後編
7
硬い靴音を響かせながら、春香はハシゴを下っていく。
雨ざらしになっているせいか、トンネルの中はカビ臭く、ハシゴにもナメクジを鷲掴みにしたかのような不快なヌメリがあった。
おそらく正規の出入り口ではないのだろう。使用感もさほど感じられない。
「あーもう、なんで私がこんなことを⋯⋯」
モゴモゴと愚痴を呟きながら、ひたすら降下する。
ふと、異音が鼓膜を叩いた。
靴音の反響が静まるのを待って、じっと耳を澄ます。
地上と違って空気が冷たく感じられた。
湿度もずいぶんと低いようだ。
ナーオ、という猫の鳴き声が微かに聞こえる。
空耳でないことを祈りながら、手早くハシゴを繰って下降を早めた。
もちろん靴音を押し殺してだ。
と、唐突にハシゴが終わった。
空振りした足が春香の体勢を崩し、両手からハシゴをもぎ取った。
一瞬、春香の身体が宙に浮く。
そして、バチャと激しい音を立てて、腰から水溜りに飛び込んだ。
「いてててて」
水は円筒空間を落ちてきた雨水だろう。
日数を経ているらしく、ドブのような悪臭を放っていた。
落ちてくるのは雨水だけではない。
スポットライトのように降ってくる青白い月光。それが春香の醜態をも照らし出していた。
シャツもズボンも腐った雨水でびしょ濡れ。顔や髪にも付着しているであろうことは感触でわかる。
「おーい、なんか今すごい音がしたけど大丈夫かぁ?」
なんともお気楽な弥栄の声。
「大丈夫じゃないわよ!」と、大声で叫びたい気持ちをぐっと堪え、静かにサムズアップで応える。
「おおお⋯⋯」
複雑な感情を含んだ声が弥栄から届く。
それを黙って受け取ると、春香は行動を再開した。
*
集水桝の下を離れると、視界は完全に閉ざされてしまった。
スマホをポケットから取り出すと、ライトを灯し、周囲を探る。
光で切り抜かれた空間に生き物の気配はない。
あるのは床も壁も天井もカビに支配された黒い景色。
集水桝の下は三方行き止まりであったため、春香は残された一方の壁に向かって慎重に歩き始めた。
かなり狭い通路だ。挟み撃ちでも仕掛けられようものなら即ゲームオーバー。一巻の終わりであろう。
——この先に扉がなきゃ、どっちにしろゲームオーバーだけどね
口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
つと力なく鳴く猫の声がした。
慌てて声の主を照らすべくスマホを振り回す。だが、不思議とその姿を捉えることはできない。
そうするうちに、もう一方の壁に到達してしまった。
——あれ、こっちも行き止まり?
呆然と立ち尽くす春香。
周りを見渡しても次のステージに繋がる扉はないように見える。
——ここまでか。無駄に服を汚しただけだったな⋯⋯
ガックリと肩を落とし、来た道を戻ろうとする春香を呼び止める小さな声がした。
猫の声ではない。人の、女の子の声だ。
豪胆で知られる春香も背筋に氷塊が流れ落ち、全身の毛が逆立つのを感じた。
おそるおそる振り返ると、床から女の子の生首が生えている。
声にならない悲鳴を上げ、ダッシュで逃げ帰ろうとするが足が動かせない。
視線を落とすと、少女の小さな手が春香の右足首を掴んでいた。
死に物狂いで逃げようとする足を動かせぬようガッチリ固定するなど、怪力自慢のプロレスラーにも難しいのではなかろうか。
それを十にも満たないような女の子がやってのけているのである。
「おねがい にげないで」
闇の中で薄紅色の唇が動く。
「ちからをかしてほしいの わたしには できないことだから」
8
「ねぇ、あなた本当におミカじゃないの?」
「うん しらないなまえ」
少女に手を引かれ、春香は狭い通路を歩いていた。
彼女は生首幼女ではなかった。
突き当たりの壁には地下へと続く階段が隠されており、彼女はそこから顔を出していただけ。
紛らわしいことこの上ないが、おかげでゲームオーバーは回避できたのだ。
感謝せねばなるまい。
