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妹の身代わりに嫁いだ国で、最愛に出会う

「私は、きみを愛することはない。帝国との同盟の証に、結婚という契約を行っただけだ。きみと契りを交わすつもりはない」


 その声は凍てついた冬の風のように冷たかった。

 ロゼリア・ロワイエは、薄暗い部屋の中で息を殺し、ただじっとその言葉を聞いた。

 

 隣国フェルベーク王国の王子、ルスラン・フェルベークの妻としてこの城に迎えられた、初めての夜。

 豪華な刺繍が施された絹の寝台は、彼女の孤独を際立たせるためにあるかのようだった。滑らかなシーツの感触は、故郷で慣れ親しんだものよりもずっと冷たく、かすかに香る異国の香料が、ロゼリアの孤独を一層際立たせた。


 ルスランは豪華な婚礼衣装を脱ぎ、簡素な夜着を身につけても、その威厳ある姿は揺るがなかった。燭台の炎が、彼の凛々しい横顔を仄かに照らし出す。その銀色の髪は、月光のように輝いていた。


「――ご命令とあれば、従います」


 寝台に腰かけたまま、ロゼリアは視線を落とした。どんなに冷たい言葉を浴びせられても、それが彼女の運命だった。帝国からの花嫁として、この国に嫁いできた。ロゼリアに選択肢はない。


「命令?」


 ルスランは、わずかに眉をひそめた。その表情には不満と、呆れを含んでいた。


「従順だな。そうやってきみは、妹の身代わりとなったのか」


 彼の言葉に、ロゼリアは何も言い返せなかった。返す言葉など、あるはずもなかった。

 ルスランは、興味を失ったようにロゼリアから視線を逸らしながら、ぽつりとつぶやいていた。


「つまらない女だ」


 その言葉は、ロゼリアの胸に深く突き刺さった。


「私の妻となるべきだったのは、きみの妹、ラシェルだった」

 

 彼が何を言っているのかは、嫌というほど分かっていた。ロゼリアの二歳年下の異母妹であるラシェル・ロワイエ。誰もが愛してやまない、完璧な美貌と愛らしさを持つ、帝国の光の公女。


「申し訳ございません。ラシェルは体が弱く、高地にあるフェルベーク王国での暮らしには耐えられないと――」


 ロゼリアがか細い声で言い訳すると、ルスランの表情に苛立ちが見て取れた。


「耐えられない? それが、帝国の言い訳か?  この国を野蛮だと見下し、身代わりを立てる。それが同盟国に対してすることか?」

「…………」


 ルスランは、ロゼリアを通して帝国を憎んでいるように見えた。怒りは、理解できる。だからロゼリアは、黙るしかなかった。

 ルスランは大きなため息をついた。これ以上ロゼリアに言っても無駄なことは、彼も分かっているのだろう。


「今後、公式な場において夫婦としての体面を保つ必要があるときだけ、そのように振る舞う。それ以外で、きみと顔を合わせることはない」


 その言葉を最後に、ルスランは部屋を出ていった。扉が閉まる音が、虚しく響く。


 ロゼリアは、そのまま寝台に横たわり、天井を見つめた。真紅の髪が、純白のシーツの上に散らばる。まるで、血の跡のようだ。


(わたしが、ロワイエ家の娘でなければもっと――)


 ロゼリアの母は、帝国のロワイエ公爵である父が、遠征先で出会った南部の少数民族の女性だった。家門の猛反対を押し切ってまで、父は母を帝都に連れてきたが、好意的でない親族の視線、南部の温暖な気候とはかけ離れた厳しい冬、そして故郷を思う孤独が、母の体を静かに蝕み、出産直後に命を落としたという。

 ロゼリアは母のぬくもりを知ることは叶わなかった。ロゼリアに残されたのは、母と同じ真紅の髪と琥珀色の瞳、そして、その血に流れる魔力だけだった。


 その後、父は家門の勧めで新しい妻を迎えた。父の家門にふさわしい気品ある女性だった。そして、彼女との間に生まれたのが、妹のラシェルだ。


 ラシェルの淡い金色の髪は、まるで光を溶け込ませたかのように輝いていた。宝石めいた紫の瞳は、星を宿したかのように煌めいていた。ビスクドールを思わせる完璧な美貌と、愛らしい笑顔。彼女がそこにいるだけで、その場は華やぎ、周囲の心を瞬く間に虜にした。

