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ジェームズ・ビドルの日本開国奮闘記

作者: 戯画葉異図

■ジェームズ・ビドル(一七八三‐一八四八)は、アメリカ海軍に所属した士官です。ビドルは東インド艦隊の司令長官として、当時鎖国状態にあった日本を開国するべく来航しました。黒船に乗り、実際に日本の開国を成し遂げたマシュー・ペリーが来航する、その七年も前のことでした。


   ■マカオにて


「どうしたんですか、ビドルさん。そんなに険しい顔をして」

 よほど思いつめたような表情になっていたのか、クッシングくんはそんなことを私に言った。

 マカオにあるアメリカ領事館にて、朝食を終え、ほっと一息といったところの、ティータイムを楽しんでいた折りのことである。

 クッシングくんはお茶を一口飲んでから、察したぞという様子で言葉を続けた。

「ああ、もしかして、この天才外交官、ケイレブ・クッシング公使が今日、アメリカに帰国するものだから、そのことに物寂しい憂いでも感じているのでしょうか」

「いや、全然違う」

「全然違うんですか……」

 私もまたお茶を一口飲む。

 ん、美味しいな、このお茶。

「いやね、大したことではないのだけれど、しかしどうも心の隅に引っかかるようで、気になって仕方がない。どうも、何かを忘れている気がして」

「何かを忘れている?」

「ああ。それも、とても大切な、大事な、忘れてはならないような、そんな何かを……」

 クッシングくんは手に持っていたティーカップをテーブルに置き、右手の拳を顎に宛てがうようにして、『考える人』のポーズになる。

「それは確かに気になりますね。清との初めての修好通商条約である望厦条約ボウカジョウヤクを締結し、貿易関係を確固たるものにした今、そこまで大事な何かって、一体何なのでしょう? ビドルさん、どうにか思い出せませんか」

「ううむ……」

 私は自分の記憶を手探りで見返してみたが、答えは見つからない。

「ダメだ。思い出せない」

「気になるなあ」

 クッシングくんはテーブルに置いたティーカップをもう一度手に取り、また一口を飲む。

 私もつられるようにして、一口を飲む。

 ん、美味しいな、このお茶。

「すまないね、クッシングくん。君は今日、この国を出て、我が祖国に帰ろうというタイミングなのに、こんなことを言ってしまって」

「構いませんよ。僕たちの目的は、すでに達成されているのです。清との条約締結という、素晴らしい報告がカルフーン国務長官にも出来るわけです。何をお忘れになられているのかは検討の付かぬことですが、まあ、心配する必要はないでしょう」

「ああ、そうだな。うむ、きっと、私の思いすごしに違いない。そんなに大したことではないか、あるいは、そもそも私が忘れている『何か』なんて、始めからないのかもしれない」

「何かを忘れているような気がしていたけれど、実際には何も忘れていることなどなかったなんて、よくあることですしね」

 クッシングくんはティーカップに残っていたお茶を一息に飲み干した。

 私もつられるようにして、ティーカップに残っていたお茶を一息に飲み干す。

「ん、美味しいな、このお茶」

「その感想を最後の一口で初めて抱くなんてこと、あります?」

「あったやもしれぬ」

 クッシングくんは空になったティーカップを再度テーブルに置く。

 私もつられるようにして、空になったティーカップをテーブルに置く。

「ええ、本当に美味しいですね。イギリス人が大量のアヘンを差し出してまで手に入れようとする気持ちが、僕にも分かった気がします。ウーロン茶って言うらしいですよ。僕もお土産に、一袋買っていこうかな」

