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あの日の僕は、きっと弱虫だった

作者: 静 霧一

 

「―――またね、きっとまた会えるよ。私、本気で信じてるんだもん」


 彼女が最後に見せたあの笑顔を、僕は未だに覚えている。

 あんなにも力ない笑顔は、僕の心臓を止めるほどにひどく苦しいものだった。


 あの日、僕に出来たことと言えば、ただただ彼女の白く細い手を握り、「大丈夫だよ、僕がついてるから。大丈夫」と呟くことだけであった。


 その言葉に彼女はゆっくりと頷きながら、少し寝かせてほしいと瞼を閉じた。

 今にも消えそうなか細い呼吸音だけが病室に木霊する。


 僕はその彼女の姿に、涙をひた隠しながら親指を包むように拳を握り、ただただ力無き子犬のように小刻みに震えることしか出来ない。


 僕は彼女と道を歩むと決めたあの日、一生僕が守っていくと決めたはずであった。

 この機に及んで、僕はなんて弱いのだろうと嘆いた。

 嘆いて、嘆いて、嘆き続け、声が枯れ、喉が裂け、血反吐を吐くほどにのたうち回った。


 情けなかった。

 

 苦しいはずの彼女と時を同じくして、その痛みを共有したいと自暴自棄にもなったが、それもこれも結局はただただ現実から目を背けたいという自らのエゴそのものであった。


 病室から見える夕暮れの景色は、地平線に鮮明な赤を反射して、部屋の中を照らし出している。

 

 皮肉にも、彼女に勇気を出して告白したあの日の放課後と同じ景色に、思わず涙がこぼれた。


 ◆


 倉宮美鈴はクラスでも人気者だった。


 彼女の周りには、いつも人が集まっていて、笑い声が絶えなかった。

 それに比べ、僕は教室の隅でいつも小さく体を丸め、たった一人本を読んでいるクラスの陰だ。


 僕と彼女に接点なんて、今後あることもないだろうと気にも留めていなかったが、やはりそれでも人は明るいところを求めるようで、ちらちらと遠目で視線を送っては、心の奥で羨ましいと小さく呟く毎日であった。


 クラスの陰にいる僕は、友達と呼べる人がそのクラスには一人もおらず、僕が何をしているかなんて興味を持つものもいなかった。


 何分、明るいところが苦手な僕は、夜にしか行動しない。

 

 その日もいつものように、誰も人のいない公園で僕は空手の型の練習をしていた。

 誰にも見せたことがないが、僕は幼いころから男勝りな父の影響で極真空手を無理やりやらされ、今では黒帯まで昇段している。


 今はもう道場に通うことも少なくなり、父は練習を強制することはなくなったが、幼いころのからの癖として身についてしまったのか、30分ほど毎日のようにこの公園で汗を流していた。


 強くなるわけでもなく、目標があるわけでもない。

 ただただ、こびりついた習慣だけが、僕の体を無理やりに動かしているのであった。


 夜空には満月が輝き、時折風が吹いては木々がざわめいている。

 

 なぜだかわからないが、この公園がいつも違うと僕は肌で感じていた。

 第六感というものは本当にあるのだなと、今日ほど感じることはなかったと僕は思っている。


「その直後、公園の入り口のほうから「助けて!」と女性の叫ぶ声が聞こえた。

 

 僕はその声のするほうへ、思わず走っていくと、そこにはうちの高校の制服を着た女の子を、他校と思われる制服を着た男子2人が組み伏せようとしている光景を目にした。


「やめろ!」

 僕は、思わず叫んだ。


「なんだお前、あっちいってろ」

 その2人が僕を睨んだ。


 それでもその場からいなくならない僕を見かね、1人が女の子から離れ、僕のもとへと歩み寄った。

 身長は僕より10センチほど高く、体格もがっしりとしている。


 僕は思わず委縮してしまったが、それでも足は後ろへと引き下がらず、その場に立ち続けた。

 

 その姿に、男が舌打ちをし、大振りで力任せに拳を振りかぶってきたが、僕は反射的に右足で金的を打ち込み、痛みに絶叫し膝から崩れた男の顎めがけて、右膝を思い切り蹴りこんだ。

 

 男はその場にどさりと倒れこみ、ぴくぴくと痙攣しながら気絶していた。


 僕はこの時、「助けなきゃ」という思いよりも、「やばい」という思いが先行していた。

 なにせ、有段者が素人に武術を使ってしまったのだ。

 

