第15話 履歴書の主
平成後期、日本は深刻な就職氷河期の時代に突入していた。企業の採用枠は極端に減り、内定を得るのは至難の業だった。多くの若者が何十社も面接を受け、不採用の通知に心を折られ、将来への希望を失っていった。特に新卒一括採用という日本独特のシステムでは、一度失敗するとその後のキャリアに大きな影響が出るため、学生たちは不安に苛まれながらも必死に就職活動を続けるしかなかった。
***
22歳の優子も、そんな就職氷河期に苦しむ一人だった。大学の就職課で紹介された企業を次々と受けるものの、結果はいつも不採用。書類選考すら通らないことも多く、彼女は自分に自信を失いかけていた。
「何がいけないんだろう……」
優子は疲れ果てた表情で、自室の机に広げた履歴書をじっと見つめた。自己PRや志望動機を書き直すたびに、内容が薄っぺらく感じられる。友人たちが次々と内定を決めていく中で、彼女だけが取り残されているようだった。
そんなある日、優子のもとに一通の封筒が届いた。差出人は記載されておらず、封筒には古い活版印刷のような文字で「履歴書作成支援サービス」とだけ書かれていた。
「なんだろう、これ……?」
不審に思いながらも封を切ると、中には一枚の履歴書が入っていた。それは見たこともない形式で、優子の名前や経歴が既に丁寧に記載されている。しかも、その内容は驚くほど完璧だった。
「……私の名前と大学名は合ってる。でも、この資格とか特技、私、こんなの書いてない……」
履歴書には、実際には持っていない国家資格やインターンシップ経験が記載されていた。しかし、それはあまりに自然で、まるで本当の優子の人生を写し取ったかのような説得力があった。
「これ、使ったらどうなるんだろう……」
彼女は迷いながらも、翌日、履歴書を次に応募予定だった企業に提出した。すると、今まで書類選考すら通らなかった企業からすぐに面接の案内が届いた。
「嘘みたい……こんなに早く返事が来るなんて。」
驚きと喜びで胸を躍らせながら、優子は面接に臨んだ。面接官は履歴書を見ながら感心した様子で彼女を褒めた。
「これほど素晴らしい経歴を持った方はなかなかいませんよ。」
優子は曖昧に微笑みながら面接をこなした。自分の実力ではないと思いつつも、このまま内定がもらえるなら、と割り切ろうとしていた。
数日後、優子はその企業から内定通知を受け取った。
「やった……!」
優子は歓喜の声を上げた。しかし、その夜から、彼女の周囲で妙なことが起き始めた。
部屋に置いていた履歴書のコピーが、見知らぬ文字で埋め尽くされているのを見つけたのだ。それはまるで、履歴書に記載された内容が勝手に増え続けているようだった。
「……何これ? 昨日まではこんなの書いてなかったのに。」
よく見ると、そこには「過去の業務内容」という欄が新たに追加されており、そこに詳細な勤務記録がびっしりと書き込まれていた。
「私、こんな仕事したことない……」
しかし、その記録は驚くほど具体的で、日付やプロジェクト名、上司の名前までが正確に記載されていた。まるで、誰か別の人物が実際に働いて記録したもののようだった。
「気のせい……だよね。」
不安を振り払うように履歴書を引き出しにしまい込んだ優子だったが、その夜、彼女の夢に奇妙な光景が現れた。
それは見たこともないオフィスで、大勢の社員たちが忙しそうに働いている場面だった。そして、その中で自分が働いている姿も見えた。だが、その「自分」はどこか違っていた。表情は冷たく、ロボットのように無感情で動いていたのだ――。
翌朝、優子はその夢の内容をぼんやりと思い出しながら、引き出しを開けて履歴書を確認した。そこにはさらに新しい記載が加わっていた。
「200X年、貴方は我々の一員として働くことが決定しました。」
その文章は、履歴書の一番下に、赤い文字で書き加えられていた。
優子は履歴書の赤い文字を見た瞬間、全身に寒気が走った。
「私が……一員として働くって……どういうこと?」
混乱しながら履歴書を手に取り、内容を再確認する。そこには、自分の知らない仕事の記録が増え続けていた。最初は数行だった「過去の業務内容」の欄が、今では何ページにもわたり詳細に記載されている。しかもその記録は、まるで未来の出来事を予言しているかのようだった。
「こんなの、おかしい……」
優子は履歴書を破り捨てようとした。しかし、いざ破ろうとした瞬間、手が動かなくなった。いや、動かせなくなったのだ。
「なんで……!?」
まるで見えない力に腕を掴まれているようだった。力を込めても、履歴書は手の中に留まったままだ。仕方なく、優子はその履歴書を机の上に置き直した。
その日の午後、優子の携帯電話に知らない番号から電話がかかってきた。
「……はい、もしもし?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた声の男性だった。
「優子さんですね。あなたの履歴書、確認させていただきました。」
「えっ、どちら様ですか?」
「私は履歴書作成サービスを提供している者です。お伝えしたいのは、あなたが選ばれたということ。これからも安心して、その履歴書をお使いください。」
「ちょっと待ってください!」
優子は慌てて問い詰めようとしたが、電話は一方的に切られてしまった。
「……何なの、これ……」
不安に駆られた優子は、もう一度封筒の送り主を確認しようと、封筒を探した。しかし、昨夜まで確かに机の上にあったはずの封筒は、跡形もなく消えていた。
その夜、再び奇妙な夢を見た。夢の中で、優子はまたあのオフィスにいた。しかし、今回ははっきりと自分が働いている場面が見えた。大勢の社員たちに囲まれ、黙々と書類を整理し、指示を受けるたびに頭を下げていた。
「ここは……どこ……?」
夢の中の優子がそう呟くと、周囲の人々が一斉に振り向いた。誰も彼もが表情のない顔で優子を見つめている。
「あなたも、もう逃げられないよ。」
その声に目が覚めた優子は、全身に冷や汗をかいていた。部屋の電気をつけると、机の上の履歴書が微かに動いているのが目に入った。
「そんな、はずない……」
恐る恐る近づくと、履歴書の文字がまた増えていることに気づいた。そこには、これから優子が携わるという仕事の詳細がびっしりと記載されていた。さらに、一番下にはこう書かれていた。
「200X年12月15日、あなたの業務は終了します。」
「業務が……終了……?」
その文字を見た瞬間、優子は理解した。「終了」とは、ただ仕事が終わるという意味ではない。自分の命そのものが終わる日を示しているのだと。
「こんなの、嫌……」
優子は履歴書を掴み、再び破り捨てようとした。しかし、またしても手が動かなくなった。それどころか、履歴書からじわじわと冷たい感触が伝わり、優子の体にしがみつくような感覚が広がっていく。
その瞬間、携帯電話が鳴り響いた。画面には「非通知」の文字が表示されている。恐る恐る通話ボタンを押すと、あの男の声が再び聞こえてきた。
「履歴書はあなたの人生そのものです。もう逆らえません。」
優子は叫び声を上げ、電話を切ろうとしたが、手が動かない。声は続けた。
「明日から出社してください。我々の一員として、あなたをお迎えします。」
電話が切れた瞬間、優子の体は何かに引き寄せられるようにして机に倒れ込んだ。履歴書の文字がじわりと滲み、彼女の目の前で新たな一行が浮かび上がった。
「200X年12月16日、次の候補者に引き継ぎます。」
それ以来、優子の姿を見た者はいない。ただ、彼女が最後に内定を受けた会社では、新人として登録された優子の名前が、なぜか「全社員リスト」の最上部に刻まれているのだという――。
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