「逆から言うと、ぬれしもやたっあ」


 クッシングくんにとっては清で取る最後の朝食、最後のティータイムを済ませ、私と彼は港へ向かった。

 船出の準備はすでに整っており、いつでも出航できる状態となっていた。

「それじゃあ、ビドルさん、ここでお別れです。ビドルさんとのマカオでの日々、ひょっとしたら忘れないかもしれません」

「だいたい忘れるんだな」

 タラップの手前で、私とクッシングくんはお別れのあいさつを交わす。

 私とのマカオでの日々に関しては、可能な限り、なるたけ、できるだけ、忘れないでほしい。

「冗談ですよ。ビドルさん、清との間で望厦条約を結べたことは、この僕が責任を持ってカルフーン国務長官に報告します。その際にはもちろん、この件におけるビドルさんのご活躍もお伝えするつもりですから、ご安心ください」

「ああ、よろしく頼むよ」

 船内がいよいよ騒がしくなってきた。どうやら出航の時も近いようだ。

「ビドルさんは、この後はどうされるご予定なんでしたっけ?」

「あと数日はマカオにいるつもりだが、私もすぐにアメリカへ帰るつもりだよ。なあに、そう遠くないことさ。アメリカで、また会おう」

 クッシングくんと握手を交わし、私は彼を見送る。クッシングくんは乗船し、タラップは外された。

「アメリカでもう一度会ったら、また一緒に朝食を食べましょう!」

「もちろんだとも!」

 それを最後に、船は港を出た。船はすぐに見えなくなり、昼時は近付いていた。出航時には大勢の人で賑わっていた港も、船が去ると、徐々に閑散としていった。

 私も頭の中で今後の予定を思い浮かべながら、港を後にする。

「さ、マカオをもう少しだけ観光して、私もアメリカに帰るぞ~。マカオのご飯も美味しいが、アメリカのご飯も懐かしいんだから、まったく」

 そんなことを呟いてから、歩き出す。その拍子に、私のズボンのポケットから何かが落ちた。

「うん?」

 かがみこみ、拾い上げて、それを確認する。

封書のようだったが、はて、ズボンのポケットに、そんなものを入れていたかな?

 さらによく確認してみると、何やら表側にメッセージが書かれている。

 どれどれ。


『ビドルくんへ

この封書を必ずクッシングくんへ渡しなさい

絶対に渡しなさい

渡さなかったら殺す

カルフーン国務長官より』


 あまりにも短いメッセージだったが、私の足を港に吸着させるだけの効果はあった。

「待ってくれクッシングくん! 行かないでくれ! 私を一人にしないでくれー!」

 両ひざと、それから左手の平を地面に付き、右手を何もない海に向かって差し出す。

 船はおろか、すでに人もいなくなってしまった港で、私は海に叫んだ。しかし、この声が届くはずもない。

クッシングくんが船を引き返し、マカオに戻ってくることはなかった。


 そうだった。

 そう言えば、こんな封書をカルフーン国務長官から預かっていた。どうして今の今まで、このことを私は忘れていたのだ。

 私のバカ! アホ! マヌケ! 物忘れジジイ!

 いや、しかし、自分の失敗を呪ったところで、この状況が改善するはずもない。私は今、どうするべきだろう?

 どうするべきかな?

 そうだ、他人を頼ろう。困った時は、困ったなりに、大人しく他人を頼るのが大人というものだ。部下を頼るのが良き上司というものだ。

 水平線を最後にもう一度確認する……クッシングくんが戻ってくる気配は、やはりない。

 海風に当てられて少しばかり頭が冷え、冷静になった私は、今度こそ本当に港を後にし、アメリカ領事館にとんぼ返りを決める。


 アメリカ領事館に飛ぶようにして帰り、訪ねたのは、望厦条約の件でもよく働いてくれた、通訳のツーヤクくんの部屋である。ツーヤクくんはいくつもの言語を巧みに操る、優秀で礼儀正しい通訳である。しかも通訳としての面に留まらず、条約締結の際には私やクッシングくんと共によく頭を回転してくれた、とても信頼のできる部下だ。

