概要から本文まで、つまりほぼすべて
昨今の世は、正義に満ちあふれている。数多の邪悪が堂々と闊歩していたかつてを知る者としては、隔世の感がある。世の中は確実に、浄化されていると云えよう。
だがそれは、一概によいことと断言することはできぬ。──暴走した正義ほど始末の悪いものはないからだ。何にでも悪のレッテルを貼り、正義の美名のもとに弾圧し、迫害し、葬り去った例は歴史上に幾らもある。中世の魔女狩りが有名であろう。近年にても、ナチ党やソ連共産党による猶太人迫害があった。──その道をふたたびくり返そうとしているのか? と、思うところがないでもない。
そのような歴史上の汚点。その要因として、『無知』と『偏見』が挙げられる。これらは人の心から冷静さと慎重さを失わせ、また恐怖を駆り立て、恐るべき蛮行へと走らせるのである。それも、正義の御旗のもとに!──これほど恐ろしいことはあるまい。誰もそれを表立って咎めることはできぬのであるから。
なにしろ、『正義』なのである。これに逆らうはすなわち、『悪』であることが決定し、次の瞬間から正義によって裁かれるのである。
──云い換えるなら、彼らは自分たちを『悪』だとは思っておらぬ。そもそも、人は悪行を行うに慣れておらぬ。「さあ、今日も悪いことをしてやろう」と考え、これを実行に起こす者はそうはおらぬ。──つまり、自国民を大量に餓死させた同志書記長も、民主化運動を弾圧しまくった独裁大統領も、そして我らが総統閣下と愉快な仲間たちも、『自分は正しいことをやっている』つもりであった。すくなくとも、そう思っていたことは確かであろう。
無知と偏見とは、かくも人を狂わせる。
したがってそれらを解消することは大切である。
偏見を捨て、正しく相手を知り、ようく理解することが──悪行をくり返さぬために必要であると、わしはここに断言する。
以上の点を踏まえた上で、本題に入る。
昨今の世は、正義に満ちあふれている。『悪』とされるものは皆ことごとく、表に出ないようになった。──その、『悪』とされるものには、エロ、グロ、ゴア、といったものが含まれていることは動かしようのない事実である。
このような変化は、じつに急速なものであった。──わしが小学生の頃は、おそらくストリップ小屋であろうと思われる、裸の姉ちゃんの写真がデカデカと描かれたカンバンがそこらに普通に立っていたものであった。家にかかっているカレンダーにも、浅野ゆう子の裸の写真が載っていた。
ビールの広告ポスターと云えば水着のグラマー姉ちゃんと相場が決まっていたものであった。沖繩旅行のポスターも同様。ハワイやグァムやサイパンもそうだ。蒼い空、広い海、白い砂浜に日焼けしたビキニの姉ちゃん。ああ〜、たまらねぇぜ。
この時代はレンタルビデオ屋が各地にできていった頃で、それに伴ってアダルトビデオも普及していった。それらの通信販売広告が、新聞に折り込まれていたものであった。『みちゃあだめ』だの、『女教師むせび泣き』だののタイトルは今でも覚えている。──視聴したことはないが。なにせ四半世紀以上前の作品だ。今となっては探して手に入れることは困難である。
新聞と云えば、スポーツ新聞にはエロ記事がつきものであった。学校の文化祭の準備や図工の授業などで家から新聞を持ってくることがあったが、スポーツ新聞のエロ記事を、先生の眼をぬすんでよく読んでいたものだ。──まあ朝の電車に乗れば、おじさんたちが広げて読んでいるのを堂々と見ることができたわけだが。
宮沢りえの写真集である『サンタフェ』が話題になったのもその頃だ。シブ柿隊のもっくんも陰毛を見せた裸の写真集を出していた。当時は陰毛が解禁された頃であったからだ。──それ以前の本邦では、陰毛を見せることは禁忌であったのだ。
逆に云うと陰毛が映っていないものは、性器さえ映っていなければOKであり、それ故にスコーピオンズの『狂熱の蠍団』はオリジナルジャケで流通していた。
逆に云うと、陰毛の映っていない裸の写真なぞ、雑誌に幾らでも載っていた時代である。──たしか『写真ボーイ』であったと記憶しているが、外人の親子の全裸写真が載っていたのを覚えている。母親はどう高く見積もっても20代の後半であろう。したがって娘のほうはひと桁である。
「児童ポルノじゃねぇか!」との声はもっともである。今現在の基準では、そうである。揺らぎようのない事実である。──しかし当時、そのような基準なぞなかった。一般書店で堂々と売られていたわけであり、また、分類としてもポルノではなく、『芸術品』であった。
先ほどの『サンタフェ』も、分類は『芸術品』である。人体の美しさを写真という手段によって描いたものだ。──裸体の美しさはそれこそ紀元前からずっと続いてきた伝統ある作品であり文化である。『ポセイドン像』など、筋骨たくましいフルチンの彫像や絵画など、教科書にも載っている。──ただ裸体であるだけで、ポルノと断定することはできんのだ。
仮に今現在、『裸体であればアートではなくそれはポルノである』と決定したとしよう。だがそうなったとしても、今までに世に出た裸体作品はポルノとして規制されることはない。──否、『してはならぬ』のである。これは法律に於ける絶対原則が存在するからである。
『法の不遡及』というもので、法律はそれが効力を持ったときから過去へ遡って運用してはならぬのである。──もしこの原則が崩れれば、『後付けで法律をつくり、気に入らない者を逮捕、拘束してしまう』ことができてしまうからである。
また、憲法に明記されている『国民の持つ自由な権利』の侵害にもつながる。行動規範にも大きな混乱が生じる。おおよそ国民というものは法律に基づいて行動するからである。──この混乱はやがて社会全体へと波及し、社会の混乱、及びそれによる治安悪化を招くことにもつながる。故に、この原則は──ごく一部の例外を除き──守らねばならぬのである。
昨今、蔓延しつつある、『いづれ法による規制が行われるであろうから、行動をつつしめ』という論は、この原則を脅かしかねぬ危険性を孕んでいる。各々方が個人でそう思うのは自由であるが、それを他人に強制しはじめると──これは、よくない。社会の平穏すら揺るがしかねぬことにもつながりかねない。断じて、許されるものではない。
先に述べた『暴走した正義』への、第一歩となりかねない。
さて、児童ポルノという言葉が出てきたが、そもそも、ポルノとは、何か?『芸術品』とはどのように区別されるのか? されるならばその分水嶺は、どこか?