 あれだけ師範から御法度だと言われたことを、意図もたやすく破ってしまったのだから、バレてしまうとまずいという恐怖心が沸き上がり、倒れた男と放心状態のもう一人の男を見捨てるようにして、「逃げるよ!」叫びながらその女の子の手を引いて走っていった。


 この時、僕に周りを確認できるほどの判断力はなかった。

 とにかく逃げなきゃという一心で、町の明るい繁華街まで走ると、女の子と一緒に24時間営業のファストフード店へ入店した。


 店内のソファーに座り、一息ついたところで、僕はようやく冷静になれた。

 あまりの恥ずかしさにあたりを確認することが出来ない。


「竹蔵くん、大丈夫?」


 聞き覚えのある声が聞こえた。

 公園は暗がりで、顔はよく見えていなかったが、今は鮮明に見えている。

 

 僕が助けた女の子は、倉宮美鈴だった。


「あ、あの、あ、ごめん……」

 僕は思わず謝ってしまった。

 悪いことをしたわけでもないのに、思わず口から謝罪の言葉が出てしまった。


「謝らなくていいよ?こっちこそ助けてくれてありがとうね」

 彼女は笑うと、テーブルに立てかけてあったメニュー表を広げる。

 

 僕がおどおどしていると、彼女はドリンクバーを2つと、適当にデザートを2~3個注文した。


「まさか、竹蔵くんと会うなんて思ってもいなかったよ。びっくりしちゃった」

 彼女はドリンクバーから持ってきたメロンソーダをストローで吸っている。


 僕はあまりの緊張に、いつもならすぐさま飲むはずのオレンジジュースを飲めないまま、挙動不審になりがら座っているだけであった。

 

 だが、店内のがやがやとした喧騒にその緊張も少しづつ和らぎ、先ほどまで引きつっていた顔に少し笑顔がこぼれ始める。


「どうしてあんなところにいたの?」

 僕は彼女に尋ねる。


「予備校の帰りだったんだ。そしたらそこの予備校に通ってた別の高校の男子にストーカーされて、振り切ってたら追いかけられて……」

 彼女は頬杖を突きながら、はぁと溜め息をついた。


「行きづらくなっちゃったなぁ……」

 僕はその彼女の独り言に反応するように、「それなら」と言葉を口にした。


「それなら……?」

「帰り道、僕が一緒に家までついていくよ。どうかな……?」

 僕は人生の中で、一番勇気を振り絞った瞬間だと感じた。


「本当!?すごい助かる!」

 彼女は興奮した様子で、僕の両手を握った。

 僕は初めて触る女の子の手に、緊張が背筋を走る。


 それでも彼女からあふれた笑顔はすごく可愛くて、思わず見惚れてしまった。

 僕はこの時初めて、「あぁ、僕、この子が好きなんだな」と心の中で呟いた。


 ◆


 それからというもの、僕は彼女の予備校の帰宅の時間に合わせて、一緒に帰ることとなった。


 この時知ったことなのだが、僕の家と彼女の家は500メートルほどしか離れておらず、さほど、時間をかけずに自分自身も帰宅することが出来た。


 それからというもの、朝の自転車での登校時も、時間が合わなかったせいで、彼女と出会うことが出来なかったが、彼女の登校時間を聞いてからというもの、それに合わせて早起きをし、登校するように心がけた。


 毎日というわけでもなかったが、一緒に登校できた日は、ずっとテンションが上がりっぱなしで、ずっとそわそわとしていたものだ。

 

 そんなふわふわとした幸せな日々を過ごしていた頃、クラスではある噂が流れ始めた。


 それは「竹蔵が倉宮さんにちょっかいを出している」というものであった。

 