 相談するなら、何を差し置いても、まずは彼だろう。

「ツーヤクくん、いるかっ?」

 ノックもせず、私はツーヤクくんの寝泊まりしている部屋に転がり込む。

「ん?」

「え?」

 結論から言うと、ツーヤクくんは部屋にいた。自身に与えられた部屋の、自身に与えられたベッドの上で寝ころんでいた。

 ツーヤクくんは、私が描かれた肖像画をベッドとは反対の壁に貼り、それを的にしてダーツをしていた。

 肖像画の私の顔にはダーツがこれでもかというほどに刺さっている。

 私は無言で一度部屋を出て、扉を閉め、十を数えてから、もう一度扉を開けた。

 ダーツの痕跡はどこにもなかった。

「ビドルさん、どうしたんですか、そんなに動揺して」

「いや、何でもないんだ。何か、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がしたのだが、どうやら私の気のせいだったようだ。疲れているのかもしれないな」

 何もなかった。

 とりあえず今は、そういうことにしておこう。

「そんなことよりも、ツーヤクくん、大変なことになってしまったんだ」

「国務長官が暗殺されましたか」

「ごめん、そこまで大変じゃない」

 私は自身の過ちを包み隠すことなく、ありのままをツーヤクくんに伝えた。

「なるほど、なるほど。そんなことが」

 私が話し終えると、ツーヤクくんは状況の全体像を理解したことを示すように深く、何度も頷いた。

「分かってくれたか、今起きてしまっていることの重大さが」

「ええ、分かりました」

 ツーヤクくんは言う。

「僕も、そのウーロン茶という飲み物に興味があります」

「できれば国務長官の命令を完全に忘れていた私の方にこそ興味を持ってほしい。お茶ではなく」

「歴史ある飲み物に、深い興味があります」

「そんなに……」

 たしかに歴史を作った飲み物だけれど。

「冗談ですよ。しかし、困りましたね。今からクッシングさんを追いかけようにも、船と船の追いかけっこでは、追い付きようがありません。追い付く前に、アメリカに到着してしまいますよ」

「そうなのだ。そこをどうにか、クッシングくんにこの封書を、それもいち早く渡せる手段がないものかどうか、それを相談しにきたのだ。何かいいアイディアはないかね、ツーヤクくん」

「僕がジェット機に乗って追いかけましょうか。信じられないくらい速いですよ、ジェット機」

「ジェット機が速いことは微塵も疑っていないけれど、でもこの時代にジェット機なんてなくない?」

 ジェット機どころか、飛行機がまだ発明されていない。ライト兄弟があと六十年早く生まれていれば、あるいは話は別だったかもしれないが。

「生きている時代を間違えました」

「パンクだな。いやそうではなくて。真剣に考えてくれ、ツーヤクくん。君だけが頼りなのだ」

「絶望的な人望のなさですね」

 おかしいな。ツーヤクくんが悪態の化身みたいになっている。まさか、クッシングくんがいてこその、あの優秀で礼儀正しいツーヤクくんだったなんてことではないのだろうが、しかしなぜクッシングくんが出国した途端に知られざるこんな面を見るはめになっているのだろう。