法的には、『その内容がいたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの』との定義がある。法治社会に暮らす文明人たる我々は、これを基準とすべきであろう。
しかしながらこの基準は、『曖昧』とも云えるもまた事実。『普通人の正常な性的羞恥心』とは、いかなるものか? 何をもって普通人となすのか。──誰もが皆、己を普通人と信じており、正常な性的羞恥心を持っているものと自認している。たとえ傍から見れば狂人の、異常性欲者だとしても! そもそも、何をもって普通と異常を区別するのか? まず、普通とは何か?
このような場合に基準とするは、『判例』を見ることであろう。裁判に於ける結果が、後の判断基準となるわけだ。──しかしながらこれにも、首を傾げざるを得ぬところがある。
我が国に於けるポルノ──すなわち『猥褻物』の基準を定めた判例としては、いわゆる『チャタレイ事件』が代表的なものである。デビット=ハバート=ロレンスの書いた『チャタレイ夫人の恋人』という小説が、裁判により猥褻物であると認定された、一連の騒動のことである。
結果としては、猥褻であると認定された箇所を削除、または伏字にすることにより出版は継続されたが、今現在はすべてを記した完全版が出ている。よって、いかなる箇所が猥褻と判断されたかを知ることができるのであるが──
その判断には、正直、首を傾げざるを得ぬのである。
ここに、わしが一部を引用す。読者諸兄も己の眼と脳髄で判断してほしい。
“「おめえ、いいケツしてるなあ」と彼は、喉にかかった方言で、いとおしむように言った。「おめえみたいなケツは見たことがねえ。こんないいケツの女はいねえよ!こりゃ、間違いなく女のケツだ。間違いねえ。男みたいな固いケツとはわけがちがう。本当に柔らかくって、ふくよかで男好きがするなあ。このケツなら世界だって止められるよ。」”
──どうであろうか? 確かに、言葉は乱暴である。しかし方言なのであるから、妥当な訳と思われる。下品な物云いやもしれぬが、しかし褒めているのだ。夫人のケツを。この者がやたらケツにこだわる者というは、よくわかる。
しかし、これが発禁にされるほどの猥褻な表現か? と問われれば、おそらく大半の読者諸兄は首を傾げるのではあるまいか。「果たしてこれが、普通人の正常なる性的羞恥心を害するものなのか?」と。
『善良な性的道義観念に反する』かどうかも疑わしい。そのような箇所がないわけではないが、その箇所は『削除されなかった』からである。──主人公と夫人とはいわゆる不義の仲、今風に云うと不倫関係にあるのだが、このふたりは正式に結婚することを望んでいる。だが彼女らを不義の関係としているのは、この物語の敵役クロフォード卿であり、彼は離婚を望んでおらず、しかしお家の後継者が欲しいため(卿は性的不能者である)、彼女らの不義関係を奨励しており、正式な結婚をむしろ妨害しまくっているのである!
こうなると判断を下した裁判官の性的道義観念を疑いたくなってくる。彼らは普通人なのか? 正常な性的羞恥心を持っているのか? とすら。──彼らは狂人で、裁判所の官舎で暮らすよりもむしろ溝呂木医院の精神病棟で暮らすべきではないのか? 院長と教授がスペイン式決闘をするのを檻の中からフラメンコのリズムに乗せてぴょんぴょん跳ねながら見ていろ。
そもそも、これは『小説』である。挿絵がなければ『単なる文字の羅列』にすぎぬ。特定の文字の組み合わせで『猥褻』となるか否かが決定するは、おかしなこととも思える。──そもそも、読めるのか? ちょいと古風な文体で、改行がすくないだけで「読みにくい」などと声の上がる昨今で……
──ではもうすこし直接的にわかる、絵画や映像といったものに話を移そう。絵画の中には裸体を描いたものは幾つも存在す。その中にはエロスを感じさせ、見る人に性的興奮を覚えさせるものも存在するのである。
果たしてこれら芸術品と、猥褻物との差はどこにあるのか? 明確な分水嶺はいづこにありや?