 誰もがラシェルを「光の公女」と呼び、惜しみない愛を注いだ。ラシェルが笑えば、召使いは目を細め、騎士はほほえみ、父は顔中の皺を寄せながら慈しむような眼差しを向けた。


 その輝きの傍らで、紅い髪の娘は影のように立ち尽くしていた。父はロゼリアに優しくなかったわけではない。物理的には何不自由ない暮らしではあった。高価なドレスも、贅沢な食事も、家庭教師も、すべて与えられた。だが帝国貴族には少ない、母と同じ鮮やかな紅い髪と琥珀色の瞳をしたロゼリアは、常に異質な存在だった。そして父と継母、ラシェルとの間には、決して埋めることのできない底の見えない深い亀裂があった。


(それでも、何不自由のない生活を送れているのだから)


 ロゼリアはそう自分に言い聞かせ、自分の境遇を嘆くことをやめた。いつか帝国学院を卒業したら、母譲りの魔力を使って独り立ちしよう。それが、ロゼリアのささやかな夢であり、同時に深い諦めでもあった。

 ラシェルのように、皆から愛されることを望むのをやめた時、彼女は心の平穏を見つけた。帝国学院では、公爵家の長女でありながら、ラシェルとは違って愛されていないロゼリアを軽んじる者も多かったが、それでも彼女は気にしないよう努めた。帝国学院の図書館で、母の故郷の文化や魔法について記された古い文献を読み漁るのが、彼女の唯一の楽しみだった。


 十八歳を迎え、帝国学院を卒業する頃、帝国皇帝からロワイエ公爵家に話が持ち込まれた。隣国フェルベーク王国の王子との婚姻だ。

 フェルベーク王国は帝国に属しておらず、山岳地帯にあるため攻め込むのが難しい上、飛竜を操る竜騎士の存在によって独立性を保っていた。帝国では野蛮な国だと見下す声もあるが、それは偏見に過ぎない。数代前に同盟が結ばれ、その証として、帝国の乙女を妻に迎えるという約束をしたのだという。


「同盟を守るため、我が家から花嫁を出すことになった。フェルベークの王子は、ラシェルを望んでいるというが……」


 父の言葉に、ラシェルは顔を真っ青にして、泣いて首を横に振った。


「嫌です、行きたくありません!  あんな野蛮な国、怖い……!」

「そうです、あなた。だいたいラシェルはまだ十六歳です」


 泣き崩れるラシェルの横で、継母も涙を流した。

 そしてため息をついた父が、ゆっくりとロゼリアに視線を止めた。


「ロゼリア、お前がラシェルの代わりに行ってくれるか?」


 その一言で、すべてが決まった。

 胸の奥で、何かが崩れ落ちるような軋む音がした。だが、ロゼリアに反論の権利など最初からなかった。この家を出られるのなら、それでいいのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、ロゼリアは静かに頷いた。


 そして、今、この城にいる。ルスランの冷たい言葉を聞いた、孤独な夜の中に。



 ◆ ◆ ◆



 ルスランは、初夜の言葉通り、彼女を無視し続けた。公的な行事で顔を合わせることはあっても、彼の視線は常に彼女を素通りした。彼の視界に、ロゼリアは最初から存在しないかのようだった。


 フェルベーク王国は、帝国の華やかさとはまるで違う、質実剛健な空気を纏っていた。城下町も、レンガ造りの重厚な建物が多く、人々も帝国の者たちより寡黙に見えた。ロゼリアに気軽に話かけてくれる人間などいない。

 フェルベーク王国では、時折遠吠えのような、力強い音が聞こえてきた。その音の正体が、王国が誇る飛竜だと知ったのは、この城に足を踏み入れた日のことだ。空を舞う漆黒の影は、帝国の空には見ることのできない存在だった。


 ロゼリアは、ただひたすらに耐え忍んだ。孤独は、この国にくる前から慣れていた。心を許せる相手も、心を通わせる話し相手もいない。それでも、彼女は自分の感情に蓋をし、この見知らぬ天井の下で、時が過ぎるのを待つだけだった。ロゼリアは、まるでこの城の片隅に置かれた、意思を持たない人形のようだった。


(傷つくことなんてない。最初から、期待していないもの)