 私がそんなことを思案している間に、ツーヤクくんは何かを閃いたように顔を上げる。

「そうだ、ドル紙幣さん」

「ビドルだけど」

「ビドルさん、僕、重大なことを一つ、思い出しましたよ」

 右手の人差し指をピンと天井に向け、ツーヤクくんは言う。

「僕の記憶が正しければ、この領事館には、アメリカに帰ったクッシングさんの後任としてマカオに残ったお方がいらっしゃったのではありませんでしたっけ?」

「なに、本当か。それで、その人物の名前は?」

「たしか……」


 五分後、領事館内のとある一室の扉を一心不乱に叩いている二人組がいた。

「エバレットさんー! アレクサンダー・エバレットさんー、いらっしゃいますかー?」

 もちろん私とツーヤクくんである。

 ツーヤクくんの情報によりこの部屋まで辿り着いたはいいものの、しかしドンドンドンドンと、一枚の扉を二人がかりでノックするが、返事はなかった。

 うんともすんとも言わない。

「留守でしょうか?」

 ノックする手を一旦止め、聞き耳を立てる……返事どころか、物音の一つもない。

 ううむ、クッシングくんの後任ならば、封書を託す相手として申し分ないと考えたのだが、しかし留守となると、もどかしい。

 一刻も早くこの爆弾を他人の手に委ねてしまいたいという、はやる気持ちももちろんあるが、しかしないものねだりをしても話は進まない。ここは堪える他なさそうだ。

「仕方ない。出直そう」

 私がそう言い、扉に背を向けたところで、意表を突くようにツーヤクくんが「あ」と言う。

「あ、ビドルさん、部屋の中から物音が」

 そう言われ、私も再度、全身を耳にする。

 たしかに、人の気配がした。ゴソゴソと、衣擦れのような物音がかすかに聞こえる。……かと思えば、部屋の中からこんな言葉が飛び出してきた。

「誰だー?」

 私とツーヤクくんは目を合わせる。先に声を張り上げたのは私だった。

「アレクサンダー・エバレットさんですか?」

「いかにも。俺がアレクサンダー・エバレットだ。それで、ゲホゲホ、そっちは、ゴホゴホ、いったい誰だね」

 我々は扉越しに名乗り、要件を簡潔に述べ、部屋に入れてもらう。

 ……ゲホゲホ?

……ゴホゴホ?


「あんたたち、俺の部屋の扉を太鼓かなにかと勘違いしているんじゃないかってくらい、容赦なく叩くじゃないか」

「二人がかりでした」

「前代未聞すぎるな」

 エバレットさんはベッドの上で毛布をかぶったまま、こちらに顔を見せることなく我々に応対した。端から見れば我々が毛布のふくらみと話しているようであり、そして我々から見ればとんだ引きこもりと話しているようであるが、しかしこれには真っ当な理由があった。

 エバレットさんは、どうもここ最近、体調が優れないという。

「四十度を超える熱、鐘の中にいるかのような頭痛、地獄のような身体の震え」

「そんなコンディションでよくクッシングくんの後継を引き受けようと思いましたね」

「そして鼻の頭にできたニキビ」

「なぜ最後の最後に弱めの症状を……」

 我々がこの部屋を訪問し、最初に声をかけた際に返事がなかったのも、体調不良から眠っていたためだったらしい。

 大変な時にお邪魔してしまったことを知り、やはり出直すべきかを提案したが、エバレットさんが「その必要はない」と言ったので、我々はこうして毛布と会話をしている。

 いや毛布じゃない。エバレットさんと。

「あんた、俺が今抱えているニキビを舐めるなよ」

「いや、別に舐めては……」

「生まれたての乳児くらいあるんだぞ」

 でかすぎるだろ。

 それはもう、ニキビがエバレットさんの本体と化しているんじゃないか。

 真相は闇の中……ならぬ、毛布の中である。

「ま、まあ、その話は置いておいて、エバレットさん、先ほども少しお話しましたが、大事な要件で参ったんです」

「ん、ああ、何だっけ、国務長官からの封書を渡しにきたんだって?」

「いかにも」

 話を本筋に戻し、例の忌まわしき呪物であるところの、国務長官からの封書を差し出す。

「……おい、『必ずクッシングくんへ渡しなさい』って書いてあるぞ」

「気のせいじゃないですか?」

「気のせいなものか」

「じゃあ、気の迷いとか」

「俺が何の気の迷いを起こしていると言うんんだ」

「エバレットさん、ビドルさんはあろうことか、本来はクッシングさんに渡すべきだった封書を完全に忘れ、渡しそびれてしまったのです」

 私が必死に誤魔化していたのに、ツーヤクくんは無慈悲にもことの真相を喋った。くそう、こんなことならば、ツーヤクくんにも適当に誤魔化しのホラを吹いておけばよかった。

 「あろうことか」とか言うなよ。傷付いちゃうだろ。

「ほほう、なるほど、それでクッシングさんの後継であるこの俺に、半ばなすり付けるような形で渡しにきたってわけか」

「い、いかにも」

 そんなことは言いつつも、エバレットさんは封書を受け取ってくれた。

 毛布の中から腕だけが出てきた。

 にゅっ、と。

「まあ、いいさ。俺がクッシングさんの公使としての役割を引き継いだことは事実なのだから、確かに、俺に渡すのは正しい道理なのだろう。いいとも、この封書、俺が開けてやる」

