プロローグ
「旦那さま。」
オリビア・アリントンは屋敷を出て工房へ向かおうとするマルカム・クライバンを呼び止めた。
「あまり根を詰めないで下さいね。工房に篭りきりはお身体にさわりますから、かえって効率が落ちますよ。適度に休憩をとって下さいね。」
「ああ。」
ともすれば緩みきってしまいそうな浅黒い顔をぐっと引き締め、親子ほど歳の離れたまだ少女のような許嫁に口うるさく言われるのを、クライバンは大人しく聞いている。
「十時のお茶にお菓子を持って伺いますね。」
「ああ。」
「お昼は一緒にお庭でいただきましょうね。」
「ああ。」
「お昼ごはんは鴨のハムのサンドイッチですよ。旦那さま、お好きでしょう?」
「ああ。」
オリビアは離れがたそうに屋敷を出て歩いて行くクライバンの後をついて回る。
あれこれ言いながらついに屋敷の敷地内のクライバンの工房までついてきてしまったが、それでも白い指でクライバンの袖をつまんでもじもじとしている。
もちろん、クライバンにはオリビアが何を待っているのかわかっているが、やはりまだ躊躇ってしまう。
しかし、このまま二人でずっとここに立っているわけにはいかないし、恥ずかしそうに俯いているオリビアが可哀想だ。
クライバンは意を決してオリビアの肩に手を掛け、陶器のようにすべすべしたオリビアの額にそっと唇をつけた。
「行ってらっしゃいませ。ふふっ。」
オリビアは真っ赤になりつつも、満足そうに微笑むと走り去った。
工房の扉をしっかりと閉め、ひとりきりになったクライバンは、ぎゅっと目をつむり、奥歯を噛み締め、拳を握り締め、
「うおおおおおおおおっ!」
と唸った。
かわいい!!
わが許嫁は何度見てもかわいい。
可愛いばかりか、この俺をあんなにも慕ってくれているなんて。
誰も信じないだろうし、オリビアもいちいちひけらかしたりしないので、屋敷内でそれを知る者はクライバンの他は城代のアンドルーだけなのだが、なんとオリビアはアリントン公爵家の御令嬢だ。
それが、クライバンのような職人あがりの男爵なんかのところへ嫁に来てくれるなんて、冗談でも言っていい事と悪い事があると怒られそうな展開だが、紛れもない事実なのだ。
身分の隔たりも然ることながら、今を盛りと咲く花の如くに若く美しいオリビアと、筋肉質だがずんぐりとした浅黒い肌に、顔には生々しい傷痕があるおっさんのクライバンでは、月とすっぽん、提灯に釣鐘。
十人中十人が不釣り合いだと言うだろうに、ともすればオリビアの方がクライバンに相応しくないのではないかと心配しているほどだ。
人生のピークはとうに超えたものと思っていたが、こんな幸せな出来事が待っているとは、わからないものだ。
毎日毎日、幸せすぎてミュージカルのように歌って踊りたくなる気分だが、この前踊っているところをうっかり城代に見られてしまったのでぐっと堪えている。
しかし、いつまでも幸せを噛み締めているわけにもいかないので、作業台に腰掛けた。
この国に俺以上に幸せな男などいないだろう。
国一番の幸せ者が心を尽くして修復した武具を少しでも早く依頼主に届けたい。
そうすればオリビアは喜んでくれるし、それはすなわち俺の喜びでもあるのだ。
うきうきと仕事に取り掛かりはじめたクライバンだが、のみを手にした瞬間、自分が国一番の幸せ者である事も、屋敷で愛しい許嫁がお茶の支度をしてくれているのも忘れ、目の前の仕事に没頭しはじめた。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
ドワーフを父に持つマルカム・クライバンは、戦士であり、優れた武器職人でもある。
魔王討伐の一行に加えられたのも、彼の武具の手入れの腕を見込まれたためだ。
彼自身も、防具の加護により魔王に撃たれながらも命を失うには至らなかった。
そして、魔王討伐の功績にこの地を賜わり、マルカム・クライバン男爵となった。
人々は、なぜ彼がそんな寂しい土地を欲しがったのかと不思議に思ったが、所詮、ドワーフの血を継ぐ職人上がりの平民に、聖都の華やかな暮らしは向かないのだろうと考えた。
それに、彼の顔に残る今しがた負ったばかりのような生々しくえぐれた恐ろしい傷跡は、魔王の脅威を思い出させて人を落ち着かなくさせる。
己の存在が聖都に相応しくないことを自身が一番良くわかっているのだろうと。
当時クライバンには将来を約束した恋人がいた。
初めは傷の手当てをしていてくれた恋人も、そのうちに魔王の呪いではないかと気味悪がりはじめ、気がついた時にはどこかの男と所帯を持っていた。
無理もない。責めることはできない。
今は痛みはないが、相変わらずの鮮肉が覗く顔を鏡に映し、クライバンは考えたものだ。
「なに、傷のおかげでかえって男前が上がったさ。」
旧友のアンドルーはそんなふうに励ました。
「女なんて、面倒なだけだ。独身同士、面白おかしくやっていこうや。」
元々人嫌いのクライバンは、恋人に去られてからはさらに人を寄せつけなくなり、森の中の屋敷にほんの数人ばかりの使用人を置き、屋敷の敷地内にある工房でごく親しい人のためだけに武具の修復をしている。
穢れを祓い、欠けを継ぎ、磨きあげ、古来より伝わる神秘の力を宿した武具たちが本来の姿を取り戻してゆく様子を見守るのはクライバンには何ものにも代えられぬ安らぎの時でもある。
善良な領民たちは平民上がりの俺を慕ってくれているし、アンドルーも城代として傍に控えてくれている。豊かな森を通し、聖女様は惜しみない加護を俺や領民に賜ってくれる。
こんなふうに年を重ねてゆくのも悪くない。
そう思っていたのに、ある日、オリビア・アリントン公爵令嬢は、自分マルカム・クライバンの妻になるために遥々聖都から単身やってきてくれた。
そう、あの時も俺はこんなふうに工房でのみを手にしていたっけ。