 ある日の午後、退屈を持て余し、城の奥にある中庭を散策した。そこで、地を揺らすような大きな羽ばたきの音と、威厳のある咆哮が聞こえてきた。


 音のする方へ向かうと、そこは飛竜たちの休む竜舎だった。巨大な翼を広げた飛竜が数頭空を舞っている。飛竜の轟くような声は、なぜかロゼリアの胸の奥を心地よく震わせた。

 少し離れたところで見つめていると、一頭の飛竜がロゼリアの方へ首を向けた。警戒する様子もなく、不思議そうに彼女を見つめる。


「……こんにちは」


 思わず囁くと、飛竜は心地よさそうに目を細めた。静かに首を垂れ、鼻先をこちらに近づけるようなしぐさを見せる。


 その様子を見て驚いたのは、近くで飛竜を繋いでいた青年だった。

 長身で、飛竜と同じように漆黒の髪をした彼は、飛竜の鞍を整えていた手を止めた。騎士の鎧ではなく、動きやすい麻の服を身につけている彼は、飛竜の首筋を優しく撫でながら、こちらを見ている。


「驚きました。ヴェルスが、初めて会う人に懐くなんて」

「……ヴェルス、というのですね」

「はい。この子の名前は、ヴェルスです。古の言葉で『力』という意味です」


 彼はロゼリアにほほえみかけた。太陽がいっぱいに降り注ぐ、明るい海のような青い瞳。


「ロゼリア妃殿下ですよね。はじめまして、フィデルと申します。この城で、飛竜たちの世話をしています」


 それが、竜守りのフィデルとの、最初の出会いだった。


「ロゼリア妃殿下は、飛竜に好かれる力を持っているのかもしれませんね」


 そう言って笑う顔は、ルスランとは正反対の温かさを帯びていた。

 ロゼリアは戸惑いながらも、その曇りのない笑みに救われる思いがした。


(……この国で初めて、笑いかけてもらった)


 フィデルの笑顔は、真綿のように柔らかくロゼリアの心に触れた。誰かと向かい合って会話をするのが、こんなにも温かいものだと、彼女は忘れていたのだ。


 その日から、ロゼリアは竜舎へ足を運ぶようになった。飛竜と過ごし、フィデルと交わす他愛ない言葉。それだけで、孤独に凍えた心が少しずつ溶けていく。


 フィデルは決して馴れ馴れしくはなかった。彼女の沈黙を否定せず、無理に笑わせようともしない。ただ、穏やかな眼差しで彼女を見守り、そこにいてくれるだけだった。

 彼の陽だまりのような温かい眼差しに、ロゼリアは初めて、心が解けていくのを感じた。ロゼリアの心の奥底で、忘れかけていた小さな希望の光が灯る。

 時折、彼の笑みにふと目を奪われてしまう自分に気がつき、ロゼリアは慌てて視線を逸らした。胸の奥で、小さな波が跳ねたように心が揺れる。

 ロゼリアは自分の胸に芽生え始めた感情を、恐れるように隠した。他愛もない話をするだけで良かった。飛竜と共にいる彼の姿を見られるだけで、十分だった。



 ◆ ◆ ◆



 ロゼリアの日々は静かに、そして誰にも見向きもされずに流れていった。

 隣国フェルベーク王国に嫁いで、三ヶ月。最初の頃こそ、孤独に苛まれたが、もはやそれも日常の一部となっていた。夫であるルスランとの関係性は変化していない。彼とはほとんど会話を交わすことすらなかった。


 ルスランは、この婚姻を心底嫌っているようだった。ロゼリアは、自身に仕える侍女たちのひそやかな噂話を耳にするたびに、胸の奥が冷えていくのを感じた。彼はずっと以前から、帝国から嫁いでくるのは「光の公女」であるラシェルだと信じていた。だが、ラシェルはこの国にくることを拒んだ。その事実が、ルスランのプライドを傷つけた。彼は、ロゼリアがラシェルの身代わりであることに、深く憤っていたという。ラシェルとは違う、彼女の真紅の髪と琥珀色の瞳は、彼にとって裏切りの証そのものなのだろう。ロゼリアはその視線に晒されるたび、自分という存在が、いかにこの城に不要であるかを思い知らされていた。


