第31話 スパイスの代償
平成20年代前半、エスニック料理がブームとなり、日本中でスパイスの効いた東南アジア料理が人気を集めた。トムヤムクンやグリーンカレー、フォーなど、異国情緒あふれるメニューが日常的な選択肢として浸透し、スパイス専門店やエスニック料理教室も増えた。異文化を感じさせる独特な香りや味わいが人々を引き付け、その一方で「スパイスは体に良い」といった健康志向とも結びつき、多くの人が手軽にその魅力を楽しんでいた。
***
大学生の翔太は、近所にあるエスニック料理店「サワディーカフェ」でアルバイトを始めたばかりだった。派手な装飾とエキゾチックな香りが漂う店内は、連日満席で繁盛しており、若い女性やカップルたちに特に人気だった。
「この店、料理が本当に美味しいんだよな。」
翔太は初出勤の際、店主のクンさんからこう言われた。彼はタイ出身の中年男性で、いつも穏やかに微笑んでいるが、どこか掴みどころのない雰囲気を持っていた。
「特にこのスパイスがポイントだよ。これを加えると、一気に味が引き立つんだ。」
クンさんが見せてくれたのは、手のひらほどの小さな木箱に収められた粉末だった。それは濃い赤茶色をしており、鼻を近づけると複雑で強烈な香りが鼻腔を刺激した。
「なんだか……普通のスパイスと違う感じですね。」
翔太がそう言うと、クンさんは笑いながら肩をすくめた。
「特別なルートで仕入れてるんだ。このスパイスを使えば、どんな料理も一流になるよ。」
翔太はその言葉を半信半疑で聞き流しつつ、キッチンでの仕事を覚え始めた。確かにそのスパイスを少し加えるだけで、料理の香りが一変し、食欲をそそる仕上がりになるのを目の当たりにし、次第にその効果を実感するようになった。
だが、そのスパイスに触れるたび、翔太は不思議な違和感を覚えた。最初は軽い耳鳴りがする程度だったが、日を追うごとにそれはひどくなり、キッチンでそのスパイスを扱うたびに頭が締め付けられるような感覚に襲われた。
「スパイスに慣れれば、すぐに気にならなくなるさ。」
クンさんは軽く笑っていたが、翔太はどこか納得できず、モヤモヤとした感情を抱えながら働き続けた。
さらに、夜眠りにつくと、決まって同じ夢を見るようになった。夢の中で翔太は広大な田畑の中に立っており、目の前には見知らぬ人々がずらりと並んでいる。彼らはぼろ布のような衣服を身にまとい、無表情のまま翔太をじっと見つめている。
「……なんだこれ……」
夢の中でその場から動けない翔太は、彼らの視線に晒され続けるだけだった。そして次第に、無言だった人々が声を発し始める。
「返せ……」
その言葉を皮切りに、彼らの叫びが響き渡り、翔太は恐怖のあまり目を覚ました。冷や汗でびっしょりと濡れた体を抱えながら、翔太は息を整えた。
「スパイス……あのスパイスに何かあるのか?」
翔太はそう確信し始めた。そして、翌日仕事を終えた後、こっそりとクンさんがしまい込んでいたスパイスの木箱を覗いてみた。
その箱の底には、一枚の古びた写真が入っていた。写真には、見知らぬ土地で農作業をするような人々が写っており、その背後には不気味な笑みを浮かべたクンさんらしき人物が立っていた――。
***
翌日の夜、翔太は写真のことが頭から離れなかった。クンさんの店で使われているスパイスに、何か異常な秘密が隠されている――そんな確信が胸を締め付けていた。
勤務後、店内の電気が落とされ、店じまいの準備を始めていた時、クンさんが静かに声をかけてきた。
「翔太、少し手伝ってほしいことがある。」
その声はいつもと変わらない穏やかなトーンだったが、どこか不自然な緊張感を含んでいるように思えた。翔太は嫌な予感を抱きながらも、うなずいてクンさんの後についていった。
店の奥には、翔太がこれまで一度も入ったことのない扉があった。クンさんがその扉を開けると、中はひんやりとした空気に包まれ、薄暗い倉庫のような空間が広がっていた。
「ここに特別なスパイスのストックがあるんだ。」
クンさんはそう言って、棚の奥からいくつもの木箱を取り出した。それらは翔太がキッチンで見たものとよく似ていたが、箱の側面には異国の言葉で何かが記されていた。
「このスパイス、どこで作られてるんですか?」
勇気を振り絞って翔太が尋ねると、クンさんは微笑んだまま答えた。
「遠い故郷でね。あの畑で採れるスパイスは最高なんだ。だが、そこにはいろんな犠牲があった。」
「犠牲?」
クンさんはスパイスを一つ手に取り、その香りを楽しむように深く息を吸い込んだ。
「このスパイスには魂が宿っているんだよ。その土地で生きた人々の魂がね。だからこれを使う料理は、ただの食べ物じゃなくなる。味わった者は深い満足感を覚えるだろう――でも、それだけじゃない。」
その言葉に、翔太の背中を冷たい汗が伝った。
「でも……そんなの、作り話ですよね?」
クンさんの微笑みが一瞬だけ消え、冷たい目つきが翔太を捉えた。
「作り話だと思うかい? 翔太、最近何か変な夢を見たりしなかったか?」
その言葉に、翔太は凍りついた。畑の中で人々に囲まれるあの夢――それがスパイスと関係しているのか? 彼の脳裏に浮かんだのは、木箱に入っていた写真の光景だった。
「これ……何なんですか?」
震える声で問い詰めると、クンさんは静かに木箱を開け、スパイスを一握り取り出して翔太の目の前に差し出した。
「彼らは犠牲者だよ。畑で過酷な労働を強いられ、命を落とした者たちだ。このスパイスには彼らの想いが染み込んでいる。だから、君もその影響を受けているんだろうね。」
翔太はその場から逃げ出したかったが、足がすくんで動けなかった。
「……でも、どうして俺が……」
「簡単さ。君がここで働いているからだ。スパイスを使うたびに、彼らは君に触れる。彼らは解放されたいんだよ。そのために君を選んだ。」
クンさんの言葉が終わると同時に、倉庫内の空気が重く変わった。周囲が暗くなり、耳鳴りのような低い音が響き始めた。翔太は反射的に後ろを振り返ったが、そこには見覚えのある人影が立っていた。それは夢の中で見た、無表情な顔で彼を見つめる「畑の人々」だった。
「返せ……返せ……」
彼らの低い声が徐々に響き渡る。翔太は恐怖で震えながら後ずさったが、壁にぶつかりそれ以上動けなかった。
「彼らを解放する方法は一つしかない。」
クンさんが木箱からさらにスパイスを取り出し、宙に放り投げた。それが空中で粉じんとなり広がった瞬間、影のような人々が一斉に翔太に向かって動き出した。
「やめてくれ……!」
翔太が叫んだ時、視界が暗転した。
――店に翔太の姿はなかった。カウンターには彼のエプロンが置かれ、その横には小さな木箱が一つ。クンさんはそれを見つめながら微笑んだ。
「新しい魂が入ったか。いいスパイスになりそうだ。」
その日も店は満席で、訪れた客たちは特別なスパイスの香りに酔いしれ、料理を絶賛していた――誰もその背後に隠された恐ろしい代償を知ることなく。
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