螺旋状に続く通路はわずかに傾斜しており、地下深くへと下りて行ってるようだ。
通路には足元をぼんやりと照らすライトが設置されているため、少し安心感があった。
少女は外で満月を眺めていたあの少女だった。
ゴスロリ風ドレスを身に纏い、ヒールの高いブーツで足元を固めている。
長い黒髪もくっきりとした目鼻立ちもミカに瓜二つだが、彼女はしらないと言う。
「なんか猫の声がしてたけど、たくさん飼ってるの?」
「ねこのこえ わたし」
「え?」
「ものまねしたの にてた?」
「すっごい似てた! ほんとにモノマネだったの? 本物だと思ったよ」
「にへへ」
少女は嬉しそうな笑顔をひらめかせる。
「ここって、何の建物なの?」
「むかし すんでたいえがあったばしょ でも じしんでこわれた」
「地震?」
「うん」
——ああ、あの時の⋯⋯
春香には思い当たる記憶があった。
「そのあと しらないひとがいっぱいきて これをつくった わたしはこわくなって かくれてた」
「そうなんだ⋯⋯」
「うん ここ」
観音開きの大きな木扉の前で少女の足が止まる。
「え?」
「ここに たくさんのおんなのこが とじこめられてる たすけてあげて」
ドアの取手に両手を添えるも、春香は開放を躊躇した。
——もし、中にヤバい連中が大勢いて
そんな想像が脳裏を駆け巡っているのだ。
「だいじょうぶ きょうはだれもいないから」
そっと片側のドアを開き、隙間から部屋の中を覗き見る。
室内は暗く、少女の言葉通り人の気配はなかった。
「こっち」
少女は小さな手で春香の腕を掴むと、ドアの隙間からするりと侵入する。
「あ、ちょっと」
抗議の声は発せても、さほど力強くもない少女の手は振り解けない。
その動きがあらかじめ設定された予定調和だとでもいうように、春香の身体は少女の思うがままに操られ、部屋の奥へと連れ去られていった。
*
そこはまるで教会ようだった。
窓はなく、白色のみで統一された室内。
位置も大きさも様々な壁龕には十字架やマリア像が配置され、幾つもの燭台も見えた。
その燭台に火が灯されれば、壁や床、天井に光が反射して、さぞや幻想的な空間になるのだろう。
春香はその空間に自分が立ち、ソフトフォーカスに美肌加工を加えた自撮り写真を想像してみた。
——超映える! バエ映えのバエ映えに映える! 撮ってみたい!
「ねぇ、ここにある蝋燭に火をつけてみることってできる?」
ダメもとで少女に尋ねてみた。
声のトーンが遠慮がちなのは、場の空気と話の流れを大きく逸脱している自覚があるからだ。
「ひ? つけたいの?」
「んー、つけたらキレイだろうなって思って」
言い訳じみた言葉を重ねる。
「わかった ちょっとまって」
少女は暗い室内をまるで足元が見えているのかの如く素早く動き回る。
そして、マッチ箱を手に戻ってきた。
「じぶんでつけて わたし つけれない」
「オッケー」
春香はマッチ箱を受け取ると、燭台に火を灯し始めた。
オレンジ色の光が反射して、空間をゆっくりと埋めていく。
「うん。やっぱ思ったとおりキレイだわ」
ひと仕事やり終えたかのように満足げな春香。
その顔をなんとも言いたげな少女が見つめる。
「ね、一緒に写真撮ろっか」
春香が言った。
「え?」
少女の返答を待たずに小さな体をぐいと引き寄せ、スマホを掲げる。
「はい、笑ってー」
シャッター音が響く。
「どうかなー? 想像だと最高の一枚が撮れてるはずなんだけどなー」
スマホ画面を確認した春香の表情が凍りついた。
二人の背後にこの場にいるはずのない第三者の顔が写っていたのだ。
それも、さも恨めしげな表情で。
「ゆゆっ! ゆゆゆゆゆ!」
「だいじょうぶ ちがうから」
パニックに陥る春香を少女が清澄な声で落ち着かせる。
そして、彼女らの背後にあたる最奥の壁。
その壁を覆う純白のカーテンが少女の手で引き開けられた。