──ある意見にては、『アートとは高揚感と美しさを目的につくられたもの』にて、『ポルノとは興奮と欲望とをかき立てるためにつくられたもの』とされる。
これまた曖昧にも思える。──しかしひとまずこれを基準として、考えてゆこう。
くり返しになるが、裸体の美しさは芸術である。無論、着衣の人体にも美しさは存在す。何に美を見出すかは、作者の、そして見る者の感性によってそれぞれである。丸々と太ったハゲおじさんをかわいいと認識する人もおれば、カリッカリに痩せ細った白髪を振り乱したおじさんに美を感じる者もいよう。そして、二次性徴前の少年少女に見る者も。
なにも、成人した、グラマー巨乳姉ちゃんだけが美の対象と限らないのである。ただ割合が大きなだけだとも云える。
このように、何に美を見出すかは各々によって差が出てくる。性的興奮に対しても同じことが云える。──特殊な性的嗜好を持った人に向けられたポルノは、大多数の一般人……法的に云うと『普通人の正常な性的羞恥心』に照らし合わせてみると、何らの性的刺激も与えぬ、またはそれに近しいものが存在するのである。
その点を、映像に於ける例を挙げて述べる。大きなアダルトビデオ店に行けば、実に多種多様なジャンルが存在することがわかろう。──その中でも特に極まったもの、おおよその一般人にはエロを感じられぬであろうものを。
ひとつは、金髪の、黒の上着を着て青いジーパンを穿いた姉ちゃんが自動車を運転している。その自動車のタイヤがぬかるみにはまり、空転して出られなくなってしまった。──車から出てああでもないこうでもないと、ひたすらに姉ちゃんが困り果てている。
──これだけである。自動車や姉ちゃんは次々に別な個体が出てくるが、基本的にタイヤをはめて困るだけ、その様子が延々と映し出されるだけである。裸にもならぬ。上着すら脱がぬ。
脱がぬと云えば、こういうものもあった。カッパ──頭に皿を乗せた妖怪の『河童』の着ぐるみを着た姉ちゃんが、川の中でひたすらにきゅうりを洗っているだけのもの。裸にはならぬ。映像の中で着ぐるみを脱ぐことは一切ない。──あってたまるか。脱いだ瞬間にカッパではなくただの人間となり果てるのだから。
他にも、ハイヒールでコンピュータやスマートホン、タブレット端末といった電子機器を踏み潰し、或いは踏み割るだけ、といったものもあった。
いづれも、裸体など一切出てこぬ。ばかりか──いわゆる、『性的な絡み』のシーンは絶無である。踏み割るやつなど、人体と呼べるものは足しか出てこぬ。
まるでソビエトあたりの前衛芸術作品であるが、これらはれっきとしたアダルトビデオとして、一万円近く、或いはそれを超える高値で売られていたのだ。
芸術、そう、芸術品である。そのへんを歩いている人間を無作為に捕まえて視聴させ、ポルノかアートかを問えばおそらく8割から9割はアートと答えるであろう。──しかし前述の基準に当てはめると、これらのビデオはポルノとしてつくられているので、ポルノということになってしまう。
故にこの基準も、曖昧なものと云わざるを得ぬ。明白で明確な絶対的な判断基準とは呼べぬのではないか。
そもそも、人の性的羞恥心や性的興奮対象なぞ多種多様である。必ずしも若く美しい(とされる)女性ばかりが対象となるとは限らない。いわゆるブス専と呼ばれる人もかなりの割合で存在し、幼児など二次性徴前の少女にしか性的興奮を覚えぬ者もいる。逆に、熟女──どころか老婆が対象となる者もいる。『老婆の休日』といったビデオもでているばかりか、『超熟パスコ』 などと銘打ったカンバンを掲げて老婆ビデオを並べたコーナーがつくられていたほどであるのだから。──ホモビデオに関しては、今更語るほどのことでもあるまい。淫夢やガチムチビデオなどは、今や世界中に広まっているのであるから。
対象は人間とは限らない。犬、馬、牛、ヤギ──果てはワニすら男優、或いは女優として出演しているビデオは幾つも存在す。そればかりか非生物すら対象である。
シリコンドールや空気人形の話とは限らぬ。エッフェル塔や東京タワーといった建造物すら性的対象となっているのだから。──そうした人たちの性的羞恥心を害するを防ぐため、巴里を映した写真からはエッフェル塔にぼかしやモザイクをかけろとでも云うつもりかね? 莫迦じゃないのか? それともこんな卑猥な建造物をおっ立てた街は燃やしてしまえと云うのかね? ワーッハッハッ、ハイルヒットラー! 巴里は燃えているか?