 秋の訪れとともに、フェルベーク王国の空は高く澄みわたっていた。乾いた風が肌を撫でる、そんな心地よい季節の空気の中、飛竜たちは力強く大空を舞い上がっていた。

 ロゼリアは竜舎でヴェルスを撫でていた。ヴェルスは大きな瞳を細め、喉の奥で低い音を鳴らしている。その様子はまるで猫のようで、フィデルがほほえましげに見守っていた。


「本当に、この子はロゼリア妃殿下が好きなんですね」

「……わたしも、この子が好きです」


 ロゼリアの言葉に、フィデルは柔らかくほほえんだ。その瞳は、彼女の心の奥まで見透かすかのように優しかった。


「飛竜は、言葉を持たない代わりに、心で会話をすると言われています。ロゼリア妃殿下の気持ちは、きっとヴェルスに通じていますよ」

「そうでしょうか」


 そうであってほしいと、ロゼリアは心の奥で強く願った。言葉を交わしても、心が通じ合えない相手がいる。だからこそ、言葉がなくても心を通わせられるヴェルスとの時間が、彼女にとってはかけがえのないものだった。

 ロゼリアは心地よい気持ちで目を閉じ、ヴェルスに頬を寄せた。


 ――その時、背中に突き刺さるような鋭い視線を感じて、はっと目を開ける。そこに立っていたのは、ルスランだった。穏やかな空気を、一瞬で凍てつかせるようなその存在感に、ロゼリアは息をのんだ。


 相変わらず無表情で、その瞳は氷のように冷たかった。だが、その奥に見慣れない戸惑いの光が揺れているのを、ロゼリアは確かに感じた。


「ルスラン殿下」


 驚いた声を上げ、フィデルが頭を下げる。ロゼリアも慌てて礼をとった。

 ルスランは、ロゼリアの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。


「飛竜と触れ合うことができるのか」

「……はい」

「…………」


 それだけ聞くと、彼は何も言わずにその場を去った。その背中を見送ったロゼリアは、不可解な気持ちに包まれていた。



 ◆ ◆ ◆



 ある日、ロゼリアは初めて、フィデルに自分の過去を話した。

 秋の陽が傾き、竜舎の前に長い影を落としていた。ヴェルスは気持ちよさそうに横たわり、遠くで他の飛竜たちの声が聞こえる。


「母は、故郷から遠く離れた場所で、亡くなりました。わたしは、母のぬくもりを知りません。けれど、その血を引いているからか、この国でも、帝国でもない、どこか遠い場所を想う気持ちが、ずっと胸の奥にあるんです」


 琥珀色の瞳を遠くに向け、ロゼリアは静かに語った。フィデルはただ黙って聞いていた。彼の穏やかな眼差しに見守られ、ロゼリアは言葉を続けることができた。


「それでもわたしは、人形のように、与えられた運命に従うことしかできないんです」


 長年胸に抱えていた重い塊が、言葉となって吐き出され、ほんの少しだけ軽くなったようだった。自分の奥底にある想いを、こうして誰かに話すことができた。その事実だけでも、ロゼリアにとっては初めてのことだ。

 フィデルは静かに、けれど強い意志を込めて首を振った。


「ロゼリア妃殿下は、人形ではありません。温かい心を持っている。そうでなければ、ヴェルスはこれほどロゼリア妃殿下に懐きはしないでしょう」


 彼の言葉は、ロゼリアの心に深く響いた。

 フィデルのまっすぐな瞳に、ロゼリアは戸惑いながらも、抗いがたい安堵を覚えた。拒絶も、嘲りもない、ただ純粋な温かさだけがそこにあった。彼といると、世界が色を帯びていくようだった。


「フィデル……」


 ロゼリアの声が、震えた。

 フィデルは、彼女の琥珀色の瞳をじっと見つめていた。その指先が、ロゼリアの頬に触れようと伸びる。しかし、直前で彼はその手を止めた。一瞬の逡巡。その動きで、ロゼリアは自分が涙を流していることに気がついた。


「泣かないでください。僕もヴェルスも、いつでもロゼリア妃殿下の話を聞きます」


 その優しい声に、ロゼリアは堪えていた涙がとめどなく溢れ出した。誰にも見せないように隠し続けた心が、初めて解放された瞬間だった。

 フィデルは、服のポケットから白いハンカチをそっと差し出した。


「妃殿下に使っていただくには、安物すぎて申し訳ないのですが……きれいですから、使ってください」

「ありがとう……」


 涙ににじんた視界で、そっと差し出されたハンカチを取る。その瞬間、ほんの少しだけ、ロゼリアの指先がフィデルの手に触れた。胸の奥がぎゅっと苦しくなる。いけない――そう思うほどに、彼の存在が心を震わせる。