封書が私の手を離れた瞬間、何だかこう、肩の荷が下りたような気持ちになった。やっぱり、呪われている物だったのかもしれない、あの封書。

しかし、今まではあの封書をどうしたものかということで頭がいっぱいだったのだが、よくよく考えてみれば、あれは封書なのであって、平たく言えば手紙である。

つまり開封した先に待っているのは、国務長官からのメッセージなのだ。

何が書いてあるのだろう?

毛布から伸びていた腕は、むんずと封書を掴むなり、また毛布の中に姿をくらました。

続いて、ビリビリと封書を開封する音。

「ふむ」

 そんな一言も付け加えられた。

我々が気になっていることを察したのか、再度腕が毛布から伸びてくる。手には、一枚の紙。どうやらそれが、国務長官からのメッセージらしい。

紙には、こう書かれていた。


『日本を開国せよ』


 あまりにも簡潔な一文だった。

「だそうだ」

 そのメッセージは封書の表に書かれていた文章よりも短く、意味を理解するのに苦労はしなかった。

「あらま、そんなことが書かれていたんですか。こりゃあ、大変だ。頑張ってくださいね、エバレットさん。それでは、我々はこれにて。お邪魔しました」

 そのまま部屋を後にできたらよかったのだが、そうは問屋がおろさなかった。

「待て、あんたたち」

 問屋というか、エバレットさんが。

「見ての通り、俺は体調不良の身だ。こんな状態では、日本の開国どころか、日本への航海の途中で、きっとあの世行きだろう。そう言えば、この封書、元々は誰に渡される予定で、元々は誰が渡し損ねたんだったかな?」

「くっ……」

 このやろう、痛いところを的確に突いてきやがる。

「あ、あなた、我々の道理は正しいとか、俺が開けてやるとか言ってたでしょう……」

「開けるとは言ったが、中身のメッセージに従うとは言っていない」

 我々の道はエバレットさんによって塞がれ、エバレットさんの道は体調不良によって塞がれていた。

 もはや、対立は不可避なようだ。

「やだ! 開国とか無理! 日本の開国なんか絶対に無理!」

「ゲホゲホ、ああ、ゴホゴホ、うむ、ちょっと体調が悪化してきたかな……」

「てめえ! さっきまで普通に話してただろうが!」

「おや、ちょうどいいところにお助けマンが」

「誰がお助けマンじゃ! 司令長官じゃ! 公使はてめえが引き継いだ役職なんだからてめえが責任持たんかい!」

 子供みたいな口喧嘩だったが、……いや、その点には目をつむろう。

 お互い、己の命運が大事すぎて、もはやそんなことには構っていられなかった。

「いやじゃー! 日本の開国とか何日かかるんだよ! こちとら、あと数日でアメリカに帰る気マンマンだったんだぞ! お助けマンじゃなくて帰る気マンマンマンだったんだぞ、コラー!」