ヒットラーと云えば自動車好きで知られているが、自動車を性的興奮の対象とする者も多い。昨今は『ドラゴンカーセックス』が有名であるが、なにも魔龍だけが自動車を性の対象とするとは限らぬ。人間が攻め役だったり、受け役だったりもする。──そのような人たちに配慮して、自動車はポルノだとしてモザイクをかけるのか?『バニシングin60』や『トランザム7000』といったカーアクション映画なぞまるで前田VSアンドレの試合のように画面がモザイクで埋もれてしまうことであろう。
これは、よくない。性的羞恥心を害するからといって、それを不快に思う人たちに配慮して規制をかけていると、どこまでもキリがなくなるのだから。
──「そんな一部の異常性欲者に配慮なぞする必要はない」という意見もあるだろう。なるほど、もっともな意見である。しかしここを突き詰めてゆくと、『果たしてその線引きをどこで行うか?』というところへ行き着く。
昨今は、性的少数派への配慮が叫ばれている。これを正しいとするならば、上記の特殊な性的嗜好──自動車や鉄塔が対象となるものも含めた──へも配慮をすべきであると考えるが妥当であろう。
何故ならば、昨今叫ばれている配慮とは、『かつて異常性欲者と呼ばれて差別されていたことへの是正』であるからだ。同性愛を例にとると、『脳髄や精神の病気である』とされており、『治療すべし』とされていたのであるから。
こうした性的少数派に対し、過度に特権を与えよとは申さぬが、すくなくとも同列に扱うべきと考えるは、平等を良しとする今現在にては当然のことにあろう。──そこに何らの問題はないは、明白であると思われる。
と、すれば、異性愛も同性愛も、動物性愛や鉄塔性愛といったものと同列に扱うものとするが当然の考えにあろう。すべての性愛は平等と考えるならば。
その考えに基づけば、『すべてのポルノは解禁されるべき』か、『すべてをポルノとみなして規制するか』の、極端な考えに行き着くであろう。
無論、このような極端な考えは受け入れられまい。──近代法はそうしたことも考慮に入れており、云わば微調整を行う機能を有している。いわゆる『公共の福祉』というもので、これに照らし合わせて是非を判断しているのだ。たとえば、“公共の福祉の観点からみれば、これは何々の自由の侵害にはあたらない” といったふうに。
──ともあれその『公共の福祉』というものも、極めて曖昧にて、かつ、流動的なものである。これはその性格を考えれば当然のことで、ひとつは、権利の衝突が起きる際の調整を行う性格を有するがためであり、また、『公共の福祉』自体が定められた『法律』が、(民主政国家にては)『国民の意見を代表してつくられたもの』であるからだ。──国民の意見、すなわち『民意』は、時とともに変化する性質をもった、曖昧なものだからである。実際に、過去には猥褻物として規制を受けた『チャタレイ夫人の冒険』も、今では完全版が普通に流通しており、また漫画版もつくられて、『本当は怖いグリム童話』といった、全年齢が購入、閲覧できる雑誌に掲載されている。
この公共の福祉について説明するのはむずかしいが、その運用上──先に述べた例のごとく──憲法にしるされた『何々の自由というものを制限する』ものと考えればわかりやすいと思われる。もうすこしわかりやすく云うと、『他者の権利を侵害するような自由や権利を制限する』ための根拠、或いは基準であると考えればよいであろう。
しかしながら、自由や権利を制限するという強力なものであるがため、その運用には注意を要する。──故に、我が国にては、『法令によってのみ』行うことができる。私企業や我々個人が各々勝手にこれを振りかざして他者の権利や自由を制限することは許されないのだ。
つまり、『幾ら、眼についた看板や広告がいかがわしいからといって、それらが“合法である” 限り、我々は勝手にそれを禁止させたり、取り除いたり、規制を呼びかけるようなことはしてはならぬ』のである。我々が蛮族ではなく、文明人であり、法治国家に籍を置いて暮らしている以上は。『法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない』と、憲法にも書いてあるのだから。
さて、法的なことについての説明ができたと思われるので、いよいよポルノについて深く語ってゆこうと思う。ポルノとアートとを分ける明確な分水嶺は存在せず、その区別は曖昧にて、人々の主観的な意見によるものであると先に述べた。しかしながらその意見、民意による区別というものも法によってなされなければならないとも。
つまりは、『合法であるか否か』が、重要なのである。さらに突き詰めて云うと、世の人々の多数が、「これポルノだろ」と思っていても、それが『合法である』ならば堂々と世にまかり通るわけだ。──逆に、「こんなもんのどこがポルノやねん」と思っていても、それが『違法である』と判断されれば猥褻物として規制される、というが、チャタレイ夫人の冒険の例である。
くり返して云うが、明確な分水嶺は存在しない。ハードロックとヘヴィメタルとをはっきりと区別できぬように。世の中はここから白と黒とに分かれますよというのではなく、明灰白色もあれば暗灰白色もある。限りなく黒に近い灰色たるNATOブラックやタイヤブラックという塗料があるように。
ポルノにも同じことが云える。純然たるポルノにて、ポルノの定義による目的でつくられ、世の大半がポルノと呼ぶものであっても、それすなわち規制、或いは発禁の対象となる猥褻物となるわけではないということを、賢明なる読者諸兄は理解できていることと思われる。