 ヴェルスが甘えるように喉の奥で低い音を鳴らしていた。



 ◆ ◆ ◆



 竜舎でロゼリアがヴェルスに触れているのを見た日以降、ルスランは自らロゼリアに話しかけるようになった。彼はぎこちなく、ロゼリアがどのようにして飛竜と接するようになったのかを聞いてくる。その質問に答えていると、彼の冷たかった瞳は、少しずつ柔らかさを帯びていくように見えた。

 だが、ロゼリアの心は戸惑っていた。ロゼリアの心はすでに、フィデルへの想いで満たされていたからだ。フィデルとの時間は、彼女にとってかけがえのないものになっていた。彼の優しい眼差し、穏やかな声。それは、ルスランが与えてくれるものとは全く違う、ロゼリアの心を癒してくれる光だった。


 ある時フィデルは、ロゼリアが母から受け継いだ魔力に、ヴェルスが癒されていることに気がついた。そしてロゼリアに、ヴェルス以外の飛竜にも触れることを勧めた。

 ロゼリアがおそるおそる飛竜の鱗に触れると、飛竜は安心したように目を閉じ、優しい唸り声をあげた。


「ロゼリア妃殿下は、飛竜たちにとって、まるで太陽のような存在ですね」


 フィデルは心からの笑顔でそう言った。その声には、一切の偽りがなく、ただ純粋な尊敬と温かさが宿っていた。

 ずっとラシェルの光の傍らで、影のように生きてきたロゼリアに、そんなことを言ってくれる人がいるなんて。彼の言葉に、ロゼリアの胸は熱くなった。


(太陽のような存在は、あなたのほうよ)


 ロゼリアは、抑えきれない感情が胸の奥から溢れ出すのを感じた。彼女の心を震わせる、唯一の光。それは、本当は向けるべきではない、禁じられた感情だ。


 ――その瞬間、二人の間に、凍てつくような低い声が響いた。


「ロゼリア、何をしている?」


 ルスランが、冷たい表情で二人の前に立っていた。ロゼリアは慌ててフィデルから離れ、フィデルはすぐに頭を下げた。


「ルスラン殿下。ロゼリア妃殿下が、飛竜と心を通じ合わせていたのです。ロゼリア妃殿下の魔力が、飛竜を癒すようです」


 フィデルがそう説明しても、ルスランは何も答えなかった。彼の瞳は、ただロゼリアだけを見ている。


「……部屋に戻るぞ」

「――っ」


 ルスランは、有無を言わせぬ力でロゼリアの手を掴むと、そのまま彼女を自室へ連れて行った。その手はまるで鉄のように固く、ロゼリアはただ彼の力に引きずられるしかなかった。


 その日から、ロゼリアは竜舎に近づくことを禁じられた。フィデルに会うことも、彼の穏やかな声を聞くことも、もう叶わない。与えられた部屋で、再び一人になったロゼリアの心には、温かさを知ってしまったからこそ、以前よりも深く、冷たい空虚感が広がっていった。



 ◆ ◆ ◆



 ロゼリアの生活は再び無味乾燥なものに戻った。ただ一人、時間が過ぎるのを待つ日々。

 何度か、窓の外に目をやった。遠くに小さく見える竜舎。あそこに、フィデルがいる。ヴェルスがいる。そう思うだけで胸が締め付けられ、涙が滲んだ。しかし、彼女は決して部屋を出ようとはしなかった。これ以上、ルスランの怒りを買うわけにはいかない。


 そんなある日の夜、ロゼリアはバルコニーに出ると、ぼんやりと夜空を眺めていた。すると、風に乗って、遠くからかすかに笛の音が聞こえてきた。それは、以前フィデルが、飛竜たちを落ち着かせるためだと話してくれた、彼の愛用の笛の音だった。


 懐かしい、優しい音色。その笛の音は、まるで彼女の心に語りかけるかのように、静かに、そして切なく響いていた。ロゼリアは、その音に耳を澄ませる。すると、笛の音はまるで応えるように、彼女の部屋に近づいてきた。


 バルコニーの下に目を凝らして、ロゼリアは息をのんだ。

 部屋の真下、庭園の片隅にフィデルが立っていた。夜の闇に紛れて、彼は窓を見上げ、静かに笛を吹いている。フィデルの横には、ヴェルスが寄り添っていた。ヴェルスもまた、バルコニーに向かって、そっと首を傾げている。


(――会いにきてくれた)


