おもて
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
けたたましい電子音が、頭のあたりの空気を震わせる。その不快な音に顔をしかめながら、ぼんやりとした頭で枕元の時計に手を伸ばす。
手探りでボタンを探すが、なかなか見つからない。それを急かすように、アラームの高い音が、途中から聞こえて来た低いぼやぼやとした音と重なって騒いでいる。指の先にようやく感触を見つけて、パチ、とそのスイッチを切った。
午前六時半。汗で張り付いた髪の毛を頬から払いながら、私はゆっくり起き上がった。まだちゃんと開かない目を向けたその先に、ランドセルが置いてあるのを見て、ああ、学校行かなきゃな、と思う。
ふらふらと階段を降りて、ダイニングに向かう。そこでは、いつもの席でお父さんが朝ごはんを食べていた。その隣には、お茶をすすっているおばあちゃんが座っていた。
「あら、おはよう」
おばあちゃんが優しい顔で私に言った。私もそれに答えて、おはよう、と返す。
「おばあちゃん、いたんだ」
この時間におばあちゃんの姿を見るのは、なんだか違和感があった。おばあちゃんは早起きだから、この時間はもう散歩にでも行っている時間だ。心のどこかでむずむずと落ち着かない感覚がする。
「ああ、いるよ」
おばあちゃんがにっこりと笑う。私はそっか、と呟いた。
「あら、おはよう、さつき」
エプロン姿のお母さんが、キッチンから顔を出して言った。
「今日はちゃんと起きてるのね。珍しい」
お母さんは微かに驚いた様子で言った。いつもそんなに遅く起きているわけじゃないのにな、と心の中で投げやりに反論する。
「大体、いつもあの目覚ましのアラーム、うるさいのよね。ちょっとどうにかならないの?」
「そんなにうるさいかなぁ」
私はうわ言のようにぼんやりとした口調で答えた。寝起きだからか、頭がはっきりしない。自分の声が遠くで聞こえているような、手ごたえのない感覚だった。
お母さんは、そんな私を見て、はあ、と大袈裟にため息をついてみせると、早くご飯食べちゃいなさい、と言い残してキッチンに戻っていった。
☆
同じ通学班の、一つ下の学年の女の子に手を振って、私は重たいランドセルに背中を引っ張られながら靴を履き替えた。薄汚い白色の壁に沿って、三階にある教室に向かう。
教室に入ると、もうほとんどの子が揃っていて、みんな仲の良い子達と話したりしていた。私は、学校から一番近い地区に住んでいて、遠くの子よりも班の集合時間が遅い。だから、いつもみんなが集まっている教室に入る。
用具をランドセルから出して、ロッカーにしまいに行く。自分の机に戻ると、その前には、燈子ちゃんが立っていた。燈子ちゃんは、私が戻ってきたのを見ると、にこっと笑って私に手を振った。
「さっちゃん、おはよう」
「うん、おはよう」
燈子ちゃんは、幼稚園に通っていた時からの友達だった。
幼稚園ではいつも、どんな時でも二人で一緒にいたし、小学校に入学してからもそれは変わらなかった。燈子ちゃんは学校から遠いところに住んでいるし、習い事をたくさんやっているから忙しくて、あまり学校の外では遊ばない。だけど、その分学校では本当に仲が良くて、いつも二人で一セットだった。
燈子ちゃんは美人だ。周りよりも大人びた顔をしているし、肌も真っ白だった。そして、誰にでも優しい。だから、すごく人気がある。クラスの明るくて可愛い女の子たちも、仲良くなりたくてよく話しかけている。
でも、その子たちから誘われても、燈子ちゃんはいつも私を選んで仲良くしてくれる。それが、本当に誇らしかった。特に秀でた所のない私の、何よりの自慢だった。
「ねえねえ、さっちゃん」
私が席に着いたのを見届けると、燈子ちゃんは弾んだ声でそう言った。
「突然だけど、さっちゃんってさ、怖い話、好きだったよね」
「うん」
「じゃあ、学校の鏡の前に現れる女の子の話、聞いたことあるよね? あの、この学校の七不思議の」
そっと窺うように、上目遣いで私に聞いてきた。
「もちろん、知ってるよ。有名だよね」
その話は、ちゃんと七つあるかどうかわからないこの学校の七不思議の中では、一番有名な話だった。
学校の北校舎の一階の、昇降口とは反対側の端にある、天井に届くくらい大きな鏡。暗い廊下の端で、僅かな光を鈍く反射しながら私たちの全身を映すそれは、昼間の明るい時間でも不気味だった。賑やかな学校の雰囲気から、そこだけ切り取られたような恐ろしさがある。