つまり『合法なポルノ』というものは存在す。──と、云うよりも、公に世に出ているものは基本的に合法であり、何らの謗りも受ける云われはないのである。
では合法なポルノとはどういうものなのか?──まずは映像作品を例に挙げてみよう。わかりやすいは、アダルトビデオである。本邦に於いては、モザイクやぼかしにて性器が直接視認することができなければ、まず審査に通り、合法となる。ぼかしやモザイクのないものは、いわゆる『裏ビデオ』とされ、違法となる。これが基本である。
無論、この基本にはずれるものも存在する。『婦人警察官〜罪と罰〜』のように。とは云え、これは猥褻物とされたのではなく、題名から察しのように警官コスプレであったが原因で、軽犯罪法違反でしょっ引かれることを恐れての自主判断という事情がある。これを出していたレーベルは当時はインディレーベルであり、過激な内容の作品をつくっていたからだ。──とは云え、女性刑事モノの遊戯シリーズで婦警コスをしていたのだが……いやこれは本筋とは関係ない脱線にあるがため、話を次に進める。
わかりやすい基準として、モザイクを例に出したが、これはあくまでも我が国にての基準である。海外にては合法品としてモザイクのないものが普通に流通していたりもするのだ。
その例として、映画の話をしよう。──エロ作品、ポルノ映画、或いはピンク映画と呼ばれる作品群が存在する。古くは『日活ロマンポルノ』が有名であろう。これらはアダルトビデオとは区別される。通常の映画と比較してエロ要素がつよい、それに割く尺が長い、油断するとエロシーンが入ってくる、などの特徴はあるが──なんと説明すればよいか。こればかりは現物を観たほうが、文字で読むよりはわかりやすいであろう。
こうしたものは本邦の専売品というわけではなく、海外にも多数存在する。古くは、『ハードコア』などが挙げられるが、わしが高校生の時点で「うわっ古めかしいねや」などと思った作品の話なぞしても仕方がない。個人的には『夜のメイド』だの『背徳令嬢』だのの話をしたいところではあるが──そこはこらえて、もうすこし新しくわかりやすい例を挙げよう。──いわゆる、『エロパロ作品』を。
昨今にては、『オッパイダーマン・モンデカミング』や、『ハメンジャーズ・エーチチモムウルトロン』などが知られている。すこし時代を遡れば、『エローポッターとヴァギナガンの囚人』だの、『パイパニック』だの、『フェラストガンプ〜一股一毛〜』といったものがあった。
この中で、『パイパニック』の話をしよう。これはあくまでも邦題にあって、原題は『BITANIC』である。「男もいけるしな」の、バイセクシュアル──俗に云う『二刀流』だの『両刀使い』の、バイである。故に男同士のまぐわいが劇中に存在す。ディカプリオ風の男と、フレディ(エルム街ではなくマーキュリー)風の男との濃厚なるまぐわいは一見の価値がある。
『パイパニック』の名で流通している日本版は修正が入っているが、海外版──と云うよりもオリジナル版は無修正である。向こうではぼかしやモザイクをかける必要がないからだ。『ディカプリオ風の兄ちゃんのケツにずるずるっこんでやる」様子がしーっかりと映し出されているのだ。ああ〜、たまらねぇぜ。最後にはウィンスレット風の姉ちゃんともつながり、そして船は氷山に激突し沈んでゆく……
しかしこれは、裏ビデオではない。れっきとした映画なのである。ピンク映画という括りにはなろうが。──しかしピンク映画ではない、いわゆる『普通の映画』とされるものにも、モザイクのかかっていない、性器が視認できるものは幾らもある。
それは日本版も例外ではない。かの『エアロスミス』のヴォーカル、スティーヴン=タイラーの娘が出ているフランス映画の『魅せられて』には、全裸で日光浴をしているじいさんのちんぼがしーっかりと映っているのだ。DVD版はどうかは知らないが、すくなくともVHS版はそうであった。
フランス映画と云えば、芸術性で知られている。しかしながらこのようにモザイクなしで性器や陰毛の類が映っていることが、わりと、よくある。──古くは、『小さな惡の華』で、当時14歳の女の子の腋毛や陰毛が映っている。着替えシーンもあるぞ。その筋の趣味の人にはたまるまい。
『エコール』も、その筋の趣味の人にはよく知られた映画だ。6歳から12歳の少女たちを取り囲む怪しく妖しい世界──同じ原作からつくられた『ミネハハ』と比較すると、美しくも重苦しい独特の感じを受ける映画だ。バレエ寄宿舎のような、一種の『学校』を舞台とした作品であるが、少女たちは全裸で柩の中に入って『入学』し、『卒業』するまで外に出ることはない。
直接的に性的な描写はないが、先に述べたように全裸シーンは存在し、教官も含めて女性しかいない空間であるためか乙女たちは皆すべて無防備にて、それ故に男性諸兄にはサービスと思われるようなシーンもある。──だがそれはこの映画の本質ではない。これはポルノに非ず。どう見るかはすべて受け取る側の勝手である。
このように自由で開かれた芸術作品にあふれている印象のつよいフランス映画であるが、これらはじつのところ『検閲』の下にある。本邦にては憲法という鉄の掟にてはっきりと禁止されている検閲であるが、フランスには未だに存在しており、その上で許可を得た上でこれらは公開に至っているのだ。
そのような検閲下にあるくせに──いや失礼。しっかりと政府が『これは猥褻物ではなく芸術作品ですよ』と太鼓判を押したにもかかわらず、「これはポルノじゃあないか」という愚民──ああ失礼。盲目にして白痴たる愚かな民──度々失礼。莫迦な民衆の声によって論争が引き起こされ、公開停止、上映禁止、或いは修正版が出されるなどの狂騒が起きたことがあるのだ。
