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物心ついたときには、父はすでにいなかったように思う。
それでもわたしは、母と兄がいれば十分だった。
あとから知ったことだが、父は二人の子をもうけたことで義務を果たしたと考え、愛人のもとに籠っていたらしい。
(悲しいことに、貴族社会においてこのようなことはある程度普通のことなのだ。)
母はあまり体が丈夫ではなかったけれど、それでもわたしを愛し、できる限り遊んでくれた。
眠る前にはそっと髪を撫でてくれて、その手の温かさは今でも忘れられない。
兄はいつもそばにいて、小さな味方だった。
転べばすぐに手を差し伸べ、わたしの些細なことに耳を傾けてくれた。
そうして過ごした日々は、静かで穏やかで、それだけで十分に幸福だった。
今思えば、それは遠い昔の光景であり、胸の奥を静かに締めつける。
彼女の声はいつも優しく、名前を呼ばれるだけで胸が温かくなった。
毎朝、朝食の香りが屋敷に満ち、兄と共に食卓を囲んだ。執事やメイドが静かに仕えるその時間は、穏やかで幸福に満ちていた。
庭の小径を三人で歩くあの時間は、今思えば永遠の一瞬のようだった。
夕暮れには、母が暖炉の前で静かに読んでくれた物語に耳を傾け、兄と手をつないで眠りについた。
あの家は、外の冷たい世界からわたしを守ってくれた暖かな城だった。
そこでわたしは、ただ“わたし”でいられたのだ――それだけで充分だったのに。