「落ち着いてください、ビドルさん」

 そんな口論を仲裁したのは、しばらく横で、黙って見ていたツーヤクくんだった。

「こうしましょう。じゃんけんで決めるんです。負けた方が、日本の開国を行う。一発勝負の、文句なしです」

「な、なに? じゃんけんだと? ツーヤクくん、私とエバレットさんの生死がかかっているというのに、その運命の別れ道をじゃんけんで決めろと言うのか?」

「ビドルさんは生死かかってないでしょ」

 冷静な突っ込みだったが、私が反論をする前に、エバレットさんが言った。

「いいぜ、じゃんけんしてやるよ。俺はそれで構わない。あんたは、どうするんだ? 逃げるのか?」

「逃げるだって? 冗談はよしてくれ。おうよ、じゃんけんしてやろうじゃねえか!」

「単純太郎がすぎるだろ」

 続くエバレットさんの冷静な突っ込みにも、私は屈しない。己の右手の拳を天高く掲げ、今、この瞬間に全神経を集中させる。

 大丈夫、私は、勝てる!

「いくぞっ」

「じゃーん、けーん、……」


   ■船上にて


「ツーヤクくん、日本まであとどれくらい?」

「三十分前にマカオを出たばかりですよ。少なくとも数日の船旅にはなるでしょうね」

 数日の船旅だって? 私はてっきり、小一時間くらいで到着するものとばかり……。

「……はあ、どうしてこんなことに」

「難しい質問ですね。『クッシングさんへの封書を忘れていたから』と『じゃんけんに負けたから』、どっちを答えてほしいですか?」

「どっちもいやだから、何も答えないまま、君も理由が分からないフリをしていてくれ」

「アイアイサー」

 くそう、海風が目に沁みる。本当なら今頃は、こんな船の甲板の上ではなくて、マカオの領事館で故郷を想いながら昼寝をしていたはずだったのに。

「ところでツーヤクくん、我々は今、船を二隻率いて日本へと向かっているわけだけれど、船の名前って何だっけ?」

「コロンバスとビンセンスです」

「そう言えばそんな名前だったな。それで、我々が乗っているのはどっち?」

「そこまでは資料がなかったので分かりません」

 そうかあ、資料がなかったのなら、まあ、仕方がないか。

「そうだ、ドル箱さん」

「ビドルだけど」

「僕からも一つ質問があるんですけれど、日本を開国するにあたって、日本語が話せる通訳っているんですか?」

「え、ツーヤクくん、君、日本語話せないの?」

 ツーヤクくんって、全世界の言語を完璧にマスターした、全身通訳人間じゃないの?

「ジャパニーズ・アニメで勉強したので、話せないことはないですけれど、僕しかいないとなると不安ですね」

「へえ、そうなんだ」

 というか、もう日本にアニメってあるんだ。

 進んでるなあ。

「ちょっと話してみてよ、日本語。私が、日本との交渉で言いそうなやつ」

「いいですよ。■■■■■■■■」

 おそらくは、それが日本語なのだろう。私には理解できぬ言語を、ツーヤクくんは喋った。

「おお、すごいじゃないか。何を言っているのかは、素人の私には分からなかったが、それでも流ちょうなことは分かったよ。さすが、通訳を生業としているだけのことはあるな。ところで、何て言ったの?」

「『海賊王に俺はなる』と言いました」

 なるかよ。

 海賊王どころか、海賊にならねえよ。

 日本に開国してほしいのに、むしろガードを固めちゃうよ。

「まあ、いくら日本が鎖国状態であるとは言え、オランダなどとは貿易を行っているわけですから、向こうにオランダ語が分かる人の二、三人くらいはいるでしょう。通訳は、僕とその人らでどうにかしますよ」