 出所はわからないが、多分クラスのサッカー部の男子が発端なのだろうと、僕は薄々感じていた。

 なにせ、倉宮さんは可愛げがあって、明るくて、人懐っこくて、クラスの男子からかなり好意を持たれている。


 どこかしらで僕が彼女と予備校から一緒に帰っていることを目撃した人が、それを誰かに言いふらし、それを疎ましく思った男子が、僕を毛嫌うための噂なんだろう。


 その噂もあったせいか、時折、僕の体操着がなくなったり、教科書やノートが破かれたりなんてことが起こり始めた。


 僕はそれをずっと黙りながら我慢し続けた。

 このことを彼女に知られてはいけない。

 彼女に知られては迷惑をかけてしまう。


 僕は自分の心を探られないように、好きであるにも関わらず、彼女と少しだけ距離を置くようになった。

 いつものように彼女の予備校の帰りを待ち、時間が来たら一緒に帰宅をする。


 だが、僕はこの日、一切彼女と話すことが出来なかった。

 どう接すればいいのかわからなくなっていたのだ。


 彼女に近づきたいという願望と、彼女を傷つけまいという守衛心が心の中で入り乱れ、混乱している。

 

 その異変に彼女は「どうしたの?」と尋ねたが、「ううん、何でもない」と僕は素っ気なく答えてしまった。

 

 彼女は「ふーん」というと、それから黙り続けた。

 家の前までつくと「ありがとう」と一言だけ言い残し、僕のほうを振り返らず、そのまま家へと入ってしまった。


 その帰り道、僕は泣いた。

 何が何だかわからなかった。


 誰が悪いわけでもないのだが、それでも誰かを悪者にしないと、自分の精神がいかれてしまうと感じた僕は、自宅に帰った後、自室の薄い壁に拳で穴を空けた。


 それからというもの、彼女とは目を合わせるのさえ怖くなってしまった。

 僕が距離を置いているにも関わらず、クラスの男子からの嫌がらせは止まることなく、僕はとうとう仮病を使って学校を休んだ。


 一日、二日、三日。

 そろそろ行かなきゃいけないと、四日目の朝に布団から出ようとしたが、僕はもう限界だったようで、一歩も動くことが出来なかった。


 なんて僕は弱いんだろうか。

 朝の光が窓から差し込み、外では雀がちゅんちゅんと囀っている。

 そんな爽やかな空気を妨げるように、僕は布団の中へと潜り込み、独り寂しく泣いた。


 すると、いつもなら鳴らないはずの家のチャイムが鳴った。

 母親が代わりに出てくれたようだが、朝から誰が訪ねてきたんだろうか。


 2階にある自室からでは声は聞き取りづらかったが、チャイムを鳴らした人物は家の中へ上がり込むと、家の階段を上る足音が聞こえ、僕の自室の扉の前で立ち止まった。


 コンコンと扉をノックされる。

「誰ですか?」と扉に向こうの人物に尋ねると、「倉宮です」という返事が返ってきた。

 その後に「入っていい?」という言葉が続いたが、僕はそれに返答することはなかった。


 彼女は返答がないことに痺れをきらしたのか、了承も取らずに僕の自室へと入ると、僕の枕元に座った。

 

 相変わらず、僕は布団に潜っている。

 こんな情けない姿、見せられるはずもない。


「ごめん、気づいてあげられなくて」

 彼女が振り絞る声で呟いた。

 その声の最後は掠れていて、ひくひくと喉が鳴る音も聞こえる。


 彼女は泣いていたのだ。僕のために。


 僕はそれに思わず、布団の中でもらい泣きをしてしまった。

 布団の中から、右手を伸ばし、彼女の手を探す。

 彼女はそれに応えるように、僕の手を握った。


 お互い泣いている姿を見せぬよう、どちらも顔を見せずにいる。

 その時握った手には、温かな優しい人肌を感じた。


 10分ほどそんな状態が続き、お互いの涙が枯れたところで、僕は布団から顔を出し、起き上がった。


「なんでそんなダサい顔してんのよ」

 彼女は目を赤く腫らしながら万遍な笑みを浮かべた。


「倉宮さんだって同じじゃないか」

 僕は彼女に言い返した。

 その言葉に、思わずお互いから笑いが込み上げる。


「ねぇ、今日このまま休んじゃう?」

 彼女は目に涙を浮かべながら、僕へと提案した。


「不良少女だね。僕は不良だから今日も休むよ」

「私もたまには仮病で休んでみたいのよ」

 そういうと、彼女は悪戯な笑顔を僕に向けた。


 そして、数秒の間が、僕らの間を通り過ぎる。

 そしてそのまま、身を任せるようにして、僕らは唇を重ね合わせた。


 ◆


 僕らが運命を感じたあの日から3か月が過ぎた。


 結局のところ、あの日はおたお互い仮病を使い、自宅を出て、映画館に映画を見に行き、カフェでまったりしながら、高校生らしい普通のデートを送った。


「どうしてあの日、僕の家に来たの?」と尋ねてみると、どうやら僕が仮病で連日休んでいることを不審に思った彼女は、クラスの女子に聞き取りをしていると、どうもクラスの男子が総出で僕に嫌がらせをしていることを突き止めた。


