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第5話 ジュリアナの亡霊

1989年、日本がバブル景気の絶頂にあったころ、東京の夜はまさに輝いていた。ワンレンボディコンに身を包んだ女性たちが、羽根付き扇子を手にステージの上で踊り狂う。その中心に立っていたのが、「ジュリアナ東京」と呼ばれる伝説的なナイトクラブだった。ジュリアナは当時の欲望と熱狂の象徴であり、そのステージに立つダンサーたちは時代そのものを体現していた。


***


「レイコ」という名の女性は別格だった。銀色のドレスに身を包み、観客の目を一瞬で引きつける圧倒的な存在感と、息を呑むような美しさ。彼女はジュリアナの「女王」とまで呼ばれ、夜ごと人々を魅了していた。しかし、そんなレイコがある日突然姿を消した。まるで煙のように。


誰も彼女の行方を知らず、後日、彼女の失踪に関するうわさ話だけが街を駆け巡った。借金から逃げた、愛人問題に巻き込まれた、いや、もっとおぞましい事件に巻き込まれたのではないかと。しかし、真相は闇の中に消え、レイコはジュリアナの歴史に名を刻んだまま、二度とその舞台に戻ることはなかった。


それから数十年が経ち、ジュリアナ東京は閉店。跡地には再開発によって高層ビルが建てられた。その中の一室にオフィスを構える高橋翔太たかはししょうたは、都会の喧騒に紛れて働く平凡なサラリーマンだった。翔太は生まれも育ちも平成時代。ジュリアナ東京の全盛期は知らず、テレビの特集や古い映像でその存在を知る程度だった。しかし、ビルの建つこの場所に何か特別な空気が漂っていることを薄々感じていた。


ある夜、残業を終えて帰宅しようとした翔太は、エレベーターが故障していることに気づいた。仕方なく非常階段を使うことにしたが、その途中、耳に奇妙な音が届いてきた。何かが聞こえる。遠くから微かに聞こえる低いビート音だった。まるでクラブの音楽のような――だが、このビルにはナイトクラブなど存在しないはずだった。


音に導かれるように階段を降りていくと、翔太は階下で妙な光景に出くわした。暗闇の中に、淡い光がちらついている。まるでかつてのジュリアナ東京のステージを模したかのような雰囲気を漂わせた空間。古びた羽根付き扇子が床に散らばり、埃っぽい空気が漂っていた。


「こんな場所があったのか……?」


翔太は半ば好奇心と恐怖に駆られながら、その空間を歩き回った。そこに残されたものは、明らかに普通のオフィスビルにふさわしくない。光沢のあるボディコン、廃れたスピーカー、そして……鏡の中にかすかに映る女性の影。


鏡越しにその影と目が合った瞬間、翔太は凍りついた。影はゆっくりと動き出し、まるで踊るような仕草を見せた。その動きは滑らかで、美しさすら感じさせたが、不自然なまでの無音の中で響くビートに合わせているようだった。そして、女性の影は鏡の中で静かに笑った。それは、どこかで見たことがあるような――


「……レイコ?」


名前が口をつくと同時に、鏡の影がふっと消えた。周囲の空間は暗闇に包まれ、耳をつんざくようなノイズだけが響く。翔太は慌ててその場を後にしようとしたが、階段に向かう途中、背後から微かに聞こえた。


「ようこそ……戻ってきたのね……」


それは女性の声だったが、人間のものとは思えない冷たさを含んでいた。翔太は背中に冷たい汗を感じながら、その夜を過ごした。翌日、ビルの管理人に聞いても「そんな場所は存在しない」と言われたが、翔太の頭にはあの声と影が焼きついて離れなかった。


***


その奇妙な体験から数日後、高橋翔太は再び残業をしていた。夜遅くのオフィスは静まり返り、時折ビルの空調が低い唸り声をあげるだけだった。だがその夜、耳を塞ぎたくなるような沈黙の中、再びあの低いビート音が響き始めた。


最初は遠く、幽かなものだったが、次第にその音ははっきりと聞こえるようになり、床を通じて振動さえ感じ取れるほどになった。翔太はイヤホンを外して音の出所を探った。確かに聞こえる――まるで建物そのものが脈打っているかのように。


その音に誘われるように翔太はデスクを離れ、エレベーターの前に立った。だが、エレベーターは先日と同じく「点検中」の札が下がっている。仕方なく非常階段へと向かう。


階段を降りるにつれ、ビート音はますます大きくなり、明らかにクラブで流れるような音楽に近づいていった。だがその音には奇妙なノイズが混じり、人の声や歓声が聞こえるはずなのに、不自然な静けさが支配していた。


「……誰かいるのか?」


翔太は呼びかけたが、返事はなかった。階段を降りきると、またもやあの場所にたどり着いた。半ば崩れかけた壁、散乱した羽根付き扇子、そして廃墟のような静寂。それは先日訪れた空間そのものだった。


突然、鏡がふわりと淡い光を放った。鏡の表面には、再びあの影が現れた。今回は鮮明だった。シルエットは女性のものだ。銀色のドレスに身を包み、長い髪を振り乱しながら、彼女は音楽に合わせて踊り始めた。


「レイコ……なのか?」


翔太の声に反応したのか、鏡の中の女性はふと動きを止め、こちらを向いた。そして鏡越しに視線が合うと、不気味に微笑んだ。その口元が動き、何かをつぶやいたが、翔太にははっきりとは聞き取れなかった。だが、次の瞬間、耳元に直接響くような声で囁かれた。


「ここから出して……」


翔太は息を呑んだ。鏡の中の女性が手を伸ばしてくるように見えた。次第にその手は鏡の表面を押し破り、翔太に触れようとしているかのようだった。翔太は恐怖に駆られ、後ずさったが、その場から動けなかった。


鏡の中の女性は次第に崩れるように消えていき、代わりに鏡面には別の映像が映し出された。それは、かつてのジュリアナ東京のフロアだった。熱狂する観客、踊り狂う女性たち、そしてその中心で扇子を振るレイコの姿――だが、よく見ると、レイコの動きは次第にぎこちなくなり、その目には恐怖が宿っていた。彼女は何かに追い詰められているようだった。


次の瞬間、映像が暗転し、耳をつんざくような悲鳴が響いた。翔太はその場に崩れ落ちた。


「……まだ終わらない……」


声はどんどん遠ざかっていき、やがて鏡は元の静けさを取り戻した。翔太は立ち上がり、意を決して鏡に手を伸ばそうとした。だが、その瞬間、背後から冷たい手が彼の肩を掴んだ。


「ここにいるの……あなたも、連れていく……」


その声は耳元で囁かれると同時に、翔太は強烈な引力を感じ、鏡の中へ引きずり込まれそうになった。必死に抗うも、その力は人間のものではなかった。最後に彼が見たのは、鏡の中で踊り続けるレイコと、その背後に無数の影が蠢く光景だった。


翌朝、ビルの管理人が非常階段の付近で翔太の荷物を見つけたが、彼自身の姿はどこにもなかったという。それ以降、ビルでは深夜になると謎のビート音が聞こえるという噂が立ち、誰も夜遅くまで残ろうとはしなくなった。翔太の行方も、そして鏡に映った影の正体も、永遠に謎のままである。

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