『ベーゼモア』という映画がそれだ。これは先に述べた作品のように未成年の少女が出ているのではなく、ちゃあんと成人した女優が出ている作品なのである。どちらかと云えばその主戦場はポルノ映画であったが──云わば本職とも呼べる。なぜならばこの映画は、セックス・アンド・バイオレンスの極みだからだ。
原作は、『バカな奴らは皆殺し』というドストレートな題名であり、分類としては『俺たちに明日はない』などのクライム映画に属す。好き放題に犯罪をやらかし、因果応報のラストが訪れるやつだ。
暴力描写もなかなかだが、ここで問題とされたは性描写。誘惑して事に及んでその後に銭を奪ってブチ殺すという流れを、主人公の女性ふたりはくり返してゆくのである。
これだけならばほかの映画でもよくあるが、リアルを追求するため本当に事に至っており、まだその様子が修正なしに映し出されている。何なら性器がこれでもかとドアップで映る。
本国フランスにては、議会を巻き込んだ大騒ぎとなった。一般公開からR-15指定に、R-15指定とはなんだけしからん、成人指定にしろと悶着が起き、結果として間をとったかたちで手打ちとしたのかR-18指定となった。大西洋の向こう側のカナダも似たようなもので、遙か豪州にては上映禁止の沙汰が下った。──これは公開から四半世紀経った今にても解除されておらぬ。
英国は幾つかのシーンをカットするという方法で公開された。これは伝統芸能のようなもので、たとえば英国版のカンフー映画ではヌンチャクシーンが丸々カットされているのは香港映画ファンにはよく知られていることである。
──なおドイツやアメリカでは何らの騒動も起きなかった。当時は自由が守られていたのである。
こんなふうであるから、フランスのルールなど怪しいものだ。平気でちゃぶ台返しが行われ、その時その時でルールが猫の眼のようにくるくると変わる。──昨今の児童ポルノをめぐる基準も、こんなことでは非常に疑わしいと思ってしまう。
では、児童ポルノとは、何か?
それに触れる前に、今までに述べてきたものらも含めて、法的にどうかという話を、まとめの意味も込めてしてゆく。──とは申せ、すべてを語れば膨大な数の文字、しかも読みにくい文章で埋め尽くされるがため、できるだけ簡潔に述べる。説明不足の感は否めぬが、しかたがない。本来ならば専門的な法学書で述べることなのだから。
よく論争の際に挙げられる言葉に、『表現の自由』というものがある。これは自由権の一種にて、細かく分けると精神的自由権のひとつとされる。自由主義国家、及び民主主義国家にては、特に重要にして尊重されるべき権利となっており、それ故に憲法にしっかりと明記されている。基本的人権のひとつである。
とは申せ、これは必ずしも絶対的無制限なものではなく、先に述べた公共の福祉によってある程度の制約を受けることは先に述べた通りである。──各々が自由を無制限に主張、或いは行使すれば、必ず他の者の自由や権利と衝突を起こすからだ。各々が自由を無制限に行使した、自由すぎる世界は、世紀末的な無法地帯とさして変わらぬものとなり果てる。ホッブズの云う、『万人の万人に対する闘争』とはこのことか。──権利の衝突を防ぐために公共の福祉にて各々の自由を規制し調整をかけるというは、こうした事態を避けるためでもある。
このように公共の福祉とは大切なものではあるが、しかしながら人の持つ、本来尊重されるべき自由及び権利に制限をかけるという強大な力を持つがため、各々が勝手に振りかざし、行使してはならず、正当な手続きを踏んだ後に、法令によってのみなされるべきものであるとは、先に述べた通りである。
この法令というものが、刑法であり、民法その他諸々の法である。これらは規範ではあるが、同時に人の自由を規制するものでもある。──たとえば人間は自由に行き来する権利を当然に有するものであるが、法により他人の土地に勝手に入ってはいけないとされている。刑法にある住居侵入の罪がそれであり、また、伝染病が蔓延した際に於ける感染拡大防止策として、移動制限令が出されたりもしよう。
これらの法律、或いは法規命令は、好き放題に出せるものではない。審議を経た後に議会の承認をもって、などの正当な手続きを経なければならぬ。トンデモ独裁国家ならば必ずしもその限りではないが──しかしそうした国または地域に於いても、大抵の場合は最低限の建前はつけられている。すなわち、『何々から何々を守るため』というもの。この建前を、専門用語で『保護法益』、或いは単に『法益』と呼ぶ。──乱暴な説明で申し訳ないが、簡潔にわかりやすく述べるためである。
たとえば、殺人罪や自殺幇助罪によって定めた刑法の条項。これは、『個人の生命を守るため』である。暴行や傷害、或いは過失致死などは、『個人の身体を守るため』となっている。強制猥褻や、強制性交等罪──今で云う不同意性交等に関しては、『個人の自由を守るため』となっている。なお強盗罪に関しては、窃盗や器物損壊などと同じ、『個人の財産を守るため』である。
先に述べた『チャタレイ事件』などのようなポルノ規制、すなわち猥褻物頒布に関しては意見が分かれており、議論の対象となっている。性道徳や性秩序を守るためとも、社会環境としての性風俗を守るため、とも。中には性犯罪の防止、といった、些か疑わしいものもあるが──いづれにせよ、『社会的な秩序を守るため』というものに分類される。特定の個人を守るためのものとは考えられていない。いわゆる、『被害者なき犯罪』というものだ。
では、児童ポルノに関しては、どうか?