その鏡の中には女の子が住んでいて、夜、そこが真っ暗になると鏡の中から出てくるそうだ。
夜中の零時十分にその鏡の前に立って、その女の子と一緒に鏡に映ると、鏡の向こうの世界に引きずり込まれてしまう。
大まかにはそんな話だけど、細かいところは色々な噂がある。その女の子はトイレの花子さんだ、とか、鏡だったらなんでも良くて、自分が持ってる鏡でも、鏡の代わりになるような何かに自分の姿が写るだけでも引きずり込まれてしまう、とか、実は引きずり込まれるんじゃなくて願いを叶えてもらえる、とか。
だから、どれが本当の情報なのかは分からなかった。どれが正しいか、クラスで議論になったりすることもある。
「その話がどうかしたの?」
「えっとね……」
燈子ちゃんは、なぜか言いにくそうにして目を宙にさまよわせた。でもすぐに、私の方に顔を向けると、しっかりと結んでいた口を開いた。
「見に行ってみたいな、って」
その言葉に、私は耳を疑った。
見に行く、って。
いくら七不思議について騒がれたって、実際に見に行った人の話なんて聞いたことがない。それなのに、燈子ちゃんがそんなことをするなんて信じられなかった。
冗談なのかな、と思って燈子ちゃんを見つめ返すと、燈子ちゃんは熱意のこもった顔を、話したくてたまらない、というように私に近づけた。
「あのね、私、その七不思議にはいろんな説があるけど、願いを叶えてもらえるっていうのが一番本当っぽいと思うんだ。今ちょうどお願いしたいことがあって。だから、実際にやってみて、それが本当かどうか確かめてみようって。だけど、やっぱり一人は嫌だから、誰かについてきてほしいなあって思ってるんだけど、こんなこと頼めるの、さっちゃんくらいだから。だから、その」
燈子ちゃんは、不安そうに私の顔を覗き込んで言った。
「さっちゃんに、一緒に来てほしいな」
私を見つめる燈子ちゃんの瞳が、何かに怯えるように弱々しく揺れた。
夜の学校に行くのかぁ、見つかったら怒られるよなぁ、面倒だなぁ。そんなことわざわざしなくたっていいのに。
いくらでも不満の言葉は浮き出てきたけれど、私の口からは、自分でも驚くほどすらりと返事が滑り出した。
「いいよ。一緒に行こう」
それを聞いた瞬間、燈子ちゃんの顔に、ほっとしたような表情が広がった。近づけていた上体を起こして、本当に嬉しそうに、笑顔を浮かべる。
「ありがとう」
うん、と私は頷く。それを見た燈子ちゃんは、もう一度にこりと笑った。でも、すぐにその表情を曇らせた。遠ざけた顔を少し近づけて、私の顔色を窺うように声を出す。
「ねえ、本当は、さっちゃんは鏡の前の女の子、信じてるの?」
「うーん。いるかもって思ってるけど。よくわかんないな」
正直いないとは思っているし、よく聞く噂話なんてきっと誰かが面白おかしく話した作り話だと思っているから、真に受けたことなんてなかった。だけど、燈子ちゃんがこんなに熱心に話しているのだから、と、燈子ちゃんに合わせて曖昧に答えた。
「いるかもしれないのに、怖くないの? 本当に、ついてきてもらってもいいの?」
燈子ちゃんは、なおも不安そうに問いかけてきた。私のことを心配してくれてるのかな、と思って少し嬉しくなるけれど、でもなんとなく、馬鹿にされているような気分もした。私は、さっきまでの受け答えよりも語調を強めて言った。
「怖くなんてないよ。だって幽霊とかって、元々は人間だったり、ただの幻だったりするんでしょ。怖いと思うから怖いだけだよ、みんな」
言ってしまった後で、ちょっと最後の方の言い方は乱暴だったかな、と心配になる。
怒っていると思われちゃったかな、と恐る恐る燈子ちゃんの表情を見ると、燈子ちゃんは驚いた顔をしていた。そのまま、なかなか表情を変えないで黙っている。ヒヤリ、と背中に冷たいものが落ちた。
「あ、ごめん。別に、そういうわけじゃ……」
そういうわけ、とはどういうわけなのか。分からないけれど、私は慌てて手を顔の前で振った。祈るように、私は燈子ちゃんの表情を見つめる。
そんな私を見て、燈子ちゃんは驚いた顔をふっと緩めて息をついた。そして、さっきよりも明るく、やわらかい笑顔を満面に浮かべた。
「よかった」
余程緊張していたのか、燈子ちゃんは力の抜けたような顔をしていた。声も心なしか震えている。でも、その微かな声の揺れの中に、安心と喜びが感じ取れた。