「頼んだぞ、ツーヤクくん。日本人から見たジェームズ・ビドルがアメリカ海軍士官になるか、はたまた海賊になるかは君の手にかかっている」

「任せてください」

 ……そんな他愛もないやり取りをくり広げながらも、コロンバスとビンセンスは着々と日本へ向かっているのであった。


   ■浦賀にて


 浦賀に着いた。

「浦賀に着いちゃった……」

 本当に着いちゃった。結局、十二日にも及ぶ長い航海になってしまった。

 もう帰りたい。

「何、帰りたがってるんですか。日本に到着したばかりですよ。忙しいのはこれからです。だから浦賀に背を向けないでください」

 目前に広がる浦賀の景色ではなく、太平洋が広がるアメリカの方角を向いているのを見て、ツーヤクくんは私に手厳しい突っ込みを入れた。

「ほら、見てください。日本の小舟がいくつか、こちらに近づいてきますよ。きっと、噂に聞くサムライも乗っていることでしょう」

「サムライ? 見たい!」

 ツーヤクくんに言われた通り、浦賀の方角に目を向けると、確かに十ほどの小舟がこちらに向かってきている。一つの船には三人ほどが乗っており、それらの視線はそのすべてがこちらの二隻の大戦艦を見上げる格好になっている。

 キラリと、小舟の上で光るものがあった。

「あれは、サムライが持つと言われている伝説の剣、カタナじゃないか?」

 やはり、サムライだ。

 初めて見たなあ。

「行くぞ、ツーヤクくん! こちらも小舟を出すんだ! サムライなりカタナなり、そんな日本の至宝のような存在をこんなにまでポンと簡単に見せてくれるのならば、案外、歓迎ムードかもしれない。すんなりと開国してくれるかもしれないぞ」

 我々は小舟に乗り移る形で戦艦を降り、さっそく日本人との交渉に臨む。我々が小舟を出すころには、日本側の小舟はすでに戦艦を取り囲むように並んでいた。

「おーい、サムライのみなさーん! アメリカ海軍士官のジェームズ・ビドルですよー! とりあえず、日本に上陸させてちょんまげー!」

 しかし我々の乗る小舟は、日本の土地に接岸する前に、日本側の小舟によって足止めされることとなった。

 お互いの小舟の頭を突き合わせる形になり、ここでようやく会話ができる距離にまで近づいたので、まずはこちらから要求を出してみる。

「よし、ツーヤクくん、『日本に上陸させてほしい』と伝えてくれないか」

「『ちょんまげ』はいいんですか?」

「『ちょんまげ』はいい」

 ツーヤクくんは日本語でその内容を向こうに伝えた。なんだか『ちょんまげ』と言っていたような気がしたけれど、たぶん私の指示通りに伝えた。

 すぐに日本側からの返答があった。

「何て言ってる?」

「上陸させるわけにはいかないそうです」

「え、嘘」

 全然歓迎ムードじゃなかった。上陸すらさせてもらえないとなると、形勢は一転して、開国の交渉は困難を極めそうだ。

「それなら、ツーヤクくん、次はこう伝えてくれ。『日本の政府とより円滑な交渉を行いたいので、そちらからも通訳を用意してくれないか』と」

 ツーヤクくんは同様にその内容を向こうに伝え、同様に向こうの返事を訳した。

「日本人の中に、オランダ語が話せるタツノスケという男とサブロースケという男がいるのですが」

「うんうん」

「二人とも病気で寝込んでいるそうです」

 なんて日だ。

 なんてバッドタイミングだよ。

二人とも、そろいもそろって。

「生まれたての乳児ほどもあるニキビが鼻にできているそうです」

 流行り病だったのかよ。

 何の対策も講じずに会話しちゃったよ。

「働ける通訳が僕だけとなると、いよいよ怖いですね。僕が通訳ミスをした時に、気が付ける人がいませんよ。最悪、戦争に発展するかもしれません」

「最悪の場合を想定するにしても、それは最悪すぎない?」

 うーん、しかしこうなると、日本との交渉手段はもはや一つに限られてしまったか。理想を言うならば、日本政府の偉い人たちと直接の対話をしたかったが、こうなっては仕方がない。

「よし、ツーヤクくん。『政府の偉い人に、アメリカ海軍が日本を開国しにきたと伝えてくれ』と伝えてくれ」

「彼らに政府への伝言を頼むんですか?」

「他に手はないだろう」

「……分かりました。しかと伝えます」

 ツーヤクくんは同様にその内容を向こうに伝え、同様に向こうの返事を訳し……あれ?