 なんでそんなことをするのかと追求し、男子がたじろいでいる姿を見ると、すかさず、彼女は僕が2人組の暴漢をのして、彼女を救ったことを言い放ち、今後一切、僕に手を出さないことを誓わせたそうだ。

 

 その事実を知った男子は皆、いつかやり返されるんじゃないかと怯え、女子は僕がそんなにかっこいいことをやってのけたと株が上がっているようであった。


 僕がいない間に、クラスではそんな動きがあったことから、僕は今もこうして静かに教室で授業を受けることが出来ている。


 彼女には感謝しきれないが、彼女からしてみれば当然のことよと、その感謝を真に受けることはなかった。

 あの日から、僕は彼女と一緒に登校し、お昼ご飯を一緒に食べ、一緒に帰宅するようになった。


 そんな幸せな日々も唐突に崩壊を告げた。


 僕らは高校三年生に進級し、またも同じクラスになった。

 僕は喜んでいたが、彼女はどうも浮かない顔をしていた。

「どうしたの?」と尋ねても、なんでもないよと返されるだけで、それ以上深堀することは出来なかった。


 ある4月の放課後。


 彼女は用事があるからと言って、今日は一緒に帰宅することが出来なかった。

 僕は帰り道の途中、明日提出する宿題を学校に忘れてしまい、急いで学校へと戻った。


 すでに外は夕暮れ時で、学校には部活をする生徒しか残っていない。

 僕は自分の教室まで駆け上がると、その扉を開けた。

 すると、僕の席には彼女が座っていた。


「どうしたの?」と尋ねると、「竹蔵くんはいつもこんな景色を見てたんだって思ってね」と、彼女は校庭の広がる景色をじっと見つめていた。


 彼女は少し震えていた。

 僕はそれに気づいたが、なんか触れてはいけないような気がして、それに気づかぬ振りをした。


「ねぇ、竹蔵くん」


「どうしたの?」


「もしさ、私とずっと一緒にいてくれるなら……私と結婚できる?」


 僕は思わず動揺した。

 だが、彼女の目は真剣で、こちらをじっと見つめている。


「うん。だって運命の人だもん」


 こんなクサい台詞、到底恥ずかしくて言えたものではないが、それが僕の本音であった。

 その言葉を聞いた彼女は「ありがとう」と一言残し、僕と唇を重ねた。


 そして次の日、彼女が学校に現れることはなかった。


 ◆


 彼女が末期の癌であることを知ったのは、それから2週間後の出来事であった。


 長い間、彼女が学校に来なかったことを心配し、とうとう僕は彼女の実家へと足を運んだ。

 家のインターホンを鳴らすと、対応してくれたのは彼女のお母さんであった。


 お母さんは僕の顔を見るなり、中に入ってくださいと、僕を招き入れた。

 そして、今彼女がどういう状態かを初めて聞かされた。


 僕は帰り道、放心状態であった。

 なぜ、こんなことになったしまったのだろうか。


 いくら頭の中で問答を繰り返しても、出てくるはずのない答えをアガシ続けながら、僕はゆっくりと自宅までの帰り道をふらふらとした足取りで帰っていった。


 お母さんには病院の住所と、病室番号の書かれたメモを渡された。

 行く勇気が到底出てこなかったが、今行かなければ、もう一生彼女に会えなくなる気がすると感じた。


 次の日、僕は電車を乗り継ぎ、バスに乗って、1時間30分かけて病院へとたどり着いた。


 そこには点滴を繋がれた、患者衣姿の彼女の姿があった。

 以前の学校にいた快活さはなくなり、白い肌からは青い血管が浮き出ている。

 僕が病室へと入り、彼女の姿を見た途端、「こないで!」と大声で叫んだ。


 その叫び声に僕は思わず仰天し、後ずさりをしてしまった。

 僕はその場で扉を閉め、そのまま背中から扉にもたれかかる。

 病室では彼女が大声で泣く声が響き、僕はその声を聞くたびに涙がこぼれ、それを見せぬようにと俯いた。


 その光景を見た看護師が、僕のもとへと駆け寄り、介抱をしてくれた。

 そして、今の彼女の様態を細かく教えてくれた。