本邦にては、いわゆる『児ポ法』と呼ばれている法律によって規制されているが、この法律の正式名称は『児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律』という。──この法律の第一条に、『目的』として、保護法益が書いてある。それをここに引用す。
“この法律は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害することの重大性に鑑み、あわせて児童の権利の擁護に関する国際的動向を踏まえ、児童買春、児童ポルノに係る行為等を規制し、及びこれらの行為等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置等を定めることにより、児童の権利を擁護することを目的とする。” と。
長ったらしいが、これは拡大解釈を避けるためであるから致し方ない。第三条にもそう書いてある。──簡単に述べれば、『児童を人権侵害から守るため』である。三条の文言を借りれば、“児童に対する性的搾取及び性的虐待から児童を保護しその権利を擁護する” のが目的である。
先にも述べたが、三条には拡大解釈の禁止が明記されている。ふたたび引用すると、“この法律の適用に当たっては、学術研究、文化芸術活動、報道等に関する国民の権利及び自由を不当に侵害しないように留意し、児童に対する性的搾取及び性的虐待から児童を保護しその権利を擁護するとの本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあってはならない。” とのことである。
拡大解釈の禁止は、今現在では当然のことである。──かつて、本来は読んで字のごとくに国内の治安を守るためにつくられた『治安維持法』が、拡大解釈によって濫用され、多数の不当な逮捕者や投獄者を産んだことへの反省からなされたことだ。我々はこのことをしっかりと記憶せねばなるまい。
無論、類推解釈も禁止である。『特別刑法』に属するからだ。刑法の一種である以上、類推解釈は許されない。
以上の点を踏まえて、条文を読んでゆくと、この法律が対象としているは、『実際に存在する児童』であることがわかる。当然のことだ。保護法益は児童の権利なのだから。
つまり、『現実には存在しない児童』は、そもそも『適用範囲外』である。小説にせよ絵にせよ、それらが現実に存在しない限りは、児童ポルノ法の対象外なのである。これは揺るぎないことだ。
とは申せ、現実には、エロ漫画、或いはそもそもエロですらない漫画やイラストを対象に、「これは児童ポルノだ規制しろ」などと声高に叫ぶ輩が見受けられる。──甚だ失礼ながら、これらは『法を理解していないどころか碌に条文も読んですらいない、いよいよもって愚かな者』と、断言せざるを得ぬ。第三条をようく読んでみよ。『この法律の適用に当たっては、学術研究、文化芸術活動、報道等に関する国民の権利及び自由を不当に侵害しないように留意し、児童に対する性的搾取及び性的虐待から児童を保護しその権利を擁護するとの本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあってはならない』のだ。
もしも、そうした──漫画やイラスト、或いは小説といった、現実には存在しない児童を描いた作品を規制するとするならば、それは児ポ法ではなく、刑法175条に於ける『猥褻物頒布等の罪』にあたるかどうかを問うのが妥当である。──無論、それが猥褻物であるか否かを決めるは裁判所にあって、先に述べたような野生の──失礼、市井の輩ではない。
彼ら、或いは彼女らのお気持ちは、何らの判断基準にはならぬ。──正確にはならぬわけではないのだが、しかし直接的判断基準にはならぬのは確かなことだ。判断基準としたいならば、各々が好き放題勝手にわめくのではなく、その是非を訴訟にて司法に問う必要がある。
或いは話し合って意見をまとめ、国民の代表たる議員に届けるという手順を踏むか。──我が国は民主主義国家だからな。現行法が不充分だと考えるならば、改正を望む声があるというを伝えるべきだ。決して、碌に考えも練りもしてない、ただのお気持ちで直接変えようなどと考えてはならぬ。そうした考えは、冒頭で述べた『暴走した正義』につながるのだ。
何故か?──実際にお気持ちによっておかしな方向へと舵を切った例があるからだ。ナチ党やソ連もそうであるが、そのような半世紀以上前まで遡らず、昨今にても。──それも、議員らによっての例が。
そもそも議員とは、『国民の代表』である。国民が愚か者であれば、必然的に議員らも愚か者となる。──「最近の議員は莫迦ばかりだ」という意見が巷にあるが、それは、「自分らは莫迦ですよ」と宣伝しているのと同じであることを知らねばならない。
そしてもうひとつ。議員は絶対的権力者のように思われているが、実のところその生殺与奪の権は他者に握られている。──誰あろう国民に。選挙という手段にて選ばれる以上、票を入れてくれる者には頭が上がらぬ立場なのだ。
このふたつの性質が絡み合い、起きた事例を語ろう。
先に述べたように、我が国に於いては実在の児童を守る児ポ法と、実在しない児童をも含む場合のある刑法の猥褻物頒布等の罪とは、別のものと考えられている。児ポ法第三条に書いてあるように、拡大解釈や濫用は避けるべき、とも。──しかし海外に於いてはこれらを混同した運用がなされている国もある。
カナダがそうで、実在しない児童を描いたアニメや小説すらも児童ポルノと認定され、表現の自由を著しく侵害しているがまかり通っているのだ。
