呑まれる
最前線で廠が槍を振るう中、倒れた黄巾賊の骸の周囲に、黒い染みのようなものが広がり始めた。
地面が脈打つように揺れ、腐臭とも鉄臭さともつかない匂いが風に乗る。
「……なんだ、あれは……?」
最初に気づいたのは、廠のすぐ後ろにいた歩兵だった。
だが、言葉を発するより早く、“それ”は姿を現した。
骸の山の中から、ぬるりと何かが這い出す。
腕のようなものが四本、顔のようなものが二つ、だがどれも“人”の形をしていない。
異形の群れだった。
「ひ、ひぃぃぃっ!!」
「やめろ! 来るな! 来るなぁぁ!!」
黄巾賊たちは、敵であるはずの神軍ではなく、
自分たちの足元から湧き出した異形から逃げ惑った。
だが、逃げ切れる者はいなかった。
異形は、倒れた賊徒の身体に群がり、まるで飢えた獣のように“喰らい始めた”。
肉を裂く音は、戦場の喧騒にかき消されることなく響き渡る。
黄巾賊たちは武器を捨て、四方八方へ逃げ出した。
「やめろぉぉ!!」
「助けてくれ!!」
「なんなんだよ、こいつらぁぁ!!」
だが、異形は逃げる背中に飛びつき、
次々と地面へ引きずり倒していく。
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廠は槍を構えたまま、異形の群れを見据えた。
(……やはり、ここにも出たか)
黄巾賊がどれほど多かろうと、張梁や張宝がどれほど強かろうと、
“異形”の前では関係がない。
乱世を喰らう存在。
歴史を歪める災厄。
廠は歯を食いしばった。
「紅陽! 紅仁! 隊を整えろ!
敵は黄巾賊だけじゃない!」
紅陽が馬上で槍を構え、紅仁が歩兵隊を再び盾の壁に組み直す。
だが、異形は止まらない。倒れた賊徒を喰らい尽くすと、
次の獲物を求めて、ゆっくりと神軍の方へ向き始めた。
黄巾賊は壊滅的な混乱に陥り、戦線は一気に崩れた。
その混乱の中心で、廠は槍を握り直す。
「…来い。お前たちを倒すために、俺はここに来たんだ」
異形の群れが、廠へ向かって蠢き始める。
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異形の群れが、ついに神軍へと襲いかかった。
最初に悲鳴を上げたのは、廠のすぐ右にいた若い歩兵だった。
槍を構えたまま震えていたが、異形の腕のようなものが伸び、胸を貫かれた。
「ぎゃあああああっ!!」
そのまま地面に引きずり倒され、肉を裂く音が、廠の耳に生々しく響いた。
「逃げろぉぉ!!」
「無理だ! 無理だぁぁ!!」
「化け物だ! 化け物が来たぁぁ!!」
歩兵隊は、まだ戦場に出て数日の者ばかり。
異形を見たこともなければ、“人ではないもの”と戦う覚悟もできていない。
盾を捨て、槍を投げ捨て、四方八方へ逃げ出した。
だが、逃げ切れる者はいなかった。
異形は、逃げる背中に飛びつき、喉を裂き、腹を喰い破り、次々と地面へ沈めていく。
紅仁が叫んだ。
「戻れ! 隊列を――!」
だが、その声は誰にも届かない。
恐怖は、命令より速く兵を飲み込んでいた。
廠は歯を食いしばり、槍を振るう。
「来いッ!!」
異形の腕を叩き折り、別の異形の頭部らしき部分を貫く。
だが、倒しても倒しても、黒い染みから新たな異形が這い出してくる。
紅陽の騎馬隊はまだ健在だった。
百騎が隊列を保ち、側面から異形を牽制している。
だが―歩兵隊は、もういなかった。
廠の周囲には、紅仁と、数歩後ろに控える紅陽の騎馬隊だけ。
千を超えていたはずの歩兵は、逃げ惑うか、喰われるか、そのどちらかで消えていた。
紅仁が廠の隣に立ち、血に濡れた槍を構える。
「……殿。歩兵隊は……全滅です」
廠は息を呑む。
だが、目は揺らがなかった。
「分かってる。だが、ここで退くわけにはいかない」
異形の群れが、再び廠へ向かって蠢き始める。
その背後には、砦。
その奥には、張梁、張宝、そして―張角。
廠は槍を構え直し、紅仁は無言で隣に立つ。
紅陽の騎馬隊が背後で槍を掲げ、百の蹄が地面を震わせた。
冀州の戦場は、もはや“軍勢の戦い”ではなく、“生き残りを賭けた地獄”へと変わっていた。