 彼女は大腸がんで、腹腔鏡手術にて一部は取り除いたものの、全てを取り除けたわけではなく、すでにリンパ節に転移し、全身にそれが回ってしまっているのだという。


 彼女の余命は残り3か月。

 それが持つかどうかは彼女次第だと、看護師は優しく教えてくれた。


 個人情報でもあるはずなのにどうしてと尋ねると、彼女を担当している看護師は、彼女からいつも僕の話を聞かされていたようで、その当人が君だったからだよと伝えられた。


 今はまだ、彼女が自分自身の状況を飲み込めていない時期だから、あまり無理な接触は控えたほうがいいと忠告を受けた。


 それでも諦めきれない僕は、彼女に対して手紙を一通書いた。

 看護師に、これを渡してくださいとお願いすると、看護師はそれを快く受け取ってくれた。


 それからというもの、僕は毎日のように病院へと通い続けた。

 その度に、手紙を持っていき、お願いしますとだけ看護師に伝え、帰っていく。


 そんな日々が一か月続いたころ、ようやく彼女と再会することが出来た。


 その頃には、彼女の体はやせ細り、食べ物を食べるだけで精一杯というような状況であった。

 そんな状態であっても、彼女は僕と会えたことに応えるように、満面な笑みを作る。


 たとえ、元気がなかったとしても十分その気持ちが伝わり、思わず泣きそうになってしまったが、僕はそれを我慢した。

 その日からというもの、僕は彼女のもとを訪れては、今日の出来事や、笑い話、そして回復したらどこに出かけようかという未来の話を彼女と一緒にした。


 彼女はその間、すごく笑顔でずっと笑っていた。

 そんな幸せな日々がずっと続くと思っていたが、病気の進行は止まることを知らず、少しづつ彼女の体を蝕んでいった。

 日に日に彼女の体は痩せていき、常に体が痛むのか、寝返りを打つようにして、何度も何度も寝そべる体勢を変えている。

 彼女は一度も涙を流しはしなかったが、時折苦しそうな顔で「自分がどこにいるかわからない」と小さく呟いた言葉を僕は聞き逃すことはなかった。


 そして、余命を聞かされてから3か月が過ぎた。


 季節はすでに7月となり、外から温かな風が病室へと吹き込んでくる。

 そんな爽やかな風が病室で踊っている中で、僕はとてつもない嫌な匂いを感じた。


 それが「死臭」だと気づいたのはだいぶ後の話だ。


 僕はそれに気づかないふりをして、彼女といつも通り話を続けた。

 3時間ほど話をし続け、外はもう夕暮れ時となってしまった。

 僕がそろそろ帰るねと告げると、彼女はそれを引き留め、僕にこう言った。


「―――またね、きっとまた会えるよ。私、本気で信じてるんだもん」


 そんな別れの言葉みたいなこと言わないでよと僕は思わず口に出してしまい、彼女の手を握りながらぷるぷると震えた。


 彼女は「疲れちゃったから、少しだけ寝かせて」と言い、そのままか細い寝息を立てた。

 僕は彼女の耳元で「ありがとう」と囁き、口づけをした。


 そして、次の日の早朝、彼女は静かに息を引き取った。


 ◆


 僕は今でも彼女が忘れられないでいる。

 未練があるとか、そういうことじゃないのだけれど、もっと彼女に色んな事を伝えられたんじゃないかと今でも考える時がある。


 あれから数年の時が立ち、僕は社会人となった。

 すでに婚約を決めた人がそばにいて、今は結婚式の日取りを決めている。


 僕は彼女と出会って、気づいたことがあった。


 運命とは悪戯なもので、良くも悪くも大きく転ぶ時がある。

 それは思ってもないタイミングであることが多い。


 だからこそ、僕はたった今、大切にしている人へ「ありがとう」と伝えられるようになりたい。

 

 彼女を失ったあの日、僕はたった一言のその言葉をきちんと伝えることが出来なかった。

 愛をくれた彼女に、もう一度会えるのなら、僕は何度でもこう言いたい。


「愛しているよ」と。


ご評価お願いします。


Twitter:@kiriitishizuka


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