狐の嫁入り
昔々のこと、上野国のある小さな山村でのお話です。
その小さな山村には、一人の猟師の男が住んでおりました。男は毎日山に入っては、自慢の猟銃を構えて冷静沈着に狙いを定め、イノシシや鹿といった獣を仕留めていました。そして、その亡骸の肉や牙、毛皮などを町の商人に売って生計を立てる生活。此れと言って不自由することもなく、かといって贅沢をできるほどの収入もなく、鳴かず飛ばずの人生を送っていたそうです。彼の猟師としての腕は確かだったので、稀に山に熊のような大物が出たときでもむしろそれをチャンスとみて難なく仕留めては、「今日は久しぶりにご馳走だ」と喜んで町まで捉えた獲物を背負っていくのでした。
さて、この男の言うご馳走とは、他でもない、お酒でした。男は大の酒好きだったのです。もちろんお酒なんて高価なものはそう頻繁に飲めるわけもありません。大物を仕留めて高値で売りさばけたときだけできる贅沢なのです。そういった事情もあって、男は毎日熱心に大型の獣を探しては、文明の利器に火を吹かせて次々と命をいただいていました。
これに困ったのは山の獣たちです。
「こう毎日毎日仲間が、それも元気のいい成獣の奴らから狩られてしまっていては、我らは種族ごと滅びてしまう。どうにかならないものか」
鹿もイノシシも熊も狸も兎も、みんな同じ気持ちでした。やがて、誰かがこう提案しました。
「そうだ、狐の力を借りるのはどうだろう。あやつは何やら不思議な妖術で人間たちを惑わすことができると聞く」
みなもそれに賛成しました。代表で熊が狐のもとに尋ねていき、かくかくしかじか、こういう理由であの猟師の男を化かすことはできまいか。その依頼に狐はこう答えました。
「良いでしょう。ちょうど私もあの男のあるものが欲しかったのです」
さて、ある日のことでした。男がいつものように銃を構えて山道をかき分け奥へ奥へと入っていくと、突然目の前に一匹の小柄な動物が現れました。狐でした。野生の獣とは思えないほど美しく整った金の毛並みに凛とした佇まい。思わず見とれていると不意に男の視界が眩んできました。そしてそのまま男の意識はどこかへ飛んでしまいました。
次に男がその場で目を覚ましたときはもう狐の姿は消えていて、あたりはすっかり日が暮れてしまっていました。「どうやら気絶してしまっていたようだ。不思議なことだ」と渋々その日の猟は取りやめて男は家に戻りました。
その日の収穫はまるでなかったものの、男の足取りは軽やかでした。先日捉えた大型のツキノワグマの毛皮が高く売れた際、その帰りに良い日本酒を買っておいたのです。そして、その瓶をまさに今日、開けて頂くつもりなのでした。家に帰ると男は早速楽しみにしていたお酒に手を伸ばしました。しかし男の嫁がそれを止めます。
「どうしたんだい。なぜ飲ませてくれないのだ」
「何言ってるんですかあなたこそ。このお酒は山の神様にお供えするのだってあなたが言っていたんですよ」
そうだっけか、と男は首をひねったが嫁はそう言って譲りません。仕方がないので、男は嫁の言う通り、山の奥にひっそりと祀ってある山神様の祠にお供えとしてその酒を手向けました。
「口惜しいことだ」
そう言いながらも、男は信心深く、そして真面目な性格をしていたので、お供えに手をつけることなくその場を去っていきました。
しかし、その日からというものどうも男の調子は狂ってしまいました。あれほど精巧だった男の猟師としての腕が突然鈍ってしまったのか、打てども打てどもちっとも獲物に当たりません。狙いを定めてもゆらゆらと視界が揺らいで当て損なってしまうのです。
「どうしてしまったのだろう。あの狐に遭遇した日から何かが変だ」
男は不思議でした。しかし、何か解決方法が見つかるわけでもありません。何より、あれ以来あの狐の姿はちらりとも見かけないのです。
おかしなことはもう一つありました。これまでに買って男の家に置いておいたはずのお酒が減っているのです。嫁に聞くと決まって「また山神様にお供えすると言って昨日あなたが持っていったんじゃありませんか」と言われるのでした。
やはりどうもおかしい。そういえば狐という獣には人間を化かす力があると聞いたことがある。男は昔、自分同様猟師だった父から教わった話を思い出しました。俺はきっとあの狐に化かされているに違いない。
———化かされた世界から抜け出すためには現実世界との間違い探しをするんだよ。どこかおかしなところがあるはずだから、それを明かせば術は解けるのさ。
そうだ、確か親父はそんなことを言っていた。間違い探しだ。おかしなところ。いったいどこだろう。男は注意深く家の中を見渡しますが、特にこれといった気になる所はありません。ただ嫁が不思議そうに男の方を見てくるだけです。
それからというもの、男は必死にこの世界のおかしなところを探しましたが、一向に間違いは見つかりません。男の持つ銃に何か変なことが起こっているのではないかと自慢の猟銃も念入りに調べましたが、彼が長年愛用してきたものそのものでやはり綻びは見つけられませんでした。
どうしようもないので、男はついには、藁にもすがる思いで、家に置いてあった酒瓶全てを持って山神様にお供えにいきました。
「山神様。ここ何日ももう仕事になっていません。このままでは貯えも尽き私は死んでしまいます。どうか、どうかおたすけください」
そう言ってあるだけの酒瓶を祠に備えましたが、当然すぐに何かが起こるわけでもありません。男はトボトボと家路を辿りました。
家に帰ると、男の嫁の様子がいつもと違い変でした。顔を赤らめ、千鳥足で台所で踊っています。「いったいどうしたんだい」と近寄るとぴょこっと服の隙間から尻尾が顔を出しました。艶やかな金色、あのとき見た毛色とそっくりです。その瞬間男はハッと我に帰りました。
「そうだ、俺に嫁などいないじゃないか。さてはお前、あのとき会った狐だな」
そう言って尻尾をぎゅっと掴むとドロン、と煙が立ち、男の嫁が、そして家までも消えてしまいました。驚いた男が辺りを見渡すと、そこはまだ森の中でした。祠の近くです。急いで祠まで戻ってみると、そこには男が備えた酒瓶が転がっていて、それを飲んでえらく酔った様子の狐が近くで眠っていました。
「なるほど、俺に備えさせた酒をお前がいただいていたのだな、全く」
そう笑うと、男は狐の頬を軽くペチペチと叩きました。狐ははっと目を覚ますと慌てて、逃げるように森の奥へと消えていきました。
なんとか妖術を抜け出すことができたのものの、これに懲りた男は、以来、過度な狩猟を控えて慎ましい生活を送るようになったということです。
一方、狐はというと、祠に備えられたお酒が恋しくて、酒が来ん、酒が来ん、こん、こん、と今日も山で鳴いているそうな。おしまい。