 その事実だけで、ロゼリアの胸は熱くなった。フィデルは、ロゼリアがどれほど孤独かを知っている。だから、こうしてこっそりと、危険を冒してまで会いにきてくれたのだ。

 フィデルは笛を降ろすと、こちらに向かって、唇を動かした。発声はない。暗闇の中ではっきりとは分からなかったが、それでもロゼリアには、彼の言葉が読み取れた。


『僕たちは、ここにいます』


 ロゼリアの琥珀色の瞳から、とめどなく涙が溢れ出した。声を出して泣くことはできない。彼女はただ、バルコニーの手すりを握りしめ、彼らの姿を目に焼き付けた。


 交わされる言葉はなくとも、笛の音と、静かな涙が、ひそやかに二人の心を繋いでいた。



 ◆ ◆ ◆



 ルスランとの間にわずかながらも会話が生まれるようになった頃、帝国のロワイエ公爵家から使者が訪れた。


「第二公女ラシェル様が、王家を訪問されるとのことです」


 その知らせに、ロゼリアは胸騒ぎを覚えた。ラシェルがわざわざこの地に足を運ぶ理由が、ロゼリアには分からなかった。


 数日後、ラシェルは華やかな馬車でやってきた。

 以前にも増して美しくなった彼女の完璧な美貌は、まるで見る者すべてを虜にするために磨き上げられたかのようだった。その計算し尽くされた美しさに、この質実剛健な国の者たちでさえ、たちまち魅了されてしまう。ラシェルが足を踏み入れた瞬間、すべての視線が彼女に吸い寄せられた。


 その夜、王家主催の歓迎の宴が催された。ルスランも出席し、その凜々しい姿は、ラシェルを虜にしたようだった。ラシェルはルスランの前で、頬をバラ色に染めている。


「ルスラン様、はじめまして。わたくしはラシェルと申します。本来なら、わたくしがあなたの妻となるはずでしたのに……」


 ラシェルは愛らしい声でそう言った。その完璧な演技に、誰もが彼女に同情するだろうと思った。

 だがルスランは冷たい表情のまま、ラシェルの言葉を聞き流していた。彼の視線は、目の前の輝くような存在をまるで視界に入れていないかのようだった。


「それが、そなたの希望だったのか?」


 ルスランの冷たい問いに、ラシェルは笑顔で答える。


「もちろんですわ。わたくしは、ずっとあなたの妻となることを願っていましたのに、体調を崩している間に、姉に出し抜かれてしまったのです」


 ルスランの隣で、ロゼリアは言葉を失っていた。ラシェルの言葉に、体が震える。

 ルスランは、眉をひそめてラシェルを見ていた。


「そなたの言葉は、真実ではないな。そなたはこの国を恐れて、姉を身代わりに差し出した。私はそう理解している。私の妻は、ロゼリアただ一人だ」


 ルスランの冷たく、鋭い言葉に、ラシェルの顔から笑顔が消えた。彼女は、ルスランが自分に興味を持つだろうと疑いもしていなかったのだろう。

 その光景を見ていたロゼリアは、複雑な気持ちで胸がいっぱいになった。



 ◆ ◆ ◆



 宴が終わり、ロゼリアは自室に戻ろうと廊下を歩いていた。すると、背後から愛らしい声が呼び止める。


「お姉様、待って」


 振り返ると、そこにはラシェルが立っていた。彼女の顔からは、宴で見せていた愛らしい笑顔は消え、代わりに冷たい嘲りが浮かんでいた。ロゼリアは胸がざわりとした。


「ラシェル……」

「思ったより、快適に過ごしているのね、お姉様」

「……どうして? どうしてわざわざ会いにきたの?」


 ラシェルはロゼリアに近づき、楽しげに笑った。


「どうしてって、決まっているでしょう? まさか、こんな野蛮な国で、お姉様が居場所を見つけているなんて思わなかったのよ。てっきり、すぐにでも帝国に送り返されると思っていたのに。だから、この目で確かめにきたの」


 その言葉に、ロゼリアは息をのんだ。


「お姉様は、わたくしの影。誰からも愛されず、息を殺して生きてきた。それなのに、どうやってルスラン様を魅了したの?」


 真正面からぶつけられた悪意に、ロゼリアは体の震えが止まらなかった。


「お姉様のせいで、わたくしの面目は丸潰れになったわ。ルスラン様は、わたくしに興味すらお持ちにならない。それどころか、わざわざお姉様のことを妻だと庇った」


 ラシェルの表情は、普段の完璧な愛らしさとはかけ離れたものだった。


「卑しい血のくせに」

「――っ」


 ロゼリアは何も言い返せなかった。ラシェルの言葉は、鋭い刃のように彼女の胸を貫いた。

 影のような存在でも、決して埋めることのできない深い亀裂があっても、血を分けた家族として、最低限の情や、ほんのわずかな承認はあるのだと信じていた。しかし、ラシェルの言葉は、ロゼリアが縋ってきたその淡い希望すらも、無残に打ち砕いた。