 なんかサムライのみなさん、臨戦態勢に入ってね?

「すみません、ビドルさん」

「何が?」

 伝えるべき内容を伝え終えたのか、ツーヤクくんは私の方を振り返る。

「伝言を頼むはずが、誤って『駆逐してやる』と言ってしまいました」

 最悪にもほどがあるだろ。

 しかし心の中で抱いたその率直な感想を私が口にする前に、相対していたサムライの一人がこちらの小舟にズカズカと乗り込み、そして私に拳を振るった。

 嘘みたいに鈍い音が海上に鳴り響いた。

「いったぁー!?!???」

 私がその場に崩れ落ちるのも束の間、別のサムライが我々に向かってカタナを抜いていた。どうやら、とても怒っている様子だ。一触即発の大緊急事態らしい。

「ど、どうしますか、ビドルさん?」

「う、うるさい、私に訊くな! とにかく逃げるぞ! ほら、オール持ちやがれ!」

 我々は蒸気機関みたいな速度で小舟を漕ぎ、つい十分前に意気揚々と降りた戦艦に舞い戻った。途中、後ろを振り返ったが、サムライが追いかけてくることはなかった。

 甲板で、我々は寝そべり、息を切らしながらも、どうにか立ち上がった。

「ハァ、ハァ……それで、ビドルさん、これからどうしますか」

「大砲、用意―!」

「落ち着いてください、ビドルさん」

 ハッ、つい気が動転して、我々アメリカ海軍の底力を見せつけようとしてしまった。

「思い出してください、ビドルさん。この開国交渉はカルフーン国務長官からの命令ですよ。いくらビドルさんがミスをしてしまったからとは言っても、日本との武力衝突なんて、きっと国務長官は望んでいないでしょう」

「八割君の言う通りだけれど、でもミスをしたのは君だろ」

 くそう、どうしてこうなった。初めは、上手くいくかもと思ったのに~。

「……帰ろうか、ツーヤクくん」

「え、帰るって、アメリカにですか? 日本の開国はどうするんですか?」

「中止だ。君の言う通り、国務長官はアメリカと日本の戦争など望んではいない。戦争になるくらいだったら、我々が引き下がろう。日本の開国は潔く諦めて、帰ろう、我々の故郷に」

「……はい、了解です、ビドルさん」

 私は二隻の戦艦、コロンバスとビンセンスに司令を出し、浦賀を出航した。我々が浦賀から離れてゆくのを見て、日本のサムライたちも引き上げていった。

 それが、最後に見たサムライの姿だった。


「くそ~。どうしてダメだったんだ。いったい何がいけなかったと言うんだ」

「そうだ、ドルショックさん」

「ビドルだけど」

「船体を黒く塗ればよかったんじゃないですか?」

「そんな単純なことで日本の開国が成功するわけないだろ、ちくしょ~」

 私は最後にもう一度、後方で遠のいてゆく日本を振り返る。

 さらば、日本。

「日本め~、いつか開国してやるからな~」


 その夜、ビドルは涙で枕を濡らした。自分の手で開国させた日本の姿を、夢の中で思い描きながら……。


■ジェームズ・ビドル(一七八三‐一八四八)は、アメリカ海軍に所属した士官です。ビドルは東インド艦隊の司令長官として、当時鎖国状態にあった日本を開国するべく来航しました。黒船に乗り、実際に日本の開国を成し遂げたマシュー・ペリーが来航する、その七年も前のことでした。ペリーは日本に来航する際、ビドルの失敗をよく研究し、開国の交渉に臨んだと言われています。ビドルの失敗なしには、ペリーの日本開国の達成は実現しなかったかもしれません。しかしペリーによって日本が開国されるよりも前、ビドルが日本に来航した、そのわずか二年後の一八四八年に、彼は開国した日本の姿を見られぬまま、自身の故郷であるフィラデルフィアで静かに息を引き取るのでした。


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