そこには痩せほそり、背骨の浮き出た少女たちの背中が人形のパーツストックのように並べられていた。
心霊写真の正体は、最後の気力を振り絞り、助けを求めた決死の形相だったのだ。
「みんな まだいきてる たすけてあげて」
春香はすぐに連絡先一覧を開くと、弥栄の顔をプッシュした。
9
日付けが変わろうとする時間帯にも関わらず、浜ノ江ラビリンスは静寂からは程遠い喧騒に包まれていた。
赤色灯が廃墟を染め、規制線が周囲に張り巡らされる。
路地に入れず大通りで待機を強いられる救急車。
被害者の尊厳を蔑ろにするマスコミ。
交通を妨げる群衆も警備にあたる警官も、どこか非現実な現実に浮き足立っているようだ。
そして、その中心に春香と弥栄、そしてミカがいた。
ミカとの再会はほんの数分前のことである。
警察官が手にしたライトに照らされたその顔は、泣きはらしたかのように目元が朱に染まっていた。
「二人とも話しかけても返事しないしさ。私のこと無視して、どんどん歩いて行っちゃうし。そういう怖いマネするのほんとやめて!」
ミカの嘆願に二人は顔を見合わせる。
身に覚えがないので当然だ。
ミカによれば、異変はアーケードから始まっていたらしい。
ちょうど、ミカがいなくなったと大騒ぎしたあたりである。
「どういうこと⋯⋯?」
「さぁ」
二人が首をひねる。
ともかく無事に再会できたのだ。
今はそれを喜ぼう、という流れにミカを巻き込むことにした。
「あ、そうだ。スマホ」
春香がついと口にする。
「落としてたでしょ。拾っておいたから」
春香が弥栄を肘で突く。
「スマホ? 落としてないよ」
きょとんとした表情でミカが言った。
そして、ポケットから取り出してみせる。
「ほら、ちゃんと持ってる」
「⋯⋯じゃあ、これは誰の?」
「⋯⋯そもそも、なんで鳴ってた? 偶然?」
二人の背中をうすら寒い風が横切った。
結局、お宝は手に入らなかった。
現時点で得たものといえば、お巡りさんからの「お手柄だけれども、君たちの行為は建造物侵入罪という犯罪だからね。二度としないように」という内容の、ありがたいお説教だけである。
「骨折り損のくたびれ儲け、ということわざを身をもって体験できたんだ。こんな経験なかなかないぞ」
嬉しそうに弥栄が笑う。
彼女なりに春香を労っての言葉なのだろうが、そう聞こえないことが多いのだ。
こうして、三人の真夏の夜の大冒険は幕を閉じたのである。
*
その後、白美人荘跡地での一件は様々なメディアを賑わせることとなった。
まずは救出された少女たちの身の上である。
彼女たちは夏休みを利用して全国からアルバイトにやってきた女の子たちであった。
求人サイトの『リゾートバイト募集』を見て、応募したのだと一様に述べているのだ。
たしかにこの地は全国的に有名な温泉観光地である。
そういった募集があっても不思議ではない。
だが、実態は隣国の臓器密売組織によるおとり広告だったらしい。
日本人は麻薬など人体を害する薬物に縁遠く、飢饉とは無縁で健康寿命も長いことで知られている。
そのため、日本人の臓器はとても高値で売れるのだ。
喫煙や飲酒経験のない若い女性のものとなれば、尚更である。
春香たちが拾ったスマホの持ち主も、そんな被害者の一人であった。
彼女の父親が心配してかけた電話を二人は偶然目撃したのである。
それを最後に通話はできなくなったという。スマホのバッテリー残量が尽きたことが原因だった。
それから、もう一つ。驚くべき発見もあった。
地下室の壁の中から幻といわれる人形が見つかったのだ。
ほぼ完全な形を保っており、修復にさほど時間は必要ないと報じられた。
来年にも県立美術館で開催される予定の竹工芸作品展において一般公開されるらしい。
作品展の目玉になるであろうその人形の手には、発見時に猫の骸が抱かれていたという。
関係性は不明である。
了
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