 ラシェルの悪意に満ちた言葉の前に、ロゼリアはまるで糸が切れた人形のように、膝から崩れ落ちた。彼女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。



 ◆ ◆ ◆



 宴から数日後、ラシェルは帝国の公女として、フェルベーク国王と女王へ再度謁見することになった。

 ラシェルは涙を拭う仕草をしながら、この国で耳にしたというロゼリアとフィデルの噂を、悲しげな声で語り始めた。


「姉は、竜守りのフィデルという男と、ひそかに逢瀬を重ねていると聞きました。わたくしは、姉の幸せを願っています。ですが、それはあまりにも、ルスラン様を侮辱する行為です。いくら姉でも、王家の名誉を傷つけるようなことを黙って見ているわけにはいきません」


 その言葉を聞いたロゼリアは、血の気が引くのを感じた。ラシェルは、使用人たちから聞き出したであろう断片的な事実を、巧みに歪曲し、ロゼリアを不貞の罪に陥れようとしている。

 ロゼリアは言葉を失った。弁明しようにも、あまりにも突然の出来事だった。


 ルスランが怒りに満ちた目でラシェルを見つめ、国王へ訴えた。


「ラシェル公女の言葉は、真実ではありません。私は、ロゼリアが竜舎へ行くことを禁じております。彼女は、私の命令に背いてなどいません」

「竜舎に行くことを禁じたということが、お姉様が不貞を行っていた証ではありませんか? ルスラン様、お姉様のためを思うなら、正直におっしゃってください」

「公女、そなた……」


 ルスランが声に苛立ちをにじませた。それを遮ったのは、フェルベーク国王だった。


「ルスラン。そなたは真実ではないというが、民の間で噂が広まれば、疑いは残る。王家を汚すような噂が立つこと自体が、この国の威信に関わることなのだ」

「しかし父上――」

「竜守りは貴重な存在だが……やむを得ぬか」


 国王がため息交じりにつぶやいた言葉は、ロゼリアの心臓を凍りつかせた。フィデルを追放するつもりなのだろうか。彼の優しい笑顔、穏やかな声、ロゼリアの唯一の光。それらが、走馬灯のように脳裏をよぎった。


(――だめ、フィデルだけは、守らなければ!)


 ロゼリアは反射的に体を動かし、その場に膝をついた。


「フィデルに罪はありません。わたしが……わたしがあの者を誘惑したのです。この国の風習に馴染めず、寂しさに耐えきれず、わたしはあの竜守りに心を奪われてしまいました。すべてはわたしの過ちです」

「ロゼリア……」


 ロゼリアの言葉に、ルスランの顔は絶望的なまでに蒼白になっていた。

 その訴えを聞いて、今まで沈黙を守っていた女王が、静かに言った。

 

「飛竜、そして竜騎士は、我が国の誇りです。そして竜守りは、飛竜にとってかけがえのない存在です。ロゼリア本人の証言により、竜守りの罪は問わないことにいたしましょう。ただし、ロゼリアの王子妃としての資格を剝奪します。妹とともに、帝国にお戻りなさい。陛下、よろしいですね」


 有無を言わせぬ女王の声に、国王はため息とともに頷いた。


「お待ちください!」

「ルスラン。もう何も申すな」


 ロゼリアは、その場から立ち上がることはできなかった。ただフィデルを守ることができたという事実だけが、ロゼリアの心をわずかな安堵で包み込んでいた。



 ◆ ◆ ◆



 フェルベーク王国を出立し、ロゼリアは馬車に乗っていた。ロワイエ公爵家の紋章が刻まれた華やかな馬車ではなく、ロゼリアは荷物を積んだ馬車にぽつんと座っている。冷たい風が頬を打つ。

 同乗は、ラシェルが拒否した。その気持ちはロゼリアも同じであったから、それで良かった。


 フィデルを守ることはできた。だが帝国に戻ったところで、ロゼリアの居場所などない。待っているのは、ただの冷たい日々。フィデルにはもう会えない。ロゼリアの心は、深く澱んだ水の底を漂っているようだった。


