01
場面は少し戻って物語のはじまりです。
オリビア・アリントンはひとり足取りも軽く森の中を行き進んでいた。
くねくねと曲がる一本の小径はさり気なく手入れされ、横道に迷い込まないような配慮がされている。
オリビアは、ふわふわの土の上を歩く感触や、湿っぽい森の香り、どこからか聴こえてくる小鳥の鳴き声や、何かの生き物がたてるカサカサという音、機械仕掛けのような音を立てて目の前を通り過ぎる小さな羽虫、などを楽しみながらも先を急ぐ。
目指すは、森の奥にあるというクライバン男爵邸。
たったひと組だけ残っていた、母のものだった絹の手袋を売って作った金も、通行税に消えてしまった。
聖都の寺院で通行手形をもらい、ひとりの見送りもないまま、オリビアは魔法陣の描かれた聖堂へ入った。
「よい旅を。」
聖堂の中にいた修道士はそう言うと、杖を掲げて呪文を唱えた。
転送された先の小さな聖堂を出て道を聞くと、マルカム・クライバン男爵は、森の中に在る、それほど大きくはない屋敷に住んでいると言う。
「ほら、『勇者の勲』に出てくる、『鍛冶屋のマルカム』だよ。あの人がこの辺の領主なの。」
土地の人は誇らしそうに説明してくれた。
「もっとも、人嫌いだそうだから、滅多にお目にはかかれないけれど。」
マルカム・クライバン男爵は、昔、魔王討伐に名を連ねた戦士のひとりである。
勇者の盾となり、魔王に撃たれた傷が今も顔に残っているという。
勇者の勲は、寝物語に亡くなった母がよく話して聞かせてくれたものたが、魔王を退けた勇者の武勇よりも、幼いオリビアは、職人出身の戦士、鍛冶屋のマルカムの話をよくせがんだ。
魔王より受けた傷はあらゆる治癒魔法も薬も聖水すらも効かず、マルカムの顔におぞましくも鮮やかに残り、それが元で将来を約束した恋人も彼の元を去ったという。
オリビアはこのくだりを聞くたびに、彼のために枕を濡らした。
そのうちに自分も勇者の一行に加わり一緒に冒険の旅に出る姿を想像するようになった。
そして、傷心のマルカムを献身的に支えたオリビアは最後に彼の愛を勝ち取り、果てまで森の続く土地で、誰にも邪魔されず二人きりで幸せに暮らすのだった。
母を亡くし、現アリントン公爵夫人が公爵家へ入ってからは、毎晩のようにそんな他愛の無い空想をして寂しさを紛らわせたものだ。
そんな物語の中の人物だと思いこんでいたマルカム・クライバン男爵が、人を通して自分、オリビア・アリントンを欲しいと言ってきたのだ。
ある日、珍しく義母に呼びつけられ、ニヤニヤと笑いながら、クライバン男爵がオリビアを欲しているようだから直ぐに行くようにと告げられた。
「何かの間違いではありませんか。妹のベロニカさんへお話があったのではありませんか。」
オリビアは一応はアリントン公爵家の長女ではあるものの、世間ではアリントン公爵令嬢とは義妹のベロニカのことを指している。
オリビアは、そうでありませんようにと願いながらも義母に尋ねた。
しかし、ニヤニヤ笑いをしていた義母は、それを聞くと眉を吊り上げ捲し立てた。
「なんであんな男のところへ大事なベロニカを寄越すものか! 言っておくけれど、断れないよ。金はもうもらってしまっんだからね。」
なんと、自分のような日陰の身の、持参金も持たない娘を是非にと言って下さったばかりか、支度金まで用意して下さったという。
もっとも、その支度金はどこへ消えてしまったのか、彼女の嫁入り道具と言えば、身につけている粗末な服と、母のものだった書物が数冊きりだ。
ひとりの共も伴わずに単身赴く花嫁など聞いたこともないが、クライバン男爵が物語のとおりの人物ならばそんな体裁には拘らないだろうし、オリビアにしてみても、母の形見の書物以外に持って行きたい品物など、今の公爵家には一つもなかった。
せめて、私にできることがあれば、心の限り、骨身を惜しまず尽くして差し上げよう。
オリビアは十七歳の乙女らしくクライバン卿と肩を寄せ合いこの気持ちの良い森を散策しているところを想像して、我知らず頬を染める。
マルカム・クライバンについて色々と想像を巡らせつつ森の小径を歩いていると、木の陰から黒い陰が現れ、彼女の前に立った。
それは、黒い甲冑に黒いマントをまとった戦士だった。
黒い戦士は言った。
「ここはクライバン男爵の私有地である。」
オリビアは頭を下げ、膝を軽く曲げた。
「私はオリビア・アリントンと申します。
もしや、貴方様はクライバン男爵であらせられますか。」
「拙者はクライバン卿にあらず。クライバン家の城代、アンドルーと申す。」
「これは失礼をいたしました。」
オリビアはそう言いながら、この者がクライバン公でないと知り、内心ホッとした。
赤毛の短髪にまっすぐに鼻筋の通った顔立ちの立派なたたずまいの男であるが、少しの隙も許さぬような鋭い青い目はほんの少しだけオリビアを怖がらせた。
オリビアは改めて礼をして言った。
「この度はクライバン男爵様との婚儀のためにやって参りました。ふつつかでございますが、以後よろしくお願い申し上げます。」
お読みいただきありがとうございます。