第8話 メッシーくんとイタメシ
1990年、日本はバブル景気の余韻に浸り、贅沢な生活が当たり前のように受け入れられていた。イタメシ(イタリア料理)が若者たちの間で大流行し、ピザやパスタを楽しむことが一種のステータスとなっていた。女性たちはその流行に乗り、頻繁にイタリアンレストランに足を運んでいた。ただし、自分の財布ではなく、「メッシーくん」と呼ばれる男性たちに奢ってもらうことで――。
***
美咲は複数のメッシーくんと付き合いを持っていたが、その日、彼女を迎えに来たのは裕也という名前の男性だった。裕也は落ち着いた雰囲気を持ち、スーツをきっちり着こなした真面目な性格の男性だった。裕也は学外で働きながら大学に通っており、美咲に対しては食事代を惜しみなく出してくれる一人だった。
「今日はラ・ヴィータでいいかな?」裕也が運転席から声をかけると、美咲は助手席で軽く頷いた。ラ・ヴィータは彼女の行きつけのイタリアンレストランで、店内の落ち着いた雰囲気が特にお気に入りだった。
二人が店に到着すると、いつもと少し違う空気が漂っているのに気づいた。普段は明るく活気のある店内が、その夜はどこか静かで、照明も落とされ、薄暗い雰囲気になっていた。ウェイターが席に案内しながら、美咲に封筒を差し出した。
「こちらは本日の特別なご案内です。」
封筒の中には、小さなカードが入っていた。それにはこう記されていた。
「本日限りのスペシャルメニューをご用意しました。どうぞお楽しみください――『忘れられないティラミス』」
「忘れられないティラミス?ずいぶんと大げさな名前ね。」美咲は笑いながら裕也にカードを見せた。
裕也も興味を持った様子でカードを眺め、「せっかくだから頼んでみようか」とウェイターにそのメニューを注文した。
しばらくして、銀色のトレイに乗せられて運ばれてきたのは、見事な仕上がりのティラミスだった。滑らかな層にココアパウダーがふりかけられ、美しいフォルムが目を引く。だが、それを見た美咲はふと妙な感覚を覚えた。
「……なんか、これ、ちょっと変わってない?」
美咲は思わず呟いた。ティラミスの表面には、肉眼では分からない程度の細かな模様が浮かび上がっているように見えたのだ。まるで古い文様のような、不規則なラインが層の中に埋め込まれているかのようだった。
「気にしすぎだよ。」裕也が軽く笑い、フォークを手に取った。「こんな立派なデザート、そうそう食べられるものじゃないよ。」
美咲も仕方なくフォークを手に取り、一口を口に運んだ。その味は、甘く、ほろ苦く、完璧だった。しかし食べ進めるうちに、彼女はフォークの先に妙な違和感を覚えた。
「……え?」
ティラミスの中に、何か硬いものが混じっている。フォークを止め、恐る恐る掘り進めてみると、中から小さな金属片が現れた。それは古びた鍵のような形をしており、錆びて黒ずんでいる。
「これ、なに?」
美咲はそれを掴んで裕也に見せた。裕也も驚いた様子でそれを手に取るが、どこか困惑している様子だった。
「さあ……お店のミスじゃないのかな?なんでこんなものが……」
二人が首をかしげていると、ウェイターが近づいてきた。
「お楽しみいただけていますか?」
その言葉には、不自然なほどの抑揚が含まれていた。美咲は思わず鍵を握りしめ、テーブルの下に隠した。
「ええ、美味しいです。でも、少し気になることが……」裕也が言いかけた時、ウェイターは不意に顔を近づけ、小声で囁いた。
「鍵を、返していただけますか。」
ウェイターの低い声が耳元に響いた瞬間、美咲の体は凍りついた。彼の顔は笑っていたが、その目には何か異様な光が宿っている。
「え……これ、あなたたちのものなんですか?」
美咲が震える声で尋ねると、ウェイターはゆっくりと首を横に振った。そして、にこやかな表情を保ったままこう言った。
「いいえ。でも、その鍵を持ったままだと、あなた方に良くないことが起きるでしょう。」
「どういう意味ですか?」裕也が声を荒げると、ウェイターは静かに後ずさり、店の奥に姿を消した。
美咲と裕也は顔を見合わせた。鍵をテーブルの上に置き直そうとする美咲の手を、裕也が止める。
「やめろ。変なことに巻き込まれたら厄介だ。」
「でも……このまま持って帰るのも気持ち悪いじゃない。」
二人が議論している間に、店内の雰囲気が急激に変わっていった。照明が暗くなり、周囲の客のざわめきが次第に消えていく。いつの間にか、店内にいたはずの他の客がいなくなっていることに気づいた。
「なんで……誰もいないの?」
美咲が辺りを見回した瞬間、どこからかウェイターの声が響いた。
「お楽しみいただけたようで、何よりです。」
その声は、まるで周囲の壁そのものから響いてくるようだった。
「帰ろう。」裕也が立ち上がり、美咲の手を引いた。しかし、店の出口に向かうと、ドアがまるで見えない壁で覆われているようにビクともしない。
「どうなってるんだ……」
裕也が焦ってドアを押したり引いたりする間、美咲は足元に違和感を覚えた。見下ろすと、床に黒い染みのようなものが広がっている。それはまるで生き物のように動き、鍵のあるテーブルの方向に向かって伸びていった。
「これ……やばい……」
美咲は反射的に鍵を掴むと、それを店内の奥に投げ捨てた。鍵が床に触れると同時に、黒い染みは勢いよくそちらに吸い寄せられ、まるで底の見えない穴に吸い込まれるように消えた。
店内は再び静寂に包まれた。だがその時、奥の厨房のドアがギギィと音を立てて開いた。
「……お二人とも、まだお帰りにはなれません。」
現れたのは先ほどのウェイターだった。しかし、その顔は先ほどまでのものとは違っていた。肌は異様に青白く、目は真っ黒な闇に覆われている。ウェイターは不気味な笑みを浮かべながら、ゆっくりと二人に近づいてきた。
「お二人は、『忘れられないティラミス』を召し上がっていただきましたね。ですから――」
ウェイターが手を差し出すと、美咲と裕也の足元に再び黒い染みが広がり始めた。染みは二人の足を掴むように絡みつき、動きを封じた。
「やめろ!」
裕也が必死にもがくが、その力は吸い取られるように消えていく。
「あなたたちは、この店に記憶を置いていくのです。そうすれば、他の誰かがこの場所を訪れるでしょう。」
美咲は必死に抵抗しながら叫んだ。
「嫌!嫌!助けて!」
その時、店のドアが激しく叩かれる音がした。
「美咲!裕也!」
外から誰かの声がする。その声は、裕也の知り合いの男性だった。彼は裕也に車を貸していた友人で、二人の様子を心配して迎えに来たらしい。
ドアが一瞬の隙間を見せた。裕也はその隙をついて、美咲を抱きかかえるようにして外へ飛び出した。背後から黒い染みが追いかけてくるのを感じたが、ドアを閉めた瞬間、それらの異様な気配はすべて消え去った。
二人は震える体を支え合いながら、その場を離れた。
翌日、ラ・ヴィータを訪れたが、そこには何もなかった。建物そのものが跡形もなく消え、ただの更地になっていたという。二人が体験した「忘れられないティラミス」は、それ以降、誰にも語ることはなかった。
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