 その時、空を裂くような飛竜の咆哮が響いた。御者が驚いて手綱を引く。 

 空から漆黒の巨大な影が舞い降りてきた。それはこの国の空の守護者、飛竜――ヴェルスだった。その背に乗っているのは、ロゼリアの大切な人。


「フィデル……!」


 フィデルは飛竜から降り立つと、まっすぐロゼリアのいる荷馬車に駆け寄った。

 フィデルは迷うことなくロゼリアに手を差し伸べた。その瞳は、ロゼリアだけをまっすぐに見つめている。


「ロゼリア様、お迎えに上がりました」

「……何を言っているのですか? わたしは帝国に――」


 ロゼリアは言葉を詰まらせた。


「僕と行きましょう。あなたが、心から安らげる場所へ」

「でも……」

「あなたを一人にすることはできません。言ったでしょう? いつでもロゼリア様の話を聞きますって」


 ロゼリアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。フィデルは優しい笑みを見せる。


「二人で、新しい故郷を探しに行きましょう」


 差し出された彼の手は、決してなめらかではなく、硬く乾いていた。それは彼が、自分の仕事を大切にしてきた証。彼がどれだけ飛竜を愛し、大切にしてきたのかを示していた。


「あなたには、竜守りの仕事が……」

「構いません。あなたを失うくらいなら、すべてを失ってもいい。それにヴェルスは一緒に行くって言っています。他の飛竜たちも、僕たちを送り出してくれた。あなたを助けて欲しいって、そう言ってくれました」


 その瞳の真剣さに、胸の奥の感情が溢れそうになる。初めて、自分が愛されていると感じられた。ロゼリアは、震えながら彼の差し出した手を取った。


 その時悲鳴のような声が聞こえた。馬車から降りたラシェルが、怒りに顔を歪めていた。


「お姉様! やめて! 馬鹿なことをしないで!」


 ロワイエ公爵家の護衛騎士が剣を抜く。

 しかしヴェルスが大きな咆哮を上げ、口内から火炎を噴き出すと、護衛騎士たちは身動きがとれなくなった。


 フィデルはロゼリアをヴェルスの背に乗せ、最後にラシェルを一瞥した。


「ラシェル公女様、あなたの行動によって、フェルベーク王国は同盟の証である王子妃を失い、そして大切な飛竜も失います。ヴェルスはどの飛竜よりも強く、この王国の誇りでした。帝国との同盟関係にひびが入るのは避けられないでしょう。あなたがどう責任を取るのか、見られないのが残念です」


 そうしてフィデルは、自身もロゼリアの後ろでヴェルスの背に乗り、首を優しく撫でると、そのまま手綱を引いた。

 ロゼリアは背中にフィデルのあたたかさを感じて、彼を振り仰ぐ。フィデルは優しくほほえんでくれた。


「しっかり掴まってください」


 ヴェルスは、力強く翼を羽ばたかせ、大空へと舞い上がった。


「お姉様!」


 ラシェルの叫び声が、遠くから聞こえてきた。その声は、虚しく空に響き、やがて消えていった。


 フィデルの腕の中で、ロゼリアは安堵の息を漏らした。飛竜の背は、帝国へ向かう馬車よりもずっと温かく、優しかった。


「どこへ行くのですか?」


 ロゼリアが尋ねると、フィデルはにこやかに答えた。


「どこへでも。でも、まずはあなたのお母様の故郷へ。僕も、行ってみたいです」


 その言葉に、ロゼリアは彼の胸に顔を埋めた。ロゼリアはもう、孤独ではなかった。


 王国を飛び去る際、視界の端に、城壁の上にあるルスランの姿が見えた気がした。彼は虚空に向かって、何かを叫んでいるようだった。伸ばした手は、何にも届くことはない。


 もうロゼリアが振り返ることはない。ヴェルスの翼が風を切り、ロゼリアとフィデルは、二人だけの新しい空へと旅立っていった。

(THE END)

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― 新着の感想 ―
あるあるですわな。 こんなもんいらねーと癇癪起こして放置したものが、価値を知る誰かの『者』になっちまってて、捨て置いたものへの評価変えて大事にしようとした所で、『反発』されんのは、世の常ですて。 …
ルスランは途中からなんでかまいだしたの?? さっぱりやわ
なぜ竜と心を交わすことができるのをしったら態度が軟化したのかわかりませんでした。そこから愛?執着?に変わったのかも。 それと王と王妃は、息子が先に国同士の契約である婚姻を蔑ろにして、王子妃とまともな…
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