このような事態に陥ったが、議員がお気持ちに流されたというを理由とするのだ。──そもそも、カナダに於ける児童ポルノ規制法の成立に至っては、拙速であった感が否めぬ。たかだか数週間の審議のみにて、練りの甘いままに議会を通過したのだ。
無論、反対の声はあった。反対派、或いは慎重派の議員からは、「この法律は憲法違反の可能性が高い」との声が上がった。──だが議会を、国全体を覆う正義のお気持ちによって、これらの声は押し流された。──この時、賛成派の議員から出た発言を忘れてはならぬ。「なぁに、違憲なら裁判所の判断が出てから修正すればよいさ」との。
その結果が、あの慘状である! エロ漫画家やエロ小説家が逮捕されるはおろか、「過去に性的虐待を受けた者が書いたエッセイ」までもが規制対象となった。果ては、『ヘンゼルとグレーテル』すら、児童ポルノだとして訴えられたのであるから、まことの気違い沙汰だ。
我が国にとって、これは対岸の火事ではない。その火は確実にこちらに燃え移っているのだ。
読者諸兄の中には、自分でも小説を書く同志諸君もおられようが、とある小説の挿絵を描いていた者が『未成年との不同意性交を行った疑い』にて、挿絵の仕事を降りるに至った事件を知っていよう。──この、『不同意性交の罪』とは、かつての強姦罪のことだ。この改正に至る経緯にて、お気持ちにより議員が流されるに至ったのだ。
事は、この罪に於ける未成年者の年齢引き下げの件にて起きた。議会に於ける審議よりも前、党内にて意見を出し合って話し合いを行うよりも前の段階、話し合いを行う前に各員の意識を話し合いができる状態までもってゆくための、『勉強会』の段階での話である。
その場にて、ある議員が慎重論として述べた、『たとえば、もしも、50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることにもなりかねない。それはおかしいのではないか』という意見が、問題とされたのだ。
これは、国会に於ける審議の場でなされた発言ではない。その前、さらに前の段階での発言であることに留意すべきだ。党の中で意見をまとめるよりも、さらに前の段階である。──意見をまとめるにはさまざまな意見を出し合うことが大切だ。多数が見落としていたような、落とし穴のような事柄を見つける意味でも、いろいろな視点から見た多様な意見が出されるべき場であることを、皆はよく知っておくべきであった。
しかしながら──無知と偏見とは恐ろしいもので、リアル、テレビ、ネット、新聞、雑誌と、あらゆる場で当該議員に対する非難が巻き起こるに至ったのである。
それは恐るべき狂乱であった。無知と偏見のなした業であった。『自分がやりたいから反対したんだろう』だのという歪んだ見方が、ついには『ロリコン議員』という決めつけに至ったのだから。
無論、無知でもなければ偏見も持たぬ心ある者はこれに立ち向かうべく声を上げた。だが、狂乱の声はあまりにも大きく、また常軌を逸していた。『擁護しているヤツもロリコンだ!』という、レッテル貼りにまで至っていたのだからな!
かくして慎重派の声はかき消され、当該議員は辞職に追い込まれた。──こんなことは、本来あってはならぬことだ。現代に於いてナチ党がよみがえった瞬間であった。
このような狂乱の嵐は、先に述べた挿絵描きの件でも起きていた。──ここで、もういち度確認の意味でしるすは、「当該絵師は、あくまでも『未成年者との不同意性交を行った疑い』のある者」ということである。つまり、『未だ行ったと確定はしていない者』なのである。この点に留意すべきだ。
この、『不同意性交の罪』は、刑法にしるされている。したがってその扱いは刑事訴訟法に従う。──今現在の段階では、刑事訴訟は未だ行われるに至っておらぬがため、被告人ですらない。あくまでも被疑者、容疑者にすぎぬ。
ここに刑事訴訟に於ける原則を述べる。それは、『疑わしきは被告人の利益に』である。疑わしきは罰せず、とも呼ばれる。または、『推定無罪の原則』だ。裁判所にて有罪判決が下るその時までは、『無罪として扱う』のだ。
この原則は、破られた。多くの者が、彼を『やった者』として扱った。先の議員の件と同じく、慎重な意見を述べた者までもが幼児性愛者とみなされた!──ここは本当に近代国家か? まるで中世欧州の魔女狩り村だ。それとも、ナチ党支配下のドイツか? スターリン政権下のソ連か?──いづれにせよ、とても'20年代の日本とはとても思えぬ慘状であった。
このような有様では、いつカナダのようになってしまうかわからぬ。──ばかりか、新たなナチ党の躍進ともなりかねない。冒頭で述べたように、暴走した正義とは恐ろしいのだ。彼らは数多くの悪行や蛮行をやりながら、自分たちは『正しいことをしている』と信じて疑わなかったのだから。彼らと我々との差はないに等しい。誰もが、あのようなことになる可能性を持っているのだ。
そうならぬために、無知と偏見とをなくし、ようく相手を、そして己自身を知り、時には向こう側の立場となって、慎重に考えて事を行う必要がある。
特に猥褻物や児童ポルノといった、人の持つ正義の心を煽り、激しく燃え立たせるものに関しては。──正義の心は大切なものではあるが、そのぶん、暴走すると手がつけられなくなり、大慘事を招きかねぬ。──その時になって、『こんなつもりではなかったのだ』と云ったところで、後の祭りなのである。
そのような破滅的な未来ではなく、よりよい未来に向かって進むための手助けと、この文書がわずかながらでもなれば幸いであるとのささやかな願いをもって、本稿を終える。




